信仰

2021年10月26日 (火)

神様はどこにいるのか?

 神様はどこにいるのでしょうか?

 マルコ16:19は、“主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。”(2017)と記していますから、父なる神様も主イエス様も天におられるのでしょう。

 ところが、エレミヤ23:24の聖句を、幾つかの聖書は次のように記しています。
 新改訳2017は、
“人が隠れ場に身を隠したら、
わたしはその人を見ることができないのか。
──主のことば──
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
──主のことば。”と訳し、

 新共同訳は、
“誰かが隠れ場に身を隠したなら
わたしは彼を見つけられないと言うのかと
主は言われる。
天をも地をも、わたしは満たしているではないかと
主は言われる。”と訳し、

 口語訳は、
“主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。
主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。”と訳し、

 リビングバイブルは、
“人はわたしから姿を隠せるだろうか。
わたしは、天にも地にも、どこにでもいるではないか。”と訳しています。

 エレミヤ23:24の、“主は言われる”(新共同訳、口語訳)、“主のことば”(新改訳)と記されている「主」のヘブライ語原語は、「ヤハウェ」です。
「言われる(仰せられる)」や「ことば」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ネウム」で、託宣、言う、仰せられる等の意があります。

 エレミヤ23:24の聖句は、ヤハウェ(主)が、「私はどこにでもいるよ」と語られた内容です。

 ダビデは、エレミヤよりも前に地上にいた人ですが、次のように言っています。
“7 どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも10 あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
”(詩篇139篇・新共同訳)と。

 イザヤは次のような体験をしました。
“ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち”(イザヤ6:1・2017)と記され、主の裾は地上にある神殿に満ちたのです。

 主の裾が神殿に満ちても不思議なことはありません。
イエス様は次のように語っています。
「わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ5:34.35・2017)と。

 ヤハウェ(主)という神様は、天にも地にも、どこにでもおられるお方です。

 では何故、一部の人しか、その神様とかかわりが持てないのでしょうか?

それは、新約時代においては、イエス・キリスト様を信じないから、というのが答えです。

イエス・キリスト様を信じた人、すなわちイエス・キリスト様を心にお迎えした人に、まことの神様、すなわちヤハウェ(主)という神様は、ご自身をあらわし、交わりを持ってくださるのです。

 イエス様は、イエス様を信じる弟子たちに、次のように語られました。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者〔助け主(新改訳)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。/・・、弁護者〔助け主(新改訳)〕、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:16.17/26・新共同訳)と。

 イエス様は、また次のようにも語られました。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。/だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:21.23)と。

 イエス様は十字架にかかられる前に次のように言われました。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様に贖われた兄弟姉妹といっても、育ちも環境も考え方も色々と異なっていることが普通のことです。
自分の考え方、感じ方とは異なる考え方、感じ方をする兄弟姉妹であっても、あなたを愛し、イエス様を愛している兄弟姉妹であれば、その一人一人を愛して歩むものであらせてください。
何よりも、三一の主がいつもともにいてくださることを心から望みます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 
・・・・・・・・・・・
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”(1コリント13:4-7・2017)

2020年4月26日 (日)

アモス6:4―14 主なる神様から離れ豊かさを謳歌したイスラエルへの裁き/主に感謝する歩み

 アモス64-7には、
4 象牙の寝台に横たわり長椅子でからだを伸ばし、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている者、5 琴の音にのせて即興の歌を作り、ダビデに倣って自分たちの楽器を考え出す者。6 彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗り、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむことがない。7 それゆえ、今、彼らは最初の捕囚の民として引いて行かれる。大の字になった者どもの、弔いの酒宴は除かれる。”(新改訳2017)とあります。 

 4節の「象牙の寝台に横たわり」から、6節の「最上の香油を身に塗り」というところまでは、主が遣わした預言者たちの言葉に耳を傾けることもなく豊かさを謳歌しているイスラエルの富豪たちの生活が描き出されています。
預言者が、その人たちに、主(ヤハウェ)に立ち返らないとイスラエルは裁かれ滅びる、といくら語っても聞く耳を持たず、また預言者の言葉を信じませんから、ヨセフの破滅のことで嘆き悲しむこともないのです。

 そのような人達はどのような結末を迎えると預言され、また事実そのようになったのでしょうか。
それは7節に預言されています。7節を聖書協会共同訳は、「それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行く。寝そべる者たちの酒宴も終わる。」と訳しています。

 イスラエルの首都サマリアの富豪の妻たちに対する預言は、アモス41-3に、
1 このことばを聞け。サマリアの山にいるバシャンの雌牛ども〔サマリアの富豪の妻たち(筆者挿入)〕よ。おまえたちは弱い者を虐げ、貧しい者を迫害し、自分の主人〔夫(筆者挿入)〕に「何か持って来て、飲ませよ」と言っている。2 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分の聖にかけて誓われる。「見よ、その時代〔裁きの時(筆者挿入)〕がおまえたちに来る。おまえたちは釣り針にかけて引き上げられる。最後の一人までが、銛で突かれる。3 おまえたちは、城壁の破れ口からそれぞれまっすぐに出て行き、ハルモンに放り出される。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。”(新改訳2017)と記されていました。(420日のブログの箇所です)
富豪の妻たちも捕虜として連れて行かれたのです。

 アモス68-11
 新改訳2017は、
8 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ご自分にかけて誓われる。──万軍の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──「わたしはヤコブの誇り〔原語は「ガーオン」で、横柄、傲慢、尊厳、威厳、誇り、自慢、プライド、等々の意があります(筆者挿入)〕を忌み嫌い、その宮殿を憎む。わたしはこの都と、その中のすべての者を引き渡す。」9 たとえ、一つの家に十人が残っても、彼らもまた死ぬ。10 親戚の一人でこれを焼く者が、家から死体を持ち出すためにこれを取り上げ、その家の奥にいる人に向かって言う。「あなたのところには、まだいるか。」彼は言う。「だれもいない。」また言う。「口をつぐめ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を口にするな。」〔主に生きていることを知られたら殺されると思ったのかも知れません(筆者挿入)〕11 まことに、見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は命じられる。「大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ。」”と訳し、
 リビングバイブルは、
8 全能の主は、ご自分の名にかけて誓います。「わたしはイスラエルの思い上がりと偽りの栄光を嫌い〔私は私に対するイスラエルの高慢を忌み嫌い(筆者挿入)〕、彼らの美しい宮殿を憎む。この町とその中にあるすべての物を敵の手に渡す。」 9 一つの氏族で十人が残ったとしても、彼らもまた死にます。10 親せきの者が葬ることになり、死体を家から運び出す時、家の中に一人だけ生き残っている者に、「ほかに残っている者がいるか」と聞くと、「いない」という答えが帰ってきます。すると、「しーっ。声を出すな。主の名を口にするな。おまえの言うことを聞いているかもしれないから」と言うのです。11 主がこのように命じられたからです。大きな氏族も小さな氏族も粉々にせよと。”と意訳しています。

