テトスへの手紙

2016年9月 6日 (火)

テトス3:12-15 テトスへのお願いと忠告と祝祷

3:12わたしがアルテマスかテキコかをあなたのところに送ったなら〔遣わしたら(新共同訳)〕、急いでニコポリにいるわたしの所にきなさい。わたしは、そこで冬を過ごすことにした〔そこで冬を越すことにしたからです(新共同訳)〕。
3:13法学者ゼナスと、アポロとを、急いで旅につかせ、不自由のないようにしてあげなさい。
3:14わたしたちの仲間も、さし迫った必要に備えて、努めて良いわざを励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである。
3:15わたしと共にいる一同の者から、あなたによろしく。わたしたちを愛している信徒たちに、よろしく。
恵みが、あなたがた一同と共にあるように。”(口語訳)

 12節には、「わたしがアルテマスかテキコかをあなたのところに送ったなら〔遣わしたら(新共同訳)〕、急いでニコポリにいるわたしの所にきなさい。わたしは、そこで冬を過ごすことにした〔そこで冬を越すことにしたからです(新共同訳)〕。」(口語訳)とあります。
アルテマスは、ここにしか出てこないのでどのような人かよくわかりませんが、一つ言えることは、パウロが安心して遣わすことの出来た同労者であったということでしょう。
テキコは、忠実な奉仕者であり、パウロの同労者でした。使徒20:4、エペソ6:21.22、コロサイ4:7.8、2テモテ4:12にも名前があります。
ニコポリは、(ギ)Νικόπολις ニコポリスで、勝利の市の意で、いくつかあったようですが、Strong辞書によるとマケドニアにあるとあります。

 13節には、「法学者ゼナスと、アポロとを、急いで旅につかせ、不自由のないようにしてあげなさい。」とあります。
法学者ゼナスはここにしか登場しません。法律の学者でもある同労者であったのかも知れません。
アポロは、雄弁な指導者で、この箇所の他、使徒18:24,27、19:1、1コリント1:12、3:4-6,22、4:6、16:12に出てきます。

 14節を新改訳は、「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」と記しています。新共同訳は、「わたしたちの仲間も、実際に必要な物を賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばない者とならないためです。」と訳しています。
テトス1:12に、「クレテ人は・・・怠け者の食いしん坊。」とあったこととの関係で、最後に記されているのでしょう。そして最後に終わりのあいさつと祝祷を「わたしと一緒にいる者たちが皆、あなたによろしくと言っています。わたしたちを愛している信仰の友人たちによろしく伝えてください。恵みがあなたがた一同と共にあるように。」(15・新共同訳)と記してこの手紙を終えています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ここに記されている主の奉仕者たちの様に自分の分を忠実に果たしていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月 5日 (月)

テトス3:9-11 偽教師に対する対処

3:9しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。
3:10異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。
3:11たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。”(口語訳)

 9節には、「しかし、愚かな議論と、系図〔系図の詮索(新共同訳)〕と、争い〔口論(新改訳)〕と、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なこと〔むだなもの(新改訳)〕である。」(口語訳)とあります。
ここには偽教師との関りや対処の仕方が記されています。
ヨハネ14:17.26には、「17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのこと〔物理法則のようなものではなく福音に関する真理(筆者挿入)〕を教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(新改訳)と記されています。

 新生していない人の内には聖霊は常住しておられません。そのような人は、両親から生まれただけで御霊によって新生(再生、再誕生)していないのですから、聖書を用いて律法について述べても、神について語っても、救いについて語っても神から真理を教えられたものではないので正しく捉えていないのです。
或いは、再生させて頂いたにもかかわらず、真理を理解できなくなってしまった人や真理に従えなくなった人の状態は、その人が、御霊を悲しませ続けたり、御霊を沈黙させてしまった状態にあるのではないかと思います。

 偽教師は、聖霊様によって教えられることの無かった人たちor聖霊様によって教えられても悪いと知りつつそれに従わなかった人たちです。そのような人たちと何を語り合っても平行線に終わってしまうのです。住んでる世界でいうと天と地の差があるのですから。1コリント2:6-15、3:3には次のように記されています。
“2:6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
2:8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それ〔隠された奥義としての神の知恵(筆者挿入)〕を神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊であるそれによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、・・
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人〔新生しているが御霊によって歩んでいない人(筆者挿入)〕であって、普通の人間〔新生していない肉の両親から生まれただけの聖霊が内住していない人(筆者挿入)〕のように歩いているためではないか。”(口語訳)

