ヨハネの福音書

2014年7月14日 (月)

ヨハネ21:18-25 あなたは私に従いなさい

21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
21:20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
21:24これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。”(口語訳)

 殉教の預言に関しては、前回の箇所で記しました。
 
 ペテロに対する殉教の預言をイエス様から聞いたとき、ペテロはすぐに、「ではヨハネはどうなのですか」(21)と尋ねたのです。
私たち人間は、どうしても、すぐに人と比べてしまします。
ひとと比べて、優越感を持ったり、劣等感に落ち込んだり、妬んだり、羨んだりするのです。
これは恐らく生まれながらの人間ならだれでも持っているもので、人間の「肉」から出てくるものであり、罪であり、サタンに攻撃の足場を与えることになるのです。
主との関わりの中で生きないと罪に陥りますし、それに束縛されます。
どこで生まれたのか、日本以外のこともあったかもしれないのです。北朝鮮か、イランか、イラクか、シリア、エジプト、ナイジェリアか、私たちは、日本に生まれさせて頂いたのです。男か女か、両親はどのような人か、金持ちか貧乏人か、生まれた時のDNAはどのようになっているのか、等々きりがありません。

 大切なのは、天への希望を持って、主を愛し、隣人を愛し、主に信頼し、主にお従いすることだと思います。一日、一日、与えられた場所で(主の導きでいろいろ変化することもありますが)、与えられた能力や体力に信仰を働かせて、出来る範囲で主にお仕えすればよいのではないでしょうか。
イエス様は、ペテロに、他の人がどうのこうのではなく、「あなたは私に従いなさい。」(22)と言われたのです。イエス様は、素晴らしいおことばをペテロにかけてくださいました。「あなたは私に従いなさい。」と。
私たちにもイエス様は、「あなたは私に従いなさい。」と言われることでしょう。
また、イエス様は、主の為に働いて疲れの色が見えている人に、「休みなさい。」(マルコ6:31)とも、お声をかけてくださる方です。何事についても一生懸命なさる方は、御霊の導き以上に頑張ってしまって、燃え尽き症候群に陥ってしまい易いものです。その前に気づいて休息をとる必要があるのではないかと思います。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
人と比べて、一喜一憂するような生き方ではなく、いつも主に従って歩み続けて行くものであらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年7月13日 (日)

ヨハネ21:15-19 イエス様がペテロの殉教について預言する

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。”(口語訳)

 イエス様は、ペテロを再度回復させてから、牧会の命令を与え、更に生涯の終りに殉教するという預言を与えたのでした。

 18節の「年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」とは、捕まえられて、手と腰を縛られて引っ張られていくことを表していると思います。
ウィキペディアのクォ・ヴァディスの項の中に、次の記載があります。
Quo Vadis の語が示すもの
この言葉は、聖ペトロ(聖ペテロ)の運命を決めたばかりでなく、その後のキリスト教の苦難と栄光の歴史を象徴するものとして作中のクライマックスで用いられている。
ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。ペトロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れるのに同意した。夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストの姿を見る。ペトロは驚き、ひざまずき、尋ねた。
Quo vadis, Domine? (主よ、何処にか行き給う/主よ、どこに行かれるのですか)
キリストは言う
汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかからん/そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。
ペトロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。
(この章の記述については、阿部知二他編 『西洋故事物語 上』 河出文庫 1983年 によった)”
ヨハネ21:18.19のペテロに対するイエス様の預言の成就を上の文章から知ることが出来ます。

 更に、ペテロは、殉教する際に、イエス様と同じ普通の十字架のかかり方では申し訳ないということで、逆さに張り付けてもらったと伝えられています。
“聖ペトロ(ペテロ)はローマへ来た際にネロ皇帝からの迫害を受け、十字架による磔刑(たっけい。=はりつけ)に処せられたが、その際に逆さまに(頭が下の状態で)十字架に掛けられたとしている。自分がイエスと同じ状態(頭が上の状態)で処刑されるに値しないとして、みずからこの方法を望んだとされる。アレクサンドリア学派神学者オリゲネスが、歴史上初めて「聖ペトロは頭を下にして磔刑に処せられたのは、彼がその方法で処刑するよう頼んだからだ」といった内容の記述を残した。”(wikipedia)

