ガラテヤ

2012年12月 3日 (月)

ガラテヤ6:17.18 キリストの恵みによって

ガラテヤ6:17.18
“6:17 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。
6:18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。”

・<イエスの焼印>:イエス・キリストが主であり、救い主であるということをのべ伝えたことにより、パウロは数多くの迫害を受けました。鞭で打たれたこと、石で打たれたこと、難船したことなどにより体には多くの傷跡が残ったのです。それをイエスの焼印と言っています。

“11:23 私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。”(2コリント11:23-27)

“ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。”(使徒の働き14:19)

“16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたり(パウロとシラス)の着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。”(使徒の働き16:22-24)

・“これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。”
パウロは、福音宣教の為に、驚くほどの迫害を受けました。
しかし、パウロは生身の人間です。
パウロ自身が次のように言っています。
だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。”(2コリント11:29)
このようなパウロだからこそ、次のようにも言えたのだと思います。
主にあって、その大能の力によって強められなさい。”(エペソ6:10)

“2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい
キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。”(2テモテ2:1.3)と。

ガラテヤの人たちに、パウロは、自分は、本当の使徒だよ、と言っているのです。

“どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。”
この祝祷の形は、他では、(ピリピ4:23)(2テモテ4:22)(ピレモン25)にあります。
ガラテヤ人への手紙の最後もパウロは祝祷[祝福の祈り]で閉じています。
パウロの祝祷には、いくつかの型があります。
礼拝で一番多く用いられているのは、
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。”(2コリント13:13)
ではないでしょうか。
その他、ヘブル人への手紙をパウロが書いたとすれば、
“永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。”(ヘブル13:20.21)
も時に用いられます。
その他、
“主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。”(1コリント16:23)
“どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。”(エペソ6:23.24)
“恵みがあなたがたとともにありますように。”(コロサイ4:18)(1テモテ6:21)(テトス3:15)
“私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとおもにありますように。”(1テサロニケ5:28)(2テサロニケ3:18)
などがあります。

悪しき霊の親分であるサタンは、偽りの霊です。(ヨハネ8:44)
その配下にある悪霊たちも同じです。
ガラテヤ教会の人々は、偽りに捕らわれていました。ガラテヤ教会の人々の霊に主イエス・キリストの恵みが必要であったのでこのような祝祷になったのかもしれないと思いました。本当のところは分かりませんが。

<お祈り>
天のお父様
ガラテヤ人への手紙を読み終えさせてくださりありがとうございます。
永遠の契約の血、即ちイエス・キリストが、十字架上で流してくださった尊い御血を信じる私たちの大牧者である主イエス様を、死者の中から導き出され、かつ、平安を与えてくださる父なる神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私のうちに行い、私がみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、私を完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。キリストの御名によって。アーメン

2012年12月 2日 (日)

ガラテヤ6:14-16 新しい創造における歩み

ガラテヤ6:14-16
“6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
6:16 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。”(新改訳)

・“どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。”
キリストの十字架と復活からもたらされる恵みの法則に従って歩む人々こそ神のイスラエル、即ち信仰の父アブラハムの信仰にならう人々、その人々に神からの平安と憐れみがありますようにとパウロは祈っています。

<参考聖書箇所>
“4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たち(キリストを信じる)すべての者の父なのです。”(ローマ4:1-5.16)

・主イエス・キリストは、私たちすべての者のすべての罪を負って十字架に着かれ、血を流して死なれ、私たちを律法の呪いから贖って下さいました。
十字架上で流してくださった尊い御血がなければ、罪赦されることもきよめられることもなかったのです。
主イエス・キリストの父なる神は、そのキリストの十字架を信じる者をキリストの内においてくださいました。
キリストは、私たち信じる者にとって義と聖と贖いとになってくださったのです。
<聖書参考箇所>
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。”(ガラテヤ3:13)
“しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。”(ヘブル9:11.12)
“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったそのは、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”(ヘブル9:14)
“それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。”(ヘブル9:22)
“しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”(1ヨハネ1:7)
“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(1コリント1:30)

