民数記

2019年6月 6日 (木)

箴言29:19-23 主はへりくだる人とともに住んでくださる

箴言29:19を口語訳は「しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っていても、心にとめないからである。」と訳し、
リビングバイブルは「右から左に聞き流す者は、しかるだけでなく、懲らしめなければ言うことを聞きません。」と意訳しています。
「しもべ」と訳された語の原語は「エベド」で、使用人、召使い、男奴隷、等の意があります。
恐らくこの聖句は反抗的な男奴隷のことを述べているのだと思います。
意訳しているリビングバイブルの内容は、現代においても通じるように訳されていると思いますが、現代では、むち打ちなどはもってのほかなので、鞭や杖を用いない制裁を科す、ということになるのでしょう。

箴言29:20を岩波訳は「早口でしゃべりまくる人を、お前は見たか。彼よりも愚か者の方に〔まだ(訳者挿入)〕望みがある。」と訳し、
聖書協会共同訳は「慌てて語る者を見たか。愚かな者のほうがその人より希望がある。」と訳し、
新共同訳は「軽率に話すものを見たか。彼よりは愚か者にまだ望みがある。」と訳しています。
「早口でしゃべる」(岩波訳)、「慌てて語る」(聖書協会共同訳)、「軽率に話す」(新共同訳、新改訳)と訳されたことばの原語は二語から成っていて「アッツ ビドゥヴァラヴ」で、早口で話す、急いで話す、慌てて話す、等の意になります。即ち、よく考えもせずに軽率に話す人のことでしょう。
焦っている状態のときor焦り易い人は、慌てて話したり、軽率に話し易いと思います。慌てると物事を深く考えることができなくなります。主に在って、落ち着いて、思いを巡らして、ということが大切なのだろうと思います。

箴言29:21を新改訳2017は「自分のしもべを幼い時から甘やかすと、ついには手に負えない者になる。」と訳し、
リビングバイブルは「使用人を子供のころから甘やかすと、息子みたいに大きな顔をするようになります。」と意訳しています。
「しもべ」の原語は「エベド」で、その意味は前述の19節に書いてあります。
この箇所の聖句と少しずれますが、いかなる場合にも優しくすることが愛、どのような時にも親切にすることが愛、甘やかすことが愛、と勘違いしている人がときにいます。神様の御性質に愛がありますが、神様の愛は、人をダメにする(わがままにする、高慢にする、怠け者にする)愛ではありません。人を建てあげる愛です。愛の中には、親切も優しさもありますが、厳しさもあります。

箴言29:22を口語訳は「怒る人は争いを起こし、憤る人は多くの罪を犯す。」と訳し、
岩波訳は「怒りっぽい人は、喧嘩を引き起こす。癇癪の持ち主には、過失が多い。」と訳しています。
日本でも「短気は損気」と言われてきました。(損気の気は語呂合わせて、短気は損、ということです。)
怒りっぽい性格というのがあると思います。それは赤ちゃんの時から見られるからです。しかし、この性格も主は変えることが出来ます。

箴言29:23を聖書協会共同訳は「人間の高ぶりはその者を低くし、心の低い人は誉れを受ける。」と訳しています。
「心」と訳された語の原語は「ルーアハ」で、「心」の意もありますが、多くは「霊」の意で訳されます。「ルーアハ」には、風、息、心、霊、生命、怒り、・・等の意があります。
人との関わりにおいて、高慢な人は好かれません。
日本でも、人格者ほど謙遜である、という譬えとして、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」と言われます。
神様との関わりにおいて、
イザヤは主の御言葉として「わたし〔聖なる主(筆者挿入)〕は、高く聖なるところに住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」と記しています(イザヤ57:15・新改訳2017)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたに対してへりくだって歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月20日 (水)

民数記36章 結婚と相続地に関する問題の解決

 ヨセフの子孫の氏族のうち、マナセの孫で、マキルの子であるギルアデの子孫の家長たちが、モーセとイスラエルの人々の家長である指導者たちのもとに来ました(1)。モーセたちのもとに来た理由は、結婚と存続地に関する問題でありました。

 訴えの内容は、2-4節に、
“36:2 ・・「イスラエルの人々に、その嗣業の地〔相続地(新改訳)〕をくじによって与えることを主はあなたに命じられ、あなたもまた、われわれの兄弟ゼロペハデ〔ツェロフハデ(新改訳)〕の嗣業〔相続地(新改訳)〕を、その娘たちに与えるよう、主によって命じられました。
36:3 その娘たちがもし、イスラエルの人々のうちの他の部族のむすこたちにとつぐならば、彼女たちの嗣業〔相続地(新改訳)〕は、われわれの父祖の嗣業〔相続地(新改訳)〕のうちから取り除かれて、そのとつぐ部族の嗣業〔相続地(新改訳)〕に加えられるでしょう。こうしてそれはわれわれの嗣業〔相続地(新改訳)〕の分から取り除かれるでしょう。
36:4 そしてイスラエルの人々のヨベルの年がきた時、彼女たちの嗣業〔相続地(新改訳)〕は、そのとついだ部族の嗣業〔相続地(新改訳)〕に加えられるでしょう。こうして彼女たちの嗣業〔相続地(新改訳)〕は、われわれの父祖の部族の嗣業〔相続地(新改訳)〕のうちから取り除かれるでしょう。」”(口語訳)とあります。

