聖化

2023年10月21日 (土)

箴言25:26 キリスト者は主キリスト・イエス様の証人

 箴言2526を、
聖書協会共同訳は“踏み汚された泉と荒らされた水源、それは悪しき者の前でよろめく正しき者。”と訳し、
2017
は“正しい人が悪しき者の前に屈服するのは、汚された泉、荒らされた井戸のようなもの。”と訳し、
リビングバイブルは“神を恐れる人が悪者の言い分を認めるのは、井戸にごみを投げ込むようなものです。”と訳し、
フランシスコ会訳は“正しい人が悪い者の前に屈するのは、汚れた泉や、濁った井戸のようなもの。”と訳しています。

 神の御前に「正しき者」とは、神に従う人のことです。
新約的に言えば、主キリスト・イエスを信じた人、すなわち主キリスト・イエスを心にお迎えした人は、義とされます。
 ローマ3章には次のように記されています。
22 ・・、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義・・。
24
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる・・。”(2017)とあり、
ヨハネ112には“・・、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々・・。”(2017)と記されています。

 主キリスト・イエスをその人の内にお迎えし、主の霊に従って歩めば、主のみ旨にかなった歩みをすることができます。
 ローマ8章には次のように記されています。
9 ・・、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
10
・・、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている・・。
4
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるため・・。”(口語訳)と記され、
ガラテヤ516には“御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。”(2017)と記されています。

 ただし、主の救いにあずかるや否やこのような歩みをすることができるわけでもありません。肉の内には罪が住んでいますから(ローマ714-20)。
肉なる歩みから霊なる歩みに重点が変えられていかないと難しいのです。

 少し脱線しますが、肉的な歩みをしていた人が多かったように思えるコリント教会に宛てられた手紙に次のような聖句が記されています。
8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
9
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
30
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。”(1コリント1章・2017)とあります。

 箴言2526の“正しい人が悪しき者の前に屈服するのは、汚された泉、荒らされた井戸のようなもの。”(2017)という聖句に戻ります。
リビングバイブルは“神を恐れる人が悪者の言い分を認めるのは、井戸にごみを投げ込むようなものです。”と意訳しています。

 この聖句を読んだときに、主イエス様の聖句のいくつかを思い浮かべました。
その一つは、「地の塩」についての教えです。
主イエス様は「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13・2017)と語られた聖句です。
 もう一つはヨハネ738.39の次の聖句です。
38 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。”(新共同訳)と記されている聖句です。
霊を肉が抑圧したら神の霊を悲しめることになります(エペソ430)。

 また、まことの神に従わない人が、「救いの道はいくつでもある」と主張することについて、その主張をそのままにしておくことは、主イエス様が、ヨハネ146で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(2017)と語られた御言葉を汚れたものとしてしまうことになります。
最低限でも、「あなたはその様に考えているのですね。私は、主イエス様の御言葉を信じているのです。」という証で終わりたいですね。
私たちキリスト者は、キリストの証人です(使徒18)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの証人としての任を全うしいていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月12日 (木)

詩篇101篇 王としてのダビデの決意/心をきよめていただくキリスト者

 詩篇101篇には次のように記されています。
“ダビデによる。賛歌。
1
恵みとさばきを私は歌います。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたにほめ歌を歌います。
2
私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
3
私は目の前に卑しいこと〔原語は「ダーバール・ベリヤアル」(筆者挿入)〕を置きません。私は曲がったわざを憎み、それが私にまといつくことはありません。
4
曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。
〔曲がった心を退け、悪を知ることはありません。(新共同訳)〕
5
陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。
6
私の目はこの国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者、その人は私に仕えます。
7
欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8
朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”(2017)とあります。

 この詩は、①ダビデが王として立てられた初期に、ダビデ自身が王として、このようでありたい、という思いを述べたものと思えますが、②詩の中にはまことの王としてのキリストの姿を預言していると思えるものもあります。
そして、③私がこの詩を読むときには、自分の心のありようとそれに達しないところを主に整えていただくという観点から読みたいと思います。

 ダビデの生涯を見ると、この詩に記されているようには歩み切れなかった出来事がいくつかありました。
それは、ダビデがバテ・シェバと姦淫したこと(2サムエル112-5)や、ダビデがバテ・シェバの夫である忠臣ウリヤの殺害の首謀者であったこと(2サムエル116-17)や、また、これらのことのゆえに長子アムノンが異母姉妹のタマルを凌辱した(2サムエル131-14)ときに正しい対処をとることが出来なかったこと(2サムエル1319-33)などがすぐに思い出されます。

 王としてのキリスト・イエス様は、千年王国において、義と慈しみをもって統治なさる方ですから、ダビデがこの詩で願ったような善き歩みをもって統治されることでしょう。

 私たちキリスト者は、肉の体を持ってはいても、神が支配する領域(国)ですから、それにふさわしいきよさが求められます。
肉体は、霊の体に変えられるまでは、罪の干渉を否応なく受けます。
ローマ7章には次のように記されています。
14 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
15
 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
16
 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
17
 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
18
 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
19
 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
20
 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
21
 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
22
 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、23 私の五体〔原語は「メロス」で、四肢、体の部分or組織の意。(筆者挿入)〕には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
24
 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
25
 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、新生している人ですから神の霊から霊の誕生をしています(ヨハネ33.5.61ペテロ13)。神から生まれたもの(霊)は罪を犯しません(1ヨハネ518)。魂は救われました(1ペテロ18.9)が、その反映である心は罪を犯します。心は霊と魂の影響だけではなく肉の影響を生まれたとき以来受け続けているせいもあるのでしょう。

 1節をリビングバイブルは“あなたがどんなに恵み深く公正なお方であるかを、ほめ歌います。”と意訳しています。
キリスト者も同じように言うことが出来るでしょう。

 2節をリビングバイブルは“私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、私の家において、あなたの御心に添って歩むことが出来るよう助けていただきたいのです。”と意訳しています。
キリスト者は「私の家において」の個所を「私自身が」と置き換えると誰でもすっきり頷けると思います。

 3節をリビングバイブルは“卑しいものを退(しりぞ)け、あらゆる不正を憎んで、それにかかわることがないように助けてください。”と意訳しています。
「卑しいもの」と訳されている語のギリシア語原語は2語からなっていて「ダーバール・ベリヤアル」で、ダーバールには言葉、もの、こと、等の意があり、ベリヤアルは、益のない、悪い、よこしまな、不敬虔な、・・等の意があります。

