黙示録

2012年10月29日 (月)

黙示録22:18-21 黙示録の権威に対する使徒ヨハネの証言・他

黙示録22:18-21
“22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
22:20 これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。”

・“私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。”
黙示録に書かれてある内容に付けたしたり、差し引いたりしてはならないことが教えられています。
付けたしたり差し引いたりする人は、救われることなく裁きを受けます。
と使徒ヨハネは言っています。
ヨハネの黙示録は、ヨハネから教会にあてて書かれた手紙です。「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。」ということばを異なった角度から眺めると、キリスト者として御旨にかなう歩みをしているならば、黙示録に出てくる災害を被らない、と理解してもよいのかもしれないと思います。災害は、小羊〔キリスト〕が七つの封印を開いたところから始まっていきます。
この理解が正しければの話ですが、その場合には、キリストの空中再臨によってキリストの教会が地上から天へと移される携挙のときは、封印が開かれる前になるのかもしれません。

“これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。”
黙示録22:7の箇所において「わたしはすぐに来る。」ということについてすでに書きましたがもう一度ここに転載します。
・「見よ。わたしはすぐに来る。」
このフレーズを二つに分けて考えたいと思います。
黙示録2-3章の教会は、今は遺跡だけです。
主はすでに来られました。
また、その箇所を霊的にとらえれば、来続けています。
7つの教会を初代教会から現代に至るまでの教会時代の各時代区分として歴史的にとらえれば、すでに来たところと現在進行形のところがあります。
これから起こる預言に関しては、次のペテロの御霊に導かれて書いたみことばを見るとよいと思います。
“3:1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。”(2ペテロ3:1-15)

・“主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。”
<すべての者>とは、主イエス・キリストを信じている人すべての者の意です。

2012年10月28日 (日)

黙示録22:17 救いへの招き

黙示録22:17
“御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。”
<花嫁>とは、キリストの花嫁であり、教会のことです。

主なる神様は、愛ですが、義でもあります。
義である故に罪を罰します。
神様のいう罪とは、神にそむくことです。神に従わないことです。
神の御旨は、聖書に書いてあります。
キリストが語られた山上の垂訓(マタイ5-7章)を一体誰が守ることができるでしょうか?
神の正しさに堕罪したアダムの子孫である人間は到達できません。
神に至る道は、いくつもあるのではないのです。
罪の贖いを十字架の上で成し遂げてくださったキリストを信じる以外に神に至る道はありません。それ以外は地獄への道です。
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父〔まことの神〕のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13.14)
と主イエス様は仰せになられました。
使徒ペテロとその時代の宗教家とのやり取りを使徒の働き4:1-12は次のように記しています。
“4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
4:3 彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。
4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
4:7 彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。
4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」”

・“渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。”
ヨハネの福音書6:35でイエス様は次のように言われました。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と。
イエス様を信じると霊的な飢え渇きから解放されます。
それどころか満ち足り満ち溢れていくのです。

2012年10月27日 (土)

黙示録22:10-16 主イエスの自己紹介と聖化のすすめ

黙示録22:10-16
“22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」”

・主イエスの自己紹介
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

黙示録1:8には、“神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」”
とあります。アルファとオメガはギリシャ語の最初と最後の文字です。
これは父なる神についてのみことばです。
三位一体の神の第二位格である御子イエスも「「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 と語られても不思議はありません。
逆に父なる神と御子イエスキリストは、位格は異なるが一体であると証明しています。
神及びキリストは、あらゆるものの最初であり最後であると黙示録の初めの1章と終りの22章で語っています。

黙示録5:5に、“すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」”と同じようなキリストの紹介があります。
その時記した内容を転記します。
“ユダ族から出たしし、ダビデの根”は、イエス・キリストを表しています。(黙示録22:16)獅子は王を表し、キリストは、初臨のとき肉においては、マリヤから生まれた。マリヤの祖先はユダ族でした。神様は、救い主は、アブラハムとダビデを経由して生まれると約束されていました。しかし本質的には、キリストは、ダビデの根、即ち根源であったのです。

