救いの確かさ

2021年11月18日 (木)

キリスト者に与えられた恵み2/義認

 以前にも書きましたが、人は、生まれながらに罪をもって生まれてきます。
人は、生まれつきサタンの支配下にあります(エペソ2:1-3)。
人は、神の正しさ(義)の規範である律法を守ることが出来ません(ローマ3:10-12.23)。
それ故神にあっては、人は犯罪人です。不義の人に対する神の法廷における判決は、死刑というものでした。
ローマ6:23aには、“罪の報酬は死です。”(2017)と記されています。

 ローマ3:10には、「義人はいない。一人もいない。」(2017)、「正しい者はいない。一人もいない。」(新共同訳)と記されています。
神である主から見ると、人は生まれながらに悪人(悪い人)なのです。
聖書は、人を性悪(しょうわる)であると述べています。

 アダムは、罪を持たない人として創造されました。
しかし、ある時、神よりもエバを愛し、サタンの誘惑に乗ってしまったエバの勧めを断ることが出来ず、神に禁止されていた唯一の条項を破って堕罪しました(創世記3章)。
アダムは人の祖先です。
人は堕罪したアダムの罪の性質を受け継いで生まれることとなったのです。
それ故、アダムの子孫である人間は、罪の性質をもって生まれてくるようになりました(ローマ5:12、詩篇51:5)。

 罪を持たずに誕生し、罪を犯さずに生涯を終えた人は、神が人となられたイエス・キリスト様ただ一人です。

 義と認める(義認)とは、それは主なる神の法廷上におけることであり、人は、義なる行為が完璧に出来るようになるというものではありません。
おそらく義なる行為を自然に行うことが出来るようになるのは、黙示録19:8の時以降のことではないかと思います。
霊の体を与えられたからといって、それだけで義の行為を完璧に行えるものではないのだろうと思います。
サタンは、元大天使であり、サタンに従った多くの堕天使たちも、霊的存在者でしたから。

 さて、主である神様は、どのようにして不義なる人を義と認めることができたのでしょうか?
聖句は次のように教えてくれています。

 ローマ3:21-31は次のように述べています。
 新共同訳には、
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”と記されています。

 リビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。何もしていません。なぜでしょう。私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。それは、キリスト様が成し遂げてくださったこととキリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。
29 神様はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。
いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神様のもとに行くことができます。
30 神様はすべての人を全く平等に取り扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰があれば無罪とされるのです。
31 それでは、信仰によって救われるのなら、もはや神様のおきてに従う必要はないことになるのでしょうか。正反対です。実のところ、私たちはイエス様を信じきってこそ、ほんとうに神様に従うことができるのです。”と記されています。

 1コリント1:30を、
 新改訳第3版は、“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と記し、
 口語訳は、“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。”と記しています。

 ローマ4:25を、
 2017は、“主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。”と記し、
 新共同訳は、“イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。”と記しています。

 義認について聖書辞典は次のように述べています。
義認は司法的宣言行為であるから、神に義と認められるためには、神との間に正しい法的関係が存在しなければならない。しかし、罪人にはそれがないし、また罪人自身にそれをつくり出すことはできない。それは、神によってのみ可能なのである。神は単に御自分との正しい関係を宣言されるだけでなく、その正しい関係をつくり出してくださるのである。それは,キリストの義を罪人に転嫁することによってなされる。その転嫁されたキリストの義に基づいて義と認められるのである。キリストの義とは、キリストが十字架の死に至る完全な従順によって獲得された義のことである。
 義認の根拠はこのキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。しかし、創世記15:6、ローマ4:3.9.22、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23で、アブラハムについて、「彼は主を信じた.主はそれを彼の義と認められた」と言われていることから、アブラハムが義と認められた根拠は彼の信仰であったと理解されやすい。もしそうであったとすれば,アブラハムは信仰のゆえに義とされたということになる。しかし、聖書は決してそのような理解を示してはいない。聖書は常に、信仰によって、信仰を通して、信じて、義とされると言っているのであって、信仰のために、信仰のゆえに義とされるとは決して語っていないのである。義認の根拠は罪人に転嫁されたキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。
 しかし,キリストの義が罪人に転嫁されるのは信仰によって、信仰を通して、である(ローマ1:17、3:22.25‐28.30、4:3.5.16.24、5:1、ガラテヤ2:16、3:8‐9、5:4‐5、ピリピ3:9)。
 ここで誤解してならないことは、この信仰は私たちが義と認められていることを信じる信仰のことではない。すなわち、すでに義と認められているのにそれを知らず、あるいは、疑っていた人が真実を知り、信じるようになるという意味の信仰のことではない。
 信じることによって初めて義と認められる信仰のことである。キリストを信じる信仰が義認に先行するのであって、義認が信仰に先行しているのではない。
 ただし、神の永遠の計画において、キリストにあって救いに選ばれた者は、永遠においてすでに義と認められているとか、キリストが十字架の死に至る従順を全うされた時に、キリストにあって選ばれた者はキリストにあってキリストと共に従順を全うしたので義と認められていると言われるような意味の義認であるならば、信仰に先行していると言うこともできるであろう。しかし、それは神の計画の上でのことであり、また十字架のキリストにおいて起っていたことであって、この世に生きている者が現実に義と認められるのはキリストを信じる信仰によってのみなのである。
”(抜粋・筆者:松田一男氏)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
わたしの様に、不義の内に生まれた者が、あなたの恵みによって義と認めて頂けましたことを感謝します。
イエス様、あなたの十字架と復活を感謝します。
日々、御聖霊に導かれ、助けられて、できるだけ義なる歩みをしていくことができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2020年7月18日 (土)

ヨシュア23:6-11 神の民であるイスラエルは律法を守れ/救いときよめについて(主と共に歩む)