 3.4節を、注解付新改訳聖書の注は、更に分かり易く、「
マナセのかしらたちの訴えは、相続地を受け継いだ娘が他部族の者と結婚した時、彼女自身が属していた部族の相続地の一部は婚家の部族のものとなるので、前の部族の相続地は減ってしまうということである。ヨベルの年(七年に一度の安息の年を七倍した五十年目に守られた開放の年)には、売られた土地は、無償でもとの所有者のものとなる。しかし、結婚して女性が持つ所有地が他の部族に移った場合は、レビ25:23-28の律法は適用されない。ヨベルの年になってももとの部族の手には戻らず、かえってとつぎさきの部族のものと確認される。それは、一つの部族の相続地を他の部族に移してはならない(民数記26:55)という律法に矛盾するのではないか、というのが彼らの質問の趣旨である。」と述べています。

 ギルアデの子孫の家長たちの訴えに対するモーセの回答は、ヤハウェ(主)から受けた回答でした。それは5-9節に、
“36:5 モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。
36:6 ゼロペハデ〔ツェロフハデ(新改訳)〕の娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち『彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない。
36:7 そうすればイスラエルの人々の嗣業相続地(新改訳)〕は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業相続地(新改訳)〕をかたく保つべきだからである。
36:8 イスラエルの人々の部族のうち、嗣業相続地(新改訳)〕をもっている娘はみな、その父の部族に属する一族にとつがなければならない。そうすればイスラエルの人々は、おのおのその父祖の嗣業相続地(新改訳)〕を保つことができる。
36:9 こうして嗣業相続地(新改訳)〕は一つの部族から他の部族に移ることはなかろう。イスラエルの人々の部族はおのおのその嗣業相続地(新改訳)〕をかたく保つべきだからである』」。”(口語訳)と記されています。

 この回答を得て、ツェロフハデの娘たちは、モーセのことば即ち神の命令に従いました。10-12節には、
“36:10 そこでゼロペハデ〔ツェロフハデ(新改訳)〕の娘たちは、主がモーセに命じられたようにした。
36:11 すなわちゼロペハデ〔ツェロフハデ(新改訳)〕の娘たち、マアラ〔マフラ(新改訳)〕、テルザ〔ティルツァ(新改訳)〕、ホグラ、ミルカおよびノアは、その父の兄弟のむすこたちにとついだ。
36:12 彼女たちはヨセフの子マナセのむすこたちの一族にとついだので、その嗣業相続地(新改訳)〕はその父の一族の属する部族にとどまった。”(口語訳)と記されています。

 民数記の最後のことばは、13節に、「これらはエリコに近いヨルダンのほとりの〔ヨルダン川の対岸にある(新共同訳)〕モアブの平野〔草原(新改訳)〕で、主がモーセによってイスラエルの人々に命じられた命令とおきてである。」(口語訳)と記されています。
「これらは」と複数形なので、36章の命令とおきてだけではなく、イスラエルは、民数記22:1でモアブの草原に宿営したとありますから、それ以後の命令とおきてはすべてモアブの草原で語られたことが分かります。そして、申命記もモアブの草原で語られました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは私たちを愛する故に「・・・・のように歩みなさい」と命じられます。
それは、聖なるあなたの御名が崇められるためであり、私たちの幸せの為であることを覚えます。
御霊によって、あなたのご命令に従って歩み続けることができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月19日 (火)

民数記35章 レビ人の町、過失致死罪の者の逃れの町

 以前から書いていますように、この箇所がヤハウェ(主)から与えられた場所は、モアブの草原でした。この場所は、ヨルダン川の東にあり、ヨルダン川を越えればエリコ(現在のヨルダン川西岸で、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmの所)に近い所でした。その場所で、ヤハウェ(主)は、レビ人の町や逃れの町についての命令を、イスラエル人に語るようにと、モーセに与えたのです。ここで語られた内容は、イスラエルがカナンの地に入った後の為のものでした。
①レビ人に与える町と町の周りの放牧地は、町と放牧地を一対として、全部で48でした(2.7)。
②レビ人の町{千キュビト(約440m)の正方形}の周りにはレビ人の放牧地(町を中心にして東西南北へ各千キュビトの広さです)があります。ですから東西南北の各一辺は3000キュビト(約1320m)となります(4.5)。
③これらレビ人に与えられる町と放牧地は、イスラエルの各部族から供出され、各部族の相続地の大きさに応じて割り当てられました(8)。
④放牧地は、レビ人が飼う家畜やその他の動物の為のものでした。
⑤48のレビ人の町の内、6つは「逃れの町」でした(6)。
以上が1-8節に記されている内容です。