・“自分の着物を洗って”
イエスキリストの血で洗うことを意味します。(黙示録7:14)
“御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”(1ヨハネ1:7)

・“見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 ”
キリストの救いは、恵みです。(エペソ2:8)
キリストの恵みは、神に対して何の働きのない者に対して贈られたものです。
一方、報いは、報酬です。
これは働きに対して与えられるものです。
タラントの喩え(マタイ25:14‐30)
ミナの喩え(ルカ19:11-26)

[参考]
恵み:(エペソ2:8.9)“2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

報酬:(マタイ25:14‐30)“25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。”

2012年10月26日 (金)

黙示録22:10-16 黙示録の確かさと聖化のすすめ5 聖化について4

キリストの十字架と復活に一体化させて頂いたことの実体化による聖なる歩み

“6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。”(ローマ6:5-11)

そして、パウロはガラテヤ2:20で自分の証しをしました。
この箇所は、英語で味わって下さい。
“I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.”(NKJV)

“パウロがこのように言えたのは、霊の領域の一部である良心と魂がきよめられていて、何の障害もなく主イエス御自身がパウロの個性の中に輝きい出ているのではないかと思います。
主イエス御自身が輝き出でるというのは、1コリント1:17の<主と交われば一つ霊となる>がキリスト者のもっとも深い所にあるからです。汚れた良心・思い・感情・意思が邪魔してはきよい霊は輝き出でません。

Ⅰコリント 11:1で、 「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」とパウロは言えたのでした。

パウロがこのように言えたのは、神の恵みによって“For the law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death.”{ローマ8:2(NKJV)}と言えるような体験をしたからです。

罪と死の法則からキリストの血潮によって解放され、キリストの御霊によって神に対して生きれる生き方の会得です。

パウロはガラテヤ5:24.25では、次のように語っています。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」と。

そして、その少し前で古き人による肉の行いと新しき人に宿る御霊による御霊の実の違いについて書いています。
“5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。”(ガラテヤ5:19-23)

キリストの内にあって古き人は十字架の上で死にました。
キリストの復活の中にあって、新しき人はよみがえらされました。
その新しき人の中に主の御霊が住んでおられます。
そして、その御霊に導かれ続けて歩むのです。
このことが常に実体化されて歩み続けることができたら主は大いに喜ばれることでしょう。
主なる神は、そのような恵みを備えてくださったのです。

2012年10月25日 (木)

黙示録22:10-16 黙示録の確かさと聖化のすすめ4 聖化について3

・「良心のきよめ」:(ヘブル9:14)“まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”

・「魂(知性[ものの考え方]・感情[ものの感じ方]・意思)」のきよめ:(ローマ12:2)“あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。”(口語訳)
(新改訳)では、“この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”とありますが、訳としては口語訳の方がよりよいと思います。
“And do not be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, that you may prove what is that good and acceptable and perfect will of God.”(NKJV)
be transformed >ですから、変えて頂くのです。
自己の力のみで変えようとしても変えることはできません。
そこには信仰が必要です。

・「信仰によるきよめ」:(ローマ15:9)“私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。”

・「体をきよく保つ」:(1テサロニケ4:3-8)“4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け
4:4 各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
4:6 また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
4:7 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。
4:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。”

・「きよくすることは神の御意志」:(エペソ1:4)“すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。”

・「きよめを可能にしたキリストの血潮」:(ヘブル9:22挿入,抜粋)“すべてのものは[キリストの]血によってきよめられる”
(1ヨハネ1:7)“しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。”

・「告白」:(1ヨハネ1:9)“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪[不義]から私たちをきよめてくださいます。”

・「みことばによるきよめ」:(ヨハネ17:17)“真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

・「聖霊によるきよめ」:(2コリント3:18)“私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。”

