箴言

2024年3月 2日 (土)

箴言28:3 幸いなるかな、憐れみ深い者

 箴言283を、
聖書協会共同訳は“弱い人を虐げる貧しい男は、収穫を押し流し、台なしにする雨。”と訳し、
2017
は“弱い者を虐げる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“貧しい人が自分より貧しい人をいじめるのは、激しい流れが、あっという間に、最後の頼みの綱を押し流すようなものです。”と意訳しています。

 「貧しい男」(聖書協会共同訳)、「貧しい者」(2017)、「貧しい人」(リビングバイブル)と訳されている語の「男」「者」「人」とある語のヘブライ語原語は「ゲベル」で、勇敢な人、勇士、戦士、の意があり、その他、人、の意にも使われます。

 日本でも、ホームレスをいじめる人たち、生活保護者への支給費を搾取する人たち等のニュースを見たことがあると思います。
昔も今も、同じような人がいることを知りますね。

 一方、主イエス様は、「幸いなのは、憐れみ深い人ですよ」と言われました。
主イエス様ご自身、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(2017)と、声をかけてくださいました。
更に、主イエス様は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ637・新共同訳)とも言われました。

 貧しい人、疲れた人、重荷を負っている人は、主イエス様のもとへ行くに限ります。
主イエス様は、その人その人に応じて、最善をなさってくださいます。

 弱いい人が私たちを訪ねて来た時には、どうしたらよいのでしょう。
主に祈りながら善処することだと思います。
祈りを忘れて、自分の出来そうなことをあれこれと考え、事を行ってしまうと的外れになるかもしれません。

 ガラテヤ62には“互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。”(2017)とも記されています。
互いの重荷を負い合うことは、キリストの律法を成就することになることがわかります。
主イエス様は、他の個所で、「神を愛し、隣人を愛しなさい。」と言われたことがあり、また「あなたがたは、互いに愛し合いなさい。」と言われたこともありました。(マタイ2237.39、ヨハネ1334参照)

 ヤコブ212.13には次のような警告が記されています。
「自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(2017)と語られました。
ガラテヤ522.23には、“御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制”(口語訳)と記されています。
御霊の実としての「慈愛」に満ちた歩みをすることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月27日 (火)

箴言28:2 よき指導者のいる国or集団は幸いです/御霊に満たされて

 箴言282を、
聖書協会共同訳は“地に反乱が起こると高官が多くなるが、分別と知識のある人によるならば安定が続く。”と訳し、
2017
は“国に背きがあるときは、首長が多くなるが、判断力と知識のある一人の人により、安定は続く。”と訳し、
リビングバイブルは“国民が平気で悪いことをするようになると、政府は簡単に倒れますが、良識と分別のある指導者がいれば、国は安全です。”と意訳しています。

 Bibleナビは次の様に適用注解しています。
“政府や社会が長く安定するには、知恵と知識のある指導者が必要であり、彼らを見つけることは困難である。
人のわがままさはすぐに他者に影響を及ぼす。
会社から盗む、利己的な雇用人は、会社の生産性を台なしにする。
運転する前に飲酒する利己的な運転手は、道路を、安全ではなくする。
姦淫を犯している利己的な配偶者はいくつかの家庭を台なしにする。
人々が、自分の行動が他者に与える影響についてほとんど考慮せずに自分のためだけに生きるとき、その結果として道徳は退廃し、国全体を堕落させる。
あなたは問題の一部となっているだろうか、それとも解決の一部となっているだろうか。”と述べています。

 「世界は二人のために」という歌謡曲が1967年に発売されました。
その歌詞に、当時の私は驚きました。その歌詞の中には次のような文言があります。
“二人のため 世界はあるの”というものです。
そしてこの歌詞は何度も繰り返されていくのです。

 また、同じ歌手が「いいじゃないの 幸せならば」という歌謡曲を歌って大ヒットしたのです。

 どちらも1970年以前の歌謡曲です。
どちらも大ヒットしましたが、大ヒットした理由は、人の中に、自分さえよければそれで良い、という利己的、という罪の性質を持っていたからなのだろうと思います。

 現代は、益々利己的になっているのかもしれません。
そして政治家も利己的になったら、その国はどうなるのでしょう。
そのような政治家が多くなったら世界はどうなるのでしょう。

 話を変えますが、
2
テモテ31-5には、
1 このことを知っておきなさい。終わりの日には困難な時期〔時代(口語訳、新改訳)〕がやって来ます。
2
 その時、人々は、自分自身を愛し、金に執着し、見栄を張り、思い上がり、神を冒瀆し、親に逆らい、恩を知らず、神を畏れなくなります。
3
 また、情けを知らず、和解せず、人をそしり、自制心がなく、粗暴になり、善を好まず、4 人を裏切り、向こう見ずになり、気が変になり〔「思い上がり」(新共同訳、2017)、「慢心する者」(新改訳初版~第三版)、「高言をする者」(口語訳)、「傲慢なる者」(文語訳)〕、神よりも快楽を愛し、5 見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 5aには“見た目は敬虔であっても、敬虔の力を否定するようになります。”とあります。
別の言い方をすると、「神を信じているように見えるけれども、神を信じること及び聖句を信じることができないので、その実を得ることができない。それ故、敬虔の力を否定する。」というように捉えることもできるのではないかと思います。

 2テモテ31-9を読むと、この個所が地上の教会を構成しているものを対象に記されていることがわかります。
すなわち、この世の罪が教会に入ってきて、それが暴れまわるのです。その背後には悪しき霊の働きがあるのでしょう。

