エペソ人への手紙

2013年8月17日 (土)

エペソ6:19-24 祈りの要請と祝祷

エペソ6:19-24
6:19また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
6:20わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
6:21わたしがどういう様子か、何をしているかを、あなたがたに知ってもらうために、主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、いっさいの事を報告するであろう。
6:22彼をあなたがたのもとに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるようになるためなのである。
6:23父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。
6:24変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。 ”(口語訳)

 20節に<わたしは・・・鎖につながれている>とあるように、キリストの福音の故にパウロはローマの獄中にあったのです。
ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙も獄中にあった時に書かれました。
これらの手紙を、パウロは、牢に入れられたけれども主に仕え、時を有効に用いていて書いたのです。
或いは、これらの手紙は、執筆後2000年近くも真理の光、福音の奥義を煌々と放ち続けているのですから、主がこれらの手紙をパウロに記させるために、主は、パウロを主との交わりを豊かに持つことのできる環境に置かれたのではないか、とも思ってしまします。それほど素晴らしい内容です。
黙示録を書いたヨハネは、パロモス島に島流しになって、黙示録の内容を与えられました。喧噪のなかでは、決して成しえないことであったでしょう。神様が、黙示録を与えてくださるために、使徒ヨハネは、捕まえられて有罪とされパトモス島におかれたのだと思うのです。
また、パウロが獄中にいたことによって、ローマの兵士を初め、ローマの高官にまで福音が伝わって行きました。
わたし達も、主に従っているのに困難な状況に置かれているとき、さらに主に従い続ければパウロとスケールは違うでしょうが同じように主の御用に間に合うことでしょう。
パウロは、鎖に繋がれていても大胆に福音を語ることが出来るようにと、祈りの要請をしています。
ローマの兵隊に、罪についてはっきりと語り、罪を指摘したら、パウロは、鎖につながれている状態なのですから、どのような目に遭わされるか分かりません。そのことを想像するだけで罪について語ることが出来なくなります。パウロは鎖に繋がれていても<語るべき時には大胆に語ることが出来るように>と、とりなしの祈りを手紙で要請しています。また、この要請は皇帝ネロの前での裁判のことが念頭にあったのかもしれません。

 <わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。 >とあります。実にすばらしいとりなしの要請であると思います。
パウロは、誰よりも教理に詳しく、天国にも行き、経験も豊富であったと思うのです。パウロは、福音の知識を語ればそれでいいのではないかと思ってしまいがちですが、パウロとしては、今ここで語る内容、また、次の時に語る内容等々、常に主が「このことを語れ」ということを語ることが出来るように、またそのことばが与えられるようにと願っていたのだと思います。
わたし達も、個人伝道する時、あるいはまた、礼拝で語るとき、或いは主にある兄弟姉妹と語るとき、何かの相談を受けた時等々、神から与えられる語るべき言葉が常に必要になります。単なる話、単なるおしゃべりに終わらないために。

 「父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。変らない真実をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人々に、恵みがあるように。」(23.24)との祝祷をもって手紙を閉じています。
平安、信仰に伴う愛、恵み、これらは父なる神とわたし達の主イエス・キリストからくることを再度覚えます。愛を持って生活しよう、豊かな信仰をもって生活しよう、心穏やかでいようなどと自分の力だけで努力しても無理であるという事を教えてくれます。すべて主から与えて頂くものだからです。

 パウロの姿勢を見ていて「わたし[イエス・キリスト]にとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で[わたしをブドウの木に喩えると]、あなたがたは枝です[枝にたとえられます]。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4.5)というイエス様のおことばを思いだしました。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたのおことばを伝えるとき、いつでもあなたから与えられたことを語る者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月16日 (金)

エペソ6:10-18 サタンとの戦い

エペソ6:10-18
6:10最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15平和の福音の備えを足にはき、
6:16その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
6:18絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。”(口語訳)

