« フィリピ1:19-21 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの | トップページ | 詩篇107:33-43 万物の創造者であり主権者である主なる神様を第一とする者の幸い »

2024年4月14日 (日)

使徒1:3-5 福音と約束のことがらへの待ち望み

 使徒13-5には次のように記されています。
3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
4
 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
5
 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに記されている内容は福音書や使徒言行録、手紙にその概要が記されています。そのいくつかを下記することにします。

 マグダラのマリアは、主イエス様が納められた墓に近くで、復活された主イエス様から、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(ヨハネ20172017)と言われました。これは主イエス様の御復活の日の朝のことでした。

 主イエス様の御復活の日の午後(おそらく夕方に近い頃)のこと、エルサレムからエマオへの道の途上で、主イエス様は、二人の弟子に現れました。そのうちの一人の名前はクレオパという名でした。
 ルカ2413-35には次のように記されています。
13 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン〔約11㎞(筆者挿入)〕離れたエマオという村に向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。
15
 話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
16
 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17
 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。
18
 その一人のクレオパと言う人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」  
19
 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。21 私たちは、この方こそイスラエルを解放〔ローマの支配から解放(筆者挿入)〕してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから〔主イエス様が十字架につけられてから(筆者挿入)〕、もう今日で三日目になります。
 22 ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たち〔マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアと他の女性たち(筆者挿入)〕が朝早く墓へ行きますと、23 遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです〔ルカ2355-2410参照(筆者挿入)〕。
24
 それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」〔ルカ2411.12、ヨハネ203-8参照(筆者挿入)〕
 25 そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入る〔「enter into his gloryKJV訳)。直訳すると、彼の栄光の中へ入る」。主の霊が主の復活の体の中へと入る、ということだろうと思います。intoと訳されているギリシア語は「エイス」で第一義はintoです。(筆者挿入)〕はずではなかったか。」
27
 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。〔聞いてみたかったですね(筆者挿入)〕
 28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29
 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。
30
 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
31
 すると、二人の目が開け、イエスだと分かった〔霊の体は肉の体とは異なっていたからではないかと思います。(筆者挿入)〕が、その姿は見えなくなった。
32
 二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」
 33 すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の御復活の日の夕方にはトマスを除く弟子たちに現れました。ヨハネ2019-23には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の御復活の8日後のこと、トマスも含めた使徒たちが家にこもっていたときに、主イエス様は現れました。ヨハネ2025-29には次のように記されています。
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25
 そこで、ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」
 26 八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28
 トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。
29
 イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ211-23にはガリラヤで弟子(この時にいた弟子たちは、シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それにほかの二人の弟子)たちに現れ、食事も共にしたことが記されています。

 主イエス様の宣教命令は、マタイ2816-20、マルコ1615-18に記されています。

 1コリント15章には次のように記されています。
1 きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、2 これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
 3 最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
 5 ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。6 その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新約聖書と旧約聖書を私たちに与えてくださいましたことを感謝します。
聖書に記されている内容を真理の霊である聖霊様が私たちに解き明かしてくださいますように。
私たちは、主の十字架と復活を直接見たわけではないのに、それを信じる信仰を与えて頂いていますから感謝します。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

« フィリピ1:19-21 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの | トップページ | 詩篇107:33-43 万物の創造者であり主権者である主なる神様を第一とする者の幸い »

日毎の恵み20」カテゴリの記事

使徒言行録」カテゴリの記事

コメント

体感すると深く信じることができるのに、体感できないと疑ってしまう私がいますので、トマスの記事を読むたびに改めさせていただけます。一筋縄ではいかない私の心を変えてくださいと祈るばかりです。
それでも、イエス様の十字架とご復活を信じることができる信仰を与えてくださった事、常にたちかえられせてくださる事に感謝します。

ハレルヤ!

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« フィリピ1:19-21 生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの | トップページ | 詩篇107:33-43 万物の創造者であり主権者である主なる神様を第一とする者の幸い »

カテゴリー

2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