ヨシュア23章の本文(新改訳2017)は斜体です。

6
また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にすがりなさい。9 〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛しなさい。

 今日の箇所は単純明快です。
①ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守りなさい(6.7.8.11)。
②ヤハウェを愛し、ヤハウェに信頼し、律法を守る者には祝福が与えられる(9.10)。

 律法を守ることによる祝福については、申命記28章に、
1 もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。9 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。10 地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルは神の民とされた民族です。それを出エジプト記3章から見ると、
7 ・・。わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。・・。10 今、行け。わたしは、あなた〔モーセ(筆者挿入)〕をファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(新改訳2017)とあります。

 主(ヤハウェ)なる神様は、主の民をエジプトから救い出した後、イスラエルに律法を与え、イスラエルは律法を守ると約束し、そこに旧契約が実現したのです。
契約を結んだ箇所は、出エジプト24章に、
3 モーセは来て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。」4 モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げた。6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言われたことはすべて行います。聞き従います。」8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたと結ばれる契約の血である。」”(新改訳2017)と記されています。

 私たちキリスト者からすれば、以上が旧契約です。
そして、この契約には、祝福と呪いが伴いました。
申命記11章に、
26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。27 祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令〔律法のこと(筆者挿入)〕に聞き従った場合であり、28 のろいとは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルの歴史は、主が約束を実行されたことを見せてくれています。
主が語られた御言葉は実現するのです。
ルカ137には、いつも御父の近くで仕えている天使ガブリエルの言葉が、「神が語られたすべてのことば(「語られたことば」の原語は「レーマ」)に、不可能なことは何もない。」(私訳)と記されています。(新改訳2017のルカ137の欄外を参照してください。)
この箇所を文語訳は、「それ神の言(ことば)には能(あた)はぬ所なし」と訳しています。

 さて、キリスト者の場合、今日の聖書箇所をどのように考えたら良いのでしょうか?
キリスト者の中には、律法不要論の人がいます。
しかし、イエス様は、律法は天地が滅び失せない限りなくならない、と語られました。
マタイ518には、「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(新改訳2017)と語られ、それに続いて、「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」(マタイ519・新改訳2017)と語られたのです。

 キリスト者の中には、このような聖句に触れると、律法を守らなければ救われないのだろうとか、と不安を覚える人もいますが、上記の御言葉は天の御国に入っている人に対しての御言葉です。

 ご安心ください。
救いは、律法を守れるか守れないかとは関係ありません。
イエス・キリスト様を信じる者は誰でも救われるのです。
ローマ人への手紙10章には、
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。”(新改訳2017)と記されています。

 イエス様を信じた人は「永遠のいのち」を得ます(ヨハネ336)。
イエス様を信じた人は、永遠の滅びへ行くという裁き(火と硫黄の池)を受けることがありません(ヨハネ318)。{キリスト者は、キリストの裁きの座に立たされる、というのはあります(2コリント510)。このさばきは報酬と関係があります(1コリント310-15、マタイ2514-30、ルカ1912-27参照)。}
イエス様を信じた人は神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
イエス様を信じた者の集合体{教会(エクレシア)}はキリストの花嫁です(2コリント112、エペソ532、黙示録196-8)。
イエス様を信じた結果与えられた驚くべき恵みです。

 今日の聖書箇所は、救われたキリスト者の聖なる歩みに関することと関係します。
キリスト者が地上に置かれているとき、キリスト者は、主のみ旨の内を御霊の導きによって歩むほうが、そうではない歩みよりも御父から祝福されます。この祝福は霊的なものです。とはいえ、物質的にも祝福される場合が多いですが、物質的祝福については絶対とは言えません。しかし、主は必要を満たしてくださいます(ピリピ419)。
主のみ旨の内を歩む歩みを聖い歩みと言います。
きよい歩みのすばらしさは、主をより豊かに知ることが出来ること、主との交わりがとても豊かになることです。きよい歩みの根底には、主への愛があります。
 世の中には、主イエス様を信じようとはしないけれども人格的に優れている人たちがいます。そのような人達は、対人的に、ある意味かなり正しい人かもしれませんが、きよくはありません。
黙示録2211に、「・・・。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」(新改訳2017)という面白い表現の聖句が記されています。
私たち、キリスト者は、「聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい。」に該当します。
本質的に聖なるお方は、三一の主なる神様だけです。
聖とは、他の者と区別されている、ということです。
主のお名前は、ヤハウェですが、ヤハウェには、自存と永遠という意があります。
自存にて永遠なるお方は、主しかいません。それ故、主は聖なるお方です。
他のすべてのものは、主によってつくられたもの、すなわち被造物です。
但し、例外が一つあります。
それは新生したキリスト者の霊です。
イエス様は、「まことに〔原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ33・新改訳2017)と語られ、更に、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ36・新共同訳)と語られました。
神の霊から生まれた霊は聖いものです。そこにイエス様がお住みになられるのです。
更にイエス様が魂にも満ち、体にも満ちてくださったら素晴らしいです。
そのためには、魂のきよめが必要です。魂は、イエス様を信じた時に救わました(1ペテロ19)。魂は、救われた時に初次的聖化を受けました。即ち、イエス様を信じない魂から、イエス様を信じ、イエス様に従いたいという思いを与えられたのです。
そして、主と共に歩み続けることによって、あの部分もこの部分も一つ一つ、主は、主のみ旨と一致するように変えてくださるのです。これを聖化と言います。
主は、一人一人にご計画をお持ちですから、一人一人の聖なる歩みの外見は、皆同じ、というわけではありません。人と比べないように、人と比べるのではなく、わたしイエスについて来なさい、というのがイエス様の教えです(ヨハネ2122)。
主と共に歩めば、聖徒は益々聖なる者とされるのです(1ヨハネ17、黙示録2211参照)。
主と共に歩むという聖なる歩みは、益々豊かに、主の愛の中で、主のすばらしさを知り、主の豊かさを知りながら歩む地上生涯となるのです。
ヘブル1214には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主を愛し、主に信頼し続け、いつも主と共に歩む聖い歩みをする者であらせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2019年3月14日 (木)

