イザヤ書

2019年1月19日 (土)

イザヤ66:18-24 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え6(キリストの地上再臨から新天新地迄の預言)

66:18「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。
66:19
わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者をもろもろの国、すなわちタルシシ、よく弓をひくプトおよびルデ、トバル、ヤワン、またわが名声を聞かず、わが栄光を見ない遠くの海沿いの国々につかわす。彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える。
66:20
彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする」と主は言われる。
66:21
「わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする」と主は言われる。
66:22
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
66:23
「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
66:24
「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。”(口語訳1955

 18
節には、「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。」とあります。
「わたしは来て」のわたしはキリスト・イエス様のことであると推測します。私たちの主キリスト様はまことの神です。私たちの主キリスト・イエス様は、すべての人のすべての思いを知っていますし、行いも知っています。この節は、キリストの地上再臨後の裁きの一場面についての預言ではないかと私は思います。
イエス様ご自身が、「31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、やぎを左におくであろう。」(マタイ25章・口語訳)と語りだされ、このときの裁きの基準と判決については続く32-46節に記されています。主の地上再臨後に、主イエス様は、その時に今と同じ肉体をもって生きているすべての国の民に対する裁きを行われるのです。

 余談になりますが、新生したキリスト者は、これ以前に、即ちキリストの空中再臨時に霊のからだを与えられ(1コリント15521テサロニケ416.17)、その後天においてキリストとの結婚式を挙げているのです(黙示録196-8)。
 19
節をリビングバイブルは、「彼らの目の前で度肝を抜くような奇蹟をして見せ、逃れた者を宣教師として各地に送り出すのだ。行く先は、タルシシュ(スペイン半島の南端)、プル、ルデ〔どちらもアフリカの北部〕、メシェク、ロシュ、トバル〔これらはトルコからアルメニヤに及ぶ地域〕、ヤワン(ギリシヤのこと)、それに、わたしの評判を耳にしたこともなく、わたしの栄光を見たこともない、海の向こうの国々だ。こうして、わたしの栄光を外国人に告げ知らせる。」と訳しています。
「逃れた者」とは、神の裁きによって滅びなかった者達のことでしょう。

 20節をリビングバイブルは、「彼らは、すべての国々から、おまえたちの同胞〔諸国に散っているイスラエル人(筆者挿入)〕を神への贈り物として、馬、車、担架、らば、らくだに乗せ、わたしの聖なる山エルサレムへたいせつに運んで来る。ちょうど、刈り入れの時期に、神のものとして特別にきよめた入れ物に供え物を載せ、続々と神殿へ運び込むのと同じだ。」と訳しています。
これは、エゼキエル3623-28に、
36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがた〔イスラエル(筆者挿入)〕が彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。
36:24
わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国〔イスラエル(筆者挿入)〕に行かせる。
36:25
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
36:26
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
36:27
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
36:28
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住んで、わが民となり、わたしはあなたがたの神となる。”(口語訳)と記されている預言の23.24節に関係していると思います。これによって、エゼキエル3716-22の預言にあるように、イスラエルの民は、キリストの千年王国の時代、イスラエルの地にすむのです(エゼキエル47:13-4829)。

 21節をリビングバイブルは、「こうして帰って来た者〔イスラエル人(筆者挿入)〕の中から、祭司とレビ人を選び出す。こう神様は断言なさいます。」と訳しています。
キリストの千年王国において、イスラエルは、「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民〔神の所有とされた民(新改訳第三版)〕である。」(1ペテロ29・口語訳)となるのです。
ゼカリヤ8章には、「20 万軍の主は、こう仰せられる、もろもろの民および多くの町の住民、すなわち、一つの町の住民は、他の町の人々のところに行き、21 『われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう』と言うと、『わたしも行こう』と言う。22 多くの民および強い国民はエルサレムに来て、万軍の主を求め、主の恵みを請う。23 万軍の主は、こう仰せられる、その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う。」(20-23・口語訳)と預言されています。

 23.24節を新共同訳は、「23 新月ごと、安息日ごとに、すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと、主は言われる。
24 外に出る人々は、わたしに背いた者らの死体を見る。蛆〔うじ(筆者挿入)〕は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。すべての肉なる者にとって彼らは憎悪の的となる。」と訳しています。
この預言は、キリストの千年王国の時代のものでしょう。
ゼカリヤ1416-19には、「16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。」(口語訳)とも預言されています。

 「蛆〔うじ(筆者挿入)〕は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない。」という預言が24節にありますが、イエス様も、「47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。」(マルコ947.48・新改訳2017)と語っておられます。
しかし、千年王国の後に来る新天新地では、先のことを思いだすことはないのです(イザヤ6517)。

 22節を新改訳2017は、「わたしが造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように、──主のことば──あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。」と訳しています。
しつこいようですが、新天新地は、キリストの千年王国の後に来ます。主なるまことの神様を信じることのできない人にとっては、キリストの千年王国も新天新地も荒唐無稽な話ですが、主を信じる者にとっては、字句通りの意味です。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主のご計画の故に、また、そのご計画の一つ一つを主がお定めになったその時に成就してくださいますから御名を賛美し、感謝します。
また、あなたの御言葉を信じることが出来ることは、私たちに対するあなたの御業ですから感謝します。
あなたをほめたたえつつ、主イエス・キリストの御名で祈ります。
アーメン。

2019年1月18日 (金)

イザヤ66:7-17 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え5(イスラエルの再興から主の地上再臨までの預言?)

66:7シオン〔「新改訳・新共同訳は「彼女」(筆者挿入)〕は産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。
66:8
だれがこのような事を聞いたか、だれがこのような事どもを見たか。一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなやその子らを産んだ。
66:9
わたしが出産に臨ませて産ませないことがあろうか」と主は言われる。「わたしは産ませる者なのに胎をとざすであろうか」とあなたの神は言われる。
66:10
「すべてエルサレムを愛する者よ、彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女と共に喜び楽しめ。
66:11
あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから乳を吸って飽くことができ、またその豊かな栄えから飲んで楽しむことができるからだ」。
66:12
主はこう言われる、「見よ、わたしは川のように彼女に繁栄を与え、みなぎる流れのように、もろもろの国の富を与える。あなたがたは乳を飲み、腰に負われ、ひざの上であやされる。
66:13
母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを得る。
66:14
あなたがたは見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように栄える。主の手はそのしもべらと共にあり、その憤りはその敵にむかっていることを知る。
66:15
見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。
66:16
主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。
66:17
「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。”(口語訳1955