 キリスト者の戦いは、人間に対してではなく、サタンとその配下の悪の霊との戦いです。キリスト者も救われる前は、サタンの奴隷であったのです。キリストの内に無い人間は、サタンとは戦いようもありません。しかし、キリスト者即ちキリストの内にある者は、サタンに勝利します。ただし、自分の力ではありません。主なる神によって勝利するのです。主イエス様が、十字架につかれる前、弟子たちに「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。世の支配者はサタンです(1ヨハネ5:19)。
キリストの内にあるキリスト者といえどもサタンやその配下のものたちと戦うためには、強くされなくては戦えません。
非常に多くの戦いを経験してきたパウロは、まず最初に、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(10)と命じています。
ヨシュアに対しても主は、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)と言われました。強く信仰に立たなければ勝ち目はないのです。しかし、信仰に立ち、みことばの剣と霊による祈りによって勝利するのです。
 まずは、戦う前に自分自身の守りがしっかりしているかどうかをチェックする必要があります。サタンに付け込まれるすきがあれば、敗北するでしょう。
最初に<真理の帯>が出てきます。真理のみことばに立つ必要があります。究極のことをいえば、<真理>とはキリストです。イエス様は、「わたしが真理です。」(ヨハネ14:6)と言われました。また主イエス様は神のことばとも言われました。(ヨハネ1:1.14)(黙示録19:13)
 17節に<救いの兜をかぶり>とありますが、救われていなければキリスト者ではありません。戦う前に、自分の救いを確信していなくては戦えません。この確信は、自分の霊と御霊から来ます。(ローマ8:16)
 次は<正義の胸当て>です。これは、キリストを信じた故に<義>と認められている、ということです。サタンやその配下の悪霊は、キリスト者の過去の罪を責めてきて「おまえは駄目だ」と言ってくるのです。その時には、イエス・キリストの故に義と認められているという信仰にしっかりと立たなくてはなりません。義とされているかどうか曖昧では悪しき霊と戦いようもありません。もし、示される罪がある場合には、直ちに主に告白し、主の血潮によって赦しきよめて頂かなければなりません(1ヨハネ1:7.9)。
 次は<平和の福音>です。平和と言ってもみんなと仲良し、みんなと平和ということをいっているのではありません。「神との平和を持っている」(ローマ5:1)ということです。その確信がなければなりません。
 次に戦うために無くてはならないのが<信仰の大盾>です。
悪しき者即ちサタンや配下の悪霊どもが、神様の許可の範囲内で放つ火矢即ち攻撃を防ぐものは信仰です。
使徒ヨハネは、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私達の信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(1ヨハネ5:4)と述べています。
私達の内には、<天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている>主イエス様がおられるのです(マタイ28:18、コロサイ1:27)。
キリスト者の<新しく生まれた者>(1ヨハネ5:18)の部分は、<霊>です(ヨハネ3:6)。
キリスト者の霊に対して悪しき者達は手を触れることができません。(1ヨハネ5:18)
悪しき者達が神の許可のもと、人間を用いて肉体を殺すことがあったとしても、本体である<霊>はびくともしないのです。<霊>はすでに永遠なのです。永遠の命を持っているのです(1ヨハネ5:13)。キリスト者の魂も守られます。悪しきものは魂まで滅ぼすことはできません。魂を滅ぼすことのできる方は神です(マタイ10:28)。肉体は、アダムからの罪の故にいずれは滅びるものです。しかし、神様は永遠性を持った霊の体を与えてくださいます。
 さらに攻撃の武器として<御霊の与える剣である神のことば( the sword of the Spirit which is the word of God>を受け取って戦うのです。(参考:マタイ10:19.20)
 キリストの体である教会は、絶えず敵の攻撃にさらされています。殉教していく人、信仰の故に捕えられる人も少なくはありません。また、非常に多くのキリスト者に対して絶えず信仰をダウンさせ、信仰から離れさせようとする敵の攻撃は止むことがありません。また、純粋な福音を曲げてしまおうとするような働きもあります。聖書の真理を反故にようとする敵の働きも継続されています。
それ故、自分の為にも主にある兄弟姉妹達の為にも、主の御名が拡大されていくためにも「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、・・・祈りつづけなさい。」、特に「聖徒[キリスト者]の為に祈り続けなさい。」と命令されています。
キリスト者の祈りを通して神は働かれます。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
キリスト者とイスラエルとは常にサタンやその部下の悪しき霊たちの攻撃の的にされるのを覚えます。
それ故、祈りを欠かすことなく、しっかりと信仰に立ち、みことばによって歩む者であらせてください。
また、悪しき者と戦うときは御霊がみことばを与えてくださいますから感謝します。
御霊の与えてくださるみことばによって常に勝利する者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月15日 (木)

