共観福音書

2016年3月18日 (金)

ルカ24:50-53 イエス様の昇天

24:50それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。
24:51
祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕
24:52彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、
24:53絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。”(口語訳)

 50.51節に記されている情景を、使徒1:6-12では、
“1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離〔約900m(筆者挿入)〕であった。”(新改訳)と記されています。

 使徒1:12によると、これはオリーブ山での出来事であったことが分かります。
ルカ24:50には、「ベタニヤの近く」とありますが、ベタニヤは、オリーブ山の東南麓にあります。

 52節には、「彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り」とありますが、使徒1:12-14にはもう少し詳しく、
“1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。”(新共同訳)と記されています。

 ルカ24:53には、「絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。」とありますが、使徒2:46.47には、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり〔神殿に参り(新共同訳)〕、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し・・・」(新改訳)と記されています。

 マルコの福音書の最後の結びのところは、
“16:19 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。
16:20 そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。”(新改訳)とあり、使徒が力強く働くことが出来たのは、主が共に働かれたからであると付け加えられています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主イエス様は、やがてオリーブ山に再臨されると使徒1:11に記されています。しかしその前に、キリスト者を迎えに空中に再臨されますが、その時が待たれます。
それまでの間も、私たちを通して主が働いてくださるようにと望めば、主は共に働いてくださいますから感謝です。しかしそれ以上に、主は、私たち一人一人を用いて共に働きたいと願っておられる方ですから御名を賛美します。
主が共に働かれない働きは、無に等しいどころか、主の邪魔をしていることもあり得ますから、いつでも主の導きに従い、主の助けを頂いて、歩みを続けさせて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年3月17日 (木)

マタイ28:16-20 イエス様の最後の命令

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名〔「名」は単数形(筆者挿入)〕によって〔「よって」と訳されている原語は<ギ>「エイス」で「~の中に(into)」です(筆者挿入)〕、彼らにバプテスマを施し、
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。”(口語訳)

 16節に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。」とあります。
イエス様は最後の晩餐が終わった後、オリーブ山へ出かけた時、すでに、復活後ガリラヤに行く、と言っておられました。
マタイ26:31.32には、“そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。”(新改訳)と記されています。
また、イエス様が復活された後、女たちは、初め天使に会い、次に復活後の主にお会いしましたが、天使もイエス様も、女たちに、ガリラヤに行くように弟子たちに伝えなさい、と語りました。マタイ28:1-10には、
“28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさいイエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」”(新改訳)と記されています。

 16.17節に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。」と記されています。
冒頭に11人と記されていますから、11人しかいないように思えてしまいますが、実は500人以上もいたのではないか(1コリント15:6)と思います。何故なら、疑う者もいたからです。疑う者は、復活されたイエス様に会うのが初めてであったのではないかと思います。
11弟子たちは、この時すでに幾度も復活されたイエス様に会っていたので、疑うことはなかっただろうと思います。また、イエス様が、家の中ではなくガリラヤの山を選ばれたのは多くの人たちと会うことを計画していたことも一因ではないかと思います。11弟子だけであれば、家の中でもよかったでしょう。
復活の体は、復活前の体とは異なりました。とは言え、まだ、弟子たちの前に現れるときは、あまり驚かれないように調整していたと思います。栄光に輝く姿で現れた時には使徒ヨハネでさえ気絶したかのようになったのですから(黙示録1:12-18)。

 横道にそれますが、私たちも霊の体を与えられた時は、今の体とは異なります。キリストの復活の体に似たものとなるのです。それは、それまでに肉体の死を迎えていたとしても、あるいは肉体にあって生きていたとしてもです。主の空中再臨の時にそれは起こります。黙示録を参考に考えれば、復活後のキリスト者は美しい宝石のように天において輝くことでしょう。神様が新しく創造されるところの新天新地では、その体をもって天から地に下った非常に大きな立方体の新エルサレムで暮らすことになると思います(黙示録21章、イザヤ65:17.18)。

 18節には、「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」とあります。
イエス様は、ご復活後、天の父のもとに上り、天と地の一切の権能を授かったのです。
私たちは祈る時、この主イエス様の御名によって祈ることが出来るのです。また、キリスト者は、イエス様の中に置かれているのです(1コリント1:30)。このイエス様は長兄であり(ローマ8:29)、花婿なのです(エペソ5:32、黙示録19:6-8)。バプテスマのヨハネは、花婿の友です(ヨハネ3:29)。
私たちが、主のみ旨に叶った祈りをささげるときは、必ず聞かれるのです(ヨハネ15:7、1ヨハネ5:14.15)。
キリスト者の特権は絶大です。そしてそれはすべて神様からの賜物です。なんという神様の愛でしょう。神様の愛は信じられないほど絶大です。

 天と地の一切の権能を持っておられる主イエス様が、「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(19.20)と命令を下されました。そして、不安に陥りやすい弟子たちに対して、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(20)と断言されたのです。
御霊から新しく生まれた(新しく生まれたのは霊です)キリスト者は、父、子、聖霊の御名(「名」は単数形)の中に浸されたのです。→{(参考)1コリント1:30}

 マルコの福音書には、
“16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」”(新改訳)と記されています。
マルコ16:15の内容は、マタイの福音書にもありました。