・“割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。”
“割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。”(口語訳)
神の新創造・・・・・なんと素晴らしいことでしょう。
神様は、旧創造においても堕罪する前の人間を造り終えられたとき、神がお造りになったすべてのものを見て「非常に良し」と言われたのです。(創世記1章)
キリストを信じただけで、キリストを信じた時にキリストの十字架と復活が信じた人に適用されます。
信じたその瞬間に、罪赦され、義と認められ、神のものとして聖別され、さらに御霊によって新しく生まれさせて頂けるのです。
御霊によって生まれたものは霊です。
その霊の中に御子の御霊が宿ってくださるのです。
御霊のいるところには、イエス・キリストがおり、イエス・キリストがおられるところには父なる神がおられるのです。
新しい歩みとは、新創造された、御霊に導かれた霊による歩みです。
魂と肉体は、霊に従って生きる歩みなのです。

割礼について神様が意図された目的は、古き人は十字架上でキリストとともに葬られて、キリストの復活に合わせられて心と霊とを新しくされることの予めの型であったのです。
“あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。”(エゼキエル18:31)の預言が成就されることであったのです。

<聖書参考箇所>
“キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。”(コロサイ2:11)
“3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。”(ヨハネ3:1-7)

“6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。”(ローマ6:4-10)

“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”(ガラテヤ2:20)

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(2コリント5:17)
“Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; old things have passed away; behold, all things have become new.”{2Co  5:17(NKJV)}

“もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。”(ガラテヤ5:25)

“そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。”(ガラテヤ4:6)

“「だれでもわたし[イエス・キリスト]を愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。”(ヨハネ14:23)

“主と交われば、一つ霊となるのです。”(1コリント6:17)

<お祈り>
天のお父様
十字架と復活の持っている恵みをさらに豊かに知ることができ
あなたが備えてくださっておられる恵みの道を
更なる喜びを持って歩ませて頂けますように
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。
アーメン

2012年12月 1日 (土)

ガラテヤ6:14 誇りは十字架のみ

ガラテヤ6:14
“6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”

・“私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。”
古き人即ち肉[まことの主なる神無しで生きている人]である人間を良く知るにつれて、また、イエス・キリストの十字架の意味を良く知るにつれて、さらにイエス・キリストの十字架の恵みをより豊かに、さらに豊かに体験するにつれて、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとなるものがなくなっていくのだろうと思います。

キリスト無しの人が、神の御前に、自分は正しい、と思っている間は、イエス・キリストの十字架が、言葉では言い尽くせないほどの恵みをもたらす、ということの端緒にもつけません。

イエス・キリストの中で、苦しみにあえばあうほど恵みをより豊かに知るようになります。

苦しみをイエス・キリストと無関係に体験してもそれは、恵みを知ることにはなりません。

パウロは、ローマ1:16.17で次のように言いました。
私は福音[イエス・キリストの十字架と復活がその大本です]を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

・“この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。”
とパウロは言います。
ここで言われる<世界>とは、キリストを信じないで生きている世界のことを言います。

ピリピ3:4-8には次のようにあります。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。”

キリストの十字架の素晴らしさのゆえに、この世のものは取るに足らないものであるという思いにまで至っています。
キリスト者は、このところまで達しないとこの世とキリストとの間で右往左往することになります。

RHEA.F.MILLERは有名な次のような詩を書きました。
<キリストにはかえられません。
世の宝もまた富も
このお方が私に代わって死んだ故です。

キリストには変えられません。
有名な人になることも、人の褒めることばにも
この心をひきません。

キリストには変えられません。
如何に美しいものも
このお方で心の満たされている今は。>

キリストが私の罪をすべて負って十字架の上で死んでくださった。
それだけではなく、私の心を満たしていて下さる、と作者は言っています。

主イエス様が地上におられたとき次のように言われました。
「わたしが来たのは、羊[キリストを信じる者]がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
豊かな命を持った者は、パウロと同じことを言うでしょう。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します
これからも益々主の恵みを深く味わ知っていくことができますように
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします
アーメン

