救いと裁き

2021年12月26日 (日)

主が来られるのはノアの時代のようなとき

 創世記6:11-18には次のように記されています。
“11 地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。
12 神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
13 神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。
14 あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。
15 それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
16 箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内に天窓を仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、箱舟を一階と二階と三階に分けなさい。
17 わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。
18 しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。”(2017)とあります。
 
 イエス様は次のように語られました。
「37 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。38 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。39 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」(マタイ24章・2017)と。

 37節のギリシア語聖書(TR)を訳すと、“人の子の来臨はノアの日のようでしょう。”となります。

 37節を、新共同訳、聖書協会共同訳は、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と訳しています。

 さて、ノアの時代とは、神様から見るとどのような時代であったのでしょうか?
11.12節には、“地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。”(2017)と記されています。

 聖書完成後においては、神様の基準は聖書に明らかにされています。
現代はどうでしょうか?
かつては聖書を拠り所とした国々でさえ、聖書離れをしている有様です。

 聖書に書かれている神の裁きを俯瞰すると、大きな裁きには、一定の法則があるように思えます。

 第一にあげられるのは、神であるヤハウェ(主)を神としないことです。
神であるヤハウェ(主)を神としないことは、神様が語られた御言葉に聞き従うということをしない、というところに通じます。
即ち、神を畏れ敬うことをしないで、神をいないかのように扱うのです。
これは他人ごとではなく、救われる前の私自身がそのような者でした。
これは神に対して高慢のかぎりを尽くしている状態です。
それ故、世が裁かれる前に、主に救って頂いたことを主にとても感謝しています。

 最初に裁かれた人たちは、アダムとエバでした(創世記3章)。
サタンの言葉をヤハウェ(主)の言葉よりも重く捉えたのです。
この時アダムとエバは、神第一ではなく、サタン第一となったのでした。

 次に、今日の聖句箇所の様に、ノアの時代の人々のことが記されています。
「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。」とあります。
「神の前に」という語が重要だと思います。

 次にヤハウェ(主)が裁かれた事件は、創世記11章の出来事です。
ヤハウェ(主)が人を造りました。
創世記2:7には、“神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”(2017)と記されています。
 創世記11:4には、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(2017)と記されています。
人類がこぞって神ヤハウェに対して反逆を始めたのです。
それに対する神ヤハウェの裁きは、1原語から多言語にしてしまう、ということでした。

 バベルの塔の次は、ロトの時代のソドムとゴモラです(創世記19章)。
ソドムからソドミーという語が生まれたようです。
現代では、多くの国で、ソドミーは罪とされることなく保護されています。
神ヤハウェは、どのように対処なさるでしょうか。→ローマ1:18-32

 モーセの時代、エジプトの王ファラオは、ヤハウェ(主)に対抗した故に、数々の災害を受け、最後には殺されました(出エジプト記7-14章)。

 その後も様々な国民に対して、神ヤハウェの裁きはいくつも執行されてきましたが、
神と契約を結び、神の民とされたイスラエルに対する裁きについての話をします。
イスラエルに対する裁きには、大小さまざまありますが、特に大きなものを取り上げます。
北イスラエル王国は、神ヤハウェ(主)との契約を破り、神ヤハウェ(主)の御言葉をないがしろにして、偶像礼拝にふけり、アッシリアに捕囚となりました。
南イスラエル王国(ユダ王国)も、北イスラエル王国のまねをし、バビロンに捕囚となりました。

 以上に共通しているのは、ヤハウェ(主)に対する不敬虔です。
ユダ書は不敬虔な者はさばかれるよ、と述べています。

 さて、ノアの時代、ノアとその家族、合計8人以外は不敬虔な人々でした。
それでも、神ヤハウェ(主)は、裁きを下すぞ、というようなことを言ってから120年の猶予を持たれたのです。

 ノアの箱舟は、新約時代のイエス・キリストの型です。
イエス・キリストの中に入った人は、神ヤハウェの裁きにあうことなく守られるのです。
唯物論でしか考えることの出来ない人は、この考えを受け入れることは出来ないでしょう。
しかし、1コリント1:30には、“その神によってこそ、あなたがた〔キリストを信じた者、即ちキリストを心にお迎えした者(筆者挿入)〕はキリスト・イエスのうちに在る者なのである。”(岩波訳)とあります。

 ノアとその家族が箱舟に入った後に、神様が箱舟の戸を閉めました(創世記7:16)。それから水の裁きが始まったのです。
地からは水が噴出し、天からは超豪雨が降り注いだのです。なんと40日間でした。(創世記7:11.12)そして、地上は見えなくなりました(創世記7:19.20)。

 恵みの時代、すなわちキリストの復活から、キリストの空中再臨までの間は、人となられた神イエス・キリスト様を信じるかどうかにかかっているのです。
イエス様の現れ(空中再臨)を持ち望んでいるキリスト者は、裁きの前に霊の体が与えられて、天に移されます。

 まだ、イエス様を心にお迎えしていない人は、イエス様を心にお迎えしてください。
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<上記の文章の参考聖句>
 キリストの現れとそれを待ち望む者
“・・人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。”(ヘブル9:27.28・2017)

 霊の体に変えられるor霊の体が与えられる時
“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち〔キリストの現れの時にキリストを待ち望んでいる人達(筆者挿入)〕は変えられるのです。”(1コリント15:52・2017)

 携挙(天に引き上げられること)について
“14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15 私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”

 神の御子イエス・キリストに対する信、不信と、神の裁き、復活、永遠のいのち、との関係
“21 父〔父なる神(筆者挿入)〕が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました
23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています
25 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます〔(ただ聞くばかりでなく、 ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。(塚本訳)〕
26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子〔ダニエル7:13(筆者挿入)〕だからです。
28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29 そのとき、善を行った者〔イエス・キリストを信じ、従った者{ヨハネ3:18}(筆者挿入)〕はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者〔イエス・キリストを憎みイエス・キリストに来ない者{ヨハネ3:20}(筆者挿入)〕はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。”(ヨハネ5章・2017)

2021年10月25日 (月)

死んだら無になるのでしょうか?/死んだら終わりなのでしょうか?