 4節を2017は“曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。”と訳しています。
人祖アダムは神によって造られ、アダムが堕罪する前はエデンの園において、サタンとは交わらず神と交わりをもって歩んでいました。その間は、アダムは神の善のみを知りつつ生活していたのです(創世記2章)。
しかし、アダムの妻エバがサタンの言葉を受け入れ、善悪の知識の木の実を取って食べ、アダムもエバからの誘惑に勝てずに食べてしまったのです(創世記31-6)。
アダムは神に対して不従順の罪を犯したのです。
そして、善悪の知識の木の実を食べたことによって「悪」、「悪の知識」をも取り入れてしまったのでした。それ以来、人の中には悪が住んでいるのです{ローマ512、詩篇515(新改訳。新共同訳は7節)}。

 4節をリビングバイブルは“私はいっさいの自己中心を捨て、すべての悪から遠ざかります。”と意訳しています。
キリスト者もこのように祈ることでしょう。
キリストの現れを持ち望んでいる人は、キリストがきよくあるように自分をもきよくして頂こうとするからです(1ヨハネ32.3)。

 5節を2017は“陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。”と訳しています。
私はこのような罪を主イエス様に赦された者です。
他の人のことをとやかく言えるような者ではありません。
自分自身が、そのような悪に陥らないように気を付けるとともに、それを見聞きしても、そのようである人のためにとりなしの祈りをすることくらいしか私にはできません。
牧者として立てられている人は、主から預けられた信徒のそのような状態を矯正していかなければならないのですから大変です。

 6節をリビングバイブルは“主に従う人こそりっぱな人と認めて、私の家に招きます。身も心も潔白な人だけが、わが家に仕えることができるのです。”と意訳しています。

このような聖句を見ると、1コリント130の“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)という聖句をありがたく思い浮かべます。

 7.8節を2017は次のように訳しています。
7 欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8
朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”と。

 キリストの千年王国における統治はこのようであるのでしょう。
イザヤ6520に“そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。”(2017)と記されていますから。

 私たちキリスト者は、キリストの空中再臨の時に霊のからだを頂き(1テサロニケ416.171コリント15521ヨハネ32)、また義なる行いが出来るようにして頂ける(黙示録198)のです。新生した私たちの霊は永遠の命そのものであられる主イエス様(1ヨハネ520)と結ばれている(1コリント617)ので、主と共に永遠です。

 1テサロニケ417には、“こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の血潮によって聖別してくださいましたことを感謝します。
主の御言葉と主の霊によって、あらゆる言動においてもきよくして頂けますように。
また、やがてのときにはすべてにおいて義なる言動をすることができるようにしてくださいますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
へブル1010“・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017
1
ペテロ115“あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。”(新改訳初版~第三版)
1
テサロニケ523.2423 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。”(新改訳初版~第三版)
黙示録198“花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。”(新改訳初版~第三版)

2023年4月24日 (月)

箴言22:9 祝福を受ける一つのパターン/聖化

 箴言229を、
口語訳は、“人を見て恵む者はめぐまれる、自分のパンを貧しい人に与えるからである。”と訳し、
新改訳初版~第三版は、“善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。”と訳し、
リビングバイブルは、“親切な人は貧しい人に食べ物をわけて喜ばれます。”と訳し、
新改訳2017は、“善意の人〔直訳「目つきの良い人」(欄外注)〕は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“慈悲深い目の人は祝福を受ける。彼は自分のパンを貧しい者に施すから。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“善意に溢れるまなざしの人は祝福される。自分のパンを弱い人に与えるから。”と訳しています。

 ヘブライ語聖書で、前半部分を直訳すると、「目の良い人は祝福されるだろう(未完了形)」となります。

 この聖句の前半を、直訳した文から考えていこうと思います。
「目の良い人」の「良い」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で英語ではgoodです。
「トーブ」の原義は、good(良い)ですが、英語のgoodに多くの意味があるように、「トーブ」にも多くの意味があり、「良い」の他に、美しい、惜しみなく与える、豊富な、快活な、朗らかな、元気のいい、気を引き立てるような、愉快な、楽しい、気持ちのよい、明るい、快くする、慈悲深い、恵み深い、親切な、愛情のある、思いやりのある・・・・等々の意があります。

 直訳すると、「目の良い人」の個所を、
新改訳は、「善意の人」と訳し、
口語訳は、「人を見て恵む者」と訳し、
リビングバイブルは、「親切な人」と訳し、
フランシスコ会訳は、「慈悲深い目の人」と訳し、
聖書協会共同訳は、「善意に溢れるまなざしの人」と訳しています。

 イエス様が語られた山上の垂訓の中には、「目」という語が出てくる個所がいくつかありますが、その中の一つのマタイ622.23の個所には次のように記されています。
「目が澄みきっているなら、あなたのたましいも輝いているはずです。しかし、目が、悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたのたましいは暗やみの中にいるのです。その暗やみのなんと深いことでしょうか。」(リビングバイブル)とあります。

 この個所を聖書協会共同訳は、「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」と訳しています。

 「目が澄んでいれば」の個所は、原語からは、「目が単一であれば」とも訳せます。
神は光ですが、生まれながらの人(新生していない人)の心は暗闇であり、混沌としています。
目が単一で(ものの見方が一点に集中しており)、いつも主を見ていれば、光の中にいることが出来ます。

 キリスト者の場合は、新しく生まれた霊と主の霊が一つとなっています(ヨハネ361ペテロ131コリント617)。
霊はたましいに囲まれています。
たましいが、主と同一化していないと、内奥の霊の光が外に輝きださないのです。
たましいが聖い状態に保たれていると、内なる主の光が外まで輝き出るのです。

 主イエス様は、別の表現もしています。
ヨハネ737.38には、「渇いている人は誰でも〔直訳「誰かが乾いているなら」(欄外注)〕、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から〔直訳「腹から」(欄外注)〕生ける水が川となって流れ出るようになる。」(聖書協会共同訳)と記されています。
使徒ヨハネは、「生ける水」について、次の39節で、“イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。”(聖書協会共同訳)と解説しています。