 主はイスラエル(北イスラエル王国)を裁くためにアッシリア軍を派遣しました。
アッシリア軍によって首都サマリアはB.C.722年に陥落し、B.C.720年には多くの人々を連れ去ったのです。

 アモス612
 新改訳2017は、「馬が岩の上を走るだろうか。人がそこを牛で耕すだろうか。しかしあなたがたは、公正を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。」と訳し、
 新共同訳は、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛が海を耕すだろうか。お前たちは裁きを毒草に、恵みの業の実を苦よもぎに変えた。」と訳しています。
 聖書協会共同訳は、「馬が岩の上を駆けるだろうか、牛で海を耕すだろうか〔(ヘ)牛で耕すだろうか(欄外注)〕。あなたがたは公正を毒草に、正義の実を苦よもぎに変えた。」と訳しています。
 新改訳2017が「人がそこを牛で耕すだろうか」という箇所を、新共同訳、新改訳第三版、口語訳は「牛が海を耕すだろうか」と訳しています。
この箇所の「牛」と訳されている語の原語は、牛の複数形の「バーカーリーム」というヘブライ語が使われています。これは「牛」の複数形です。「バーカーリーム」の語を二つに分けて、「バーカール」(牛)と「ヤーム」(ヤーム)とすると、一頭の牛と海、となります。
岩波訳の注は、“マソラ本文は「牛の群れで耕すだろうか」となっているが、主語に「人」を補い、本文の校訂者の示唆によって「牛で海を」と読む”と述べて、岩波訳は、「人は牛で海を耕すだろうか。」と訳しています。
尚、「馬」のヘブライ語も複数形で書かれています。ですから、私は新改訳2017の訳で良いのではないかなと思います。馬の群れ、牛の群れ、ということであろうと思います。
細かいことが気になるので調べてみたのです。

 この節の大意は、リビングバイブルが、
“馬は岩の上を走れるでしょうか。牛は海を耕せるでしょうか〔或いは「牛で岩を耕すでしょうか」(筆者挿入)〕。これは聞くだけ愚かなことですが、あなたがたのやっていることより愚かなことはありません。正義をあざけり、良いこと、正しいことを腐敗させ、堕落させているではありませんか。”と意訳しています。

 主(ヤハウェ)なる神様は、ご自身が教えられた律法をあざけり、それと反対のことをするというのは愚かさの極致であると語られているのだと思います。

 13節には、「あなたがたは、ロ・ダバル〔ロ・デバル(口語訳、岩波訳)〕を喜び、こう言う。「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか」と。」(新改訳2017)と記されています。
「ロ・デバル」は地名です(2サムエル94.5)。
「ロ・デバル」について、岩波訳の注は、「ガリラヤ湖の南、東ヨルダンにある地名で、ダン部族の境界にある町として知られていたようである。」と述べています。
「ロ・ダバル」の「ロ」はnotの意で、「ダバル」(ダーバール)は言葉、物質、事柄、・・等の意があります。新共同訳は、この箇所を「お前たちはロ・ダバル(空虚)を喜び、」と訳しています。
ヘブライ語は子音字で単語ができており、それに母音記号を付けて読みますが、母音記号を付け無い文章もあります。そのような文章では、ロ・ダバルもロ・デバルも同じアレフベート(アルファベット)文字の羅列になるのです。
主(ヤハウェ)なる神様は、それを利用して同じ子音字の単語を異なる意味で用いて皮肉を言ったりすることがあるのです。聖書の中には何箇所もあります。

 「カルナイム」について、岩波訳の注は、“「二本の角」の意。東ヨルダンの町で、ロ・デバルと同じようにヤロブアム二世がアラムから奪還した町で、アシュテロト・カルナイム(創世記145)とも呼ばれていた。二本の角を帯びた女神の町で、ロ・デバルと同様に異教に喜悦するイスラエルに対するアモスの痛烈な皮肉が込められていると思われる。”と述べています。
主に対して高ぶっている人にとっては皮肉にも取れますが、主のみ前にへりくだる人にとっては大いなる警告であり、「あー、そうだなー、」と思い、悔い改めるチャンスにもなります。悔い改めに導かれた人にとっては恵みです。
アモスが語っていますが、主(ヤハウェ)なる神様の御言葉です。

 ヤロブアム二世は、ソロモン時代に所有した土地の中から、これまで他国に奪われていった土地を次々と奪還していきました。そしてヤロブアム二世は、「俺は偉大だ」と意気揚々としていたのだと思います。主は、それを「ヤコブの誇り」(8)と述べています。

 実際は、主がイスラエルを憐れんで、奪われた土地を回復してくださったのです。
2
列王記1425-27には、
25 彼〔ヤロブアム二世(筆者挿入)〕は、レボ・ハマテ〔ハマテの入り口。ハマテは現シリアのハマー(筆者挿入)〕からアラバの海〔死海(筆者挿入)〕までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。”(新改訳2017)と記されています。

 ヤロブアム二世は、主に栄光を帰すことなく、すべてを自分の手柄とし、おごり高ぶったのだろうと思います。
 13節をリビングバイブルは、相当意訳して、「また、無に等しい者なのに、愚かにも、偉い者であるかのように喜びます。ちっぽけな力をたいそう自慢しています。」と記しています。

 それに対する主の処罰が、アモス614に、「しかし、イスラエルの家よ、今わたしは、あなたがたに敵対する一つの国を起こす。──万軍の神、主のことば──彼らはレボ・ハマテからアラバの水無し川まで、あなたがたを虐げる。」(新改訳2017)と預言されています。
北イスラエル王国全土をアッシリア軍が踏みにじるという預言です。

 イスラエルは、主によって救われたのです。
霊的に盲目になっていたイスラエルの人たちには、それがわかりませんでした。

 現代の教会にも、色々な事柄で困難を抱えた人が来ます。
その人たちが主に祈り、主が助けてくださって、苦難から解放されると、中には教会を去って行く人がいます。そして、その苦難からの解放も、主がしてくださったとは思わなくなります。良いことは、自分が頑張ったから、自分が優れていたから、とすり替えてしまうようなことまで起こります。
そのような在り方は災いを招くかも知れないということを今日の箇所は教えてくれているような気がします。
すべてのことを主に感謝して歩む人達は幸いです(1テサロニケ518)。人が不幸と思えることでさえ、主は益にしてくださるからです(ローマ828)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
聖書を通して、あなたは、「すべてのことを感謝しなさい」と教えてくださいました。
物事を深く霊的に捉えて、すべてのことを感謝しつつ歩む生涯を送ることができますよう祝福してください。
我が主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年3月28日 (土)

