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2024年4月10日 (水)

使徒1:1.2 はしがき/御霊によって

 使徒11-2には次のように記されています。
“テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 テオフィロという名前は、テオス(神)とフィロス(友)からできている名で、「神の友」という意味になります。

 「私は先に第一巻を著し」とあります。
第一巻というのは「ルカによる福音書」のことです。ですから「私」というのは「ルカ」ということになります。

 「私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」とありますから、ルカによる福音書に記されている内容の概略がどのようなものであるかがわかります。

 「聖霊を通して指示を与え」とあります。
主イエス様が肉体をまとっていた間は、神のありようを捨てて、人の模範となるように聖霊によってことを行ってきたということを強調しているのだろうと思います。

 フィリピ(ピリピ)2章には次のように記されています。
6 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 同じ個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
6 キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。
7
かえって、その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。
8
そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。”と記しています。

 ペテロは、コルネリウス(コルネリオ)とその親族、及びコルネリウスの親しい友人に向かって次の様に語りました。
36 神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。
37
 あなたがたは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存じでしょう。
38
 つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれましたイエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです。」(使徒10章・聖書協会共同訳)と記されています。

 私たちの主イエス様は、主イエス様が肉体をまとっている間は、神である聖霊(聖なる神の霊)によって御業を行ってきたことがわかります。

 ヨハネは、ヨハネによる福音書3章に次のように記しています。
31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32
 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。
33
 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。
34
 神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる神が霊〔「聖霊」(口語訳)「御霊」(新改訳)、ギリシア語聖書は、「定冠詞+霊」となっています。英訳ではthe Spiritです。(筆者挿入)〕を限りなくお与えになるからである
35
 御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、御父のみ旨にかなうことであるならば、御子としての神御自身の能力でどんなことでもできたのですが、聖霊によって、言動をなさったということがわかります。
それは、キリスト者のお手本となるためでもあったのでしょう。

 主イエス・キリスト様は、最後の晩餐の席で、次のように語られました。
12 よくよく〔アーメン アーメン(筆者挿入)〕言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろうそればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。〔→ヨハネ1415-17参照。下記します。(筆者挿入)〕
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者も、神のみ旨にかなうことならば、聖霊によって様々なことを行うことができると主イエス様は明らかにしてくださいました。
ヨハネ1415-17には、主イエス様の御言葉が、次のように記されています。
15 あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊である。世は、この霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕を見ようとも知ろうともしない〔肉眼では霊は見えませんが、霊を知ることはできます。(筆者挿入)〕ので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり〔あなたがたとともにおられ(2017)。あなたがたと共に住み(リビングバイブル)〕、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者も聖霊によって歩んでいくのです。主イエス様は、その模範を示してくださいました。
パウロは主キリスト様に見倣って歩もうと心がけていました。
2
コリント111には「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御霊に満たされて日々歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

初めは、イエス様が行った通りに行いを伴わさねばならないといった感じで受け止めておりました。罪人である私にできる訳がないのに。ましてや、地上はサタンの支配下、そこで行おうと考えた時点で何様であったのか?と以前の私に問います。滑稽だと今は思えます。当時は必死でしたけれども。
今、私は私の罪を認めることが精一杯で、そしてその罪を何一つこぼさずに告白することすらできないという事に気付かされます。
キリスト者だから、主であるイエス様に倣った生き方をしたいのに、できないでいる私をお導きくださいと、唯々、祈り求める日々です。
「キリスト者なんだから、これくらいできるだろう」等と非難してくる人に対して、愛の目で見ることができますよう、祈り求めます。

クリスチャンというのは、主キリスト・イエス様を信じた人のことですから、おぎゃーと生まれたてでも、幼稚園生でもクリスチャンですからね。
キリストのようにできると思われても困りますよね。

そうですよね、その通りですよね。

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