 箴言282を聖書協会共同訳は“地に反乱が起こると高官が多くなるが、分別と知識のある人によるならば安定が続く。”と訳しています。
これを地上の地域教会にあてはめることもできるでしょう。
地上の地域教会も、「霊的な知恵と知識と主イエス様に対する信頼に満たされた、すなわち聖霊に満たされた人によるリーダーシップによって安定する。」と捉えることもできるのではないかと思います。

 コロサイ23には“知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。”(新共同訳)と記されています。

 「御霊に満たされた」と書きましたが、御霊の実についてガラテヤ522.23は、“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実〔「忠信」(文語訳)「忠実」(口語訳)。ギリシア語原語は「ピスティス」で、信仰、真理、真実、信頼、確信、・・等の意があります(筆者挿入)〕、柔和、自制です。”(2017)と記しています。
御霊は「真理の御霊」とも言われるように、真理を教えてくださる神の霊です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たち一人一人のキリスト者を聖霊に満たしてくださり、聖霊の実を、豊かに実らせる者とならせてください。
成長させるのは神様なのですからよろしくお願いします。
感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月23日 (金)

箴言28:1 神を畏れている人は他のものを恐れない

 箴言281を、
聖書協会共同訳は“悪しき者は追う者もいないのに逃げるが、正しき者は若獅子のように自信に満ちている。”と訳し、
2017
は“悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。”と訳し、
リビングバイブルは“悪者は追われもしないのに逃げ回りますが、神様を恐れる人にこわいものはありません。”と訳し、
新共同訳は“神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。”と訳しています。

 「悪しき者」(聖書協会共同訳、2017)、「悪者」(リビングバイブル)、「神に逆らう者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャ」で、不正、悪、神を恐れない、・・等の意があります。

 「自信に満ちている」(聖書協会共同訳)、「頼もしい」(2017)、「こわいものはありません」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「バータフ」で、頼みになる、勇敢な、自信がある、・・・等の意があります。

 サウルが王であった時代、少年ダビデやサウルの子のヨナタンはその様な人、すなわち「神に従う人は若獅子のように自信があるor頼もしい」と言える人たちであったと思います。
二人とも神ヤハウェ(主)を信じて、常識的には戦えそうもないと思えたような敵に勝利しました。

 ダビデは、サムエルを通して主に油を注がれた後、巨人ゴリアテ(ゴリアト)と戦い勝利したのです。
 ダビデが登場する前のイスラエル軍とゴリアテ(ゴリアト)との関係が1サムエル171-11に次のように記されています。
1 ペリシテ人は戦いに備えて軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集結し、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。
2
 サウルとイスラエルの兵士も集結し、エラの谷に陣を敷いてペリシテ人との戦いに備えた。
3
 ペリシテ人は一方の山に陣取り、イスラエル人はもう一方の山に陣取って、谷を挟んで相対峙した。
4
 時にペリシテ人の陣営から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトと言い、ガト出身で、背丈は六アンマ半〔三メートル近く(リビングバイブル)〕に及んだ。
5
 頭には青銅の兜をかぶり、身には青銅で五千シェケル〔57kg(筆者挿入)〕の重さのあるうろことじの鎧を着て、6 足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。
7
 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、穂先は鉄六百シェケル〔7kg(筆者挿入)〕あった。彼の前を盾持ちが進んだ。
8
 ゴリアトは立ち止まると、イスラエルの戦列に向かって叫んだ。
「どうしてお前たちは戦列を整えて出て来るのか。私はペリシテ人、お前たちはサウ ルの家来ではないか。お前たちの中から誰か一人を選んで、私の方へ下りて来させよ。9 もしその者が私と戦って、打ち負かすことができたなら、我々はお前たちの奴隷となろう。しかし、もし私がその者を打ち負かしたなら、お前たちは 奴隷となって、我々に仕えるのだ。」
10
 そのペリシテ人は続けて言った。
「私は今日、イスラエルの兵士たちに戦いを挑む。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」
11
 サウルとすべてのイスラエル人は、このペリシテ人の言葉を聞いておののき、恐れた。”(聖書協会共同訳)とあります。
ゴリアテのこの威嚇は40日に及びました。
ですからイスラエル軍は、40日間、脅され続けていたのです。

 そこに登場したのが少年ダビデでした。
ダビデがこの場に登場する前に、神ヤハウェ(主)は、サムエルを用いて、ダビデに油を注いでいました(1サムエル161-13)。
1
サムエル1613aには“サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼〔ダビデ(筆者挿入)〕に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。”(新共同訳)と記されています。

 話を元に戻します。
ダビデは、父親から、イスラエル軍にいる兄たちに食料を届けるように言われました。
ダビデは、その所に行き、初めてゴリアテ(ゴリアト)を見、ゴリアトの言葉を聞いたのです(1サムエル1717-1923)。