 7-9節をリビングバイブルは、“7.8 こんなに不思議なことを見聞きした者が、いるでしょうか。まだ陣痛が起こりもしないのに、たった一日で、突然、イスラエルの国が産み落とされたというのです。産みの苦しみが始まるとすぐ、一瞬のうちに、赤ん坊が生まれ、国家が出現するのです。
9 「わたしは産み出す寸前になってこれを産まず、放っておくだろうか」と、あなたがたの神様である主は問いかけます。そんなことは、天地がひっくり返っても、あろうはずがありません。”と意訳しています。

 これは、寓話的に記された預言であって、イスラエルの再興について預言しているのではないか、或いはキュロス王によるバビロン捕囚民の解放、帰還を指しているのかも知れないとも思います(エズラ記1章)が、11.12節を読むとイスラエルの再興についての預言ではないかと推測します。
 
現代イスラエルは1948514日に再興されたのです。この日は父なる神様が決められていた日なのでしょう(使徒16.7)。{1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択されました。そして、ユダヤ側はそれを受け入れ、イギリスによる委任統治期間終了後、1948年5月14日、テルアビブで初代首相ベングリオンによる独立宣言が行われたのです。しかしアラブ側は国連で採択されたものを受け入れず、第一次中東戦争が翌日から始まったのです。イスラエルは主の助けによってこの戦いに勝利しました。詩篇83篇に預言されている内容です。これ以後、現在までイスラエルとパレスチナ(アラブ人)の闘争が続いています。}

 10-14節をリビングバイブルは、「10 すべてエルサレムを愛する者よ、彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女と共に喜び楽しめ。11 エルサレムをこの上もない喜びとせよ。赤ん坊が母親の豊かな乳房を吸うように、エルサレムの栄光を堪能するまで飲め。12 神様は告げます。繁栄が川のようにエルサレムにみなぎりあふれる。わたしが必ずそのようにする。外国の富はこの都に流れ込む。子供たちはエルサレムの乳房を吸い、わきに抱かれ、ひざの上であやされる。13 わたしはその都で、幼児が母親に慰められるように、おまえたちを慰める。14 おまえたちはエルサレムを見て心を躍らせる。おまえたちは、はち切れんばかりの健康体になる。世界中の人が、神の国民に加えられたわたしの恵み深い手と、敵に向けられたわたしの憤りとを見る。」と訳しています。

 1967年の第三次中東戦争では、6日間で、イスラエルが、エジプト、シリア、ヨルダンなどのアラブ諸国に勝利し、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、ゴラン高原などを占領し、エルサレムの旧市街全域を制圧したのです。目には見えませんが、第一次中東戦争の時と同じように万軍の主の働きあったように私には思えます。イスラエルにはキリスト教徒の巡礼者が絶えません。外国の富が流れてくるのです。現在のイスラエルはI.T、医療の先進国であり、石油や天然ガスも見つかり、農産物の輸出国、etc.でもあります{(参照)エゼキエル368-113811-13}。

 15.16節はキリストの地上再臨の預言であろうと、まずは推測します。更に、エゼキエル38.39章に記されている主の軍事介入のことも含まれているのだろうとも思います。これらの近未来に起こるであろうと考えられることの包括的な預言ではないかと想像します。イザヤには大雑把に主が答えたのではないだろうかと想像します。{(参照)黙示録1911-21、ゼカリヤ121-9141-9、エゼキエル3818-395

 17節には、“「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。”(口語訳)とあります。
「みずからを聖別し」というのは、自分自身を偶像礼拝(悪霊礼拝、サタン礼拝)のために聖別し、ということであろうと思います。私たちキリスト者の反対側にいる者達からするとサタンこそが主なのです。彼らは、サタンに献身しているのです。主は地上再臨の折に彼らを一掃されます。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主は定めの時に、一つ一つの預言を成就されていきますから御名を賛美します。
主を愛し、喜びをもって主に仕える者として私たちを整え、守り、導いてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月17日 (木)

イザヤ66:1-6 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え4(主が喜ばれる人と主が好まないことを行う人)

66:1主はこう言われる、「天はわが位、地はわが足台である。あなたがたはわたしのためにどんな家を建てようとするのか。またどんな所がわが休み所となるのか」。
66:2
主は言われる、「わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。
66:3
牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。
66:4
わたしもまた彼らのために悩みを選び、彼らの恐れるところのものを彼らに臨ませる。これは、わたしが呼んだときに答える者なく、わたしが語ったときに聞くことをせず、わたしの目に悪い事を行い、わたしの好まなかった事を選んだからである」。
66:5
あなたがた、主の言葉に恐れおののく者よ、主の言葉を聞け、「あなたがたの兄弟たちはあなたがたを憎み、あなたがたをわが名のために追い出して言った、『願わくは主がその栄光をあらわしてわれわれにあなたがたの喜びを見させよ』と。しかし彼らは恥を受ける。
66:6
聞けよ、町から起る騒ぎを。宮から聞える声を。主がその敵に報復される声を。”(口語訳1955

 1.2節を新共同訳は、「1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。天にも地にも、わたしは満ちている。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。2 これら〔天と地(筆者挿入)〕はすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。わたしが顧みるのは苦しむ人〔へりくだった者(岩波訳)、貧しい者(新改訳2017)、〕、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」と訳しています。

 主は、「天はわたしの王座、地はわが足台」(1)と言われます。
また、主は、預言者エレミヤを通して、「天にも地にも、わたしは満ちている」(エレミヤ2324・新改訳)とも言われました。主は、天と地が存在しているのは私が造ったからだ(2)、とも語られました。
その様なわけだから、「あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。」(1)とたたみかけられます。

 この主の御言葉に対して、時代は遡りますが、ソロモンは、神殿奉献式において、次のように適切に祈っています。
ソロモンは、「18 しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家〔宮(新改訳)、神殿(新共同訳)〕などなおさらです。19 しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。20 どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家〔宮(新改訳)、神殿(新共同訳)〕に、すなわち、あなたの名をそこに置くと言われた所に向かってお開きください。どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈をお聞きください。」(2歴代誌6章・口語訳)と祈りました。