 人は死んだら何も残らない、と考える人たちがいます。
かつての私はその様に考える人達の中の一人でした。
わたしの場合は、学校で受けた進化論教育の故でもあったのではないかと思います。
そのような事柄において、サタン(悪魔)は、成功を収めていました。
なぜそのようなことを言うかというと、
コロサイ2:8に、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2018)と記されているからです。
口語訳はこの箇所を、“あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。”と訳しています。

 かつての私は、人には霊も魂も無いと考えていました。
ですから、人を構成している原子は、犬やサル、地の中をうごめいている虫たちとそう変わらないものであろうと考えていたのです。
救われる前の私の話を書いていくと非常に時間がかかるので、話を変えます。

 聖書の中に、死んだ後の状態の描写の記されている箇所があります。
イエス様が語られた話の中に次のようなものがあります。ルカ16章に記されている話を下記します。
“19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”(2017)と記されています。

 ラザロ(ギリシア語で、ラザロス)という名前は、恐らくヘブライ語ではエルアザルという名であり、その意味は、神は助けるお方である、の意です。(Strong辞書を参照)
文面には表れていませんが、イエス様は、ラザロという名の中に、ラザロは神様を信じているということをほのめかしていたものと思います。

 イエス様は陰府(よみ)があること、よみの世界は均一ではないことを教えてくれています。

 イエス様の十字架と復活が成就した後は、イエス様を信じた人の魂と霊は直ちに天に行っています。

 旧約聖書の中にも陰府についての言及がいくつかあります。その中から、ヤハウェ(主)が語られた御言葉の一つの箇所を下記します。
“17 第十二年の、その月〔エゼキエル32:1より「B.C.586年の第12の月」(筆者挿入)〕の十五日、私〔エゼキエル(筆者挿入)〕に次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。
18 「人の子よ、エジプトの大軍のために嘆け。その民と力強い国々の娘たちを、穴に下る者たちとともに地下の国に下らせよ。
19 『あなたは麗しさの点でだれよりもまさっているというのか。下って行って、無割礼の者たちとともに横たわれ。』
20 彼らは、剣で刺し殺された者たちの間に倒れる。その国は剣に渡された。その国とその大軍すべてを引きずり降ろせ。
21 勇敢な勇士たちは、国を助けた者たちとともに、よみの中から彼について語る。『彼らは下って来て、剣で刺し殺された者、無割礼の者たちとともに横たわった』と。
22 そこにはアッシリアとその全集団がいる。周りには彼らの墓があり、みな、刺し殺された者、剣に倒れた者である。
23 アッシリアの墓は穴の奥〔地獄の最深部(筆者挿入)〕の方にあり、その集団はその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちである〔蒔いた種を最もひどい地獄で刈り取っています(筆者挿入)〕。
24 エラムとその大軍がその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、無割礼のまま地下の国に下った者、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちで、穴〔地獄(筆者挿入)〕に下る者とともに自らの恥辱を負っている。
25 その寝床は刺し殺された者たちの間に置かれ、その大軍すべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が、生ける者の地にあり、穴に下る者とともに自らの恥辱を負っている。彼らは刺し殺された者たちの間に置かれる。
26 そこにはメシェクとトバル〔現トルコの中の地域の国々(筆者挿入)〕がおり、その大軍のすべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者で、生ける者の地に恐怖をもたらしたからである。
27 無割礼の者として倒れた勇士たちとともに彼らは横たわることはできない。勇士たちは武具を持ってよみに下り、剣は頭の下に置かれている。咎が彼らの骨の上にある。勇士たちのもたらした恐怖が、生ける者の地にあったからである。
28 しかしあなたは、無割礼の者たちの間で砕かれ、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。
29 そこにはエドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは、その勇敢さにもかかわらず、剣で刺し殺された者たちとともに、無割礼の者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。
30 そこには北のすべての君主たち、すべてのシドン人がいる。彼らの勇敢さは恐怖をもたらしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下ったのである。それで無割礼の彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわり、穴に下る者たちとともに自分たちの恥辱を負っている
31 ファラオは彼らを見て、剣で刺し殺された自分の大軍、ファラオとその全軍勢のことで慰められる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。
32 わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。」”(エゼキエル32章・2017)と記されています。

 預言者エゼキエルにヤハウェ(主)は、地獄の預言を与えています。
人は、死んだらそれで終わりではないのです。
今置かれている自分の状態が苦しいので、死んで終わりにしたいと願う人もいるでしょうが、死んで無になるわけではなく、その魂の状態は継続されていくのです。

 唯一の救いは、地上にいる間に、イエス・キリスト様を自分の救い主、主、と信じること、イエス様を心に受け入れることです。
他に方法はないのです。
 イエス様は言われました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と。
 ペテロは次のように語りました。
この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12・2017)と。

