テモテへの手紙2

2016年9月22日 (木)

2テモテ4:19-22 終わりの挨拶と祝祷

4:19プリスカ〔プリスキラと同人(筆者挿入)〕とアクラとに、またオネシポロの家に、よろしく伝えてほしい。
4:20エラストはコリントにとどまっており、トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。
4:21冬になる前に、急いできてほしい。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、あなたによろしく。
4:22主が、あなたの霊と共にいますように。恵みが、あなたがたと共にあるように。”(口語訳)

 19節に記されているプリスカとアクラは、これまでにも聖書によく登場してきました。使徒18:1-3.18には、
“18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、
18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。
18:18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。・・・”(新共同訳)とあります。これはパウロの第二回宣教旅行の時でした。
コリント人への手紙Ⅰは、エペソで書かれたと思われます(1コリント16:8)。1コリント16:19には、「アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。」(新共同訳)とあります。
ローマ人への手紙は、パウロの第三回宣教旅行の時にコリントで書かれたものと思われます(ローマ16:23)。ローマ16:3-5には、
“16:3 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者〔同労者(新改訳)〕となっている、プリスカとアキラによろしく。
16:4 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。
16:5 また、彼らの家に集まる教会の人々〔またその家の教会(新改訳)〕にもよろしく伝えてください。”(新共同訳)とあります。

 19節には、「オネシポロの家族によろしく」(新改訳)とあります。2テモテ1:16-18には、オネシポロとオネシポロの家族のことが記されています。
2テモテ1:16.17には、「どうか、主が、オネシポロの家にあわれみをたれて下さるように。彼はたびたび、わたしを慰めてくれ、またわたしの鎖を恥とも思わないで、ローマに着いた時には、熱心にわたしを捜しまわった末、尋ね出してくれたのである。」とあります。
ネロの迫害により、パウロがローマの獄中にあった時、パウロから離れてしまった人もいれば、オネシポロのように、何かの用事でローマに来た時には、パウロが入れられている牢獄を捜しまわった末、捜し出して尋ねてくれた人もいたのです。
パウロがこの手紙を書いていた時は、共にいてくれたのはルカだけであった、と記されています(2テモテ4:11)。
オネシポロという人は、パウロがエペソでご奉仕していた時にも、パウロに仕えてパウロを大いに助けた人であったのです(18)。

 20節には、「エラストはコリントにとどまっており」とあります。
使徒19:22には、「そして、自分〔パウロ(筆者挿入)〕に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。」(新共同訳)とあります。これは第三回宣教旅行の時でした。
ローマ16:23には、「私と全教会との家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の収入役であるエラストと兄弟クワルトもよろしくと言っています。」(新改訳)とありますが、この市の収入役であるエラストについて、注解付新改訳聖書の注には、「コリントの敷石に彫られた碑文の中に、エラストという名がある。それがこのエラストである可能性は大きい。使徒19:22、2テモテ4:20に出てくるエラストはパウロの同労者であり、コリントの収入役のエラストとは別人物であろう。」と記されています。

 20節には、「トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。」とあります。
トロピモは、エペソ人のキリスト者で代表者的存在でした。使徒20:4には、「プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。」(口語訳)とあります。また、使徒21:29には、「彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。」(新改訳)とあります。
パウロには癒しの賜物が与えられていましたから、パウロによって多くの人たちが癒されました。しかし、トロピモの病気をパウロは癒すことが出来ませんでした。実際に癒されるのは主なる神様ですから、神様がトロピモを癒されずにミレトに留め置くことをよしとされたのでしょう。神様の為に。

 21節には、「冬になる前に、急いできてほしい。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、あなたによろしく。」とあります。
パウロはこの手紙の4:9でも「わたしの所に、急いで早くきてほしい。」(口語訳)と記していました。また、4:13では、「あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」(新改訳)とも記していました。
また、「ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、あなたによろしく。」とありますから、これらの人たちはローマの教会員であったのでしょう。

