ヘブル人への手紙

2013年12月22日 (日)

ヘブル13:22-25 結びの言葉と祝祷

13:22兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。
13:23わたしたちの兄弟テモテがゆるされたことを、お知らせする。もし彼が早く来れば、彼と一緒にわたしはあなたがたに会えるだろう。
13:24あなたがたの指導者一同と聖徒たち一同に、よろしく伝えてほしい。イタリヤからきた人々から、あなたがたによろしく。
13:25恵みが、あなたがた一同にあるように。 (口語訳)

 ヘブル人への手紙は、パウロが書いたという人たち、また、パウロ以外の人たちが書いたという説等がありますが、23節のテモテの情報とか、ヘブル人への手紙の内容などを読んでいると私はパウロが書いたのではないのかな、と思ってしまうのですが、ある意味それはどうでもよいことです。明らかにされていないのですから。ただ書かれてある内容が聖書全体に合致し、御霊の導きによって書かれたように思えることで私には十分です。
それにしてもヘブル人への手紙を読んですごい書だなと思うのですが、22節には、「わたしは、ただ手短に書いたのだから。」とあるのですから恐れ入ります。

 24節に「指導者一同と聖徒たち一同に、よろしく伝えてほしい。」という文を読むと、これは使徒が書いたのではないかなと思うのです。

 23節に「テモテが赦されたこと(釈放されたこと)をお知らせする。」とあります。テモテはパウロからテモテⅡ1:7で、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と言われていますが、この23節を読むと信仰の故に獄につながれていたものと思われます。信仰の戦いをしっかり戦っていったのだな、と思うのです。

 この箇所にはありませんが、マルコのことも思い浮かべます。
マルコ〔マルコと呼ばれているヨハネ〕は、良き信仰の家庭におかれた人です。(使徒12:12)
マルコは、パウロとバルナバの宣教旅行に同伴しました。しかし途中で投げ出してしまった人でした。(使徒13:5,13、15:37.38)
しかし、マルコはパウロの晩年には「彼は私の為に役に立つ」と言われるように成長しました。(2テモテ4:11)
マルコはペテロの晩年にはペテロに同伴していたことが記されています。(1ペテロ5:13)
成長させたのは神ですが、みことばの水を注ぐことも怠ってならないことを覚えます。(1コリント3:6)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
主が私たちに罪を示し、悔い改めを促し、救い主イエス・キリスト様を信じさせてくださり、成長させて下さいますから感謝します。あなたの示しや促し、励まし、慰め等々をすべて無視することも出来る自由意思を与えられていますが、あなたの導きに従うことはなんと素晴らしいことでしょうか。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)という中に入れて頂けている安心と幸いとを覚えます。それは、あなたが、いつも祝福しようとしておられる神だからです。
あなたの御名をほめたたえ、主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年12月21日 (土)

ヘブル13:20.21 頌栄

13:20永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、
13:21イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。
(口語訳)

 神の栄光をほめたたえてヘブル人への手紙を終えようとしていますが、その短い文章の中に豊かな恵みが溢れている文章だと思います。

 「永遠の血による羊の大牧者」=「わたし達の主イエス」
私たち信徒を羊に喩えると、わたし達の魂を見守っている地上の牧会者達は牧者、主イエス様はその牧者達をも牧する大牧者です。私は、羊の出てくる詩編100編や23編が大好きです。

☆詩編100編
「 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」(新改訳)

☆詩編23編
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(新共同訳)

 新聖書辞典の「羊」の項目の中の一節に「羊の性質は、おとなしく、素直で、従順である反面、愚かで、弱く、迷いやすい」とあります。
羊の中には、結構気性の荒いものもいることをテレビの映像などで見たことがあります。いずれにしても私たちは羊に喩えられているのですが、わたし達は、主に真理を啓示してもらうまでは、霊的な事柄に対して全く何も知らない者でありました。少し教えて頂いた後も、ほんのわずかしか知らない者です。ですから迷いやすい面を持っています。いつも羊飼いに導いて頂き、また悪い者たち、特にサタンとその配下の者たちから守って頂かないと安心して暮らすこともできません。しかし、主が私たち羊の羊飼いですから大感謝です。