 ここの聖書箇所は、イエス様が復活された後の出来事ですが、イエス様が捕縛される前の最後の晩餐の後、ペテロがイエス様を裏切るという預言がされたのです。
ルカ22:31-34に
“シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」”(新改訳)
と記されています。
このペテロが、最後は逆さ十字架で地上の生涯を終わったのでした。
ペテロは、やがてイエス様の千年王国で、王として治めるのです(ルカ22:29.30)。
人は、自分のことは自分が一番よくわかっていると思いがちですが、そうではないことが分かります。自分に対する自分の予想は外れることがしばしばあったとしても、イエス様は細かい所までよく知っておられるのです。すべてを知って愛してくれているイエス様に感謝するほかありません。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
イエス様の愛の広さ深さ高さは、どれほど大きいものなのでしょうか。
はかり知れません。
いずれにしても、イエス様はその愛を持って、私たち一人一人を愛してくださっておられるのですからありがとうございます。
あなたの愛と配慮に包まれて信仰生活を遅らせて頂けますことを感謝し主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

 

2014年7月12日 (土)

ヨハネ21:15-17 ペテロに対するイエス様の愛と命令

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する〔ἀγαπάω アガパオー〕か」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する〔φιλέω フィレオー〕ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する〔ἀγαπάω〕か」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛する〔φιλέω〕ことは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する〔φιλέω〕か」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛して〔φιλέω〕いることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。”(口語訳)

 イエス様が捕縛される前、ペテロには、次のようなことがありました。
“そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。”{(マタイ26:31-35)新改訳}

 それからいくらも時間が立っていない時に、イエス様は捕縛されました。そして、大祭司の中庭に連れて行かれたのです。その中庭でのこと、次のようなことが起こりました。
“ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。”{(マタイ26:69-75)新改訳}

 イエス様が、ガリラヤ湖の岸で、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛する〔ἀγαπάω アガパオー〕か。」と質問されたのです。
ペテロは、イエス様を愛していました。愛しているからこそ、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:35)と言ったのだと思うのです。しかし、現実は、逃げてしまったのです。
この時、イエス様を愛する愛の故に、ペテロが嘘をつくことなく対応していれば、アガペーの愛を全うしたことでしょう。ペテロは、自己保身の塊になってしまったのです。
このガリラヤ湖半にて、「わたしを愛する〔ἀγαπάω アガパオー〕か。」と聞かれても、ペテロは、「わたしがあなたを愛する〔φιλέω フィレオー〕ことは、あなたがご存じです。」としか言えませんでした。
フィリアは、人情とか友愛です。

 イエス様は弟子たちに対して、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」{(マタイ10:37-39)新共同訳}と言われました。ペテロもこの教えは聞いていたのです。また、他の弟子たちも聞いていました。しかし、イエス様が捕縛れた時、皆逃げたのです。知識があることと実行できることは異なります。しかし、弟子たちは、イエス様のご復活後、聖霊を注がれ、ヨハネを除いて、皆、殉教するまで伝道、牧会に励んだのです。アガパオーの愛は、主の内にある愛ですから、主の霊に満たされている必要があるのです。
(ヨハネは石川五右衛門のように釜ゆでにされましたが死ななかったと伝えられています。)

 今は困難な時代です。パウロは、2テモテ3:1-5で、「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」(新共同訳)と記しています。
この様な中にあっても、主を愛する者同士、益々、主を愛して歩んでいきたいものです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
ペテロは、一度、自己保身の故に恐怖に包まれて、イエス様を否認してしまいましたが、イエス様は、その前から、ペテロの信仰が無くならないように、事前に祈られ、イエス様が復活された後には、更に、ペテロの心を回復させ、派遣や牧会の命令を与えられました。
どこまでも愛に満ちているイエス様に感謝を捧げます。
私たちも、そのイエス様に愛され、イエス様の愛に包まれて日々過ごすことが出来ますことを感謝します。
主の御名を賛美し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
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「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」{(エペソ3:14-21)新改訳} 

2014年7月11日 (金)

ヨハネ21:1-14 弟子たちにイエス様が三度めに現れた時の出来事

21:1そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほど〔百メートル足らず(新改訳)〕の所にいたからである。
21:9彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。”(口語訳)