 その後色々とありましたが、ダビデはゴリアトと戦うことをサウルによって許可されました。
 ダビデとゴリアトの戦いの様子が1サムエル1741-51に次のように記されています。
41 ペリシテ人は盾持ちを先に立て、一歩一歩ダビデに近づいて来た。
42
 彼は眼を据えてダビデを見たが、ダビデが容姿端麗で、血色の良い少年だったので侮った。
43
 そのペリシテ人はダビデに言った。
「私は犬か。杖を持って私に向かって来るとは。」
そして自分の神々によってダビデを呪い、44 ダビデに言った。
「さあ掛かって来い。お前の肉を空の鳥、野の獣にくれてやろう。」
45
 ダビデはそのペリシテ人に言った。
「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神〔戦陣の神(2017)〕、万軍の主の名によって、お前に立ち向かう
46
 今日、主はお前を私の手に渡される。私はお前を討ち、その首をはね、今日、ペリシテ軍の屍(しかばね)を空の鳥と地の獣に与える。全地はイスラエルに神がおられることを知るだろう。
47
 主が救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主の戦いである。主はお前たちを我々の手に渡される。」48 すると、そのペリシテ人は立ち上がり、ダビデと戦おうとして近づいて来た。ダビデはすぐさまそのペリシテ人に立ち向かうため戦いの場へ走った。
49
 ダビデは袋に手を入れて石を取り出すと、石投げひもを使ってペリシテ人目がけて飛ばし、その額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。
50
 こうしてダビデは石投げと一個の石でそのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には一振りの剣もなかった。
51
 ダビデは走って行って、そのペリシテ人の傍らに立ち、彼の剣を奪い、鞘を払って、とどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ人たちは彼らの勇士が死んだのを見て、逃げ出した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨナタンも主にあって勇敢な人でした。
1
サムエル141-15には次のように記されています。
1 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは彼の武器を持つ従者に言った。
「さあ、向こう岸にいるペリシテ人の本隊のところに渡って行こう。」
ヨナタンはこのことを父に知らせなかった。
2
 その頃サウルはギブアの外れ、ミグロンのざくろの木陰にいた。彼と共にいた兵はおよそ六百人であった。
3
 そこにはエフォドを身に着けたアヒヤもいた。アヒヤはイ・カボドの兄弟アヒトブの子であり、イ・カボドはシロで主の祭司を務めたエリの子ピネハスの子である。兵もヨナタンが出て行ったことを知らなかった。
4
 ヨナタンがペリシテ人の本隊のところへ渡って行こうとした渡しは、こちら側にも、向かい側にも切り立った岩があり、向かいの岩はボツェツと呼ばれ、こちら側の岩はセンネと呼ばれていた。
5
 一つの岩はミクマスに面して北側に、他はゲバに面して南側にあった。
6
 ヨナタンは武器を持つ従者に言った。「さあ、あの無割礼の者たちの本隊のところへ渡って行こう。恐らく主は我々に味方してくださるであろう。主が救いをもたらすのに、人数の大小は問題ではない。」
7
 武器を持つ従者はヨナタンに言った。
「あなたの思いどおりになさってください。お供します。私はあなたと一心同体です。」
8
 ヨナタンは言った。
「よし。ではあの者たちのところへ渡って行って、我々の姿を見せよう。9 もし彼らが、『お前たちのところへ着くまでじっとしていろ』と言うなら、そこに立ち止まって、上って行くのはよそう。10 しかし、もし、彼らが『我々のところに上って来い』と言うなら、我々は上って行こう。それこそ、主が彼らを我々の手に渡してくださるしるしだ。」
11
 こうして、二人はペリシテ人の本隊に向かって姿を現した。すると、ペリシテ人は言った。「見ろ、ヘブライ人が身を隠していた穴から出て来たぞ。」
12
 先陣の兵士たちは、ヨナタンとその武器を持つ従者に向かって言った。
「上って来い。思い知らせてやろう。」
ヨナタンは武器を持つ従者に言った。
「私に続いて上りなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡された。」
13
 ヨナタンは両手両足を使ってよじ上り、武器を持つ従者もその後に続いた。ヨナタンの前にペリシテ人は倒され、武器を持つ従者がその後からとどめを刺した。
14
 ヨナタンと武器を持つ従者が最初に討ち取った者はおよそ二十人で、それは一軛の牛が一日で耕す畑の半分ほどの場所で行われた。
15
 このため、恐怖が陣営でも野でも兵士全体に広がり、さらには、本隊も遊撃隊も恐怖に襲われた。地は震え、恐怖は極みに達した。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者の戦いは霊の戦いです(エペソ612)が、主に信頼して戦い、勝利をおさめる者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月19日 (月)

箴言27:23-27 主に委ねられている物に対する管理責任/神の約束と人の責任

 箴言2723-27には次のように記されています。
23 あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を向けよ。
24
 富はとこしえに続くものではなく、冠も代々に継がれるものではない。
25
 草を刈り取ると、また青草が伸び、山々の牧草は集められる。
26
 小羊はあなたの衣服に、雄山羊は畑の代価になる。
27
 雌山羊の乳は、あなたの食物、家族の食物に十分で、あなたに仕える若い女たちを養う。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルは次の様に意訳しています。
23.24 財産はすぐなくなり、王位はいつまでも続きはしません。だから収入や、家畜の状態を知っておきなさい。
25-27
牧草を刈り取り、二番草も刈り取ったあと、山の草を集めなさい。そうすれば、子羊の毛もやぎの乳も十分に取れ、家族の生活に困りません。”とあります。

 Bible navi の適用注解は、この個所に関して次のように述べています。
“人生は不確かであるゆえに、私たちはみな、将来の備えにさらに熱心にならなければならない。見通しをもって行動し、家庭、家族、仕事に対して責任を持って注意を払うべきである。
土地と群れを持つ農夫のような、信頼できる管理人となるべきである。先のことを考えることは、神の民にとって、選択肢ではなく義務なのだ。”とあります。

 Bible navi のこの個所の適用注解に疑問を持つ人もいるかもしれません。
そのような人は次のような諸聖句を持ち出すかもしれません。

 主イエス様は次の様に語られたことがマタイ6章に記されています。
25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26
 空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
27
 あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。
28
 なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30
 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31
 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。
32
 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
33
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。〔リビングバイブルは「神を第一とし、神が望まれるとおりの生活をしなさい。そうすれば、必要なものは、神が与えてくださいます。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
34
 だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」〔リビングバイブルは「明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、一日一日を力いっぱい生きなさい。」と意訳しています。(筆者挿入)〕”(マタイ6章・聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉です。

