Ⅰヨハネの手紙

2014年8月16日 (土)

1ヨハネ5:20.21 キリスト者は御子イエス・キリストの内にいる

5:20さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
5:21子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。”(口語訳)

 同じ箇所を新改訳でも記します。
“5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。”(新改訳)

 「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」(20)とあることからも、御子イエス・キリスト様や、父なる神様、聖霊様を知ることが出来たのは、人間の知力や感性によったのではなく、主イエス様によって与えられたのだということが分かります。
特に、肉体をもったイエス様と三年半の間一緒にいて寝食を共にしたヨハネにとっては「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」という体験は事実としてつい最近のように感じていたことでしょう。年をとると数十年も前のことが少し前のことのようにも感じられることもあるのです。特にイエス様とは、四六時中交わりをもっていますから、余計にそのように感じたことと思います。

 父なる神様は、私たちキリスト者を、御子イエス・キリスト様の内においてくださいました。それだけではなくイエス様は、私たちにとって、神の知恵と義と聖と贖いとになってくださったのです(1コリント1:30)。なんとも驚くべき恵みです。それ以上の恵みも与えられています。エペソ1:3には、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(新改訳)と記されています。
神様の恵みの振込先を銀行の預金通帳に喩えてみると、私たちは、どのくらい多くのものが振り込まれているかを知らないで通帳を持っているように思います。私はその残高を確認もせずけちけちと少しずつしか出してこないような者ではないかと思います。天にある全ての霊的祝福を引き出す為にはキャッシュカードの代わりに信仰が必要になります。もっとも毎回少しずつ引き出しているので毎回感謝し感動したりもしていますが。

 21節の「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」と記してこの手紙は結ばれています。
偶像とは、目に見えるもの見えないものと色々ありますが、神様以外のものを神様の代わりにすることはすべて偶像を据えていることになります。
キリスト者は、仏像等を偶像にすることは絶対にありませんが、偶像とは思わない偶像もあります。お金とかプライドとか何かの信条とか、この手紙ではグノーシス主義を念頭に置いて書かれているのだと思いますが、何かの思想とか。
サタン崇拝者の偶像はサタンです。
その偶像の中には、自分や好きな人や家族などという極めて身近でそれらが神様の代わりになって第一位を占めているという場合もあります。
神様以外のものを神様の位置に据えたらそれは偶像です。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたを崇め、あなたを中心として生きていけますように。
私のようなものをもイエス様の内においてくださいましたことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン 

2014年8月15日 (金)

1ヨハネ5:18.19 神によって生まれた者に悪い者は触れることが出来ない

5:18すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。
5:19また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。”(口語訳)

 19節に、「全世界は悪しき者〔サタン〕の配下にある」と記されています。
この様なことを言うと、気がおかしいのではないかと思われてしまいますが、霊的なことが分かっていくと頷くことが出来ます。サタンは、戦争を扇動するといった様な事や、キリスト者を殺したり、迫害したり、その他色々な悪いことをするだけではなく、神中心ではなく人間中心主義的に捉えると、人間にとって良いと思えるようなことも数多く行うのです。ただし、サタンは常に神様に対して憎悪をもっており、人々が救われないように、救われた人は霊的に不熱心になってしまうようにと画策しています。
この書簡は、使徒ヨハネが記しましたが、パウロの書簡にも、「さてあなたがたは、先には〔救われる以前は〕・・・この世のならわしに従い、空中の権をもつ君〔サタン〕、すなわち、不従順の子ら〔神に従わない者たち〕の中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」{(エペソ2:1-3抜粋)口語訳}とありますし、また、パウロ書簡のガラテヤ1:4には、「わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして」(口語訳)と表現があります。イエス様ご自身が語られたことばとして、ヨハネの福音書には、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」{(ヨハネ12:31)新改訳}、とか、「わたしがお願いするのは、彼らを世〔この世界〕から取り去ることではなく、彼らを悪しき者〔サタン〕から守って下さることであります。」{(ヨハネ17:15)口語訳}と御父に祈られた言葉が記されています。〔  〕内は筆者の挿入です。

 イエス様の御救いに与る前や、救われてからも霊的なことの深みが分かる前は、この世も捨てたものではないなどと思ったりもするのですがそうではないのです。サタンはどこまでも神様に逆らい、神様の御計画を台無しにしようとします。そして、救われる前の人間のほとんどの人は自分がサタンの配下にあるなどとは夢にも思っていないのです。一部の人は、積極的にサタンに仕えていますが、その場合でも、サタンををよく知っている人と知らないで仕えている人とがいます。神に仕えていると自分では思っていてもサタンに仕えている人達も多いのです。サタンは光の御使いにも変装するからです(2コリント11:14)。 

