救い・救われたい方へ

2023年11月 7日 (火)

マタイ27:45-50 (贖いが)完了した/テテレスタイ/主イエスを信じる者は救われる

 マタイ2745-50には次のように記されています。
45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
46
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48
 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1928-30には次のように記されています。
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29
酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”(2017)とあります。

 主イエス様は、「完了した」と言われました(ヨハネ1930)。「完了した」という語がギリシア語で「テテレスタイ」とギリシア語聖書に記されていますが、おそらく主イエス様はヘブライ語で語られたのでしょうね。「完了する」「終える」のヘブライ語に「シャーレーム」or「シェラム」というのがありますが、この個所では何といったのでしょう。ご存知の方は教えてください。
(余談になりますし、私の想像も入っていますが、主イエス様の贖いがシャーレームorシェラムし、主イエス様への信仰がシャーレームorシェラムした人の心はシャ-ローム(平安)になります。シャーレームorシェラムとシャ-ロームの子音字は同じで母音記号が異なるだけです。)

 主イエス様による贖いの完了、なんとありがたいことでしょう。
私たちのすべての罪が赦されたのです。
私たちは、主のものとして贖われたのです。
ハレルヤ!
エフェソ(エペソ)17には“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)とあります。
コロサイ114には“この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”(2017)と記され、
ローマ324には“神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。”(2017)と記されています。

 「贖い」という概念は、“ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身代金(みのしろきん)を払って身受けするという概念である。”と聖書辞典に記されています。
黙示録5章には次のように記されている個所があります。
7 小羊〔贖いとなられた主イエス様(筆者挿入)〕は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った。
8
 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は 聖なる者たちの祈りである。
9
 そして、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなた〔御子キリスト(筆者挿入)〕は、屠られて、その血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い
10
 彼らを私たちの神に仕える御国の民、また祭司となさったからです。彼らは地上を支配するでしょう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は十字架上の贖いによって、罪の赦しを成し遂げ、また私たちを買い取ってくださったのです。
なんとありがたいことでしょうか。

 マタイ2745には、「昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。」とあります。
ルカ2344.45には、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と記されています。

 全地が暗くなったのは、父なる神様が御子に対して御顔を隠されたことの象徴であると思います。
神との断絶or分離、それは霊における死を象徴しています。
この時、イエス様は、それまで絶えざる豊かな交わりを持っていた御父と分離したのです。即ち、すべての人類の罪を負って罰を受けたのです。
それは、マタイ2746に「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と書いてある通りのことです。

 イエス様の十字架刑の約1000年前に記された詩篇221に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(新改訳初版~第三版)とあります。
これはイエス様の十字架の預言であったでしょう。或いはダビデが体験したことが予表となっているのかも知れませんが。

 イエス様が、この言葉を発した時、神様に裁かれていたのです。
神様(父なる神様)に裁かれる前までの御子イエス様と御父との関係は、「わたしの父よ」とか「わが父よ」という関係でした。また「わたしと父とは一つです」と言える関係でした。
しかしここでは、「わが神、わが神」に変わっています。その内容も霊的な死を意味する神との分離です。

 イエス様がこの言葉を発せられた時は、すでに3時ごろでした。
十字架刑終了の間際でありました。
イエス様が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言葉を発せられると、十字架の近くにいた人たちの言動は次のようでした。
“47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。

48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。とあります。

 そして、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(50)とありますが、イエス様が息を引き取られる前に、イエス様が語られた大切なおことばが他の福音書に記されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の次のおことばは、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928)のおことばです。
マタイ2748には「するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。」とありますが、この行為は、イエス様が、「わたしは渇く。」と言われたからでしょう。
常に、父なる神様と共におられた方が、父なる神様から分離させられたのです。
それは暗闇に覆われた状態でありましたし、また、単にのどが渇いたということだけではなく、心が渇いた、干からびた状態になったということでしょう。それらのことを表わしていたのだろうと思います。
肉体的なのどの渇きは相当前からあったことでしょう。それも相当に激しく。何故ならどう考えても脱水状態にあったのですから。

 イエス様は、「わたしは渇く」と言われた後、「完了した。」(新改訳)、「成し遂げられた。」(新共同訳)と語られたのです(ヨハネ1930)。
贖いが成し遂げられたのです。贖いは完了したのです。


そして、イエス様は大声で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取ったのです(ルカ2346)。マタイ2750は、ただ、「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」と記されてある内容をルカは詳しく記してくれたのです。


神の裁きが済んで「完了した」と言われたイエス様と神様の関係は、「父よ。」という呼びかけで分かるように、親と子の関係に戻っています。

 イエス様が贖いを成し遂げてくださったので、イエス様を信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ28に“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017)と記されていますが、その聖句の通り、主イエス様の贖いの成就に基づき、主イエス様を信じる信仰によって救っていただけますから感謝します。
主イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人はすでに救われていますが、現在求道中の人も、主イエス様を信じて救いを自分のものとすることができますように。
御父の御愛と御子であり主であるイエス様の贖いと信仰を導いてくださる御聖霊に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「われ贖(あがな)われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり 
(折り返し)* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ! ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて 「ハレルヤ」を叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主は我がもの 御霊の証しは 心にあり *”

2023年9月21日 (木)