箴言14:25-28 イエス様を信じる者は永遠の命を持つ

(斜体文は口語訳1955
 14:25まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。
新改訳2017は「真実な証人は人のたましいを救う。欺く者は偽りを吹聴する。」と訳し、
新共同訳は「真実の証人は魂を救い、欺きの発言をする者は裏切る。」と訳しています。
前半部分の「人」(口語訳)、「魂」(新改訳・新共同訳)と訳されている語の原語は「ネフェシュ」で、「魂」or「人」のどちらにも訳すことが可能です。
リビングバイブルは「ほんとうのことを言う証人は無実の罪をはらしてくれますが、うそつきの証人は平気で裏切ります。」と訳しています。
後半部分に「証人」と訳せる単語はありませんが、リビングバイブルは、前半の部分の意味を考慮して、後半も証人のことを言っているのだろうと推測したのではないかと思います。
世の中には、嘘をついても良心が痛まない人がいるようですね。良心が麻痺しても、主なる神様が、そのままにされてしまう状態になったら恐ろしいことです{(参考)ローマ118-31}。
ローマ124には「そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」(新改訳2017)と記されています。

 14:26主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。
新改訳第三版は「力強い信頼はを恐れることにあり、子たちの避け所となる。」と訳し、
新共同訳は「主を畏れれば頼るべき砦を得、子らのためには避けどころを得る。」と訳し、
リビングバイブルは「神様を恐れ大切にする人は頼りがいがあるので、子供たちは安心して頼ります。」と訳しています。
原文は上記のどのようにも訳せる文だと思います。
前半部分の「主」と訳された語の原語は「ヤハウェ」です。即ち永遠の存在者です(出エジプト313-15)。
「恐れ」(新改訳)、「畏れ」(新共同訳)と訳された語の原語は「イルアー」で、恐れ、恐怖、畏れ(畏敬)の意があります。
新改訳2017は「力ある拠り所は主を恐れることにあり、それは主の子らの避け所となる。」と訳していますが、後半部分の「主の子らの」の「主の」という語は原文にはありませんが、その様に解釈したのであろうと思います。原文は「彼の息子たち」です。ですから、「彼」をヤハウェとして取ったか、ヤハウェを信頼する人として取ったかによって、訳が変わってきます。私は、どちらも実際にはあることであると思います。
いずれにしても、主を畏れ敬い、信頼し、主を愛するということは、神の子どもとしての基本ですね。

 14:27主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。
主を畏れる(畏れ敬うこと)ことは、命の泉or命の源であり、人を死の罠から逃れさせるor避けさせるor離れさせる、ということです。
「主」の語の原語は「ヤハウェ」です。イエス{(ヘ)イエシュア}はヤハウェは救い(救う)の意です。
マタイ121には、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(新共同訳)という天使の言葉が記されています。

 キリスト者はイエス様を信じて死から救われ永遠の命を得た者です。
ヨハネ336には「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(口語訳)とあり、
ヨハネ1126には「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(新共同訳)というイエス様の御言葉が記されています。イエス様を信じた者は、御霊から新しく霊の誕生をしました。
ヨハネ33.6には「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。/肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳)というイエス様の御言葉が記されています。
神の霊から生まれた霊は永遠なのです。
その上、1コリント617には「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」(新共同訳)と記され、更にまた、イエス様は「永遠の命」そのものです(1ヨハネ11.2)。
∴新生したキリスト者の本体は霊です。主と一つ霊とされた霊のもとに歩んでいる人は霊の人です。1コリント31-4(新共同訳)には「霊の人」、「肉の人」、「ただの人」という表現が出てきます。
しかし、イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ1125・新共同訳)とも言われました。
肉(アダム経由の親)から生まれた肉体は、イエス様の地上再臨の前に心臓が止まれば死にます。しかし、イエス様を信じる者の体はよみがえるのです。但し、肉の体へとよみがえるのではなく、永遠に朽ちることの無い霊のからだによみがえるのです。
1
コリント1544には「肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。」(口語訳)と書いてある通りです。

 老人性うつ病の原因の一つに「死」があります。「死」の本当の解決は、まことの救い主であるイエス様を信じることのみです。しかし、イエス様を信じようとしない人、信じることのできない人は、「死」を受容するか、絶望するか、恐怖の内に死んでいくのです。しかし、その人の魂は生きています。そしてやがて最後の審判の時を迎えることになるのです。永遠の命を持っていなければ(与えられていなければ)、第二の死を迎えることになるのです(黙示録206.11-15、黙示録218)。

 14:28王の栄えは民の多いことにあり、君の滅びは民を失うことにある。
新改訳2017は「王の栄えは民が多いこと。君主の滅びは国民がいなくなること。」と訳しています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様の尊い御救いにあずからせて頂けましたことを感謝します。
死の恐怖から解放されただけではなく、日々イエス様との豊かな交わりを与えられて歩ませて頂けますことを感謝し、御名を崇め、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2018年4月17日 (火)

申命記28:1.2.15 ヤハウェ(主)からイスラエルに臨む祝福と呪い(キリスト者は祝福されている)

28:1もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。
28:2
もし、あなたがあなたの神、主の声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:15
しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。”(口語訳1955

 岩波訳は、1.2.15節を、「1.2あなたが、あなたの神ヤハウェの声に忠実に聞き従い、今日私があなたに命じるそのすべての戒めを守り行うなら、あなたの神ヤハウェはあなたをこの地のすべての国民の上に高くあげるだろう。これらのすべての祝福があなたに到来し、あなたに臨むであろう。それは、あなたがあなたの神ヤハウェの声に聞き従うからである。/15 しかし、もしあなたがあなたの神ヤハウェの声に聞き従わず、今日私があなたに命じるすべての戒めと掟を守り行わないなら、これらすべての呪いがあなたに到来し、あなたに臨むであろう。」と訳しています。