 16節には、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」と記されています。
信じないでバプテスマを受けても、救われていないのですから、信じていない者なので罪に定められるのです。一方、信じたけれどもバプテスマを受けない者については、この節には記されていません。十字架上の強盗の一人は、イエス様を信じましたが、バプテスマを受けるチャンスがありませんでした。しかし、救われました。
イエス様を信じたら、バプテスマを受けれない何らかの障害がない限り、バプテスマを受けることはみことばからみても当然のことと思います。

 マルコ16:17.18節に記されてある事柄は、使徒の働きを読むと実際に起こったことが記されてあります。今の時代でもそのような御霊の賜物を与えられた方々がいます。そのような人たちによって、同じような奇跡は、現代でも起こっています(1コリント12章)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主が私たち一人ひとりに与えてくださっておられる使命を主の御霊の導きと助けを頂きつつ、全うして天に帰ることが出来ますよう、一日一日お導きください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン。

2016年3月16日 (水)

ルカ24:44-49 イエス様の復活後の教え

24:44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられる〔いと高き所から力を着せられる(新改訳)、高い所からの力に覆われる(新共同訳)〕までは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。”(口語訳)

 ここに記されてあることは、イエス様が復活された後の数回にわたる内容をまとめたものではないかと思います。
使徒1:3.4に、
“1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。”(新改訳)と記されています。

 イエス様は、一度だけ教えた、というのではなく、「四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り」(使徒1:3)と記されていますから、何度も教えられたのでしょう。

 44節に「それから彼らに対して言われた、『わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書〔預言者(新改訳)、預言者の書(新共同訳)〕と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する。』」とあります。
ここで言われている詩篇は、諸書を含んでいるので、「モーセの律法と預言書〔預言者(新改訳)、預言者の書(新共同訳)〕と詩篇」というのは、一言で言えば旧約聖書全体ということになります。
また、イエス様が十字架にかかられる前の三年半の間に弟子たちに多くのことを語って教えましたが、聖書を悟る為には主に心を開いてもらわないと(45)聖書の真理を悟ることが出来ないのだということを知ります。

 イエス様は、聖書を悟らせるために、弟子たちの心を開いて(45)から、もう一度、キリスト(メシア)の死と復活について聖書(旧約聖書)から語りました(46)。死と復活についてのイエス様ご自身による予告(預言)は聖書(新約聖書)に記してある回数でも3回あります。弟子たちの行動を見ると、話を聞いてはいてもイエス様の十字架と復活について、その時には悟っていなかったことが分かります。
それゆえ、弟子たちは、イエス様が捕縛される時には逃走するし、イエス様が墓からいなくなっても、霊の体をもって復活するなどとは夢にも思わなかったのだろうと思います。
当たり前のことですが、聞くことと、悟ることは別であることが分かります。

 イエス様は、弟子たちに幾回にも亘って現れ、教え、証人としたのです(48)。
しかし、力をもって宣教していくためには、聖霊のバプテスマ(使徒1:5)によって力を着せられる(49)必要があったのです。
使徒の働き1:4.5.8には、
“1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(新改訳)と記されています。

 パウロは、コロサイ人への手紙1:9に、「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」(新改訳)とパウロのとりなしの祈りを記しました。
「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」(新改訳)の箇所を、新共同訳は、「“霊”〔聖霊(筆者挿入)〕によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、」と訳しています。TEVは、"We ask God to fill you with the knowledge of his will, with all the wisdom and understanding that his Spirit gives."と訳しています。

 イエス様は、最後の晩餐の席で、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16.17・新改訳)と言われ、また、「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ16:13・新改訳)と言われました。
イエス様は、復活の日の夜、弟子たちに、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)と言われたのでした。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちが救われたのは、イエス・キリスト様が十字架の上で血を流して死んでよみがえってくださったゆえであり、真理を悟ることが出来るのは、聖霊様によるのであり、力強く宣教することが出来たとしたらそれも聖霊の力の現れであることを知ります。
この様に、何から何まで恵みによってあなたが導いてくださっておられますことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年3月15日 (火)

マルコ16:14 見ずして信じる者は幸いである

16:14その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。”(口語訳)

 主イエス様が復活された日の夕方、弟子たちが集まっていた時、トマスはそこにいませんでした。ヨハネ20:24.25には、
“20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。”(新改訳)と記されています。

 主イエス様のご復活の八日後のことがヨハネ20:26-29に
“20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」”(新改訳)と記されています。

 この箇所を読んで、トマスだけが不信仰の様に感じてしまう人がいますが、弟子たち全員が不信仰であったのです。イエス様が十字架につかれる前に、イエス様が死と復活の預言を三度もした(マタイ16:21-28、17:22.23、20:17-19)のに、ほぼ全員がイエス様を見なければ、イエス様の復活を信じることが出来なかったのです。