申命記30:15-20 命を選びなさい/人の選択、神の予知、神の選び、神の予定

 申命記3015-20には次のように記されています。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
16
 私が今日あなたに命じているとおり、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される。
17
 しかし、もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされ、他の神々にひれ伏し、仕えるならば、18 私は今日、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って所有する土地で長く生きることはできない。
19
 私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
20
 あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルはこの個所を次の様に意訳しています。
15 いいですか、これは生きるか死ぬかの問題です。主に従って生きるか、従わないで死ぬかの、どちらかしかありません。
16
私はきょう、主を愛し、その道に従い、律法を守るようにと命じました。そのとおりにすれば生きることができます。主はあなたと、もうすぐあなたがたのものになる地とを祝福し、大きな国民としてくださるでしょう。
17
しかし、心が離れ、その教えに耳も傾けず、外国の神々を拝んだりすれば、18 今はっきり断言しますが、必ず滅びます。あなたのものになる国で、いつまでもしあわせに生きることはできません。
19
さあ、天と地が証人です。どちらを選びますか。生きることですか、それとも死ぬことですか。祝福ですか、のろいですか。もちろん、あなたのためにも子孫のためにも、生きるほうを選ぶべきです。
20
主はあなたのいのちです。あなたの神、主を愛し、信頼し、ご命令に従いなさい。そうすれば、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地で平安に生きられます。
”とあります。

 一読すれば文章の内容は理解できると思います。
しかし、読んで理解できることと、律法を全うすることとは別です。
神ヤハウェ(主)に「あなたは命を選びなさい。」(19)と言われても、いのちを選んだ人はいなかったのです。
律法を全うできたのは、イエス・キリスト様ただ一人であったのです。

 罪(罪の性質)をもって生まれた人間{詩編515(新改訳・口語訳)新共同訳・聖書協会共同訳は517、ローマ512参照}は、罪を犯さずに生きることはできませんでした。

 父なる神様と御子なるイエス・キリスト様は、新たなる救いの道を備えてくださいました。
 それは、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に復活し、弟子たちに現われたキリスト・イエスを信じれば救われる(1コリント153-5)ということでした。

 何と、今日の本文の個所から、「〔主イエス(筆者挿入)〕こそあなたの命」(20)、「あなたは命を選びなさい。」(19)と抜粋することが出来ます。

 ヨハネ316には、“実に神はひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず永遠のいのちを得るためです。”と記されています。

 主イエス様が、私たちの罪のために十字架上で贖いを成し遂げられたことについての預言は、イエス様が十字架につけられる約700年前の預言であるイザヤ53章に記されています。
 ペトロ(ペテロ)は、イザヤ53章を引用して次のように記しました。
22 「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(1ペトロ2章・聖書協会共同訳)とあります。

 パウロは、主イエス様を信じることによって救われるという、救われる方法を次のように記しています。
9 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10
 実に、人は心で信じて義とされ口で告白して救われるのです
11
 聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。
12
 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。”(ローマ10章・聖書協会共同訳)とあります。

 またパウロは次のようにも書いています。
8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物〔贈り物(筆者挿入)〕です。
9
 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”{エフェソス(エペソ)2章・聖書協会共同訳}とあります。

 救いを求める人の多くは、善い行いをすることによって救われようとします。
しかし、人は、主が良しと認めるような善い行いをするようなことは出来ないのです。
常に神様を愛し、神様を自分よりも第一とし、隣人に対しては自分と同じように愛するということなどできるでしょうか(マタイ2236-40参照)。特に主イエス様を信じる前の人が(主イエス様を信じた後もなかなか難しいものです)。愛の行為については、1コリント134-7にあらましが記されています。

 話を変えます。
命と幸い、死と災い、のどちらを選ぶかは、その人自身の選択にかかっているのです。
 申命記3015.19を抜粋して下記します。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
19
・・・、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。・・・。”とあります。

 神様は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます(1テモテ2:4)。
しかし、救いか、滅びかの選択権は人の側にあります。
神様が人に自由意思を与えられましから、人は選択権を持っているのです。

 キリストの福音が個々人に提供されたとき、主キリスト・イエス様を自分の救い主として選択する人を、父なる神様は、天地創造の前から予知し、予知した人をキリストのうちに選び、キリストの血によって、御前で聖い者として整えるというご計画をたてられたのです(創世記126.27、申命記30191ペテロ12、エペソ14.5、ローマ829.30参照)。

 ヨハネ524には、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(2017)と記され、
 ヨハネ640には、「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(2017)と記されています。

 ヨハネ318には、“御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。”(2017)と記されています。
 生まれながらに、イエスはキリスト(油注がれた者。メシア)であり、神のひとり子であり、主であり、救い主であると信じている人はいません。
すなわち、人とはアダムの堕罪のゆえに、生まれながらに裁かれている(罪定めされている)者なのです。しかし、ある時点で、主イエス様を信じたことにより、罪赦され裁きにあうことがなくなるのです。それどころか、義とされ、永遠の命にあずかり、神の子どもとされ、やがては霊のからだをいただき、天に移された後、花婿キリストとの結婚式があるのです。

 聖書の御言葉を信じない人にとってはおとぎ話のように思えることでしょう。
しかし、聖書の御言葉を信じ、キリスト・イエス様を信じる人にとっては、上記した祝福受けることになるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父が御子イエス様による救いの計画をたてられ、御子イエス様は贖いとなって私たちが救われるための準備を成就してくださいました。
私たちが救いを探究しているときに、聖霊様は光を当ててくださり、罪を示し、救い主を示してくださいました。
三一の神様に感謝します。
御名が世々限りなくほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年6月13日 (月)

主イエス様の招きに即座に従ったマタイ

 マタイ99-13には次のように記されています。
“9
イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。
すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
10
イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
11
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、
「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
12
イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」2017)とあります。

 この記事の平行個所がマルコ213-17とルカ527-32に記されています。
ルカ527-32には次のように記されています。
“27
その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。
そして「わたしについて来なさい」と言われた。
28
するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
29
それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。
30
すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。
「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
31
そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」2017)とあります。

 同じ内容を述べているマタイの福音書とルカの福音書の記事です。両書を読んでわかることは、マタイは、レビであるということです。マルコの福音書は、アルパヨの子レビと記しています(マルコ214)。
12
弟子の氏名一覧の箇所(マタイ10章、マルコ3章、ルカ6章)では、マタイと記されています。