ホセア13:1―3 エフライムに対する主の裁き(エフライムの終わりの預言)1/まず神の国とその義とを求めよ

 ホセア131を、
 新改訳2017は、「エフライムは震えながら語ったとき、イスラエルの中であがめられた。しかし、バアルのことで咎ある者となって死んだ。」と訳し、
 新共同訳は、「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。」と訳し、
 聖書協会共同訳は、「エフライムが語ると、人々〔訳者挿入(欄外注)〕は恐れ、彼はイスラエルの中で地位を高めた〔直訳「高められた」(欄外注)〕。だが、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。」と訳しています。

 北イスラエルは10部族からなっていましたが、その中心部族はエフライムでした。
北イスラエル王国を樹立した人は、エフライム族出身のヤロブアム(一世)です(1列王記11261220)。
ヤロブアムは、ソロモン王に仕えていた有能な人であったのですが、シロ人の預言者アヒヤの言葉によってソロモン王に反逆した故、ソロモン王から追われました(1列王記1126-40)が、やがてソロモンの子レハブアムの時代に北イスラエルの王となったのです(1列王記121-20)。

 預言者アヒヤとヤロブアムの出会いの時の情景が、1列王記1129-31aに、「29 そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。彼ら二人だけが野にいた。30 アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、31 ヤロブアムに言った。」(新改訳)と記されています。 

 ヤロブアムは、預言者アヒヤからなんと言われたのでしょう。
ヤロブアムは、預言者アヒヤから、「31 ・・。イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。32 ただし、ソロモンには一つの部族だけ残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ都、エルサレムに免じてのことである。33 というのは、人々がわたしを捨て、シドン人の女神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アンモン人の神ミルコムを拝み、父ダビデのようには、わたしの目にかなうことを行わず、わたしの掟と定めを守らず、わたしの道に歩まなかったからである。34 しかし、わたしはソロモンの手から王国のすべてを取り上げることはしない。わたしが選び、わたしの命令と掟を守った、わたしのしもべダビデに免じて、ソロモンが生きている間は、彼を君主としておく。35 わたしは彼の子の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。36 彼の子には一つの部族を与える。それは、わたしの名を置くために選んだ都エルサレムで、わたしのしもべダビデが、わたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。37 わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。39 このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。』」(新改訳2017)という主の御言葉を聞いたのです。

 ヤロブアムはアヒヤから、「37 わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。38 もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与える。」という主の御言葉を聞きましたが、
ヤロブアムの心に留まった言葉は、「このために〔忌むべき偶像礼拝のために(筆者挿入)〕、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。」(39)という言葉であったのではないかと思います。
 
 上記の38節の部分のヤロブアムへの主(ヤハウェ)の約束、その約束を信じる主(ヤハウェ)への信仰が、ヤロブアムにはなかったのでしょう。そして、「永久に続くことはない」という言葉が残ってしまったのでしょう。
ヤロブアムは偶像を造ってイスラエルの人々に拝ませるという方法を取ったのです。主の御言葉全部が心に留まっていて、かつ、主への信仰があれば心配する必要はなかったのですが、1列王記1225-33には、
25 ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを築き直し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを築き直した。26 ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。27 この民が、エルサレムにある主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」28 そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」29 それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。31 それから彼は高き所の宮を造り、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。32 そのうえ、ヤロブアムはユダにある祭りに倣って、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でささげ物を献げた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえを献げた。また、彼が造った高き所の祭司たちをベテルに常駐させた。33 彼は、自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえを献げた。このように、彼はイスラエルの人々のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえを献げ、香をたいた。”(新改訳2017)と記されています。

 北イスラエルの初代の王ヤロブアムによって、金の子牛の偶像礼拝が導入されました。これだけでも大いなる罪です(出エジプト321-335)。
 北イスラエルの7代目の王アハブはさらにより一層主に対して悪を行いました。
1
列王記1629-33には、
29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目に悪であることを行った。31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪〔金の子牛礼拝(筆者挿入)〕のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りを引き起こすようなことを行った。”(新改訳2017)と記されています。

 ホセア131をリビングバイブルは、「かつては、イスラエルが何か言うと、国々は〔訳者挿入(筆者挿入)〕恐れのあまり震え上がったものです。イスラエルが強力な君主だったからです。ところが、イスラエルはバアルを拝んで、滅びを決定的なものにしました。」と意訳しています。
 
 北イスラエル王国の末期に預言者として立てられたホセアの時代、人々は自分のために偶像を造ったのです。
 ホセア132を、
聖書協会共同訳は、「今も、彼らは罪を重ね、自分たちのために銀の像を造る。偶像はすべて職人たちの巧みな技。彼らは言う。『いけにえを献げる者たちは〔別訳「人を献げる者たちよ」(欄外注)〕子牛に口づけせよ。』」と訳しています。
「いけにえを献げる」と訳された語の原語は二語で、「ザーバハ アダム」で、人を殺す、人を献げ物として捧げる、という意で、人身御供です。

 このようなことをしていた北イスラエルへの宣告が、3節に、「それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のようになる。打ち場から吹き散らされる籾殻のように、また、穴から出る煙のようになる。」(新改訳2017)と預言として記されています。
 岩波訳は、「それゆえ、彼らは朝靄(あさもや)のようになり、露のように朝早く消え去る。もみがらのように麦打ち場から吹き散らされ、煙のように窓から〔消え去る(訳者挿入)〕。」と訳しています。
北イスラエルがバアルを礼拝したのは豊かになるためであったのですが、その偶像礼拝のゆえに北イスラエル王国は滅びるという預言です。

 イエス様は、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(新改訳2017)と言われました。
リビングバイブルは、「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
日本は偶像大国です。
しかし私たちは、主なる神様を第一とし、主のみ旨に叶った歩みをしたいと望んでいます。主が助け導いてくださいますように。
あなたは、あなたに信頼し、あなたのみ旨に従って歩む者には、必要なものをすべて与えてくださるお方ですから、御名を崇めて感謝します。
主を賛美しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年3月13日 (金)

ホセア7:13―16 イスラエルの罪/いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する歩み

 ホセア7:13-16には、
13 わざわいだ、彼らは。わたしから離れ去ったのだから。彼らは、踏みにじられるがよい。わたしに背いたのだから。わたしが贖い出そうとしているのに、彼らはわたしに向かってまやかしを言う。14 心からわたしに向かって叫ばずに、自分たちの床の上で泣きわめいている。穀物と新しいぶどう酒のためには群がって来る。しかし、わたしからは離れて行く。15 わたしが訓戒し、彼らの腕を強くしたのに、このわたしに対して悪事を企む。16 彼らはいと高き方に立ち返らない。彼らは欺きの弓のようだ。彼らの首長たちは、ののしったために剣に倒れる。これはエジプトの地で、嘲りのもととなる。」”(新改訳2017)とあります。