 イエス・キリスト様の血は何と尊いことでしょうか。
イエス・キリスト様が血を流して下さらなかったら、わたし達が如何に良いと思うことを頑張ってしてみたところで行先は地獄であったのです。イザヤ64:6に「私たちの義はみな、不潔な着物のようなものです。」とある通りです。
一方、ヘブル10:10.12-14には、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(新改訳)とあります。また、ヘブル9:11.12には、「キリストは、ご自分の血によって永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(新改訳、抜粋)とあります。
 主イエス様が血を流して死んでくださったことによって永遠の、完全な贖いが成就されました。それによって罪が完全に赦されたのです。主イエス様は罪の贖いを成し遂げて後、復活されました。それを信じる信仰によって信じた者は罪を赦されただけではなく神の前に義とされたのです(ローマ4:25)。罪の赦しは、罪を赦してあげたよ、ということであり、義と認めるとは、あなたには罪はない、あなたは正しい者だということです。キリストが信じる者の義となって下さったからです。やがて、携挙の後、天において実質的なまことの義の衣を着せて頂けます。そうすればまことに義人として歩めるのです。義の衣を着せて頂いてからキリストとの結婚式に臨むのです(黙示録19:6-8)。
正に恵みの大盤振る舞いです。

 「わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神」
主イエス様は、肉体においては死なれました。それは、肉において罪を処理されたからです。しかし、霊は生きていました。1ペテロ3:18には、「肉〔の次元〕では殺されたが、霊〔の次元〕では生かされたのである。」(岩波訳:〔 〕内は訳者挿入)とある通りです。
罪の贖いを成し遂げた主イエス様の体は、父なる神様によって復活させられました。同じようにキリスト者の体も死んだとしたら、新しい体に復活させて頂けるのです。もしキリスト様の空中再臨時に肉体を持って地上で生きていたら、新しい霊の体に一瞬のうちに変えて頂けるのです。父なる神は、平和の神、即ち私たちにキリストによって神との平和を与えてくださった神であり、心に平安を与えてくださる神です。

 「わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う」
父なる神様は、死んだものをよみがえらせることのできる大いなる能力を持っておられる神様です。その神様にとって、御旨に叶うことで出来ないものなどはありません。私たちが神の御旨に叶う良きことをするためにすべての良きものを備えることのできるお方なので、ヘブル人の記者は、「あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるように」と祈っているのです。

 私たちは、声をそろえて、「栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。 」と賛美する者たちです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝いたします。
慈しみは深く、恵みをとこしえまでも絶やさず、永遠までも真実を尽くし続けてくださる三位一体の主よ、あなたをほめたたえます。
栄光が代々限りなく神にありますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年12月20日 (金)

ヘブル13:18.19 祈りの要請

13:18わたしたちのために、祈ってほしい。わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており、何事についても、正しく行動しようと願っている。
13:19わたしがあなたがたの所に早く帰れるため、祈ってくれるように、特にお願いする。
(口語訳)

 ヘブル人への手紙の著者は、「わたしたちのために、祈って欲しい。」と祈りの要請をしています。主に立てられたこの指導者達は、非常に謙遜です。謙遜だからこそ、主が語りなさいと言われたことを語り、主を離れては何もすることが出来ず、神の御前における奉仕は、わたしの内に働くキリストの御霊そのものであると感じつつも、肉体的には制限を受け、あるときには弱いままであり、年と共に外なる人の衰えを感じつつも内なる人は日々新たにされ、かつ鷲のように翼をかって上ることが出来るという霊的体験を持ちつつも背後の祈りが必要なのです。