2012年11月30日 (金)

ガラテヤ6:11-13 偽伝道者に注意

ガラテヤ6:11-13
“6:11 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。
6:12 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。
6:13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。”

・ガラテヤ教会にやってきた偽伝道者の動機と間違いについてパウロはすでに述べて来ましたけれども、結びのところで、それを簡潔に自筆しています。

・“あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。”
ユダヤ主義者の伝道者たちは、ユダヤ主義的キリスト者を獲得することによって、自分と同じような人達の間でよく見られたいという動機から行っていたのです。

・“彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。”
当時、ユダヤ教は、ローマ帝国の公認宗教でしたから迫害を受けませんでした。
キリスト教は、ローマの公認宗教になるまでの間、度重なる迫害を受けました。(黙示録2:8-11のスミルナの教会についての記述は参考になります。)
313年のミラノの勅令によってキリスト教はローマ帝国の公認宗教となり、380年にテオドシウス帝がローマの国教にすると宣言します。
それは、キリスト教の悲劇の始まりでした。
キリスト教が政治と結びついて真理から離れて行ってしまったのです。(黙示録2:12-29のペルガモの教会やテアテラの教会の記述は参考になります。)

・“なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。”
割礼を受けるならば律法の全体を守る義務があります、とパウロは前述しています。
そのようにしていないのだからユダヤ主義的偽キリスト者は良く見られたいという見栄の為に伝道しているのですよ。とパウロは言います。

・現代も形を変えて偽預言者、偽伝道者が跋扈していますから気をつける必要があります。

・主イエス様は、終りの時のしるしの一つとして「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24:11)と言われました。

<お祈り>
天のお父様
みことばを感謝します
真理であるイエス様から離れてしまうことがないようお守りください
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします
アーメン

2012年11月29日 (木)

ガラテヤ6:6-10 人は蒔いたものを刈り取る

ガラテヤ6:6-10
“6:6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。”(新改訳)

・“みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。”
“御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。”(新共同訳)
パウロは働きながらみことばをのべ伝え、また、教えました。
しかし、そのパウロが御霊の導きによってこのように語っているのです。
1コリント9章に詳しく書かれてありますが、ピックアップしますと次のようになります。
あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。”(1コリント9:13.14)
“もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。”(1コリント9:11)

パウロは、みことばを教えられる人たちが幼くて、献金によって躓いてしまうことがないようにと、多くの場合、援助を受けずに福音をのべ伝えたのです。パウロは自発的な援助があれば感謝してそれを受けています。

・“思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。”
仏教用語で因果応報ということばがありますが、それは神様の法則にかなった用語です。しかし、因果応報と神様の法則とはすべての面で一致するわけではありません。一例としてヨハネ9:1-3に次のようなものがあります。
“1 
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。”と。

一方、報酬という概念があります。
2コリント9:5-8に次のようにあります。
5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。”
このように書くと、教職者はいいな~と思うかもしれません。
しかし、教職者には次のみことばが重く響きます。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。”
このみことばは、すべての人に語られています。
教職者の場合は、主なる神の為、主が愛されている人の為の奉仕なのか、
それとも自分の生活を守る、或いは生活を豊かにするための奉仕なのか、
ということが問われます。
前者は御霊のために蒔く者ですが、
後者は肉の為に蒔くものです。

*私は、教職者ではありませんので、もし、献金してもらいたくてこのように書いているのだろう、と思われましたらそれは的外れです。

・心から神に対して行われている献金は、天に宝を積んでいるのです。
神はすべてのものをもっておられますから、神様は献金してもらわなくてもどうにでもなるのです。献金は、結局それを行った人の祝福の為のものなのです。
献金は、まことの神への感謝の表れであり、献身の表れです。
いやいやながらする献金は、祝福にカウントされない可能性があります。