 9節からは逃れの町と過失による殺人に関することが述べられています。
①逃れの町は6つですが、そのうちの3つはヨルダン川の東側、残りの3つはカナンの地に設けるように命じられました(14)。
②逃れの町の制定は、過失による殺人を犯した者がそこに逃れることができるためのものでした(11)。過失による殺人であっても裁きを受けねばなりませんでしたが、裁きを受ける前に復讐者によって殺されないために、逃れの町は設けられました(12)。
③過失による殺人について、リビングバイブルの22.23節は、「わざと物を投げたのでも、怒って石を投げたのでもなく、投げた本人が人に当てようなどとは夢にも考えず、敵をやっつけようと思ったのでもないのに、たまたまそれに当たって人が死んだ場合」(抜粋)と記しています。
④過失による殺人に該当しない殺人は、故意に、或いは敵意をもってなされるものであり死刑となります(16-18.20.21)。故意による殺人を犯した者は、復讐する者によって殺されました。
⑤「復讐する者」が殺人者を殺します(19)。復讐する者とは、注解付新改訳聖書の注によると、「殺された者の近親者、報復の義務のある者。」と記されています。
復讐する者は、過失により殺人を犯した者が、もし逃れの町に入っていない場合、或いは過失の罪の罰から放免される前に逃れの町の外に出ているときには、殺しても構わなかったのです。罪の罰から放免されるのは、その殺人があった時の大祭司が死んだ時でした。(11.12.24-28)
⑥過失により殺人を犯した者は、大祭司が死んだ後は、自分の所有地に帰ることができました(28)。即ち完全に自由になったのです。旧約の大祭司は、真の大祭司であるキリスト予型です。イエス・キリスト様は、十字架上で、死の直前に、(ギ)「テテレスタイ」と言われました。贖いが、「完了した」「成し遂げられた」という意です。イエス様は御自身の死によって私たちに自由をもたらしてくださったのです。

 30節には、死刑判決、執行に必要な証人の人数は、複数人必要であり、一人では無効であることが記されています。

 31節には、殺人罪による死刑という罰則は、お金で解決されてはならず、必ず死刑が執行されなければならない、ということが書いてあります。

 32節には、過失により人を殺してしまった者は、時の大祭司の存命中に、贖い金を払うことによって自分の所有地に戻ることはできない、ということが記されています。

 33節には、「あなたがたはそのおる所の地を汚してはならない。〔なぜなら(筆者挿入)〕流血は地を汚すからである。地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければあがなうことができない。」(口語訳)とあります。創世記4章のアベルとカインの記事、カインがアベルを殺してしまった後に神様が語られた内容を思い起こします。神様は殺人者カインに、地は呪われ、あなたも呪われている、と言われたのです。またレビ17:11には、「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。」(口語訳)ともありました。ヤハウェ(主)は殺人がなぜいけないのかについて、ご自身と結び付けて、「あなたがたは、その住む所の地、すなわちわたしのおる地を汚してはならない。主なるわたしがイスラエルの人々のうちに住んでいるからである。」(口語訳)と語られました。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
故意による殺人、敵意をもっての殺人がいけないことは当然のことですが、イエス様は、心の中で、「あの人がいなければ良いのに」と思うことも殺人と変わらないことを教えてくださいました。そのような心になってしまうことがないようお守りください。
また、過失によって、他者を傷つけてしまうことからもお守りください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月18日 (月)

民数記34章 ヤハウェ(主)が分け与えて下さる地

 1.2節には、「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、こう言いなさい。あなたたちがカナンの土地に入るとき、嗣業〔相続地(新改訳)〕としてあなたたちのものになる土地は、それぞれ境で囲まれたカナンの土地であって、それは次のとおりである。」(新共同訳)とあります。
嗣業(しぎょう)という語はあまり使いませんが、聖書にはよく出てきます。嗣業は、業(わざ)をつぐ、という意になりますが、業は普通、仕事や技術やいつも行う事柄を指しますが、ここでは土地について用いています。即ち、土地を受け継ぐという意味です。
詩篇24:1に、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(新改訳)とあるように、万物の所有者はヤハウェ(主)なる神です。ですから、カナンの地はカナン人のものではなく、主のものであり、主がイスラエルにカナンの地を与えたのです。エルサレムもその中に含まれます。

 3-15節は相続地の境界線が記されています。この箇所は12部族に分割されたカナンの地図をご覧になりながら聖書を読むに限ります。
土地の分割はくじ引きで決めなさいと、13節に、「これはあなたがたが、くじによって継ぐべき地である。主はこれを九つの部族と半部族とに与えよと命じられた。」(口語訳)とあります。くじ引きの中に主のみ旨が表されることは、箴言16:33に、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」(新改訳)とあります。祈りもせずにくじを引くことはないと思います。ヤハウェ(主)のみ旨が表されるようにと①祈り、②くじ、の順であったと思います。

 16-29節は、イスラエルの民が相続地であるカナンの地を分配するにあたっての責任者として、ヤハウェ(主)はモーセを通して、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアを指名し(17)、その下に各部族の族長10人を指名したことが記されています。族長がなぜ10人かというと、ルベン族とガド族とマナセの半部族はヨルダン川の東側に相続地を与えられていたからです(13-15、32:33)。