 22節には、「主が、あなたの霊と共にいますように。恵みが、あなたがたと共にあるように。」とあります。
テモテ個人に対しては主の臨在を意識した祝祷でありました。また、エペソのキリスト者たちに対しては、「恵みが、あなたがたと共にあるように。」と祈っています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
幾度も名前が記されてある人もいれば、そうでない人もいますが、主に真実に仕えている人たちがいることを覚えます。
私も私に与えられた分に応じて主に仕え続けていくことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月21日 (水)

2テモテ4:16-18 パウロの現況の証と確信

4:16わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者〔私を支持する者(新改訳)〕はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。
4:17しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。
4:18主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。”(口語訳)

 16節には、「わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方をする者〔私を支持する者(新改訳)〕はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められる〔さばかれる(新改訳)〕ことがないように。」とあります。
前にも書きましたが、パウロがこの手紙を書いた時は、ネロの迫害によって捕らえられ獄中にいるときでした(1:8.16)。
新聖書注解によると、“ローマの法廷では、最終判決が出る前に何回かの尋問が行われ、場合によっては判決が出るのがかなりおくれることもあった。第一回目の尋問でも、パウロに対して決定的判決を下すまでに至らなかったと思われる。「支持する者」とは、法廷で弁護人または友人として臨席することを意味している。4:21に出てくる人たちはローマ教会の会員で、彼らは法廷でパウロを弁護できる人々ではなかった。ここでは恐らく、当然パウロを弁護する立場にあった何人かの友人のことを具体的に考えて言っているのであろう。とはいえ、パウロは彼らをのろう気持ちにはなれなかった。むしろ「どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように」と祈るのである。”とあります。

 裁判の席で、パウロには弁護人がつきませんでしたが、「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。」(17)とパウロはテモテに証することが出来ました。
詩篇72:12の「これは、彼〔キリスト(筆者挿入)〕が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。」(新改訳)というおことばや、使徒9:15.16の「・・あの人〔パウロ(筆者挿入)〕はわたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の名を、異邦人王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(新改訳)というおことばを思い起こします。
 18節には、「主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」(新改訳)とあります。
霊の分からない人は、「私」というと、肉体を思いうかべますが、「私」の本体は「霊」です。特に、キリスト者といわれる人は、神様によって新しく造られた者です(2コリント5:17)。新しく造られた者とは、ヨハネ3:6に記されている御霊によって誕生させてもらった霊的存在者です。イエス様が、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:26・新改訳)と言われた人です。「天の御国に救い入れてくださいます」とあるように、キリスト者は神の国の住人です。それも神の子どもとしてです(ヨハネ1:12)。霊が古き肉体の中に留まっている間は、「悪」即ちサタンや悪霊や悪しき人々から絶えず攻撃を受けますが、古き肉体を脱いで私(霊)が天の御国に入れて頂けた暁には、すべての悪のわざから助け出されて神の国の栄光の自由の中に入れられたと大いなる喜びに満ち溢れるでしょう。歴史上ただ一度だけあるキリストの空中再臨の時に地上に生きているキリスト者は、霊だけではなく、霊の体も与えられて、神の御国に入るのです。そして、キリストの花嫁(霊的教会)の一員として婚姻、婚宴の席にはべるのです(黙示録19:6-8)。「主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」(18)

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今や既に主イエス様が共にいてくださいますことを感謝します。
「生きることはキリスト・・、死ぬことは益」(ピリピ1:21・口語訳)とも「肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」(2コリント5:9・口語訳)とパウロは述べましたが、まことにアーメンであり、喜びをもって主に仕える者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月20日 (火)

2テモテ4:9-15 テモテに早く来てくれるようにと願う

4:9わたしの所に、急いで早くきてほしい。
4:10デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。
4:11ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。
4:12わたしはテキコをエペソにつかわした。
4:13あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。
4:14銅細工人のアレキサンデルが、わたしを大いに苦しめた。主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう。
4:15あなたも、彼を警戒しなさい。彼は、わたしたちの言うことに強く反対したのだから。”(口語訳)