 以上のような理由から、神の奥義に関して議論しても空しく終わるのみですし、場合によっては、霊の人が感情的に揺さぶられ罪に陥ってしまう場合も出てきます。ですから、パウロはテトスに、「愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。」と述べました。そして、「異端者〔分派を起こす者(新改訳)〕は、一、二度、訓戒を加えた上で退け〔除名し(新改訳)、かかわりを持たないようにし(新共同訳)〕なさい。」(10・口語訳)と命じました。

 11節には、「たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。」(口語訳)とあります。
クレタの偽教師たちは、「自ら悪と知りつつも」、「愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争」(9)を止めることが出来なかったのかも知れません。悔い改めない人は除名しなさい、というのがパウロの命令でした。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
偽教師たちに相対して除名を勧告しなければならない立場の人が、そのような状態に置かれた時には、その立場の人に力を与えて助けてください。
私が、聖霊様の導きを退けて、邪道に走ることの無いよう守っていてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月 4日 (日)

テトス3:3-8 神の救いと神のみ旨にかなった歩み

3:3わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
3:4ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
3:5わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
3:6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。
3:7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
3:8この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。”(口語訳)

 3節には、「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。」とあります。
3節の原文には、理由を現わすγαρガルという語があります。パウロは、テトスがクレテの人たちをパウロが言うように導くことに困難を覚えていたのでしょう。テトスは、ギリシアの哲学者エピメニデスが、「クレテ人は昔からの嘘つき、悪いけだもの、怠け者の食いしん坊」と語ったことに同意していたのでしょう。そのような人たちに、パウロから、「彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(テトス3:1.2)と命じられても、それは難しいことだ、とテトスは心の中で思っていたのではないだろうか、とパウロは思ったのだろうと思います。
そこで、パウロは、救われる前に私たちを含めたすべての人は五十歩百歩だよ、と「(というのは)わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。」(口語訳)と述べたのだろうと思われます。

 私たちは、救われる以前は新生していませんから、両親という肉から生まれた生まれながらの人でした(1コリント2:14)から神様に属する霊の世界については知る由もなかったのです。ですから、当然の道理として、神様と霊のことがらに対して分別がなく、神様に従うことなど出来るはずもなく、迷ったものであったのです。再生されて、霊の人としての歩みをする以前は、生まれながらの人(ただの人)、或いは再生されても御霊によって歩んでいなければ肉の人です(1コリント3:1-3)から、情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合って生活していくことは普通のことです。

 新聖書注解の著者は、幾人かの先人の説を参考にして、4-7節は、「再生の洗い〔更新の洗い(新改訳)」(5・口語訳)という表現から、バプテスマの時に歌われた讃美歌ではないだろうかと捉えているようです。
パウロは、これ(恐らく当時の讃美歌)を引用することによって、テトスやこの手紙を読むクレテの人たちに、パウロが命じたキリスト者としてふさわしい歩みをすることは難しいことではないのですよと、8節に「この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。」(新共同訳)と記しました。

 引用文と考えられる4-7節について、新共同訳の4-7節の訳は、とても理解しやすく訳されていると私は思うので、それを下記します。
“3:4 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、
3:5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
3:6 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
3:7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。”とあります。
ここには、神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の働きによって、神の御前に罪ある者の罪を赦し、義とし、霊を新しく生まれさせて永遠の命を受け継ぐ者としてくださったこと、更に聖霊を注ぎ、聖霊によって歩むことを可能としてくださったことが記されています。そして、8節の、「そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。」というのは自然の流れです。
同じようなことをパウロは、エペソ2:8-10では、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて〔in Christ Jesus(KJV)〕造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(新共同訳)と記しました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
御霊によって歩む霊の人としての歩みの大切さを覚えます。絶えず私を導いて霊の人としての歩みを続けていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月 3日 (土)

テトス2:15-3:2 すべてのキリスト者に対する勧め

2:15あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。
3:1あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、
3:2だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。”(口語訳)