 新約時代は、聖徒の内におられる主の慈しみが、外に流れ出すことの可能な時代です。そのためには、たましいを主によって聖くして頂くことが大切です。
イエス様は八福の教えの中で、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(2017)と言われました。
自然に出てくる憐み深さ、憐みの行為をしたことを自分でもよく覚えていないような憐みの行為は、内なる主から出てくるのでしょう。
憐みを受けたいから、人を憐れむ、というのは肉の思いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主の血潮によりたましいを聖別して救ってくださり感謝します。
さらに、思いや感情、意志も具体的に、御聖霊が御言葉を用いてきよめてくださり、霊の内におられる主の霊が輝き出ることが出来ますように。
そのようにして、御父の御名があがめられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5162017

2022年1月17日 (月)

自分の心を見張れ

 箴言423-27には次のように記されています。
“23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

 箴言423を、
2017
は、何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。と訳し、
口語訳は、油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。と訳し、
新共同訳は、何を守るよりも、自分の心〔(ヘ)「レブ」(筆者挿入)〕を守れ。そこに命の源がある。と訳し、
リビングバイブルは、「何よりも、あなたの心を守りなさい。心は生活全体に影響を与えるからです。」と意訳し、
フランシスコ会訳は、用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。と訳し、
聖書協会共同訳は、守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。命はそこからくる。と訳しています。

 「あなたの心を守りに守れ、すべてから。何故なら、いのちの(複数形)出口の一部だから。」(私訳)とも訳せます(直訳的に)。

 この聖句を読んでいると、新約的には、イエス様の次の聖句を思い浮かべます。
ヨハネ737-39には次のように記されています。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、空洞、腹、子宮、心、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」で、人の内に住んでくださるという意味での聖霊はまだ来ていなかった、との意でしょう。旧約時代は内住ではありませんでした。(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)

 新約時代にキリスト者に内住してくださった聖霊は、全き神である御子が全き罪のない人となり、その御子イエス様の内にあって、イエス様と共に人間性を体験なさったのです。その聖霊がキリスト者に内住してくださったのです。それ故、ローマ826.27同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(新共同訳)という聖句にも頷けるのです。

 11弟子たちが聖霊を受けたのは、ヨハネ2021.22の箇所であり、次のように記されています。
“21
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」2017)とあります。

 11弟子以外の人たちの中でイエス様を信じた人は、ペンテコステ(五旬節)の日及びその後に聖霊を受けたのです。

 フランスにパスカルというキリスト者がいました。この人は、キリスト教の神学者であると共に、哲学者、物理学者、思想家、数学者、発明家、実業家でもあった人です。
パスカルは、多くの言葉を残しましたが、その中に、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
というものがあります。

 パスカルのこの言葉は、今日書いてきたイエス様の御言葉の中にあるものを組み合わせるとできる言葉です。
再掲しますが、イエス様の御言葉とヨハネの解説は、次のように記されていました。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、原義は「空洞」、その他、腹、子宮、、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水〔聖い霊(筆者挿入)〕が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)と。

 イエス様を信じた時に、心の中の空洞となっている部分に新生という意味での霊の誕生をしたのでしょう。そしてそこに聖い霊が入ってくださったのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記され、
ヨハネ1416.17には、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)というイエス様の御言葉があり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。2017)というイエス様の御言葉があるのです。
{「川」(複数形)が流れ出るようになる(ヨハネ738)}

 
新生したキリスト者の心の中には、聖なる、すなわち主なる神の霊があり、心がきよくあるとき、その心の中の霊から、主の何か(様々な良きもの)が流れ出していくのです。
それ故、主の働きを阻害するものを処理する必要があるのです。
今日の箇所、すなわち箴言の続きの聖句には次のように記されています。
“24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ〔ヘブル122a参照(筆者挿入)〕。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはパウロを通して、ローマ信徒への手紙66に、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(新共同訳)と記してくださり、またガラテヤ524には、「キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。」(文語訳)と記してくださいました。
その恵みに立って、私を通しても三一の主なる神様に働いて頂くことができますように。
尊きあなたの御名を崇め、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 1日 (水)

キリスト者に与えられた恵み11/聖化4

 今日アップされた箇所は、12/1-3(水~金)分になります。 
昨日は漸次的聖化について述べました。
今日はハードルが少し高いのですが、瞬時的聖化について述べていきます。
(瞬時的聖化という表現が良いかどうかはいったん脇に置いてください。)

 ローマ6章について、新改訳2017訳とリビングバイブル訳を併記していきます。
 1
 2017 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。”
 リビングバイブル では、神がますます私たちを恵み、赦し続けることができるように、私たちは罪を犯し続けるほうがよいのでしょうか。

 2.3
 2017 “2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 リビングバイブル もちろん、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだのに、どうしてなお罪の中に生きていられるでしょうか。私たちがバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスに結び合わされた時、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。

 4
 2017
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた〔生まれながらの古い人はキリストとともに葬られた(筆者挿入)〕のです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 リビングバイブル すなわち、罪を愛する古い性質は、キリストの死によって、キリストと共に葬り去られました。そして、父なる神が、栄光の力でキリストを復活させてくださった時、私たちはキリストの新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。

 5
 2017 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 リビングバイブル 私たちがキリストに結び合わされて、キリストといっしょに死んだのなら、やがてキリストと同じように復活するのです。

 6
 2017
 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは罪のからだ〔この体は肉体ではありません。古い人(筆者挿入)〕が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 リビングバイブル 私たちの中にある古い性質の自分が、キリスト共に十字架につけられたのは、罪を愛する体〔古い人(筆者挿入)〕が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。

 7
 2017
 死んだ者〔古い人が死んだ人(筆者挿入)〕は、罪から解放されているのです。
 リビングバイブル 罪に対して死んだ者は、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるのです。

 8
 2017
 私たち〔私たちの古い人(筆者挿入)〕がキリストとともに死んだのならキリストとともに生きる〔私たちの新しい人はキリスト共に生きる(筆者挿入)〕ことにもなる、と私たちは信じています。
 リビングバイブル 罪を愛する古い性質がキリストと共に死んだのですから、確かに私たちは、キリストの新しいいのちを共有しているのです。