 イエス様は、40日間天と地を往来していたようです(使徒1:3)が、その間に直接イエス様にお会いした弟子たちは、500人以上に上りました(1コリント15:6)。

 それから後にイエス様の救いに預かっていった人たちは、復活されたイエス様を肉の目で見ることなく信じた人たちです。例外的に、パウロの様にイエス様を見た人や、現代でもイエス様が夢に現れて救われた人etc.がいるようですが、イエス様は、「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。
特殊な場合を除き、イエス様を肉の目で見ることはできませんが、聖霊様が信仰を持つことが出来るようにと働いてくださっておられるのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
弟子たちは、いつもイエス様と一緒にいてイエス様を見、イエス様の声を聞き、イエス様に触れていましたから、イエス様を見ずに信じることが反って難しかったのではないかと思います。
私たちは、イエス様を肉の目で見ることはできませんでしたけれども、聖霊様が豊かに働いてくださったおかげで、イエス様を信じることが出来ましたことを感謝します。
神様は、常に必要を備えて下さいますから感謝します。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年3月14日 (月)

ルカ24:36-43 復活の日の夜の出来事

24:36こう〔これらのことを(新改訳)〕話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
24:37彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
24:38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。  
24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
24:40こう言って、手と足とをお見せになった。〕
24:41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
24:42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
24:43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。”(口語訳)

 ここの箇所は復活の夕方の出来事でした。
「こう〔これらのことを(新改訳)〕話していると」(36)というのは、よみがえられた主がシモン・ペテロに現れたという話(ルカ24:34)や、エマオ村から帰って来た二人の弟子の話(ルカ24:13-32)ですから、この箇所の出来事は主イエス様のご復活の日の夕方の出来事であることが分かります。
なぜ夕方かというと、ヨハネ20:19に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(新改訳)とあるからです。
ということは、イエス様にお会いした二人の弟子は、エマオからものすごい速さでエルサレムに戻ったことになります(ルカ24:29.33)。恐らく走るようにして11kmの道を進んだのでしょう。

 エルサレムに集まっていた弟子たちは、マグダラのマリヤが、よみがえられたイエス様にお会いしたと言っても、エマオ村に住んでいる二人の弟子やペテロの話を聞いても、イエス様が復活されたということを信じ切ることはできませんでした。
 マルコ16:10-13には、
“16:10 マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。
16:11 ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。
16:12 その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現された。
16:13 そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。”(新改訳)とありますから。

 ルカ24:36.37を新共同訳は、“こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように〔平安があなたがたにあるように(新改訳)〕」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。”と訳しています。
何しろ弟子たちは、イエス様の復活は信じていないし、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19・新共同訳)にもかかわらず、イエス様が入って来たのですから、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」という状況になっても不思議はありません。

 それに対してイエス様は、ご自身が体を持っていることを証明なさいました。
まずイエス様が言われたおことばは、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」(ルカ24:38・新改訳)というものでした。それに続けて、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:39・新改訳)と言われました。ヨハネは、「イエスは、その手とわき腹を彼らに示された。」(ヨハネ20:20・新改訳)と記しています。
イエス様は、釘のあとの手を示し、足を見せ、槍で刺された脇腹を見せ、体を触らせ、大サービスです。

 弟子たちは、大喜びしました(41)が、同時に不思議な感じ、信じられないような気持もありました(41)。
そのような弟子の反応を見たイエス様は、「ここに何か食物があるか」と言われた(41)のです。
弟子たちは、焼いた魚の一きれをさしあげ(42)ました。
イエス様は魚を取って、みんなの前で食べたのです(43)。
これは、体をもって復活したのだよ、という証明でした。
霊のからだは、壁や戸でもすり抜けることが出来、食物を食することも出来る体であったのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちもイエス様の空中再臨の時には、イエス様のご復活の体と同じような体を与えられて天に引き上げられるのですからありがとうございます。霊のからだは衣服をもすり抜け、重力をも超越することの出来る体ですからありがとうございます。
信じることの出来ない人からは、まさに気がくるっていると言われる事柄ですが、疑いなく信じることが出来ますことを感謝します。
神が語り出されたことには不可能はありません。あなたが語られたことは必ず成就しますから御名を崇め賛美します。
感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン 

2016年3月13日 (日)

マルコ16:12.13、ルカ24:13-35 エマオの途上の二人の弟子に現れたイエス様

16:12この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。
16:13このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。”(口語訳)

 ルカは、この話を詳しく下記の様に記しました。
“24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル〔60スタディオン(新共同訳)〕余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。”(新改訳)
 ( )内の数字及び福音書名を記していない数字はルカの福音書24章の節です。

 13節には、「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。」とあります。
「この日」とは、主の復活の日曜日です(21)。
エマオ村(13.28)に向かう二人の者はイエス様の弟子でした。
距離は、ギリシャ語聖書では、60スタディオン。1スタディオンは185m。
この二人の弟子の家は、エマオ村にあったのです(29.30)。

 イエス様と二人の弟子の出会いは、二人の弟子が帰宅する途中の道でした。
イエス様の方から、二人に接近してくださったのです。
しかし、二人が以前知っていたイエス様とは異なっていたのでしょう(16)。復活のからだは、復活前のからだとは異なりますから。私たちもそのよう変えられることになるでしょう。しかし、その人の本体である霊は同じですから体を通して表現されることは同じなのだと思います(31)。