 マタイ913に、“『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。”(2017)とあります。
『 』内は、ホセア66の引用です。
聖書辞典によると、マタイが、マタイの福音書を書いたのはヘブライ語であったということですので、「真実の愛」という箇所について、ホセア66の箇所をヘブライ語聖書で調べると、「ヘセド」(慈悲、慈しみ)となっていました。2017訳のマタイ913の欄外には、あるいは「あわれみ。」と注されています。
マタイ1章を読み、かつマタイの福音書の全文を読むと、いかにもユダヤ人向けに書かれているように思えます(旧約聖書の引用が多いため)。
 聖書辞典には、
マタイがマタイの福音書の著者であるとの初代教会の証言の一つとして、エウセビオスが伝えるパピアスのことば、「マタイはヘブル語で神の語録を集成した。そしてめいめいが、自分の能力に従ってそれらを解釈した」(『教会史』3:39:16)がある。(聖書辞典のマタイの箇所から抜粋)と記されています。
私は、2017が底本にしたギリシア語聖書ではなく、TRを見ていますので、それによると、「真実の愛」の箇所のギリシア語原語は、「エレオス」で、慈悲、慈しみ、親切、・・等の意です。

 マタイ910では、罪びとたちや取税人が大勢食卓に来た理由が書いてありませんが、ルカ529には、レビ(マタイ)は、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。2017)と記されています。

 マタイは、主イエス様に対する感謝と、自分とこれまで関わりのあった人たちへの感謝と証、イエス様を紹介する機会として一席設けたのでしょう。
マタイは素晴らしいことをしたと思いました。
私も洗礼を受けたときに、この様にすることができていたら、自分の証しとイエス様の紹介が一度に出来たことだろうと思います。勿論、集まってくださった方々の中には、怒りに燃える人もいれば、熱心に聞いて下さり自分も信じてみようと思う人もいるでしょうが。
このようなことをすれば、呼ばれた人の中には、もう二度と付き合うことはやめよう、と思う人も起こるであろうということは想定できますが。一方、もっとイエス様のことを聞きたいという人もいることでしょう。

 マタイ911“これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。”とあります。
パリサイ人たちの心の中には、汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。主の器を運ぶ者たちよ。(イザヤ52112017)のような聖句が刻み込まれていたのかも知れないと思います。汚れたものに触れてはならない。というような意の聖句は聖書の他の箇所にも出て来ます。

 パリサイ人たちは、自分たちを聖く保とうと思っていたのでしょう。
聖書の理解が浅かったのです。
アダムを始祖とする人類の一人一人は、すべての人が罪をもって生まれ、そして人に教えられなくても罪を犯す存在なのです(ローマ512-14、詩篇515)。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ39.10抜粋・新共同訳)と記しました。
ローマの信徒への手紙を書いたパウロもパリサイ人でした。
パウロは、復活後のキリスト・イエス様にお会いし(使徒93-5)、その後罪について深く理解していったのだと思います(ローマ7章)。

 マタイ912.13をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“12
「健康な人には医者はいりません。医者が必要なのは病人です。」とお答えになり、13さらにこう続けました。「聖書に、『わたしが喜ぶのは、いけにえやささげ物ではなく、あなたがたがあわれみ深くなることである』(ホセア66)とあります。このほんとうの意味を、もう一度学んできなさい。わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためにではなく、罪人を神に立ち返らせるために来たのです。」とあります。

 神に立ち返るための第一歩は、イエス・キリスト様を救い主として信じ、イエス様を心にお迎えすることです。
ヨハネ146には、「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様、
私たちの罪を赦し、罪から解放するために、人の肉を纏い、十字架上で贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
天のお父様も、義と愛のはざまで、心引き裂かれるような思いであったのではないでしょうか。
心からの感謝を献げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月31日 (火)

正しい道と正しく見える道

 箴言1412には次のように記されています。
人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。(口語訳)

 この聖句の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は「イーシュ」で、(一人のor個人としての)「人」の意で用いられることの多い語です。
 「エノシュ」(エノーシュ)にも「人」の意がありますが、(死を免れないor死すべき)「人」の意で用いられることの多い語です。
アダムの子のセツは、自分の子にエノシュ(エノーシュ)と名づけました。
 「アダム」(アーダーム)にも「人」の意がありますが、「アーダム」が原義で、「アーダム」は。血色の良いor生きているの意です。
創世記319に、「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(新改訳第三版)というアダムに対する神ヤハウェ(主)の御言葉がありますが、この文章の中の「土」と訳されている語のヘブライ語原語は「アダーマ―」です。

 人の生き方、人の生きていく指針は、人により様々です。
すなわち人の人生観には様々なものがあるのです。
「人生観」とは、デジタル大辞泉によると、人生に対する見方。人生の目標・意味・価値などについての全体的、統一的な見方で、人生とは何か、人生いかに生きるべきかについて、具体的、実践的な記述・指針を含む。と記されています。

 ある人は、どうせ死ぬのだから食べて飲んで楽しもう、と言うでしょう。
伝道者(コヘレト)の言葉815には、私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。15節抜粋・2017)と記されています。
 ある人は、お金こそすべてだ、という生き方をするでしょう。
ある人は、神などいない、と言って、人の命をも軽視するでしょう。
ある人は、神様仏様、と言って、八百万の神仏にすがるでしょう。
三一の神ではない一神教の神に、報いを期待して、自分の命をささげるという人もいるでしょう。
また、ある人の教えに傾倒する人もいるでしょう。

 イエス様は、「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ713抜粋・2017)と語られました。

 いのちに至る門は、一つしかないのです。
命に至る門は、唯一なのです。
イエス様は、「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7142017)と語られました。
「いのちに至る門」とは、イエス様のことです。
イエス様は、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ109抜粋・2017)と語られ、また、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ146抜粋・2017)と語られたのです。