 9
 2017
 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
 リビングバイブル  キリストは死者の中から復活されたので、もう二度と死ぬことはありません。死には、もはやキリストを支配する力がないのです。

 10
 2017
 “なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。”
 リビングバイブル キリストは、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。しかし今では、神との絶えることのない交わりの中に生きておられます。

 11
 2017
 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
 リビングバイブル ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。

 12
 2017 ですから、あなたがたの死ぬべきからだ〔肉体(筆者挿入)〕を罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
 リビングバイブル これからはもう、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その欲望に従ってはいけません。

 13
 2017
 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
 リビングバイブル 体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。

 14
 2017
 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
 リビングバイブル 罪は、二度とあなたがたを支配しません。なぜなら、あなたがたはもう律法に束縛されてはおらず、恵みの中にあって、自由の身となっているからです。

 15
 2017
 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。”
 リビングバイブル それでは、どうなのでしょう。律法を守ることによってではなく、恵みを受けることによって救われるのであれば、「罪を犯してもかまわないのだ」ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 16
 2017
 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。”
 リビングバイブル 知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。

 17.18
 2017
 “17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18罪から解放されて、義の奴隷となりました。
 リビングバイブル “17神に感謝すべきことに、あなたがたは、以前は罪の奴隷になる生き方を選んでいましたが、18今は、罪という古い主人から解放されて、義という新しい主人の奴隷になっているのです。

 19
 2017
 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
 リビングバイブル このように奴隷と主人にたとえてわかりやすく言うのですが、あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。

 20
 2017
 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
 リビングバイブル あなたがたは、罪の奴隷であった時には、良いことについては無関心でした。

 21
 2017
 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
 リビングバイブル その結果はどうだったでしょうか。自分がしていたことを考えるだけでも、恥ずかしくなるはずです。その行き着くところは、永遠の滅びでした。

 22
 2017
 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
 リビングバイブル しかし今は、罪の力から解放されて、神に仕える者となりました。
そして、神があなたがたに下さる恵みによってきよくされ、永遠のいのちが与えられているのです。

 23
 2017
 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
リビングバイブル 罪の支払う報酬は死です。しかし、神が下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。

 下線部分を信仰によって受け取れ、実体化されると、そのとき瞬時的聖化が起こるのです。
信仰が働かないときには先延ばしにしてください。
無理やり思い込んでも信仰がついて行きません。
また、悪魔悪霊の誘惑を見破り、敵である悪魔悪霊を排除することができないと、長続きしないのです。長続きしないと、この聖句は不可能だと考えかねないのです。
主は、キリスト者を信仰から信仰へと進ませてくださいます(ローマ117)。
主の御業に期待してください。
ローマ117には、福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。2017)と記されています。
初めの「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エク」で「~から、from」の意です。次の「信仰」ギリシア語原語による前置詞は「イース」で「~の中へ、into」の意です。
三番目の「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エン」で「~中で、in」の意です。

 ガラテヤ516-25には次のように記されています。いくつかの日本語訳聖書を下記します。
 聖書協会共同訳(2018版)は以下の様に記しています。
“16
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません
17
肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのために、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
18
霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19
19-21節は肉の行いのリスト(筆者挿入)〕肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ〔別訳「酒宴」(欄外注)〕、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22
これに対して、霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
24
キリスト・イエスに属する者は、肉を欲情と欲望とともに十字架につけたのです
25
私たちは、霊によって〔「霊の人」という表現については、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳・前田訳・塚本訳・フランシスコ会訳の1コリント21531を参照(筆者挿入)〕生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。

 新改訳2017は以下のように記しています。
“16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 この箇所で「御霊」と訳している日本語訳聖書は、新改訳、口語訳、文語訳です。リビングバイブルは聖霊と訳しています。
ギリシア語原語は、単に「霊」です。
「御霊」ではなく「霊」と訳している日本語訳聖書は、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳、塚本訳です。

 1コリント617には、・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)
岩波訳は、主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。と訳し、
新共同訳は、・・、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。と訳しています。
ここの「主」とは、復活のキリストです。

 ガラテヤ219.20.21aの聖句に対する日本語訳聖書を三つ下記します。
 新改訳2017は次のように記しています。
“19
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました〔十字架につけられてしまっている(岩波訳)〕。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。21 私は神の恵みを無にはしません。

 前田訳は次のように記しています。
“19
わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。20 わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。 今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きている のです。 彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。21 私は神の恩恵を無にしません。

 
聖書協会共同訳は次のように記しています。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法によって死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。21 私は神の恵みを無駄にはしません。

 20節の私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです(聖書協会共同訳)という聖句箇所について、他の聖句から考察できる箇所の一つを下記します。

 イエス様が十字架にかかられる前の最後の晩餐での祈りです。
イエス様は次のように祈られました。
6 あなた〔御父(筆者挿入)〕が世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名〔御父ご自身がどの様な方であるかということ(筆者挿入)〕を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました〔イエスがキリストであるということを信じ通しました{ヨハネ628.29参照}(筆者挿入)〕。7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15 わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17章・2017

 まさしくイエス様の信仰によって、イエス様の真実によって、私たちは生かされていることを知ります。

 またヨハネ10章には次のようなイエス様の御言葉があります。
27 わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません30 わたしと父とは一つです。」
誠実なる御父と御子の御力によって私たちは守られているのです。
これまでの一連の文章で述べている「信仰」「真実」「誠実」等の言葉のギリシア語は「ピスティス」です。

 ガラテヤ219.20を、聖書協会共同訳を基にして自分流に解釈訳を試みてみます。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。生まれながらの古い私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや新生前の古い私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、原子によって構成されている肉体の中にあって生きている新生後の私は、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実によるものです。

 ガラテヤ524の「キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」という聖句や
ローマ66の「・・。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(口語訳)などの聖句の内容を信じ切ることが出来たとき、このことは自分のものとして実体化されるでしょう。
その後は、霊によって生きるのです。