 二人の弟子は、イエス様を、
①神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者(19)であり、
②イスラエルを贖ってくださる方(21)と望みをかけたが、
③イエスは十字架につけれ(20)、望みは絶たれた{暗い顔つきになって(17)}、
と捉えていました。
この二人は、墓に行った女たちが、「御使いたちの幻を見たが、『御使いたちがイエスは生きておられる』と告げた」と証言した(23)のに、それを信じ切ることはできなかったのです。

 イエス様は二人の弟子の話を聞いてから、二人に、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」(25)と語られました。そして、更に、「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(26)と語られ、更に、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(27)のです。

 かつてイエス様は、最低3回にわたって、死と復活の預言を行ったのです。
また、聖書の読み方に関して、旧約聖書はイエス様がメシア(キリスト)であることを証言している書物である(ヨハネ5:39)、という観点から読むことの重要性を解き明かしたのです。
まさにイエス様による旧約聖書講解でした。
32節には、「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と二人の会話が記されています。
本当に素晴らしい体験です。
しかし、その時は、まだ話をしてくださっておられるのがイエス様だとはわからなかったのです。
そして、そうこうしている内に自宅についてしまいました。エルサレムから約11kmでしたから。
話を聞いて心が燃やされていたくらいでしたから、まだ話をしてくださっておられた方と一緒にいたいと思ったのでしょう。更に話を聞きたいと思ったのかも知れません。
二人は、イエス様に、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったのです(29)。もし、願わなかったら彼らの家に入ることもなく行き過ぎて行ったことでしょう(28)。泊まってくれるようにと願ったので、家に入ってくれたのです(29)。
もし、このことがなかったならば、この時に、話をしてくれたのがイエス様であるとは気づかなかったかもしれません。

 30.31節には、「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」と記されています。
この二人は、イエス様から直接、聖餐を受けたのだと思います。
二人の弟子は十二弟子ではありませんでしたから、最後の晩餐を共にした人ではなかったのです。
二人の目が開かれて、イエス様だと分かると、イエス様は消えてどこかへ行ってしまわれました(31)。
イエス様は、二人を悟らせるために、二人に現れてくださったのだと思います。

 この後、すぐさま二人はエルサレムに戻りました。証をしようと思ったのでしょう。
彼らがエルサレムの皆が集まっているところに戻ってみると、十一使徒とその仲間が、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた(33.34)とあります。
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話したのでした(35)。

 蛇足になりますが、イエス様は、その時の状態で、色々に変化して現れるように思います。
 黙示録1:12-18には、
“1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。”(新改訳)と記されています。
 黙示録19:11-16には、
“19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。”(新改訳)と記されています。
 また変貌山においては、マタイ17:1-3に、
“17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き御衣は光のように白くなった〔主のお体から強力な光を発するので衣が光のように白く見えたのではないかと思います(筆者挿入)〕。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。”(新改訳)と記されています。
創世記18:1-5には、
“18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、
18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。
18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。
18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」”(新共同訳)と記され、この箇所に現れた時は、ピカピカに光って現れたのではなさそうです。
 眼の色も色々と変化するのだと思います。戦われる時、裁きを下すとき、慈愛に満ちて見つめてくださっておられる時、etc.
「目は心の鏡」(孟子)とあるそうですが、イエス様は、マタイ6:22.23では、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(新改訳)と言われました。明るさ、暗さ以外にも、怒りも悲しみも邪悪さも聖さもその他色々な状態が目には表れます。
人間であっても、慈愛に満ちつつ、すべてを見通してしまうような眼の方にお会いしたことがあります。いつもというわけではなく、その人のその時の状態であったのでしょうが。現在その方は天国在住です。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様は、私たちの必要に応じて、また、イエス様のお考えに基づいて語ってくださる方ですからありがとうございます。
人から聞いた言葉の多くはみな忘れてしまいますが、イエス様が語ってくださったおことばは何年たっても何十年たっても昨日のことのように思い出されます。また、語ってくださったことは成就しますから感謝します。
主を賛美し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン 

2016年3月12日 (土)

マタイ28:11-15 虚偽の噂の流布と復活の確かさ

28:11女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
28:12祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
28:13「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
28:14万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
28:15そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。”(口語訳)

 マタイがこの福音書を書いたのは、AD50-70年と言われています。
マタイが、この福音書を書いた頃でも、イエス様は復活したのではなく、弟子たちがイエス様を盗み出したのだ、という噂が巷に流れていたのです。それは、15節の「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。」という記述からも分かりますし、マタイがこのことを記述した理由でもあったことでしょう。