きよめの為には、このうちのどれか一つというのではなく、みな大切なのです。

2012年10月24日 (水)

黙示録22:10-16 黙示録の確かさと聖化のすすめ3 聖化について2

黙示録22:10-16
“22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」”

地上にいる間、キリスト者たちが聖化されていく主要部分は、魂に属するものではないかと考えています。
魂は、大脳と密接な関係を持っているようにセットされているように思えます。
しかし、大脳と魂は異なるものです。それは次のみことばによります。
“からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。”(マタイ10:28)
大脳は、肉体の一部ですから、焼かれれば消失します。しかし、魂は、肉体が消滅しても存続していることをこのみことばは教えてくれます。
さらに、霊と魂は異なるものです。
それは次のみことばによっても分かります。
“平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。”(1テサロニケ5:23)
“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊・・・の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”(ヘブル4:12)

魂とは、どのような働きをしているのでしょうか。
私は完全に理解できているわけではありませんが、旧約聖書と新約聖書から一例ずつ見てみます。
“28:11 すると、女は言った。「だれを呼び出しましょうか。」サウルは言った。「サムエルを呼び出してもらいたい。」
28:12 この女がサムエルを見たとき、大声で叫んだ。そしてこの女はサウルに次のように言った。「あなたはなぜ、私を欺いたのですか。あなたはサウルではありませんか。」
28:13 王は彼女に言った。「恐れることはない。何が見えるのか。」この女はサウルに言った。「こうごうしい方が地から上って来られるのが見えます。」
28:14 サウルは彼女に尋ねた。「どんな様子をしておられるか。」彼女は言った。「年老いた方が上って来られます。外套を着ておられます。」サウルは、その人がサムエルであることがわかって、地にひれ伏して、おじぎをした。
28:15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、私を呼び出して、私を煩わすのか。」サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」
28:16 サムエルは言った。「なぜ、私に尋ねるのか。主はあなたから去り、あなたの敵になられたのに。
28:17主は、私を通して告げられたとおりのことをなさったのだ。主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。
28:18 あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ。
28:19 主は、あなたといっしょにイスラエルをペリシテ人の手に渡される。あす、あなたも、あなたの息子たちも私といっしょになろう。そして主は、イスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡される。」”(1サムエル28:11-19)
この箇所は、サムエルが霊媒女によって黄泉から登場してきたときのものです。
サムエルの過去の記憶はしっかりとしており、知性があります。
感情も保たれています。
次は、主イエス様が語られた内容からです。
“16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人〔この人は貧しいけれども主なる神様を信じていたのだと思います〕が寝ていて、
16:21 金持ち〔裕福であったけれども主なる神様を信じてはいなかった人だと思います〕の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”(ルカ16:19-31) *〔  〕内は著者挿入
この金持ちからは、知性・感情・意思があることをみることができると思います。

1ペテロ1:15.16を記します。
“1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。”(新改訳)
“1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。”(新共同訳)
“1:15 but as He who called you is holy, you also be holy in all your conduct,
1:16 because it is written, "Be holy, for I am holy.”(NKJV)

「聖」とは神様の属性です。 I am holy. で分かります。このときの"am"は、原語では"εἰμί"です。
"Be holy"のbeは、原語では、"γίνομαι"です。
ギノーマイには、色々な意味があります。ですから、「聖なるものとされなさい」でも「聖なる者となりなさい」のどちらでもOKなのです。

私の経験では、私が、自分の能力のみできよくなることなどは全くできません。可能性は0です。
人間は誰でもそうなのではないでしょうか。
神様にお願いしてきよくして頂かなくては、きよくなれないのです。
「聖」とは、神様の属性ですから、人間が同じようになることなどできるわけないのです。
きよくして頂くしか方法はありません。

「生活のすべての面で聖なる者」とされる為には、
「良心」「思い」「感情」「意思」がきよくされなければならないと思います。
そしてさらに、肉の体がきよく保たれるようにとも教えられています。
“平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。”(1テサロニケ5:23)
神様は、その為の備えをして下さっておられます。