 イエス様のご復活後、弟子たちに現れた三度目の記事です。
この時の弟子たちは、全部で7人でした(2)。
そして、ペテロが他の弟子たちに、「わたしは漁に行くのだ」と言うと、他の弟子たちも、「わたしたちも一緒に行こう」と言って船に乗り込み、漁をしましたが、その夜はなにも取れなかったのです(3)。
岸に、誰かが立っていました。弟子たちは、まさかイエス様だとは思いませんでした。弟子たちは、以前は一日中、毎日毎日、イエス様と一緒にいたのです。しかし、イエス様のご復活後は、復活の日に一度、更に8日後に一度会っただけなのですから。

 イエス様は、何故、この様な状況の時に登場されたのでしょうか。
イエス様は、弟子たちが派遣された後、サタンに縛られている人達をサタンからイエス様の方へと獲得するためには、イエス様が言われるようにしないと、即ち導きに従わないと、良い結果が得られず、徒労に終わるよ、ということを教えたかったのかもしれません。
ペテロは漁師です。こんなに取れないはずはない、と思ったかもしれません。漁には自信があったでしょう。私の考えでは、イエス様が魚を一匹も取れないようにしたのだと思うのです。イエス様は、魚も支配していますから、ペテロが漁をする所から移動させてしまったのではないかと思うのです。そして、魚を集めておいた方に、網を打つようにさせたのではないでしょうか。
これらのすべては、宣教活動をどのように行えばよいかを教える為でしょうから。
イエス様は、弟子の幾人かを召す時に、「人間をとる漁師にしてあげよう。」と言ってその人達を召したのです。
マタイ4:18-22に、“イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。”(新改訳)とあります。

 8-10節を読むと、興味深いことが書かれています。
弟子たちは、朝食を得ようとして漁に出たのでしょうが、何と、魚を引き上げる前に、イエス様は、既に、魚とパンを用意されていたのです。
このことも何かを教えようとしたのかもしれません。
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」{(マタイ6:33)新改訳}
ということを教える為であったのかも知れません。
10節で、イエス様は彼らに、「今とった魚を少し持ってきなさい。」と言われましたが、弟子たちが取った魚もイエス様の導きの故に取れたものであったのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様は、必要なことを一つ、また一つと教えて下さいますから感謝します。
あらゆることについて、イエス様の導きに従って行くことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年7月10日 (木)

ヨハネ20:24-31 本書が記された目的

20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
20:26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
20:30イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。”(口語訳)

 イエス様がご復活された日の夕方、イエス様は弟子たち一同が集まっている家に現れましたが、その時トマスはいなかったのです(ヨハネ20:19-24)。そこで、その時にイエス様に会った弟子たちが、トマスにイエス様に会った次第を話したのです(25)。するとトマスは不信仰の故であったのか、悔しかったのか分かりませんが、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」(25)と言ってしまったのでした。

 それから次の日も、また次の日もイエス様に会うことは出来ませんでした。イエス様に会えたのは、8日後でした。イエス様は、復活の日に合わせるように現れました。黙示録1:10には、「わたしは主の日に御霊に感じ」とありますから、やはりイエス様はイエス様が復活された週の初めの日、今の暦の日曜日に現れるようです。イエス様は、いつも共にいてくださいますが、日曜日を特に大切になさっておられるのかもしれません。

 イエス様のご復活の八日後、今度はトマスも他の弟子たちと一緒に、鍵をかけた室内にいました。イエス様は、前の時と同じように、戸が閉じられた室内に、またもやスーッと入って来られました。そして、一週間前にトマスが「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」と言った言葉を受けて、イエス様はトマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。」(27)と言われたのです。
私たちは、父なる神様に祈った時だけ、或いはイエス様に祈った時だけ、祈りの声を聞いてくださると考えがちですけれどもそうではないことが分かります。私たちの間でなされた会話もイエス様に筒抜けなのです。神様に取り繕うことなどは出来ないのです。声に出さないこともすべて知られています。ですから、逆にすべてを知って愛していて下さるのですから安心なのです。

