« 箴言28:14 主を愛し主に従う幸いな歩み | トップページ | 使徒1:3-5 福音と約束のことがらへの待ち望み »

2024年4月13日 (土)

フィリピ1:19-21 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの

 フィリピ119-21には次のように記されています。
19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです。
20
 そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。
21
 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 19節(抜粋)には“あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなる”と記されています。

 「イエス・キリストの霊の支え」という個所の「支え」と訳されている語のギリシア語原語は「エピコレーギア」という語で、寄付、出資、助力、供給、支給、・・・等の意があります。
「エピコレーギア」を聖書協会共同訳、2017は「支え」と訳し、口語訳、塚本訳、新改訳初版~第三版、新共同訳、リビングバイブルは「助け」と訳し、文語訳は「賜物」と訳しています。

 「私の救い」という個所の「救い」と訳されている語のギリシア語原語は「ソーテーリア」で、救い、救済、救出、保護、・・・等の意があります。

 パウロは、罪からの救いをすでにいただいていますから、この個所の救いは、主に在る兄姉方の祈りとイエス・キリストの霊の供給&支え&助けによって日々の心の助けにもなるし、牢からの救出にもなると考えていたのではないかと思います。

 この個所に関連した注解として、Bible navi は“結局のところ、パウロはこの投獄から釈放されたが、23年後に再び逮捕された。キリストへの信仰だけが、そのような逆境においてパウロを元気づけることができた。”と述べています。

 主がともにおられれば逆境に勝利できるのです(創世記392.3.21.234138参照)。

 20.21節(抜粋)には“私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”と、パウロの心境が記されています。

 パウロは“私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”(ローマ1482017)とも述べました。

 このようなパウロですから、パウロは「そこで、私が切に願い、望んでいるのは、どんなことがあっても恥じることなく、これまでのように今も堂々と語って、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。」(フィリピ120)と語ることができたのでしょうし、その根底には、主なる神への大いなる愛があった故なのでしょう。

 ファニー・クロスビーの詩に「われ贖われて」というものがあります(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264)。その中の1-4節を下記します。
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり
(折り返し)=* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて ハレルヤを叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主はわがもの 御霊の証しは 心にあり *”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ファニー・クロスビーの書いた詩に「アーメン」と言えるようにしてくださいましたことを感謝します。
日々、あなたに感謝しつつ、主に支えられ、主の助けを戴いて、主を賛美しながら歩んでいけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

« 箴言28:14 主を愛し主に従う幸いな歩み | トップページ | 使徒1:3-5 福音と約束のことがらへの待ち望み »

フィリピの信徒への手紙」カテゴリの記事

日毎の恵み20」カテゴリの記事

コメント

一筋に主のみを信じて、日々、歩み生きてゆく事ができたら…と、何度も何度も思います。
信仰の弱い私は、スッカリ忘れて肉の思いのままに行っていたり、自力で行おうとしてしまったり、開き直ってしまっていたり、未だにあります。変えていただいた所といえば、自分の行いや思いが主から逸れている事に気づかせてもらい、気づいたら主に罪を認めて赦しを願い祈る事のみです。
逆境にいる時は、主への祈りは欠かさない私は、現金な人と自ら思います。そして御言葉を教えていただいて、ハッとさせられる段階です。それでも御言葉や詩を読めば、アーメンとなります。心を洗ってくださる御力に感謝します。

ハレルヤ!

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 箴言28:14 主を愛し主に従う幸いな歩み | トップページ | 使徒1:3-5 福音と約束のことがらへの待ち望み »

カテゴリー

2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