2012年10月23日 (火)

黙示録22:10-16 黙示録の確かさと聖化のすすめ2 聖化について1

黙示録22:10-16
“22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」”

・“聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。”
キリスト者及び患難時代の聖徒たちは、イエスキリストを信じたらあとは何をしてもかまわないというのではなく、使徒ペテロが聖霊の導きによって「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」(1ペテロ1:15.16)と言っているように、聖徒は聖化されていくことを期待されています。

「聖徒は聖化されていくように」
と書くと首をかしげる人がいるかも分かりません。
これから書くのは、私の現段階での理解です。(後に理解の仕方が変わるかもしれませんから)
このような言い方をするのは、聖化について色々な解釈があるからです。
これは論文ではないので、誰がどのような論説を唱えたかというようなことには触れません。

・神様が与えてくださった「聖」即ち「聖別」・・・これは、キリストの救いに与った時にあたえられている「聖」という立場。
“10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。”(ヘブル10:5-10)
“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(1コリント1:30)
“But of Him you are in Christ Jesus, who became for us wisdom from God-and righteousness and sanctification and redemption-”(NKJV)
それ故、いくつかの由々しき罪の中に生きていたコリント教会の人たちでさえ「聖徒」と呼ばれています。(1コリント1:2)

・私たちは、日々の言動において、そして、そのもととなる霊と魂において聖化されるようにと勧められているように思います。「実質における聖さ」と表現したらよいでしょうか。

私たちの行いが全く義なる者となるのは、時系列的には、黙示録19:6-8のキリストと教会の婚姻の時です。
“19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」”(黙示録19:6-8)

・霊に汚れがあるということを考察する必要がありますが、先ず次のみことばをみてください。
“愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。”(2コリント7:1)

人間は、キリストを信じて救いを戴く前は、主なる神のことばを正しく理解することができません。それは、御霊による再生がなされていないからです。生まれながら知的に如何にすぐれているとしても再生されていなければ神のみことばを正しく理解することはできません。
“You must be born again.”
“That which is born of the flesh is flesh, and that which is born of the Spirit is spirit.”{ヨハネ3:7.6(NKJV)}
“自然の人〔イエスキリストを信じない故に再生されていない人〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。”{1コリント2:14(新共同訳)}
以上のみことばからも霊によって御霊のことば即ち聖書を理解することができるのです。

新しく生まれさせて頂いた「霊」は全くきよいのではないのだろうか。神様は、永遠に至る霊を全くきよいという状態に創らなかったのだろうか。
と考えてしまします。
マラキ2:15を考察してみる必要を感じます。
“神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。”(新改訳)
“主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。”(新共同訳)
“And did not he make one? Yet had he the residue of the spirit. And wherefore one? That he might seek a godly seed. Therefore take heed to your spirit, and let none deal treacherously against the wife of his youth. ”(KJV)
また、ローマ2:15を見ます。
“彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。”
さらにヘブル9:14には
“キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。”

マラキ2:15で主なる神様が言われている内容は、「良心」に訴えているように思います。
そうであれば「良心」は「霊」に属することになります。
そうなると、2コリント7:1の「霊・・の汚れから自分をきよめ」とヘブル9:14の「キリストの血は・・・良心〔霊の一部〕をきよめて」が結びつきます。

イエス・キリストを信じていない人、即ち、生まれながらの人であっても、イエスキリスト信じて霊が再生された人でも、「良心」は持っています。その良心は、きよめられる必要があるということではないかと思います。

イエスキリストを信じて霊が再生されていなければ、主なる神のみことばを正しく理解したり、主なる神と交わることはできません。蛇足になりますが、霊が再生されていない状態でも悪霊とは交われます。

関連するみことばとして1コリント2:10-16を記しておきます。
“2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。”(新改訳)