 聖書の話についてならば、大体知っている、という人がいたとします。
しかし、イエス様を信じなければ、救われて永遠のいのちを与えられることはありません。
イエス様を信じるというのは、イエス様に、自分の心の中に入って頂くことです。
黙示録320には、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸〔心の戸(筆者挿入)〕を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(2017)というイエス様の御言葉が記されています。

 また、ヨハネ112には、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々12節抜粋・2017)と記されています。

 「死に至る道」(箴言1412)ではなく、「永遠の命」を与えられたいと願う方は、イエス様を心にお迎えしてみてください。心から願うならば与えられます(マタイ77)。

 今日のお祈りは、イエス様の御救いにあずかるためのお祈りを下記します。
どの様なお祈りの内容でも、イエス様は、その祈りが真実なものであるならば受け取ってくださいます。
お祈りの一例を下記しておきます。


<お祈り>
イエス・キリストの父なる神様。
わたしはこれまで、嘘をついたり、ごまかしたり、人を傷つけたり、イエス様を信じて来なかったりと、たくさんの罪を犯してきました。
赦してください。
イエス様、私の心にお入りください。
私は、あなたを救い主と信じて、心にお迎えします。
イエス・キリスト様のお名前でお祈りします。アーメン。

2022年5月26日 (木)

罪の苦しみからの解放

 詩篇2516-22には次のように記されています。
“16
私に御顔を向け私をあわれんでください。私はひとり苦しんでいます。
17
私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。
18
私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。
19
ご覧ください。私の敵がどんなに多いかを。彼らは不当な憎しみで私を憎んでいます。
20
私のたましいを守り私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けます。
21
誠実で直ぐな心で私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから。
22
神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください。2017)とあります。

 16節の「私はひとり苦しんでいます」、17節の「私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。」、18節の「私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。」という箇所を読むと、ダビデのバテ・シェバ事件(ダビデによる姦淫と殺人教唆の罪)を思い浮かべます。
22
節には、「神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください」とありますが、バテ・シェバ事件以後、ダビデは、息子のレイプ事件に対処することもできず、国内にダビデへの憤りや不満を持つ者が徐々に顕在化し、国内に不一致が見られるようになり、やがて息子アブサロムの造反へと繋がったのです。

 美女バテ・シェバの裸を見、人妻のバテ・シェバを召し入れて男女の関係を持ったダビデ。バテ・シェバの妊娠が分かった後の策略と、それがうまくいかなかった後のバテ・シェバの夫ウリヤに対する殺人教唆の罪。バテ・シェバの夫の戦場における無駄死に。それらの罪を心の中に隠し続け、ダビデの苦悩は大いなるものとなりました。
以上の出来事とその余波は、2サムエル11-20章に記されています。

 主は、預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘しました。
ダビデは、主と預言者ナタンの前で、罪を告白しました。

 今日の聖書箇所の一つ前の節には、「私の目はいつも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かう。主が私の足を罠(わな)から引き出してくださるから。」(2017)とあります。
罪を指摘されても、主の御前に留まる人は幸いです。

 ダビデが主に罪を告白し、主に罪を赦された後に書いた詩に、詩篇32篇と51篇があります。
 詩篇321-7には次のように記されています。
“1
幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。
2
幸いなことよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。
3
私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。
4
昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。
5
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。「私の背きを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。
6
それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても、彼のところに届きません。
7
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。2017

 詩篇511-17には次のように記されています。
“1
神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
2
私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。
3
まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4
私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するとき、あなたは正しく、さばくとき、あなたは清くあられます。
5
ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。〔堕罪したアダムの子孫である人間は、原罪、すなわち罪の性質をもって生まれてきます。(筆者挿入)〕
6
確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
7
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
8
楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
9
御顔を私の罪から隠し、私の咎をすべてぬぐい去ってください。
10
神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
11
私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
12
あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
13
私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。
14
神よ、私の救いの神よ、血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。
15
主よ、私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
16
まことに私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。
17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑(さげす)まれません。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)を信じていたダビデは、罪責感に苦しんでいましたが、自分の何かに頼るのではなく、へりくだってヤハウェ(主)の前に出ました。
罪を告白した時、ヤハウェ(主)は赦してくださったのです。

 1ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記しています。

 私たちの罪の赦しのためには、大きな犠牲が払われました。
御父は、愛してやまない御子を私達人類の罪の赦しのために、御子に、一人一人が犯したすべての罪を負わせて、御子イエス・キリストを十字架上で裁かれたのです。
御子は、私たちすべての人の罪を身代わりに負って、その裁きを受けるために肉体をとって地上に生まれてくださいましたが、その罪のあまりにも大きな故に、ゲッセマネで主はかくも悩み、十字架上で私たち一人一人の罪をその身に負い、罪の裁きを受けることによって、その愛を示してくださったのです。
 
 イザヤ53章は、イエス様が地上に降誕される約700年前の預言ですが、ペテロは、おそらくそれを要約して引用し、また御そば近くに仕えていたことの故に、聖霊によって1ペテロ221b-25を次のように記したのでしょう。
“21
・・・。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
罪を示されたときには、すぐに主に告白し、いつも御父と良き関係を保ちつつ地上生涯を送ることができますようお導きください。
主にして救い主であられるイエス様の贖いを御父と主イエス様に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年3月 4日 (金)

創造論と進化論

 詩篇192を、
新共同訳は、“天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。”と訳しています。
「物語り」と訳されている語のヘブライ語原語は「サーファル」で、記録する、の意ですが、話す、語る、・・等の意にも使われます。
2017
訳は、「語り告げ」と訳し、1節に、“天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。”と訳しています。
(新共同訳は、ヘブライ語聖書の節に基づいて2節とし、新改訳は、ヘブライ語聖書の1節を表題として扱い、2節を1節としています。)
「天」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーマイム」で複数形です。口語訳は「もろもろの天」と訳し、1節を、もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。と訳しています。

