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2024年4月17日 (水)

フィリピ1:21-26 地上に置かれている意味

 フィリピ121-26には次のように記されています。
21 私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。
22
 けれども、肉において生き続けることで、実りある働きができるのなら、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
23
 この二つのことの間で、板挟みの状態です。私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、このほうがはるかに望ましい。
24
 しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。
25
 こう確信しているので、私は世にとどまって、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、あなたがた一同と共にいることになると思っています。
26
 そうなれば、私が再びあなたがたのところに行くとき、キリスト・イエスにあるというあなたがたの誇りが、私ゆえに満ち溢れるでしょう。〔リビングバイブルは「私が生き延びて、もう一度そちらに行った時、あなたがたのうちに喜びがわき上がり、私を無事に守ってくださったイエス・キリストを心から賛美するようになることでしょう。」と意訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 21節には“私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。”とあります。
 パウロは、キリストの内に生き、内住のキリストに従って生きていました(ガラテヤ220)。
1
コリント130には“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちに〔「うちに」と訳された語のギリシア語原語は「エン」で英語ではin(筆者挿入)〕あるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)と記され、
 ガラテヤ220(抜粋)には“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

 しかし、パウロは言います。「死ぬことは益なのです」と。
絶えずキリストと共に生きているのならば、それでよさそうですが、主と共にある豊かさが異なるのでしょう。パウロは天の豊かさを知っていたと思われますから(2コリント122-7)、パウロは、「死ぬことは益なのです」と言ったのでしょう。
私などは、苦しいことがあると、早く天国に行きたい、と思いますが、パウロに比して甚だ低次元であることを覚えます。

 続く22-25節をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
22 しかし、生きているからこそ、人々をキリストに導く機会に恵まれるとすれば、生と死のどちらがよいのか、私には分かりません。
23
ある時は生きていたいと思い、また、ある時には反対の気持ちになります。というのも、この世を去ってキリストのそばにいることほど願わしいことはないからです。そのほうが、地上にとどまっているより、どれだけ幸せかわかりません。
24
しかし、地上では、もっとあなたがたの役に立てることも事実です。
25
私にはまだ、この世で生きる使命があるのです。あなたがたの信仰の成長を助け、あなたがたがもっと喜びにあふれるために、もうしばらくの間、地上に長らえることになるでしょう。”と記しています。

 パウロは、福音宣教の使命と個々のキリスト者の霊的成長のための働きという使命のために、もうしばらくの間、地上に長らえることになるでしょうと語りました。

 天国に入れて頂けたら、地上にとどまっているより、どれだけ幸せかわかりませんが、私達も、私たちが地上に置かれている以上、主が私たちに何かの使命を託しているからなのでしょう。
主の御意志に基づいた歩みをしていきたいな、と思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
この地上にあっては、あなたが与えてくださっておられます使命を主に在って全うさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

〝私などは・・甚だ低次元であることを覚えます。〟とトミーさんが書かれている事にとても共感し、私は更に、トミーさんに比して、甚だ低次元であると思いました。そして、その先を進めて学ぶと、パウロもイエス様に対して、その様に捉えたのではないのかな?と思いました。地上生活を送る中、各々に与えられた事をイエス様に従い歩む事、イエス様を通す事に意味があるのかと思いました。肉としての成長が大事なのだと思いました。愛を現してゆく事ができますよう祈り求めます。

「生長させるのは神」(1コリント3:6)と記されていますから、いつも主と共に歩んでいればよいので安心ですね。(2コリント3:17.18)

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