 2節をリビングバイブルは、「わたしはこの手で天と地を造った。全部がわたしのものだ。わたしはこのような偉大な者だが、謙そんになって深く罪を悔い、わたしのことばに恐れおののく者に目をかける。」と訳しています。
キリスト者は、まことの神の前にへりくだり、罪を悔い改め、主イエス・キリスト様を心にお迎えした者です(黙示録320、ヨハネ112)。イエス様を心にお迎えした者の霊の内には、三一の主なる神、即ち、父・子。聖霊の神がその人の内に住んでくださっておられるのです(ヨハネ1416.17.23)。パウロは、テモテへの手紙Ⅱで、「主があなたの霊と共にいてくださるように。」(422・新共同訳)と手紙の文章を締めくくっています。またパウロは、コリントの兄姉たちに、「あなたがたは、自分が神の神殿〔宮(口語訳)〕であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント316・新共同訳)と述べ、また、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿〔聖霊の宮(新改訳)〕であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(1コリント619・新共同訳)とも述べています。
霊の人(1コリント21531・口語訳・新共同訳)とは、その人の霊が御霊に従い{霊が主と一つになっており(1コリント617)}、更に魂が霊に従う人なのです。魂は大脳とリンクしているものと私は考えています。魂は大脳を構成しているような成分でいうところの物質ではありません。人の肉体を、火で焼けば、大脳は消滅しますが、魂は存在し続けています。喜びをもって御霊に従いし続ける魂は、その肉体をもって聖きを歩み続けていると言えます。

 3.4節は、不信人な者、即ち、主を軽く見たり、主に敵対した歩みをしている者に関する聖句です。この箇所をリビングバイブルは、
3 だが、自分勝手な道を選び、罪にふける者はのろわれる。そんな連中のささげ物を、わたしは絶対に受け入れない。たとい牛を祭壇にささげても、生身の人間をささげた時のように、見向きもしない。子羊や穀物をささげても、犬や豚の血を供えた時のように、顔をしかめる。わたしに香をたいているつもりでも、偶像を拝んでいるのだとみなす。4 わたしは彼らに、彼らが恐れているものを送る。わたしが呼んだのに、答えようともせず、話しかけたのに、強情を張って聞こうともしなかったからだ。それどころか、わたしの見ている前で悪いことをし、わたしが大きらいなことを、そうと知りながら、わざと行なった。」と訳しています。
主に敵対したり、主を受け入れない人達に対して、主は、「彼らが恐れているものを送る」(4)と言われますが、この箇所で、主に従わない人たちに対して、主が送られるものとは、剣と捕囚とを指しています(6)。

 一方、キリスト者に対してパウロは、「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(1コリント619.20・口語訳)と語りました。

 主の御言葉に従う人は、主を嫌う人から、最低限でも嫌味を言われたり無視されたりするのです。しかし決着をつけて下さるのは主です。自分で決着をつけてはいけない(復讐してはいけない)のです。

 5.6節をリビングバイブルは、“5 神を恐れる者は、神のことばを聞いておののけ。おまえたち〔イザヤと主に従う者達(筆者挿入)〕の同胞〔不信心なイスラエル人(筆者挿入)〕は、わたしに忠実だというだけで、おまえたちを憎み、村八分にする。「神様に栄光があるように。主を信じて、せいぜいお幸せに」と、彼らはあざける。だが、そう言う彼らが赤恥をかくようになる。
6 町が騒ぎ立っています。いったいどうしたというのでしょう。神殿から聞こえてくる、あのすさまじい物音は何でしょう。あれは、神様が敵に報復している音です。”と訳しています。

 イザヤ達、即ち主に従う者達は、嫌味を言われ、村八分にされているのでしょう(5)。
6
節は、ユダの地とエルサレムと神殿が、主が遣わされたバビロン軍によって攻撃されているのをイザヤは幻で見たのでしょう。イザヤが預言活動を終えてから約100年後、エルサレムはバビロンによって陥落するのです。神殿は破壊され、神具はバビロンに持ち去られました。

 主イエス様は、「10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5章・口語訳)と語られ、また、キリスト者に対し、ローマ人への手紙には、「17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(1217-21・口語訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あらゆる時に主をほめたたえながら歩み続ける者であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月16日 (水)

イザヤ65:17-25 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え3(キリストの千年王国及び新天新地に関する預言)

65:17見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
65:18
しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。
65:19
わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。
65:20
わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。
65:21
彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
65:22
彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。
65:23
彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。
65:24
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
65:25
おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。”(口語訳1955

 17-19節は、新天新地の預言であろうと思います。
キリストの千年王国は、現在の宇宙(天地)の中で、キリストが王の王として統治なさいますが、新天新地は主なる神様の新しい創造です。関連聖句を下記します。

 黙示録21章には、“1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。”(口語訳)と記されています。

 ペテロの手紙Ⅱの3章には、“10 ・・・。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。”(口語訳)と記されています。

 コリント人への手紙Ⅰの15章には、“20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。21 それは、死がひとりの人〔アダム(筆者挿入)〕によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人〔キリスト(筆者挿入)〕によってこなければならない。22 アダムにあって〔in(筆者挿入)〕すべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあって〔in(筆者挿入)〕すべての人が生かされるのである。23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである〔{(参照)黙示録207-10}筆者挿入〕。26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である〔{(参照)黙示録2014}筆者挿入〕。27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかた〔父なる神(筆者挿入)〕に従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。”(口語訳)と記されています。

 イザヤ65:20には、「わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。」(口語訳)とあります。
キリスト者は、キリストの空中再臨の時に霊のからだを与えられ、その体は永遠です。しかし、20節には、長寿ではあっても、人の死についても述べられています。
この聖句が成就されるのは、現在と同じ肉体をもって大患難をくぐりぬけ、羊と山羊の裁き(マタイ2531-46)で羊の方に分類された人々の子孫であり、それはキリストの千年王国の時代に関する預言であると思います。

 21-25節は、読めば分かります。ここに記されている内容もキリストの千年王国の時代のものだと思います。キリストの千年王国の時代においては、現在の肉食動物は草食動物になるのです。アダムが堕罪する以前のエデンの園のような状態です。創世記130には、「また地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。」(口語訳)と記されています。
またローマ8章には、「18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現〔キリスト者に霊のからだが与えられること(筆者挿入)〕を待ち望んでいる。20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめ〔束縛(新改訳)〕から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。」(口語訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
新天新地という永遠に至ることまでもこの様に教えて下さり感謝します。
私たちが、地上のものに心奪われることなく、いつでも天にあるものを求めて歩み続けていけますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月15日 (火)

イザヤ65:8-16 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え2(主を信じるイスラエル人を祝福し、主を捨てる者を主は捨てるという預言)