・“ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。”
すべての人たちに善をおこなっていくよう勧められていますが、その中でも、信仰の家族が優先されます。

<お祈り>
天のお父様
御名を崇めて感謝し賛美します
何が良いことで神に受け入れられ完全であるのかをわきまえ、良きことの為にことをなしていくものであらせて下さい。
献金の恵みに与らせて頂いておりますことを感謝します。
益々、主なる神様の恵みといつくしみを体験し、神様に感謝し、喜びをもって捧げる者とならせて頂けますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2012年11月28日 (水)

ガラテヤ6:2-5 重荷と誇り

ガラテヤ6:2-5
“6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。”

・“だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。”
他者と比べて何か少しでも優位なところがあったりするとすぐに誇ってしまう、得意になってしまうというのは、古き人[生まれながらの人(1コリ2:14)=unbeliever= natural man]の特徴かもしれません。
実は、人間には自分の内に誇れるところなどないのだと思います。
主イエス様を信じて新しく生まれさせて頂き、霊的に整えられていくと、自分の内には誇れるものが何もないことが分かります。
パウロは1コリント4:7に“いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。”と記しています。
よく考えてみると自分の内にあるすべてのものや自分を取り巻くすべてのものは主なる神様が備えてくださったものであるということが分かります。
古き人は、自分を他者と比較して優位に立っていると安心していられるのです。
しかし、神様は、それは罪[的外れ]だよ、と教えてくださいます。
まことの安心、また、自分を支えてくれるものは愛なる神なのです。
そしてこの神は、全知全能なのです。

・“人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。”
主イエス様を信じていない人にも主イエス様を信じている人にも重荷はあります。
ただし、重荷の種類が違うかもしれませんね。
自分自身を主イエス様にすっかり委ねている故に自分自身のことに関しての重荷を感じない人は、主イエス様からその人自身のではない十字架を与えられています。
使徒パウロは自分自身のことについてはあまり重荷をもっていなかったと思いますが、主イエス様から驚くべき重荷を与えられた人でした。
2コリント11:21-28を次に記します(これはパウロの重荷として意図されて書かれたものではありませんが)。
11:21b 私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、――私は愚かになって言いますが、――私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。”

これを読むと、私などは、絶句してしまいます。

しかし、重荷に勝る恵みを神様はいつも用意されるお方です。
イエス様は言われました。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28‐30)と。

・“互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。”
<キリストの律法>:互いに愛し合うこと。“
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”(ヨハネ13:34)
ここでいわれている愛は、肉欲的な愛とか家族的な愛とか友人的な愛とかではなくキリストの愛・神の愛です。ですから、内におられる御霊によってのみ可能になるのではないかと思います。それは御霊の実としての愛です。
自分の力では到底できません。
でも誰でもできることは、御霊によって祈ることや、傾聴や慰めや励ましがあるでしょう。

ガラテヤ6:1-5の箇所については、ガラテヤ人への手紙の文脈から離れて私にあたえられた光に応じて書きました。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
あなたをほめたたえます。
重荷に苦しんでいる人に対して御霊によって祈れますように。
主イエス・キリスト様の御名によって祈ります。アーメン。

2012年11月27日 (火)

ガラテヤ6:1 訓戒は御霊にある柔和で

ガラテヤ6:1
“兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。”

・<あやまち>:故意の罪ではなく、a side-slip 知らずに横道にそれた行為、過失。

<御霊の人>:御霊に導かれて歩んでいる人

<柔和>:御霊からくる柔和。柔和は御霊の実の一つ

<自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい>:御霊に導かれて歩んでいる人でも、ちょっとしたことで誘惑に陥ることもあるので、パウロは警告しています。