 イエス様はトマスに、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(29)と言われました。イエス様は、すべての人に同じことを語られるのでしょうね。
またイエス様は、「見ないで信ずる者は、さいわいである。」(29)とも言われました。
イエス様が天に変えられてからは、イエス様を、肉の目で、見ずに信じて救われる時代に入りました。
大患難時代に、教会時代のキリスト者達が消えてしまったのを見てから、イエス様を信じることは、見たから信じた、という一面があるでしょう。その人達は、大患難時代を通過しなければならないのです。一方、教会時代に、イエス様を信じただけで救われていった人たちは本当に幸いなことです。勿論、その時代にも殉教はありましたし、これからもありますが、見ずに信じることの恵みを与えられた人達は何と幸いなことでしょうか。その人達は、総体としてキリストの花嫁になるのですから。

 31節には、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」と記されています。使徒ヨハネがヨハネの福音書を記した目的が31節に書いてあるのです。
その目的を1ヶ節で表した箇所はヨハネ3:16の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新改訳)ということになるのだと思います。

 蛇足になりますが、ヨハネの手紙の方は、キリスト信者に対して書かれたものです。それは、1ヨハネ5:13に、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(新改訳)と記されているからです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様を信じることが出来るようにしてくださり、永遠の命を与えてくださり感謝します。
ヨハネの福音書をヨハネを用いて書かせ、私たちを救いへと導き、また、私たちの霊の糧ともして下さいましたことを主イエス様の御名によって感謝します。
アーメン

ヨハネ21:1-14 イエス様が復活後3度目に現れたときのこと

21:1そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。”(口語訳)

2014年7月 9日 (水)

ヨハネ20:19-23 弟子たちに現れたイエス様

20:19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。”(口語訳)

 その日というのは、その前に“イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。”(20:17.18)と記されておりますから、イエス様の復活の日であることが分かります。

 復活されたイエス様に会った、というマグダラのマリヤの話を聞いても、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸をみな閉めていたのです。きちっと閉められていたにもかかわらず、イエス様は家の中に入って来られました。復活の体の機能の一部でしょう。わたし達も、天上の体が与えられると同じようになるのです。

 20節に「手とわきとを、彼らにお見せになった。」と記されています。
十字架に釘づけられたときの釘の跡と、やりで刺されたわき腹の傷は、残してあるのです。それは、今現在もあります。イエス様の地上への再臨の時、特にユダヤ人達はそれを見るのだと思います。
その光景がゼカリヤ12:10に「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(新改訳)と記されています。それは、ヨハネの黙示録1:7のイエス様の地上再臨時の光景として、再度、「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(新改訳)と記されています。
地上の諸族は嘆いても私たちは大喜びです。イエス様の統治なさる御国が始まるのですから。

 イエス様を見た弟子たちは大喜びしました。
〔χαίρω カイロー 1. to be "cheer"ful, i.e. calmly happy or well-off 2. (impersonally, especially) as salutation (on meeting or parting), be well〕
大変な喜びであったのではないかと想像します。

 イエス様は、弟子たちに、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」(21)と派遣の命令を発するとともに、聖霊を弟子たちに遣わしたのです(22)。
これらのことは既に次のように約束されていたことでした。
“さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。”{(ヨハネ7:37-39)新改訳}
“わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。”{(ヨハネ14:16.17)新改訳}
力強い働きの為の御霊の注ぎは、これよりも後のことでした(ルカ24:49、使徒1:8,2:33)。
キリスト者は誰でも御霊を与えられています。御霊が与えられていなければ救いの保証はありません(エペソ1:13.14)。ですからキリスト者は誰でも御霊の実を結ぶことが出来ます。力強い働きは、また別のことです。御霊の現れの違いと言った方がよいのだろうと思います。御霊は様々に働いてくださいますが、同一の御霊です(1コリント12章、エペソ4:3)。御霊は色々な現れをしますが御一方です。
 イエス様は、23節で、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。」と言われました。
このおことばは、神である聖霊の導きに間違いなく従っているときにのみいえることです。
使徒だからといって、聖霊の支配から離れ、肉の思いによって決定した場合は、このイエス様のおことばに該当しない場合も多々出てくることでしょう。
イエス様が地上におられた時、いつでも父なる神様に従っていたように、使徒たちもイエス様に従い続けている限りにおいて、このおことばの通りになったことでしょう。
教会の暗黒時代といわれた時代、正しい信仰を持っていた故に、キリスト教会といわれている地上の強大なキリスト教会から破門されたり、火あぶりにされたりしたような人達は数多くいたのです。黙示録にある大患難時代にも、イエス様を信じた人達がその時代の宗教指導者達にどんどん殺されると記されています。そこで殺された人は、キリストの千年王国において王として治めるのです(黙示録20:4-6)が。