65:8主はこう言われる、「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う。そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、ことごとくは滅ぼさない。
65:9
わたしはヤコブから子孫をいだし、ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、わがしもべらはそこに住む。
65:10
シャロンは羊の群れの牧場となり、アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。
65:11
しかし主を捨て、わが聖なる山〔エルサレム(筆者挿入)〕を忘れ、机を禍福の神に供え〔ガドのために食卓を整える者(新改訳)、「ガド」は幸運の神or禍福の神という異教の神(筆者挿入)〕、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神〔メニ(新改訳)、異教の神(筆者挿入)〕にささげるあなたがたよ、
65:12
わたしは、あなたがたをつるぎ〔背教者に主が遣わす敵(筆者挿入)〕に渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる〔虐殺されて倒れる(新改訳)〕。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。
65:13
それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
65:14
見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ〔霊に傷を受けて泣き叫ぶ(新改訳2017)、原語は「ルーアハ」で「霊」(筆者挿入)〕。
65:15
あなたがたの残す名〔イスラエル(筆者挿入)〕はわが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神〔原語は「アドナイ・ヤハウェ」でわが主ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
65:16
それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神〔原語:「真実の」=アーメン、「神」=エロヒーム(筆者挿入)〕によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、とわが目から隠れうせるからである。”(口語訳1955

 この箇所はイザヤの祈りに答えて、イザヤの時代以後に、主によって裁かれるイスラエルの民と祝福される民、及び後の時代における全人類の祝福と呪いに関する主の法則の預言であろうと私は思います。
 8
節には、“主はこう言われる、「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福〔原語は「ベラーカー」(筆者挿入)〕があるから』と言う。そのようにわたしは、わがしもべらのために行って、ことごとくは滅ぼさない。”(口語訳)とあります。
8
節の前半部分について、岩波訳の注は、“秋の葡萄の収穫期に葡萄作りたちの間で祈りを込めて語られた諺であろうか。ヘブライ語の「祝福(ベラーカー)」とは、被造物を成長させ繁栄させる神からの力であり、この諺は、そのような神からの力を賜っているものを大切に扱おうとの意味であろう。”と述べています。後半部分は、9.10節を考え併せて読むならば、イスラエル(葡萄)の中に、主を畏れ主の祝福を受けている者(葡萄の汁)がいるならば、その人たちを捨て去ることなく別に扱おう、というような意味であろうかと思います。
8
節を、リビングバイブルは、「だが、全部を滅ぼすわけではない。悪いぶどうの房に良いぶどうも混ざっていることだから、イスラエル人全員を滅ぼしはしない。中には、心のきよい、わたしのしもべもいるのだ。」と意訳しています。

 9.10節をリビングバイブルは、「9 その残りの者〔神の裁き{人間(肉)の目には敵によって滅ぼされたと見える事象}の後でも神を敬う故に神に命を守られた者(筆者挿入)〕を取っておき、イスラエルの地を与える。わたしの選ぶ者がその地を受け継ぎ、そこでわたしに仕えるようになる。10 わたしを尋ね求めた者〔偶像に頼ることなく主にのみ信を置く者(筆者挿入)〕のために、シャロンの平野〔イスラエルの地中海沿岸の地で北のカルメル山から,南のテルアビブヤフォまで約 89km(筆者挿入)〕は再び羊の群れで埋まり、アコルの谷〔ヨシュア724.26参照(筆者挿入)〕は家畜の群れを飼う所となる。」と意訳しています。
「アコルの谷」の「アコル」の語根は、「アカル」で、「アカル」には、災いをもたらす、の意があります。
かつてアカンは、主の御言葉に従わず、むさぼりの罪を犯し、イスラエルに災いをもたらし、主に裁かれてアコルの谷に埋められました(ヨシュア記7章)。しかし、10節では、主に従う者の為にアコルの谷は祝福されています。

 11.12節は、主に背を向けた背教の民に対する主の呪いの取り扱いが記されています。この箇所をリビングバイブルは、“11 だが、それ以外の連中には容赦しない。彼らはわたしと神殿とを捨て、「運命」と「宿命」の神々を拝んできた。 12 だから、そのとおり剣に渡す「運命」に定めよう。また、暗い「宿命」を負わせよう。わたしが呼んだ時に答えず、わたしが語った時に聞こうとしなかったからだ。そればかりか、わたしの目の前でわざと罪を犯し、よりによってわたしの大きらいなことをしてきた。”と意訳しています。

 余談になりますが、日本には、数多くの偶像や八百万の神、様々な占い等々が根を下ろしています。尚、無神論もその教義は偶像です。まことの神を神としないすべての宗教・思想は偶像です。12節の「わたし〔主(筆者挿入)〕が〔働き人を通して(筆者挿入)〕語った時に聞こうとしなかったからだ。そればかりか、わたしの目の前でわざと罪を犯し、よりによってわたしの大嫌いなことをしてきた。」という聖句に該当しそうな人が日本にはたくさんいます。
主よ、日本人を憐れんでください。

 この箇所は、直接的にはイスラエルに向けられていますが、普遍的です。
まことの神様の裁きのいくつかを出エジプト記に記されているエジプトへの裁きから見ると、豊穣の神であるカエルの頭を持った「ヘクト神」を崇拝していたエジプトに、大量のカエルの屍骸の害を与え、太陽を神として拝んでいたエジプトに、三日間の真っ暗闇の裁きを行ったのです。

 13-15節には、主を信じている故に祝福される者、即ち「主のしもべ」と、偶像を信じ主を信じないで呪われる偶像崇拝者の違いが記されています。



 主に信頼する主のしもべ
 
 
 主を受け入れない偶像礼拝者  

 

飲食に満ち足りる(→喜び)

 

 

飲食に事欠く(→恥じる)

 

 

心楽しみ歌う

 

 

心の苦しみによって叫ぶ

 

 

 

 

 

霊に傷を受けて泣き叫ぶ

 

 

新しい名でよばれる

 

 

主が滅ぼすという名

 

イスラエルという名は、ヤハゥエ(主)を信じる者には、神が民の為に戦う、という意味で与えられていましたが、イスラエルの偶像礼拝者にとっては、神が背信の民に対して戦う、という意味になってしましました。
時代は下って、まことの神である主の第二位格の神が人となられて罪の贖いを成し遂げられて死に、死んで終わりではなく死んだ後によみがえられた主キリスト・イエスを信じた人は、クリスチャン、キリスト者という名で呼ばれるようになったのです。使徒1126には、「・・。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(新改訳2017)と記されています。