 今は背教の時代です。
キリスト教世界の中でも色々な考えが述べられています。
私は、聖書の記述を信じます。
モーセ五書の中の一つの申命記4:2には、「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。」(2017)と記され、
聖書の中央辺りにある箴言30:6には、「神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。」(2017)と記され、
聖書の終わりにある黙示録22:18.19には、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
もし、これを読んだ人の中に、この世からいなくなって楽になりたいと考えている人がいましたら、その思いを止め、イエス様を求めるようにさせてください。
あなたにお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2018年12月19日 (水)

イザヤ55:6-8 悔い改めへの招き

55:6あなたがたは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7
悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。”(口語訳1955

 6
節を新改訳2017は、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。」と訳しています。
主は、この御言葉を、イスラエル人に対しても、異邦人に対しても、未だ救われていない人に対しても、救われた後に主から離れている人に対しても用いられます。

 この節で主と訳された原語は、「ヤハウェ」ですが、新約時代(恵みの時代)においては、「イエス・キリスト」です。
ローマ人への手紙には、「・・あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ109.10・)と記されています。
ヤハウェ(主)はまことの神様の名前です。イエス・キリストは、肉体を取られ、十字架の上で贖いを成し遂げられ、三日目に復活された人となられた神の名であり、父なる神のひとり子です。まことの神様は、三位格で一つの神です。三人格と言わず、三位格というのは、神様であるからです。三一の神様以外に、神と呼ばれるものは、数多くあります。日本では八百万の神というくらいです。自分は一神教を信じている、といっても、イエス・キリストを告白しない人は、反キリストの霊を持っているか、それに支配されています(1ヨハネ43)。イエス・キリスト様は、生ける神の子であり(マタイ1616)、救い主{贖い主(エペソ17)}であり、天地万物の主(マタイ2819)であり、創造者であり(コロサイ116)、万物を保持しているお方です(ヘブル13)。
万物を創造されたお方は三一の神様だけです。それ故、三一の神様以外で、神と呼ばれるものがもし実在しているとすれば、それは被造物です。造られたものです。即ち堕天使、悪しき霊等です(1コリント1019.20)。日本では死んだ人間でさえ神とする場合があります。人間は被造物、つくられたものです。
新生した者は、神から生まれた神の子どもです(ヨハネ33.61ヨハネ31.2.9)が一人子の神である御子とは一線を画される存在です。現在、新生したキリスト者が神の子どもであるといっても、それは霊についてです(ヨハネ36)。新生した者の魂は、救われました(1ペテロ19)が、今はまだ聖化中です(つくり変えられ中です)。完成は黙示録198の箇所でしょう。目下、地上にいる間は、体は古いままで、罪を包含している状態です(ローマ720)。新生した霊は神聖です。1ヨハネ39を直訳すると、「神から生まれたすべては罪を犯さない、何故なら神の種(遺伝子)が自身の中に留まっているから・・」となります。主は霊の内に住まわれるのです。パウロは、テモテへの手紙Ⅱの最後に、テモテに対して、「主があなたの霊と共におられますように。」と述べています。テモテへの手紙以外でも、パウロは、ガラテヤ618、ピリピ423、ピレモン25でも同じ趣旨のことを述べています。

 大分脱線しましたが、兎に角、主は、悔い改めて、即ち、主に背を向けていた状態を改めて、主を心に受け入れてほしいのです(黙示録320)。主は、人に滅んでもらいたくないのです(エゼキエル1823.32)。救われてほしいのです(エゼキエル18321テモテ24)。

 多くの場合、人は、他者からひどい目にあわされたら、加害者が、いくら「ごめんなさい」と言ったとしても、簡単には赦せない場合が多いものです。
しかし、神様は赦してくださいます。何故義なる神様が赦してくださるのでしょうか。
それは、イエス様が罪を引き受けて十字架の上で身代わりの死を遂げたからです。私たち罪びとの代わりに、イエス様を罰したのです。罪からくる報酬は死でありました。主なる神様は、義なるお方ですから、罪を罰します。しかし、主なる神様は、愛の方ですから、イエス様を信じるものを赦されたのです。ただ赦しただけではなく、義と認めたのです。ローマ321-26には、
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。”(新共同訳)と記されています。
また、1ペテロ224には、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(新改訳2017)と記されています。
このようなイエス・キリスト様であるからこそ、イエス様は、何度でも罪を赦されるのです。
キリスト者の中には、自分はひどい罪を犯しから、もう赦されることなどできない、という人に、それは違うよ、とイエス様は言えるのです。イザヤ557.8には、「7悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。8わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」(口語訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様の贖いを感謝します。
詩篇103篇には、「8 主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。9 永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。10 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。11 天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。12 東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。13 父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」(新共同訳)と記されています。
あなた様が、その様なお方であることの故に感謝し、御名を賛美します。
私たちが罪を犯した時には、御霊様が、罪をすぐに示して下さいますように。
そして罪をすぐに悔い改めて、あなたとの交わりに支障をもたらすことの無いようにさせて下さい。
感謝して、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。ありがとうございます。アーメン

2018年9月23日 (日)

イザヤ34:1-4 全世界への裁きの預言(主を信じる者は救われているor救われる)

34:1もろもろの国よ、近づいて聞け。もろもろの民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。
34:2
主〔ヤハウェ(岩波訳)〕はすべての国にむかって怒り、そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らをわたして、ほふらせられた。
34:3
彼らは殺されて投げすてられ、その死体の悪臭は立ちのぼり、山々はその血で溶けて流れる。
34:4
天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。”(口語訳1955