そして、まさにこの私たちにこそ神は、霊をとおして〔このことを〕啓示されたのである。霊は、すべてを、神の深みをさえも、探り尽すからである。
実際、人間のうちにあるその人の霊をほかにして、人間のうちの誰が、その人のことがらを知っているであろうか。そのように神のことがらもまた、神の霊をほかにしては、誰一人として知ることはなかったのである。
私たちはしかし、この世界の霊を受けたのではなく、神からの霊を〔受けたのである〕。それは私たちが、神によって私たちに恵みとして与えられたものを知るためである。
私たちはそれを〔知るだけでなく〕語りもするのだが、それは人間的な知恵によって教えられた言葉においてではなく、むしろ霊によって教えられた言葉において〔語るの〕であって、霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。しかし、自然的な人間は、神の霊のことがらを受け容れない。なぜならば、それはその人には愚かさだからであり、〔それをその人は〕認識することができないからである。というのは、それは霊的な仕方で判断されるからである。
しかし霊的な人は、すべてを判断し、彼自身は誰からも判断されることはない。
「誰が主の思いを知っていただろうか。その人は彼に教えることをするだろうか。」しかし私たちこそは、キリストの思いをもっているのである。”(岩波訳)

“2:10 But God has revealed them to us through His Spirit. For the Spirit searches all things, yes, the deep things of God.
2:11 For what man knows the things of a man except the spirit of the man which is in him? Even so no one knows the things of God except the Spirit of God.
2:12 Now we have received, not the spirit of the world, but the Spirit who is from God, that we might know the things that have been freely given to us by God.
2:13 These things we also speak, not in words which man's wisdom teaches but which the Holy Spirit teaches, comparing spiritual things with spiritual.
2:14 But the natural man does not receive the things of the Spirit of God, for they are foolishness to him; nor can he know them, because they are spiritually discerned.
2:15 But he who is spiritual judges all things, yet he himself is rightly judged by no one.
2:16 For "who has known the mind of the Lord that he may instruct Him?" But we have the mind of Christ.”(NKJV)

2012年10月19日 (金)

黙示録22:10-16 黙示録の確かさと聖化のすすめ1

黙示録22:10-16
“22:10 また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
22:11 不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。
22:15 犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」”

・“不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」”

「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。」
というみことばをみると、神様はなんてひどいことを言うのだろう。と思うかもしれませんがそうではありません。神様は、罪を悔い改めるように聖書の中で何度も語っておられます。人間的な表現をすれば、涙を流して「悔い改めてくれー。そしてあなたの救い主・贖い主キリストを信じ受け入れてくれー、キリストはあなたの為に十字架にかかって罪の贖いをしたのだよ。」と言っておられるのです。
その心境はエゼキエル18章によって少しわかります。
「18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。──神である主の御告げ──悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:30-32)
この箇所に見られる神様の心境は、イスラエルだけに限りません。キリストの贖いが成就している現代、すべての人に対して同じ心境なのです。
いくら悔い改めを進めても従ってくれない人たちは、そのままにしておくしかないのです。
人間は、人間の中で相対的に良い悪いを評価しますが、神様がご覧になるとき、神様の<正しさ><きよさ>が判断の基準になってきます。
天国は、神様のきよさの満ちているところですからきよくない者は入れませんし、きよくないのに間違って入ってしまったら恥ずかしくていたたまれずすぐに退散することでしょう。

アダムが堕罪してから人間には罪が入ってしまいました。(ローマ5:12)
そして、「人の心は何よりも陰険〔別訳では、偽る者〕で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)の状態になってしまったのです。
偽りの父、それこそサタンなのです。
ヨハネ8:44にイエス様が話した次のようなみことばがあります。
「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

悔い改めて主イエスを信じた人は、サタンの支配からキリストの支配へと移されたのです。
それは、パウロの証しを読めば良くわかります。
「26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたし〔イエス・キリスト〕があなた〔パウロ〕に現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目〔霊の目〕を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」(使徒の働き26:16-18)