 パウロは、ローマ120aにおいて、世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。(新共同訳)と述べています。
リビングバイブルは、この箇所を、世界が創造されてからこのかた、人々は、天地や、神がお造りになったすべてのものを見て、神の存在とその偉大な永遠の力をはっきり知っていました。と訳しています。

 パウロの時代の人たち、私たちから見たら昔の人たちは、神様が天地万物を創造した、と考えていたのでしょう。

 現代人はそのように考えない人が多いのではないでしょうか。

 詩篇196,7には、
“6
太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、
7
天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。
その熱から隠れうるものはない。(新共同訳)と記されています。
(新改訳や口語訳は5,6節です)

 聖書を信じない人は、この様な記述を見つけると、或いは、聞くと、聖書は天動説を述べているから信じることは出来ない、と言うかもしれません。

 しかし、地動説を信じている私たち現代人も、日常会話においては、太陽は東から上って西に沈んでいく、と表現する人が多いのではないかと思います。
人間は、元来、自己中心的ですから、先ずは自分を主体にして物事を考えたり、語ったりするのではないかと思います。

 今の地球は、約24時間をかけて一回自転をする、とほとんどの人が思っているでしょう。
太陽が東に見えたとき、太陽との位置関係の中で、今は丁度、太陽が東に見える位置まで自転してきた、とは言わないでしょう。

 この詩は、ダビデの詩ですが、もしダビデが現代人で、地動説を知っていたとしても、聖書に記してあるように、
“6
太陽は、花婿が天蓋から出るように、勇士が喜び勇んで道を走るように、
7
天の果てを出で立ち、天の果てを目指して行く。
その熱から隠れうるものはない。(新共同訳)と述べたのではないかと想像します。

 専門家でなくても、
地球は自転しつつ太陽の周りを公転し、太陽は天の川銀河の中心を回っており、天の川銀河は宇宙空間を600km/秒の速度で疾走している、ということを知識として知っている人もいるでしょう。
 一体、人は、宇宙の中でどのように動いているのでしょうか。人がじっとしていても複雑でかつ極めて速い速度で、宇宙を移動しているのですが、その人が更に複雑な動きの運動をしたらその動きの奇跡はどのようになるのでしょう。
私の頭では考えられません。

 宇宙の始まりを証明できる人はいません。
但し、自然に発生した、と考える人は多くいます。しかし、それが科学的か、というと証明できないのですから科学的ではなく、宇宙は自然に発生したと信じているのです。
それは、創造主を否定しているからです。

 それではキリスト者はどうでしょう。
キリスト者は、聖書に、神が天地を創造し、その中にあるすべてのものを神が造られた、と聖書に書いてあるので、それを信じているのです。
私個人について言えば、神に信じさせてもらった、ということになりますが。

 万物は、神による創造なのか、自然発生なのか、については、神による創造を信じていない人も死んだ後に、理解することになるのではないかと、私は思います。
私がどうしてそのように思うのかというと、私が聖書を信じているからです。
 フィリピ(ピリピ)2章には、
“9
・・、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて〔告白して(聖書協会共同訳)〕、父である神をたたえるのです。(新共同訳)と記されています。
地下に行かされてから、「イエス・キリストは主である」と告白しても、その後待っているところは恐ろしいところです(黙示録2011-15参照)。

 どうして神による創造ということを信じることができないのでしょうか?
ローマ128aには、・・、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。2017)と記されています。
また、1コリント120,21には、“20どこに知恵ある人がいるというのですか。学者がどこにいるのですか。どこにこの代の論客がいるというのですか。神はこの世の知恵を愚かなものとされたではありませんか。21事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。そこで、神は、宣教という愚かなことによって信じる人々を救うほうがよいとされました。(フランシスコ会訳)と記されています。

 どうして神による創造ということを信じることができないのでしょうか?
と書きましたが、書いている本人は、「創造論という考えからもあるのではないの」?と言われ、そんな馬鹿な、と思い、必死に勉強したのです。
その結果、創造論も進化論も、どちらを信じるのか、というところに落ち着くのだと私には思えたのです。私は、聖書の預言についても探求していました。その分野から、聖書はすごい書物だと考えるようになったのです。しかし、ある時、神様が、神による創造について信じることが出来るように諭して下さり、その後に、イエス・キリストを信じれば救われるのだ、ということを語ってくださったのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ77,82017)とイエス様は語られましたが、その御言葉が事実であるということを体験したのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日は、心に平安がなかった頃のことを思い出しました。
あなたの恵みによって今の安らぎがあることを覚え感謝します。
主イエス・キリスト恵み、神の愛、聖霊の交わりを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月30日 (日)

天の国に入れる義とは

 マタイ5:20を、
 2017は、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と訳し、
 新共同訳は、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と訳し、
 リビングバイブルは、「よく聞きなさい。パリサイ人や、ユダヤ人の指導者たちは、神のおきてを守っているのは自分たちだと言いはります。だが、彼ら以上に正しくなければ天国には入れません。」と訳しています。

 パリサイ派について聖書辞典は詳しく述べていますが、その中から、今日の箇所に関係する文章を転記します。
“パリサイ派の最大の特徴はその厳格な律法主義にある。彼らは律法を厳格に解釈し、それをできるだけ忠実に実行しようとした(ヨセフォス『ユダヤ戦記』1:5:2,2:8:14,『自伝』38,『ユダヤ古代誌』17:2:4)。彼らの律法解釈はやがて複雑な体系となり、「父祖の伝承」として口伝を形成するようになる。反対者たちは、これを「律法に垣根を巡らす者」として非難した。彼らは儀式律法的なきよめをさまざまな形で実行した(マルコ7:3‐4)。彼らは、このような儀式的きよめの律法を守らない者を「地の民」(アム・ハアレツ)と呼んで軽蔑した。新約時代のユダヤ教の中には、エッセネ派やクムラン宗団のような厳格派がほかにも存在したが、主イエスの宣教において最大の敵となったのはこのパリサイ派の律法主義であった(マタイ23:25)。”(聖書辞典)と述べています。