 その様なサタンの支配下にある世界において、「神から生まれた者は罪を犯さない」(18)とヨハネは記しています。ギリシャ語聖書を直訳すると、「罪を犯さない」という様な訳になるのです。新改訳は「罪の中に生きない」という訳をしています。直訳すると、「神から生れた者は罪を犯さない」(1ヨハネ3:9、5:18)、「すべて彼におる者は、罪を犯さない」(1ヨハネ3:6)、というところを新改訳では、「罪のうちを歩みません」(1ヨハネ3:6)と訳しています。霊魂体で一人の人と成ります。その人が罪を犯さないということは普通は無いでしょう。私の知っているキリスト者は誰でも罪を犯したことがあります。しかし、罪を犯し続けるという意味で、罪の中を歩むことはありません。内におられる御霊が抵抗しますから。

 話を変えますが、霊は、神から生まれた者です。神から生まれた霊である者は永遠です。この霊の中にキリストの御霊が住んでくださいます。この霊は神様の御心を喜びますが、生まれながらの肉は、自分の力で神に従うことは無理なのです(ローマ7:22.23)。新しく神から生まれた霊は罪を犯しません。しかし、魂も、肉体もまだ古いのです。人間は生まれながらに「罪」(ローマ7:20)をもっています。この罪に対していのち御霊の原理によって勝利できる(ローマ8:2)のですが、魂や体は古いままですから、命の御霊の原理(法則)によらずして勝利することは出来ないのです。それ故キリスト者といえども罪を犯してしまうことがあるのです。新生された「霊」は、罪を犯すのは嫌だ、というのですが、魂と体は「罪」の誘惑に負けてしまうこともあるのです。この様に、新しく神から生まれた霊なる者としては罪を犯しませんが、人間全体としては時に罪に陥るのです。というように私は考えますが、これが正しいのかどうかは先延ばしにします。この様に書かれている解説書をもっていないからです。私は、原文の直訳通りのみことばに少し言葉を補充させて頂いて、「すべて神から生まれた者〔である霊〕は罪を犯さないことを、私たちは知っている。」(18)と解釈します。しかし、霊魂体から成る一人のキリスト者の人間としては、「神によって生まれた者はだれも罪に中に生きない〔罪のうちを歩まない〕ことを、私たちは知っています。」(新改訳)と理解しています。

 18節に、「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。」とありますが、この「彼」も私は、神から生まれた本体である「霊」と捉えます。キリスト者の霊は、神によって生まれた時から永遠です。この霊はいかなる時でも大丈夫なのです。キリストの御霊と一つにされているのですから。しかし、サタンが扇動する迫害によって、肉体は殺されることもあります。即ち肉体は守られないこともあるのです。しかし、霊は守られます。
最後にステパノの殉教の場面を記しておきます。
“7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。”{(使徒7:54-60)新改訳}

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
サタンが支配している世にあっても、私たちキリスト者はそのサタンをも支配している主イエス様のものでありますから感謝します。
この世界が暗くなればなるほど、霊の目が開かれて、肉の人としてではなく、霊の人として生きていくことが出来ますように。
黙示録22:11で「聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい」と命じられていますから、御霊の法則によって勝利の生活をし続けていける者であらせてください。
あなたのお守りを感謝し、主イエス・キリスト様に御名によってお祈りします。
アーメン 

2014年8月14日 (木)

1ヨハネ5:16.17 死に至る罪

5:16もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。
5:17不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。”(口語訳)

 「罪からくる報酬は死です」とローマ6:23にありますが、人類の始祖アダムが罪を犯した為アダムを初めとして、アダムの子孫であるすべての人は、霊的に死んで生まれ出で、やがて肉体の命も死ぬこととなったのです。ローマ5:12には、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(新共同訳)とあります。