 一言で言えば、イスラエルが律法を守れば、イスラエルに、ヤハウェ(主)から、もろもろの祝福が与えられ、イスラエルが律法を守らなければ、イスラエルに、ヤハウェ(主)からもろもろの呪いが与えられる、というものです。

 イスラエルは、ヤハウェ(主)なる神様が律法(戒めと掟)を提示したとき、律法を守り行います、という契約を、ヤハウェなる神様と結んでいました。それは、出エジプト201-248に記されています。

 私たちが現在所有している聖書は、旧約聖書と新約聖書の両方から構成されています。
かつてイスラエルとヤハウェ(主)なる神様の間で結ばれた契約を旧契約(旧約)と言います。
一方、私たちキリスト者は、主なる神様と新契約(新約)を結んだ者たちなのです。
新契約とは、イエス様が、「あなたがたの為に流される私の血による新しい契約です。」(ルカ2220)と語られたことに基づきます。
パウロは、福音について、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、・・・略・・・です。(1コリント152-5・新共同訳)と述べています。
また、パウロは、エペソ人への手紙で、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物〔ギフト(筆者挿入)〕である。」(28・口語訳)と述べています。
「恵み」と「報酬」は異なります。報酬は、働きに対する対価です。一方、「神の恵み」は、神様の慈愛に基づく神様からの贈り物です。
イエス様の十字架と復活は、私たち信じる者にとって(信仰も贈り物です)途轍もなく素晴らしい恵みでした。イエス・キリスト様の血には罪を赦し、きよめる力があるのです(ヘブル922、エペソ171ヨハネ17)。イエス様を信じた者は、イエス様に結び付けられました。それ故、イエス様の復活とも結びあわされたのです。イエス様を信じた人は、イエス様を信じた瞬間に、御霊から霊の誕生をしたのです(ヨハネ36)。そして、キリストの空中再臨の時に霊のからだに復活するか、変えられます。キリストの空中再臨前に肉体が死んだ(霊は永遠に主と共に生きていますが、肉体は土葬されたので「眠っている」と表現されます)人は、キリストの空中再臨時に、霊のからだに復活し、キリストの空中再臨時に、地上の肉体をもって生きている人は、霊の体に変えられるのです(1コリント1520-23.51-531テサロニケ413-17)。父なる神様は、イエス様を信じた者に、天にあるすべての霊的祝福を与えて下さったのです(エペソ13)。信仰がなければ荒唐無稽ですが、信じる者は体験するのです。

 旧契約に基づく祝福は、律法に聞き従うことにより与えられたのでしたが、新契約に基づく祝福は、イエス様を信じること(イエス様を心にお迎えすること)により与えられる途轍(途方)もない祝福なのです。行いによる祝福ではなく、イエス様を信じる即ち心にお迎えすること(ヨハネ112、黙示録320)に基づく祝福なのです。
キリスト者は、
イエス様を信じることによって、罪を赦された者であり、同時に、新生した者(御霊から新しく生まれた霊を持つ者)であり、キリスト者の行いは、その結果ついてくるものなのです。行いによって救われるのではありません。イエス様を信じたものには聖霊(御霊)が与えられる(ヨハネ1416.17)ので、主のみ旨を行うことができるように造りかえられていくのです(2コリント318)。御霊の実を実らせるようになるのです。「・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ522.23・新改訳2017)。愛があるなら福音のために働くこともします。愛があるなら自分だけよければそれで充分、とはなりません。主に対する愛があるなら、主が、~しなさい、と言われたことをするでしょう。但し、主のご命令は肉の力ですることの出来るものではありません。御霊によるのです。
エペソ28-10には、
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
2:10
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである〔created
in Christ Jesus
NKJV)〕。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”(口語訳)と記されています。

 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちキリスト者は、既に祝福されている者であることを感謝します。
もしサタンにごまかされている人がいましたら、助けてあげて下さい。
限りない感謝をもって主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2016年3月 6日 (日)

マルコ15:37-41 主イエス様が息を引き取られた時の情景

15:37イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
15:38そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
15:39イエスにむかって立っていた百卒長〔百人隊長(新改訳)〕は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
15:40また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。
15:41彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。”(口語訳)

 この箇所を補うためにヨハネ19:30-37を下記します。
“19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
19:32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
19:33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
19:34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
19:35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。
19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。”(新改訳)
 マルコ15:37-39には、
“イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。”とあります。
「神殿の幕」といってもイスラエル人でない者、或いは旧約聖書を読んだことのない者にとっては、何のことか分かりませんので、まとめて書いてあるヘブル9:1-7を下に転記します。
“9:1 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
9:3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
9:4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
9:5 また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋〔聖所(筆者挿入)〕には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋〔至聖所(筆者挿入)〕には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。”(新改訳)

 キリストの贖いが成就した時、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです。
そして、イエス様を信じる者は、イエス様の血によってはばかることなく、神の臨在の場所へと入ることが出来るようになったのです。
ヘブル人への手紙9:1-7に続いて、9:8-15には、
“9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9:9 この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
9:10 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊〔"霊"(新共同訳)、原語は「霊」であって、聖霊ではありません(筆者挿入)〕によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。”(新改訳)と記されています。

 また、ヘブル4:15.16には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(新改訳)と記されています。
イエス様が贖いを成し遂げられた結果、誰でもイエス様の血の故に、大胆に恵みの御座の前に出ることが出来るようになったことを、上から下まで割かれた神殿の垂れ幕を見ることによって納得させられるのです。また、この時に、旧約から新約へと契約が変更されたのです。