 律法学者(イエス様の公生涯当時の律法学者)について聖書辞典の中から、ピックアップして下記します。
“新約聖書の中に現れる律法学者(〈ギ〉グラムマテュース)は多くの場合、祭司長やパリサイ人と並んで記されている(マタイ12:38,15:1,マルコ14:53)。当時のユダヤ人社会は、祭司長の属するサドカイ人と、律法学者、パリサイ人によって指導されていた。イスラエルの人々は律法学者の支配的な影響により多かれ少なかれ律法を知るようになった。彼らは、学校やシナゴーグ(会堂)、またそれぞれの家庭で子弟を教育した。それはイスラエル人がみな律法にかなう者となるためであった。彼らのこうした努力によって、ユダヤ人社会においては、一般の労働者に至るまで律法を知るようになり、またそれを実行した。ユダヤ人の宗教的生活は、こうした、伝統を守り先祖の言い伝えに熱心な律法学者の働きに負うところが大きい。/律法学者はパリサイ派に属するようになった。こうして律法学者は律法を解釈し、教え、民衆に生活の規範を与えたが、イエスは律法学者やパリサイ人をきびしく告発し、彼らを公然と非難した。彼らが律法の真意を見失っていたからである(ルカ6:6‐11等).”(聖書辞典)とあります。

 マタイ5:20には、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」というイエス様の御言葉があります。
パリサイ人も、律法学者も一生懸命であったことが分かります。
しかし、的外れであったのです。

 律法によって義とされるためには、すべての律法を一つも漏らすことなく行う必要があります。
ヤコブ2:10には、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。」(2017)と記されています。
パウロのが、自分は律法によっては義とされない、と悟ったのは、十のことば(十戒)の最後の箇所でした。
パウロは、“律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。”(ローマ7:7,8抜粋・2017)と述べています。
 パウロの証しに述べられている「罪」について:
この箇所の「罪」と訳されている語のギリシア語原語は「ハマルティア」で、この箇所は単数形で書かれていますから、「罪の性質」or「生まれながらに持っている罪を犯す性質」の意のことだろうと思います。人が犯す個々の罪は一つではありません。1コリント6:18の「人の犯す罪は」の「罪」について、NIVでは、“sins”となっています。

 他人の才能を羨んだり、他人の容姿を羨んだり、他人の家庭を羨んだり、・・・を羨むことは、それを欲しがっているという心が存在しているのではないかと思います。

 それ故、「義人はいない。一人もいない。」とパウロは述べたのです(ローマ3:10)。
これは、キリストの内にないところの生まれながらの人間のことを言っています。

 信仰による義、
信仰による不義、
ということも考える必要があります。

 信仰による不義、というのは、信じる対象がイエス・キリスト様ではない場合です。
ペテロが、大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族全員、及び民の指導者たち、長老たち、律法学者たちの面前で、聖霊に満たされて語った内容が次のように記されています。
「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリスト・・・/『あなたがた家を建てる者たち〔ユダヤ人たちの大多数(筆者挿入)〕に捨てられた石、それが要の石となった』〔詩篇118:22の預言(筆者挿入)〕というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名〔イエス・キリストの名(筆者挿入)〕のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:10-12抜粋・2017)とあります。

 結局、イエス・キリスト様を信じる(心に受け入れる)以外に、万物の根源であられるところの神に認められる義とされる方法はないのです。

 パウロは次のように記しています。
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖い(あがない)の業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(ローマ3章・新共同訳))

 イエス・キリスト様を信じたor信じさせて頂けただけで、天地万物を創造された神様は、「あなたは正しい者である」と言ってくださるのです。
それはイエス様のおかげです。
パウロは、イエス・キリストの贖いの故である、と教えてくれていますが、
使徒ペテロは、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(1ペテロ2:24a・2017)と教えてくれています。
イエス様が十字架上で為されたことは、それ以外の内容も含まれていますが今日の聖書箇所の範囲ではないので割愛します。

 父なる神様は、イエス・キリスト様を信じた者をイエス・キリスト様の内に置かれました。そして、キリストが私たちの義となってくださいました。
1コリント1:30は次のように記しています。
“あなたがたがキリスト・イエスにある〔you are in Christ Jesus(NIV)〕のは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス・キリスト様を信じるという信仰の他に、天の国に入る方法はないのです。
それが聖書の教えです。
イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と教えてくださいました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス・キリスト様を信じることを得させてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月20日 (月)

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 マタイ5:4を文語訳は、「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。」とギリシア語聖書の語順に従って訳しています。
 2017は、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と訳しています。

 「悲しむ者」と訳されている語の原語の意味は、深く悲しむ、悲嘆に暮れるという意です。

 人はどのようなことを深く悲しむでしょうか。
子供を失ったこと
伴侶者を失ったこと
信じていた人から裏切られたこと
恋人と死に別れたこと
全財産を失ったこと
今まで積み上げてきたことを失ったこと
そのほか色々あることでしょう

 神であり人ともなられた主はどのようなことを深く悲しむのでしょうか?
私には、よく分かりませんが、一つ分かることがあります。
それは愛する者を失った時です。
イエス様は、ラザロの死に対して「涙を流された」(ヨハネ11:35)のです。
この話の一部始終はヨハネ11:1-44に記されています。

 また次のような記述もあります。
マタイ23:37-39には、
「37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(2017)と記されています。