 主は、イスラエルを、奴隷とされていたエジプトから救い出し、律法を与え、荒野を経て、カナンの地に入らせ、その地を所有させました。兎に角、ねんごろに面倒を見、育ててきたのです。しかしイスラエルは、その恩に感謝することなく、主の仰せに従うことなく歩むようになったのです。

 この箇所で主(ヤハウェ)は、イスラエルの悪を次のように挙げています。重複している箇所もありますが、それだけ主の心が痛んでいるのであろうと思います。
 ①主から離れ去ったこと。
「彼らは。わたしから離れ去った」(13
 ②主に罪を犯したこと。
「わたしに背いたのだから」(13・新改訳・新共同訳)、「わたしに罪を犯した」(口語訳、リビングバイブル、文語訳)
 ③主に偽りを言うこと。
「わたしに向かってまやかしを言う」(13・新改訳)、「偽りを言う」(口語訳、新共同訳)
 ④主に願い求めないこと。
「心からわたしに向かって叫ばずに、自分たちの床の上で泣きわめいている。」(14・新改訳)、「彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び」(新共同訳)
 ⑤主を求めているのではなく、自分たちのこの世的なor物質的なご利益のためだけに主を利用すること。
「穀物と新しいぶどう酒のためには群がって来る。しかし、わたしからは離れて行く。」(14)、
「穀物と新しいぶどう酒の時期には集まる〔直訳「寄留する」(聖書協会共同訳欄外注)〕が。私には背を向けたままだ。」(聖書協会共同訳)
 ⑥主から離れたままであること。
「わたしからは離れて行く」(14・新改訳2017)、「私には背を向けたままだ」(聖書協会共同訳)
 ⑦主が良くしてあげたのに、主に対して悪事を企むこと。
「わたしが訓戒し、彼らの腕を強くしたのに、このわたしに対して悪事を企む。」(15

 この箇所を読むと、受難週の火曜日に、イエス様が、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。」(マタイ2337.38・新改訳2017)と語られた箇所を思い浮かべます。

 イエス様は神のことばを語り続け、数え切れないほどの奇跡を行い(ヨハネ2125)、人々に良くしてあげたにもかかわらず、イエス様を受け入れない人たちが多くいたのです。多くのイスラエルの民が求めていたのは地上の御利益であったからです。
地上の御利益を主に求めることは悪いことではありません。主はそのような祈りにも応えられることが多いです。特に、必要な物であれば、応えられます(マタイ625-33、ピリピ419)。
しかし、物質的なご利益ではなく、主ご自身を求めることが何よりも大切なのです。主ご自身を求めることを主は喜ばれます。主は、心の扉を開いてもらいたいのです。
黙示録320には、「見なさい。わたしは戸の外でたたいています。その呼びかけに答えて戸を開ける人なら、わたしは中に入って、だれとでも親しく語り合います。そして、互いに楽しい時を過ごすのです。」(リビングバイブル)と記されています。

 また、イエス様を心の中にお迎えする人は、神の子どもとされるのです。
ヨハネ112.13には、「・・・、この方〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである〔初めのことではなく、二度目の誕生のことを言っています(筆者挿入)〕。」(新改訳2017)と記されています。
それは「霊」の誕生です。
1
ヨハネ418には、「神から生まれた者〔「霊」のこと(筆者挿入)〕」(新改訳2017)とあります。これは、新しく生まれた「霊」です(ヨハネ33.6.7)。

 主を求めること、いつも主と共にあること、の重要性を覚えます。
それを主が望んでおられるからです。
主と共にある人は心配がないのです。
主は全能のお方、全知のお方、全き愛のお方である方です。
また、主は万物を所有しておられるお方です。
申命記1014には、「見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。」(新改訳2017)と記されています。
その主が霊的必要も物質的必要も満たしてくださるのです。
ピリピ419には、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(新改訳2017)と記されています。
また、ローマ828には、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・」(口語訳)と記されています。
世的な見方で、よく見えることも悪く見えることもすべてです。
実際には、主が万事を益にしてくださると分かることは、後に知ることもあります(ヨハネ137)。後になって、主は益にしてくださった、と分かる、ということです。
しかし、主は、見ずして信じる信仰を喜ばれます。得たor主は良くしてくださると信じて感謝することが大切です。
主は信じる者を良くしてあげようとしているので、すべてのことについて感謝しなさい、というのです(エペソ5201テサロニケ518)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(新改訳2017)とパウロに述べさせました。
いつも主に在って喜び、絶えず主に祈り、すべてのことを主に感謝しながら歩む生涯を送ることが出来るように整えくださり、み旨に叶った歩みをし続けることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2018年5月 4日 (金)

申命記29:29 主イエス様に信頼して歩む

29:29隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。”(口語訳1955
 この箇所を岩波訳は、「隠されている事柄は、われわれの神ヤハウェのものである。顕されていることは永久にわれわれとわれわれの子らのもので、この律法のすべての言葉を行うためである。」と訳し、
リビングバイブルは、「神様はすべてのことをお示しになったわけではありません。確かに、神様だけがご存じの秘密もあります。しかし、はっきり示されたことには、私たちも子孫も永遠に従わなければなりません。」と訳しています。

 「隠されている事柄は、われわれの神ヤハウェのものである。」とあります。
私たちは、何から何まで知っているわけではありません。それどころか、私たちの知っている事柄は、ヤハウェ(主)が知っておられることと比べたら、塵のようにかろうじて見ることができる程度のことでしかないでしょう。自分が明日どうなるのか、いやそれどころか30分後にどうなるのか、或いは10分後に大地震に襲われるのか、それさえも分からないのです。しかし、全てをご存知で、私たちを愛してくださっておられる主に、私たちが信頼して歩み続けることを、主は、私たちに期待しています。自分が置かれている環境状況に関わらず、主に信頼しきっている時、安らぎがあります。ダビデは、詩篇48で、「・・。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」(口語訳)と証しています。

 「隠されている事柄」を主は教えて下さることもあります。
ソロモンは、ヤハウェ(主)に、「あなたに何を与えようか、求めなさい。」と言われたことがありました。
その時、ソロモンは、ヤハウェ(主)に、「あなたはわたしの父ダビデに大いなるいつくしみを示し、またわたしを彼に代って王とされました。主なる神よ、どうぞわが父ダビデに約束された事を果してください。あなたは地のちりのような多くの民の上にわたしを立てて王とされたからです。この民の前に出入りすることのできるように今わたしに知恵と知識とを与えてください。だれがこのような大いなるあなたの民をさばくことができましょうか。」と願いました。
そうしたらヤハウェ(主)は、ソロモンに、「この事があなたの心にあって、富をも、宝をも、誉をも、またあなたを憎む者の命をも求めず、また長命をも求めず、ただわたしがあなたを立てて王としたわたしの民をさばくために知恵と知識とを自分のために求めたので、知恵と知識とはあなたに与えられている〔あなたに知恵と識見が授けられる(新共同訳)〕。わたしはまたあなたの前の王たちの、まだ得たことのないほどの富と宝と誉とをあなたに与えよう。あなたの後の者も、このようなものを得ないでしょう。」と言われたのです(2歴代誌17-12・「 」内は口語訳)
ソロモンは、必要な知識や知恵をヤハウェ(主)に求めて与えられたのです