 キリストが復活したことの確かさについてをヘンリー・シーセンの組織神学554-558頁を私なりに簡潔に要約すると、
“(1)証言からの論証
1.使徒たちは、幾度も、自分たちが目撃者であったという事実に訴えている(ルカ24:33-36、ヨハネ20:19.26、使徒1:3.21.22)。使徒たちの教えは、他の人々の報告に基づいたものではなかった。
2.聖書は、復活した主を見た者は500人以上いた、と確言している(1コリント15:3-8)。
3.使徒たちに何かの思惑があって、偽りの証言をし続けたとは考えにくい。使徒たちは、自分たちの生命をかけて、キリストの復活をのべ伝えたのである。
 ☆四福音書にみられるキリストの復活後の記事に差異があるとすることへの反論
<復活の後に起こった順序>
 a.3人の女が墓へ行って天使を見た(マタイ28:1-8、マルコ16:1-7、ルカ24:1-8)。
 b.彼女たちは墓のところで別れ、マグダラのマリヤはペテロとヨハネに告げるために(ヨハネ20:1.2)、そして他の二人の女たちは、多分ベタニヤにいたと思われる他の弟子たちに伝えるために(ルカ24:9-11)、出かけて行った。
 c.それから、ペテロとヨハネは、マリヤの先に走って墓に着き、主を見ないでまた家に戻った(ヨハネ20:3-10)。
 d.この後、キリストはキリストに従った女性たちや弟子たちに現れた。キリストが現れた順序は
 イ.ペテロとヨハネとヨハネが墓を去った後に、マグダラのマリヤに(マルコ16:9、ヨハネ20:11-18)。
 ロ.途中にいた他の女たちに(マタイ28:9)。
 ハ.エマオの途上の二人に(マルコ16:12.13、ルカ24:13-35)
 ホ.シモン・ペテロに(ルカ24:34、1コリント15:5)
 ヘ.十人の弟子(使徒)たちに(ヨハネ20:19.24)
 ト. 十一人の弟子(使徒)たちに(ヨハネ20:26)
 チ.テベリヤの湖畔で使徒たちに(ヨハネ21:1以下)
 リ. ガリラヤの山で使徒たちに(マタイ28:16.17)
 ヌ.同時に500人以上の兄弟たちに(1コリント15:7)
 ル.ヤコブに(1コリント15:7)
 ヲ.昇天していかれた山で弟子たちに(ルカ24:50.51、マルコ16:19、使徒1:9)
という順になります。
 (2)因果律からの論証
1.からになった墓
 a.聖書は、墓が空っぽであったと告げている。もしこれが事実でなかったなら、確かに誰かが、弟子たちはうそつきであって、墓は実際にはからでなかった、ということを示しえたはずである。
 b.兵士たちが眠っている間に弟子たちがやって来て死体を盗んでいった、という当時の祭司長と長老たちがこしらえ上げた嘘は、現代人の一部から本当の話として受け入れられている。しかし、キリストの復活の証拠は、主の死体を包んだ布がそのまま乱されずに――イエスの頭に巻いてあった布だけが、離れた別の場所に置いてあった――そこに置かれていた、という事実によってゆるぎないものとされている(ヨハネ20:3-8)。もし弟子たちが来て死体を盗んでいったのなら、確かに、こんな状態にしておかれるはずがない。
 〔①イエス様の死体をもし盗み出すとしたら、布がまかれてあるままで盗み出すのが普通だと思います。また、布が巻かれたままの状態から体を抜け出させる技を人は持ち合わせていないでしょう。 ②複数人の番兵からなる屈強なローマの兵隊を無傷のままの状態で兵士全員を気絶させることが弟子たちにできたとは思えません。 ③墓石も相当に重いのです。 ④ローマが封印をした墓石を移動させ封印をかってに破ったら死刑にされたことでしょう。(筆者挿入)〕
2.主の日
 主の日の起源は、使徒たちがキリストの体のよみがえりを記念して、主の承認のもとに日を〔安息日{土曜日}から主の復活の日{日曜日}に(筆者挿入)〕変えたのだという根拠に立って、初めて十分に説明されるのである。
 使徒たちは全員ユダヤ人であった。ユダヤ人は神との契約によって千数百年に亘って安息日〔土曜日(筆者挿入)〕を守ってきたのである。ガリラヤ出身で力のない使徒たちが新しい宗教を起こすために旧約の掟を破って新しい宗教を起こすなどという立場にはなかったし、また、ユダヤ人として彼らは、それがどのような人物であれ、単なる一人の人間を崇めるために、休日を設けるなどということはできもしなかったし、またしようとも思わなかったであろう。
3.キリスト教会の存在
 キリスト教会の存在は、ある原因があった結果である。
キリスト教会の存在は、我々の主イエスのからだのよみがえりを前提としてのみ、十分な説明を与えることが出来る。
 ①キリストの生涯が、弟子たちに非常に強い印象を植え付けていたとしても、キリストが十字架につけられた時、弟子たちの希望はすべて打ち砕かれてしまった。
 ②キリストは死んでしまったと思っていた弟子たちが、主を黙想し、主を礼拝するために集まろう、などという気を起させるものは何もなかった。
 ③キリストが死人の内からよみがえったという絶対の確信がなかったならば、迫害の危険を冒してまでも、キリストの名を自分たちの同胞であるユダヤ人にのべ伝えようという気を弟子たちに起こさせるようなことのできるものは何もなかったであろう。
 ④使徒たちや主イエスを信じた者の集会こそ、キリスト教会の源であった。”(以上で要約終了)

 すでにイエス・キリスト様を信じて日々イエス様と交わりを持っている人にとっては、ここまで記述してきた内容もあまり必要がないかもしれません。そのような人にとっては、イエス様が生きておられることは自明の理であり、疑う余地がないからです。更にイエス様との交わりの豊かな人は、聖書をそのまま素直に信じることが出来るでしょうから。