 この箇所は、ヤハウェが、罪を悔い改めない全世界の民に裁きを下すという預言です。新生しているキリスト者は、この裁きの前に天に移されています(携挙)。
1
テサロニケ110a(抜粋)には、「この御子こそ、・・、やがて来る御怒り〔神の裁き(筆者挿入)〕から私たちを救い出してくださるイエスです。」(新改訳2017)とあり、
1
テサロニケ416.17に、「16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(新改訳2017)と記されているように、ノアの時と同じように、主を信じている者を、主が守られた後、主を信じない者達に主は裁きを下すのです。ノア及びノアと共に箱舟に入るべきものたちが箱舟に入った後、ノア自身が戸を閉めたのではなく、主が箱舟の戸を閉めました(創世記716)。その後、主は大洪水による裁きを執行したのです。

 話を本題に戻します。
2
節には、「主〔ヤハウェ(岩波訳)〕はすべての国にむかって怒り、そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らをわたして、ほふらせられた。」(口語訳)とあります。
「主〔ヤハウェ(岩波訳)〕はすべての国にむかって怒り」とありますから、主の裁きが全世界の人を対象としているのが分かります。主がどの様にさばいていかれるのかについては黙示録に記されています。ここでは省略します。
「そのすべての軍勢にむかって憤り」とありますが、これはエルサレムに攻めて来るすべての軍勢のことであろうと思います。
ゼカリヤ122.3には、「2 見よ、わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる。3 その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まり、エルサレムに立ち向かう。」(新共同訳)と記され、
黙示録1612-16には、“12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。15 ――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――16 汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。”(新共同訳)と記されています。
「そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らをことごとく滅ぼし、彼らをわたして、ほふらせられた。」とありますが、黙示録1911-21には、
19:11 そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方〔地上に再臨されるキリスト(筆者挿入)〕は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
19:12
その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
19:13
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
19:14
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。
19:15
この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
19:16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
19:17
わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。
19:18
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」
19:19
わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
19:20
しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
19:21
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。”(新共同訳)と記されています。

 3節には、「彼らは殺されて投げすてられ、その死体の悪臭は立ちのぼり、山々はその血で溶けて流れる。」とあります。
大患難時代の初めの時の人口が、どれだけなのかは分かりませんが、①黙示録68には、地上の四分の1が殺される、とあり、②黙示録914には、人類の3分の1が殺される、と記されています。③それ以外にもいろいろな災害で死ぬ人がいるのです。④黙示録1915.21にも多くの人が再臨のキリストの裁きによって殺される、ということが記されています。⑤黙示録には出てきませんが、イザヤ631-6にもキリストの裁きが記され、恐らく多くの人が殺されます。
「山々はその血で溶けて流れる。」とあります。
大雨が降ると土砂崩れが起こることがあることを日本人なら知っています。主の裁きの時には、裁かれた大勢の人の大量の血によって山が変形するということかもしれません。

 4節には、「天の万象は衰え、もろもろの天は巻物のように巻かれ、その万象はぶどうの木から葉の落ちるように、いちじくの木から葉の落ちるように落ちる。」とあります。
黙示録612-17には、
6:12 また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
6:13
天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
6:14
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
6:15
地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
6:16
山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
6:17
神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。”(新共同訳)と記されています。

 
今日この文章を読んだ人の中で、まだイエス様を信じていない人に申し上げます。
「神の正しいさばきの現れる怒りの日」(ローマ25・口語訳)が来る前に、というか、今、イエス様を自分の救い主として、また自分の主としてください。その人の為に祈りの一例を記しておきますから、心から同意できるなら、祈ってください。
 「イエス・キリストの父なる神様。私は今まで、イエス・キリスト様を信じないで歩んできました。その間、あなたのみ旨に反する言動を、数多く行ってきた者です。今、イエス様を私の救い主として信じます。イエス様を私の主としてイエス様に従ってまいります。イエス様の血潮の故に私のすべての罪を赦してくださったことを信じます。感謝しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン」
 お祈りが終わった後、あなたは何かを体験するかもしれませんし、全く何も体験しない(感じない)かも知れません。もし何も感じなかったという人でも、心から祈ったのなら、主に聞かれています。救われたなら、そのうち、救いを確信するようになるでしょう。尚、健全な教会に集ってください。
・・・・・・・・・
(ヨハネ316)「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(口語訳)
1ペテロ118.19抜粋)「・・あなたがたが・・むなしい生き方から贖い出されたのは、・・キリストの尊い血によるのです。」

2018年6月 7日 (木)

イザヤ1:21-31 イスラエルの罪及びヤハウェ(主)の裁きと悔い改める者の救い

1:21かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった。
1:22
あなたの銀はかすとなり、あなたのぶどう酒は水をまじえ、
1:23
あなたのつかさたちはそむいて、盗びとの仲間となり、みな、まいないを好み、贈り物を追い求め、みなしごを正しく守らず、寡婦の訴えは彼らに届かない。
1:24
このゆえに、主、万軍の主、イスラエルの全能者は言われる、「ああ、わたしはわが敵にむかって憤りをもらし、わがあだにむかって恨みをはらす。
1:25
わたしはまた、わが手をあなたに向け、あなたのかすを灰汁で溶かすように溶かし去り、あなたの混ざり物をすべて取り除く。
1:26
こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」。
1:27
シオンは公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は、正義をもってあがなわれる。
1:28
しかし、そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、主を捨てる者は滅びうせる。
1:29
あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。
1:30
あなたがたは葉の枯れるかしの木のように、水のない園のようになり、
1:31
強い者も麻くずのように、そのわざは火花のようになり、その二つのものは共に燃えて、それを消す者はない。”(口語訳1955