 またへブル135には“金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。”(新共同訳)と記されています。

 1テモテ68には“食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。”(新共同訳)と記されています。

 またピリピ4章には、パウロの体験と勧めが次のように記されています。
11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。
12
私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
19
また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。〔わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって{キリスト・イエスの中で(筆者挿入)}満たして下さるであろう。(口語訳)〕”(2017)とあります。

 また“だれに対しても、何の借りもあってはいけません。”(ローマ138a2017)というような聖句もあります。

 ルカ16章に次のような主イエス様の御言葉があります。
9 そこで、私は言っておくが、不正の富〔あてにならない富=この世の富(筆者挿入)〕で友達を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
10
 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
11
 だから、不正の富について忠実でなければ、誰があなたがたに真実なものを任せるだろうか。
12
 また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなたがたのものを与えてくれるだろうか。
13
 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎(うと)んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 「不正の」と訳されている語のギリシア語原語は「アディコス」で、不正な、不公平な、という意の他に、あてにならない、裏切りをする、等の意もあります。
私は、この世の富は「あてにならない富」であると思っています。
もし広範囲な大地震、大洪水、火災、その他の大災害に襲われたとしたら、この世の富はあてにならない富だと思うと思います。
特に黙示録に記されている神の怒り(御怒り)が発動されたら、この世の富はあてになりません。
高度なインフレになれば、お金の価値は大暴落します。
株や債券も大暴落すれば大損失をこうむります。
この世の富は、あてにならない富なのです。 
しかし、主イエス様は、この世の富に対しても忠実に、またこの世の富を主のために上手に用いるように、と勧めているように思います。

 肉体を持っている間は、この世で生きていかなければなりません。
いくらこの世の富があてにならないとしても、主が与えてくださった能力や様々なものを用いて自活し(2テサロニケ36-12)、また上手に管理して生活していく必要があるのです。
罪が入ってくる前から、神様は、アダムに仕事を与えています(創世記128215)。

 しかし、収入の道が途絶えたとしても、主が養ってくださるという約束があります{フィリピ(ピリピ)419
ただし、収入の道が途絶えたのでないにもかかわらず、すなわち仕事をすれば収入が得られるという状態にある場合には、仕事をして糧を得る必要があるでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の内にある者として、主に在ってふさわしい生活をしていくことができますように。
あなたが私たちを地上に置かれている間、あなたは何らかの方法で私たちの必要を満たしてくださいますから感謝します。
天にあるもの、地にあるもののすべてを保有しておられますあなたの御名を賛美します。
いつでもあなたに信頼して歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月15日 (木)

箴言27:23 主に在る兄姉たちに心を向ける/兄姉たちのために祈りましょう

 箴言2723を、
2017
は“あなたの羊の様子をよく知り、群れを心に留めておけ。”と訳し、
聖書協会共同訳は“あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を向けよ。”と訳しています。

 箴言2723-27は、神の民は地上の生活においても良き管理人である必要がありますよ、と教えてくれている個所ですが、今日は23節のみを取り上げて、それを霊的に捉えてみようと思います。

 ペテロは、主イエス様に「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21152017)、「わたしの羊を牧しなさい〔羊の世話をしなさい(聖書協会共同訳)〕。」(ヨハネ21162017)、「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21172017)と言われました。

 箴言2723には「あなたの羊」とありますが、霊的に捉える場合には、主があなたに委ねておられる主のひつじ、or主から委ねられた羊、ということになります。
キリストを信じている人で子供がいる人であれば、その子供は、主から委ねられたひつじと考えることもできるでしょう。

 ヨハネ2115.17の「飼う」と訳されている語のギリシア語原語は「ボスコ―」で、食べ物を与える、餌をやる、養う、・・等の意があります。
ヨハネ2116の「牧す」(2017)、「世話をする」(聖書協会共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「ポイマイノー」で、世話をする、看護する、番をする、食物を与える、養う、統治する、・・等の意があります。
{「統治する」についてですが、主はペテロを通して「群れの模範になりなさい」(1ペテロ532017)と教えらておられています。}

 現在の地域教会の制度では、普通は、その(ポイマイノーの)ような立場の人が立てられています。
しかし、それと共に、聖書の中には、「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い」(コロサイ3162017)というような聖句や、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」(1テサロニケ5142017)というように、一般信徒に対しても記されているのです。

 とはいえ、このように記されているからと言って、気になったことを何でも言ってよいというわけではありません。
言うことの出来る状態というものがあります。
忠告できる人は、愛に満たされ、主に整えられている状態にある人、ということになります。

 主イエス様は言われました。
「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ74.52017)と記されています。
きよくされていない人の忠告は害になる可能性があることを教えられます。

 またパウロは、愛がなければむなしい、と述べています。
「・・・愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。・・・愛がないなら、私は無に等しいのです。・・・愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント131-32017)と記されています。

 話が変わりますが、キリスト者ならば、誰にでもできることがあります。
それは聖徒たち(主に在る兄姉たち)のために祈ることです。
エペソ(エフェソ)618には「すべての聖徒〔原語は複数形。すべてのがついているので「聖徒」で良いのですが(筆者挿入)〕のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(2017)と記されています。