エペソ6:5-9 僕と主人の関係

エペソ6:5-9
6:5僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
6:6人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
6:7人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
6:8あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
6:9主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。”(口語訳)

 奴隷について、1コリント7:21-24には、
“7:21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
7:22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。”
と記されています。

 現代の日本では奴隷制度はありません。
それではこの箇所は無意味かというとそうではないと思います。
上に立てられている者と、その下で仕える者の姿勢として読むことが出来ます。
キリスト者同士にあっては、上に立てられている者も、下で仕えている者も、その主人は神なる主です。主なる神が各々をその立場に据えておられ、その立場にあって、主に仕えるように仕えていくという姿勢が求められています。
見た目には、人に仕えているのですけれども、主に対して心から事を行っているのであれば、それに相当する報いを主から受けるのです。受け取る時期は、この世か、後の世か、分散してかは人によって異なるでしょう。

 主イエス様は、主人にも、僕にもなられた方です。主はどちらの立場にあった時も、父なる神に仕えていたのです。
主は私達キリスト者の模範です。
主イエス様ご自身が自分は仕えるためにこの世に来たと言われたことがマタイ20:25-28に次のように書いてあります。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子[イエス・キリスト]が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
また、
ピリピ2:6-11には
“2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。”とあります。

ピリピの箇所を見ても、謙遜は栄誉に先立つのです(箴言15:33)。

主人は、部下に対して間違ってもパワーハラスメントをしないように、といわれています。部下がキリスト者であれば、自分の部下であったとしても、その方の所有者はキリストなのです。キリスト者の上司と同じようにキリスト者の部下も神の子どもであり、キリストの花嫁である教会の構成員の一部なのです。主イエス様は、愛を持って導いてくださる方です。上司がキリストのように愛深き態度で部下に接してくれる人である場合、部下は甘えてはいけません。かえって主に仕えるように仕えるのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
現代の日本においては、職業選択の自由がありますことを感謝します。
あなたにお祈りして、導きを頂いた結果与えられた場所、立場において、心から主に仕えるように、その場にあって歩んでいけますように。
教会内の御奉仕も、この原則に従って行うことが出来ますように。
主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月14日 (水)

エペソ6:1-4 親子の関わり

エペソ6:1-4
6:1子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
6:2「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
6:3
「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
6:4父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。 ”(口語訳)

 「子供達よ。主にあって両親に従いなさい。」(1)とあります。
やみくもに、「子供達よ。両親に従いなさい。」と命令しているのではなく、「主に在って」と語られています。
両親が未信者で「仏像を拝みなさい。」と言ったとします。これは主の御旨にかなわないことです。このようなときには、従うことはできません。両親に説明して理解してもらうしかないのです。もし、拝まないことによって罰を受けるのであれば、罰を受けた方が神様は喜んでくださいます。
両親が「掃除をしなさい。」と言ったら、「ハイ」と言って腰を軽くし、掃除をするのです。「買い物に行って来て頂戴」と頼まれたら買い物に行くのです。
神様の御心に反しないことは従うのです。
両親を敬うこと(2)は、神様に従っているのです。
神様は、そのご褒美として「幸福を与え、地上での命を長くするよ。」(3)と約束してくれているのです。

親は、感情的になって子供を怒らせること無く、主の訓戒と薫陶と、子どもと共に祈ることによって、また、日々陰で祈ることによって育てていくのです。
子供をしつけるときに、親である自分自身も、しつけようとしている内容が出来ていないということもあるでしょう。
その場合は、子どもとともに、親自身も一緒に神の前に出て祈るのです。
子供がまだ幼くても親の悪いところなどは、ちゃんと見ているものです。ごまかしはききません。適当に濁してしまうと親のことばの重みがなくなります。