 15節には、「あなたは、権威をもってこれらのことを語り、勧め、また責めなさい。だれにも軽んじられてはならない。」とあります。
神のおことばを権威をもって語り、勧め、罪を責めた人の模範は、主イエス様でした。
イエス様が語られたおことばを聞いた人々の反応を、マタイは、「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:28.29・新改訳)と記しています。
イエス様は、姦淫の場で捕らえられた女性に対して、責めまくったのでは無く、「今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11・新改訳)と愛をもって命じたのでした。
イエス様の人に対する対応は、相手の心のあり方によって変わります。イエス様に敵対してくる人たち、例えば、パリサイ人や律法学者のある人たちに対しては、厳しく責めました。しかし、イエス様が十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34・新改訳)と祈られたように、その人達をも含め、すべての人を愛していました。それ故、パウロも救われ、多くの祭司たちも救われました(使徒6:7)。
イエス様の地上の歩みは、神の一人子としての権威と力によったものではなく、御父の霊によったのです。
イエス様は、御父を見せてくださいというピリポに対して、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」(ヨハネ14:10・新改訳)と語られましたし、ペテロがペンテコステの時、聖霊に満たされて、御霊によって説教した話の中に、「はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。」(使徒2:22・新改訳)とあります。
イエス様は、御霊による奉仕とはどのようなものかを教えてくださったのです。
神の霊によらない権威は、実質を伴いません。力がないのです。
パウロは、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(1コリント11:1・新共同訳)と述べましたが、パウロは肉の力でキリストに倣う者となったのではなく常に御霊によって可能であったのでした。パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20・新共同訳)と述べています。
神のおことばを語る時、肉からではなく、霊によるのでなくては、聞く人が権威を感じることはないでしょう。
肉によって聞く人の場合には、肩書等を権威として重視するかも知れません。

 テトス3:1.2で、パウロはテトスに、指導内容について、「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(新改訳)と述べました。
このように指導する者は指導される側から観察されています。それ故、御霊によって自らが、そのような歩みをしていないと指をさされます。私を見ないでキリストを見てください、と言って、それを受け入れてくれる相手ならよいですが。
とは言え、神のおことばを聞く方の者は、語る者が出来ていないからと言って神のおことばを軽く扱うことをせず、イエス様が、「・・律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」(マタイ23:2.3)と言われたおことばに心を留めることが大切です。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
御霊に満たされた歩みをし続けることが出来ますように。
神様のおことばの前にいつもひれ伏す者であらせてください。
だれをもそしらず、争わず、寛容であり、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すことが出来る者とならせてください。
自分が出来ていないことを語らねばならない時には、聞き手の人と同じ場所に座って、自分も神様から同じように聞く者であり、祈る者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月 2日 (金)

テトス2:11-14 恵みの中を歩まさせてくださる主

2:11すべての人を救う神の恵みが現れた。
2:12そして、わたしたちを導き、不信心〔不敬虔(新改訳)〕とこの世の情欲〔欲望(新共同訳)〕とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深く〔敬虔に(新改訳)〕この世で生活し、
2:13祝福に満ちた望み〔希望(新共同訳)〕、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス〔大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス(新改訳)〕の栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
2:14このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない〔良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした(新改訳)〕。”(口語訳)

 11節には、「すべての人を救う神の恵みが現れた。」とあります。
これは、イエス・キリストの十字架と復活のことです。それ故信じる者は誰でも救われる時代が到来したのです。イエス・キリストの十字架と復活は、神の恵みです。
エペソ2:8は、「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(口語訳)と表現しています。