 9節には、「わたしの所に、急いで早くきてほしい。」とあります。また、13節には、「あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。」とあり、21節には、「冬になる前に、急いできてほしい。」(口語訳)とあります。
テモテは、エペソ教会の為に尽力していたことと思います。

 12節に、「わたしはテキコをエペソにつかわした。」とありますから、テキコにこのテモテへの手紙を持たせたのだろうと思います。。テキコは忠実なパウロの同労者でありました。エペソ人への手紙もテキコがパウロから依頼されてエペソ教会に届けたのだと思います。エペソ6:21には、「あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。」(新改訳)とありますし、コロサイ教会にもテキコがパウロの手紙を届けたのでしょう。コロサイ4:7に、「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。」(新改訳)とありますから。
 テキコに手紙を持たせたのは、テモテがエペソ教会から離れている間、テモテの代理をさせるためであったかも知れません。その推測は、テトス3:12の「私〔パウロ(筆者挿入)〕がアルテマスかテキコをあなた〔テトス(筆者挿入)〕のもとに送ったら、あなたは、何としてでも、ニコポリにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことに決めています。」(新改訳)というおことばに依拠します。
 パウロは以前、冬の寒い時に牢屋にいたことがあったでしょう。それ故、冬の寒くなる前に、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい、と言ったのかも知れませんし、冬になると、地中海は荒れやすく船の航行が休止になることは普通のことであったようですから、海が荒れる前に来てほしい、ということもあったのかも知れません。
また、10.11節に「クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。ただルカだけが、わたしのもとにいる。」とありますから、パウロは寂しかったのかも知れませんが、パウロは、慰めや上着のみが欲しくて、早く来るように、と手紙を書いたのではないと思います。自分が天に召される前にテモテに語るべきことを語りつくしたい、と考えていたのかも知れません。また、「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」(11)とありますから、ただ寂しさから逃れるためだけにテモテやマルコを呼び寄せようとしたのではないことが分かります。或いは、パウロの裁判の席で弁護人をしてもらいたいと考えていたのかも知れません(4:16よりの推測)。
 ウェスレアン聖書注解には、“クラークの考えによれば、パウロがテモテにともにいてほしかったのは、「彼〔パウロ(筆者挿入)〕の死に立ち会って、クリスチャンがどのような死に方を迎え得るかを見守ることによって、テモテの信仰が堅くされること」であったとしている。ステパノの殉教を見証することがパウロに及ぼしたであろう影響を考えるとき(使徒7:57-8:1)、この意見は熟慮に値する。”とあります。
このような考えもあって、テモテとマルコを呼び寄せたということも、呼び寄せた理由の一つかも知れません。

 10節には、「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい」とありますが、デマスは、この手紙が記された3-5年くらい前には、「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(コロ 4:14・新改訳)と記されていた人であったのです。パウロはただ「デマスはこの世を愛し」と記しているのみですが、この時パウロはネロの迫害で捕らえられていましたから、デマスはそのこともあってパウロのもとを去ったのかも知れないと想像します。

 クレスケンスは、他の聖書箇所には登場しませんが、ガラテヤに行った、とあります(10)。また、テトスはダルマテヤに行った(10)とありますが、この二人はパウロに遣わされてそれらの地に赴いたと考えられているようです。テトスについては、パウロの殉教後はクレタ島で最後まで宣教活動をしたという伝承があるようです。

 11節に、マルコは、「役に立つマルコ」と記されています。若い頃は、主のしもべとしては不適な面もありましたが、成長させてくださる神様が成長させてくださったのでしょう(1コリント3:7)。そしてマルコは良い働きをしました。マルコの福音書の著者ともなりました。マルコはパウロにも仕え(コロサイ4:10)、ペテロにも仕えました(1ペテロ5:13)。

 14.15節には、「銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。」(新改訳)とあります。
 銅細工人のアレキサンデルが、誰を指しているのか分かりませんが、テモテにはよくわかっていました。ただ言えることは、パウロたちの語る神のことばに激しく逆らった人であるということです。