 話は変わりますが、
私たちキリスト者に対しては、「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人にすぎません。ほんとうの故郷は天にあるのです・・・・」(1ペテロ2:11・リビングバイブル)と記されています。
そして、ヨハネ14:1-3には、「どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。神を信じ、何もかも、わたしに任せなさい。父の住んでおられる所には、家がたくさんあります。もしなかったら、はっきり言っておいたでしょう。実を言えば、あなたがたを迎える家を準備しに行くのです。すっかり準備ができたら、迎えに来ます。わたしがいる所に、いつでも、いられるようにしてあげるためにです。」(リビングバイブル)とイエス様は言われました。

 余談になりますが、私は、もう駄目だ
、と思ったことがあります。その時、主は、「神を信じ、私を信じなさい。」と御声をかけてくださいました。「その通りだ」と私は信じました。直ちに平安が来ました。私が、もう駄目だ、と思うより前に、主は手を打ってくれていたことが後に分かったのです。主は、「どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。神を信じ、何もかも、わたしに任せなさい。」とおっしゃいます。
「主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる・・。」(詩篇4:3抜粋・新改訳)

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
今日もすべてのことをあなたにゆだね、あなたの導きに従ってことを行い、安らいで歩む一日でありますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月17日 (日)

民数記33:50-56 カナンの地を相続するにあたっての命令

 50節には、「エリコに近いヨルダン川の〔カナンの地の(筆者挿入)〕対岸にあるモアブの平野〔草原(新改訳)〕で、主はモーセに仰せになった。」(新共同訳)とあります。

 民数記22:1には、「イスラエル人はさらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した。」(新改訳)とあり、この時からイスラエルの民はモアブの平野におり、申命記に記されている内容もこの場所で聞き、ヨシュア記3.4章でヨルダン川を渡りますが、ヨルダン川を渡る前まではモアブの平野にいたのです。申命記34:8には、「イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。」(新共同訳)とあります。モーセはヨルダン川を渡ることなく死んだのです。
ヤハウェ(主)が言われたように(民数記20:12)。

 50-53節には、
“33:50 エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主はモーセに仰せになった。
33:51 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、
33:52 あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。
33:53 あなたたちはその土地を得て、そこに住みなさい。わたしは、あなたたちがそれを得るように土地を与えた。”(新共同訳)とあります。

 イスラエルが、カナンの地に入ってなすべきことは、52節によると、①カナンの地の住民を追い払うこと、②カナンの地で偶像礼拝されている石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊することでした。
これらの命令は、天地の所有者である主なる神(申命記10:14)の命令でした。カナンの先住民が追い出されるのは、罪が満ちたからでした。そのことは創世記15:13-16に預言されていました。
イスラエルがカナンの地を得たのは、ヤハウェ(主)の約束の成就でした。所有地に対するヤハウェ(主)の約束は、アブラハムに始まり、イサク、ヤコブと継承されました。創世記13:14-17、15:18-21、17:8、26:3、28:13、35:12に記されています。

 話が横道にそれますが、現代、エルサレムはイスラエルの土地ではない、とする人々、国々が多くいますが、エルサレムを含めたカナンの地は天地の所有者であるヤハウェ(主)なる神様がイスラエルに与えたものです(貸し与えた、とする方が良いのかもしれません)。やがて主が決着をつけられます(ゼカリヤ12:1-8)。

 話を元に戻します。
52節に記されている命令を守らなかったとしたらどうなるのか、それは55.56節に、「言うとおりに住民を追い払わないと、あとで問題が起こる。残った者たちが、目に入ったごみや、わき腹にささったとげのように、絶えず悩みの種となる。そればかりではない。彼らを滅ぼそうとしたように、今度はわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がおまえたちを滅ぼすだろう。」(リビングバイブル)と記されています。

 イスラエルの歴史を読んでいくと、55.56節が実現してしまったことが分かります。
しかし、同時に、ヤハウェ(主)のアブラハム、イサク、ヤコブへの契約もありますから、ヤハウェ(主)は、イスラエルをバビロンの捕囚から解放してイスラエルをカナンの地に連れ戻しました。
再度AD70年にイスラエルは世界に散らされましたが、1948年にイスラエルは国を再興したのです。偶然そのようになった、という考えを排除するためにも、そのようになることの預言が数多くなされました。預言はすべて成就していったのです。

 54節には、相続地の割り当てについて、「あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。」(新改訳)と記されています。これは民数記26:53-56で語られていたことの繰り返しです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
約束を必ず守られるあなたの御名を賛美します。
あなたの約束、あなたのおことばの上にしっかり立って
、歩み続ける者であらせてください。
あなたのおことばは真実です。
あなたの御名を賛美し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月16日 (土)

民数記33:1-49 出エジプト後の旅程のまとめ3(41-49)

 モーセの姉のミリアムは、出エジプト後40年目の第1の月の1日にツィンの荒野のカデシュで死にました(民数記20:1)。

 モーセの兄アロンは、出エジプト後40年目の第5の月の1日に、123歳で、ホル山で死にました(民数記20:22-29、33:38.39)。

 41.42節には、「さて彼らはホル山から旅立ってツァルモナに宿営し、ツァルモナから旅立ってプノンに宿営し、」(新改訳)とあります。
民数記21:4には、「彼らはホルさんから、エドムの地を迂回して、足の海の道に旅立った。」(新改訳)と記されています。その所で、またもやイスラエルの人々が、ヤハウェ(主)とモーセに逆らった故に、ヤハウェ(主)は、燃える蛇を送りました。燃える蛇にに咬みつかれて死んだ人も多かったのですが、青銅の蛇を仰ぎ見た人は助かった、という出来事が起こりました。これは、神のみ旨に逆らう人即ち罪びとが、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見れば生きる、即ちイエス様を救い主として信じ仰ぎ見れば生きるということの予型であったのです(ヨハネ3:14.15)。