 また、1コリント11:23-30の箇所には、主の晩餐(聖餐)の時、主のみ体をわきまえずに飲み食いした人たちは、結果として死を刈り取ってしまったことが次のように記されています。
“11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
11:27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。”(口語訳)
この箇所の続きには、「しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。」{(1コリント11:32)口語訳}と記されています。
尚、注意したいのは、病気したからといって、病気がすべて病気した人の個人的な罪による神の裁きというわけではありません。ヨブのようにヨブのせいではなく、サタンによるものもあり、生まれつきの遺伝子によるものである場合もあり、やむを得ない生活環境の場合その他もあります。人類的には、病気は、アダムの罪の結果入ってきたものですが個人的にはまた別の考えが必要と思います。
また、体の不具合が神の栄光が現わされる為である場合もあります(ヨハネ9:1-3)。

 また、1コリント5:1-5には、
“5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。
5:2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
5:3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。
5:4 すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、
5:5 彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。”(口語訳)とあって、ひどい不品行の故に、肉体に対しては死に至る裁きがなされたとしても、霊は救われる、とあります。
 救いに与ったことが確かであったとしたら、裁かれて肉体は滅んでも、霊は生かされています。新生された霊は、永遠の命を与えられているからです。
ヨハネ3:36には、はっきりと、「御子を信じる者は永遠の命をもつ」と記されています。しかし、罪についてはそれなりの対処をされるのです。(ルカ12:42-48、マタイ24:45-51、ヤコブ3:1、1コリント3:15)

 また使徒5:1-10には、
“5:1 ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、
5:2 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。
5:4 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。
5:5 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。
5:6 それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。
5:8 そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。
5:9 ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。
5:10 すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。”(口語訳)とアナニヤとサッピラの事件が記されています。この二人が、もし、救われていない人達であったら、罪を示し、救い主を示し、伝道し、救いに導く必要があったことでしょう。私は、この人達は救われていたのではないかと思うのですが、教会のきよさを保つために、罪の故に肉体の死を味わうことになったのだと思うのです。この時の神様の扱いがこの様であったのでしょう。

 「死に至る罪」の「死」を霊的な死、永遠の死、を表していると捉える人もいますが、霊的に死んでいるという人は、まず、霊的に生まれなかった人です。霊的に生まれた人は永遠の命を頂いていますから、霊的には死なないのです。霊的に生きたり死んだりしているように見える人で、「霊的に死んでしまった。」と思われる人は本当は、再生(新生)していなかったのだと私は思うのです。霊的に新しく生まれた人は、神から生まれたのであって、アダムのように神によって造られた者とは異なるのです(ヨハネ3:3、1ヨハネ5:4[口語訳・新共同訳・KJV.etc.]、創世記1:26.27)。ただし、霊についてのみです。体の贖いはキリストの空中再臨の時になります(1テサロニケ4:16.17、1コリント15:52)。

 「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」{(マルコ3:28.29)新改訳}とイエス様が言われたことがあります。聖霊は、イエスがキリストであると常に証しされるからです(ヨハネ15:26)。イエスがキリストであるということを受け入れなければ、その人に永遠の命は無いのです(1ヨハネ5:6-12)。

 私の解釈が正しいのか間違っているのかはさておいて、「罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。」(16)と命じられているように、とりなしの祈りをすることが大切です。それから、ガラテヤ6:1のおことばを実行するように示されている時は実行することになります。また、イエス様はマタイ18:15-17のおことばを命じられました。

 私たち自身が罪に陥った時は、すぐに悔い改める必要があります。主は憐れみ深く恵み豊かであると共に、義なる神である故に、キリストが成し遂げられた贖いを無かったかのようにすることは出来ませんから私たちの悔い改めを無視することはありません。
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「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」{(1コリント11:31)新改訳}
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」{(1ヨハネ1:9)口語訳}

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
誰かが罪に陥っていると思った時には、あーだこーだと言っていないで、すぐにとりなしの祈りを第一にすることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年8月13日 (水)

1ヨハネ5:14.15 神のみこころにかなう願いは聞かれる

5:14わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
5:15そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。”(口語訳)

 この聖書箇所は、「祈り」ではなく「願い求める」と記されています。原語では αἰτέω アイテオー で to ask 求めることです。
祈りには、この箇所の様な嘆願(願い)の祈りや賛美の祈り、感謝の祈り、とりなしの祈り、罪の告白や赦しを求める祈り、導きを求める祈りなどがあると思います。
1テサロニケ5:17に、「絶えず祈りなさい。」とありますが、自分自身のことについての願いをあまり持っていない人は、願いだけが祈りだとすると祈りはすぐに終わってしまします。その様な人でも、賛美の祈り、感謝の祈り、とりなしの祈りの複合等であれば、始終祈れることでしょう。