 世界の宗教指導者といわれる人を、肩書きや肉の目で判断することは危険です。現代も、霊の目で判断しないと大変なことになる時代に突入しています。宗教指導者が、聖書に反すること、即ち神の御旨に敵対することに賛意を表明したり、許容したりしている時代だからです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
あなたは、何かを御命令されるときには、その遂行に必要なものも与えてくださいますから感謝します。
いつでもあなたの導きに従うものであらせて下さい。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」{(2コリント4:18)新改訳}

2014年7月 8日 (火)

ヨハネ20:11-18 イエス様は泣いているマグダラのマリヤに現れてくださった

20:11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
20:17イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
20:18マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。”(口語訳)

 この箇所は、読むだけでよくわかるように思えます。
17節に、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。」とあります。
レビ記23章に、主の祭りが記されています。
主の祭りは、新約時代の出来ごとの予表でもあります。
レビ23:5に、「第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。」(新改訳)
(ユダヤの暦で、第一の月(ニサンの月)は、現在の暦の3-4月に相当します。)
夕暮れは、金曜日の日没前です。日没後からは、ユダヤの日付は15日になります。
過ぎ越しの祭りは、イエス様の十字架の血による贖いでした。イエス様を信じた人は、イエス様の血によって罪を赦されきよめられたのです。
そして、15日から7日間は、主の、種なしパンの祭り(レビ23:6)です。種(パン種)は罪の象徴です(1コリント5:6-8)。イエス様は、パン種に象徴される罪を持っていないお方でした。
イエス様は、最後の晩餐の時、「彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ26:26-28)と言われたのは、過ぎ越しの子羊の血とパンの祭りの実体が、イエス様であることを教えられるためでした。
イエス様の十字架によって、罪は処理されたのです。イエス様の血潮によって罪赦されきよめられた者は、イエス様に心の王座に座って頂いて、きよく歩むことが主の御旨であることが分かります。

 17節にある、父のみもとに上ることの優先性は、過ぎ越しの次に来る「収穫の初穂の束を主に捧げること」(レビ23:10.11)に現わされています。これは、安息日の翌日(ニサンの月の16日)ですから、ちょうど日曜日にあたります。即ち、イエス様の復活の日です。
収穫の初穂は、まず神様に捧げられました。
イエス様も例外に漏れませんでした。
そして、模範を示されました。
御父の御許へ上る前に、マリヤは、イエス様に触れることを、許されませんでした。
イエス様は、この後、人に知られることなく、天に上り、御父にお会いし、夕方には、弟子たちに現れたのです。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様に倣って、何でも、初めに「神」ということを忘れることがありませんように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まず神の国と神の義とを求めなさい。」{(マタイ6:33)口語訳}

2014年7月 7日 (月)

ヨハネ20:1-10 イエス・キリスト様の復活

20:1さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
20:2そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
20:10それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。”(口語訳)

 各福音書によって記されてあることが異なるので、それらをすべて読むことによってその時の状況を補い合うことが出来ますから、ヨハネ20:1-3に相当するところを、それぞれ下記します。

 (マタイの福音書)
“28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。”(口語訳)

 (マルコの福音書)
“ 16:1 さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。
16:2 そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。
16:3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。
16:5 墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。
16:6 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。
16:7 今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。
16:8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。
16:9 〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。
16:10 マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。
16:11 彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。”(口語訳)

 (ルカの福音書)
“24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
24:2 ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
24:8 そこで女たちはその言葉を思い出し、
24:9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
24:10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
24:12 〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕”(口語訳)

 ヨハネ20:7の「イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。」の訳について、新改訳と塚本訳を下記しておきます。
(新改訳)“イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。”
(塚本訳)“また頭をつつんだ手拭いは亜麻布といっしょになく、これだけ別の所に、包んだままの形になっていた。”