 16節を新改訳2017は、「この地で祝福される者はまことの神によって祝福され、この地で誓う者はまことの神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」と訳しています。
「まことの神」は、アーメン・エロヒームです。神の単数は、「エル」で、「エロヒーム」は複数形です。私たちキリスト者は、「the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit」(マタイ2819NKJV)と、「父・子・聖霊」を単数の「名」で受けているように、主なる神様は三位一体であることを知っています。2コリント1313の「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(口語訳)の聖句は祝祷に良く用いられます。
また、民数記622-27には、
6:22 主はまたモーセに言われた、
6:23
「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。
6:24
「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
6:25
願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。
6:26
願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」』。
6:27
こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば〔アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら(新改訳2017)〕、わたしは彼らを祝福するであろう」。”(口語訳)と記されています。
この箇所には、3回「主が」と繰り返されています。「主」は原語では「ヤハウェ」が使われていますが、3回繰り返すことによって、暗に三位一体を表しているのかも知れません。これは推測ですので間違っていたらごめんなさい。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちは、「キリスト者」or「クリスチャン」という名で呼ばれていることを感謝します。
キリストに在る者としてふさわしい歩みをすることができますよう御霊に導かれて歩ませて頂けますように。主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月14日 (月)

イザヤ65:1-7 イザヤの祈りに対するヤハゥエ(主)の答え1(異邦人の救いと偶像礼拝をし続けたイスラエルに対する裁きの預言)

65:1わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2
よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。
65:3
この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4
墓場にすわり、ひそかな所〔見張小屋(新改訳)、隠れた所(新共同訳)〕にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って〔汚れた肉の汁を器に入れながら(新共同訳)〕、
65:5
言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と。これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である〔これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ、絶えることなく火を燃え上がらせる(新共同訳)〕。
65:6
見よ、この事はわが前にしるされた、「わたしは黙っていないで報い返す。そうだ、わたしは彼らのふところに、
65:7
彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す。彼らが山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったゆえ、わたしは彼らのさきのわざを量って、そのふところに返す」と主は言われる。”(口語訳1955

 イザヤは64章で、主に、「・・・ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」(5)、「主よ、これらの事があってもなお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。」(12)と主に質問していました。

 それに対して、主は、主に不信の罪を犯し続けるイスラエルに対して、「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザヤ652・新共同訳)と答えました。

 主は、ご自身が特に嫌われた不信の罪(背教の罪)を35節で述べています。
①偶像礼拝:偶像にいけにえを捧げ、香を焚きました(3)。ささげものの中には子供の場合(人身御供)もありました。エレミヤ195には、「・・彼らはバアルのために高き所を築き、火をもって自分の子どもたちを焼き、燔祭〔全焼のいけにえ(新改訳第三版)〕としてバアルにささげた。・・」(口語訳)と記されています。
②悪霊との交わり及び飲食における背教:墓地では死者に伺いを立て(4)、主が食べてはならないといった汚れた物を食べ、また汁物を飲食しました(4)。
③偶像礼拝者は、自分をヤハゥエ(主)より高き者であるとした:5節を新改訳第三版は、「・・そこに立っておれ。私に近寄るな。私〔偶像礼拝者(筆者挿入)〕はあなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕より聖なるものになっている。」と記しています。

 ①~③のようなことに対して、主は怒りました。人々の言動は、天の書物に書き記されるのです(黙示録2012、イザヤ656)。
主は人々の言動に対して報います{裁きます(マタイ1236.37、ユダ:15)}。ガラテヤ67には、「・・。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(口語訳)と記されています。イザヤ656.7には、「6・・、わたし〔主(筆者挿入)〕は黙っていないで報い返す。そうだ、わたしは彼らのふところに、7彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す。彼らが山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったゆえ、わたしは彼らのさきのわざを量って、そのふところに返す」(口語訳)と記されています。

 かつてイスラエルは主と律法に関し祝福と呪いの契約を結びました。
イスラエルは、偶像礼拝を含む律法を守らなかったことにより、申命記28章やレビ記26章に記されている呪いをその身に招いたのです。時代は下り、生ける神の御子がメシア(キリスト)として来られ、「イエシュア」(イエス)と名乗られましたが、その方を信じないユダヤ人たちが多かったのです。その時代、イエシュア(イエス)がメシア(キリスト)であると信じた少数のユダヤ人達は罪から救われ永遠の命を得ましたが、多くのユダヤ人たちは信じませんでした。呪いの究極は、申命記2865.66に、「これら諸国民の間にあって一息つくことも、足の裏を休めることもできない。主は、その所であなたの心を揺れ動かし、目を衰えさせ気力を失わせられる。あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえて、明日の命も信じられなくなる。」(新共同訳)と預言されていましたが、第二次世界大戦下においては、まさにそのようでした。

 一方、キリスト・イエス様の十字架と復活の後、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、イエス様をキリストと信じた人達は救われたのです。
イザヤ651には、“わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。”(口語訳)と記されています。この預言の成就の第一号はコルネリオでした(使徒10章)。そして、私たち、イエス様を信じさせて頂けた者たちも救いに与ったのでした。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私をも主イエス様の御名を呼ぶ者として下さり、ありがとうございます。
あなたを愛し、あなたに従い続ける者として、御霊によって歩ませてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月13日 (日)

イザヤ64章 イザヤの祈り4(とりなしの祈り2)

1-3節には、「どうか、あなたが天を裂いて下り、あなたの前に山々が震い動くように。2火が柴木を燃やし、火が水を沸かすときのごとく下られるように。そして、み名をあなたのあだにあらわし、もろもろの国をあなたの前に震えおののかせられるように。〔すべてのものを焼き尽くすご栄光の火は、森林を灰にし、海を干上がらせるでしょう。国々は御前で震えるでしょう。その時になって、敵どもは、神様の名声が響き渡っている理由を肌で感じます。(リビングバイブル)〕3あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事をなされた時に下られたので、山々は震い動いた。」(口語訳1955)とあります。

 1-3
節は、紅海渡渉(出エジプト14章)や出エジプト19章を念頭に置いているのでしょう。出エジプト1916-20には、「16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。 18シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。
19ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。 20主はシナイ山の頂に下られた。・・・」(口語訳)と記されています。
イザヤは、敵対する諸国の人々が恐れおののくような状態になるよう、主が現れて下さるように、と祈っています。