 21節を新改訳第三版は、「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。」と訳しています。
「忠信な都」の「都」はエルサレムです(イザヤ11)。
ダビデの時代を思い起こすと、エルサレムは忠信な都でした。そこには公正、正義がありました。
しかしイザヤの時代には、エルサレムは遊女の都となり、人殺しばかりだというのです。
ここで「遊女」という言葉を使った理由は、イスラエルはヤハウェ(主)という夫がある身でありながら、他の偶像神と姦通する(霊的姦淫をする)故であると思います。
ヤハウェ(主)を夫としつつ、或いはヤハウェ(主)を棄てて偶像に仕えている、即ち悪霊に自身をゆだねていることを指しています。
これに関連して、29節には、「あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。」(口語訳)とありますが、
1
列王記1423には、「・・すべての高い丘の上や青木の下に、高き所や、石の柱や、アシェラ像を立てた。」(新改訳第三版)とユダの状況が記され、
イザヤと同時代に北イスラエルの預言者として立てられたホセアも、
ホセア412.13で、「わが民は木に託宣を求め、その枝に指示を受ける。淫行の霊〔姦淫の霊(新改訳)〕に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり、山々の頂でいけにえをささげ、丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。」(新共同訳)と北イスラエルについて記しています。
悪霊の中には、「姦淫の霊」「淫行の霊」というのがいるとヤハウェ(主)は教えてくれています。不品行の罪に苦しむ人はその人の罪の悔い改めと共に、淫行の霊を主の名によって追い払う必要がある場合もあります。

 22.23節を新共同訳は、「お前の銀は金滓となり、良いぶどう酒は水で薄められている。支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。」と記しています。
「お前の銀は金滓となり」とあるのは、字義通りでは、通貨の銀に不純物をたくさん混ぜて悪貨としている、ということになると思います。喩えとして読めば、価値あるエルサレムの民が価値のない者になった、と捉えることも出来るのではないでしょうか。
「良いぶどう酒は水で薄められている」というのは、水で薄めたぶどう酒を売って不当な利益を上げている、ということかもしれません。それは、まさに「盗人の仲間」(23)です。支配者たちは、賄賂を喜び、贈り物を強要し、孤児の権利を守らず、やもめの訴えを取り上げない者となったのです(23)。孤児ややもめに関わっても贈り物をもらえませんから。律法を棄て、強欲な拝金主義に陥っているのです。

 ヤハウェ(主)はこのような者たちに裁きを下すと宣言しました。
24.25
節には、“「それ故に」、と主なる万軍のヤハウェ、イスラエルの力強き方の御告げ。「ああ、わたしはわが敵〔ヤハウェを主とも思わず律法を守らない支配者(高官)たち(筆者挿入)〕に思いを晴らし、わが仇〔「敵」に同じ(筆者挿入)〕に復讐しよう。そしてわたしは手を再びお前〔エルサレム(筆者挿入)〕に向け、お前の金かすを灰汁のように溶かし、お前のすべての浮きかすを除き去ろう。”(岩波訳)と記されています。

 ヤハウェ(主)は、上記のような裁きを行ってエルサレムをきよめ、エルサレムの民の内、悔い改める者を祝福されると言われます。
26.27
節には、“こうして、あなたのさばきびと〔裁きを行う者(新共同訳)〕をもとのとおりに、あなたの議官〔王の顧問(岩波訳注)〕を初めのとおりに回復する。その後あなた〔エルサレム(筆者挿入)〕は正義の都、忠信の町ととなえられる」。シオン〔エルサレム(筆者挿入)〕は公平をもってあがなわれ、そのうちの悔い改める者は、正義をもってあがなわれる。”(口語訳)と記されています。
私たちキリスト者は、罪を悔い改めて、御子イエス・キリスト様の血の贖いを受けた者です。
エペソ17には、「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。」(口語訳)と記されています。

 悔い改めない者は裁かれて見せしめにされ滅ぼされます。
28-31
節には「・・そむく者と罪びととは共に滅ぼされ、主を捨てる者は滅びうせる。あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。あなたがたは葉の枯れるかしの木のように、水のない園のようになり、強い者も麻くずのように、そのわざは火花のようになり、その二つのものは共に燃えて、それを消す者はない。」(口語訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは私たちに罪を示して下さり、悔い改めへと導いて下さり、用意されていたキリストの血潮による贖いによって救ってくださいましたことを感謝します。
救われた後でもまた罪を犯します。
罪を示された時には、直ちにそれを告白し、主の血潮によってきよめられ、あなたに在る豊かな生涯を送る者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2016年1月 2日 (土)

ルカ18:9-14 自己義認の人に対するイエス様の警告

18:9自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。”(口語訳)

 9節に、「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。」と記されていますから、イエス様がこの譬えを用いて警告を発した対象者はどのような人たちであったかということが分かります。

 自己義認の人たちは、自分は正しく生きている、神に褒められることはあっても叱られることなどはないであろうと自分勝手な判断を下していた人たちであったのです。
この箇所には、その代表としてパリサイ人が挙げられています。