・サタンはいつも罪に陥れようと誘惑の機会をうかがっています。
サタンは、あやまちに陥った人を、あやまちから引き戻そうとする良き思いさえ利用します。
初めは柔和に語っていたのに、相手の人がなかなか悔い改めないでいたりすると語気を荒げ最後は怒ってしまって忠告している方の人が罪に陥るということになってしまうこともあります。

・パウロは、御霊によってこの箇所を書きながら、下記するガラテヤ2:11-21の出来事を思い浮かべたかもしれません。
ケパ(ペテロ)に対しての語りだしの語気は相当強そうな感じを受けます。
しかし、話をしている内に、神の恵みに感じてだんだん柔和な話し方になってきているように思うのです。
ケパは、全教会のリーダーでしたから下の立場にあるパウロがケパに忠告するにあたって、初めは語気が強くなってしまったのかな、とも思います。これは、パウロの生まれながらの性格にもよるのではないかと思いますが。
これはあくまでも私の想像です。
“2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。
2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。
2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」”

・ヨブ記を読むと義人ヨブが極めてひどい災いにあった時、ヨブの三人の友は、ヨブを慰めに行きました。
ヨブ記2:11-13に次のように書いてあります。
“2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。
2:12 彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。”
この三人は、遠くからわざわざ慰めに来たのです。それも長期滞在です。さらに、ヨブの辛さに共感しています。
しかし、この後、だんだんとヨブの不幸の原因を、ヨブの過ちのせいではないかと考えた三人の友は、原因探しをし、ヨブに忠告していく中で、ヨブとのやり取りの中でだんだんと罪に陥っていくのです。

難しいですね。

<お祈り>
天のお父様。
もし、このような状況に立たされたとき、何時も in Spirit であり続けるようにさせていて下さい。サタンの策略にのせられてしまうことがありませんように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン。

2012年11月26日 (月)

ガラテヤ5:16-18.24ー26 御霊による歩み

ガラテヤ5:16-18.24ー26
“5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。”

・肉による歩みが良いのか、御霊による歩みが良いのか、キリストによる救いを求める人やキリスト者は御霊による歩みを求めることと思います。
中には、私は御霊によって毎瞬毎瞬歩んでいます、という人もいることと思います。
しかし、世の中には、どっぷりとサタンの支配の中に浸かっていて今のままの方が良いという人もいるかもしれません。
ガラテヤ人への手紙は、横道にそれたもののキリストを信じて歩もうとしている人達に対して書かれた手紙ですから、パウロの「御霊によって歩みなさい」という勧めを温度差の違いはあっても受け入れる人達であったろうと思います。

・“御霊によって歩みなさい”
“let the Spirit direct your lives”(TEN)
“Walk in the Spirit”(NKJV)
“そうすれば肉の欲望を満足させるようなことはありません。”

・もし、キリストを信じて救われて自分の霊の内に御霊がいてくださるにもかかわらず、キリストに自分をあけわたして御霊に従っていかないときには、パウロがローマ7章で告白しているようなことが起こります。
パウロは次のように告白しました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善[神の御旨]を行なわないで、かえって、したくない悪[神の御心に反すること]を行なっています。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

・その解決方法として、パウロは、“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。”という神が備えてくださった真理を提示しています。
(TEN)で同じ真理を異なった表現でみてみたいと思います。
“And those who belong to Christ Jesus have put to death their human nature with all its passions and desires.”{(TEV)はToday's English Versionです。}

・御霊に導かれて歩み続けるためには、古き人=肉を十字架に付ける必要があるのですが、実は、神の中では、キリストが十字架に付けられたときにすべてのキリスト者の古き人も十字架に付けられているのです。キリスト者は、それを信じてキリストにある新しい歩みをすればよいのです。
そうすれば、その通りになります。
パウロはそのことをローマ6:3-11において次のように記しています。
“6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのですそれは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。”

・御霊によって生きなければ神のみ御前における自由はありません。

<お祈り>
天のお父様。
すべての良きものを備えてくださりありがとうございます。
キリスト無しの古き自分を十字架に付けて、キリストの霊をもたせて頂いている新しい人としての生き方を御霊によって何時もすることができるようにして下さい。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン。