 主イエス様の羊は、御父から与えられた羊です。
ヨハネ1027-29には次のように記されています。
27 私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
28
 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
29
 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない〔異本による(欄外注)〕。
29節を2017は「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」と訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリストにある兄姉たちは、互いに御言葉により養いあい、祈り合い、悪魔の獅子的な攻撃や誘惑から互いに守られるようにして、共に主に在って歩み続けることが大切であることを教えられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主に整えて頂いて、主に在って、主が望んでおられるような歩みをし続けていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月11日 (日)

箴言27:22 神様の御言葉を受け入れない者は真理に至らない

 箴言2722を、
聖書協会共同訳は“無知な者を穀物と共に臼に入れ、杵でついても、無知は彼から離れない。”と訳し、

2017
は“愚か者を臼に入れ、きねでこれを麦と一緒についても、その愚かさは彼から離れない。”と訳し、

リビングバイブルは“神の教えに背く愚か者につける薬はありません。”と意訳しています。

 「無知な者」(聖書協会共同訳)、「愚か者」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「エヴィール」で、ひねくれた、正道を踏み外している、邪悪な、愚かな(者)等の意があります。

 「エヴィール」には、「正道を踏み外している」という意味もあるので、リビングバイブルは「神の教えに背く愚か者」と訳したのかもしれません。

 後半部分の「無知」(聖書協会共同訳)、「愚かさ」(2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「イヴェレト」で、愚かさ、愚劣、痴態、軽薄、等の意があります。

 どんなにIQが高くても、あるいはこの世でもてはやされるような学者であっても、神の御言葉に価値を見出さない者は、真理に対して無知であるとつくづく思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
1
コリント127-29に“・・、神は知恵のある者を恥じ入らせるために、この世で愚かとみなされているものを選び出し、また、神は強いものを恥じ入らせるために、この世で弱いとみなされているものを選び出されました。神は、この世で取るに足らないもの、軽んじられているもの、つまり、無に等しいものを選び出されました。それは、何らかの場を得ているものを、無力なものにするためでした。これは、いかなる人間も神の前で誇ることのないようにするためでした。”(フランシスコ会訳)と記されていることを痛感します。
聖書を信じさせていただけたこと、創造主なる神を信じさせていただけたこと、イエス・キリスト様を信じることによって救われるということを信じさせていただけたこと、聖霊を信じさせていただけたこと、更に三一の神様との豊かな交わりを持たせていただけるようにしていただけたこと等の計り知れない恵みを感謝します。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月 7日 (水)

箴言27:21 人は他者の賞賛の言葉によってテストされ、また精錬される

 箴言2721を、
 聖書協会共同訳は“銀の精錬にはるつぼ、金には炉。人は賛美する口によって精錬される。”と訳し、
 2017は“銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試(ため)される。”と訳し、
 新共同訳は“銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。”と訳し、
 リビングバイブル旧版は“銀と金の純度はるつぼでテストされ、人は、ほめられた時にどのような態度をとるかでテストされます。”と意訳し、
 リビングバイブル新版は“銀と金の純度はるつぼで試され、人は、称賛を浴びるときに試されます。”と意訳しています。

 ヘブライ語聖書を直訳すると、「銀にるつぼ、金に炉、そして人は称賛の言葉に」となります。
現代の銀や金を精錬する方法はソロモンの時代(今から約3000年前)とは異なるようです。
私は、この件に関して無知なので、ウィキペディアの灰吹き法の項目を下記しておきます。
“灰吹法(はいふきほう)は、金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する技術。金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古くから行われてきた技術で、旧約聖書にも記述がある。

抽出法

貴金属の鉱石は単体の金属や合金、硫化物などの状態の鉱物として産するが、もともと反応性の低い元素であるため、硫化物などの化合物であっても加熱によって容易に還元され、金属となる。そのため金や銀の鉱石を融解した鉛に投じると、もともと金属状態であったり、加熱によって還元されて金属になった金や銀は容易に鉛に溶け込んで合金を生じる。この金銀が溶け込んだ鉛をキューペル(骨灰やポルトランドセメント、酸化マグネシウムの粉末などで作った皿のこと)にのせて空気を通しながら約800-850℃に加熱すると、鉛は空気中の酸素と反応して酸化鉛になり、キューペルに吸収され、金と銀の合金が粒状になってキューペルの上に残る。液体の金属は表面張力が大きいため多孔質のキューペルの上でも液滴の形状を保つが、融解した酸化鉛は表面張力が小さく、毛管現象でキューペルに吸い込まれてしまうからである。また銅、鉄、亜鉛といった卑金属の不純物は酸化して酸化鉛と混合し、スラグになるので、量が多い場合にはこれをかき出す。残った貴金属粒子は吹金(灰吹金)あるいは灰吹銀と呼ばれた。金を含有する灰吹銀は山吹銀と称し金銀吹分けが行われた。

残った貴金属合金粒子から金と銀を分離するには、硝酸で銀を溶解するか、電解を行えばよい。江戸時代の日本では金を含有する灰吹銀に鉛および硫黄を加えて硫化銀を分離し、金を残すという手法が採られた。この方法は鉱石中の金や銀の定量分析にも利用される。江戸時代の銀座においても、製造された丁銀の品位を分析する糺吹きにおいて灰吹法が用いられた。