ソロモンは、箴言に、「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。」(252・新改訳2017)と記しています。キリスト者は、「王たちです」。それは、黙示録16に、「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった」(新共同訳)と記されている通りです。
パウロは、「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」(コロサイ19.10・口語訳)と祈り求めている、と記しています。
それ故、パウロのように祈り求めた人は、かつては神にのみ属した事柄の内のいくつかを与えられたかもしれません。

  「顕されていることは永久にわれわれとわれわれの子らのもので、この律法のすべての言葉を行うためである。」とあります。
律法を熱心に行おうとすればするほど、罪を犯さずに生きることの出来ない自分を発見するのです。
パウロは、むさぼりの罪を深く感じた人です(ローマ77.8)。そこからかどうかは分かりませんが、律法はイエス・キリストを信じて救われるための養育係であると知りました。パウロはガラテヤ人への手紙に、「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(324・新共同訳)と記しています。

 私たちも、御霊に罪を照らされ、御霊に、イエス様を信じれば救われる、と教えられ、救われたいと望み、御父から、イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、イエス様を自分の主、救い主と信じて救われたのでした(ヨハネ168-10、マタイ771コリント123、エペソ28、マタイ1617、ローマ109.10)。(救われる経過は色々ですが)

 実に、律法を全うできたお方は、ただイエス様だけでした。ペテロは御霊によって、キリストは罪を犯したことがない、と記しています(1ペテロ2222テモテ316)。
パウロは、コリント人への手紙Ⅰで、「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」(130・新改訳2017)と述べています。御父は、キリストの内に在る私たちを、キリストを通してみて下さっておられます。私たちは、キリストに在って義なのです。
新共同訳は、2コリント521に、「罪と何のかかわりもない方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」と記しています。エペソ29には、「行いによるのではありません。」と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さり感謝します。
私たちをこよなく愛してくださっておられるあなたは、私たちがあなたを愛し、あなたに信頼して歩み続けることを願っておられます。
如何なる場合にも、あなたの愛を豊かに感じながら、あなたを愛し、あなたに信頼して歩み続けていけますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年7月 9日 (日)

主と共に歩む

*これは礼拝メッセージの概略です。

テサロニケⅠ 51-18を交読しました。51-4.9は、1テサ413-17を受けています。

主イエス様は、約二千年前に一度来られましたが、やがてまた来られます。
それをキリストの再臨と言います。
再臨は二種類あります。
キリスト者が待っているのは、キリストの空中再臨です。その数年後に、キリストの地上再臨があります。

それがどのような時なのか、ということについては、聖書の色々な箇所に記されていますが、この箇所もその中の一つです。

 創世記521-24とヘブル115を司会者が読んでくださいました。
その箇所には、「エノク」という人物が記されています。
エノクの人生は65歳から変わりました。65歳から神と共に歩んだのです。
恐らく神様はエノクに死ぬことなく天に移される、ということを語られたのではないかと推測します。
なぜそのように推測するかというと、それはヘブル11章全体を読んでの推測です。
神様は、エノクが主と共に歩んだので、大いなる恵みを与えられたのではないかと想像します。

 さて、1テサロニケ518の後半には、「これが、キリスト・イエスにあって(in Christ Jesus)神があなたがたに望んでおられることです。」と記されています。
1テサロニケ512-18に記されている内容から、神様が私たちに望んでおられる歩み方とはどのようなものかを学びたいと思います。その中の16-18節のおことばは、ほとんどの人が暗唱している聖句ではないかと思います。
 ①12.13節を再読します。
この箇所は指導者と教会員の関係のあり方が書いてあります。
ⓐ教会員は教職者と平和を保ちなさい(13)、
ⓑ教会員の間で労苦し主に在って(in the Lord)指導し訓戒している教職者・指導者などの人々を認めなさい(12)
教会員は教職者の務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい(13)
と記されています。
指導者のことが書かれていない、と不満に思われる信徒の方がいるかもしれませんが、聖書にはしっかりと書かれています。
その中から一つだけ1ペテロ52.3を記しますと、「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って(as God wants you)、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。

 ②14.15節を再読します。この箇所は対人関係について記しています。

14節には、「気ままな者」、「小心な者」、「弱い者」に対して異なる対処の仕方が書いてあります。

14節の最後と15節には、すべての人に対して、「寛容でありなさい」、「悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい」、「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」と記されています。

 ③ほとんどの方が知っている16-18節を再読します。このおことばの実行は幸せに生きることのできる秘訣です。
ⓐ「いつも喜んでいなさい」とか「すべてのことについて、感謝しなさい」という命令は、喜べない、感謝できない、と思えるような状況の中にあるときにはとても難かしことです。
「喜び」は御霊の実です。ですから、御霊に満たされている状態にあったら、普通の人が、喜べない、と思えるようなときでも、主に在って(in the Lord)喜べるのです。
またある人は、「神様が、いつも喜んでいなさい、と言われる以上、喜べないことも喜べるようにしてくださる(変えて下さる)はずだから、そうしてくださったことを想って喜ぼう。」と述べていました。これは信仰による先取りです。
艱難さえも喜べる、感謝できる、という箇所が聖書にはあります。
ローマ51-5節を読んでみましょう。ヘブル125-11も参考になります。
また、ヨハネ1010の後半には、「わたし(イエス)が来たのは、いのちを、あふれるほど豊かに与えるためです。」(リビングバイブル)と記されています。
私たちは、あふれるほどの恵みを頂けるのです。
エペソ13には、「・・・。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」とあるのですから。
但し、神様が与えたよ、と言われるものは、信仰によって引き出してくる必要があるのです。
兎に角、いつも主に在って喜んでいる人、すべてのことを主に感謝している人は本当に幸いな人です。主のみ心の内を歩んでいるのですから。

 ⓑ絶えず祈りなさい、と17節に記されています。
絶えず祈っていたら、人とお話も出来ないし、寝ることも出来ない、と考える人がいるかもしれません。
祈りは主との交わりです。
他者と会話をしながらでも心の中で祈ることはできます。

詳訳聖書は、この箇所を、「たゆまず祈り〈忍耐強く祈り〉なさい。」と訳しています。

ぐっすり眠っている間は祈っているという意識はありませんが、夢の中で祈っている、という経験をお持ちの方はいるでしょう。
また夢の中で、おことばの解釈を教えられるということも、ときにはあります。
すべて主との交わりです。