 直接神様のみ前に出ることが出来るようになったというだけではなく、神様は、私たちイエス様を信じる者に対し、聖霊によって、イエス様を信じた者の霊を再生してくださり、その霊の内に主がお住まいくださったのです。キリスト者の霊はまさに至聖所に相当するのです。

 話を元に戻しますが、「イエスにむかって立っていた百卒長〔百人隊長(新改訳)〕は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』。」(マルコ15:39)と記されています。
イエス様が十字架に張り付けられたときの態度、十字架上の態度、十字架上で語られたことば、暗闇が3時間続いたこと、等々を目の当たりにした百人隊長は、「イエス様は神の子であった」、と心に強く感じたのでしょう。

 ヨハネ19:31には、「 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。」とあります。
「その日は備え日であった」とあります。
何の備え日であったのでしょうか。
イエス様が十字架の上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。日没とともに土曜日の安息日が始まるのがユダヤの暦です。その上、この安息日は一年の中でも特別の日で過越しの祭りの第一日目であったのです。
新聖書注解によると
“エルサレム神殿では、過越しの祭りを迎える夕べの礼拝がいつもより早く、午後一時半頃から始まっていた。そして神殿で過越しの子羊がほふられる午後三時頃、まことの過越しの子羊であるイエスが十字架上で息を引き取られたのである。・・・・。安息日が始まる前に、十字架につけられた者たちの死体の埋葬が出来るように、ユダヤ人たちは、「すねを折って」死を早めることをピラトに願い出た。ユダヤの律法によると、死刑にされた者の死体を翌日まで木の上にかけておくことは出来なかったからである(申命記21:22.23)。”とあります。

 コロサイ2:16.17には、「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(新改訳)とあります。
イエス様が十字架上で過越しの子羊、即ち予型ではなく実体である神の子羊として贖いを成し遂げられた後は、ユダヤの過越しの祭りは必要がなくなったのです。しかし、霊の目が開かれない人達は旧約聖書に示された祭りを続けていきました。イエス様を信じて霊の目を開かれた人たちは、ヘブル9:14に「死んだ行いから離れ」とあるようにユダヤ神殿で過越しの動物を屠ることはやめたでしょう。

 話を元へ戻します。ヨハネ19:32.33を読むと、「それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」と記されています。
また、ヨハネ19:36には、「この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない』という聖書のことばが成就するためであった。」と記されています。
これは、詩篇34:20に記されている「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」(新改訳)という聖書のことばの成就であった、とヨハネは語っているのだと思います。

 ローマの兵士は、イエス様が死んでいるのを見届けた(33)にもかかわらず、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。」(34)のです。すると、「ただちに血と水が出て来た」(34)のです。
「血と水が流れ出た」ということについてですが、それによってイエスの死をより確かに確認したという見えるところの物質的な意味よりも、霊的な意味に大いなるものがあります。
「イエスの血」は、罪を贖う血です。イエス様の血によって罪は赦され、聖くされるのです。
「水」にはいくつかの解釈がありますが、私は、「生ける水」と捉えます。
イエス様はかつて、“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。”(ヨハネ7:37-39・新改訳)と言われました。

 神様は、アダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを造り(創世記2:7)、アダムの妻としました(創世記2:22-24)。
神様は、イエス様の脇腹から流れ出た血と水によって、新創造された(2コリント5:17)キリストの妻である教会を生み出しました(エペソ5:32)。

 人は、自分の行いによって義を得るのではなく、キリストの血によって、罪を赦され、聖とされ、義とされるのです。キリストの血はすでに流されましたが、その血を自分に適用する為には信仰が必要なのです。自分の行いに重きを置いた時には、キリストの血を脇に退けているのです。キリストの血の他に救いはありません。キリストの血だけが救いの根拠です。キリストの血に目を留めることを忘れ、自分の行いに目を留める人は洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。
エペソ2:8.9には、「あなたがたは、恵み〔ここではキリストが十字架上で流された(筆者挿入)〕のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。」(新改訳)と記されています。
(ヘブル9:22)には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(新改訳)としるされ、
イエス・キリスト様を信じた人に対して、「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル10:10・新改訳)、また、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです〔永遠に完全な者となさったからです(新共同訳)〕。」(ヘブル10:14・新改訳)とへブル人への手紙の執筆者は聖霊の導きによって記しました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様が贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
イエス様の血の故に、罪赦され、義とされ、聖とされましたことを感謝します。イエス様は、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と語られましたが、私の内からも流れ出て、あなた様が私のような者をも通しても崇められてまいりますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年1月26日 (火)

マタイ23:13-15 律法学者、パリサイ人たちへの警告1(自分たち及び他の人々に対し神の国の門を閉ざして入らせないようにしている)

23:13偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(新改訳)〕
23:14{偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人(新改訳)〕。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。}
23:15偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人(新改訳)〕。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。”(口語訳)

 14節は主要な写本には欠けているとのことです。


 ギリシャ語聖書の語順は、新改訳のように、「わざわいだ」から始まります。
13節には、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。」(新改訳)とあります。
恐らくこの箇所のイエス様の言葉は、「です・ます」調ではなかったことでしょう。
「人々から天の御国をさえぎっている。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせない。」とはどういうことでしょうか。
イエス様は公生涯の初めから、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15・新改訳)と語られました。

 更に時がたち、イエス様は、「神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」(ルカ17:21・新改訳)と語りました。NKJVは、"the kingdom of God is within you."と訳しています。
イエス様による救いを確信しているキリスト者の方は、自分の内にイエス様が住んでくださっておられることを確信していることでしょう。ガラテヤ4:6には、「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」(口語訳)と記されています。
キリスト者が救われたのは、イエス・キリスト様を信じたからです。心に受け入れたからです。