 しかし、信じたと思っても、直ちに悪魔悪霊は、そうはさせまいと活動するのです。
即ち、悪魔悪霊は、罪を犯させようと誘惑しますし、悪魔悪霊の誘惑の段階において、その誘惑はあたかもその人自身の肉から出ていると思わせたりするのです。
そのようにして、「お前はまだきよめられていない」とたたみかけて、ガラテヤ524やローマ66の「ピスティス」から引きずり降ろそうとするのです。
これらの聖句を信じ続け、霊にあってor霊の人として歩み続けるためには、悪魔悪霊の様々な偽りや誘惑に対処していく必要があるのです。悪魔悪霊は多くの手口を用います。
それゆえ、霊を見分ける賜物の必要と、悪魔悪霊の手口を見破り、彼らを敗退させる霊的方法を自分のものとする必要があるのです。

それらを継続しないと、瞬時的聖化も継続しないでしょう。
また、瞬時的聖化にあずかっても、その後成熟を目指すのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたから遣わされた天使は、「きよい者はますますきよくなるのです。」(黙示録2211・リビングバイブル訳)と語りました。
瞬時的聖化にあずかれる人は少ないでしょうが、いずれにしても聖き歩みの継続こそ大切であり、いつも主と共に歩んでいけば、主は必ずそのようにしてくださいますから御名を賛美します。
栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださる主の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
救いと聖化を混同しないようにお願いします。
救いは、キリスト・イエス様を信じるだけ(心にお迎えするだけ)で成就します。
救われたら永遠のいのちを持っています。
聖化は、救われた後の歩みと関係するものです。

2021年11月30日 (火)

キリスト者に与えられた恵み10/聖化3

 聖化とは何なのでしょうか?

キリスト者が「聖化される」というのは、キリストと似た者とされていくこと、を言うものと思います。
 1ヨハネ31-3には次のように記されています。
“1
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3
キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします2017)とあります。

 次に、エフェソの信徒(エペソ人)への手紙4章に記されている箇所を抜粋しながら下記します。
“1
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたし〔パウロ(筆者挿入)〕はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み
:2
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい愛をもって互いに忍耐し
3
平和のきずなで結ばれて、霊〔「御霊」(新改訳)、「聖霊」(口語訳)〕による一致を保つように努めなさい
4
体〔キリストの体。{1コリント1227、エペソ123参照}(筆者挿入)〕は一つ、霊〔「御霊」(口語訳・新改訳)〕は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望〔栄光の望み=栄化(筆者挿入)〕にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、〔“one Lord, one faith, one baptism”(NKJV)〕
6
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。/
13
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです
14
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
15
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます
16
キリストにより、体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分〔個々人のキリスト者(筆者挿入)〕は分に応じて働いて体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
17
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。/
22
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23
心の底から新たにされて、〔直訳は「心の霊において新しくされ」。「心」と訳されている語のギリシア語原語は、「ヌース」で、心、知性、理解、理解力etc.の意があります。理解力の霊によって新しくされ、とも読めます。「真理の御霊によって新しくされ」ということかもしれません。(筆者挿入)〕
24
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません
25
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません
27
悪魔にすきを与えてはなりません
28
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい
30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい
32
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい(新共同訳)とあります。

 回心したばかりのキリスト者が、一瞬の内に主なる神様が願っているような心の状態を持ち、かつ歩むということは、普通は無理なことです。
聖書を読みながら、一つ一つ、主に示されたことを悔い改め、主に変えていただき続けるという漸次的聖化の歩みをするのが一般的でしょう。

 神の御旨を歩むことが出来るように変えていただく歩み、それは聖化されていく歩みです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
この世にも、「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」などという言葉がありますが、キリスト者に対して、あなたは、主を信じて救われたら、聖化されてキリストの姿に似た者とされていくことをお求めであることを聖書から教えられます。少しずつでもキリストに似た者とさせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月29日 (月)

キリスト者に与えられた恵み9/聖化2

4.良心のきよめ
 ヘブライ(ヘブル)914には次のように記されています。
 新共同訳は、・・、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。と訳し、
 2017は、・・、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、・・、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうかと訳しています。

 ヘブル(ヘブライ)1022を諸日本語訳聖書は次のように記しています。
 口語訳は、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。と訳し、
 新共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって〔別訳「全き信仰をもって」(欄外注)〕、真心から神に〔「神に」は補足(欄外注)〕近づこうではありませんか。と訳し、
 2017は、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。と訳しています。

 ヘブル914より、良心をきよめるのはキリストの血であることが分かります。
ヘブル1022の聖句をギリシア語聖書(TR)で見ると、2017の「血が振りかけられて」という言葉がありませんが、2017の底本にはあるのかor訳者により補足されているのか分かりませんが、ヘブル1019からの文脈やヘブル914の聖句からみて、もし「血が振りかけられて」という語が訳者の補足であったとしてもそれは妥当であり、理解しやすくなっていると思います。

 キリストの血は、良心をきよめるのです。

 良心とは、善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。とデジタル大辞泉に記されています。

 良心をキリストの血によってきよめられた人とそうでない人の大きな違いは何でしょうか?
良心をキリストの血によってきよめられた人は、「キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ169)と言うでしょう。
良心をキリストの血によってきよめられた人は、キリストは神でありまた人ともなられたお方、また神の御子であるお方、唯一の救い主であるお方と信じることに何の疑問もないでしょうし、またキリストのことばを正しいことばであると受け入れることができるでしょう。
 それでは、イスラム教の人はどうでしょうか?
イスラム教徒の親の中には、自分の子どもがキリストを信じたらイスラム教の良心に照らして、子どもを殺すということをする人もいます。
これはヤハウェ(主)からすると汚れた良心です。
 共産主義思想100%の人がいたとします。
その人は無神論です。神を信じるというのは邪道であり罪です。
これも汚れた良心でしょう。
 第二次大戦時、思想の問題によって捕らえられたキリスト者たちがいました。
その時の尋問の中に、「天皇とキリストとどちらが偉いか」というものがあったそうです。
「キリストです。」と答えると有罪です。
有罪宣告した人の良心は、汚れた良心です。

 聖書的倫理観を間違っているとする良心は汚れた良心です。
心にキリストの血の注ぎを受けると、良心がきよめられ、聖書に記されていることを正しいと考えることが出来るようになるのです。