 願い求める祈りについては、「神の御旨に従って祈るなら、神は聞きいれてくださる。」(14)とありますし、更に、その様な祈りは、既にかなえられたことを知らされるのです(15)。
何かを願い求めた結果、願い求めたことを主が聞きいれてくださった、という確信を持たせて頂いたという経験をしたキリスト者は少なくありません。というか、キリスト者は少なくとも自分の救いを確信しているのです。体はまだ贖われていないのに、体も贖われることを確信しているのです。神の子どもとされたことを確信しているのです。それは思い込みというようなものではありません。自分自身の確信と共に御霊様が確信させて下さっておられるのです(ローマ8:16)。

 祈りの種類は色々ありますが、祈ったことについては、神様はそのすべてに耳を傾けていて下さっておられることと思います。それどころか祈ったつもりもなかったことや、愚痴を言ったり、その他、神様に聞かれたくないと思うようなことをしゃべったりしたことも神様はご存知なのです。「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。」{(マタイ12:36)新改訳}とイエス様ご自身が、語られたのですから。私たちが、「こうだったらいいのにな―」、「あーだったらいいのにな―」などとつぶやいていることもイエス様は聞いているのです。つぶやいていないで何でもお祈りした方がよいと思います。神様の御旨にかなわない祈りは多くの場合却下されるでしょうが、神様は何が間違っているのかを教えてくれるかも知れません。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたの御旨にかなう願いをする者であらせてください。
また、願いごとばかりではなく、賛美の祈り、感謝の祈り、とりなしの祈りが、祈りの大部分でありますように。
あなたが恵みの上に恵みを与えてくださるお方であることを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
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「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」{(詩編34:1)新改訳}
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」{(エペソ5:20)新改訳}

2014年8月12日 (火)

1ヨハネ5:6-13 御子をもつ者は永遠の命をもっている

5:6このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。
5:7あかしをするものが、三つある。
5:8御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。
5:9わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。
5:10神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。
5:11そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。
5:12御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。”(口語訳)

 「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかし(神が御子についてあかしせられたそのあかし)を持っている。」(10)即ち、イエスはキリストであり、神の子であり、主であり、救い主であると神の子を信じる者は信じているのです。

 神様ご自身が、イエスはキリストであり、神の子であり、主であり、救い主であると証しされたのです。ですから、イエス様をその様に信じない人は、神の証しを信じない、神を信じない、と言っていることであり、神はうそをついている偽り者である(10)としていることなのです。
ヨハネの手紙のこの聖書箇所によると、肉体をとったイエスをキリストであると信じないで神を信じていると言っているユダヤ教の人やグノーシス主義の人は、イエス・キリストを信じていないので神を偽り者としている、ということになるのです。ですから、救われる為には悔い改めが必要です。神は唯一であると叫んでいるイスラム教徒もイエスはキリストであると信じなければまことの神を偽り者としているのです。創造者なる神を信じたとしてもイエスがキリストであると信じなければやはり同じことです。その様に聖書に書いてあるのです。イエス様が救い主(メシア・キリスト)であるという神様の証言を信じない、或いは信じようとしない、のですから。神様のなさったAは信じるけれども、神様の語られたBは信じないよ、というのでは神様をそのまま信じていることにななりません。

 御子を信じる者は永遠の命をもっています(10.11)。永遠の命は御子の内にあります(11)。キリスト者は、御子を信じた時、御霊によって新しく生まれさせて頂きました(ヨハネ3:3-7)。生まれさせて頂いたのは霊であったのです。その霊の中に御子の御霊が住んでくださったのです(1コリント6:17、ローマ8:9-16、ガラテヤ4:6)。

 御子を信じない者は、当然の帰結ですが、永遠の命をもっていません。御子イエス様を信じていないのですから。(11.12)

 「これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」{(ヨハネ5:13)口語訳}とヨハネは纏めています。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエスがキリストであると信じることが出来るようにさせてくださってありがとうございます。
既に永遠の命を頂いて生かされて歩むことを得させて下さっておられますことを感謝します。
永遠の命を与えられている者として、神の子とされている者として、ふさわしく歩んでいけますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年8月11日 (月)

1ヨハネ5:6-9 イエスがキリストであることの神の証

5:6このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。
5:7あかしをするものが、三つある。
5:8御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。
5:9わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。”(口語訳)