 初めから横道にそれますが、今の恵みの時代(教会時代)は、主が恵みをもたらすために、天が開いたのです。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられた時のこと、「そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。」(マルコ110・口語訳)と記されています。そして、主は信じる者の内に住んでくださったのです(くださっておられます)。

 4-5aには、「4 いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。5 あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者〔あなたを忘れない者(新改訳第三版)〕を迎えられる。」(口語訳1955)とあります。
リビングバイブルは、「4 世界が始まって以来、私たちの神様のように、待ち望む者にすばらしいことをしてくださる方は、ほかにありません。5 神様は、喜んで正しいことを行なう者、神様につき従う者を、大手を広げて迎えてくださいます。・・・」と訳しています。

 4節をパウロは御霊の導きによって、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」(1コリント29・口語訳)と述べ、それをキリストの福音にあてはめています。キリストの千年王国を誰も見ていません。新天新地も誰も見ていません。イエス・キリストの十字架と復活が何を意味し、何をもたらしたかについて、神様からの啓示がなければ、誰もその意味を知ることは出来ませんでした。主なる神様は、人が思い浮かびもしないことを、主を愛する者の為に備えて下さるのです。いずれにしても、主なる神様は、イエス様を信じ、即ち心に受け入れ、主に従う人、即ち聖書が言うところの正しい人、を喜んで迎え入れて下さるのです。

 しかし、その後に、果たして、不義なイスラエルを、主は救ってくださることがあるだろうか、と祈りのテーマが変わっていきます。

 5b-7節には、「5 ・・・。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。6われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。7あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。」(口語訳)と記されています。

 5節に、「われわれは久しく罪のうちにあった」とあります。
主に信頼しないで、他のものを信頼することは、不信の罪であり、偶像礼拝の罪です。主に完全に信頼することをしなければ、主のみ旨を歩むことは出来ないと私は思います。それは、この世の神は悪魔(サタン)であり(1ヨハネ519)、この世の成功の法則は、神の法則と相いれないからです。しかし、主に信頼すれば、この世の法則を越えて(超越して)、主は祝福してくださいます。主により頼んで歩むということは、この世とは別次元の法則の中を歩んでいることになります。イスラエルや教会は神の国(神の支配する領域)として地上に置かれているのです。主を信じることなく、善いことを行ったと自己満足している状態は、神様がご覧になると、6節の「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」と言う状態であろうと思います。

 7節には、「あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。」とありますが、ローマ118-32にも、罪を犯しても悔い改めることなく、主を認めず、主に従わない者のたどる道と結果が記されています。

 8節以降は、預言者の悲壮な祈りです。
64:8
されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9
主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。
64:10
あなたの聖なる町々は荒野となり、シオンは荒野となり、エルサレムは荒れすたれた。
64:11
われわれの先祖があなたをほめたたえた聖なる麗しいわれわれの宮は火で焼かれ、われわれが慕った所はことごとく荒れはてた。
64:12
主よ、これらの事があってもなお、あなたはみずからをおさえ、黙して、われわれをいたく苦しめられるのですか。”(64章本文口語訳1955

 10.11節の出来事は、イザヤが死んで後約100年位経ってからの出来事です。私は、イザヤがエルサレム陥落、バビロンへの捕囚、等の幻を見せられ、祈っているのではないかと想像します。まるで、主の裁きによって、バビロンに滅ぼされたことを嘆く預言者エレミヤのようです。しかし、そのような中にあっても、エレミヤは、「主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。」(哀歌・325・新改訳2017)と述べています。主に信頼する者にあらわされる主の恵みは、環境、状態に左右されないことが分かります。主なる神様は、絶対者であられ、超越者であられますから。キリスト者はその主なる神である御子の内に置かれたのですからなんと幸いなのでしょう。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたが、「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。」(黙示録2211・新共同訳)と語られた故に、今の世は、どんどん悪くなっています。
しかし、私たち、主キリスト・イエス様を信じるものには、「正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」(黙示録2211・新共同訳)と語られておられますから感謝します。
あなたは、神の御性質にあずかる者としてくださいます(2ペテロ14)から御名を崇めます。
感謝して、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月12日 (土)

イザヤ63:15-19 イザヤの祈り3(とりなしの祈り1)

63:15どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみかからごらんください。あなたの熱心と、大能とはどこにありますか。あなたのせつなる同情とあわれみとはおさえられて、わたしにあらわれません。
63:16
たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。
63:17
主よ、なぜ、われわれをあなたの道から離れ迷わせ、われわれの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。どうぞ、あなたのしもべらのために、あなたの嗣業である部族らのために、お帰りください。
63:18
あなたの聖なる民が、あなたの聖所を獲て間もないのに、われわれのあだ〔敵(新改訳)〕は、それを踏みにじりました。
63:19
われわれはあなたによって、いにしえから治められない者のようになり、あなたの名をもって、となえられない者のようになりました。”(口語訳1955

 15節をリビングバイブルは、「ああ神様、どうか天から見下ろし、栄光に輝くきよいお住まいから、私たちに目を留めてください。以前いつも示してくださった愛は、どこへ行ったのですか。神様の力、思いやり、同情は、いったいどこにあるのですか。」と意訳しています。
 私たちキリスト者も御言葉に立って、或いは御心に叶う祈りをしたと思うのに主がそれに答えてくださらないとき、「何故ですか」、と聞く時があります。すると、主は教えてくださる場合が多いと思います。何か罪が障害していたら、それを告白する必要があるでしょうし、また、時を待て、という場合もあるでしょうし、御言葉に立って祈ったと思っていても、他の御言葉との関係を示される場合もあるでしょう。その他ケースバイケースですが、主は納得させて下さるでしょう。

 16節には、「たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエル〔ヤコブ(リビングバイブル)〕がわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。」(口語訳)とあります。

 私たちキリスト者も、信仰の父であるアブラハムが我々を知らず、イスラエルの祖ヤコブが我々を知らなくても、ヤハゥエは、私たちの父です、と言うことが出来ます(1ヨハネ229)。

 「いにしえからあなたの名はわれわれのあながい主です。」とありますが、イエス様を指し示した預言に、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者〔霊妙なる議士(口語訳)、驚くべき指導者(新共同訳)、すばらしい助言者(リビングバイブル)〕、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ96・新改訳)とありました。我々の贖い主イエス・キリスト様は、永遠の父とも呼ばれ、永遠の存在者(ヤハゥエ)であり、創造者(ヤハゥエにはそのような意味も考えられます:参照コロサイ116)でもありました。日本語聖書の訳で「イエス」はヘブル語では「イエシュア」で、ヤハゥエ(主)は救う、ヤハゥエ(主)は救い、等の意があります。救い主とは、正にイエシュア(イエス)です。キリスト者はこのイエスの内に置かれ(1コリント130)、またイエス様が内に住んでくださっておられますコロサイ127)。