灰吹法が広まることにより、酸化鉛や水銀の粉塵を吸い込んだ作業員が鉛中毒や水銀中毒を発症し、例えば石見銀山では鉱山での劣悪な環境も相まって30歳まで生きられた鉱夫は尾頭付きの鯛と赤飯で「長寿」の祝いをしたほどであった。こうした中毒被害・公害の観点やコスト・効率などの理由により、今日の近代工業において粗銅地金から貴金属などを分離する方法は、電解精錬や青化法に移行している。/
 〔古代(筆者挿入)〕
銀鉱石の方鉛鉱には、一般に0.031%の銀を含み、飛鳥池工房遺跡からも小さい方鉛鉱が出土した。方鉛鉱は、劈開面〔「へきかいめん」岩石などの結晶面に平行して割れた面(筆者挿入)〕を持ち、一定の面に沿って割れる、つまりもろいので容易に粉砕できるものである。これを凝灰岩製の坩堝(るつぼ)で焼く。一般的な凝灰岩は、比較的もろく多孔質であることが特徴である。凝灰岩製の坩堝の中で焼くと、鉛は酸化され、先に溶け出し、多孔質の坩堝に吸収されるとともに、大気中に幾分蒸発する。そして、最後に銀が小さな粒として残される。この小さな銀の粒を集めて、ある程度大きな塊にするために、粉末化した方鉛鉱を再び加え、ピット状の穴を開けた、凝灰岩製の坩堝(るつぼ)に詰め、炉中で熱する。方鉛鉱から溶け出した鉛は、小さな銀の粒を凝集した後に、凝灰岩に吸収され、再び銀だけが濃縮されて残る。この作業は、銀の濃度を上げるために、何度か繰り返されたことが想定でき、こうして、出土した直径5mm程度の銀粒ができたとみられている。方鉛鉱中の銀を抽出する製錬から、それを集めて再び方鉛鉱を加えて銀を濃縮し、純度を上げる精錬に至る一連の作業が、まさに「灰吹法」である。ここでは、灰の代わりに多孔質な凝灰岩製坩堝(るつぼ)が直接鉛の吸収材の役目を担っている。”(抜粋)と記されています。

 古代の人は、金や銀の、古代の精錬方法や純度試験を知っていたでしょうから、「銀には坩堝(るつぼ)、金には炉、人には賞賛の言葉」というだけで、何のことかわかったと思います。

 それを、2017は“銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試(ため)される。”と意訳し、
聖書協会共同訳は“銀の精錬にはるつぼ、金には炉。人は賛美する口によって精錬される。”と意訳したのでしょう。

 この箴言で言いたいことは、人についてですから、人に絞って考えると、
他の人からor何かの団体から称賛が届いたとき、その称賛された人がどのような態度をとるか、心の中でどのように思うか、ということが問われているのだと思います。

 この世の人や神のことばとは無関係な事柄においては、人から「すごいねー」、「本当に良かったよ」などと言われたときに、慢心したり、どや顔になったりするのか、勝って兜の緒を締めよ、という言葉のように、更に気持ちを引き締めて次に向かっていくのか、あるいはまた「みんなのおかげだなー」と思うのか、・・・・等々の違いがあるでしょう。

 しかし、神の世界、霊の世界においては、例えば、説教をして称賛を受けたり、回心者が多く与えられたりした場合に、自己陶酔や自己満足に陥っては落第です。
人が救われるのも、人が説教者の語られたことばにより霊的感動を受けるのも、聖霊の働きによるからです。
ですから、働き人が、回心した人や恵まれた人と共に主に感謝し、主をほめたたえることが健全な姿、心のありようです。
サタンも主の許可のもと称賛してくる場合もあるのです。
その時には、サタンを主の御名によって追い払わなければなりません。サタンは罪を犯させるまで諦めませんから。

 サタンの攻撃として捉えても良いのではないかと思える聖句に、
“銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。”(箴言1732017)というのがあります。
サタンの申し出に基づいて、主が許可を与えたのでしょう。また主イエス様の例もあります(マタイ41-11)。

 「すべての栄光は主に」です。
詩篇291.2には次のように記されています。
“力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いかなる状況に置かれても、主を愛し、主に信頼し、主に感謝し、主をほめたたえながら地上生涯を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年2月 3日 (土)

箴言27:20 よみも欲望も飽くことがない/神の霊に満たされることの幸い

 箴言2720を、
2017
は“よみと滅びの地は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。”と訳し、
聖書協会共同訳は“陰府も滅びの国も満ち足りることがない。人間の目も満ち足りることがない。”と訳しています。

 「よみ」(2017)、「陰府」(聖書協会共同訳)と訳されているヘブライ語原語は「シェオール」です。70人訳ギリシア語聖書は「ハデース」となっています。

 ハデス(ハデース)について聖書辞典は次のように述べています。
“この語は新約聖書に10回出てくる。下界の神ハイデスからとったことばとされているが、旧約聖書の〈ヘ〉シェオール(よみ)と共通の概念を持っている。使2:27,31では詩16:10の〈ヘ〉シェオールが〈ギ〉ハデースと訳されている。これは通常「見えない世界」を指し、死後の世界、肉体的死とさばきの間の中間状態を指している。使2:25‐31の部分でペテロは死とハデスを同義語として扱っており、黙1:18,6:8,20:13‐14では死と一組で使われている。またハデスは、苦しみの場所でもある。・・。マタ11:23ではカペナウムはここに落とされるとあり、旧約的な地の下の概念が見える(参照詩139:8)。マタ16:18では教会の敵、サタンの本拠地として示されている。”(抜粋)とあります。