 次に塚本訳を下記します。
“5:6 彼こそ水と血とを経てこられた方、イエス・キリストである。ただ水をもってばかりでなく、水をもってまた血をもって(こられたのである)。(彼が受けられた洗礼の水と、十字架の上に流された血が、彼を神の子と証しするのである。)また御霊(弁護者)が(まことの)証しをするものである。御霊は真理であるからである。
5:7 なぜ(水と血のほかに、御霊の証しがいる)か。(モーセ律法により)証しをする者は三人で、
5:8 御霊と水と血である。そしてこれら三つが一つにな(りイエスが神の子キリストであることを証す)るのである。
5:9 もし人の証を(真実なものとして)受け入れるならば、(御霊と水と血による)神の証しは、もっと有力である。なぜなら、これは神の証しであり、彼が御子について証しをされたのだからである。”

 7節にのもとになっているモーセの律法は、申命記19:15の「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(新改訳)というものです。
これは罪定めする時の条項ですが、ヨハネは物事を立証する条件として用いています。

 新聖書注解によると、「ヨハネが、このことを書いた背景には、ケリントス的グノーシス主義の教えを意識している様である。彼らは、イエスはただの人間であったが、キリストが洗礼の時に彼に臨み、十字架の死の直前に去って行ったと教えた。そこでヨハネは、イエスはキリストであるとし、人性と神性の結合を示し、この神人は水と血の両方を通った方であると指摘する。彼の強調点は<水>ではなく<血>でにある。なぜなら、それは神の御子が人として来られ、贖いを完成したことを示すからである。」とあります。

 ヨハネが、この箇所を記した時、ケリントス的グノーシス主義の主張が念頭にあったのでしょう。いかしそれは、いつの時代にあっても、また、普遍的霊的真理として、三位一体の神が、イエスがキリストであるということを示しすこととなりました。
 1.水:三位一体の第一位格の父なる神は、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」{(マタイ3:17)新改訳}と語られました。
父なる神が、イエス様を「わたしの子」と言われたのです。神のこの御声を聞けた霊性の人達は、イエス様は神の子であることを知ったでしょう。
 2.血:三位一体の第二位格の子なるキリストは、十字架の上で贖いの血を流されました。
血を流すことが無ければ、罪の赦しも、きよめもありません(ヘブル9:22)。
キリストは、ご自分が救い主であることを血によって証言したのです。
 3.聖霊:三位一体の第三位格の聖霊は、イエスがキリストであることを証言したのです(使徒2章)。
見える所では、使徒2章の多くの部分をペテロが語っていますが、これは、ペテロを通して聖霊が語った或いは、聖霊がペテロに語らせたのです(使徒2:33)。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
三位一体の神様からの証言をありがとうございます。
この箇所は、クリスチャンがシンボルとして用いてきた魚のマークである「イエス・キリスト神の子・救い主」という内容が現わされていますからとても嬉しく思います。
神様の証しを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年8月 9日 (土)

1ヨハネ5:3-5 世に勝つ者とはイエスを神の子と信じる者

5:3神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
5:4なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。”(口語訳)

 「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」と4節にありますが、少し前の1ヨハネ3:23に、「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。」と記されています。本当に救われて、イエス様に信頼して御霊によって歩んでいなければ、イエス様が命じられた戒めに歩むことは難しいことです。何故なら、ヨハネがこの手紙を記した時には恐らく、十二使徒たちの中で信仰の故に殉教していなかったのはこの使徒ヨハネだけになっていたのですから。ヨハネは逃げ回ったり、信仰を捨てたりして殉教を免れたのではなく、釜ゆでの刑になっても、神様のお考えと守りの故に生かされていたのです。また、信仰の故にパトモスという島へ島流しにされた時には、イエス様やイエス様が遣わされた天使がヨハネに現れ、また、幻も見せられて黙示録を書きあげたのでした。

 信仰に対する圧迫の中にあって、信仰を守り通し、また極限状態にあっては、拷問などで兄弟姉妹達を売るように要求されるかもしれません。その様な時でもイエス様を信じ、兄弟姉妹達を愛して歩み続けることが出来るのは、聖霊に強められ、イエス様に対する信仰、天への希望、神様が約束してくださっておられる体も贖われるという希望と主イエス様に愛されているという実感と主イエス様に対する愛に基づくものでしょう。