 <お祈り>天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
テモテのように、私たち全員が「役に立つ」と言われるようにあなた様が成長させてくださいますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月19日 (月)

2テモテ4:6-8 パウロの召天の預言と働きの回顧と義の冠への期待

4:6わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。”(口語訳)

 6節には、「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。」とあります。
パウロは、これまで、死んでもおかしくないような状況に幾度か置かれました。
ある時には、パウロを取り囲んでいる人たちが、パウロを見て、死んだと判定したこともあったのです。
パウロが、AD56or57年くらいまでに体験した肉体的苦難は、2コリント11:23-27に、「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(新改訳)と記されています。
これらのことがあっても、この同じ手紙の中で、パウロは、「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(2コリント1:10・新改訳)と記しています。パウロが殉教する時より約10年前は、神様がどこまでも救い出してくださる、という希望を与えられていたのでした。
AD61年頃、パウロがローマの獄中にあった時、パウロは、「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。」(ピリピ1:20-26・口語訳)と手紙に書いていました。
テモテへの手紙Ⅱは、AD64-67年頃に書かれたものと推測されます。
パウロはこれらの変遷を経て、「わたしが世を去るべき時はきた。」と記したのでした。パウロは首をはねられて殉教したとのことです。
ピリピ1:21.23に、「わたしにとっては、・・・死ぬことは益である。・・・わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。」と記したことが数年後に実現したのですが、パウロはその間にも使徒の働きには記されていませんが、宣教旅行をして大いに福音を宣べ伝えたようです。

 そして7節に、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」 と記しています。テモテに宛てて記した手紙ですから、7節の言葉は、「キリストにあって、キリストに守られて、キリストに強められて、キリストに励まされて、キリストに慰められて・・・・」という言葉は省略したのでしょう。

 8節には、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現〔空中再臨(筆者挿入)〕を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」とあります。
天ではどのような冠を与えられるのでしょうか。天に行かないと分かりません。
この箇所には、「義の冠」とあります。
「いのちの冠」(ヤコブ1:12、黙示録2:10)
「栄光の冠」(1ペテロ5:4)、
「金の冠」(黙示録4:4)という記述もあります。
 「わたしばかりではなく、主の出現〔主の空中再臨(筆者挿入)〕を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」とあります。
黙示録4:10.11に、「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』」(新改訳)と記されています。
実際、神様の御前に出たら、二十四人の長老のようになることでしょう。
神様は、私たちキリスト者を、私たちでは想像できないくらい、祝福の上に祝福を与え続けてくださっておられるのですから。
イエス様を信じる信仰を与えられた(エペソ2:8)
イエス様を信じたら罪が赦された。
イエス様を信じたら義とされた。
イエス様を信じたら新しく生まれさせて頂いた(目下のところは「霊」、キリストの空中再臨の時には「からだ」も「永遠の霊の体に」)。
イエス様を信じたら永遠の命を与えられた。
イエス様を信じたら神の子どもとされた。
イエス様を信じたら神の家族とされた。
イエス様を信じたらキリストの花嫁とされた。
イエス様を信じたら御国を与えられた(目下は霊的な一部、やがてはすべて)。
そして冠も与えられる
新エルサレムも備えられる。
自分で何かしたものはない。神様がすべてを下さった。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
パウロは、あれほどの艱難を受けたにもかかわらず、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18・新改訳)と述べました。
あなたが与えてくださるものを思うときアーメンと頷けます。
ひたすらあなたの御名を崇めるのみです。
御名を賛美しつつ主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月18日 (日)

2テモテ4:1-5 みことばを宣べ伝えなさい

4:1神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。”(口語訳)