 12.13節には、「そして、わたしたちを導き、不信心〔不敬虔(新改訳)〕とこの世の情欲〔欲望(新共同訳)〕とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深く〔敬虔に(新改訳)〕この世で生活し、祝福に満ちた望み〔希望(新共同訳)〕、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエス〔大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス(新改訳)〕の栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」(口語訳)とあります。
これは地上に住むキリスト者に、如何なる歩みをしたらよいかを、教えてくれています。
箇条書きにすると
 ①不信心を捨て去ること、そして、信心深く生活すること:不信心、不敬虔は罪の本質を為します。ローマ14:23には、「すべて信仰によらないことは、罪である。」(口語訳)とあります。イエス様は、イエス様を信じないことが罪なのだ(ヨハネ16:9)、と教えてくださいました。私たちは、イエス様を救い主と信じるところから始まり、やがて自分が自分の主ではなく、イエス様を自分の主とし、日常生活のすべての局面において、主イエス様を主として歩むこと。
 ②この世の情欲〔欲望(新共同訳)〕を捨てた歩み:禁欲主義とは異なります。神様の御旨に反する肉から来る欲を退けることです。例えば、性的なことについていえば、神様が与えてくださった伴侶者との性的交わりは、神様が祝福してくださいますが、伴侶者以外との性的交わりは罪であり、その実を刈り取ることになるのです(ガラテヤ6:7)。
金銭欲に走る人について、1テモテ6:10は、「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」(口語訳)と記してこの世の罠に、肉の罠に陥らないようにと忠告してくれています。
1ヨハネ2:15-17には、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」(口語訳)とあります。
 ③慎み深い歩み:慎み深いと訳されている原語は、σωφρόνως ソーフロノス で、with sound mind 即ち、健全な思いをもって。健全な思いは、神に対して謙遜であるとに通じます。神様に対して謙遜でない人は健全な思いを持つことは出来ません。慎み深いの意の中には、心を引き締めて軽はずみな言動をしない、という意もあります。
 ④正しい生活をする
 ⑤祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように(新共同訳):主キリスト・イエス様の栄光の出現とは、1テサロニケ4:16.17に記されているキリストの空中再臨です。花婿であるイエス様が、花嫁である教会(キリスト者の総体)を迎えに来る時です。その後、天で、結婚式及び披露宴がもたれます(黙示録19:5-9)。
主が迎えに来てくれる時を待ち望んで歩みなさい、と勧められています。

 14節には、「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(新改訳)とあります。
これは、エペソ1:4の「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(新共同訳)という父なる神のみ旨を成就するために、イエス・キリスト様が贖いを成し遂げてくださったこと思い起こさせます。
父なる神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の働きの故に、私たちは、罪を赦されただけではなく、聖霊によって生まれさせて頂き、義なる者とされ、更に、神の子ども、キリストの花嫁とされたのです。完全なる救い(霊の体を頂くこと)と天における婚宴は、まだ未来のことですが、神のおことばは、一つも地に落ちることはなく必ず成就しますから、時系列的には未来のことも過去形で書くことが出来るのです。永遠の未来まで過去形で書くことの出来るお方、それがまことの神様です。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
何から何まで用意してくださり、祝福の上に祝福を与え続けてくださりありがとうございます。
御名を賛美し、主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月 1日 (木)

テトス2:6-10若い人々や奴隷への教え

2:6若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。
2:7あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、
2:8非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。
2:9奴隷には、万事につけその主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗をせず、
2:10盗みをせず、どこまでも心をこめた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教を飾ることになろう。”(口語訳)

 6節には、「若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。」とあります。
新改訳は、「同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。」と訳し、
新共同訳は、「同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。」と訳しています。
若い時から全体をよく見渡し、よき判断をする人もいると思いますが、一般的に言って若い時には、全体が見えずに性急に猪突猛進のような状態になる人も多いので、この様に進めたのかも知れません。逆に、もう少し元気を出したら、積極的になったら、と励ます必要のある人もいます。

 7節には、「あなた自身を良いわざの模範として示し」とあります。
良いわざの模範について、パウロは、テモテに対しては、その具体例として、「・・ことばにも、態度にも、にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(新改訳)と語りました。
「思慮深い」「慎み深い」のギリシャ語の原語には「健全な思い」という意もあります。思慮深さ、健全な思いを持っていなければ、ことばにおいて信者の模範になることは難しいでしょうね。更に加えて言えば、聖さが必要であると思います。
ヤコブ3:2には、「・・言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(新共同訳)と記されています。
また、詩篇19:12-14で、ダビデは、「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(新改訳)と祈っています。口の言葉は心の反映ですから心が聖くされないと悪い言葉を出さないようにしようと意思を働かせていても気が緩んだときにぽろっと出てしまいます。

 パウロはテトスに対して、人に教えるにあたっての注意を、「あなた自身を良いわざの模範として示し、・・・、清廉〔純正(新改訳)〕と謹厳〔威厳(新改訳)、品位(新共同訳)〕とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。」(口語訳)と命じました。そのようにすれば、反対者も指導する者について、悪口を言えなくなるとともに、恥じいることになります、と教えたのでした(7.8)。