 世がキリスト者に対して挑みかかってくる時、その背後の中心にはサタンがいます。政治家でキリスト者を迫害した人たちの中の多くの人達は、サタンに用いられていたとも知らなかったことでしょう。宗教家と言われる人達でも同じです。中世のキリスト教会の中にあって、主イエス様と本当の交わりを持てていた人達が、悪魔がついていると言われて殺されていったのです。これからの時代にこの様なことは再現されます。現在〇チ×ンは相当危ない所まで来ています。初めは平和を装い羊の身なりをしていますが、やがて正体を現すのです。黙示録17:6には、「そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。」と記されています。女と記されているのは、キリストが内におられないのにキリストを標榜しているその時代のある組織でしょう。その母体は今もあり過去からズーッと続いてきているのです。途中で変質したのです。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」{(ヨハネ16:33)新改訳}と言われました。イエス様は、復活後、天においても地においても一切の権威を持たれたお方です(マタイ28:19)。本物のキリスト者の内には、このキリストの御霊が住んでおられるのです。パウロは、ローマ8:31-39に次のように記しました。
“8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」〔(詩編44:22)〕と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも〔高い所にいるものも、低い所にいるものも(新共同訳)〕、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”(新改訳)

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
あなたはあらゆる時に勝利することが出来るような備えを与えてくださっておられますから感謝します。
いつも主イエス様に信頼し、御霊によって強められ、主イエス様の愛に守られ包まれ、天への希望を常に持ち、兄弟姉妹を常に愛して歩んでいけますよう助けていて下さい。
感謝し主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年8月 8日 (金)

1ヨハネ5:1-3 神を愛するとは神の戒めを守ること

5:1すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。”(口語訳)

 ヨハネは、当時流行していたグノーシスの誤りの教えにキリスト者が引きずられないようにとこの手紙を書いたと思いますが、聖書は聖霊の導きによって真理が書かれているので、如何なる時代の色々な偽りの教えであっても、それらの偽りの教えに対抗できるように書かれています。

 マリヤの夫ヨセフに天使が現れて、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」{(マタイ1:21)新改訳}と告げたと記されています。イエス様の天における名前は私には分かりません。天において、神のひとり子の御子であられた方が人間の体を持って生まれてきたのです。それは、聖霊なる神のわざであったのです。イエスのヘブル語の意味は、主は救い、という意です。キリストはヘブル語でメシアです。メシアは油塗られたものとか救い主の意です。
ですから、「イエスのキリストであることを信じる者」(5:1)とは、地上に肉体を持って現れ、十字架についてくださったイエスというお方は救い主である、と信じる者のことです。メシアは油塗られた者の意です。王や大祭司も油を注がれました。キリストは、救い主であり、王であり、大祭司です。(ルカ2:25-32)(黙示録19:16)(ローマ8:34、ヘブル9:11)

 イエスがキリストであると信じることの出来る者は、「神から生まれた者」(5:1)だからであると記されてあります。素直に読めば、神から生まれたからイエスをキリストと信じることが出来たということなのです。マタイ16:15-17にイエス様とペテロとのやり取りが次のように記されています。
“イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。”(新改訳)
イエスがキリストであると明らかに示してくださったのは父なる神ですよ、とイエス様が言っておられます。

 「すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。」(5:1)と記されています。
神から生まれた者即ちキリスト者は、同じように生まれた兄弟姉妹達を自然に愛するのです。それは内に御霊がおられるからです。
1ヨハネ4:20.21に、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(新改訳)と記されていますが、ヨハネは徹底的に「兄弟を愛すること」を取り上げます。これは、主イエス様の命令ですが、愛の無い者には神は分からないのです。森羅万象を見て神を知ったという人がいることでしょう。私も最初はそのひとりであったのですから。それは知的にそこに到達したに過ぎません。極めて浅はかな知り方なのです。神は愛なので、神の御性質の一端を知るには愛されていることを感じるようになり、また人を愛する人に変えられなければ神は分からなにのです。この様な事柄は知的な説明では無理なのです。しかし、神様は人と人の間の色々な愛の表れを通して神様の愛について少しわかるようにして下さっておられます。親が子を愛する愛とか、男女の間の恋愛とか。何しろ、神様の私たちを愛する愛の強さは妬むほどの激しい愛なのです。また、見捨てることの無い愛でもあります。
パウロのとりなしの祈りの中の一部に、「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」{(エペソ3:18.19)新共同訳}というのがありますが、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さとは一体どれほどのものであるのでしょうか。私などはほんの一部しかわからないのだと思うのですが、分かれば分かるほど神様を知ることになることでしょう。何しろ「神は愛」なのですから。
 神様と人との関係が、愛によって動いていく時、神を愛する人は神の御命令を守ることを喜びとすることでしょう。神の御命令を守ることを神は喜んでくださるのですから。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め賛美します。
あなたは、あなたの愛の故に、天地創造の前に、わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びくださり、イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになられた方ですから、私などは、あなたの一方的な驚くべき愛に驚いてしまうと共に、お礼や感謝の言葉も見つかりません。でも、ありがとうございます。
イエス様も私たちを愛して、私たちのすべての罪を身代わりに負って十字架におかかりくださいました。本当にありがとうございます。
イエス様に救われた後もちょくちょく御旨から外れたことをしてしまうことの多い者ですけれども、イエス様はいつも天においてとりなしの祈りをして下さっておられますことを感謝します。
御霊様は、その様に駄目な私の内に飽きもせず、見捨てることもなく住み続けていて下さいますからありがとうございます。
願わくは、信じられないほど愛してくださっておられる三位一体の神様に喜んで頂ける歩みをし続けていくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン

2014年8月 7日 (木)

1ヨハネ4:17ー21 愛に全うされた人は裁きの日にも恐れなし

4:17わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
4:18愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
4:19わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
4:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。
4:21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。”(口語訳)

 ヨハネはこの手紙をキリスト者に対して書いています。ですから、17節の「裁きの日」とは、キリスト者の裁きの日です。キリスト者は、「白い御座の裁き」(黙示録20:11-15)で裁かれて火の池に投げ込まれることはありません。また、マタイ25:31-46にあるキリストの地上再臨後にもたれる大患難を生き残った人達に対する裁きの対象者でもありません。ヨハネが福音書で「御子を信じるものは裁かれない。」(ヨハネ3:18)と記した裁きは、これらの裁きについてのことであろうと思われます。

 一方、キリスト者に対する裁きについて聖書に記されている箇所があります。それらに関係すると思われる聖書箇所を以下に列挙します。
 (2コリント5:10)「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(新共同訳)
私たちの本体は、肉体ではなく見えない部分である霊魂です。
 (1コリント3:12-15)「もし、だれかがこの土台〔イエス・キリスト〕の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(新改訳)
 (2テモテ4:8)「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(新改訳)
この節はパウロが自分のことを書いていますが、パウロは自分がキリストの裁きの日には、正しい審判者である主キリストが自分に報いとして義の冠を授けてくださることを確信しています。
 マタイ24:45-51、マタイ25:14-30、ルカ19:12-27、ルカ12:46.47等も裁きの例話として書かれています。
キリストの裁きの座で、お褒めのおことばを頂き豊かな報いを貰う人、がっかりされる人、叱られる人、罰をあたえられる人等々がいるようです。しかしながら、キリスト者はいずれであっても救いを失うことはなく、永遠の命は保証されています。それは、「御子を信じるものは永遠の命を持つ」(ヨハネ3:36)と記されている通りです。キリストの裁きの座は、神の子どもとされた者たちの為のものです。その判定は地上での信仰生活のあり様によるといえるのだろうと思います。

 ヨハネはこの手紙のこの箇所で、キリストの裁きの座で恐れる必要が無い為には、御霊によって愛に生きることが大切であると教えてくれています。
完全な愛、全き愛とは、わたしたちが神の愛で人を愛すること即ち内におられる御霊によって全うされた愛です。そのような愛は恐れを締め出し、主キリストの来臨の時に、彼に罰せられるという恐れを持たないのです。
1ヨハネ3:23のおことばは、簡単にまとめてありますが、本当に重要だと思います。
(1ヨハネ3:23)「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(新改訳)

 御霊様に十分に働いて頂くためには、魂のきよめが必要です。魂は思い、感情、意思等の働きに携わっています。思いがきよめられ、感情がきよめられ、意思がきよめられることは本当に素晴らしいことです。ペテロは1ペテロ1:22で「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(新改訳)と語っています。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
キリストの裁きの座で、お褒めのおことばを頂くことが出来ますよう整えてください。魂を全くきよめてくださり、日々御霊に満たされて歩ませて頂けますようお願いします。
あなたはあなたの御旨にかなうことについて出来ないことは一つもない方ですから御名を崇め感謝し主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聖歌716、新聖歌379、聖歌総合版592
<主よわが罪と汚れをきよめ>
1.主よわが罪と 汚れをきよめ
  日々主を宿す者とし給え
 (折り返し)
  主よ今われの すべてをきよめ
  御旨にかなう者とし給え
2.主よわが意志を 砕きてきよめ
  日々主に従う者とし給え  
3.主よわが趣味を ことごときよめ
  日々主を愛す者とし給え  
4.主よわが声と 言葉をきよめ
  日々主を歌う者とし給え  
5.主よわが時と 宝をきよめ
  日々主に尽くす者とし給え