 パウロは幾度もキリスト信仰の故に逮捕されました。
パウロは法廷で、「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって〔全くきよい良心をもって(新改訳第三版)〕、神の前に生きてきました。」(使徒2312017)と証言しています。
それに対して大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じたのです(使徒232)。
大祭司アナニヤは、キリストが神の子であり、救い主であるということを信じていないのです。アナニヤは、ユダヤ教の大祭司でありながら、そしてパウロと同じ聖書(当時は今でいう旧約聖書)を持っていながら、キリストの血の注ぎを受けていないために、聖書を正しく読むことが出来ず、キリストが神の子であり、救い主である、と信じることの出来ない穢れた良心を持っていたのです。その点において、大祭司アナニヤは、善を悪としている汚れた良心の持ち主であることを明らかにしています。

 唯一の真の神であり三一の神であるお方が善とすることを善とすることができるためにはキリストの血の注ぎを受けて良心をきよめて頂く必要があるのです。
 良心がキリストの血によってきよめられると、まことの神の御目から見て正しい善悪の判断が出来るようになるのです。そして、神が「善」とすることを正しいこととし、神が「悪」とすることを悪いことと判断することが出来るようになるのです。
 ヒューマニズム的に生きている人は、聖書の中には善いことも書いてあるけれども、受け入れられないことも書いてあると言うでしょう。それはその人の良心がキリストの血によってきよめられていないからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
キリストの血によって良心がきよめられないと、聖書を読んでも、あなたの御命令に従って歩むということができないことは当然のことであることを教えてくださっておられますから感謝します。
パウロの様に「私は今日まで、あくまでもきよい良心にしたがって、神の前に生きてきました。」と言える可能性を与えてくださっておられますことを感謝します。
パウロのように言えるためには、自分自身を聖別し、毎瞬毎瞬聖霊によって歩む必要を覚えます。
常に聖霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

明日に続く

2021年11月28日 (日)

キリスト者に与えられた恵み8/聖化1

 聖化の定義は諸説ありますが、聖化については、聖別、聖、聖化の過程、・・、等について分けながら見ていくと分かり易いのではないかと思います。
表題にあるように、キリスト者に与えられた恵み、という観点で述べていきます。

1.聖別
 1コリント11.2には、
“1
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。(新共同訳)

 新共同訳が、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と訳した箇所を、
 2017は、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と訳し、
 口語訳は、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」と訳しています。

 コリント教会は、様々な種類の罪の故に、パウロからきびしい指導を受けた教会です。
パウロは、その手紙の冒頭で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記しているのです。
コリント教会の人々の中には、キリスト・イエスを信じた後でも、キリスト・イエスを信じていない人たちよりも行いが悪かった人たちがいたのです。
パウロは、その人たちに対しても、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記しているのです。
この人達は、この時点で、行いがきよくあったというのではなく、神のものとして聖別されている、ということをパウロは述べているのです。

 神様は如何なる方法で私たちを聖別したのでしょうか?
ヘブライ(ヘブル)1010.14には次のように記されています。
“10
・・、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。/14 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。(聖書協会共同訳)

 神様は、神である御子が、人間の肉体を纏い、キリストの肉体において罪の贖いを成し遂げ、キリストを信じた者(キリストを心にお迎えした者)を神のものへと聖別してくださったのです。これは回心のときに神様がなさってくださったことです。それ故、キリスト様を心にお迎えした者(キリストを信じた者)は、神へと聖別されているのです。

 ヘブル1010の聖句によって、心の思い、意思、感情と行いとが、瞬時的に全く聖とされるというのは間違った捕らえ方ではないかと思います。この聖句は、キリスト者の立場について述べているものであると私は考えます。

2.神は聖です。
 「神は聖」という項目は、聖化の中に入るわけではありませんが、「神は聖である」という概念が分からないと聖化もわからないのではないかと思い、ここに入れることにします。
 聖書辞典は、
「聖」を表す〈ヘ〉コーデシュの原意は「分離」であり、「聖」とは,ある二者の間に分離がある状態を指している。聖が神の属性として用いられる時、神がすべての被造物から隔絶していること、悪や罪からも全く分離していることを指す。聖はまた神の栄光(レビ10:3)や正義とさばき(詩篇99:3)と関係づけて用いられている。(抜粋)と述べています。

 レビ103に、ヤハウェ(主)ご自身が、「私は聖なるもの」と出て来ますが、更に理解しやすいためにレビ101-3を下記します。
“1
さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に献げた。
2
すると火が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだ。
3
モーセはアロンに言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。2017)とあります。
 3節の『 』内を聖書協会共同訳は、『私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。』と訳しています。

 詩篇993は次のように記されています。
 2017は、大いなる恐れ多い御名をほめたたえよ。主は聖なる方2017)と訳し、
 新共同訳は、御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。と訳し、
 口語訳は、彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名をほめたたえるであろう。主は聖でいらせられると訳しています。

3.キリストがキリスト者の「聖」となってくださったということ
 1コリント130には次のように記されています。
 新改訳第三版は、・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。と訳し、
 口語訳は、あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。と訳し、
 新共同訳は、神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。と訳し、
 新改訳2017は、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。と訳し、
 聖書協会共同訳は、あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。と訳しています。

 驚くべきことに、というか大いなる感謝というべきか、この聖句は、御父が、キリスト者をキリストの内に置いた、ということです。それ故、御父はキリストを通してキリスト者を見てくださるということです。
別の言い方をすると、キリストの義、キリストの聖が、キリスト者に転嫁された、ということになります。
キリスト者は、キリスト者の実際の心のありようとか行いには関係なく、キリストの内に置かれている故に聖であると見なされているのです。