 パリサイ人は、①貪欲な者ではない、②不正な者ではない、③姦淫をする者ではない、④一週間に二度断食をしている、⑤全収入の十分の一をささげている(11.12)と祈っていますから、行いとしては確かに立派だと思います。自分の行いによって神様からの祝福が得られると考えている人です。
死んだら終わりだ、もう何も残らない、と思っている人たちも多いと思います。私も救われる前のある時期はそのように考えていました。
一方、自分の行いによって天国に入れてもらえる、或いは地獄に行かされる、という考え方をする人たちも多くいます。
中には輪廻転生すると考える人たちもいます。輪廻転生論者の人たちも行いの重要性を疑いません。
一方、御霊によって新生させていただいたクリスチャンは真理即ち主イエス様を信じることによって罪赦され、永遠の命を頂き、天国に入れて頂けるということを知っており、行いによって救われることは不可能であると分かっています。

 このパリサイ人は、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、・・・」(11)と祈り始めています。「ほかの人たちのような」と言って、他者を見下しているのです。見下すということは軽蔑することですから、見下している対象者に対する愛はないことでしょう。
このパリサイ人が、もし自分の行いによって神様に受け入れてもらおうと思っていたとしても、自分には他者への愛がない、愛さないということは罪である、冷たく他者を見下していたことが罪であると気付いて、主に罪の赦しを求めれば救われたことでしょう。人を愛していない律法の守り方は神様の意図に反するからです。
イエス様は、律法全体は、神を愛し、隣人を愛するということにかかっていると言われました(マタイ22:37-40)。
またヤコブは「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(ヤコブ2:10・新共同訳)と記しています。
自分の行いによって、神様から合格点をもらえる人は一人もいないのです。
人は罪をもって生まれてきたからです(詩篇51:5、エペソ2:3)。
人の判断による善人と悪人の違いは、神様の判断からすると、五十歩百歩なのではないかなと想像します。だから悪いことをしても良いというのではありません。ただ、すべての人が、この聖書箇所に登場する取税人のように、「神様、罪人のわたしをおゆるしください。」(13)と祈ることが出来たら幸いであると思います。人は誰も完全な愛を持っていないのですから。

 天国は、神の王国なのですから、神の聖さがあるところなのです。
それ故、聖くなければ誰も天国に入れません(ヘブル12:14)。
イエス様の血潮によって聖くしていただくほかに天国に入る方法はないのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様を信じる前にも、あなたは聖霊様によって罪を示してくださいましたが、イエス様を信じて救われた後も、聖霊様によって、折に触れて罪を示し続けてくださいましたこと、またこれからも示してくださり悔い改めへと導いてくださいますことを感謝します。
あなたが私をご覧になって、私のすべての罪をいっぺんに示されたら私はどうなってしまったことでしょうか。
しかし、あなたは愛と義と配慮をもって、一つ、また一つと示してくださり、悔い改めへと導いてくださいましたからありがとうございます。
いつまでたっても罪を示される者ですが、それも愛されている者の証拠ですからありがとうございます。
感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2015年12月17日 (木)

ルカ13:22-35 御国への門は常に開かれているというわけではない

13:22さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。
13:23すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。
13:24そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
13:25家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
13:26そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
13:28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
13:29それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。
13:30こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。
13:31ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。
13:32そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。
13:33しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。
13:34ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
13:35見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。”(口語訳)

 22節には、「さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続けられた。」とあります。
十字架を目指してのエルサレム行きです。ガリラヤを出発してからエルサレムへの間でも、イエス様は教えながら町々村々を通過されていったのです。

 そしてあるところで、「主よ、救われる人は少ないのですか」(23)という質問を受けました。
イエス様はそれに対して、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある。」(24-30)と答えられたのです。

 24節には、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。」とあります。
「狭い戸口」とはイエス様のことです。イエス様は、「私は門です」(ヨハネ10:9・新改訳)と言われ、また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6・新共同訳)と言われたのです。別の言い方をすると、使徒4:12に、「この方〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(新改訳)と記されている内容のことです。イエス様が地上におられた頃の人に対してであれば、イエス様と話をしたことがあるとか、イエス様の話を聞いたことがあるとか、イエス様からパンをもらったなどと言っても、イエス様を神の子、救い主、主と信じたかどうか、さらに言えば、自分の心にイエス様が入ってくださったかどうかということです。
黙示録3:20には、「見よ。わたしは、戸〔心の扉(筆者挿入)〕の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事〔交わり(筆者挿入)〕をし、彼もわたしとともに食事をする。」(新改訳)と記されています。この交わりとは、1コリント6:17によると「主と交われば、一つ霊となるのです。」(新改訳)ということなのです。

 余談になりますが、イエス様を信じたら、「一つ霊となるのです」とあるのに、自分はそうは思えない、という人もいるでしょう。それは霊に従わず、生まれながらの魂によって生きているからです。魂が霊にいやいやながらではなく喜びをもって服従して生きれば実感することが出来るようになるのです。たとえば、主に祈りつつみことばに生きることです。更に主からおことばを頂きながら生きることです。主は沈黙の神ではなく、語ってくださる神ですが、霊的受信機が不調ですと主のおことばをうまく受信できないのです。

 25節には、「家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。」と記されています。
イエス様を信じれば救われる、という期間は、ある時に終わりを迎えます。それからでは遅いのです。これにはいくつかの様態があります。一つは、肉体の地上生涯の終焉です。もう一つは、恵みの時代の終わりです。恵みの時代の終わりは、キリストの空中再臨の時です。もう一つは、イエス様がいくら心の扉をたたいても、心の扉の方を開けない時にイエス様が去って行かれる時でしょう。その寓話は雅歌5:2-6やマタイ25:3.10-12に見られます。