2014年8月 6日 (水)

1ヨハネ4:12-16 三位一体の神とキリスト者

4:12神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
4:13神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
4:14わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。
4:15もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
4:16わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。”(口語訳)

 14.15節をもう少し分かり易く次のようにしてみます。
全人類(世)は罪を犯しました。そこで、父なる神様は、御子(イエス・キリスト)を全人類(世)の救い主として遣わされました。即ち、全人類の罪を御子(イエス・キリスト)によって十字架の上で処理するために地上に肉体を持つような形で遣わされました。
贖いを成し遂げられた御子を信じ、かつイエス様を神の子と信じ告白すれば、その人は直ちに救われ、その人の内に神様が住んでくださり、その人もまた神様の内におかれるのです。これを相互内住と言います。

 相互内住の関係は、聖書の他の箇所にあるみことばからも分かりますが、ヨハネは、この聖書箇所で、「神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じ」(16)、「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいる」(12)と述べて、神の愛を体験することと神からの愛によって互いに愛し合うという体験をした人、愛し続けている人は主観的に神と自分の関係は相互内住の関係であることを認識することが出来るといっているように思います。

 神様が、神の家族として集めた人達は、実に様々です。まだ救われる以前であったら、お付き合いするようなことが無かったであろうという人が誰でも沢山いるのではないかと思うのです。救われる前であれば、声もかけない、当然愛することもしない人達です。救われた後は、その様な人に対しても愛することが出来た経験をしたとしたら、その愛は、その人が生まれながらに持っているものではありません。自分からではない、しかし、自分の内から溢れるように流れ出した愛を経験した人は、自分の内に主がおられて、アッ、この愛は主からのものだ、と感じることが出来るでしょう。ヨハネは、主(主なる神様)が内におられることを体験できるとこの箇所で述べているのです。

 次に、三位一体の神様とキリスト者の関係を記したいと思います。
 父なる神様は、イエス様を自分の子であると言っています。
一例をあげると、イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたとき、“天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」{(マタイ3:17)新改訳}とあります。
 父なる神様とイエス様の関係について、イエス様は、「わたしと父とは一つです。」{(ヨハネ10:30新改訳)}と言われました。
 聖霊(御霊)について:
ローマ8:11に「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(新改訳)とありますが、「イエスを死者の中からよみがえらせた方」は、この文から父なる神であることが分かります。即ち、「父なる神の霊(御霊)があなたがたの内に住んでおられるなら」となります。
また、キリスト者の中には、御子の霊(御霊)が住んでいて下さいます。それは、ガラテヤ4:6に「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊〔新改訳では「御霊」〕を送って下さったのである。」(口語訳)とあることから分かります。また、親しく天のお父様と祈ることが出来ることを通しても体験していることと思います。
即ち、聖霊(御霊)は、父なる神の霊であり、子なる神の霊なのです。
それ故、御子の御霊がキリスト者の再生された霊の内に住んでくださっておられて、親しく「父よ、天のお父様、お父ちゃん、お父さん。」と祈ることが出来るなら、そのキリスト者の内に御霊がおられ、その御霊がおられるなら御子の霊ですから、御子がおられるのです。そして、御子と御父は一つなのです。
このことを物質的に捉えると分からなくなるでしょう。霊的な事柄として捉えることが大切であると思いますし、霊的体験をしている人には理屈は要らないでしょう。
以上はキリスト者の内にいてくださる神様についてですが、キリスト者がキリストの内におかれているというみことばとして、「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」{(1コリント1:30)新改訳}があります。

 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めて感謝します。
理論も大切ですけれども、いつも霊的な体験として三位一体の神様との関係を享受し続けていくことが出来ますように。
言葉で言い尽せない大いなる恵みを与えてくださっておられますことを感謝し、主イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(エペソ1:3)「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(新改訳)

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