 御霊は、ペテロに次のように語らせました。
「そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。」(1ペテロ5:1-3)
ペテロは、牧会者達に対して、模範者としての歩みをし、主から委ねられている信徒を牧しなさいと言っています。

 また、ヤコブは、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 」(ヤコブ3:1.2)と語っています。
みことばを教える教師は、まず自分が主から教えて頂かなければなりません。間違ったことを教えてしまったら大変なことになるのです。覆水盆に返らず、出してしまったことばはもう元へは帰りません。言葉の源である心のきよめが重要であり、霊的な知恵と理解力、神のみこころに関する真の知識が必要です。
どうぞ私の為にも祈ってください。

 パウロは、“「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。
さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。”(1テモテ3:1-7)と語りました。

 牧会者のレベルは如何に高いことでしょうか。信徒も牧会者も同じキリスト者です。すべてのキリスト者が牧会者に望まれているレベルと同じように望まれていると想像してみてください。牧会者を裁くことなどできません。同じ人間なのです。主の期待に沿うようになるようキリスト者同士祈り合う必要を覚えることです。敵はサタンです。サタンが主の御心通りにいかなくするべく、誘惑し、脅しをかけ、不仲の思いを入れ込むのです。
指導者の為には祈る必要があるのです。
まことの牧会者は、委ねられた信徒の為に祈っています。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
主イエス様が、サタンとその配下の悪霊達を底知れぬ所に閉じ込めてしまうまでは、幾度も幾度も、悪しき者たちは、主にある者たちを誘惑し、脅し、不仲になるようにと働いています。霊的識別力によって見分けることが出来、常に祈りあっていくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年12月19日 (木)

ヘブル13:17 神様に立てられた指導者に従いましょう

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。(口語訳)

 「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。」と言われると必ず反対の声が聞こえてきます。勿論、明らかに神のみことばに反するような指導をするようなときは従うことはできません。しかし、神のみことばに合致しているようなときには、従うべきなのだろうと思います。

 マタイ23:1-3に次のように記されています。
23:1そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
23:3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。”
もし牧会者に非があるとしても、神のみことばが語られていたら、それには従うべきなのです。それは牧会者に限らず、年齢の若い者から言われた時、配偶者から言われた時、ときには兄弟げんかもする兄弟姉妹から言われた時等々とありますが、語っていることがみことばにかなうことならば心に留め従うべきなのです。それは人にではなく、神に従うことだからです。語られたみことばに従うことは、益になります。一方、語りてが気に入らないからといって、みことばに従わないことは益になりません。

 霊的指導者には、神から割り当てられている分があります(1ペテロ5:3)。主にある指導者は、割り当てられている人達に対して、霊的状態はどうなのか、悩み、苦しみに悶えているようなことはないのか等々いつも気にかけているのです。そして主にとりなしの祈りをささげ、みことばによって指導し、主の体の一部である聖徒一人一人をととのえて主のお体である教会を建て上げてくのです。
そのようなみことばに従っている指導者のもとにいるキリスト者は幸いです。
キリスト信徒一人一人も、指導者が嘆くことなく喜んですることが出来るようにすることは、指導者と信徒の間もよい関係が構築されますが、そのような生き方は何よりも主が喜んでくださいます。

 人間は、罪を持って生まれてきましたから、生まれながらの肉の性質に支配されるとすぐに反抗したくなるのです。霊的なことは、御霊によって歩んでいないと喜びを持ってみことばに従って歩むことは出来ないのではないでしょうか。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたの立てられた指導者を苦しめることにならないように、反って喜びを持って主に仕えることが出来るように、私たちが御霊によって歩んでいけますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・
ブログの読者の方へ
私は、一信徒です。牧会者ではありません。
みことばの分かち合いとして、このブログを書いています。

2013年12月18日 (水)

ヘブル13:16 善を行いましょう

そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。(口語訳)