 私が参照しているギリシア語聖書は2017の訳の様に、37節の冒頭は、「エルサレム、エルサレム」となっています。同様に訳している日本語訳聖書には、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳等があります。
 一方、「ああエルサレム、エルサレム」と訳している日本語訳聖書には、口語訳、文語訳、新改訳第三版、リビングバイブル訳、塚本訳、前田訳等があります。

 私には確信はありませんが、イエス様の心情としては、「ああエルサレム、エルサレム」という悲嘆であったのではないかと思います。
魂が滅びていくことを思っての悲嘆ではなかったのかな、と思います。
イエス様がそうであったとしたら、御父も同じです。
御父と御子の本質は同一だからです。

 神様は義なるお方ですから、必ず裁きをなさいます。
しかし神様は同時に愛のお方ですから、裁かれて滅びゆく者に対して深く悲しむのです。
子供を深く愛している親の場合も同じような場合があるということを見聞きしたことがあります。
キリスト者であれば、その人がかかわった人が多ければ多い程、同じようなことを経験しているでしょう。
裁きがどの様なものかを知っており、真剣に様々な手を尽くして福音を伝えたにもかかわらず、イエス様を信じてくれない人たちに対して、「ああ、」という悲しみの思いを持つことでしょう。

 キリスト者は、喜びと悲しみが同居する人たちでしょう。
主との良き関わりにおいては、大いに喜び、滅びゆくかも知れない魂に対しては悲しみを覚えることでしょう。

 しかし、この件については、解決していただける時が来ます。
イザヤ65:17-18aには、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。」(2017)とあり、
 黙示録21:1-4には、“わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」”(新共同訳)と記されています。

 地上生活の様々な悲しみは、その人が主に心を向ければor向け続けていれば、地上にいる間に、主が、悲しみを取り去ってくださることでしょう。あるいは、悲しみを喜びに変えてくださることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは如何なる悲しみをも取り除いてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
しかし、神様の悲しみに対して私はなすべきすべがありません。
せいぜい、神様の喜びを喜びとし、神様の悲しみを悲しく思う、ということを極めてわずかばかり共有させて頂くだけです。
一人の人が救われても、天では大きな喜びが沸き起こります。
私たちの歩みを通して救われる人がおこされていきますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ルカ15:7“あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。”(2017)

2021年11月17日 (水)

キリスト者に与えられた恵み1/悔い改め

 今日からしばらくは、私に与えられた恵み、これから先、私に与えられる恵み、今、私に与えられている恵み、すなわちキリスト者に与えられている恵みについて、一つ一つのテーマに分けて述べていこうと思います。

 キリスト者の救われる前の状態はどのようなものであったのでしょうか?
一人一人、その歩みは異なるでしょうが、共通していることは、まことの神すなわち神である主から分離され、悪魔(サタン)の支配下あることを意識せず、悪魔(サタン)の支配下にあって生きてきたというものです。

 エペソ2:1-3を、
 2017は、“1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”と訳し、
 新共同訳は、“1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。”と訳し、
 リビングバイブル旧版は、“1 以前、あなたがたは神様からのろわれた存在であり、罪のために永遠に滅びる運命でした。2 世間一般の人と同じ生き方をし、別に変わったところもありませんでした。罪にまみれ、空中の権威を持つ、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。このサタンは、主に反抗する人の心に、今も働きかけています。3 私たちもみな、以前はほかの人たちと全く同じでした。その生活ぶりは、心にある悪を反映したものでした。欲望や悪意のおもむくままに、あらゆる悪事を重ねていたのです。私たちは、生まれつきの悪い性質で悪へと突っ走り、他のすべての人と同様、神様の怒りを受けて当然の者でした。”と意訳しています。

 イエス様の御救いにあずかる前の私は、エペソ2:1-3のような状態の者であることを、全く知らなかった者です。それどころか、それなりに善人であると思ってきた面もあったのです。悪いことも行ってきたのに。
性善説というのは、おそらく悪魔、悪霊の入れ知恵なのでしょう。

 コロサイ2:8を、
 2017は、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”と訳し、
 口語訳は、“あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。”と訳し、
 新共同訳は、“人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。”と訳しています。

 この世が、悪魔(サタン)の支配下にあることについて、1ヨハネ5:19は、次のように述べています。
 2017は、“私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。”と訳し、
 新共同訳は、“わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”と訳し、
 口語訳は、“また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。”と訳し、
 リビングバイブル旧版は、“私たちは神様の子供ですが、周囲の世界は、悪魔の力の支配下にあることを、知っています。”と意訳しています。

 サタン(悪魔)の支配下にある者が、どの様にしてそこから抜け出すことができるのでしょうか?
イエス様の御言葉に次のようなものがあります。
わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(マタイ12:28.29・新共同訳)と記されています。
 「神の国」の「国」のギリシア語原語は「バシレイア」で、国の他、支配、等の意もあります。
「強い人」とは、サタン(悪魔)のことです。
「その家」とは、サタンの王国のことです。
「家財道具」とは、所有物のことで、サタンに支配されている人のことです。

 というわけで、ひとり子の御子であられるイエス様が、肉体を纏って地上に現れ、公生涯に入った後、マタイ12:28.29の御言葉は成就したのです。

 罪について、世界に目を向けると、人々は、同じ考えを持っているわけではありせん。
イスラム教の人、共産主義国の人、国家元首個人を崇拝しているorさせられている国の人、民主主義国の人、倫理道徳の根本をなす教育の違い、等により罪概念は変わります。

 まことの罪とは、神のみ旨に従わないことです。
イエス様の要約によれば、まことの神である主を愛さないこと、隣人を自分のように愛さないことです(マタイ22:37-40参照)。
具体的には、10のことば、いわゆる十戒を破ること、それが罪です。

 イエス様は罪について次のようにも語られました。
「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ16:9・リビングバイブル旧版)