 9.10節では、奴隷に対する指導の仕方を「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。」と教えました。
服従に関して、「あらゆる点で」とありますから、奴隷の主人がキリスト者である場合を想定して記しているのでしょう。また、「盗んだりせず」とありますが、当時の奴隷が盗みをすることは一般的であったようです。
奴隷が、「あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であること」は、奴隷にとっても、良いことでありましたし、そのような生き方をすることによって、救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになるからでした(10)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主の御名が崇められるために、主の栄光の為に、私たちを整えてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月31日 (水)

テトス2:1-5 テトスに対し、老人男女や若い婦人たちに対する指導の在り方を教える

2:1しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。
2:2老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、
2:3年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。
2:4そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、
2:5慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言がそしりを受けないようになるであろう。”(口語訳)

 1節には、「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」とあります。
偽教師は、「反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者」(10)ですが、「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」とパウロはテトスに命じました。

 2節には、「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め、」とあります。
新聖書注解には、「古代の家父長制社会においては、老人は栄光の冠であり、その権威と威信は年とともに増していった。それゆえ彼らは、時として、家庭やキリスト者共同体の中で横暴なふるまいをすることがあった。したがって、老人たちは自制し、謹厳で、慎み深くするように求められている。」と記されています。
余談になりますが、近頃、老人が暴力的になったとか、傍若無人にふるまっているとか、物を盗んだ、などという話を聞いたり、読んだりすることがあります。
自制することが出来なくなってしまうのは、最近の脳科学の知見によると、大脳の前頭葉の働きが年とともに低下することによって引き起こされる、とされているようです。脳細胞がどんどん減少していく前に、私自身は、神のご性質にあずかる者とされていることを願います。認知症になっても、とても麗しい品性を保っておられるキリスト者の方々を見させて頂いた経験から、御霊に満たされて歩み続けさせていただける恵みを与えられていることの幸いを覚えます。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5:22.23・新改訳)から。脳科学だけで推し量ることは出来ません。人には魂も霊もあり、御霊によって霊を新生して頂いた人の内には御霊も住んでおられるからです。

 3節には、「年老いた女たちにも、同じように、たち居ふるまいをうやうやしくし、人をそしったり大酒の奴隷になったりせず、良いことを教える者となるように、勧めなさい。」とあります。
「人をそしったり・・せず」(口語訳)を、新改訳は「悪口を言わず」、新共同訳は「中傷せず」と訳しています。
「大酒の奴隷になったりせず」(口語訳)を、新改訳と新共同訳は「大酒のとりこにならず」と訳しています。
「たち居ふるまいをうやうやしくし」(口語訳)を、新改訳は「神に仕えている者らしく敬虔にふるまい」、新共同訳は「聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい」と訳しています。
そして、「良いことを教える者となるように」と勧めるよう、パウロはテトスに命じました。

 高齢のご婦人たちが、御霊によってお整えをいただいて、神に仕えている者らしく敬虔にふるまう歩みをすることが出来れば、「若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。」(4.5・新改訳)とあります。
皆が神の家族(エペソ2:19)としてふさわしく歩むことが出来るように整えられれば、神のおことばが崇められることはあっても、そしられることはない、とパウロは考えていたのでしょう。
イエス様は、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見てあなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16・新共同訳)と語られました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに在る者としてふさわしくお整えください。
それによって、私たちを見る者が、御父とイエス様とを崇めるようになりますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月30日 (火)

テトス1:10-16 クレテの偽教師の口を封じなさい

1:10実は、法に服さない者〔反抗的な者(新改訳)〕、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。
1:11彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。
1:12クレテ人のうちのある〔彼らと同国人であるひとりの(新改訳)〕預言者が
「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、
1:13この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、
1:14ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。
1:15きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。
1:16彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。”(口語訳)