 ヨハネ3:14-16には、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新改訳)と記されています。

 41.42節を、新聖書注解は、“ツァルモナの位置が分からないが、いずれにしろ、「ホル山から、エドムの地を迂回して、足の海の道に旅立った。」(民数記21:4)となっているので、彼らはまず南に下り、エツヨン・ゲベル近くまで南下し、次いでエドムを避けながらプノンまで北上したようである(申命記2:8)。プノンは、現在のフェナイン(死海の南約36キロの所にある)である。当時はエドムの町で、古代において銅の産地として栄えていたことはほぼ確実。燃える蛇の事件(民数記21:4)があったのは、恐らくこの辺りであろう。”と記しています。

 43-47節には、「プノンから旅立ってオボテに宿営し、オボテから旅立ってモアブの領土のイエ・ハアバリムに宿営した。イイムから旅立ってディボン・ガドに宿営し、ディボン・ガドから旅立ってアルモン・ディブラタイムに宿営した。アルモン・ディブラタイムから旅立ってネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、」(新改訳)とあります。
新聖書注解には、“ディボン・ガドは、アルノンの北にあり、現在のディバンである。アバリムの山々はアルノンの北、死海の東岸に沿った高台。”とあります。
民数記21:10-13には、「イスラエル人は〔恐らくプノンから(筆者挿入)〕旅立って、オボテで宿営した。彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人〔アモリ人(新共同訳)〕との間の、モアブの国境であるためである。」(新改訳)とあります。そして、民数記21:21-32には、エモリ人〔アモリ人(新共同訳)〕の王シホンを打ち破ったことが記されていました。

 48.49節には、「アバリムの山々から旅立ってエリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原に宿営した。ヨルダンのほとり、ベテ・ハエシモテからアベル・ハシティムに至るまでのモアブの草原に彼らは宿営した。」(新改訳)とあります。
注解付新改訳聖書の注には、「ベテ・ハエシモテは死海東北隅の北東5kmの所、アベル・ハシティムはシティムとも呼ばれ、ヨルダン〔川(筆者挿入)〕の東側約12kmの所。」とあります。また注解付新改訳聖書の注には、「出発地のラメセス(5)と到着地のモアブの草原を除くと、宿営地はちょうど40となる
。意図的にそうしたのであろう。」とあります。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
色々なことがありましたが、あなたは約束を果たされるお方ですから御名を崇めます。
私たちをも、同じように、あなたの約束に基づいて、天国まで導いてくださいますから感謝します。
あなたのおことばを単純に信じて御霊によって歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月15日 (金)

民数記33:1-49 出エジプト後の旅程のまとめ2(16-40)

 16節には、「シナイの荒野から旅立ってキブロテ・ハタアワに宿営した。」(新改訳)とあります。
キブロテ・ハタアワは、「欲望の墓」or「貪欲の墓」の意で、シナイ山の北東30km位の所にあります。この時の出来事は、民数記11章に記されています。イスラエルの民は、ヤハウェ(主)によって、衣食住を確保されていました。しかし、シナイ山のふもとを出発し、少し前進した所のキブロテ・ハタアワの手前のタブエラでは、もう不平不満でいっぱいであったのです。そのためヤハウェ(主)から、お叱りを受けました。そして、それに懲りることなく次のタブエラでは、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4-6・新改訳)と大声で泣いて言ったのです。そこには平素ヤハウェ(主)が与えて下さっておられるものに対する感謝はなく、文句ばっかりでした。結局、食べきれないほどのうずらの肉が与えられますが、同時にヤハウェ(主)の裁きによって疫病で打たれたのです。貪欲のために、疫病で死んだ人たちは、その所に葬られたのです。それでこの地をキブロテ・ハタアワと呼んだのです(民数記11:33.34)。私たちキリスト者も恵み慣れをして、恵みが与えられるのが当たり前で、自分の欲望がかなえられない時に、神様に文句ばかりを言うようになると、お仕置きを受けるかもしれません。私の想像ですが、ヤハウェ(主)が与えて下さっておられるものに対して、先ず感謝をささげた後、時々お肉も少し食べたいのですがお願いできますか、とヤハウェ(主)に頼めば、ヤハウェ(主)は喜んで与えて下さったのではないかと思います。

