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2024年5月28日 (火)

使徒3:1-10 足の不自由な人が癒される

 使徒31-10には次のように記されています。
1 さて、ペトロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に神殿に上って行った。
2
 すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
3
 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7
 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節には“すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。”(2017)と記されています。

 新共同訳、聖書協会共同訳は「美(うつく)しい門」と訳していますが、口語訳、新改訳、リビングバイブルは「美(うつく)しの門」、フランシスコ会訳は「麗しの門」、岩波訳は「美(うる)わしの門」と訳しています。
この個所の「美しい」と訳されている語のギリシア語原語は「ホーライオス」で、比喩的な意味で、「美しい」の意がある単語です。
「美しの門」などと訳されている日本語訳聖書の個所を、ギリシア語聖書の語順を基に訳しているKJVは“at the gate of the temple which is called Beautiful”と訳しています。
信仰的にはどうでもよいことなのですが、私自身が気になったので記しておきました。

 美しの門について聖書辞典は、
“ヘロデの建設したエルサレム神殿の東側の「異邦人の庭」から、さらに内側の「婦人の庭」に通じている門である。他の門より値打ちのある分厚い金銀とコリントしんちゅうで飾られ、壮麗を極めていたところから「美しの門」と呼ばれたのであろう。ペテロとヨハネによって、生れつき足のきかない男がいやされた場所である(使3:2,10)。”と述べています。

 余談になりますが、新天新地の新エルサレムの美しい門は、12あり、それぞれ大きな一つの真珠でできていると記されています。
黙示録21章には、
11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
12
 都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。/
 16 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオン〔約2220km。東京駅から鹿児島駅までの新幹線の距離は約1326kmです。(筆者挿入)〕あった。長さも幅も高さも同じである。
17
 また、城壁を測ると、百四十四ペキス〔約64.8m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。
22
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 まさしくBeautifulです。

 話を元に戻します。
宮(神殿)への入り口にあった美しの門の所に、足の不自由な人が毎日運ばれてきて、そこに置いてもらい、物乞いをしていたのです。
ペテロとヨハネが午後三時の祈りのために神殿にやって来たのです。

 足の不自由な人は、ペテロとヨハネに施しを求めました。
その時のやり取りが3-6節に次のように記されています。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」”とあります。

 ご聖霊は神ですから御意志を持っておられます。
主イエス様は、御聖霊は御意志を持って働いておられると語られました(ヨハネ38)。
ヨハネ38に「風は〔吹き(訳者挿入)〕たいところに吹き、あなたがたはその音を聞く。」(岩波訳)と主イエス様の御言葉が記されています。この個所の欄外注には“または「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く。」”と記されています。

 私の推測ですが、ペテロはこの時、御聖霊に導かれたのであろうと思います。
そして、主イエス様が最後の晩餐の時に語られた御言葉の一端が成就していったのではないかと思います。
ヨハネ1412-16には次のように記されています。
12 よくよく言っておく。私〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
15
 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔ギリシア語原語は「パラクレートス」で、弁護者、慰め主、支持する者、調停者、提唱する者、等の意があり、その他主イエス様は真理の御霊とも語られました。(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 美しの門に置かれていた足の不自由な人は、油塗られたペテロのことばによって立ち上がり、飛び跳ね、歩くことができるようになったのです。それはペテロの力ではなく主なる神の力と足の不自由な人の信仰の故であったのでしょう。
信仰も賜物です。(1コリント129、エペソ28
 7-10節には次のように記されています。
7 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主のみ声を聞き分け、導きに従ってことを行っていくことの出来る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。

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コメント

足の不自由な人の信仰の強さ故ですね。
聖霊が働かれることにより、なせる業、神業ですね。信仰の弱い私は神業ばかりを願ってしまいます。
ガラスのような純金なんて、想像がつきません。想像では追いつかない事が、神様の御旨であることを改めて思います。想像してしまう時は、それは肉の思いとなってしまうのでしょうか?私の頭や感覚でしかありませんが、直感みたいなものが先にたってしまいます。「主よ、どのような事でしょうか?」となる時があります。信仰も賜物、肉的な思いを鎮め、主に従った歩み、主に導いてくださいますよう祈ります。

天国に行ったら、みんなで「ワーッ、素晴らしい。」と叫びましょう。
それ以上に、主イエス様にお会いした時の感激の方がすごいのだと思います。

奇跡の御業について。
聖書を信じることができる人は、取り立てて奇跡が起こらなくても良いのです。
ルカ16:29-31、2コリント12:9.10

変わった空模様の時など、イエス様が降りてくるかもしれない…と思ってしまいます。
天の御国に入る時も、イエス様を見た時も(気絶するかもしれないですけど)「わーっ」と叫びます!

信じていればいいと、何度も何度も言われているのに「何かしなきゃ」と思ってしまう所は変えていただきたいと思いました。
教えてくださり、ありがとうございます。

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