 10節には、「実は、法に服さない者〔反抗的な者(新改訳)〕、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。」とあります。
テモテへの手紙やテトスへの手紙を読むと、福音とは異なる、偽教師による偽りの教えが、教会に入り込んで、困っていたことが分かります。
偽教師は、反抗的で、空論に走り、人々を惑わしているのです。更に偽教師は割礼を受けた者達{ユダヤ人(14)}に多いとあります。ですからその偽りの教えの内容は、福音とは相容れないユダヤ主義的なものであったのでしょう。それ故、パウロは、テトスに、「彼らの口を封じなければいけません。」(11)と命じています。その理由は、彼らが、不正な利を得るために、健全な教えに反する教えてはいけないことを教え、キリスト者の家々を訪問しては、その家の人達の健全な信仰を破壊している(11)から、と述べました。

 12節には、「クレテ人のうちのある〔彼らと同国人であるひとりの(新改訳)〕預言者が
『クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう』と言っている」とあります。
ここに記されている「預言者」は、主の預言者ということではありません。
注解付新改訳聖書の注によると、「ギリシャの七賢人の一人エピメニデスのこと。アリストテレスやキケロが、彼を預言者と呼んでいたので、パウロもそれに倣った。」とあります。
エピメニデスは、BC500-600年頃のクレテの人ですから、現代のクレテの人たちに当てはめるのはどうかと思いますが、パウロがクレテに行って感じたのは、エピメニデスと同じような感じであったのではないかと思います。パウロはテトスに、「この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定め〔戒め(新改訳)〕などに、気をとられることが〔心を寄せ(新改訳)〕ないようにさせなさい。」(13.14)と命じていますから。

 15節には、「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。」とあります。
「きよい人には、すべてのものがきよい。」とありますが、これは何について言っているのでしょうか。私は、14節に「真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」(新改訳)に続いている文章なので、食べ物など(レビ記11章)について語っているのではないだろうか、とか、コロサイ2:16の「・・食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて・・」(新改訳)とあるような内容について語っているのではないかと想像します。
15節には更に、「汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。」とあります。
ローマ14:23に、「・・・信仰から出ていないことは、みな罪です。」(新改訳)とあることも併せて考えると、不信仰自体が罪であり、聖くないものであり、不信仰であるということ自体が、聖なる知性と汚れのない良心とは相容れないものであると思います。

 16節には、「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」とあります。
偽教師たちは、口では神を知っているというが、行いではそれを否定している、というのです。即ち、神に従わない、或いは、神のことばに従わない、神に信頼しないでお金に信頼している等々、色々とあったのでしょう。パウロは、偽教師について、「忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」と述べました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ここに登場する偽教師の様に、口では使徒信条のような信仰告白をしても、行いではそれと違ったことをしている、というようになってしまうことがないようお守りください。
「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。」と告白しているように、いつでも私たちを全き愛をもって愛してくださっておられる御父が、全能の神であることを信じて祈り、行動し続けることが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月29日 (月)

テトス1:5-9 長老にふさわしい人を任命するように

1:5あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。
1:6長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。
1:7監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、
1:8かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、
1:9教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。”(口語訳)

 5節には、「あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。」とあります。
「あなたをクレテにおいてきたのは」とありますから、パウロもクレテに行ったことが分かります。
「わたしがあなたに命じておいたように」とありますから、クレテにおいて、パウロはテトスに、いくつかの命令をしたのでしょう。その中の重要な命令として、「町々に長老を立て」ること、というものがありました。

 そして、長老としてふさわしい人は、次のような人であるということを6-9節に記しました。この箇所は、1テモテ3:2-7に近似しています。

 テトス1:6-9に記されている長老(監督)としてふさわしい資格を箇条書きにすると
①責められる点〔非難されるところ(新改訳)〕がないこと:人格的、倫理的に他者から非難されるところのない人
②一人の妻の夫
③長老(監督)の子どもは、不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であること
④神の家の管理者として、非難されるところのない者であること。それは、
 ⓐわがままでないこと
 ⓑ短期でないこと
 Ⓒ酒飲みでないこと(新改訳)、酒におぼれないこと(新共同訳)
 ⓓ乱暴でないこと(口語訳、新共同訳)、けんか好きでないこと(新改訳)
 ⓔ不正な利を求めないこと(新改訳)、利をむさぼらないこと(口語訳)、恥ずべき利益をむ
  さぼらないこと(新共同訳)
 ⓕ旅人をよくもてなすこと{昔は宿泊施設が整っていなかったので、使徒や巡回伝道者た
  ち、あるいは旅行者を泊めて世話をすることは、監督の重要な務めであった。(注解付
  新改訳聖書の注)}
 ⓖ善を愛する人
 ⓗ慎み深い人
 ⓘ正しい人
 ⓙ信仰深い人
 ⓚ自制心のある人
 ⓛ教えにかなった信頼すべきみことばをしっかり守る人
です。
 その理由を、パウロは、「それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」(新改訳)と述べました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
牧会者として任じられていたとしても、すべてを完ぺきに満たすことの出来る人はそう多くはないのではないかと思います。
私たち信徒は、牧会者を非難することは簡単ですが、非難するのではなく、牧会者の為に祈る者であり続けていくことが出来ますように。
また、ただす立場にあり、主から任を受けた者は、ただすことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年8月28日 (日)