 善をすることによって救われるのではありません。キリスト者とされた者、即ち御霊によって新しく生まれた者は、素直に聖霊の導きに従えば善を行う者なのです。

 この世は、益々悪がはびこっていきます。それは神様が教えて下さっておられるところです。しかし、キリスト者は益々聖なる者とされていくのです。
黙示録22:11に「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。 (口語訳)
聖なる者でなければ義なる行いは出来ません。
不義を行う者、汚れを行う者が神様から矯正されることなく野放しにされるのです。これは怖いことです。何故ならその言動に基ずいて白い御座の裁きで裁かれ、刑が執行されるからです。
悪を行うとき、神様は警告を発します。しかし、警告を発しないで、黙示録22:11にあるように「行うままにさせよ。」となったらそれは見放したということなのです。神様がおられないとか、見ていないとか、黙認しているなどということではないのです。

ローマ1:18-27には次のようにあります。
1:18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
1:19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
1:20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
1:21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
1:22彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
1:23不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
1:24ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた
1:25彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。
1:26それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
1:27男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。”神様に放任されたらおしまいです。

 現代人は、何か災害があるとすべてを自然災害か人災の範疇に閉じ込めてしまいます。しかし、聖書はそのようには語っていません。
4:6「わたし〔主なる神〕はまた、あなたがたのすべての町であなたがたの歯を清くし〔食物が無いということ〕、あなたがたのすべての所でパンを乏しくした。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。
4:7「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。
4:8そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。
4:9「わたしは立ち枯れと腐り穂とをもってあなたがたを撃ち、あなたがたの園と、ぶどう畑とを荒した。いちじくの木とオリブの木とは、いなごが食った。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。
4:10「わたしはエジプトにしたようにあなたがたのうちに疫病を送り、つるぎをもってあなたがたの若者を殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの宿営の臭気を上らせて、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」と主は言われる。”(アモス4:6-10)

 “4:1イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。
4:2ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている。
4:3それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、野の獣も空の鳥も共に衰え、海の魚さえも絶えはてる。”(ホセア4:1-3)

 終りの時には、神を信じていると言いながらその実は神に聴き従わないで自分勝手に歩む人たちも多く起こることでしょう。パウロは2テモテ3:1-7で次のように述べています。
3:1しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
3:6
彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。
3:7彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。”

 まことに救われた者は、良きわざを行っていくのです。良きわざを行えることも神様の恵みだと思うのです。それはエペソ2:8-10に次のようにあるからです。
2:8あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
2:10わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”

 ローマ12:6-21でパウロは主にあって次のように勧めています。
12:6このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
12:7奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
12:8勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
12:9愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、
12:10兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。
12:11熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
12:12望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
12:13貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
12:14あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
12:15喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
12:17だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
12:18あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
12:19愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
12:20むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
12:21悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。”

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて賛美します。
この世はますます暗くなっていきます。
みことばに従うキリスト者にとって、この世はますます生きにくくなっていきます。
しかし、あなたの導きに従って自分に与えられている分を果たしていくことが出来ますように。あなたの御旨に従って歩むと敵であるサタンとその配下の者は敵対してきます。その中にあって主に従っていくことが出来ますように。
主イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と言われました。
主にあって勝利していけますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年12月17日 (火)

ヘブル13:15 賛美の奨励

だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。(口語訳)

 キリスト者は「神を賛美するために造られた」と詩編102:19(新共同)に次のように書かれています。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
父なる神様は何をして下さったのか。
御子なるイエス・キリスト様は何をして下さったのか。
聖霊様は何をして下さったのか。
分かればわかるほど、恵みを体験すればするほど、自然と賛美と感謝は湧き出てきます。
神の創造の御業を思い巡らし、キリストの贖いを思いめぐらす時、自然と賛美や感謝が湧き起るでしょう。日々の歩みにおいても聖霊はいつも助けてくれているのです。真理を理解させて下さり、慰めを与えてくださり、強めてくださり、必要を満たしていて下さいます。三位一体の神様に目を向けた時、そこにはいつも賛美と感謝があります。神様は賛美されるのにふさわしいお方でありますけれども、キリスト者も神様を賛美することはふさわしいことです。それだけではなく、神様を賛美し、神様に感謝するすることはキリスト者に幸せをもたらします。