 27節には、「彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。」とあります。
「悪事を働く者どもよ」を岩波訳注は、「直訳すれば、不義の働き人たち」と解説しています。
「不義」とはイエス様の方法、教えに従っていない行為です。
「悪事を働く者どもよ」の前の方には、「あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。」とあります。この人たちはイエス様を心にお迎えしたのでもなく、イエス様から遣わされたのではないにせ預言者や偽教師のことでしょう。偽預言者や偽教師は実を見ればわかるとイエス様は教えられました(マタイ7:15-20)。

 29節には、「それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。」とあります。
これは千年王国のことか、キリストの空中再臨によってもたらされるキリスト者の携挙の時の後の天国での出来事のどちらかだろうと思いますが、28節に、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」と記されていますから、携挙後の天国での宴会ではないかと私は考えます。肉によるアブラハムの子孫のイスラエル人は、大患難時代の最後に救われていくのですから。
それ故、「こうしてあとのもの〔異邦人(筆者挿入)〕で先になるものがあり、また、先のもの〔ユダヤ人(筆者挿入)〕であとになるものもある」(30)と記されているのではないでしょうか。
初代教会時代に先の者であるユダヤ人の中からある程度の人が救われたと思います。しかし、信じなかったユダヤ人から福音は取り上げられ、後の者である異邦人に回されたのです(使徒13:46)。しかし、異邦人の救いの数が満ちた時、再び先の者で後になると記されているイスラエル人が大挙して救われるのです(ローマ11:25-27、ゼカリヤ12:7-13:1)。

 31-33節には、“ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ないからである』。」とあります。
「三日目にわざを終えるであろう」とありますから、これが語られた三日後は十字架なのです。
十字架につかれるまでの間も、主は、「見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし」と言われました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私もイエス様が語られたように、天に召して頂く直前まであなたから与えられた使命を果たしていけたらと思います。
可能かどうかは、主によりますので、よきにお導きください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2015年10月27日 (火)

ルカ13:1-5 悔い改めなければ滅びる

13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
13:3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
13:4また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
13:5あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
13:6それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
13:7そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
13:8すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
13:9それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。”(口語訳)

 人間はアダムの堕罪以後、個々人の善悪の観念に基づいて物事を判断をするようになったと思われます。それは善悪の知識の木の実を食べたからです(創世記2:9、3:4-7)。しかし、その実を食べたときに、罪が人の内に入ったのです。それ以来、人は罪をもって生まれてくるようになったのです(ローマ5:12)。
ですから、個々人の善悪の観念というものは、罪ある人間の善悪の観念になってしまったのです。

 イエス様を信じないこと、イエス様を主としないこと、真の神様(ヤハウェ)を神としないこと等を悪であると判断する日本人が一体どれだけいるでしょうか。
それは当時のユダヤ人についても言えることでした。
当時のユダヤ人は、イエス様の奇跡を数多く見、イエス様の教えを聞いても、イエス様をメシア(キリスト)と信じる人は人口全体からすると少数であったと思います(ヨハネ6:60.66)。
イエス様を信じないことが悪である、罪である(ヨハネ16:9)とは考えなかった人たちが大勢いたのです。

 3.5節に「悔い改めなければ・・・滅びる」とイエス様が語られたと記されています。
滅びる罪とは、イエス様を信じないこと、即ちイエス様を心の内にお迎えしない罪です。
6-9節には、実を結ばないイチジクの木の譬えが語られていますが、イエス様を心に迎えることなしに御霊の実を結ぶことはありません。
御霊の実とは、ガラテヤ5:22.23によれば、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(新共同訳)と記されています。

 人によっては、「人には良心がある」と言うでしょう。
しかし、聖書は、その良心もキリストの血によってきよめられる必要を教えてくれているのです。
ヘブル9:9.14には、「・・・〔モーセ律法の礼拝規定に基づいた(筆者挿入)〕供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。/・・・永遠の“霊”〔eternal Spirit(NKJV)〕によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(新共同訳)とあります。
良心もイエス様の血によってきよめられなくては正しい判断をすることは出来ないことが分かります。

 余談になりますが、パウロは、「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」と議会の中で証言しました(使徒23:1)。
素晴らしいことだと思います。
 きよめられていない良心を基に善悪を判断し、善を為していると思っても、神様のみ旨に叶っていない場合もあり得るのです。
神様のみ旨に叶っていなければ、善だと思って行っていることが実は罪を犯しているということもあるのです。
 大分脱線しましたが、ポイントはイエス様を心に受け入れなければ、誰でも滅びるということです。

 神様は、寛容と忍耐をもってある期間待ってくださっておられますが、待ってくださっておられる間に、イエス様を信じないという思いを変えて(悔い改めて)イエス様を信じれば、決して滅びることはなく、それどころか永遠の命をはじめとして、計り(+量り)知れない祝福が与えられるのです。
神様が待ってくださっておられるのは、その人が地上に生きている期間です。

 いちじくは、イスラエルの譬えとしても使われますが、それに基づく考察は今回省略します。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
まだイエス様を心に受け入れていない人が、このブログを読んでおられましたら、イエス様を心に受け入れること即ち信じることを得させてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2014年10月12日 (日)