 17節には、「キブロテ・ハタアワから旅立ってハツェロテに宿営し、」(新改訳)とあります。
この所では、モーセの姉ミリアムとモーセの兄アロンがモーセに逆らいました。きよめられていない思い(肉の思い)の故に、主の主権に触れてしまったのです。その為、ミリアムはツァラアトになり、雪のように白くなってしまったのです。しかし、モーセのとりなしによって癒されました。このことは民数記12章に記されていました。
ヤハウェ(主)は主権者です。私たち、キリスト者も、イエス・キリスト様を主とせずイエスは私の救い主、という捉え方で自分が主になっていると、とんでもないことになります。そのうち信仰が分からなくなるかもしれません
。イエス・キリスト様を主とし、自分を主イエス様の従者の立場に置かないとそのうちにとんでもないことになります。「イエスを主と告白する者」が救われるのです(ローマ10:9)。1コリント12:3には、「・・神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(口語訳)ともあります。

 18節には、「ハツェロテから旅立ってリテマに宿営した。」(新改訳)とあります。
リテマがどこであったかは分かりません

民数記12:16には、「その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。」(新改訳)とあります。そして、民数記13.14章には、カナンの地を探らせに12人の斥候を遣わしたこと、カレブとヨシュア以外のイスラエルの民は皆不信仰であったこと、それ故、神様の裁きのことばがあったこと等が記されていました。それ故、出エジプトし、シナイ山を出発したのが1年と少しの時であったのに、再度、カナンの地を目指して出発するまでは、約38年間という年数が無駄になったのです(無駄ではないという人も多くいます)。20歳以上の人たちが皆死ぬまで、荒野で沈滞した生活を余儀なくされたのです。モーセの姉ミリアムは、出エジプト後40年目の第1の月にツィンの荒野の南部にあるカデシュで死にました(民数記20:1)。ミリアムの死後、イスラエルは進軍を始めました。40年目と雖も、この時はモーセとアロンはまだ生きていました。

 民数記33:19-36に宿営地として記されている場所は、ほとんどが特定されていないそうです。民数記33:19-36には、
“33:19 リテマから旅立ってリモン・ペレツに宿営し、
33:20 リモン・ペレツから旅立ってリブナに宿営した。
33:21 リブナから旅立ってリサに宿営し、
33:22 リサから旅立ってケヘラタに宿営し、
33:23 ケヘラタから旅立ってシェフェル山に宿営した。
33:24 シェフェル山から旅立ってハラダに宿営し、
33:25 ハラダから旅立ってマクヘロテに宿営した。
33:26 マクヘロテから旅立ってタハテに宿営し、
33:27 タハテから旅立ってテラに宿営し、
33:28 テラから旅立ってミテカに宿営した。
33:29 ミテカから旅立ってハシュモナに宿営し、
33:30 ハシュモナから旅立ってモセロテに宿営した。
33:31 モセロテから旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し、
33:32 ベネ・ヤアカンから旅立ってホル・ハギデガデに宿営した。
33:33 ホル・ハギデガデから旅立ってヨテバタに宿営し、
33:34 ヨテバタから旅立ってアブロナに宿営し、
33:35 アブロナから旅立ってエツヨン・ゲベルに宿営した。
33:36 エツヨン・ゲベルから旅立ってツィンの荒野、すなわちカデシュに宿営し、”(新改訳)と記されています。

 続く37-40節には、
“33:37 カデシュから旅立ってエドムの国の端にあるホル山に宿営した。
33:38 祭司アロンは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
33:39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。
33:40 カナンの地のネゲブに住んでいたカナン人、アラデの王は、イスラエル人がやって来るのを聞いた。”(新改訳)と記されています。
イスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日にアロンはホル山で死んだのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに
不平不満ばかりを言って叱られてしまうのではなく、いつも、「すべてのことについて、私たちの主イエスの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:20・新改訳)とあるように、いつもあなたに感謝しつつ歩む者であらせてください。
いつも感謝しつつ、み旨に叶った必要なものを求める者であらせてください。
イエス様が、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13・新改訳)と語ってくださっていますから。
御名を
崇めつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月14日 (木)

民数記33:1-49 出エジプト後の旅程のまとめ1(1-15節)

 1.2節には、「モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」(新改訳)とあります。
モーセは、出エジプトから現在の地に至るまでを回顧し、感謝や反省等をしながら、記していったことと思います。私たちも、救われる前のこと、救われたときのこと、救われた後のこと等を回顧しながら、主に感謝をささげることは良いことだと思います。

 3.4節には、「彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。エジプトは、彼らの間で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らの神々にさばきを下された。」(新改訳)とあります。
これらのことは、出エジプト記12.13章に詳しく書いてありました。

 5節には、「イスラエル人はラメセスから旅立ってスコテに宿営し、」(新改訳)とあります。
ラメセスは、カイロの北東120kmのあたりであり、イスラエルの出発点でした。

 6.7節には、「スコテから旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。エタムから旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテのほうに向きを変え、ミグドルの前で宿営した。」(新改訳)とあります。
この所はまだ紅海を渡る前ですが、主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもってイスラエルの民を守り、導かれたのです。私たちキリスト者も、肉の目では見えませんが、主は守り導かれています。

 8節には、「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。」(新改訳)とあります。
この箇所に出エジプト記14章に記されている「紅海渡渉」が出てきます。
「マラ」は「苦しみ」の意です。ここの水は苦かったのですが、モーセがヤハウェ(主)に言われたとおりにすると、水が甘くなったのです(出エジプト15:25)。このところで、ヤハウェ(主)は、「私はヤハウェ(主)、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)と語られました。