 賛美や感謝に関するいくつかの聖句をあげておきます。
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(1テサロニケ5:16.17.18)

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:19.20)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」(詩編34:1-5)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
私たちの生涯が、あなたを賛美し、あなたに感謝する生涯でありますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年12月16日 (月)

ヘブル13:14 キリスト者の国

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。(口語訳)

 人間の多くは、少し前まで、この地球がいつまでも同じように続くのではないかというように錯覚していました。しかし、最近の異常気象を通して、また、自然科学の発達と啓蒙によって地球のみならず、宇宙を構成する恒星も惑星も衛星も崩壊するものであることを学んだのです。地上には永遠の都はありません。

 ダニエル2章で神様は、ダニエルを通して、世界帝国の興亡や終りの時代の国々の状況、地上における神の国(教会)の発生と成長について次のように教えてくれています。
2:31王〔ネブカデネザル〕よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
2:32その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、
2:33すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。
2:34あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
2:35こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
2:36これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
2:37王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、
2:38また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39あなたの後にあなたに劣る一つの国〔メディヤ・ペルシャ〕が起ります。また第三に青銅の国〔ギリシャ〕が起って、全世界を治めるようになります。
2:40第四の国〔ローマ〕は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
2:41あなたはその足と足の指〔終末の世界統治体の国〕を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
2:42その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
2:44それらの王たちの世に、天の神は一つの国〔キリストによる国(初めは肉眼では見えない形に、やがて見える形のキリストの千年王国)〕を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう〔黙示録19章〕。そしてこの国は立って永遠に至るのです〔キリストの千年王国、その後は新天新地における父なる神の統治による神の国(黙示録20-22章)〕。”

 地上の都は一瞬のうちに崩壊していくときが来ます。黙示録18章にそのことが書かれています。しかし、その前から大患難時代に入ると、いたるところで大災害に見舞われていきます。それは私たちが今体験しているかなりひどい災害とは比べものになりません。それは黙示録6-9、16章に書かれています。

 一方、栄光に輝く来たらんとする都については、黙示録21.22章に書かれています。キリスト者の国籍は天国です。非キリスト者が想像している天国と本物の天国とは大きな隔たりがあります。本物の天国には、父なる神様と御子なるキリスト様が君臨しており、そこに住む住民はいつも主なるお方を賛美している所です(黙示録4.5章)。地上で主を心から賛美したことのない人にとっては違和感の大きいところなのです。それがまことの天国です。アブラハムは、主イエス様が地上に肉体を持って現れた時からさかのぼること2000年位の時に地上で生活していた人でしたが、ヘブル11:16によると天の故郷にあこがれて生きていたことが分かります。私たちが求めている都も、地上の崩壊していく都ではなく、天の都です。私たちは、キリストが天から迎えに来てくださるのを待っているのです。だからといって、地上においていい加減に生きていいのではなく、地上においては主に導かれ、主の助けを頂いて、主にかなった歩みの内に生きて行くのです。そして日々、或いは折々に、主を崇め、賛美し、主に感謝し、主を礼拝するのです。そうすればそこはミニ天国です。キリスト者の国籍は天の国なのですから。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め賛美します。
この世にあって、この世はいずれ滅びるのだからと、いい加減な生き方をしてしまうのではなく、天国人としてふさわしく神の栄光の為に御霊に満たされ導かれて歩み続けることが出来ますようお願いします。
主イエス・キリスト様の御名によって
アーメン

2013年12月15日 (日)

ヘブル13:9-13 恵みによって心を強める

13:9さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。
13:10わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。
13:11なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。
13:12だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。
13:13したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。
(口語訳)