 17節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、なぜ、われわれをあなたの道から離れ迷わせ、われわれの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。どうぞ、あなたのしもべらのために、あなたの嗣業である部族らのために〔あなたのゆずりの地の部族のために(新改訳2017)〕、お帰りください。」(口語訳)とあります。

 イザヤはイスラエルの民をその肩に負って祈っているのであろうと思います。17節の答えをイザヤは、ヤハゥエから「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったため・・」(イザヤ591.2・口語訳)であると既に聞いていました。

 主は、人々が主に立ち返り、主の祝福を受けることが出来るようにと、度々、預言者を遣わしたのです。しかし、預言者の中には殺された人々もいました(マタイ2329-34)。イザヤもその一人であったとの伝承があります。

 主なる神様とイスラエルの民の間の障壁が「罪」であることをイザヤは知っていました。しかし、主は全能のお方ですから、主が民に働いて、主を畏れさせることも可能であると考えていたのかも知れません。イザヤにしてみれば、出エジプト1916etc.のように主が為されば、民は恐れを持つはずだ、と考えたのかも知れません。しかし主は、その様な方法で人々が主(ヤハゥエ)に従うのは一時のことでしかない、ということを知っていたのです。主は、罪を犯した者達に、幾たびも悔い改めを迫りますが、それでもダメな時は、罪の中に放置されます(ローマ124)、或いは矯正のために強制執行されます。北イスラエルは、アッシリアによってひどい目にあわされ、ユダを中心とする南イスラエルは、バビロンによってひどい目にあわせられたのです。

 18.19節を新共同訳は、「18 あなたの聖なる民が継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。19 あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」と訳しています。

 この聖句が述べている時代は、バビロンに打ち破られてからのことであろうと思います。とすると、常識的には、年代的にイザヤの祈りではない、ということになりますが、私は、イエス様が、「よく〔原語はアーメン、「まことに」(新改訳)〕言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」(マタイ518・口語訳)と語っておられるのですから、イザヤの祈りだと思います。イザヤには将来の預言がたくさん与えられました。新天新地の預言迄も与えられた人です。与えられた各時代の預言に立脚して祈ってもおかしくないと思います。私でさえ、黙示録に出てくる恐らくほとんど殉教する艱難時代の聖徒の為に祈ることがあるのですから、イザヤが捕囚民の為に祈ってもおかしくないと思います。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私たちは、永遠に至るまでのことを教えられていて、その上で祈ることのできる幸いを覚えます。
常に御霊に導かれて祈ることが出来るようにと願います。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月11日 (金)

イザヤ63:10-14 イザヤの祈り2(悔い改めて主により頼む者を憐れまれる主)

63:10ところが彼らはそむいてその聖なる霊を憂えさせたので、主はひるがえって彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。
63:11
その時、民はいにしえのモーセの日を思い出して言った、「その群れの牧者を、海から携えあげた者はどこにいるか。彼らの中に聖なる霊をおいた者はどこにいるか。
63:12
栄光のかいなをモーセの右に行かせ、彼らの前に水を二つに分けて、みずから、とこしえの名をつくり、
63:13
彼らを導いて、馬が野を走るように、つまずくことなく淵を通らせた者はどこにいるか。
63:14
谷にくだる家畜のように、主の霊は彼らをいこわせられた。このように、あなたはおのれの民を導いてみずから栄光の名をつくられた」。”(口語訳1955

 10節の前の9節には「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使い〔御前に仕える御使い(新共同訳)〕が彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」(新改訳2017)とありました。そして10節の「ところが彼らはそむいてその聖なる霊を憂えさせたので、主はひるがえって彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(口語訳)と続きます。
イスラエルの歴史を振り返ると、イスラエルは、エジプトの奴隷から解放された後からイザヤの時代に至るまで、幾度となく、主なる神様に背きました。多くの奇跡を見ながらも主なる神様を信ぜず、主と結んだ契約を破ったのです。北イスラエルは甚だしい背教、偶像礼拝の故にアッシリアによって滅ぼされ、多くの者がアッシリアに捕囚として連れて行かれたのです。北イスラエルを裁く為にアッシリアを用いたのは主なる神様でした(2列王記175-18)。

 ユダを中心とする南イスラエルには、主を畏れ主を礼拝する善い王も幾人か出ました。しかし、主に信頼せず偶像を礼拝する王たちもいたのです。主との契約をおろそかにすると、主はイスラエルに飢饉をもたらしたり、敵を送ったりして矯正されます。主がその様にされると、イスラエルは苦しくなり、悔い改め、「主よ、助けて下さい。」と叫ぶのです。ただ、「助けて下さい。」と叫ぶだけではなく、かつて主が大いなる御力をもって敵をやっつけてくれた時のことを持ち出して祈るのです。11-13節に述べられているように。

 リビングバイブルは、11-13節を、“11 そのとき彼らは、神のしもべモーセがイスラエルをエジプトから連れ出した時のことを思い出し、こう叫びました。「モーセを羊飼いに立てて、イスラエル国民を導き、海を通らせたお方は、どこにおられますか。ご自分の国民の中に聖霊を送られた神様は、どこにおられますか。12 モーセが手をあげた時、人々の見ている前で海を二つに分け、ご自分の評判を永遠のものとなさったお方は、どこにおられますか。13 人人に海の底を通らせたのは、どなたですか。彼らは砂漠を駆け巡る優秀な馬のように、少しもつまずきませんでした。”と訳しています。

 罪を悔い改めて主により頼めば、いつも主は助けて下さいました。14節をリビングバイブルは、「谷間で草を食べる家畜のように、神の御霊は彼らに休息を与えました。こうして神様は、自らご自分の名声を不動のものとされたのです。」と訳しています。

 イザヤは、「主よ、あなたは嘗てこのようにされたではありませんか」と祈っているのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イザヤの祈りは参考になりますが、私たちが、その様に祈らなくてすむように、いつも主を愛し、主に従う歩みをし続ける者であるように整え、導き続けて下さい。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2019年1月10日 (木)

イザヤ63:7-9 イザヤの祈り1(主への賛美)