 律法学者やパリサイ人たちは、口伝律法を含む彼らの解釈に基づいた律法を行うことによって、自分自身も救われようとし、他の人にも律法を行うように勧めていたのです。その結果、そのようにするすべての人を神の国から遠い者としてしまいました。
神様が与えられた律法は義なるものでありますから善いものなのです。
イエス様は、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:18.19・新改訳)と語られました。

 救われる前のパウロは、熱心なパリサイ人でした。パウロは、「きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人」(新改訳)とピリピ3:5に記し、また、「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」(使徒26:5・新改訳)とアグリッパ王に語っています。
そのパウロが、ローマ3章で語ったことは次の通りでした。それは、
“3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”(新共同訳)と記されています。

 この箇所は、熱心なパリサイ人であったパウロの証であったと思います。それと同時に、神の前に義とされるのは律法を行うことによるのではなく、罪を赦すための血を流されたイエス・キリスト様を信じる信仰によるという宣教の言葉です。
前述しましたが、神様のおことばに生きることは良いことです。しかし、神様のおことば通りに生きることが出来ないのが人間なのです。それは原罪をもって生まれてきているからです。それ故、教えられなくても罪を犯してしまうのです(ローマ5:12-14)。また律法によって救われるためには律法の全部を行う必要があったのです。一つ破っただけでもだめなのです。ヤコブ2:10には、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(新共同訳)とあります。
イエス様は、律法は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37-39・新共同訳)というおことばに基づいていると語られましたが、元来が自己中心的な私たち人間に守れるはずはないのです。守れる唯一の状態は内なる御霊様が完全にその人を支配してくださっておられる時です。その時、その人からイエス・キリスト様が現れるのです。その時、ローマ3:31にあるように「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(新共同訳)というおことばが、行いにおいて成就するのです。

 イエス様を信じて洗礼を受け、キリスト者として歩み出したのに、いつの間にか律法主義に陥ってしまう人がいます。その結果、律法を守れない自分は救われていないのではないだろうかというように、行いによる救いという捉え方になってしまって、救いの確信が揺らいでしまう場合も出てくるのです。そのような人が引っ掛かるおことばが、「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:26.27・新改訳)というイエス様のおことばです。

 救いは徹底して信仰によります。
ヘブル人への手紙10章には、
“10:10 ・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」”(新改訳)と記されています。

 マタイ23:15には、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」とあります。
新聖書注解によると、
“彼らは熱心に異邦人に伝道したが、それは改宗者を「自分より倍も悪いゲヘナの子にする」ことであった。異邦人で割礼まで受けてユダヤ教徒になった「改宗者」は、生来のユダヤ教徒より熱狂的になり、それだけひどいパリサイ主義の奴隷になってしまったのである。”とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様の十字架による贖いを信じさせていただけましたことを感謝します。
自分の生まれながらの力をもって全身全霊をもって神様を愛し、また隣人を愛するなどということは私にはとてもできないことです。
しかし、内に住まれる御霊様によって、神様を愛し、隣人を愛する歩みをしていくことが出来ますように。
律法主義に陥ってしまっている兄弟姉妹がおりましたら助けてあげてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年1月 6日 (水)

ルカ18:31-34 3度目のキリストの死と復活の予告

18:31イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう〔人の子について預言者が書いたことはみな実現する(新共同訳)〕。
18:32人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、
18:33
また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。
18:34弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。”(口語訳)

 イエス様は十字架を目前にして、3度目の死と復活の預言を12弟子になさいました。
聖書、即ちイエス様が地上におられた時には新約聖書はなく旧約聖書しかなかったわけですが、イエス様ご自身の死と復活は、預言者たちによって聖書に記されてあり、ご自身の死と復活について記されている預言は成就する、とイエス様は語られたのです(31)。旧約聖書の最も大切な内容のジャンルの一つはイエス様についての預言、イエス様の予型にあったのです(ヨハネ5:39))。

 マタイの福音書に記されている「死と復活の3度の予告」を新改訳で下記しておきます。
1回目:(マタイ16:21)
「その時〔ピリポ・カイザリヤにおけるペテロの信仰告白とイエス様の教会建立言及の時(筆者挿入)〕から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
2回目:(マタイ17:22.23)
「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」
3回目:(マタイ20:17-19)
「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられた〔エルサレムに上る途上にあった(岩波訳)〕が、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」

 私が救いを求めていたころ(求道中)、私は預言を重視していました。多くの宗教書が巷には溢れていましたが、どれを信じることが出来るのだろうかと。
釈迦の誕生に関しては、予言があったと記されている本がありましたが、孔子やソクラテスやマホメットに関しては誕生前にその人に関する予言があったと記されている本があることを私は知りません。
一方、キリスト(メシア)に関する預言は、旧約聖書に数多くあり、且つそれは時代を超えた多くの預言者によって記されたものなのです。それだけでも驚きでしたが、その上、聖書の預言の凄さを、申命記18:21.22の「あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(新改訳)というおことばから知りました。
世の中に予言者であると自称により、あるいは他称によって名前の挙がる人はいますが、100%預言を的中させる人などいないのです。ノストラダムスでさえはずれです。外れた人の預言は、まことの神様からのものではなく他の霊{悪しき予言の霊(悪しきと言っても光の御使いにも変身します)}からのものです。

 イエス様に関しては、イエス様の死について、イエス様の死が何をもたらすかについて、イエス様の復活について、復活後のイエス様はどうなるのかについて、イエス様の再臨について等々数多くの預言が為されているのです。すでに起こったことは実現したのです。例えば50の預言がすべて間違いなく実現するという確率は、8.882×10の16乗分の1だそうです。誰でも兆や京の数の単位なら知っていると思い50の預言としましたが、実際はイエス様に関する預言はそんなに少ないものではないのです。