 1節には、「神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。」とあります。
 「生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエス」:イエス様は、「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネ5:22.24・口語訳)と、ご自身が裁き主であることを公言されました。
 また、キリスト者の裁き、というものもあります。2コリント5:10には、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(新共同訳)と記されています。
 「キリストの出現」とは、キリストの空中再臨を指しているものと思います。1テモテ6:14には、「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」(新改訳)とありますから。キリスト者はキリストの地上再臨を待っている者ではなく、キリストの空中再臨を待っている者だからです。1テサロニケ4:16.17には、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(新改訳)と記されています。
 「その御国」:「その御国」とはキリストの御国のことであり、キリストが地上にて統治される千年王国のことです(黙示録20:4)。キリスト者は永遠である栄光の霊の体を与えられていますが、大患難時代を生き抜いて更に羊とやぎの裁きの座で羊側に入れられた人たちは肉体を持ったまま千年王国に入ることが出来ます(マタイ25:31-46)。千年王国では、肉体を持ったまま入ることを許された人たちは、子どもを産みます。その子供たちの中には、千年王国の終わりに、サタンがサタンの牢から出された時に、キリストに従わないで、サタンに従う人たちが多くいます。その人たちは滅ぼされます(黙示録20:7-10)。千年王国に肉体を持って入った人たちについて、イザヤ65:20は、「わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。」(口語訳)と記しています。

 パウロは、御父と御子イエス様との御前で、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2・新改訳)と命じ、更に、「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(5・新改訳)と命じました。その理由として、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(3.4・新改訳)とパウロは述べています。
イエス様は、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰〔定冠詞の着いた信仰(筆者挿入)〕が見られるでしょうか。」(ルカ18:8・新改訳)と語られたことがありました。世界中にイエス様を「主」としている人はどのくらいいるのでしょうか。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
みことばを宣べ伝えていく者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月17日 (土)

2テモテ3:10-17 キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける

3:10しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、
3:11それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。
3:12いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。
3:13悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
3:14しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。”(口語訳)

 10.11節を新改訳は、「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ〔ピシデヤのアンテオケ(筆者挿入)〕、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。」と訳しています。
原文の語順では、あなたは しかし 従った(原語の意味の中には理解する、十分に知る、という意もあります) 私の教え ・・・となっています。
パウロに従うことは並大抵のことではないと思います。テモテは、パウロの教えを理解し、パウロの行動に信仰を持って同調し、パウロの計画に信仰を持って参画し、パウロの信仰、寛容、愛、忍耐を見ながらテモテ自身も御霊によってそれらの特性を整えられつつ従ったのでしょう。
ピシデヤのアンテオケでは、この地方一体にパウロが宣教した福音が広まりましたが、迫害されてアンテオケから追い出されました(使徒13:14-50)。
イコニオムでは、ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が主を信じましたが、敵対者がパウロを石打ちにする計画を持っていることを知り、この地から他の地へと移動しました(使徒14:1-6)。
ルステラでは、生まれながら足が萎えていて歩けなかった人を主の力で歩けるようにしました。ここでも良き働きが出来ましたが、パウロに敵対するパウロの追っかけのユダヤ人たちが群衆を抱き込みパウロを石打ちにしました。人の目にはパウロは死んだようになりましたが、主はパウロを生かされました(使徒14:8-20)。
テモテがパウロに従う前、テモテはルステラにいました。テモテは当時、ルステラとイコニオムの主の兄弟たちの間で評判の良い人でありました(使徒16:1.2)。
パウロがテモテを弟子にしたのはルステラにおいてでありました(使徒16:3)から、11節の「アンテオケ、イコニオム、ルステラで私〔パウロ(筆者挿入)〕にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。」(新改訳)というのは、テモテがその地においてパウロと共に迫害を受けたというのではなく、それらのひどい迫害を知りつつも信仰捨てることなく、かえって益々信仰から信仰へと進み、パウロに召された時には、主にあってパウロに従い、その後も従い続けてくれた、という意であろうと思います。
パウロはかつての迫害を回想し、ひどい迫害に耐えてきたものだと思い起こしたのでしょう。そして、主が、それらの一切の迫害から自分を救い出してくださったことを感慨深げに思い、感謝した(書いてありませんが)ことでしょう。

 そして、続く12節に、「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」と記しました。
主を信じる信仰の為に受ける迫害には報酬が伴います。それ故、迫害を受けることは、恵みです。イエス様は、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」(マタイ5:10-12・新改訳)と語られました。また、2コリント5:9.10には、「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(新共同訳)と記されています。また、マタイ25:21.23には、「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」(口語訳)とイエス様のおことばが記されています。