テトス1:1-5a パウロの使徒としての選びと使徒の使命とテモテへのあいさつ

1:1神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、
1:2偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。
1:3神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである――
1:4信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。
父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなたにあるように。
1:5あなたをクレテにおいてきたのは、・・”(口語訳)

 「テモテへの手紙第一」の次に「テモテへの手紙第二」ではなく、「テトスへの手紙」をもってきたのは、パウロが記した年代順を追ったものであります。

 注解付新改訳聖書のテトスへの手紙の緒論を参考にして記すと、パウロは、ローマの獄中から釈放された後、エペソへ行ったものと思われます。エペソでテモテに牧会者としての責任を与えてテモテをそこに残し、更にマケドニヤへ行きました。テモテへの手紙第一はマケドニヤで書かれたものと思われます(1テモテ1:3)。パウロは更にクレテに行き、テトスを牧会者として残し(テトス1:5)、更にニコポリ(ギリシャ南部のアドリヤ海に面した町)へ行きました(3:12)。このテトスへの手紙は、ニコポリで書いたと思われます、ということになります。

 この手紙は表題の様に、「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから」(1)、「信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ」(4)とあるように、パウロからテトスに宛てて書かれたものであることが分かります。テトスは、パウロが使徒である、と信じていたでしょう。それにもかかわらず、パウロの使徒としての任命と、使徒職の役割について、1-3節に詳しく書いてあるのは、クレテの兄姉達にも読んでもらうことを考えてのことであっただろうと思います。

 テトスはギリシャ人であり(ガラテヤ2:3)、4節に「わたしの真実の子テトス」と記されてあるところから、パウロの伝道を通して救われた人であったと思われます。肉によれば、パウロ自身はイスラエルの中のベニヤミン族の出身でした(ローマ11:1)。テトスは、パウロと共にエルサレム会議(使徒15:1-29、ガラテヤ2:1)に参加していますから、テトスはパウロの第一回宣教旅行(使徒13:1-14:28)の時に救われたのだろうと思います。第一回宣教旅行のとき、イコニオムでは多くのギリシャ人がユダヤ人と共に救われたのです(使徒14:1)。

 <パウロの自己紹介>
①神のしもべ(1):「しもべ」の原語は、ギリシャ語で「ドゥーロス」、即ち「奴隷」です。
②イエス・キリストの使徒(1)・・「わたし〔パウロ(筆者挿入)〕は、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」(3)・・・参照(使徒9:15、22:14.15.21、26:16-18、ガラテヤ1:1.15.16)
③使徒としての働き(この箇所に記されているものとしては)
 ⓐ神に選ばれた者たちの信仰を強めること(1)
 ⓑ信心(敬虔)にかなう真理の知識を彼ら(神に選ばれた者達)に得させるため(1)
 2節を新改訳は、「それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。」と訳しています。
神に選ばれた者たちの信仰と信心(敬虔)にかなう真理の知識は、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。ということになると思います。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
「これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。」(テトス1:2・新共同訳)という箇所を読むと、エペソ1:3-5の「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(口語訳)という箇所を思い起こします。
あなたは天地の創られる前から、私たちに、永遠の命を与え、神の子どもとして神の家族に加え、キリストの花嫁とし、地上にあっては御霊によって歩むことが出来る恵みを備えてくださっておられましたことを感謝します。
私たちは、あなたの御前にひれ伏して賛美と感謝をささげるのみです。
言葉では言い表せないほどの祝福を与えてくださったあなた様に、主イエス・キリスト様の御名によって感謝をささげます。アーメン

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