ヘブル

2012年6月 6日 (水)

ヘブル12:14の翻訳から、<きよい生活を>

今朝、寝床の中で、新共同訳のCDを聞いていました。聞いている中で(ヘブル12:14)の新改訳と新共同訳の翻訳が違うことが心にとまったので、ほかの聖書も含めてここに残しておきました。

私の心の中には、新改訳の翻訳が入っています。今朝は、私にとって<きよい生活を追い求める>という訳が新鮮に感じられました。

<すべての人々との平和を、また聖別〔された生活〕を追い求めなさい。これがなくては誰も〔将来〕主を見ることがないであろう。>(岩波訳)

<すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。>(新共同訳)

<すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。>(新改訳)

<すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。>(口語訳)

<力めて凡ての人と和ぎ、自から潔からんことを求めよ。もし潔からずば、主を見ること能はず。>(文語訳)

<すべての人との『平和を追い求めよ』、また聖潔を。聖潔がなければ、だれも主にまみえることはできない。>(塚本訳)

<すべての人との平和と聖さとを求めなさい。聖さなしにはだれも主を見ることができますまい。>(前田訳)

“Pursue peace with all people, and holiness, without which no one will see the Lord”(

NKJV)

“Try to be at peace with everyone, and try to live a holy life, because no one will see the Lord without it.”(TEV)

2012年5月 8日 (火)

神はわれらの助け

<さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>(ヘブル4:14‐16)

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。>(詩編46:1-3)

信仰の成人は、<あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>というみことばは、心に浮かばないかもしれません。なぜなら、キリストの御名の中であらゆることについて祈りつつ歩んでいるからです。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17)というみことばが、その人の習い性になっているからです。しかし、救いの信仰を戴いてからしばらくの間は、<私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>というみことばは、励ましになるものです。

イエス様は神様だから私たちの苦しみはわからない、と考える人もいますが、イエス様は、私たち以上に強い誘惑と苦しみを味わった方であると思います。サタンからの誘惑がありました(マタイ4:1-11)。十字架の上では、全人類の罪をその身に負われました。全人類の罪の呪いを一手に引き受けたのです。また、神の子であるにもかかわらず、多くの人から認めてもらえなかったのみならず、ののしられ、罵倒されました。精神的な苦痛、肉体的な苦痛を数々受けてこられたのです。しかし、罪は犯されませんでした。

そのイエス様が、「私は、あなたの避け所だよ。また力だよ。苦しむときの助けだよ。」と言って下さるのですからありがたいことです。

主イエス様、あなたは、私たちのつらさを十二分に分かった上でその祈りを聞いてくださり、私たち一人一人に最善の助けを与えてくださいますから感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2012年5月 7日 (月)

神は何でも知っている

<神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。>(ヘブル4:12.13)

神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり
私たちは、私たち自身のことで気づいていないことがたくさんあります。しかし、神様はそれらのこともみんな知っているのです。
神様との関係が良い時は、何でも知られているからこそ安心していられる。と思えるのではないでしょうか。神のみこころにかなわないことをしているときは神が教えてくださいます。そうしたらそれを改めれば良いのですから。神様に叱られたら、「ごめんなさい」といって改めるしかありません。その結果は、いつも神様との良い関係です。

天のお父様、あなたは、いつも愛を持って導いていて下さいますからありがとうございます。あなたは、私のすべてをご存知です。あなたの御前にのびのびと生かして頂けますことを感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2012年4月30日 (月)

神様に対してへりくだっていて素直な人の幸い

<こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。>(ヘブル4:1-11)

・この聖書の箇所を読んでいて思うことの一つは、いつも神様に対して謙遜で素直な人は幸せだなーということです。

・また、相当前に書かれた聖書のみことばを神様は、現在に用いられるということです。<神は再びある日を「きょう」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。>とありますが、これは、ダビデを通してとあるように、このヘブル人への手紙が書かれた時から約1000年前に書かれたものです。そして、その御ことばは、現代の私たち一人一人にも語られています。神様は、時間を超越しておられる方なので私たちとは異なった感覚をお持ちなのだと思います。神様は、「私はある(現在形)」というお方ですから。

・ここの箇所に引用されている詩編95編を後半と前半を入れ替えて読んでみたいと思います。<7 きょう、もし御声を聞くなら、8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
・・・・・・・・・・・・・・
1 さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。3 【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。>

・天のお父様。あなたの御前に謙遜で素直であることはとても素晴らしいことです。どうぞ、万軍の主に対して敵対してしまうことなく、いつも、あなたに対して素直でいさせてください。また、神様が与えてくださっておられるみことばで、私に適用できるものは、そのみことばの書かれた時代が相当古かったとしても、その時代の人に語られただけではなく、現代この世にいる私にも語られたものであることを忘れないようにさせてください。主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月29日 (日)

みことばを信じることの重要性

<こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。>(ヘブル4:1-3)

・パウロは、(1コリント15:1-4)で次のようにキリストの十字架と復活を語っています。<兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、>

・みことばを聞いたときに、<信仰によって結びつけられ>ることが必要です。信仰によって結びつけられたとき、キリストの十字架と復活は、自分の為であったのだということがわかります。信仰によって結びつけられたとき、キリストを自分の心に迎え入れます。

・福音を聞いても救われない人がいます。信仰によって聞かずに、歴史上あったことなのか、あるいは作り話なのか、あるいは聖書はそんなことが書いてあるのか、あるいは知的に理解しただけでキリストを心に受け入れることをしないというような人は救われません

・みことばを信仰によって結びつけることは、信仰生活において極めて重要です。神様は、滅びからの救いに関する約束のほかに、驚くほど多くの約束を与えてくださいました。その約束を信じた人は、それを得ますし、信じない人は得ることができません。