「子供達よ。主に在って両親に従いなさい。」

「親達よ。主に従いなさい。」

ということになるのでしょうね。

エペソ5:22-33 夫と妻、キリストと教会の関係

エペソ5:22-33
5:22妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
5:25夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
5:26キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
5:28それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
5:29自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
5:30わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
5:33いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。”(口語訳)

 キリストと教会の関係
キリストは教会のかしらである。(23)
教会はキリストの肢体であり(30)、キリストは教会の救い主である。(23)
教会はキリストに仕えるものである。(24)
キリストは教会を愛してその為にご自身をささげられた。(25)即ちキリストは教会を贖うために十字架の上で血を流してなだめの供え物となられた(ローマ3:25)その故に「キリストは教会にとって神の知恵となりまた、義と聖めと贖いとになられました。」(1コリント1:30)
キリストがご自身をささげられたのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 (26.27)

 夫と妻の関係
夫と妻の関係は、キリストと健全な教会の関係に基づくものであります。
妻のかしらは夫であり(23)、妻は夫を敬って(33)、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい(22)、と書かれています。
多くの場合、このような関係は結ばれていません。その理由の大部分を占めるものは、キリストと同じようにとはいかなくても、敬うことが出来ないからでしょう。妻が愛されている実感を持つことが出来ず、妻が尊敬できる生き方を夫がしていない、ということに基づくのではないかと思います。
しかし、中には、そのような夫ではないにもかかわらず、主が語られたお言葉であるが故に、自分の夫をかしらとし、夫が間違っていると思われるときにはその夫に対して上手に主が正しいと思っておられる方向へと導き、夫を大切にし、敬えるところを見出しながら、また、敬えないような状態であっても主に仕えるように自分の夫に仕えている、というキリスト者の御婦人もいることでしょう。

夫は妻のかしらです(23)。かしらが間違った判断を下すと、困ったことになります。ですから、かしらとしてふさわしく整えられる必要があります。
夫は、キリストが教会を愛してご自身をささげられたその愛を持って妻を愛しなさい(25)、と命じられています。
これは、妻が夫に従うということに勝ってより高度なことかもしれません。
どうやら夫は聖霊に満ち溢れていなくてはみことばの要求を満たせないようです。

以上が、望ましいことなのです。しかし、パウロは現実に戻って、少しレベルを下げています。
自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのですよ(28)。
自分自身を憎んだものはいないでしょ(29)。
夫も妻もクリスチャンなのだから、お互いにキリストの肢体でしょ(30)。
キリストは、夫である者も妻である者も自分の肢体として愛しているでしょ。キリストの故に互いに愛し合いなさい、と言われているかのようです。

31.32節に<「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。> とあります。「  」内は、創世記2:24からの引用です。
創世記2:18-25には
2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”
とあります。

 エペソ5:32より、結婚の奥義は、キリストと教会[神によって召しだされた[呼び出された]者たちの全集合体(1コリント1:9)]を指していると思います。
その見える形として、人を男と女に創造され、結婚を導入されました。
アダムのあばら骨からエバが造られたのは、十字架上でキリストのわき腹から流された血の故に教会が誕生したことの予型であったのでしょう。
キリストと教会との結婚式は、大患難時代の末期に、天において盛大に持たれます。(黙示録19:7-9)
黙示録19:8の花嫁である教会の衣は義の象徴です。この時になると教会に罪はありません。思うこと行うことは全て義の内にあることでしょう。
ですから霊的に裸であっても[全くさらけ出していても]、恥ずかしくないのです。
キリストが、<教会をきよめて聖なるものと>して下さったからなのです。(エペソ5:26)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
地上においては、キリストを信じて聖なるものとされ、義と認められましたが、実質的には、ちょくちょく罪を犯してしまうものです。しかし、やがて天にて義の衣を着せていただけますことを感謝します。
待ち望みつつ主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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<聖書参考箇所>
(黙示録19:7-9)
“19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。”(新改訳)