 使徒2章のペトロ(ペテロ)の説教の中から25-32節を下記します。
25 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので私は揺らぐことがない。
26
 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜び躍った。私の肉体もまた希望のうちに安らう。
27
 あなたは私の魂を陰府〔ヘブライ語原語は「シェオール」(筆者挿入)〕に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない〔滅びをお見せにならないからです(2017)〕。
28
 あなたは、命の道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たしてくださる。』〔25b-28節は、詩篇168-11の引用です(筆者挿入)〕
29
 きょうだいたち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあると、はっきり言えます。
30
 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人を王座に着かせると、神が堅く誓ってくださったことを知っていました。
31
 そして、キリストの復活について予見して、『彼は陰府〔ギリシア語原語は「ハデース」(筆者挿入)〕に捨て置かれず、その肉体は朽ち果てなかった』と語りました。
32
 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。”(聖書協会共同訳)とあります。

 箴言2720の「よみは飽くことがない」という個所を読んだときに、私が最初に思い浮かべた聖書個所は、黙示録68の預言聖句でした。そこには、
“私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。”(2017)と記されています。
「よみ(陰府)」(ギリシア語原語は「ハデース」)が携挙の後に地上に残された地球人口の1/4を呑み込むというのです。その時の人口が80億人であったと仮定するとわずかの期間に、よみは20億人も呑み込むのです。

 余談になりますが、キリスト者は「よみ(陰府)」には行かず、天国に行きます。
イエス様の御言葉に、「わたしは・・、わたしの教会(エクレシア)を建てます。よみ〔ハデース(筆者挿入)〕の門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ1618抜粋・2017)というのがあります。
「よみ」は教会に勝つことができないのです。教会とは主に呼び出された者たち{御父が御子に与えられた者たち(ヨハネ637a1027-29172b)}、すなわち新生した者たちの集まりです。
また、エクレシアはよみに打ち勝ちますから、黙示録68の預言聖句が成就する時、もうすでに地上にはいない(天にる)か、万が一地上にいても守られるということでしょう(私は艱難時代前携挙説を取っていますから、キリスト者はこの時には地上にいないと考えています)。

 箴言2720bには「人間の目も満ち足りることがない」(聖書協会共同訳)とあります。
この個所は「目の欲」について述べていますが、1ヨハネ216には“すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。”(2017)と記されています。
この個所をリビングバイブルは“すべて世に属するもの――罪の性質から起こる欲望、性的な欲望、暮らし向きの虚栄心――は、神から出たものではなく、みな、この世の産み出したものです。”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
三一の主の霊に満たされる幸いを覚えます。
何時もその様にいることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔ギリシア語原語は「パラクレートス」=助け手、弁護者、とりなし手、慰め主、真理を教授する方、支える方(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17
 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18
 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19
 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
20
 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる
21
 私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」/
23
 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」”(ヨハネ14章・聖書協会共同訳)

2024年1月30日 (火)

箴言27:19 人の心のありようは、その人の外側に現れてくる/主が私たちを通して働くことができるように私たちを整えてくださいますように

 箴言2719を、
2017
は“顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る。”と訳し、

聖書協会共同訳は“水面(みなも)が顔を映すように、心はその人を映す。”と訳し、

リビングバイブルは、“顔を映すのは鏡ですが、人のほんとうの心は、その人がどんな友を選ぶかでわかります。”と意訳しています。

岩波訳は「水が、顔に対して顔を〔映す(訳者挿入)〕ように、心が、人に対して人を〔映す(訳者挿入)〕。」と訳しています。

 新共同訳スタディ版の注は「他者の態度を見ると自分の心の状態がわかる、あるいは他者の態度に自分の感情の反映を見ることができるという意味であろう。」と解説し、

 ウェスレアン聖書注解は「われわれの考え方が、われわれの真の性質、すなわち、深い内側においてわれわれが何であるかということを、表現するものであることは、確かに本当である。もし、われわれが基本的に自己本位であれば、われわれの思想(それゆえにわれわれのことばと行動も)が、そのことを反映するであろう。われわれが真に内側でどういう者であるかを、かくすことは不可能である。」と述べ、

 岩波訳の注は“「最初の『人』が二つ目の『人』と同一の人なのか、別人なのかが問題。前者ならば、自己認識に関する格言となり、別訳『人に対応して〔その〕人の心〔がある〕』が考えられる。”と述べています。
後者ならば、自分が向き合っている心の中に自分が反映している、の意味になる。」と述べています。

 人の心は、その人に反映されるという観点で少し述べてみたいと思います。
人の心は、その人の言葉に、その人の行動or態度に、その人の表情に、その人の体の柔らかさや硬直度に、更には、それらの不統一に表れます。

 例えば、怒りを抑えてにこやかな顔をしても、目をよく見ると怒っているとか、口では「喜んで従います」といっても、体は硬直してるとか、・・・と、色々な場合がありますね。

 福音を聞かされて、「イエス様を信じます」と言った人が、本当はその場を切り抜けるために「信じます」と言っただけであって、イエス様を信じて心にお迎えするようなことをしていない、というような場合は、その人の後のありようを見ていると、全く信じていないということが分かるようになります。

 主イエス様は、人の語る言葉を単純に信じるのではなく、その人の人となりをよく観察して、その人の語る言葉を判断しなさい、とも言われました。
 マタイ715-20には次のように記されています。
15 「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である。
16
 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
18
 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
19
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20
 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 また、イエス様は言われました。
「悪い考えや悪い言葉、悪い行動は心から出てくるものですよ」と。
マルコ720-23には、
20 〔イエスは(筆者挿入)〕さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。
21
 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 話を変えますが、
1
コリント617を、
岩波訳は“主に接合させられる者はしかし、〔主と(訳者挿入)〕一つの霊なのである。”と訳し、
聖書協会共同訳は“しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。”と訳しています。
 また主イエス様は、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ737.38・聖書協会共同訳)と語られました。
「生ける水」について、ヨハネは“これは彼を信じる人が受けようとしていた霊について言ったのである。つまりイエスがまだ栄光 を受けていなかったので、霊はまだなかったのである。”(ヨハネ739・岩波訳)と解説しました。
 1コリント1545には“・・・。最初の人アダムは、生ける〔自然的な〕いのちとなった。〔そして〕最後のアダム〔すなわちキリスト〕は、〔人を〕生かす霊〔となったのである〕。”(岩波訳)と記されています。〔 〕内は訳者挿入です。