またある方は、「絶えず信頼しなさい」の意を指しているのではないだろうか、と述べています。

少し前の節に戻りますが、8節には、「・・、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」とあります。この節には、「信仰」と「愛」と「望み(希望)」という語が出てきます。
また「慎み深く」と訳されている原語は、
νφω で「思慮深い(く)」の意もあります。
 段々と再臨が近づいてきているように私には思えます。キリストの空中再臨がいつなのか、ということにとらわれることなく、エノクが主と共に歩んだように、主と共に歩むことの必要性をより一層強く思う今日この頃です。

 <お祈り>天のお父様。
あなたの聖なる御名をほめたたえます。
御霊によらずして、あなたのおことばに従って歩むことはできません。ですから、いつも御霊に満たされて歩ませていただけますように。そのようにして、いつもあなたを崇め、あなたを愛し、隣人を愛し、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝し、あなたが導いてくださる方をあなたのもとへお連れし、あなたが与えて下さる11日を主と共に歩み続ける者であらせてください。
御名を崇め、感謝して、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2016年7月10日 (日)

真の平安は神様から(エペソ1:1.2)

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1
節は、差出人と宛先が記されています。差出人はパウロ。宛先はエペソの聖徒たち。

2節には、挨拶が記されています。
手紙の書き出しの挨拶といっても、その内容はとても深いものがあります。
 パウロの使徒の任命について:パウロは、ガラテヤ11で、「私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」と述べています。

 聖徒について:聖徒とは一言でいうとイエス様を信じたことによって新しく霊を誕生させていただいたクリスチャンのことです。聖徒とは、「聖別され、選び分かたれた人」の意です。
新キリスト教辞典によると、「
新約聖書では,信者たちは,その霊的,道徳的状態の善し悪しにかかわらず,すべて聖徒と呼ばれている(Ⅰコリント1:2,ピリピ1:1,コロサイ1:2等).*パウロはコリントの信者たちに対して「あなたがたは…肉に属している」(Ⅰコリント3:3)と言明しているが,しかし同時に,「あなたがたは…聖なる者とされ,義と認められた」(Ⅰコリント6:11)とも言っている.また,この手紙のあいさつの部分でも,パウロはコリントの信者たちを「聖徒として召され,キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」(同1:2)と呼びかけている.ヘブル人への手紙の記者は「イエス・キリストのからだが,ただ一度だけささげられたことにより,私たちは聖なるものとされている」(ヘブル10:10)と語っている.さらに主イエスは「あなたがたは,わたしがあなたがたに話したことばによって,もうきよい」(ヨハネ15:3)と明言しておられる.しかし,これは,新約の信者たちが罪を犯すことのない完全に聖い者であるという意味ではない.聖徒たちの聖さの原因は彼ら自身にあるのではなく,イエス・キリストの聖さのうちにあり,*十字架の*血による聖めによるのである(Ⅰコリント1:30,Ⅰヨハネ1:7).人間は自分できよくなることはできない.人間がきよくなるためには,神がその人をきよくされなければならない.だから,聖徒はその身分を自分で獲得するのではなく,神の召しによって与えられるのである(ローマ1:7).」とあります。

 2節を口語訳聖書は、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」と訳しています。
新共同訳聖書は、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と訳しています。
詳訳聖書には、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから〔来る〕恵み<功績によらない神の愛顧>と霊的平和<即ち神との平和、また、調和、和合、平穏>があなた方のものでありますように。」と解説を加えて訳しています。
 詳訳聖書の「恵み」の解説に、<功績によらない神の愛顧>とあります。
まさに、働きとは一切関係ないところの神様の一方的な愛に基づく顧みです。その極致はキリストの十字架と復活です(特殊恩寵)。
イエス様を信じていない人にも神様の恵みは与えられているのです(一般恩寵)。生存に必要なすべて物はすべて神様からの恵みです。イエス様は、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:46)と語られました。
 平和について:神との平和はイエス・キリスト様を抜きにしてはあり得ません。ローマ5:1には、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と記されているとおりです。
 平安について:心の平安を得るためにいろいろな方法が提示されています。
私は、イエス様の救いに与る前、いろいろな方法を試してみました。
救われる前の私は、進化論を信じていましたから、霊、魂については心の目が開かれていませんでした。まさに、命に関しては唯物論的でした。ですから、死んだら体を構成していた原子は他のものに使われていくだけであり、自分の大脳にある意識は残らない、と思っていました。それはとてもむなしいことでした。原子は流転していくだけだ、ということにして自分を納得させようとしていたころもありました。しかし、本当は死んで無になりたくないのです。仏教の解説書などもいろいろ読みました。その時は一時の平安が与えられましたが、それも永続するものではなかったのです。妻に誘われて教会に出席しました。二回目に教会に行ったときに、その日、開かれた聖書の個所は、ヨハネ10章でした。牧師がヨハネ10:9の「私は門です。」と聖書を読まれたとき、私の頭の中に、「イエス様を信じればよいのだ。」という思いが沸き上がったのです。イエス様を信じました。その結果、死に対しての恐れはなくなり、永続する平安が与えられたのです。
「真の平安」の与え主は、エペソ1:2には、父なる神様と主イエス・キリスト様であると記されています。

死に対して、病に対して、対人関係に対して、経済的なことに対して、仕事に関して、あらゆることに対して、三位一体の神様こそが平安の与え主であり、そればかりか、クリスチャンの内に住まわれる聖霊はクリスチャンに聖霊の実としての平安を実らせてくださるのです。
☆1.平安のないとき、祈ることによって平安は与えられます。
(ピリピ4:6.7)「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
☆2.主に信頼するとき平安に包まれます。

(イザヤ263)「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」
「志の堅固な者」=神様に堅固に即ちしっかり留まり続ける者
☆3.内側からの御霊の実としての平安。

(ガラテヤ522.23)「・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。・・」→(ヨハネ1427)「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます(この状態は御霊の実によることでしょう)。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
心を騒がせた状態は信仰の欠如した状態です。しかし、私たちはすぐに心を騒がせるのです。信仰に立っていない状態に気づいたら、すぐに天地万物の主である主権者イエス様に心を向けなおすのです。それでも信仰に立てない時は、100%主に信頼する信仰を与えて下さい、と祈るとよいと思います。その祈りを邪魔される場合、邪魔しているのがサタンであれば、その時には、「サタンよ、主の御名によって立ち去るように命じる。」と命じなければ解決しないのです。

☆4.優しいイエス様は、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ141)と優しく語ってくださることもあります。そして、信仰を与えて下さるのです。
信仰は与えられます。
(ローマ123)に、「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量り〔度合(新共同訳)〕に応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とありますが、必要な時には信仰の分量を増加させていただけるようにお願いすればよいのです。
(ガラテヤ311)に「信仰による義人は生きる」(欄外:別訳)、「義人(義とされた人=キリスト者)は信仰によって生きる」とあります。
主なる神様は、主に信頼して生きる人を喜ばれます。
                                 20160710礼拝メッセージ概要