 この状態を見て、イエス様の復活を信じた(8)のですが、イエス様の復活についての旧約聖書預言は、まだ理解できていなかったとあります。ペテロはこの聖書預言を、五旬j節の日には、次のように説教で使っています。それは詩編16編からの引用でした。
“2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。”(新改訳)
詩編16編の引用箇所は、使徒2:25-28ですが、復活についての預言箇所は使徒2:27(詩編16:10からの引用)になります。
イエス様がご復活されたことに関して、その時、弟子たちは頭が混乱していたことでしょう。時の経過と共に、また、聖霊の助けによって色々な整理もつきみことばも分かったのだろうと思うのです。

 尚、四人の福音書記者共に、イエス様の復活に関しては、イエス様を格別愛していた女性達からの証言によって記したのだろうと思います。イエス様をこよなく愛する者たちにイエス様はそれなりに答えてくださるように思えます。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様の復活を信じることが出来ますことを感謝します。
天使の実在を信じることが出来ますことを感謝します。
1ペテロ3:19の箇所から、イエス様が十字架で肉体の命を失った後、霊において黄泉に行っておことばをのべられたことを知ることです。
イエス様の霊の状態での活動は、止むことが無かったことを見させて頂けまして感謝です。
「生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことが無い。」とイエス様は言われました。
私たちも、肉体の命が終わったとしても、イエス様の霊と同じように、私たちの霊は生き続けることを感謝します。また、私たちの霊は、イエス様の贖いの成就の故にいきなり天に入れて頂けますことを感謝します。
私たちもイエス様と同じように、肉体が死んだとしても、天で生活できる天上の体に、定められたときに、復活させて頂けますことを感謝します。
その定められたときに、まだ地上に生きていれば、肉体の死を経験することもなく、一瞬にして天上の体に変えられて、天に引き上げて頂けますから感謝します。
ハレルヤ!
主イエス・キリスト様の御名によって感謝をもってお祈りします。
アーメン

2014年7月 6日 (日)

ヨハネ19:38-42 イエス様の埋葬

19:38そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。
19:39また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤〔約30kg(新改訳)〕ほど持ってきた。
19:40彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。
19:41イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
19:42その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。”(口語訳)

 イエス様の弟子でありましたが、弟子であることを公にしていなかったと思われるアリマタヤのヨセフという人は、十字架上のイエス様を見たかどうか分かりませんが、もし見ていたとしたら、それによって信仰が成長したのではないかと思うのです。それまでは隠れクリスチャンであったわけですから。アリマタヤのヨセフは総督ピラトに埋葬許可を求めたのでした。ピラトはそれを許可しました。
並行記事のルカ23:50-53には、「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」(新改訳)と記されています。

 ニコデモは、パリサイ人でありユダヤ人の指導者であり教師(ヨハネ3:1.10)であり、また、祭司長やパリサイ人達の間のやり取りで正論を言ってバカにされたこともある人でありました(ヨハネ7:45-52)。

 イエス様の十字架降下から埋葬までのルカの福音書の並行記事は、「イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」(新改訳)と記してあります。
マタイの福音書の並行記事は、「夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。」{(マタイ27:57-61)口語訳}と記されています。
ここでも、イエス様の埋葬について行った人達は、イエス様を愛していた女たちでした。ヨハネを除いた10人の弟子たちはどこにいたのでしょうか。聖書の記載からは分かりません。また、聖書ではイエス様の母マリヤとヨハネが埋葬の現場にいたという記載はありません。
話がイエス様の誕生後に戻りますが、ルカの福音書2章には、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。」(2:22)とあります。その時、主のキリストを見るまでは決して死なないと神様からう約束されていたシメオンが、“彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」”{(ルカ2:34.35)新共同訳}と預言しているのです。
ひょっとすると、イエス様の母マリヤは、もう耐えられなかったのかもしれません。
イエス様を愛する女性達は、自分を顧みることもなく愛を持ってイエス様についていっています。
自分の救いの為にだけイエス様が必要、それ以下でもなくそれ以上でもないというところに留まっているのではなく、私たちキリスト者は、キリストの花嫁なのですから、地上の性別を超えて、イエス様を愛するものでありたいと私自身も思います。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様の埋葬の時には、隠れた弟子であったアリマタヤのヨセフやニコデモが大いなる働きをし、また、ついて行った婦人たちが埋葬の証人となったことです。
イエス様との純粋な愛の関係によって残りの地上生涯を歩んでいきたい思います。
感謝してイエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

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