 今日の箇所は、神が聖であられ、絶対的主権者であられるヤハウェ(主)というお名前の唯一の神が、キリスト者を聖別した、ということを中心に述べました。
明日に続く

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
キリスト・イエス様を信じさせて頂けて感謝します。
キリスト・イエス様を信じた時に、あなたのものとして聖別してくださり、キリストの内に置いて下さり、キリストの聖を転嫁してくださいましたことを感謝します。
あなたの御厚意にふさわしい歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<転嫁>について
転嫁というと、この世で多く用いられるのは、「責任の転嫁」という言葉で、「自分の罪・責任などを他になすりつけること」ですが、今日の箇所は、私たちにとって素晴らしく良いものである転嫁です。
 聖書辞典は次のように述べています。
〔転嫁とは、(筆者挿入)〕何かをある者に「帰する」ことや他のものと「見なす」こと(レビ253117:4)を意味するものと考えられるが、最も重要な概念はキリストの義を人間のものと見なす神の行為に関する表現としてである。これは原罪、贖い、義認の3つの聖書の教理の背後にあるものであり、第1はアダムの罪の子孫への転嫁であり、創3章とそれに続く人類の堕落の歴史に示されている。次は信じる者の罪がキリストに転嫁されることで、旧約のいけにえの制度は新約のキリストにおける贖いの予型であった(イザヤ536.11)。人間は本来罪人であり、義とはなり得ない者であるが、神の義がキリストの十字架の贖いにより人間に転嫁されて、罪人であるが、義と「見なされる」のである。さらに信じる者に対するキリストの義の転嫁があり、義認は行いによらず価なしに与えられる(ローマ3245:15、ガラテヤ216)。この概念はプロテスタント教会の特質であって、ローマ・カトリック教会の言う義の注入(義が一つの実体としてとらえられ、それが神から人間へと注入されることによって人間が義となるという説)による成義(義化)とは異なる。とあります。
〔義が注入されたら、正しい思い、正しい行動を取ることができるでしょう。しかし、無意識のうちに正しい行動をとることができるようにして頂けるのは、時間軸でいうと、黙示録198まで待つ必要があると私は考えています。(筆者挿入)〕

2020年7月18日 (土)

ヨシュア23:6-11 神の民であるイスラエルは律法を守れ/救いときよめについて(主と共に歩む)

ヨシュア23章の本文(新改訳2017)は斜体です。

6
また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にすがりなさい。9 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛しなさい。

 今日の箇所は単純明快です。
①ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守りなさい(6.7.8.11)。
②ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守る者には祝福が与えられる(9.10)。

 律法を守ることによる祝福については、申命記28章に、
1 もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。9 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。10 地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルは神の民とされた民族です。それを出エジプト記3章から見ると、
7 ・・。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。・・。10 今、行け。わたしは、あなた〔モーセ(筆者挿入)〕をファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(新改訳2017)とあります。

 主(ヤハウェ)なる神様は、主の民をエジプトから救い出した後、イスラエルに律法を与え、イスラエルは律法を守ると約束し、そこに旧契約が実現したのです。
契約を結んだ箇所は、出エジプト24章に、
3 モーセは来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。」4 モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれる契約の血である。」”(新改訳2017)と記されています。

 私たちキリスト者からすれば、以上が旧契約です。
そして、この契約には、祝福と呪いが伴いました。
申命記11章に、
26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。27 祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令〔律法のこと(筆者挿入)〕に聞き従った場合であり、28 のろいとは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルの歴史は、主が約束を実行されたことを見せてくれています。
主が語られた御言葉は実現するのです。
ルカ137には、いつも御父の近くで仕えている天使ガブリエルの言葉が、「神が語られたすべてのことば(「語られたことば」の原語は「レーマ」)に、不可能なことは何もない。」(私訳)と記されています。(新改訳2017のルカ137の欄外を参照してください。)
この箇所を文語訳は、「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」と訳しています。

 さて、キリスト者の場合、今日の聖書箇所をどのように考えたら良いのでしょうか?
キリスト者の中には、律法不要論の人がいます。
しかし、イエス様は、律法は天地が滅び失せない限りなくならない、と語られました。
マタイ518には、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(新改訳2017)と語られ、それに続いて、「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ519・新改訳2017)と語られたのです。

 キリスト者の中には、このような聖句に触れると、律法を守らなければ救われないのだろうとか、と不安を覚える人もいますが、上記の御言葉は天の御国に入っている人に対しての御言葉です。

 ご安心ください。
救いは、律法を守れるか守れないかとは関係ありません。
イエス・キリスト様を信じる者は誰でも救われるのです。
ローマ人への手紙10章には、
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。”(新改訳2017)と記されています。

 イエス様を信じた人は「永遠のいのち」を得ます(ヨハネ336)。
イエス様を信じた人は、永遠の滅びへ行くという裁き(火と硫黄の池)を受けることがありません(ヨハネ318)。{キリスト者は、キリストの裁きの座に立たされる、というのはあります(2コリント510)。このさばきは報酬と関係があります(1コリント310-15、マタイ2514-30、ルカ1912-27参照)。}
イエス様を信じた人は神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
イエス様を信じた者の集合体{教会(エクレシア)}はキリストの花嫁です(2コリント112、エペソ532、黙示録196-8)。
イエス様を信じた結果与えられた驚くべき恵みです。

 今日の聖書箇所は、救われたキリスト者の聖なる歩みに関することと関係します。
キリスト者が地上に置かれているとき、キリスト者は、主のみ旨の内を御霊の導きによって歩むほうが、そうではない歩みよりも御父から祝福されます。この祝福は霊的なものです。とはいえ、物質的にも祝福される場合が多いですが、物質的祝福については絶対とは言えません。しかし、主は必要を満たしてくださいます(ピリピ419)。
主のみ旨の内を歩む歩みを聖い歩みと言います。
きよい歩みのすばらしさは、主をより豊かに知ることが出来ること、主との交わりがとても豊かになることです。きよい歩みの根底には、主への愛があります。
 世の中には、主イエス様を信じようとはしないけれども人格的に優れている人たちがいます。そのような人達は、対人的に、ある意味かなり正しい人かもしれませんが、きよくはありません。
黙示録2211に、「・・・。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(新改訳2017)という面白い表現の聖句が記されています。
私たち、キリスト者は、「聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」に該当します。
本質的に聖なるお方は、三一の主なる神様だけです。
聖とは、他の者と区別されている、ということです。
主のお名前は、ヤハウェですが、ヤハウェには、自存と永遠という意があります。
自存にて永遠なるお方は、主しかいません。それ故、主は聖なるお方です。
他のすべてのものは、主によってつくられたもの、すなわち被造物です。
但し、例外が一つあります。
それは新生したキリスト者の霊です。
イエス様は、「まことに〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ33・新改訳2017)と語られ、更に、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ36・新共同訳)と語られました。
神の霊から生まれた霊は聖いものです。そこにイエス様がお住みになられるのです。
更にイエス様が魂にも満ち、体にも満ちてくださったら素晴らしいです。
そのためには、魂のきよめが必要です。魂は、イエス様を信じた時に救わました(1ペテロ19)。魂は、救われた時に初次的聖化を受けました。即ち、イエス様を信じない魂から、イエス様を信じ、イエス様に従いたいという思いを与えられたのです。
そして、主と共に歩み続けることによって、あの部分もこの部分も一つ一つ、主は、主のみ旨と一致するように変えてくださるのです。これを聖化と言います。
主は、一人一人にご計画をお持ちですから、一人一人の聖なる歩みの外見は、皆同じ、というわけではありません。人と比べないように、人と比べるのではなく、わたしイエスについて来なさい、というのがイエス様の教えです(ヨハネ2122)。
主と共に歩めば、聖徒は益々聖なる者とされるのです(1ヨハネ17、黙示録2211参照)。
主と共に歩むという聖なる歩みは、益々豊かに、主の愛の中で、主のすばらしさを知り、主の豊かさを知りながら歩む地上生涯となるのです。
ヘブル1214には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主を愛し、主に信頼し続け、いつも主と共に歩む聖い歩みをする者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年7月11日 (土)