・天のお父様、聖書の中にキリストによる救いの福音のほかに多くの約束が書かれています。神様が、私たちを祝福したくて与えてくださっておられる数々の約束のみことばを単純に感謝と喜びを持って信じていくことができますよう私をお整えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月28日 (土)

安息には入れなかった原因は不信仰

<ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。>(ヘブル3:7-19)

・この聖書の箇所は、出エジプトした民が神様の多くの奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、心の奥深い所では、神様を信じていなかったことを例に挙げて、ヘブル人キリスト者に警告を発しているところですが、私たちにとっても心を引きしめられる内容です。

・<・・御声を聞くならば・・・心をかたくなにしてはならない。>:私たちが、聖書を読んでいるとき、賛美しているとき、メッセージを聞いたり、読んだりしているとき、その他の場合の時もありますが、主は、私たちの心に語ってくれています。心刺された時ほど、心をかたくなにすることなく、心刺されたことを悔い改め、御父と御子イエス・キリストに対する信仰とを堅持する必要があることを教えられます。

・天のお父様、あなたが私の心に何かを示してくださったとき悔い改めることであれば、すぐに悔い改め、いつでもあなたとの隔たりを作ることなく歩ませて頂けますようお願いします。いつも主に信頼し、不信仰に陥ることのないように、反って信頼しずらいようなときであればあるほど、主に信頼して歩むことができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

2012年4月27日 (金)

私たちは神の家

・キリストは、神の家[教会]を忠実に治められるということです。
・神の家とは、神が住んでくださる建物です。
・神の家であるためには、神のひとり子の御子イエス・キリストを終りまでしっかりと信じていること。というか、信じ続けていることです。
And God said to Moses, "I AM WHO I AM." And He said, "Thus you shall say to the children of Israel, 'I AM has sent me to you.' "【NKJV】(Exo  3:14)で分かるように、AM(現在形)のお方なのです。私たちの信仰も現在形が継続されている状態が健全なのだと思います。

<しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのですもし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。>(ヘブル3:6)

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。>(Ⅰコリ 6:19)
<もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。>(Ⅰコリ 3:17)
<こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。>(エペソ2:19-22)

これらのみことばは、キリストを信じている者たちの総体が神の家であることを証言しているのではないかと思います。勿論、信じている一人一人も神の宮です。

そして、究極は新エルサレムについての次の記述(黙示録21:9-26)です。
<また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。>(黙示録21:9-26)

2012年4月26日 (木)

モーセ以上の存在であるキリスト

1世紀ごろのヘブル人キリスト者にとっては、モーセとキリストとどちらが高い地位にあるのか?などということが問題だったようです。
現代のキリスト者には考えられないことですね。
現代のキリスト者であれば、キリストは、神であり、ひとり子の神が人間の肉体をもって地上に現れてくださった。即ち、キリストは、完全な神であり同時に人ともなられたお方だと信じていることと思います。
一方モーセは、人間であり、神が偉大な預言者として立てられた方です。
キリストは、人間を造られた方です。
それにしても、ヘブル人の中には、モーセとキリストを比較してしまうような人達がいたのですね。そこで、次の聖書の箇所(ヘブル3:1-6)が書かれたのですね。
<そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。>

2012年4月25日 (水)

聖なる兄弟

<そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。>(ヘブル3:1)

解ったような分かっていないようななんとも言えない感じで<聖>をとらえて読み進んでいってしまうことが多いのではないでしょうか。
<聖>の全体を言葉で表しきれるものだろうかと思います。とても私にはできません。そこで、私なりの簡略化した捉え方を記しておこうと思います。

<聖>とは、神[ヤーウエ]に属するもの、神に関係するもの。とおおざっぱにとらえています

ヘブル語の意味から考えると「明るい」「輝く」などの意味があるので、そこから「栄光」「火」などとも関連付けられるとも言われますが。

もう少し細かくも言えますが、そうするときりがなくなり、まとまりがなくなってしまうのです。それは、私が全体を、また、本質をつかみ切れていないからだろうと思います。というか、人間である私にはつかみきれないのではないかと思うのです。何しろ<神に属するもの>ですから。

それはそれとして。<天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち>という表現を見ると身震いするほど感動します。キリストによって贖われたキリスト者たちは、だれでも天の召しに与っている聖なる[神のものとされたor神に属する]兄弟たちなのですが、この自分が、それに該当するということは感動ものです。神[ヤーウエ]が選んで、召して下さって、神のものとされた、というのですから。

私自身の何かによるのではなく、もっとも、私自身の内に、神のものとされる聖に属するものは何もないのですから。

これは、神の一方的な恵みであって、ただ、感謝して、感謝して受けるしかありません。

「ありがとう。天のお父様。」

「イエス様、十字架の贖いを感謝します。」

アーメン

2012年4月24日 (火)

苦しみ、試みを経験された主イエスによる助け

強烈な誘惑を受けた人

さげすまれた人

のけ者にされた人

悲しみを知っている人

病を知っている人

尊ばれなかった人

鞭打ちにされた人

十字架に釘でうちつけられた人

十字架の上で想像を絶する苦しみを味わった人

イザヤ53章を読むだけでもこれだけあります。

ここに書かれている以外にも色々ありました。

それを体験されたのが主イエス様でした。

そのイエス様が私たちの祈りを聞いて下さるのです。

私たちを慰め、励まし、強め、矯正し、導き、Etc.を与えてくださいます。

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。>(ヘブル2:18)

<彼はさげすまれ人々からのけ者にされ悲しみの人で病を知っていた人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。>(イザヤ53:3-9)

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