 しかし、本日記した内容は、求道者の方や復活を信じない人や信じない人と話さなければならない人には役に立つかもしれません。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様のご復活を論理的にも体験的にも納得できますことを感謝します。
しかし、自分の過去を振り返ってみれば、イエス様の復活が本当なのかどうかということについてこのような論理的な検証が私には必要であったことを覚えます。
同じように必要な方の役に立ちますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年3月11日 (金)

マタイ27:52.53 聖徒が復活しエルサレムに現れた

27:52また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
27:53そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。”(口語訳)

“27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都〔エルサレム(筆者挿入)〕に入って多くの人に現れた。”(新改訳)

 この箇所は、マタイの福音書のみに記されている内容です。

新聖書注解には、
“「墓が開いて」は、イエスが死を克服されたことを象徴的に示す。
この墓は「聖徒たち」の墓と限定されている。しかも、すべての聖徒たちではなく「多くの」と限られている。イエスの十字架の死は直ちにこれらの聖徒たちの墓を開き、彼らを生き返らせた。これによってイエスの死は死に打ち勝ったことを示し、生き返らされた聖徒たちはその偉大な勝利を証明している(レンスキー)。これらの聖徒たちは、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」キリスト(1コリント15:20)にしたがって墓から出、エルサレムに入って多くの人に現れた。
これはイエスの復活への「しるし」によるあかしである。
イエスの復活と、これらの聖徒たちが生き返ったことは、信じる者たちの未来への確信である。”
と記されています。

 1テサロニケ4:13-18には、
“4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。”(新改訳)と記されています。

 主イエス様が空中再臨された時、肉体をもって地上に生きているキリスト者は、体が栄光の霊の体に変えられて、主に携え挙げられるのですが、すでに肉体が死んでしまって、魂(霊は魂の中に在ります)が、主のおられる天に帰ったキリスト者は、キリストの空中再臨の時、魂において、主と共に下ってくるのです(14)。その人たちの体(すでに一部になっているでしょうが)が墓或いはその他の場所から神様の御力によって出てきて、出てきた時には栄光のからだでかどうかは私には分かりませんが、恐らく栄光のからだで出てくるのでしょう。そして天から来られた魂(含霊)の状態のキリスト者と一瞬の内に一つになって天に帰るのではないかと私は想像します。
<参考聖書箇所>
①(ヨハネ11:23-26)
“11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」”(新改訳)
キリスト者は死んでも復活するし、魂とその中に在る霊は決して死なない。
②(ヤコブ2:26)
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(新改訳)
肉体の死は魂との分離(短時間の肉体離脱を除く)。魂と霊とが異なるものであることは(ヘブル4:12、1テサロニケ5:23)で明白です。
③(1コリント15:52)
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(新改訳)
「一瞬」の時間的長さは、恐らくキリスト者には分かっても、キリストの内にない者には見ることが出来な程の時間(速さというか短さ)だろうと思います。
この世の人は、キリスト者が、ただいなくなった(或いは宇宙人にさらわれたとか夜逃げした)と認識することが出来るだけだからです。キリスト者が地上から消え去ったら、携挙が起きたのだとパニックに陥る人もいることでしょう。しかし、世の多くの人たちは、携挙も信じないのです。
2テサロニケ2:9.10には、「不法の人〔獣・最終時代の世界統治者(筆者挿入)〕の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(新改訳)と記されています。
世の人たちの多くは、不法の人による欺きに騙されるくらいですから、恐らく世の人たちはキリストにあって死んだ人たちの体の復活や生きていて天に引き上げられるキリスト者を見ることが出来ないのです。
その理由についての私なりの考えは、①キリストの空中再臨時の出来事は、すべて見えないほど速い「一瞬」の内に神様が行われるから。或いは、②復活の霊の体は救われていない人には見ることが出来ないのかも知れない(神様が見させてくだされば別ですが)。というものです。そのいずれかだと思いますが他の場合もあるのかも知れません。いずれにしても、霊の体を与えられたキリスト者を見ることが出来ないので、不法の人が、キリスト者がいなくなった理由に対する偽りを述べた時、ほとんどの人が不法の人の嘘を信じるのです。
マタイ27:52には、「墓が開いて」、とありますから、キリストの空中再臨の時にも、キリスト者が地上から消えた後、世界中で、「墓が荒らされた」、というニュースが流れるかもしれません。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたの力には驚嘆するばかりです。
一瞬の内に驚くべきことをなさいます。
創世記1章を信じている人には不思議なことではありません。
あなたは、あらゆる植物を1日で創造されましたし、あらゆる動物も1日で創造されました。宇宙の創造も驚異的です。
身近なところでは、私たちキリスト者がイエス様を信じた瞬間に起こったことです。
一瞬にして古き人は死に、新しき人(霊)が聖霊によって誕生させられたのですから。そしてやがては、一瞬にして永遠に滅びることの無い栄光の体を与えてくださるのですから。それも非常に数多くの人たちに同時にです。
あなたが事をなさる時、あなたがなさることは、人間の想像を遥かに遥かに遥かに超えたものであるからです。
超超超偉大な力を持った、力だけではなく、義であり、愛をもって私たちを愛してくださっておられるあなたを賛美し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン 

2016年3月10日 (木)