救いと報酬と裁き

1.最終の裁き:(黙示録20:11-15)は白い御座の裁きとも言われる。今の世が終わった後にキリストの千年王国がある(黙示録20:4)が、白い御座の裁きはその後であり、その裁きの後、神様が新天新地を創造される(イザヤ65:17、黙示録21:1)。

2.人間が人々を支配しているこの世の終わり、即ち大患難時代の終わりに生き残った人々に対する裁き:(マタイ25:31-46)は羊とヤギの裁きとも言われます。

3.キリスト者に対する裁きの座:(2コリント5:10、ローマ14:10-12、1コリント4:4.5)。ただし、既にキリスト者は永遠の命を頂いています。
 キリスト者は、白い御座の裁きや羊とヤギの裁きと言われている裁きは受けません。既に祝福を受け継ぐ者とされているからです(1ペテロ3:9)。永遠の滅びへの裁きを受けることはありません(ヨハネ3:16,3:36)。

4.イエス・キリスト様を信じなかった人の場合の裁きの基準と裁き人:(ヨハネ5:22)には主イエス様が裁き主であるとあります。
キリストと共に裁く聖徒がいます(マタイ19:28、1コリント6:2.3、黙示録20:4)。
 裁きの基準:(ヨハネ12:48)はキリストのことば。(黙示録20:12)は行いに応じた裁き。(マタイ12:36.37)は各人が語った言葉。

5.キリスト者の裁き:基本はイエス様を愛する愛を持ってキリスト者としてどのように主に仕えてきたかということに対する裁き〔報酬の査定〕です。
キリスト者として健全な歩みをしていれば、主は報酬(御褒美)をくださいます。
 a)与えられた賜物を与えられただけ用いたかどうか:(マタイ25:14-30)はタラントの喩え、と言われています。これは与えられたタラント(賜物)に応じて分相応の働きをしたかどうかということでの評価です。
イエス様は、忠実なキリスト者を喜んでくださり報いを与えてくださいます(マタイ25:21.23)。
 一方、不忠実な人に対してはそれなりのこらしめがあるようです(マタイ25:30)し、不忠実で愛の無いしもべの例としては(マタイ24:45-51)の喩えなどがあります。
「こらしめ」の表現箇所には、(1コリント11:32、ヘブル12:6-11、黙示録3:19)などがあります。
不忠実なしもべのこらしめの場合でも、イエス様を信じているのであれば永遠の命は与えられています。また、新天新地には、悲しみ、叫び、苦しみは無い(黙示録21:4)ので、お仕置きは、7年間の患難時代や千年王国の間にもたれるのかもしれませんし、今の世界に生きている間にお仕置きを受けるのかもしれません(これは想像です)。
マタイ18:23-35、ルカ12:42-48に登場する人は、不忠実ではあっても、「しもべ」とありますから、イエス様を信じてキリストのしもべとして労していたと思います。
こらしめの喩えとして、マタイ18:23-35、ルカ12:42-48等は参考になるでしょう。もし、救われていない人であったら、罪は永遠に赦されませんが、ここに登場する人は赦される時があるのですから未信者とは違うはずです。
いずれにしても、どこでどのようなこらしめを受けるかは明確には書いてないのです。それは知らなくても良いことだからです(申命記29:29)。
 ◎大切なことは、イエス様が私達を愛して下さっておられるように、私達も愛の程度はイエス様とは違ってもイエス様を愛し、忠実にイエス様にお仕えするということです。
 b)キリスト者に等しく与えられているものを如何に用いたか:(ルカ19:12-26)はミナの喩えと言われています。この喩えでは、皆に等しく1ミナづつ与えています。
等しく与えられているものの中に時間があります。
ですから、ここでは、時間の使い方とか、祈りとか、その他等しく与えられているものをどのように忠実に用いたかということが査定の基準になるのだろうと思います。

6.神様は、自分に与えられているものを用いて愛を持って行ったことを評価してくださる。
(使徒9:36-41)には、ドルカスの行為とドルカスの病死からのよみがえりが記されています。この様な事例が記されたのは、主がドルカスの行為を喜ばれていたからだろうと思います。イエス様に香油を注いだマリヤ(マタイ26:6-13)も同じです。

7.憐れみ深い人は神様から素晴らしい扱いを受けます。(マタイ5:7)(ヤコブ2:13)
これと反対になってしまう行為は、「赦さないこと」であるとイエス様は次のように語られました。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14.15)。と。
一方、ヤコブは、「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)と語り、また、イエス様は「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」と言われました。
憐れみ深い者は、神様から憐れみを受けるのです。

8.黙示録の7つの教会に宛てられた主にある信仰の勝利者への祝福
 ①「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(2:7)
 ②「あなたにいのちの冠を与えよう。・・・決して第二の死によってそこなわれることはない。」(2:10.11)
 ③「隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」(2:17)
 ④「諸国の民を支配する権威を与えよう。」(2:26)
 ⑤「白い衣を着て、わたし(イエス様)と共に歩む。」(3:4)
 ⑥「神の聖所の柱としよう。」(3:12)
 ⑦「わたしとともにわたしの座に着かせよう。」(3:21)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 <お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇めます。
イエス様の血潮の故に罪を赦されきよめて頂けました。イエス様の血潮に対する信仰にしっかり留まり、感謝を持って、主を愛し、主に従い、自分に与えられた分に応じて忠実に仕えることが出来、憐れみ深く生きることが出来ますよう御霊様が導き助けていて下さいますように。
放縦に走ったり、愛の無い生活を送ってしまうことが決してありませんようお守りください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。
アーメン







 

 

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