 神様は、私のように聖書を疑いの目をもって見る者をも、「聖書は真理だよ。」と示してくださっておられたのです。10000の預言がすべて当たる確率は5.0124×10の3011乗分の1だそうです。旧約聖書は預言で満ちていますから様々な預言を合わせるとその当たる確率は驚異的です。神様は、神様が遣わした預言者の預言は一つも外れない、預言が外れたとしたら、その預言者は偽物だ、と言われたのです。

 34節には、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。」と記されています。
弟子たちは今回を含めると、3回もイエス様の死と復活の預言を聞いたのに理解できなかったのです。イエス様が語られたことの真意を理解することが出来るためには、聖霊の助けが必要なのです。
ヨハネ16:13には「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(新改訳)と記されています。
また、ヨハネ16:4には、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」(新改訳)という主イエス様のおことばもあります。

 コロサイ1:9-12にはパウロのとりなしの祈りが
“1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれあらゆる善行のうちに実を結び神を知る知識を増し加えられますように。
1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐寛容を尽くし、
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。”(新改訳)と記されています。
下線部分に属するようなものは、肉の努力によってではなく、恵みにより、信仰により、祈りによってもたらされるものなのであると教えられます。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたが預言を与えてくださいましたことを感謝します。
疑い深い私のような者でも、預言の成就を見させて頂いたとき、目の前が開かれました。
私の体験では、神様が創造主であることも、イエス様が救い主であり、イエス様を信じればそれだけで救われる、ということも聖霊様の関与であったと体験後に確信したことでした。
私が救われたのは、父子聖霊なる三位一体の神様の御業であったのです。
絶えざる感謝をもって主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2015年10月17日 (土)

マタイ12:46-50 イエス様の霊の家族

12:46イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。
12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。
12:48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。
12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。”(口語訳)

 12節に、「兄弟たち」とありますが、イエス様の地上における肉の兄弟と言われていた人達の名前は、マタイ13:55に、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダと記されています。

 マルコ3:21には、イエス様の母と兄弟たちとが、イエス様を連れ戻しに来た、と次のように記されています。
「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである。」(新改訳)
新共同訳には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」と訳されています。

 地上の両親から生まれただけの人は、霊の世界のことに関して正しく理解する能力を持っていません。それは、神に対して霊が死んだ状態のままであり、神の霊によって新たに生まれるという経験を経ていないからです。神の霊によって新しく生まれることが出来るためには、主イエス・キリスト様を信じる必要があります。主イエス様を信じたとき、神の霊即ち御霊によって、イエス様を信じた人の内に、新たにその人の霊を生まれさせて戴けただけではなく、その霊の中に御霊即ち聖霊様が住んでくださるのです。それ故、聖書は、イエス様を信じた人を「新しく造られた者」と言っています。
以下にこれらの関連聖句を記します。
 ・(ヨハネ3:3-8)
“3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊〔御霊(新改訳)〕とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊〔御霊(新改訳)〕から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊〔御霊(新改訳)〕から生まれた者も皆そのとおりである。」”(新共同訳)
 ・(使徒2:38)
“そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」”(新改訳)
 ・(1コリント6:17)
“・・主と交われば一つ霊となる・・”(新改訳)
 ・(ガラテヤ4:6)
“あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。”(新共同訳)
 ・(1コリント6:19)
“あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる神から受けた聖霊の宮・・”(新改訳)
 ・(2コリント5:17)
“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(新改訳)
"Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; old things have passed away; behold, all things have become new."(NKJV)
 ・(1コリント2:9-14)
“2:9 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と〔イザヤ64:4、65:17に(筆者挿入)〕書いてあるとおりです。
2:10 わたしたちには、神が“霊”〔御霊(新改訳)〕によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”〔御霊(新改訳)〕は一切のことを、神の深みさえも究めます。
2:11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
2:12 わたしたちは、世の霊〔悪しき霊、{参照:1ヨハネ5:19}(筆者挿入)〕ではなく、神からの霊〔御霊(新改訳)〕を受けましたそれでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです
2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”〔御霊(新改訳)〕に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
2:14 自然の人〔両親から生まれただけであって御霊によって生まれていない人(筆者挿入)〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊〔御霊(新改訳)〕によって初めて判断できるからです。”(新共同訳)

 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた(46)のを知った人の中から、ある人がイエスに、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」(47)よ、と教えてくれた人に、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(48)とイエス様は言われたのです。
そして更に、弟子たちの方に手をさし伸べて、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(49.50)と言われたのでした。
肉の世界の親兄弟ではなく、神の霊によって生まれた兄弟姉妹たちこそ永遠に続く兄弟姉妹たちであることを語っています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
普通、人間は、肉親への情をもっていますが、肉の繋がりはこの世だけのものであることを覚えます。
永遠に続く家族関係は、神の霊によって、新たに誕生した者たちによって構成されるものであることを覚えます。
願わくは、肉における家族も皆救われて、霊の家族としても永遠を共にすることが出来ますように。
使徒16:31の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(新共同訳)とのおことばを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:17-19・新改訳)
 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」(ローマ8:29・新共同訳)

2015年10月 4日 (日)

マタイ7:13.14 山上の説教24(命にいたる門は狭くその道は細い)

7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。”(口語訳)

 新改訳では、
“7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。”とあり。
新共同訳には、
“7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」”とあります。

 ルカの福音書にも似た個所がありますが、その箇所では、神の国に入れる人と入れない人についての質疑応答の中で次のように記されています。
“13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
13:30 いいですか、今しんがりの者〔異邦人のキリスト者(筆者挿入)〕があとで先頭になり、いま先頭の者〔イスラエル人、特に異邦人が救われた後に救われるイスラエル人{ローマ11:25.26(筆者挿入)〕}がしんがりになるのです。」”(新改訳)

 また、イエス様を信じる信仰によらずに、自分が良き行いをすることによって永遠の命を得ようとした人が、イエス様のもと来て質問しました。しかし、その人はイエス様を信じれば与えられる永遠の命を、義なる行いによって得ようとしたために悲しんで去っていったのです。その話はマタイ19:16-26に次のように記されています。
“19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」”(新改訳)