2015年8月29日 (土)

ルカ4:1-13 サタンの誘惑(サタンとの戦い方)

4:1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、
4:2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて〔導かれて(新改訳)〕、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
4:3そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。
4:4イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。
4:5それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:9それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。
4:10『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、
4:11また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。
4:12イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。
4:13
悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。”(口語訳)

 私たちキリスト者は天に帰るまで、サタンとの戦いがあります。
1ペテロ5:8.9では、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(新改訳)と聖霊なる神様はペテロに書かせました。
 また、ヤコブ4:7では、「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は逃げ去ります。」(新改訳)と聖霊なる神様はヤコブに書かせました。
 また、エペソ4:27では、「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(新改訳)、エペソ6:11.12では、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(新改訳)と聖霊なる神様はパウロに書かせました。
 また、1ヨハネ3:8では、「・・・。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(新改訳)と聖霊なる神様はヨハネに書かせました。

 サタンはキリスト者の肉的魂の知性(思い、思想、考え・・・)、更には感情(怒り、嫉妬、妬み、猜疑心、・・・)、更には意思(神のみ旨に反することを選び取る意思)というような魂の内の実質的な聖めを受けていない領域を足掛かりに常に戦いを挑んできます。蛇足になりますが、キリスト者は立場的には神のものとされています(神のものとして聖別されています)。
サタンは、攻撃する対象者に、イエス様のように罪という足掛かりが無い場合であっても、罪を犯させようと誘惑さえしてきます。一般的には善行と思われているようなことを用いてさえ、サタンはキリスト者を罪に誘惑してきます。
サタンは、キリスト者に罪を犯させ、神様との交わりを絶たせ、力を失わせることに日夜力を注いでいます。
今日の聖書個所だけではなく、ヨブ記1章、ゼカリヤ3章も参考になります。

 へブル4:12に、「私たちの大祭司〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(新改訳)と記されています。
私たちは、イエス様は特別だから、とは言えないのです。
イエス様は、地上で肉体をまとって歩んでいた間は、神であることを脇において、人として御霊によって歩んだのです。肉体を持たれた最大の理由は贖いの為ですけれども、それだけではなくキリスト者の模範となられるためでもありました(1ペテロ2:21、ヨハネ14:12.16.17)。パウロは、イエス様を模範としていました(1コリント11:1)。

 1-4節には、“さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて〔導かれて(新改訳)〕、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。”(口語訳)と記されています。

 主イエス様は、40日間の断食をしました。40日が過ぎ、空腹になられたとき、サタンは、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい。」と誘惑してきました。人間は石をパンにすることはできませんが、イエス様にはできることをサタンは知っていました。
それに対してイエス様は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:4・新改訳)と答えたのです。
ここに記されている「ことば」は、「レーマ」(ギ)です。「レーマ」とは神様が語られる(た)ことばです。
御父が「石をパンに変えよ」と言えば、イエス様は、石をパンに変えたでしょう。
イエス様は、「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10・新改訳)と語られています。
御父のみ旨であれば、五つのパンと二匹の魚で、男5000人+女たちと子供たちを満腹にさせたのです。この時に余ったパンは12のかごにいっぱいあったのです。(マタイ14:13-21)

 5-8節には、“それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。”(口語訳)と記されています。

 サタンが、イエス様に、サタンにひざまずくなら、世界の権威と栄華を与えると言ったのです。人類の始祖アダムの堕罪により、世界を支配する権威は人からサタンに移ってしまいました。1ヨハネ5:19には、「全世界は悪い者の支配下にある」(新改訳)と記されています。罪に落ちる前のアダムに、神様は、「・・・。地を従えよ。・・・」(創世記1:28)と仰せになりましたが、アダムの堕罪により、地を従える権威はサタンに移ったのです。ただし、蛇足になりますが、キリスト者は神からの者です(1ヨハネ5:19)。

 イエス様は天においても地においても一切の権威を持っておられます(マタイ28:18)が、イエス様が全世界を政治的に統治なさるのは、神様の経綸によれば、キリストの千年王国の時代になってからのことです。この時のイエス様は、サタンが、「私を拝めば」といったことを取り上げ、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」という聖書のおことばによってサタンを退けました。

 またサタンは、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。」とイエス様に言っています。イエス様はこの言葉を否定されませんでした。ダニエル10章(10:13)はこのことを理解する助けになります。
政治に関することを祈るときも、キリスト者でなければできないことは、政治家の背後にいるサタンに対する対処だろうと思います(エペソ6:12)。目に見えない世界なので、理解できない人たちからは理解してもらえないでしょうが。しかし、キリスト者(聖霊が内住している本当のキリスト者)が、携挙で天に引き上げられる(1テサロニケ4:16.17)とこの世は一気に悪魔化するのです(2テサロニケ2:6参考)。

 9-13節には、“それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。”(口語訳)と記されています。

 今度は、サタンは、詩篇91:11.12の「『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』」というおことばを用いてイエス様を試みてきました。
神様がご自身のみ旨に基づいて御使いに命じたときであればこの詩篇のみことばは実現するでしょう。
常に御父のみ旨を第一にするイエス様です。
サタンに対して、「主なるあなたの神を試みてはならない」というおことばを用いてサタンを退けたのです。

 イエス様は、申命記6:13の「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、・・・なさい。」(新共同訳)、申命記6:18の「あなたがたの神、主を試みてはならない。」(新改訳)、申命記8:3の「・・・人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる・・」(新改訳)等のおことばを用いてサタンを退けたのです。

 パウロは、エペソ6:10-18に
“6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。”(新改訳)と記しています。
 主イエス様は、御子としてではなく、聖霊に満たされた人の子として、「御霊の与える神のことば」によってサタンを退けたのだと思います。イエス様が神の子としての権能をもってサタンを退けたとしたら、私たちの模範とはなりませんから。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに従い、主イエスの御名と御霊が与えてくださるあなたのおことばによって、常にサタンに勝利していく者であらせてください。
イエス様の十字架と復活により、必ず勝利することが出来る時代にいかされておりますことを感謝します。
天においても地においても一切の権威を持っておられる主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
ハレルヤ!