 14.15節には、「あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」とあります。
テモテが神のおことばを学んだのは、①人を通して、②聖書からの両方でありました。
テモテに限らずキリスト者であれば誰でも、聖書が、「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、・・与えうる書物であることを知っている」(15)のです。

 また、聖書は、人が自分の思いで勝手に書いたものが残されたというようなものではなく、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益」なもの(16)であることは、新生して主にあって歩んでいる人であれば、誰でも知り、体験していることだと思います。

 17節には「それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」とあります。
聖書を読むことによって、御霊が、聖書のおことばを用いて、教え、戒め、思いを正しくし、働き人にあらゆる良いわざに対して十分な準備をさせ、完全に整えられたものとするのです。聖書を聖霊に寄らずに、物語として読んでいる人や、歴史書として読んでいる人には上記のようなことを体験することは出来ません。聖書は御霊によって理解出来るものだからです(1コリント2:6-14)。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたのおことばは生きていて力があります。
あなたはおことばによって私たちを作り替えてくださいます。
今日もおことばによって導いてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月16日 (金)

2テモテ3:6-9.13 罪から離れない者たちの悲惨さ

3:6 彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。
3:7 彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。
3:8 ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。
3:9 しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。
3:13 悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。”(口語訳)

 6節には、「彼ら〔こういう人々(新改訳)〕の中には、人の家にもぐり込み〔家々に入り込み(新改訳)〕、そして、さまざまの欲に心を奪われて〔さまざまの情欲に引き回されて(新改訳)〕、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。」(口語訳)とあります。
「こういう人々の中には」の「こういう人々」とは、その前に記されていた、「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」を指しているだろうと思います。一言で言えば、イエス様を「主」としていない人です。表面上は敬虔に見えるような歩みをしているのですがよく観察すると敬虔ではないのです。別の言い方をすれば、神に従わずに、肉に、罪に従った歩みをしているのです。
 「彼ら」は、偽教師を指しています。偽教師は、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女ども、とこの箇所でいわれている家庭(複数)に入り込んでいくのです。

 7節には、「彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。」とあります。
「彼女たち」とは、「多くの罪を積み重ねている愚かな女たち」のことです。常に学んでいても、長く学んでいても、罪を悔い改めて罪から離れることをしない人は、真理の知識に達することが出来ないということを、6.7節から教えられます。
 8節には、「ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。」とあります。
モーセに逆らったヤンネとヤンブレという人が出てきますが、旧約聖書にその名はありません。しかし、パウロもテモテもこの二人のことを知っていたのであろうと思います。注解付新改訳聖書の注によると、「ユダヤ教文書や初期のキリスト教文書によれば、モーセがエジプト王の前で行った奇跡に対抗して同じようなわざを行った、エジプトの魔術師とされている。」とあります。
モーセに逆らったエジプトの魔術師の話は、出エジプト記7.8章に記されています。この魔術師は、神様がモーセを通して行われた蛇の奇蹟(出エジプト7:9-11)やカエルの奇蹟(出エジプト8:1-7)を行うことは出来ました。しかし、その後のぶよの奇蹟から後の奇蹟は何一つできませんでした。ヤンネとヤンブレはモーセに逆らいました。
同じように、偽教師たちや悔い改めずに興味本位で或いは自分の欲望を満たすたす為に真理を求めている人々は、結局、パウロやテモテを通して語られた真理を受け入れず、真理に逆らうのです。パウロはそのような人たちに対して、知性の腐った、信仰の失格者である、と述べました。

 9節には、「しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」(口語訳)とあります。
新共同訳は、「しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。」と訳しています。

 イエス様が地上におられた時、次のようなおことばを語られました。
“8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。”(ヨハネ・新改訳)

 13節には、「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(口語訳)とあります。
新改訳は、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。」と訳しています。