2013年8月13日 (火)

エペソ5:15-21 光の子としての歩み

エペソ5:15-21
5:15そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
5:16今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
5:17だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
5:18酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
5:19詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
5:20
そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
5:21キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。”(口語訳)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
自分の歩みによく注意して、賢く歩む者であらせてください。
時を生かして用いることが出来ますように。無駄に時間を費やしてしまうことがありませんように。
あなたの御旨を悟らせてください。
その為にもまた日々の歩みの為にも御霊に満たされて歩む者であらせてください。
歌を歌う時は詩と賛美と霊の歌とを持って、主に向かって心から賛美することが出来ますように。
いつでも、すべてのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝することが出来ますように。
いつも主に感謝し主を崇めながら生きる者でありますように。
キリストを畏れ尊んで、主にあって互いに仕え合うことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月12日 (月)

エペソ5:3-14 光の子らしく歩きなさい

エペソ5:3-14
5:3また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
5:4また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5:5あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
5:9光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
5:10主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。”(口語訳)

 この箇所に書かれているしてはいけないこと。
不品行
いろいろな汚れ
貪欲
卑しい言葉
愚かな話
淫らな冗談
偶像礼拝
不誠実な言葉

 テレビをつけると多くの番組の中で、これらのしてはいけないと言われている事柄をこれでもかこれでもかと見ることがあります。そして、主への信仰を持っていない人たちは普通のこと当たり前のこととして見、また、それに感化され、真似していきます。キリスト者であっても当たり前のことのように引き込まれてしまう人も出てくるのです。
偶像礼拝というと、仏像などを拝むようなこと、即ち真の神でないものを拝むようなことしか考えが浮かばないかもしれませんが、それだけではなく、不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者は偶像礼拝者だというのです。
コロサイ3:5には、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。
世界はグローバル経済へと進み、拝金主義が横行しています。第一に主なる神様、というのではなく、まずはお金というような状態です。お金を神様にしてしまっている人がたくさんいるのです。お金が手に入るとそれを益々増やします。まさにむさぼりです。神様よりもお金に信頼を置くのです。その状態は、お金を信仰している状態です。
主イエス様が教えてくださったことは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)そうすれば、それに加えて生活に必要なものは、神様が備えてくださいますよ、というものでした。
また、1テモテ6:6-11には、「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。

性的な事柄に貪欲であると、夫と妻という関係から逸脱して、姦淫、不品行、淫らな行為等となっていきます。聖書ではいけないとされている性的関係でさえ、近頃は、国家によって合法化されてきている状況を見ます。
神様は、神様の観点で、罪が満ちると裁きを行われます。
ホセア4:1-3には、「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。」というみことばがあります。
このようはみことばを見るとき、地球の災害の増加は、ただ温暖化の故の異常気象ということでは片付けられないのではないかと思うのです。神様は、太陽にも手をつけているように思われます。大切なことは、悔い改めてまことの神に立ち返ることであろうと思います。

 エペソ人への手紙は、キリスト者に向けて書かれた手紙です。
3.4節を読むと非常に次元の高いことがかれているように思います。
「不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。 」とあるように、「口にすることさえしてはならない。」とか「・・・・を避けなさい」というように、話すことばの上でも罪に絡むような内容を話すな、というのです。汚れたことを話さないということは、心が清くされていなければ無理なことです。詩編19編を読むと旧約の時代からそのような祈りをしている人がいたことが分かります。
「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩編19:12-14)と。

 主イエス様は、十字架の上で血を流してくださいました。流された主イエス様の血は、罪を赦すだけではなく、きよめることもできます。
「光の子らしく歩きなさい。」というみことばが御霊によって生きて働いて、ガラッと変えられたという人もいるかもしれません。
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」(1ヨハネ1:5)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)とイエス様は言われました。
光の子どもとして、光の中を歩み続けたいものです。
もし、罪に落ちてしまったら・・・
大丈夫です。
罪を告白して、主に赦して頂き、きよめて頂いて再出発です。

「1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:5-9)