 人は、罪をもって生まれたのです。
 詩篇51:5には、「私は生まれながらの罪人なのです。母が私をみごもった時から、罪人でした。」(リビングバイブル旧版)と記されています。
 ローマ5:12には、“一人の人〔アダム(筆者挿入)〕によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ”(新共同訳)と記されています。
代々、人は、アダムの罪を受け継いで、罪をもって生まれてくるのです。
この罪というのは、具体的な個々の罪ではなく、罪の性質です。
罪の性質をもって生まれて来るので、罪を犯すのは自然なことなのです。
人は、だれかに教えてもらわなくても、嘘をつき、嫉妬やねたみを起こし、人のものを欲しがり、喧嘩をし、自分勝手です。
更に、まことの神であられる主を神とすることを、人は教えてもらわなければ知ることが出来ません。
イエス・キリスト様を信じないことが、罪であるとは、思い浮かばないことです。
イエス・キリスト様を信じれば、すべての罪を赦されるのです。
しかし、イエス・キリスト様を信じれば救われるという知識を与えられなければ、イエス・キリスト様を信じることさえもできません。
それどころか、イエス・キリスト様について教えて頂いたとしても、信じない人のほうが多いのが実状です。

 罪は、思い出せる限り、主のみ前に告白したほうが良いですが、最大の中心ポイントは、イエス様を救い主、主として信じることです。
イエス様を信じないことが罪である、ということを度外視して、まことの救いにあずかることは出来ません。
中には自分が犯した罪を悔い改めるのですが、イエス様を主としない人もいるのです。その場合には、まことの救いを得ることは出来ません。

 ローマ10:9に、“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。”(2017)と記されています。

 初代教会の最初の人たちの言葉に次のようなものがあります。
「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使徒11:18・2017)と記されています。

 「悔い改め」は、神の恵みであったのです。

 「恵み」とは、“愛なる神の、人間に対する好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけである。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである。”(キリスト教辞典より抜粋)
 
 救いにあずかる神の恵みの担当者は、神の第三位格である聖霊様でした。
1コリント12:3には次のように記されています。
“・・・、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7抜粋・2017)とイエス様は語られましたが、へりくだって救いを求めた者に、神様は、「悔い改め」を与えてくださったのです。

 「悔い改め」の中心ポイントは、「回心」です。
回心とは、まことの神である主に立ち返ることであり、それは、悔い改めと信仰の二つの要素から成り立っています。
「悔い改め」のギリシア語原語は、ほとんど「メタノイア」(または動詞〈ギ〉メタノエオー)であり、文字通りには心の転換を意味しています。
キリストの方へと心を転換すること、それが中心ポイントです。
そして、キリスト・イエス様を「主」として歩むのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
わたしにも悔い改めの恵みを与えてくださり、イエス様を信じる信仰を与えてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。


2021年10月24日 (日)

律法(主なる神様の教え)を守ろうとする生き方をしても天国に入ることは出来ません。天国に入ることができるのはイエス・キリスト様を信じることによってだけです。

 自分の善行が自分の悪行よりも多ければ天国に入ることができると考えている人が結構多くいます。

 おそらくユダヤ人は律法を守ることによって、義と認められる、すなわち神様から「あなたは正しい」と言ってもらえると思っていたのではないかと思います。

 ところが、人は律法を守ることが出来ません。
律法の根底は、神と人への愛です。

 「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」(マタイ22:36・2017)という律法学者の質問に対して、イエス様は、次のように語られました。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40・2017)と記されています。

 愛についての定義とは言い切れませんが、愛についてパウロは次のように述べています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え〔あるいは「おおい」(欄外注)〕、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを忍びます。」(1コリント13:4-7・2017)と。

 ヤコブの手紙の中には次のように記されている箇所があります。
“8 もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。”(ヤコブ2章・2017)と。

 パウロはローマ人への手紙の中で、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10・2017)と述べています。
律法に熱心であった救われる前のパウロの場合はどのようであったのでしょうか?
パウロは次のように述べています。
「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が『隣人のものを欲してはならない』と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。」(ローマ7:7.8抜粋・2017)と記しています。
 同じ個所を新改訳第三版は、「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」と訳しています。

 人間同士の間で、「あの人は善人だ」と言われるような人であっても、主なる神様の前では、そのようには認められないのです。
しかし、主なる神様は行いとは別の方法、すなわち主イエス・キリスト様を信じるという信仰によって信じる者に救いをもたらしてくださったのです。
ローマ人への手紙3章には次のように記されています。
ローマ3:21-28をリビングバイブル(旧版)は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。
すべての人は罪を犯しました。
神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。
何もしていません。
なぜでしょう。
私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。
それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。”とあります。

 上記27節の中に、“それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。”という箇所があります。

 これと同じことをエペソ2:8は、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(2017)と述べています。

 善き行いは、救われた後に、主なる神様が私たちを変えてくださることによって行うことが出来るようになっていくのです。

使徒ペテロは次のように述べています。
“3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです
5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。”(2ペテロ1章・2017)と記されています。

 パウロは、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:18・新共同訳)と述べました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちは皆、罪をもって生まれ、人に教えてもらわなくても様々な罪、すなわちあなたのみ旨に反することどもを犯してきた者です。
それ故、行いによっては、天にあるあなたの御国に入ることは出来ない者でした。
しかし、罪なき神のひとり子であられ、霊のお身体を持っておられる御子が、私たちの罪とその罰を、身代わりとして引き受けるために、肉体を纏われてマリアから誕生され、十字架の上で贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
私たちはイエス様の贖いにより、また、イエス様を信じさせて頂けたことの故に、主の霊の働きによって、神の御性質に似たものとしてつくり変えられ中であることを覚えて感謝します。
すべてのキリスト者は、つくり変えられ中ですから、お互いに忍び合い、赦し合いながら、共に主を賛美しつつ、地上生涯を歩んでいくことができますように。
唯々、三一の主なる神様の御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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