ヨシュア18:1-10 七つの部族の所有地の割り当て/御霊に満たされ御霊によって歩む

ヨシュア18章の本文(新改訳2017)は斜体です。 

1 イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らに服していたが、2 イスラエルの子らの中に、相続地を割り当てられていない七部族が残っていた。3 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。4 部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。5 彼ら自身でそれを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南にある自分の地域にとどまり、ヨセフの家は北にある自分の地域にとどまる。6 あなたがたはその地の七つの割り当て地を書き記し、私のところに持って来なさい。私はここで、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、あなたがたのためにくじを引こう。

 1節には、「イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕〔臨在の幕屋(新共同訳)、幕屋(リビングバイブル)〕を建てた。」とあります。
「会見の天幕」は、幕屋、主の幕屋、主の聖所、聖所、神の宮、・・等々と聖書に記されています。
幕屋(会見の天幕)の至聖所に契約の箱(あかしの箱、契約の箱、神の契約の箱、神の箱、・・等々ともいわれます)が安置されていました。
契約の箱は神の臨在の象徴でした。

 会見の天幕(幕屋)は、ヨルダン川を渡ってからしばらくの間はギルガルにありました(ヨシュア419)が、この時(ヨシュア181)「シロ」に移しました。
その後、神の箱(契約の箱)は、一時ベテルに安置されているのを見ます(士師記2026-28)。
1
サムエル11-333を見ると、その時代には、シロに神の箱(契約の箱)が置かれていたことが分かります。
その後の変遷を記すと長くなるので省略しますが、やがて、神の契約の箱は、ソロモンの神殿の至聖所に安置されました。
神の契約の箱は、B.C.586年のエルサレム崩壊時以来不明です。

 イエス様が地上におられた頃の神殿には、神の箱はありませんでした。
イエス様ご自身が神の神殿である(ヨハネ219-21)ので、ある意味、それはふさわしことであったのかも知れません。

さて、現在は、と言うと、新生したキリスト者が神の神殿(神の宮)なのです。
主なる神様は天におられますが、キリスト者の内にも住んでくださっておられます。
1
コリント316には、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っている・・。」(口語訳)と記され、
1
コリント619には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、・・」(新改訳第三版)と記されています。

 キリスト者は、聖霊に満たされ(支配され)、導かれて歩むことが期待されています。
エペソ518には、「御霊に満たされなさい。」(新改訳)とあり、
ガラテヤ516には、「御霊によって歩みなさい。」(新改訳)と記されています。

 御霊に満たされ、御霊によって歩むことが出来る為には、肉の処理が重要です。
ガラテヤ519-21は、肉の行為とはどのようなものかということを、
19 ・・・、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。”(新改訳2017)と記しています。
一言で言えば罪の行為です。

 キリスト者は、自分の肉を十字架につけたのです。
ガラテヤ524には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(新改訳2017)と記されています。

 私は、この聖句と共に、イエス様が十字架にお架かりになっておられたとき、イエス様の左右にいた強盗のことを夢うつつの中で教えられました(7/4のこと)。一人の強盗は、信仰告白をして、即刻パラダイスが約束されました。もう一人の強盗は、さんざん悪たれをついているのです。それこそ肉のなせる業です。
 キリスト者がキリストと共に十字架につけられたといっても、十字架の上で肉の行為を発散している場合もあります。イエス様に悪たれをついていた強盗のように。
キリスト者の場合は、肉体が死ねば、その行為も止みますが、願わくは、地上にいる間に肉の行為を終わらせたいと誰しもが思うことと思います。

 その秘訣は、ガラテヤ524の「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(新改訳2017)という御言葉を信仰によって実体化することです。そうして、御霊に満たされ、導かれて歩むのです。
主がその恵みを用意してくださっておられるのですから。

 また、そのような信仰に立ったにもかかわらず、肉の思いが出てくる場合は、サタンの配下の悪しき霊の仕業ですから、直ちに悪しき霊を主イエスの御名によって追い払うのです。すると、肉の思いは、スーッと消えます。消えない場合は、悔い改めてください。

7
しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。ガドとルベンと、マナセの半部族は、ヨルダンの川向こう、東の方で自分たちの相続地を受けている。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のしもべモーセが彼らに与えたものである。」

8 その人たちは立って出て行った。その際ヨシュアは、その地について書き記すために出て行く者たちに命じた。「さあ、あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに帰って来なさい。ここシロで、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、私はあなたがたのためにくじを引こう。」

9 その人たちは行って、その地を巡り、それぞれの町を七つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。

10 ヨシュアはシロで、すなわち主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で、彼らのためにくじを引いた。ヨシュアはそこで、彼らへの割り当てにしたがって、その地をイスラエルの子らに分割した。

 今日の聖書箇所は、
①既に相続地を与えられているルベン、ガド、マナセ、エフライム、ユダについて(5.7
②レビ人について(7
③これまでに相続地を与えられていなかった七部族に相続地を与える方法と相続地の割り当てについて(1-5a68-10
記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたの恵みによって救われ、
あなたの恵みによって、御霊によって歩める幸いを与えられ、
やがてあなたの恵みによって霊の体を与えられ、
とこしえに主と顔と顔を合わせて共に住まわせて頂ける恵みを感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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