2015年7月11日 (土)

詩篇125篇 主に信頼する者を主は守られる

“都もうでの歌
125:1主に信頼する者は、動かされることなくて、とこしえにあるシオンの山のようである。
125:2山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。
125:3これは悪しき者のつえが正しい者の所領にとどまることなく、正しい者がその手を不義に伸べることのないためである。
125:4主よ、善良な人と、心の正しい人とに、さいわいを施してください。
125:5しかし転じて自分の曲った道に入る者を主は、悪を行う者と共に去らせられる。イスラエルの上に平安があるように。”(口語訳)

 3節の「つえ」は、支配の象徴。
エステル記4:11、5:2に、権威の象徴としての王の笏(杖)が次のように出て来ます。
“4:11 「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」
5:2 王は庭に立っている王妃エステルを見て、満悦の面持ちで、手にした金の笏を差し伸べた。エステルは近づいてその笏の先に触れた。”(新共同訳)
ローマ教皇も杖を持っています。中世ヨーロッパの君主の杖を持っている絵画を見ることもあります。

 5節の「転じて自分の曲った道に入る者」とは、背教した者のことです。

 2節に「山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。」とあります。
2列王記6:12-18に次のような記述があります。
“6:12 すると家来〔敵軍アラムの家来(筆者挿入)〕のひとりが言った。「いいえ、王〔アラムの王(筆者挿入)〕さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
6:13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。
6:14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
6:15 神の人〔エリシャ(筆者挿入)〕の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。”(新改訳)

 聖書に記されているわけではありませんが、キリスト者を守られる天使の話は近代、現代でもあります。ただし、神様が見せられた人にしか見えません。
ヘブル1:14には、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」(新改訳)とあり、また「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18:10・新改訳)というイエス様のおことばもあります。

 主に信頼する者は幸いです。主に信頼する人は平安を持って歩むことが出来ます。
1-3節を新改訳で再掲します。
“125:1 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。
125:2 山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
125:3 悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。”

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつも、いつまでも、如何なる環境にあっても、聖にして全能、全知、全愛、義なるあなた様に信頼して歩み続けていくことが出来ますよう祝福してください。
あなたはいつも、あなたからご覧になって、私に対して最善をなさって下さっておられますことを信じ、主イエス・キリスト様の御名によって感謝し、祈ります。
アーメン

2014年12月12日 (金)

詩篇37:25.26 生活を支えて下さる主

37:25わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない。
37:26正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。”(口語訳)

 新共同訳は、「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない、主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを。生涯、憐れんで貸し与えた人には、祝福がその子孫に及ぶ。」と訳しています。

 正しい人、即ち、主に従う人が食べていくのに困ってしまうことを見たことが無い、とダビデは言っています。

 神様は、出エジプトした民に、荒野において、食料であるマナを、毎朝、1日分だけ集めさせました。平日に2日分集めると腐ってしまうのです。マナは1日に食べられる分だけを集めさせたのです。多く集めて蓄えようとしても、翌朝までとっておくと、虫がわき、悪臭を放つのです。7日目は安息日ですから、神様はマナを降らせませんでした。ですから6日目は2日分集めるのです。その様にすることは神様の御命令です。6日目に2日分集めたマナは、虫もわかないし、腐らないのです。神様は、出エジプトした民が荒野で生活した40年の間、毎日この様にされたのです。(参照:出エジプト16章)
神様は、イスラエルの民を毎日養ってくださったと共に、信仰の訓練をされたのです。

 私たちも同じことを教えられます。
肉体の糧について、心配するのではなく、神さまにお従いすることが大切であると。
また、貪欲に集めたものは腐ってしまうと。
霊の糧についても、同じです。
霊の糧も、毎日頂いて食べる必要があるのです。
前日の分で、次の日も何とかしようとしていると、問題を生じてくる可能性があるのです。

 私たちは、神様が肉の目で見える形で現れて下さらなければ、肉眼では見えない神様、触覚では触れられない神様、肉の耳では声を聞くことの出来ない神様を信じています。(神様の語りかけをいつも体験しながら歩んでいる人も数多くいると思いますが)
この世は、出エジプトした民と同じように、荒野です。
この地上におかれている間、信仰によって歩むのです。天に行けば、見ずして信じる信仰を働かせる必要も無くなってしまします。地上にいる間は、全き愛に満ち満ちておられる神様、約束を必ず守られる神様に信頼して、その神様のおことばに信頼して歩み続けるのです。不安に陥った時は、信仰が後退しているのです。直ちに悔い改めて、主に信頼して歩み続けたいものです。

 主イエス様は山上の垂訓で次のように言われました。
“6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。”(マタイ6:24-34・新改訳)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます
あなたは、常に、私たちを愛して、心を配っていて下さいますからありがとうございます。
いつもあなたに信頼して、安らぎを持って、地上生涯を、あなたを賛美しながら歩んでいく者であらせて下さい。
不信仰に陥ることがないよう助けていて下さい。
感謝しつつ、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
 アーメン

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Ⅰヨハネの手紙 Ⅰ歴代誌 Ⅱ歴代誌 アモス書 イエス・キリストのことば イザヤ書 ウェブログ・ココログ関連 エステル記 エズラ記 エゼキエル書 エフェソの信徒への手紙 エペソ人への手紙 エレミヤ書 オバデヤ書 ガラテヤ コロサイ コロサイ人への手紙 ゼカリヤ書 ゼパニヤ書 ダニエル書 テトスへの手紙 テモテへの手紙Ⅰ テモテへの手紙2 ナホム書 ネヘミヤ記 ハガイ書 ハバクク書 ピリピ人への手紙 ピレモンへの手紙 ヘブル ヘブル人への手紙 ペット ペテロの手紙Ⅰ ペテロの手紙2 ホセア書 マタイによる福音書 マラキ書 ミカ書 ヤコブの手紙 ユダの手紙 ヨエル書 ヨシュア記 ヨナ書 ヨハネの手紙Ⅱ ヨハネの手紙Ⅲ ヨハネの福音書 ヨブ記 ルカ ルツ記 レビ記 ローマ人への手紙 伝道者の書 使徒の働き 信仰 共観福音書 出エジプト記 創世記 哀歌 士師記 平安 悪しき霊 救い 救いと裁き 救いの確かさ 救い・救われたい方へ 日ごとの恵み 日ごとの恵みXⅢ 日ごとの恵みⅡ 日ごとの恵みⅢ 日ごとの恵みⅣ 日ごとの恵みⅤ 日ごとの恵みⅥ 日ごとの恵みⅦ 日ごとの恵みⅧ 日ごとの恵みⅨ 日ごとの恵みⅩ 日ごとの恵みⅩⅢ 日ごとの恵みⅩⅣ 日ごとの恵みⅪ 日ごとの恵みⅫ 日毎の恵み15 日毎の恵み16 日毎の恵み17 日毎の恵み18 日毎の恵み19 日記・コラム・つぶやき 民数記 申命記 箴言 終末 終末預言 経済・政治・国際 聖化 詩編 趣味 雅歌 黙示録 黙示録(2回目) 1コリント 1サムエル記 1テサロニケ 1列王記 2コリント 2サムエル記 2テサロニケ 2列王記

カテゴリー

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