 ヘブル人への手紙は、ヘブル人キリスト者にあてて書かれたものですから、「食物によって・・益を得る」とあるのは、著者は旧約の食物規定やコロサイ書で見られるような様々な教え(コロサイ2:16.21)が念頭にあって書いたのかもしれません。いずれにしても食物規定に従って救いにあずかったり、永遠の命を得たりすることは出来ないのです。

 少し脱線しますが、現代でも食品と心の関係について色々なことが言われ、その中には実証されているものもされていないものもあります。一例をあげると、カルシウムが少ないとイライラしやすいというものです。その為には、カルシウムを不足しないように摂取するとか、さらに血液中に入ってカルシウムを消費してしまうような食品を減らすとかするようなものです。大脳の神経の伝達方法にはアセチルコリンやセロトニン、ドパミン、ノルアドレナリン等のような化学伝達物質が必要です。神経細胞の中を微弱電流が流れて行くと神経終末の所にカルシウムイオンが入ってきます。すると神経伝達物質が放出されて隣接している神経の樹状突起へと流れて連絡が取れて行く仕組みになっているそうです。この様にシナプスにおいてカルシウムイオンは大切な働きをしています。食事がいい加減で良いということではありませんが、大切なことは心を強くすること、心に平安があり心が安定していることなどは、食品などとは比べものにならないほど、霊や魂が関わっているのです。キリスト者は、恵みによって心を強くされ、平安を与えられる者でありたいですね。
 主イエス様は、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)と十字架におかかりになる前に言われました。
 
 エサウのように神の恵みよりも食物が第一になってしまったものは、益を得ることが無かったのです。(創世記25:27-34、ヘブル12:16.17)エサウに限らず、信仰が横に押しやられてしまって、食物第一のようなあり方も同じなのです。

 10-13節は、ヘブル人キリスト者達にはよく理解できたことだと思います。新約時代に生きる私達キリスト者は、エルサレムでの祭儀を体験していませんが、ヘブル人キリスト者達にとってはとてもよくわかることであったでしょう。
 主イエス様がまだ地上におられた時、「だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」(マタイ9:16.17)と語られたみことばを思いだします。私たち異邦人キリスト者であっても注意していないと新しい契約(新約)に古い契約(旧約)を混ぜ入れてごちゃごちゃにしかねません。それは父なる神様と主イエス様をおとしめることになります。自分のわざに頼るのではなく、十字架につかれて死なれ復活なさった主イエス様に100%の信頼を置くのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
いつでも恵みによって強められる者であらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
 

2013年12月14日 (土)

ヘブル13:8 いつまでも変わらないキリスト

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(口語訳)

 なんと素晴らしいことでしょうか。人間の中でこの様な人は他にいないのではないでしょうか。今イエス様が地上におられたら、福音書に書かれているイエス様と同じなのです。

 パウロがテモテに対して書いた手紙の中に「私たちは真実でなくても、彼〔イエス・キリスト〕は常に真実である〔真実であり続ける〕。彼にはご自身を否むことができないからである。」{新改訳(2テモテ2:13)}とあります。岩波訳では「彼は忠実であり続ける」とあります。黙示録19:11においては「忠実で真実な者」と主イエス様は呼ばれています。
主イエス様の愛、忠実さ、真実さはいつまでも変わらないのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
あなたは私たちの救い主として、主としてイエス様を与えてくださいましたことを感謝します。
私たちは、イエス様の変わることのない愛に包まれ、イエス様の真実と忠実性を持って扱われ、支えられ、導かれておりますことを感謝します。
私たちの人生に何が起きても、いつまでも変わることのないイエス様に目を留めて歩み続ける者であらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2013年12月13日 (金)

ヘブル13:7 信仰の先達を模範としなさい

神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。(口語訳)