 <お祈り>
天のお父様。 
あなたの御名を崇めます。
真理を真理として受け入れないことの恐ろしさ、罪を示されても悔い改めないことの恐ろしさを覚えます。
常に柔らかい心を保たせていただき、罪を示されたらすぐに悔い改め、主に従い続ける者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月15日 (木)

2テモテ3:1-5 終わりの時代の心の状態

3:1しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。”(口語訳)

 1節に「終りの時には、苦難の時代が来る」(口語訳)とあります。
新改訳は「終わりの日には困難な時代がやって来る」と訳しています。
「終りの時」や「終わりの日」と訳されている「時」「日」の原語(ギリシア語)は、24時間を指すこともあれば、ある期間を指すこともあります。1節の文からすると「期間」であることが分かります。
「終わりの時」は、御子が来られた時から始まっていました。そして現在も終わりの時の期間の中にあるのです。
ヘブル1:2には、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(新改訳)とあり、
1ペテロ1:20には、「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」(新改訳)とあります。
終わりの時が、この様に長いのを、受け入れることが出来ない人もいるかもしれませんが、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(2ペテロ3:8・口語訳)ということなのです。

 さて、終わりの時には、どのような心の状態になるのか、また、その心から発する行動はどのようなものであるのか、ということについて2-5節は教えてくれています。

 また、イエス様は、イエス様が地上に再臨される時が近づくにつれて、地震や国同士の敵対関係(悪感情)や戦争や飢饉(異常気象や戦争で悪化します)などが起こると共に迫害も激しくなりますよ、と教えてくれています。更にこれらのことを産みの苦しみに喩えています。陣痛の痛みは出産に向かって段々と間隔が短くなっていきます。また痛みも強くなっていきます。イエス様の譬えが教えてくれているように、主の地上再臨{神の国が産み出されること(出産)}が近づくにつれて2テモテ3:2-5に記されているような人心の荒廃はひどくなり、災害や戦争や敵対関係もひどくなるのでしょう。

 それでは、終わりの時の人の心や行動を2-5節より眺めてみたいと思います。口語訳を基本にしつつ、他の聖書の訳を参照したいと思います。
3:2その時、人々は自分を愛する者〔利己的になり(岩波訳)〕、金を愛する者〔拝金主義者になり(岩波訳)〕、大言壮語する者〔ほらを吹き(新共同訳)〕、高慢な者〔傲慢になり(岩波訳)、不遜な者(新改訳)〕〕、神をそしる者〔冒涜的になり(岩波訳)、神をけがす者(新改訳)、神をあざけり(新共同訳)〕、親に逆らう者〔両親に従わない者(新改訳)〕、恩を知らぬ者〔感謝の気持ちをなくし(岩波訳)〕、神聖を汚す者〔神を畏れなくなり(新共同訳)、汚れた者(新改訳)、不敬神になり(岩波訳)〕、
3:3無情な者〔情け知らずの者(新改訳)〕、融和しない者〔和解しない者(新改訳)〕、そしる者〔中傷し(新共同訳)、誹謗し(岩波訳)〕、無節制な者〔自制をなくし(岩波訳)〕、粗暴な者〔残忍になり(新共同訳)〕、善を好まない者〔善を嫌い(岩波訳)〕、
3:4裏切り者〔人を裏切り(新共同訳)〕、乱暴者〔無謀になり(岩波訳)、向こう見ずな者(新改訳)〕、高言をする者〔のぼせ上がり(岩波訳)、慢心する者(新改訳)、思い上がり(新共同訳)〕、神よりも快楽を愛する者、
3:5信心深い様子をしながらその実を捨てる者〔見えるところは敬虔であってもその実を否定する者(新改訳)、敬虔の装いをしていながらその敬虔の力を否む者(岩波訳)〕となるであろう。”(口語訳)
 パウロは「こうした人々を避けなさい。」(口語訳)、「このような者どもから遠ざかりなさい。」(岩波訳)と述べています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
まさに今の時代は、あなたが啓示してくださったことが加速しているように思えます。
どうか、私たちが救われてほしいと祈っている人々を顧みてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月14日 (水)