 9.10節には、「彼らはマラから旅立ってエリムに行った。エリムには十二の泉と、七十本のなつめやしの木があり、そこに宿営した。ついでエリムから旅立って葦の海のほとりに宿営し、」(新改訳)とあります。
この区間は申し分なくウキウキしていたかもしれません。私たちの信仰生活も同じようにハッピーの時もあれば、主よー、と叫ばなければやっていられない時もあります。しかし、全て主のみ手の内にあるのです。

 11節には、「葦の海から旅立ってシンの荒野に宿営した。」(新改訳)とあります。
シンの荒野で、イスラエルの民は、肉鍋をしたいと不平を言ったのです。ヤハウェ(主)は、この時からマナを与えて下さいました。また、肉もくださいました。出エジプト記16章に記されています。マナはイスラエル人の食物でした。またマナはイエス・キリスト様の予型の一面でもありました。マナはイエス・キリスト様を指し示していたのです(ヨハネ6:48-51)。イエス様は神のことばであり、イエス様を心に受け入れると永遠に生きることができるのです。イエス様を心に受け入れることを、イエス様を信じると言います(ヨハネ1:12、黙示録3:20)。

 12-14節には、「シンの荒野から旅立ってドフカに宿営し、ドフカから旅立ってアルシュに宿営し、アルシュから旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。」(新改訳)とあります。
レフィディムで飲み水がないと言って騒いだ出来事は出エジプト17:1-7に記されています。この時、モーセは主の命により、岩を杖で打って水を出しました。後にパウロは、この岩はキリストである(1コリント10:4)と解き明かしました。イエス様は命の水でもあります。私たちはみことばによって霊的渇きをいやすのです。イエス様の語られるおことばは霊であり命です(ヨハネ6:63)。
レフィディムではアマレクとの戦いもありました(出エジプト17:8-17)。アマレクとの戦いに勝利した後、モーセは祭壇を築き、それを「ヤハウェ・ニシ」(ヤハウェは我が旗)と呼んだ(出エジプト17:15)、とあります。
この箇所では、背後の祈りの重要性を教えられます。イエス・キリスト様は天でとりなしの祈りをしてくださっておられる(ローマ8:34)とともに、兄姉の内に住まわれる主が兄姉を通して祈ってくださるのです。エペソ6:18には、御霊によって祈りなさい、御霊の中で祈りなさい、御霊に導かれて祈りなさい、とあります。キリスト者の戦いは霊的な戦いです。血肉に対するものではありません。私たちは、天においても地においても一切の権威を与えられているというイエス・キリストの御名の旗を掲げて悪しき霊と戦います。

 15節には、「ついで彼らはレフィディムから旅立ってシナイの荒野に宿営し、」(新改訳)とあります。
シナイの荒野には、シナイ山(ホレブ山)があります。モーセはシナイ山で十戒を核とする律法を与えられたのです。これは出エジプトから50日目(五旬節・ペンテコステ)でした。新約の時代、キリストの復活から50日目に聖霊がくだりました。

 パウロが2コリント3:6-8を書いた時、50日目の出来事を思いおこしていたかもしれません。2コリント3:6-9には、
“3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。”(新改訳)と記されています。

 話を元に戻します。
出エジプト記19章から民数記10:10までの記述は、シナイの荒野で語られたり、行われた事の記録です。シナイの荒野には、陰暦で11ヵ月と20日留まっていたのです(出エジプト19:1、民数記10:11)。イスラエルの民は律法を与えられ、神と契約を結び、神の契約の民となり、幕屋に関するすべての物をつくり、主は幕屋の中の至聖所に臨在されました。人口調査もなされました。軍隊も組織されました。

 ここまでが、出エジプト後、13ヶ月と20日です。ヤハウェ(主)は、なんと多くのことをイスラエルに体験させてくださったことでしょうか。

 私たちキリスト者も同じかそれ以上です。救いの前後からすくわれたのちの1年間の間に多くの体験をさせて頂けたのです。ハレルヤ!

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主は天におられるとともに、信じる者の霊の内に住んでくださっておられますことを感謝します。
霊だけではなく、魂のすべてをも専有してください。
更に肉の体にも働いて、死ぬべき体をも生かしてくださいますことを感謝します。
御名を崇め感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン
・・・・・・・
(1コリント6:17)「・・主に結びつくものは主と一つの霊となる・・」(新共同訳)
(ローマ8:11)「・・イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる・・」(新改訳)

2017年12月13日 (水)

民数記32:6-42 ガド族、ルベン族、マナセの半部族の領土(神様のおことばを第一にしないことの危険)

 ルベン族とガド族は、モーセに、ヨルダン川と死海の東側の地を割り当ててください、と願いました(1-5)。ヤハウェ(主)なる神様は、ヨルダン川と死海の西側の地であるカナンの地をイスラエルに与えると約束されていたのです。