 聖書には、私たちが生きていく模範になるような先達がたくさん登場します。信仰を持って聖書を読むとき、自分がどのような状態に置かれていたとしても参考になります。

 自分としては正しい歩みをしてきたと思うのに大変な苦難の中におかれた人の為には、ヨブ記があります。神様から義人と呼ばれたヨブもサタンの故に大いなる苦しみを味わいましたが、後年は災いに遭う以前よりも祝福されました。(ヨブ記)

 主と共に歩み続けたエノクは死を見ることなく天に引き上げられたのです。このことは携挙の型でもあります。(創世記5:22-24)

 主の言葉を語って、一度に3000人も救われるような所を見せて頂けたペテロ(使徒2章)もいれば、主の言葉を語ったが故に人々から敵対され石打ちにされて天に帰ったステパノもいます。ステパノは石打ちにされている中で、主イエスと同じように「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈って天に召されたのです(使徒6.7章)。

 ダニエルは、バビロンへ捕虜としてひどい扱いの内に連れて行かれ、幾度も危機に直面しながら主から預言を与えられ、最後は「あなたは終りまで歩み、休みには入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(ダニエル書)と約束されたのです。

 バルクはユダの国が背教を続ける中で主とエレミヤに仕えました。ユダが捕囚となっていくことをエレミヤに告げ続けられている中にあって、主なる神様はバルクに、「あなたは自分のために大いなる事を求めるのか、これを求めてはならない。見よ、わたしはすべての人に災を下そうとしている。しかしあなたの命はあなたの行くすべての所で、ぶんどり物としてあなたに与えると主は言われる。」と約束されました。(エレミヤ45章)

 主の約束を信じて地上では旅人であり、寄留者であるかのような生活をしていったアブラハム、イサク、ヤコブの生涯については創世記に詳しく書かれています。地上生涯を終えた後も、神様ご自身が、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト3:6)と言われました。主イエス様が地上におられた時、神は生きている者の神であると語られた時に引用したのがこの箇所であったのです。出エジプト記3:6は、ユダの指導者ならばだれでも知っていたみことばであったでしょう。神様がモーセに現れた時の自己紹介であったのですから。主イエス様がユダヤの指導者達の質問に答えられた時、アブラハムもイサクもヤコブも皆生きているよと神様がモーセに自己紹介した時のことばを用いたのでした。

 主イエス様は、ヨハネ11:25.26で「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と語られました。聖霊は、このみことばをキリスト者の内で生きて働くものとしてくださいました。まことの神様を信じたものの内には多くの殉教者がいますが、ある人達は喜びを持って殉教していった、とあります。主が見えないものを見させて下さったのでしょう。キリスト者の中での最初の殉教者ステパノの最後の状況と言葉が次のように残っています。“聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。”(使徒7:55-60)
眠りについたというのは、肉体が死んだということです。地上に生きている者に見える状態です。この時、霊と魂は、主もみもとに生きた状態で移されました。更にキリスト者の霊はすでに永遠です。

 神様はキリスト者一人一人をそれぞれ導かれます。ある人は地上において豊かな一生を送るかもしれません。ある人は殉教していくかもしれません。現代も日本のすぐ近くの国ではキリスト者がひどい迫害を受け次々と殉教しています。イスラム圏でもイスラム原理主義の人達に殺されていく人達が後を絶ちません。キリスト者の本体は、肉体ではなく再生された霊であることをよくよく知っている必要があります。キリストを信じた時、霊において永遠の命は始まっているのです。栄化される時、霊の器である体も永遠のものとして頂けるのです。
と同時にキリスト者の命は永遠なのですから地上生活もおろそかにすることはできません。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
聖書によって、或いは信仰の伝記本等によって多くの信仰の先達の生きざまを知ることが出来ますことを感謝します。
それらを通して主なる神様が一人一人をそれぞれに応じてどのように導かれたのかを見ることが出来ますように。
神様の多様な導き方を心に留めつつ歩むことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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