ルカ24:11 墓を見に行ったペテロとヨハネとマグダラのマリヤ

24:12ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。”(口語訳)

 この箇所の並行記事のヨハネ20:1-18には、ペテロとヨハネが墓を見に行った様子だけではなく、マグダラのマリヤが再度墓に行って復活の主にお会いした出来事が記されています。

 ルカ24:12の出来事の前には、墓を見に来た女たち、即ち、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ(マルコ16:1)に、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか。」と天使が語ったことが記されています(ルカ24:5-7)。

 このことを女たちは、皆に伝えたのです。しかし、少なくともマグダラのマリヤ(ヨハネ20:1.2.18)は、復活を信じていなかったのです。
ヨハネ20:2には、“それで、〔墓から(筆者挿入)〕走って〔帰って(筆者挿入)〕、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子〔ヨハネ(筆者挿入)〕とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」”(新改訳)とマグダラのマリヤは言ったのです。
この話は、11弟子と共にいた人たちが皆聞いたのです(ルカ24:9)が、その中から二人だけが行動を起こしました。それがヤコブとヨハネでした。
ヨハネ20:3-5には、
“20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子〔ヨハネ(筆者挿入)〕がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。”(新改訳)と記されています。

 ヨハネのあとから来たペテロは、ヨハネよりも先に、そのまま墓の中に飛び込んだのでしょう。ペテロのことですから、ペテロに失礼かもしれませんが、「おい、ヨハネ、主のお体がないぞ!」と言ったかもしれません。
ペテロが「墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。」(ヨハネ20:6.7)とありますから。
ペテロが墓に入った後、ヨハネも墓の中に入りました(ヨハネ20:8)。
これまで、この二人は、イエス様から直接、十字架と復活の預言(予告)を聞いていたのですが、信じることができなかったのです。 
この二人は残されてあった布の状態を見て、イエス様が復活したしたことを信じることが出来たのでしょうか。
あるいは復活を信じることはできず、墓の中にイエス様がいないということを認識しただけなのでしょうか。
いずれにしてもイエス様がいなくなった墓を見て帰宅しました。これは早朝のことでした(ヨハネ20:1-4)。
恐らく、この時はまだイエス様が復活されたことを信じ切っていたとは思えません(ルカ24:33-38)。
この後にイエス様はペテロに直接現れてくださいました(ルカ24:34)。
ヨハネ20:7-10には、
“20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。”(新改訳)
と記されています。
イエス様を巻いた布からイエス様が抜け出たような状態で布が残っていたのか、巻いてあった布が絡まるように残っていたのかは、私の語学力では分かりません。
個人的な想像としては抜け出たのだろうと思いますが。
イエス様は後に弟子たちが鍵をかけた家の中に閉じこもっていたとき、イエス様は鍵もあけずに室内に入ってきましたから(ヨハネ21:26)。
ルカ24:12には、「ペテロは・・墓へ・・行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。」とありますから、少なくともペテロのほうは、復活信仰まではいかなかったのかな、とも思えます。

 マグダラのマリヤがイエス様の復活を信じることができなかったのは確かなことでした。
ヨハネ20:11には、「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(新改訳)と記されていますから。
この後、マグダラのマリヤは、二つのことを体験します。一つは天使との会話、もう一つは復活されたイエス様に直接会うことが出来たことです。

 マリヤが墓の外で、泣きながら墓の中を覗き込んでいた時、二人の天使が墓の中に現れたのです。
ヨハネ20:12には、「すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。」(新改訳)と記されています。
更に天使は、「なぜ泣いているのですか。」とマグダラのマリヤに尋ねました(ヨハネ20:13)。
それに対して、マグダラのマリヤは、「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」(ヨハネ20:13)と答えました。

 そして、うしろ(墓の外)を振り向くと、人がいました。その人は「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と聞くのです。
マリヤはその人は園の管理人だと思いました。そこでマリヤは、「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」と答えたのです。
すると、園の管理人だと思った人が、「マリヤ」と言ったのです。
その時、マリヤは、この人が、園の管理人ではなくイエス様である、と気付き、体の向きを変えてイエス様にすがりつこうとしたのです。
しかし、イエス様はすがりつかせてはくれませんでした。それには理由があったからです。
という内容がヨハネ20:11-17に、
“20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。”(新改訳)と記されています。

 更にイエス様は、「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(ヨハネ20:17・新改訳)とマリヤに言われたのです。
イエス様のこのおことばは、イエス様が十字架で贖いを成し遂げられ、復活されたことによって、イエス様を信じる者は神の子どもとされること(ヨハネ1:12)、イエス様の兄弟とされること(ローマ8:29)、イエス様を信じた者は神の家族とされること(エペソ2:19)、復活後のイエス様はまず御父のもとに帰ること等を教えてくれています。

 レビ記23章には、大切な主の祭りが記されています。これらの祭りは本体(実体)が現れるまでの型(予型)ですが(コロサイ2:16.17)、神様は、イスラエルの民が毎年守るべきものとして、モーセを通して語られたものです。
レビ23:5の過越しのいけにえは、イエス様の十字架によって成就しました。
レビ23:10-14の初穂の祭りは、イエス様のご復活によって成就しました。
注解付き新改訳聖書の下欄には、「キリストは、過越しの子羊として、ニサンの月の14日の午後にささげられ、復活の初穂として16日によみがえられた。我々は、その後にいのちのパンにあずかることが出来る。」と記されています。