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
悪しきことばを発することがありませんように。
光の子どもとして歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月11日 (日)

エペソ5:1.2 愛のうちに歩みなさい

エペソ5:1.2
5:1こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5:2また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。”(口語訳)

 私にとってこの箇所は思い出深い箇所です。
この箇所は読めば誰でも理解できる内容です。しかし、実行となるとこれまた自分の力で出来るわけはないのです。
信仰を持たせて頂いて数年が経過した頃、この箇所を呼んでいたときであったと思いますが、主が優しく包み込むように御声をかけてくださったのです。
「私は、あなたを愛しているよ。あなたも愛のうちに歩みなさい。」と

私は、それによって確かに変えられました。
主のみ言葉が生きて働いてくださったのです。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたは偉大な方です。
あなたは御声をかけてくださり、そのおことばは、私を変えてくださいます。
あなたのお言葉は、私達の内で生きて働きます。
みことばを用いて御霊が働いてくださるのでしょう。
ありがとうございます。
主の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年8月10日 (土)

エペソ4:25-32 悪しきことを捨て去ること

エペソ4:25-32
4:25こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。
4:26怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。
4:27また、悪魔に機会を与えてはいけない。
4:28盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。
4:29悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
4:30神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
4:31すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。”(口語訳)

 <わたしたちは、お互に肢体なのであるから。 >といことばによって、パウロが教会内のことについて語っていることが分かります。勿論、教会外であっても偽りはよくありません。不真実を語っていると、それが露見した時には信頼関係が崩れてしまいます。
怒りについては、怒るな、とはいわれていません。悪に対する怒りもあるからです。しかし、長時間怒ることはまずいのです。怒り、憤りの感情は、悪魔に付け入るすきを与えてしまします。初めは、正当なことで怒ったとしても、怒りの炎に、悪魔は油を注いで、怒りの感情をどんどん高めていってしまいます。正当なことで始まったのに、気がつくと罪の泥沼にどっぷりと浸かってしまっているというようにならないようにする必要があります。

盗みがいけないことは、日本人であればだれでも知っています。国によっては違うところもあるらしいですね。以前にそのような事を聞いたことがあります。
貧しくなって盗むのではなく、自分の手で正当に働きなさい、と勧められています。
現代の日本では、学校教育で、仕事に関して、自分の好きな事、やりがいのあることを求めるようにと勧めている、というようなことを聞いたことがあります。自分のやりたい仕事につけたらそれは素晴らしいですね。しかし、聖書は、まず、自分の手で働いて、生計を立てるようにといいます。ですから、一部の人しか自分のやりたい仕事に就くことは出来ないかもしれないけれども、まずは、働いて生活費を稼ぎなさい、と勧められているのです。向いていない仕事にいつまでもついていなさいというのではなく、自分にあった仕事につけるならば転職していくことも良いのです。

キリスト者であれば、悪い言葉は嫌だな、と思うことと思います。悪い言葉を発すると、他者を傷つけてしまう可能性も大です。しかし、そのような言葉を発して自分も傷つけてしまうのです。語る言葉は、聞いている者の益になるようにしなさい、と勧められています。

また、無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、一切の悪意はみな捨て去りなさい、とあります。また、赦さない心もいけないのです。
キリスト者は、贖いの日即ち滅びゆく肉体が霊の体に変えられて霊も体も永遠に生きる事が出来るようにされる日の為にも聖霊が与えられています。聖霊は神ですから、愛のお方であるとともに、義なるお方でもあります。悪を行うこと即ち主の御旨にそわないことを行うことは、内にいてくださる聖霊を悲しませることになるのです。聖霊の導きに従って歩めば良いのですが、十字架につけられたはずの肉に従って歩むと聖霊を悲しませる結果になります。