2012年11月25日 (日)

ガラテヤ5:22.23 良い木は良い実を結ぶ

ガラテヤ5:22.23
“5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”

・主イエス様は、山上の垂訓の中で「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」(マタイ7:17.18)と言われました。
主であり救い主である主イエス・キリスト様を信じて救われる前は悪い木でした。
主イエス様を信じた時に、神の霊によって新しく生まれさせてくださった人の霊の内に御霊を遣わしてくださったのです。
御霊によって生きている人は良い木にたとえられます。
<参照>
肉によって生まれた者は肉です。霊によって生まれた者は霊です。”(ヨハネ3:6)
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。”(ヨハネ14:16.17)

・御霊の実は、人間的努力によって生み出されるものではありません。
御霊によって歩んでいくうちに実が付いてくるのです。
それは、努力によるのではなく、御霊によるのです。

・御霊の実は、単数です。
“5:22 But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, kindness, goodness, faithfulness,
5:23 gentleness, self-control. Against such there is no law.”(NKJV)
私には、喜びはないけれども自制はある、などというのは、御霊の実ではなく、霊に属するものではなく、魂に属する人間の努力の結果です。
御霊によるものは、すべの実が実っていくのです。

・「愛」:(ギ)ἀγάπη
「喜び」:(ギ)χαρά
「平安」:(ギ)εἰρήνη 「平和」という単語を使っている聖書もありますが、個人的には「平安」の方がしっくりきます。
「寛容」:(ギ)μακροθυμία 
「親切」:(ギ)χρηστότης 「慈愛」という単語を使っている聖書もあります。
「善意」:(ギ)ἀγαθωσύνη 「善良」という単語を使っている聖書もあります。
「誠実」:(ギ)πίστις 「真実」「忠実」などの単語を使っている聖書もあります。
「柔和」:(ギ)πρᾳότης 
「自制」:(ギ)ἐγκράτεια 「節制」という単語を使っている聖書もあります。

・“このようなものを禁ずる律法はありません。”
ガラテヤ教会の人たちは、律法の中にある割礼や宗教祭事を守ろうとしていたので、パウロはこのように書いたのだと思います。

2012年11月24日 (土)

ガラテヤ5:19-21 肉の行い

ガラテヤ5:19-21
“5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

・イエス様はヨハネ3:6において次のように言われました。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と。

御霊によって生まれた者はクリスチャンとよばれます。
御霊によって生まれていなければ、人間の両親から生まれただけの人間です。

・御霊によって生まれていなければ、肉の行いをしていることは普通のことです。
しかし、クリスチャンとして頂いたのに、肉の行いの中を歩んでいるということはよくあります。それは、霊によって歩んでいないためです。

・パウロは1コリント2:12-3:3において次のようにもう少し詳しく分類しています。
“2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心〔原語は「ヌース」で知性、心、精神等の意があります(筆者挿入)〕があるのです。
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。”
パウロは、この箇所で、<御霊の人>即ち御霊の導きに従って歩んでいる人。
<肉に属する人、キリストの幼子>即ちキリストの御救いに与っているけれども御霊によって歩んでいない人。
そして、両親から生まれただけで、まだキリストの御救いに与っていない<生まれながらの人間・ただの人>に分類しています。

・パウロは肉の行いを四種類に分けて書いています。
1)不品行、汚れ、好色:性的な罪
2)偶像礼拝、魔術:主なるまことの神に対する罪(対神関係の罪)
3)敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ:(兄弟愛に反する罪)
4)酩酊、遊興:(不節制の罪)これは、異教の祭礼に見られるどんちゃん騒ぎのことを指すとみられると新聖書注解にはあります。勿論、異教の祭礼のみに限られることではありません。

・肉の行いから解放されないと大変です。
パウロはまとめとして言いっています。
「前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」と。

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