63:7わたしは主がわれわれになされたすべてのことによって、主のいつくしみと、主の誉とを語り告げ、また、そのあわれみにより、その多くのいつくしみによって、イスラエルの家に施されたその大いなる恵みを語り告げよう。
63:8
主は言われた、「まことに彼らはわが民、偽りのない子らである」と。そして主は彼らの救主となられた。
63:9
彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。”(口語訳1955

 7節を新改訳第三版は、「私は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の恵みと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の奇しいみわざをほめ歌おう。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」と訳しています。
イザヤの祈りは、この箇所から64章の終わりまで続きます。
パウロは、ピリピ46.7に、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(口語訳)と記していますが、イザヤも、「私は、ヤハウェの恵みと、ヤハウェの奇しい御業をほめ歌おう。ヤハウェが私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」と、主を賛美することから祈りを始めています。

 私も祈りの初めに、主ご自身の偉大さ、慈しみ深さ、その他、主の素晴らしさを賛美して祈り始めることがあります。そうすると様々な問題課題も消えていきます。主の能力は計り知れず、主の慈しみは絶えないのですから。そして、その主が私を贖ってくださったのですから。主は真実なお方、忠実なお方、決して見捨てないお方です。正にアーメンなる方にハレルヤです。聖書の中に、主が約束してくださった御言葉がたくさんあります。必要に応じて、主が約束してくださったみことばを主に申し上げ、自分に適用してもらうのです。

 イザヤは、次の8節で、「8主は言われた、『まことに彼らはわが民、偽りのない子らである』と。そして主は彼らの救主となられた。」(口語訳)と祈っています。主ご自身が、エジプトにおいて奴隷とされていたイスラエルの民を「わが民」とおっしゃったのです。出エジプト67には、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民としわたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを、あなたがたは知るであろう。」とあり、その前の節である出エジプト66には、「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」(新共同訳)とあります。

 イザヤが8節の内容を祈った時、イザヤは、イスラエルがエジプトで奴隷とされていたときに主が助けてくださったことを思い浮かべていたことと思います。
私たちも祈りの中で、自分がどのような所から救われ、その後も主が恵みと慈しみをもって、ときには愛のむちをもって矯正し、祝福してきてくださったかを申し上げると、そこに感謝と賛美、主への信頼が増し加わることを覚えることです。

 9節を新改訳2017は、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使い〔御前に仕える御使い(新共同訳)〕が彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」と訳しています。
「御使い」とありますが被造物の天使ではなく、父の名代としての御子イエス様のことでしょう。リビングバイブルは、1コリント103.4を意訳して、「さらに神様は、奇蹟によって、荒野で彼らに、食べ物と飲み水をお与えになりました。彼らは、キリスト様から水をいただいたのです。キリスト様は、信仰に新しい力を与える力強い岩として、いっしょにおられたのでした。」と述べています。イエス・キリスト様は、御父の名代として、イスラエルの民を守り、導き、養い、支えたのです。私たち新生したキリスト者について言えば、このイエス様が私たちの内に住んでくださっておられるのです。イエス様は天におられますが、私たちの内にもいて下さいます(コロサイ127)。それだけではなく、私たちは主の内にいます(1コリント130)。新約の恵みの素晴らしさに驚嘆します。神様は遍在のお方です。物質について考える考え方の感覚で考えると分かりません。私たち新生したキリスト者の霊は、神の霊から生まれ(ヨハネ36、1ヨハネ229)、その上、「アバ(父)と呼ぶ」ひとり子の霊が私たちの内におられる(ガラテヤ46)ので、というか、私たちの霊と霊である主が結び付けられている、一つとなっている(1コリント617)ので、私たちは、自然に、至高の神であるところの父なる神様に親しみをもって祈っているのです。神が遠く感じられる時には、何か神と隔たりを作る罪があるのであろうと思います。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
新約の恵みを感謝します。
私たちは、霊の父であるあなたに親しく話しかけ、また、願いを聞いてもらい、また永遠の保証を与えられ、永遠の保証どころか、愛と真実のかたまりの我らの主キリスト・イエス様の花嫁としてくださったのですから感謝、感謝、感謝です。
御名をほめたたえつつ主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Ⅰヨハネの手紙 Ⅰ歴代誌 Ⅱ歴代誌 アモス書 イエス・キリストのことば イザヤ書 ウェブログ・ココログ関連 エステル記 エズラ記 エゼキエル書 エペソ人への手紙 エレミヤ書 オバデヤ書 ガラテヤ コロサイ コロサイ人への手紙 ゼカリヤ書 ゼパニヤ書 ダニエル書 テトスへの手紙 テモテへの手紙Ⅰ テモテへの手紙2 ナホム書 ネヘミヤ記 ハガイ書 ハバクク書 ピリピ人への手紙 ピレモンへの手紙 フィリピの信徒への手紙 ヘブル ヘブル人への手紙 ペット ペテロの手紙Ⅰ ペテロの手紙2 ホセア書 マタイによる福音書 マラキ書 ミカ書 ヤコブの手紙 ユダの手紙 ヨエル書 ヨシュア記 ヨナ書 ヨハネの手紙Ⅱ ヨハネの手紙Ⅲ ヨハネの福音書 ヨブ記 ルカ ルツ記 レビ記 ローマ人への手紙 伝道者の書 使徒の働き 使徒言行録 信仰 共観福音書 出エジプト記 創世記 哀歌 士師記 平安 悪しき霊 救い 救いと裁き 救いの確かさ 救い・救われたい方へ 日ごとの恵み 日ごとの恵みXⅢ 日ごとの恵みⅡ 日ごとの恵みⅢ 日ごとの恵みⅣ 日ごとの恵みⅤ 日ごとの恵みⅥ 日ごとの恵みⅦ 日ごとの恵みⅧ 日ごとの恵みⅨ 日ごとの恵みⅩ 日ごとの恵みⅩⅢ 日ごとの恵みⅩⅣ 日ごとの恵みⅪ 日ごとの恵みⅫ 日毎の恵み15 日毎の恵み16 日毎の恵み17 日毎の恵み18 日毎の恵み19 日毎の恵み20 日毎の恵み21 日記・コラム・つぶやき 民数記 申命記 箴言 終末 終末預言 経済・政治・国際 聖化 詩編 趣味 雅歌 黙示録 黙示録(2回目) 1コリント 1サムエル記 1テサロニケ 1列王記 2コリント 2サムエル記 2テサロニケ 2列王記

カテゴリー

2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