 イエス様が言われるように、神を愛し人を愛するという善行を行うことを、この青年は、出来ないと悟りました。青年は自分の考えている愛と、神が語っている愛の違いを知ったのです。21節に「そのうえで、わたしについて来なさい。」とイエス様は語っておられます。この青年がイエス様についていったら、イエス様こそが救い主であることを見出したかも知れません。このおことばにイエス様の愛が溢れています。あるいはまた、この青年が、「私はあなたが言われるようには律法を守れてはいませんでした。私には律法を守る力はありません。それでも永遠の命を得たいのです。」とイエス様に嘆願したら、どのようにしたら永遠の命を得ることが出来るのかを教えて頂けたかもしれません(ヨハネ3:16.36、6:47-58)。
私たちは、新約聖書を与えられています。イエス様を肉眼では見ずとも、その中に記されているおことばの「イエス様を信じる者は救われる」、「イエス様を信じる者は永遠の命を持つ」というおことばを信じた故に、即ちイエス様を信じた故に救われ、永遠の命を与えられました。

 イエス様は、ご自分から、「わたしは門ですだれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9・新改訳)、と語られ、また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6・新改訳)と語られたのです。
狭い門、狭い道とは、イエス様のことであったのです。
自分の力で永遠の命を得ようとしても「それは人にはできないことです。」(マタイ19:26)、しかし、父なる神様は、救い計画されました。御子なる神であられるイエス様は人の肉体をまとわれ、十字架にお架かりになられ贖いを成し遂げられました。それを人に適用してくださるお方は聖霊様です。三位一体の神様が「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)ということを見せてくださったのです。イエス様を主と信じた者は救われました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇め、賛美し、感謝します。
信仰をもって年数がたつと、信仰さえも賜物である(エペソ2:8)とつくづく思います。
ありがとうございます。
私が二度目の礼拝に出たとき、牧師が、ヨハネ10章を読み、「私は門です。」と語った時に、聖霊様は、「イエスを信じればよいのだよ。」と教えてくださいました。それによって、私はイエス様を信じればよいのだ、イエス様を信じれば救われるのだ、と思うとほぼ同時に信じたのです。そして、救われたのでした。
本当にありがとうございます。いくら感謝しても感謝しきることが出来ません。
ありがとうございました。
主の御名を崇め、主イエス・キリスト様の御名によって感謝と賛美の祈りをささげます。
ハレルヤアーメン

2015年6月19日 (金)

詩篇119:41-48 罪の罰と罪の力からの救い

“(ワウ)
119:41 主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せ〔みことば(新改訳)〕のとおり、わたしを訪れますように。
119:42 わたしを辱めた〔そしる(新改訳)〕者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます〔信頼していますから(新改訳)〕。
119:43 真実をわたしの口から奪わないで〔取り去ってしまわないで(新改訳)〕ください。あなたの裁きを待ち望んでいます。
119:44 わたしがあなたの律法〔みおしえ(新改訳)〕を守る者でありますように。常に、そしてとこしえに。
119:45 広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。〔「そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。」(新改訳)、「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます。」(口語訳)〕
119:46 わたしは王たちの前であなたの定めを告げ、決して恥とすることはないでしょう。
119:47 わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。
119:48 わたしはあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います〔あなたのおきてに思いを潜めましょう(新改訳)〕。”(新共同訳)

 41節の新改訳は、「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。」と訳しています。
41節を新約的に捕えると、救いを求めている人が「みことばの通り私を救ってください」との祈り、或いは、「救いに与らせて頂いたと思うのですけれども、救いの確信が持てないのです。」という状態の祈りであるかのように私には思えるのです。
主イエス様を信じたら救われるのです。
ローマ10:9.10に、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(口語訳)とあります。このみことばに従って救いを体験した大勢の人がいるのです。次の11節に、「すべて彼〔主イエス(筆者挿入)〕を信じる者は、失望に終ることがない」(口語訳)と記されている通りです。

 救いの確信が持てない人の場合、いくつかのパターンがあると思いますが、その中で、示された罪を捨てないでいる人、また、主イエス様を信じるだけでは何か足りない様な気がして主イエス様を信じつつ律法を守らなければ救われないと思っている人、また、イエス様を信じて救われたのに悪しき霊に「おまえはイエスを信じたといっても罪を犯したからだめだ」、とか、「よく罪を犯しているのだから救われているはずがない。」という様な思いを持たされてしまう人等が多いのかなと思います。他のタイプもありますが。
パウロは、ガラテヤ2:16では「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(新改訳)と語り、ガラテヤ2:21では「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」と語っています。

 119:45は、口語訳では、「わたしはあなたのさとし〔戒め(新改訳)〕を求めたので、自由に歩むことができます。」とあり、新改訳では、「そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。」とあります。
信仰によって救われた後、更に御旨に従って歩めるように主によって変えられ続けていくとき、罪の力からも自由にされて心広く歩むことが出来るでしょう。主の御旨に従って歩んでいきたいという願いに答えて聖霊なる神はみことばと導きをもって悪しき霊の働きやそれらの者との戦い方をも教えてくださることでしょう。霊的生活の勝利の為には悪しき霊にも勝利し続ける必要があります。私達キリスト者に与えられている恵みは、あらゆる環境、状況の中にあって圧倒的な勝利者として立たせて頂ける恵みです(ローマ8:37)。サタンはそうさせまいと必死なのです。イエス様は、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5:6・新改訳)と語られ、また、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10・新改訳)と言われました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたの愛の御計画を感謝します。
主イエス様の愛の御業を感謝します。
御霊様の絶えざる導き、助け、慰め、etc.を感謝します。
御名を崇め、御名を賛美し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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