 モーセは、ルベン族とガド族の申し出に、直ちに反対しました。6.7節には、「同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたちは、ここにとどまるつもりなのか。なぜ、主が与えてくださる土地に渡って行こうとするイスラエルの人々の心を挫くのか。」(新共同訳)と答え、
更に、かつて、不信仰の故に、神様の命令に従わなかった先代たちは、約束の地に入れなくなり、荒野で皆滅びてしまった、という例を挙げて次のように語りました。
“32:8 私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。
32:9 彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が彼らに与えられた地に入って行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。
32:10 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りが燃え上がり、誓って言われた。
32:11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。
32:12 ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に従い通したからである。』
32:13 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の目の前に悪を行ったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。”(新改訳)

 このように先代たちの過ちと神様の裁きとその結果を述べた上で、モーセは更に、「あなたがたはその父に代って立った罪びとのやからであって、主のイスラエルに対する激しい怒りをさらに増そうとしている。あなたがたがもしそむいて主に従わないならば、主はまたこの民を荒野にすておかれるであろう。そうすればあなたがたはこの民をことごとく滅ぼすに至るであろう。」(14.15・口語訳)とルベン族とガド族に言いました。

 ルベン族とガド族は、いわゆる半肉半霊の状態、即ち、神様の裁きは怖いので、裁かれない範囲で神様に反する自分たちの欲望を通そうと、「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです〔ヨルダン川のこちら側の土地さえいただければ、それでけっこうです(リビングバイブル)〕」(16-19・新改訳)とモーセに答えたのでした。

 この答えを聞いたモーセは
、ルベン族とガド族に、「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」(20-24・新改訳)と答えたのです。

 私には、モーセが妥協してしまったように思えます。半肉半霊を受け入れると、どこかで問題が発生します。
申命記16:16には、あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。」(新改訳)とあります。これは出エジプト23:14-17をまとめたことばです。即ち、ヨルダン川と死海の東側の男子は、年に三度、宮もうでをするためにヨルダン川を渡らねばならなくなったのです。

 現代でも、神様を第一にするのか、それ以外のものを第一にするのか、を問われるのです


 話を元に戻します。
ルベン族とガド族は、モーセに、「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」(25-27・新改訳)と答えたのでした。

 モーセは、ヤハウェ(主)から、カナンの地を見ることはできてもカナンの地に入ることはできない、と言われていました。、ルベン族とガド族の答えを聞いたモーセは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の一族のかしらたちに、もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」(29.30・新改訳)と命じたのです。

 モーセの答えを聞いたガド族とルベン族は、「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」(31.32・新改訳)と答えました。この答えを聞いたモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えたのでした(33)。
33節で、マナセの半部族が登場しました。続く34-42節には、
“32:34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、
32:35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、
32:36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。
32:37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、
32:38 ネボ、バアル・メオン──ある名は改められる──またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。
32:39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。
32:40 それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。
32:41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。
32:42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。”(新改訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつもあなたを第一として歩む者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2017年12月12日 (火)

民数記32:1-5 約束の地ではない地に居住することを求めたルベン族とガド族

 1-5節には、
“32:1 ルベンとガドの人々はおびただしい数の家畜を持っていた。彼らがヤゼルとギレアドの地方を見渡すと、そこは家畜を飼うのに適した所であったので、
32:2 モーセと祭司エルアザルおよび共同体の指導者のもとに来て、言った。
32:3 「アタロト、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオンなど、
32:4 主がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった土地は、家畜に適した土地であり、僕どもは家畜を持っております。
32:5 もし、わたしたちがあなたの恵みを得ますなら、この土地を所有地として、僕どもにお与えください。わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください。」”(新共同訳)とあります。

 ヤハウェ(主)の約束は、イスラエルにカナンの地を与え、カナンの地に連れて行く、というものでした。カナンの地を与えるという約束(契約)はアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)と結んだものでした。そして、モーセを召し出したのも、イスラエルをカナンの地に連れて行くためでした。
出エジプト6:1-8には、
“6:1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。
6:2 神はモーセに言われた、「わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。
6:3 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕という名では、自分を彼らに知らせなかった。
6:4 わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた
6:5 わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを、あなたがたは知るであろう。
6:8 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である』と」。”(口語訳)とありました。
モーセは、ヤハウェ(主)のこのおことばをイスラエルに語ってきたのです。
カナンの地はヨルダン川の西側ですから、ルベンとガドが、所有地として与えてくれ、と申し出た地は、カナンの地に近くてもヨルダン川と死海の東側の地であったのです。

 ルベン族とガド族は、自分たちの考えで、神様が与えるといったカナンの地よりも、ヨルダン川の東側、カナンの地の東側の地を望んだのです。その理由は、彼らが非常に多くの家畜を持っており、ヨルダン川と死海の東側の地が、家畜を飼うのに最適だと考えたからでした。彼らは神様のみ旨をよりも、自分たちの考えの方が優れている、と表明していることになるのです。

 このような考え方を笑うことはできません。
現代の私たちキリスト者も、気をつけないと、同じようなことをしているのです。
私たちも、神様のおことばをしりぞけて、今の世の考え方で、物事を考えたり、行ってしまうことがあることを覚えます。イエス様が、「わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)と言われたにもかかわらず、です。

話をガドとルベンに戻しますが、このことは後になって問題を起こすのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
詩篇119:1には、「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。」(新改訳)とありますが、主のみ旨に従って歩み続ける者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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