2012年10月18日 (木)

黙示録22:8.9 礼拝対象は神のみ

黙示録22:8.9
22:8 これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9 すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」”

・使徒ヨハネは、黙示録を示してくれた御使いをひれ伏して拝もうとしました。天使は「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」と言ったのです。

使徒ヨハネは、当然旧約聖書も知っていたはずですから天使を礼拝してはいけないことを知っていたと思います。下記に十戒の一部を記しておきます。
“20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。”と。(出エジプト20:1-6)

私の想像ですが、ヨハネは、威厳のある神々しい天使を見たのではないかと思うのです。それで自然にひれ伏してしまったのかもしれません。或いは、黙示録の内容を見させて頂いて驚嘆してしまったヨハネはその内容にも圧倒されて、ひれ伏して礼拝しそうになったのではないかとも思います。
私たちは、御使い即ち天使と言うと西洋絵画に出てくる天使やお菓子の箱に書いてあるエンゼルマークなどを思い浮かべてしまいますが、それは大間違いです。実はそれぞれの国のトップにいるのは見えない天使や堕天使であったりするのです。{参照:(ダニエル10:13)(ダニエル12:1)}
また、御使いはとても強いのです。{参照:(2列王記19:35)}
その他様々な働きをしている御使いがいます。

黙示録の内容は、父なる神が御子イエス・キリストにお与えになり、イエス様が御使いにヨハネに示すように遣わされたと書いてあります。(黙示録1:1)
そして、私たちはそれを御霊の助けを戴いて読ませて頂いています。

御使いは仕える霊です。
いつも神様に仕えています。
そして、神様からキリスト者に遣わされてキリスト者に仕えている霊もいます。(ヘブル1:14)
それは、神様の御命令によってそのようにしているのであって、やはり神様に仕えているのです。
キリスト者が神の御旨に従わないでいると遣わされた天使達は困ってしまうのです。
「・・・それも御使いたちの為にです。」(1コリント11:10)

・天使が大いなることをしてくれても天使を遣わしてくださった神様をほめたたえるべきです。
天使はへりくだっていますから、そうしてくれないと困ってしまいます。

天使は「私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。」と言っています。

黙示録22:6.7 黙示録の真実性

黙示録22:6.7
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
22:7 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」”(新改訳)

・御使いは、黙示録の真実性を証言しています。

・“預言者たちのたましいの神である主は”
私は、ここの字句の翻訳に疑問を覚えます。
<たましい>と<霊>の違いをはっきりさせるべきであると考えます。
岩波訳では、この箇所を“預言者たちに霊を吹き込まれる神”と訳し、新共同訳では“預言者たちの霊感の神”とし、NIVでは“the God of the spirits of the prophets”としています。
ヘブル12:10には、“・・肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。”
神のことばは、霊で受け取ります。
“いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊{(ギ)プニューマ}であり、またいのち{(ギ)ゾーエ}です。”(ヨハネ6:63)
“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、・・・の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。”(ヘブル4:12)

“For the word of God is living and powerful, and sharper than any two-edged sword, piercing even to the division of soul and spirit, ・・・”(NKJV)
“肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。”(ヨハネ3:6)
“That which is born of the flesh is flesh, and that which is born of the Spirit is spirit.”(NKJV)

「見よ。わたしはすぐに来る。」
このフレーズを二つに分けて考えたいと思います。
黙示録2-3章の教会は、今は遺跡だけです。
主はすでに来られました。
また、その箇所を霊的にとらえれば、来続けています。
7つの教会を初代教会から現代に至るまでとして歴史的にとらえれば、すでに来たところと現在進行形のところがあります。
これから起こる預言に関しては、次のペテロの御霊に導かれて書いたみことばを見るとよいと思います。
“3:1 愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
3:2 それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
3:14 そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。”(2ペテロ3:1-15)

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