2テモテ2:20-26 主人にとって有益な器(きよめられた器)

2:20大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。
2:21もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。
2:22そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。
2:23愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
2:24主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
2:25
反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
2:26一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。”(口語訳)

 20節には、「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。」とあります。
パウロは、神の教会を大きな家に、教会員を器に喩えています。

 21節には、「もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」とあります。
「卑しいものを取り去って自分をきよめる」とは、聖き歩みのことであり、偽りの教えを完全に捨て去って真理のみことばに立脚すること及び22-25節に記されている内容を指していることと思います。
真理のみことばに立って歩んでいる人は、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになるのです。

 22-25aには、「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。」とあります。
テモテに対して述べられている文章ですが、主に仕えるすべての者にとって、大切なことを教えてくれていると思います。
ⓐ情欲を避けること
ⓑ正しい生活を追い求めること
Ⓒ主と主のおことばに信を置くこと
ⓓ神を愛し、人を愛すること
ⓔ平和を追い求めること
ⓕ愚かで無知な議論を避けること
ⓖ争わないこと
ⓗ教えるにあたって:だれに対しても親切であって、よく教え(真理のみことばをまっすぐに解き明かし)、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くこと
と記されています。

 25b-26節の新改訳には、「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」とあります。
パウロは、テモテに対して、〔立場上{神の法律上}は既にキリストの血によって全く聖とされている{ヘブル10:10}が(筆者の挿入)〕〕実質的にも聖く整えられた歩みをし、即ち上記に述べられたように整えられて、偽教師の偽りの教えに惑わされた人や偽教師に相対したとき、もしかすると、神は、偽りの教えに捕らえられている彼らに、悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださり、悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめることが出来て、悪魔のわなから逃れる場合もあるかも知れない、と述べたのでした。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
実質的な聖さは主が豊かに働くことが出来るための基礎ですから聖き歩みをし続けていくことが出来ますよう助けていてください。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

2016年9月13日 (火)

2テモテ2:14-19 恥じることのない働き人として自分を神にささげるように

2:14 あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。
2:15 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。
2:16 俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、
2:17 彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。
2:18 彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。
2:19 しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。”(口語訳)

 ヒメナオとピレトや他の偽教師たち(17)は、俗悪な無駄話、即ち真理のことばに敵対するような話を熱心にしていたのでしょう(16)。その偽りの教えの内容は色々あったでしょうが、その中には、復活はすでに起こった、というものもありました(19)。実はこの当時、偽教師たちは、肉体を悪と見なし、肉体の復活を否定したのです。

 話が横道にそれますが、テモテはエペソに遣わされていましたが、エペソではなくコリント教会においても、死者の復活はない(1コリント15:12)と言っている人たちがいました。

 さて、話を元に戻します。
偽教師たちが、すでに復活は起こったというとき、それは霊における新生(再生)を意味していたのではないかと思います。私がその時に地上にいたのではないので、断言することは出来ませんが。即ち、霊のよみがえりのことを言ったのではないかと想像します。コロサイ2:12の「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(新改訳)やコロサイ3:1の「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」(新改訳)のおことばにあるように。これらの「よみがえらされた」という聖句は、救われたときの新生を表しているのです。そして、正しい復活の教えは、体が復活するということでした。それは、1テサロニケ4:16に、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、」(新共同訳)と記されてある体の復活です。この体は、生まれながらの体とは異なり、永遠性を持った霊の体のことをいっています。

 偽りの教えを放置しておくと、偽りの教えはがんのように腐れひろがるもの(17)なので、真理の言葉を正しく教え(15)、真理の言葉を思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じるようにとパウロはテモテに命じました(14)。また、「俗悪な無駄話に引き込まれることの無いように」(16)、また、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(15・新改訳)と述べたのでした。
「熟練した者」の原語の意は、「適格者と認められた者」の意です。新共同訳は「適格者と認められて神の前に立つ者」と訳出しています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
テモテに「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」と勧められているのと同じように、私も励むことが出来ますように。
主イエス・キリスト様の御名によってお祈りします。アーメン

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