私は、せっかちで怒りっぽく生まれてきたのではないかと思います。さらに人を赦せない性分であったです。救われる前は、何かに対して怒った時、「それは怒って当然」と思うような人間でした。主イエス様に救われてからそれは間違っている、と思うようになりましたが、これは自分でもどうにもなりませんでした。
あるとき、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32、新改訳)というおことばを主からかけられました。道を歩いているときでした。「私は、あなたを赦してあげたんだよ。あなたも人を赦しなさい。心の優しい人になりなさい。」と優しく語りかけてきたのです。私の心があっという間に溶かされていくのを感じました。涙が流れました。一瞬のうちに変えられたのです。自分の努力や修練ではなく一瞬の神の御業です。神がタッチされたとき、奇跡は起きます。30年近く前の出来事であったと思います。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
過度に怒る感情や赦せない心からも解放してくださいましたことを感謝します。
日々、あなたの恵みによって生かされておりますことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

・・・・・・・・・・
<ことば[イエス・キリスト]は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。>(ヨハネ1:14)

<私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。>(ヨハネ1:16)

2013年8月 9日 (金)

エペソ4:17-24 古い生き方と新しい生き方

エペソ4:17-24
4:17そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23心の深みまで新たにされて、
4:24真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。”(口語訳)

 異邦人とは、イスラエル人ではない人達のことをいいます。イスラエル人でも異邦人でもキリストの救いにあずかった者はキリスト者(クリスチャン)です。
エペソ教会の人達は救われる前は異邦人でした。ですから、異邦人であったエペソのキリスト者は17-19節に書かれてある内容をすべて頷くことが出来たでしょう。17節に、異邦人はむなしい心で歩いている、とあります。、異邦人の中にも、むなしさを覚えて生きている人もたくさんいると思いますが、一方聖書でいう肉から出る欲望や思いによってむなしさを感じずに生きている人もいると思います。むなしさを感じずに生きている人も死を前にしたり、挫折したり、人から裏切られたり、だまされたりしようものならむなしさを感じるかもしれません。
それ以上に、キリストの救いにあずかることをしなかったら、すべては無になるというよりも、行ってきたことは裁きの対象になることでしょう。価値あるものは神にあってなされたものだけなのですから。この世の倫理の観点からみて良いことと悪いことを比べた場合、悪いことをするよりも良いことをする方が良いに違いありません。しかしその良いことを行う動機が自分が良く思われたいから、自分の価値や存在意義を認めてもらいたいからという理由であれば、それもまことの神の裁きの前ではむなしいことなのです。人間を含め万物を創造した神を視野に入れない生き方そのものがすでに罪なのですから。
今の時代は、進化論を教えることで、創造者なる神を除外します。それは、むなしさ教育の始まりです。進化論で考えたら、ゴキブリも人間もあまり違いはありません。構成原子はそう変わらないのでしょうから。

 神を除外しているのですから、霊的知力が暗くなるのは当然のことです。キリストを信じた時、霊的暗闇に光が射すのです。光が射しても肉の思いや感情が強いと光の影響は減衰されるでしょう。肉が処理されればすべて明るくなるのです。
まことの神の方を向かないと、神を求めないと、キリストの救いにあずからないと、霊的知力は暗く、霊的に無知であり、神に対して頑な状態に留まるのですから、神の命からは遠く離れている状態のまま、ということになります。
そのような状態のもたらす生き方は、まさに罪の内を歩む生き方になります。

 キリスト者はどうかというと、キリストを信じた時、キリスト共に古き人は葬られ、キリストの復活とともに新しい人に再生されたのです。新しく再生された人は霊です。即ち、霊の部分を御霊によって生まれさせて頂いたのです(ヨハネ3:6)。その霊の部分に御霊は住んでくださいます。御霊がおられるということは、御父も御子もおられるのです。しかし、肉体は古いままなのです。当然脳も古いままです。そこには、古い人の記憶が詰まっているのです。そこで、パウロがローマ7章後半で証したようなことを恐らくすべてのキリスト者も証することが出来るのです。
「7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(新改訳)

 御霊が内住している再生された霊に従って歩んでいるとき、新しい人の生き方をしているのです。しかし、再生された霊を与えられたのに、霊に従わず、肉に従って生きているときは、古い人の生き方をしているのです。それをし続けているとみじめになりかつ神との交わりを失います。

<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
新しくされたのですから、新しい人としての歩みをしていけますよう助け導いていて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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