 話を元に戻しますが、マグダラのマリヤは、兄弟姉妹たちがいるところに帰って、イエス様が復活されたこと、イエス様に会ったこと、イエス様から語られたことを皆の者に語ったのでした(ヨハネ20:18)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様のご復活の記事に触れるたびに嬉しくなります。
復活の主が私の内に住んでくださっておられるのですから・・・・
もう、言葉もありません。
ただ感謝し、御名を崇め、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年3月 9日 (水)

ルカ24:1-12 イエス様のご復活の朝の情景

24:1週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
24:2ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
24:8そこで女たちはその言葉を思い出し、
24:9墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
24:10この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
24:12ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕”(口語訳)

 1節に、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。」とありますが、墓に到着する前に、一つの心配事がありました。それは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」(マルコ16:3・新改訳)ということでした。マルコは、この女たちが、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメであると記しています(マルコ16:1)。

 2節には、「ところが、石が墓からころがしてあるので」とありますが、マタイはこのところを詳しく、「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。」と記し、石をわきにころがしたのは天使であると記しています。

 横道にそれますが、私たちも、「あの問題、どうしよう。この問題、どうしよう。」と悩むときがあります。その問題を自分ではどうすることも出来ません。しかし、祈っているうちに、「エッ、そんな風に解決したの、それは主が働いてくれたのだ。」と思うようなときがあると思います。主が生きて働いておられることを体験しているに人に対しては、主イエス様の復活の真実を理論的に説明する必要もありません。主が今生きて働いていてくださっておられること、また、始終主と交わりをもって生活しているという実感を持っていること、主が自分の内におられること等を体験しているからです。

 話を元に戻しますが、天使が現れた時の番兵の様子がマタイ28:2-4に、「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記されています。

 ルカ24:2.3には、「ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。」と記されています。
女たちが天使にあったのはそのあとでした。次の4節には、「そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。」とあります。
この天使は、青年のような若さに見えたのでした(マルコ16:5.6)。

 主イエス様の弟子たちや主イエス様を愛していた婦人たちは誰も墓石が動かされたところを見ませんでしたが、墓の石を開ける者がないように、墓石に封印をし、番をしていたローマの兵士は、天使が天から降りてきて墓石をわきにころがして、墓石の上に座ったのを見たのです。その時に地が震えたのです。ローマ軍の兵士は気絶したのです。その時の様子が、マタイ28:2-4には、「大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(新改訳)とあります。

 私が、上記のように思考するのは、次の内容にあります。
わざわざこのように書くのは、マタイの福音書の新改訳の訳が、
“28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。”とあるからです。
①ヨハネの福音書20:1には、「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」(新改訳)とあります。
②ルカの福音書24:1.2には、「週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので」(口語訳)とあります。
③マルコの福音書16:2-4には、「そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。」(口語訳)とあります。
④マタイ28:1.2の下線部分について調べてみると、「来た」と訳されてある原語の基本形は、{ギ}"ἔρχομαι"「エルコマイ」という語で、辞書には、"to come or go"とあります。
「すると」と訳されている原語の基本形は、{ギ}"καί"「カイ」で、辞書には"and, also, even, so then, too, etc."とあるのです。
新共同訳は、1節をgoの方を取って、「・・・墓を見に行った。」と訳しています。
この訳ですと、見に行ったその途中で、ということも想像できます。そして、その途中の道にある時に、即ち到着する前に、天使が石を動かしていた、と考えると、他の福音書とつじつまが合うのです。

 話を元に戻しますが、ルカ24:2-7には、墓の中を見てもイエス様を見つけることが出来なかった女たちに天使が話した話の内容が次のように記されています。
“24:2ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。”(口語訳)とあります。

 7節の「死と復活の予告」については、最低3回はされたのでしょう。マタイの福音書でいえば、16:21-28、17:22.23、20:17-19に記されています。その中で、婦人たちが聞いたと思われるのはマタイ17:22.23のガリラヤでのことでした。

 天使から話を聞いた婦人たち、即ち、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ(マルコ16:1)は、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告しました(9)。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。とルカ24:11にあります。
しかし、婦人たちの話を聞いてすぐに墓に行った人が二人いました。ペテロとヨハネです(ルカ24:12、ヨハネ20:1-4)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主イエス様のご復活を賛美します。ハレルヤ!
もし、イエス様の救いに預かることがなかったとしたら、私たち人間は、永遠の滅び(2テサロニケ1:9)、永遠の火と硫黄の池に行く予定でした(黙示録20:11-15)。
イエス様の十字架とご復活の故に、イエス様を信じさせて頂けた私たちは、栄光に輝く新天新地の中心の新しい都エルサレムで主と共に生活し、また、多くの兄弟姉妹たちと罪のない永遠の交わりをもって生活することが出来るのですからどのように感謝をささげ、あなたを賛美したらよいのかわからないほどです。
やがて主が迎えに来てくださるのではないかと期待していますが、地上に置かれている間も、あなたの導きにしたがって歩み続けていけますように。
感謝し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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