 新生した人の霊には、主が住んでおられます。
主は全き愛のお方です。
主の霊が新生した人の言葉に、行動に、表情に、態度に流れ出したら、その人は、主に在って、愛に生きることが出来ることになります。
 1コリント13章には、
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5
 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
6
 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8
 愛は決して滅びません。/
13
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
わたしの魂や肉体の部分が主の霊の働きを妨げることなく、主の霊が流れ出してくださったらなんと素晴らしいことでしょう。
あなたの子どもとしてふさわしく整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年1月26日 (金)

箴言27:18 主を愛し、主に喜ばれる歩みをしたいものですね

 箴言2718を、
2017
は“いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。”と訳し、
聖書協会共同訳は“いちじくの番をする者はその実を食べるが、主人を守る者は誉れ〔名誉(新共同訳)〕を得る。”と訳し、
リビングバイブルは“果樹園の番人がそこの果物を頂けるように、主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です。”と訳しています。
原文は上記のいずれの様にも訳せます。

 私が直訳すると聖書協会共同訳のようになりますが、「守る」と訳されているヘブライ語原語は「シャーマル」という語で、護衛する、守る、の他に、世話をする、随行する、付き添う、精を出す、専心する・・・等の意があります。

 「誉れ」と訳されているヘブライ語原語は「カーバド」で、誉れ、の意がありますが、重いこと、名誉、光栄、等の意の他に、豊か、金持ち、潤沢、(~に)恵まれ、・・・等の意があります。
カーバドを豊かになる、恵まれる、等に訳すと、リビングバイブルのように「主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です」と訳せます。

 ダビデがペリシテ人の巨人の祖ラファの子孫であるイシュビ・ベノブに殺されそうになったとき、ツェルヤの子アビシャイがダビデを助けたことがあります。
 2サムエル2115-17には、
15 ペリシテ人とイスラエルの間に、再び戦いが起こった。ダビデは家臣を連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。
16
 ラファの子孫の一人イシュビ・ベノブは三百シェケル〔約3.4kg(筆者挿入)〕の重さの青銅の槍を持ち、新しい武具を帯び、ダビデを討つ、と言った。
17
 しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助けて、このペリシテ人を打ち殺した。それから、ダビデの家臣たちはダビデと誓い合った。「あなた はもう、我々と共に戦いに出てはなりません。イスラエルの灯を消してはなりません。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
アビシャイの名は、このように聖書に記されたのです。まさしく、「主人を守る者は誉れ〔名誉(新共同訳)〕を得る。」と記されている通りです。

 「守る」と訳されているヘブライ語原語には「専心する」という意もあります。
ベタニヤのマリアは、一途に主を愛していたので、主の葬りの準備として300デナリの値打ちのある香油を主に塗りました。このことも聖書に記述されました。
 ヨハネ121-7には次のように記されています。
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2
 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。
3
 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ〔326g(筆者挿入)〕持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭(ぬぐ)った。家は香油の香りでいっぱいになった。
4
 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。
7
 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。
8
 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 更に、マルコ148.9には、主イエス様の御言葉が次のように記されています。
「この人〔ベタニアのマリア(筆者挿入)〕はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルは“果樹園の番人がそこの果物を頂けるように、主人のために働く者が報酬を受けるのは当然です。”と訳していました。
この訳を読んだとき、1コリント9章の次の聖書個所を思い浮かべました。
9 モーセの律法に、「脱穀している牛に、口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
10
 それとも、私たちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、私たちのためにそう書かれているのです。なぜなら、耕す者は当然、望みを持って耕すべきであり、脱穀する者は分け前にあずかる望みを持って脱穀するからです。
11
 私たちがあなたがたに霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取るのは、行き過ぎでしょうか。
12
 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらそうではありませんか。しかし、私たちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を妨げないように、すべてのことを耐え忍んでいます。
13
 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人は祭壇の供え物にあずかります。
14
 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主を愛し、主のために働くキリスト者は天の神の王国で報酬を頂きます。それは携挙の後とキリストの地上再臨の間に行われると思います。
2
コリント510には、“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”(2017)と記されています。
 この個所をリビングバイブルは、
“・・、やがて私たちはみな、キリストの前でさばきを受けなければならず、全生活がさらけ出されることになるからです。善であれ悪であれ、地上の体でいる時の行ないに応じて、私たちはそれぞれ、ふさわしい報いを受けるのです。”と記しています。

 また1コリント310-15には次のように記されています。
10 私は、神からいただいた恵みによって、賢い建築家のように、土台を据えました。そして、他の人がその上に建物を建てています。ただ、おのおの、 どのように建てるかに注意すべきです。
11
 イエス・キリストというすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。
12
 この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てるなら、13 おのおのの仕事は明るみに出されます。
かの日にそれが明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんな ものであるかを試すからです。
14
 誰かが建てた仕事が残れば、その人は報酬を受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。
ただ、その人は、火の中をくぐるようにして救われます。”(聖書協会共同訳)とあります。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主の御命令に従って働かせていただく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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