エゼキエル書

2020年2月25日 (火)

エゼキエル48:1-8、23-35 十二部族の土地、町(都)/イマヌエル(インマヌエル)

 エゼキエル481-8には、
1 部族の名は次のとおりである。北の端からヘテロンの道を経てレボ・ハマテに至り、北にハマテを望む、ダマスコの境界のハツァル・エナンまで──東側から西側まで──これがダンの分である。2 ダンの地域に接して、東側から西側までがアシェルの分。3 アシェルの地域に接して、東側から西側までがナフタリの分。4 ナフタリの地域に接して、東側から西側までがマナセの分。5 マナセの地域に接して、東側から西側までがエフライムの分。6 エフライムの地域に接して、東側から西側までがルベンの分。7 ルベンの地域に接して、東側から西側までがユダの分である。8 ユダの地域に接して、東側から西側までが、あなたがたの献げる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは、東側から西側に及ぶ部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある。”(新改訳2017)と記されています。

 イスラエルに与えられる領土は、エゼキエル4713-20に記されており、これに関しては6日前の箇所に記してあります。その領土の一番北側はダン部族に与えられます。
ダン部族から順次南側に、アシェル部族、次がナフタリ部族、次がマナセ部族、次がエフライム部族、次がルベン部族、次がユダ部族となります。奉納地の北側は以上の7部族になります。
 ユダ部族の南側に奉納地があります。奉納地に関しては、エゼキエル488-22に記されていますが、エゼキエル488-22はエゼキエル451-8の箇所で扱いました。

 エゼキエル4823-29には、
23 なお、残りの部族は、東側から西側までがベニヤミンの分。24 ベニヤミンの地域に接して、東側から西側までがシメオンの分。25 シメオンの地域に接して、東側から西側までがイッサカルの分。26 イッサカルの地域に接して、東側から西側までがゼブルンの分。27 ゼブルンの地域に接して、東側から西側までがガドの分。28 その境界線は、ガドの地域の南側を延び、タマルからメリバテ・カデシュの水、さらにエジプト川に沿って大海に至る。29 以上が、あなたがたがイスラエルの部族ごとに、相続地としてくじで分ける土地であり、以上が彼らの割り当て地である──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。”(新改訳2017)と記されています。

 奉納地の南側はベニヤミン族の地、その南側はシメオン族、その南側はイッサカル族、その南側はゼブルン族、その南側はガド族で、奉納地の南側は5部族からなります。

 エゼキエル4830-35には、
30 町〔都(新共同訳)〕の出口は次のとおりである。北側は四千五百キュビトの長さで、31 町〔都(新共同訳)〕の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門は、ルベンの門一つ、ユダの門一つ、レビの門一つ。32 東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門一つ、ベニヤミンの門一つ、ダンの門一つ。33 南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門一つ、イッサカルの門一つ、ゼブルンの門一つ。34 西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門一つ、アシェルの門一つ、ナフタリの門一つ。35 町〔都(新共同訳)〕の周囲は一万八千キュビト。この町〔都(新共同訳)〕の名は、その日から『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はそこにおられる』となる。」”(新改訳2017)と記されています。
 この町(都)は、奉納地の中の南側の部分の中央になります。
千年王国の時代、この都をエルサレムと呼ぶのかも知れませんが、断定できません。記されていませんから。
イザヤ、ミカ、ゼカリヤ等の預言者は、キリストの千年王国時代の預言でも「エルサレム」という語を用いていますが、エゼキエルは用いていません。
エゼキエルは、エゼキエル書の最後の部分に、「この都の名は、その日から、『主がそこにおられる〔原語は「ヤハウェ シャマ―」(筆者挿入)〕』と呼ばれる。」(新共同訳)と記してこの書を閉じています。

 何という祝福でしょう
私たち新生したキリスト者の内に主はおられるのです。
「イマヌエル」(インマヌエル)です。
「イマヌエル」を構成している語は、「イム」は共にの意、「ヌ」は私たち、「エル」は神です。
更に、1コリント617は、「主と交わる者は、主と一つの霊になる」(新改訳2017)、「主と交わる者は、主と一つの霊となる」(聖書協会共同訳)、「主に結び付く者は主と一つの霊となる」(新共同訳)、「主につく者は、主と一つの霊になる」(口語訳)と各聖書に訳されています。
これは霊における結婚です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
驚くべき祝福を与えて下さり感謝します。
主と一つ霊とされた霊に従った霊の人としての歩みを常時していくことができますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年2月24日 (月)

エゼキエル47:1-12 神殿から流れる水/新生した人の心から生ける水の川が流れ出る

 エゼキエル471-12には、
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」”(新改訳2017)と記されています。

 キリストの千年王国時代のエルサレムは、地殻変動の故に非常に高くなります(イザヤ22、ミカ41)。そして、そこに神殿が建ちますが、その神殿の敷居の下から東の方へと水が流れ出るのです。その水は、神殿の前にある祭壇(エゼキエル4047)の南、即ち神殿の右側(南側)の下から流れます(1)。その流れは、東側の外門の右側(南側)から流れ出ていくのです(2)。3-5節の記述から考えると、初めの水は、チョロチョロと流れていたのかも知れません。

 3-5節を簡略に述べると、水は東側に流れ、支流もないのに、どんどんと深くなっていく、ということです。水の深さと距離との関係は、東門から約500mで足首の高さ、約1000mで膝の高さ、約1500mで腰の高さ、約2000mになると渡ることの出来ない川となり泳ぐことができるようになります。

 8-11節を簡略に記します。
この水は死海へと流れ降り、死海の水は癒されて、そこに多くの種類の魚がたくさんすむようになります。
漁師たちはそこに網を下ろして魚を取ります。
また、この川が流れて行くところではあらゆる生物が生きるのです。
しかし、神殿の下から流れ出た水は沢と沼には流れていきません。その場所は塩を取るのに使われます、とあります。

 エゼキエル書には、死海の方へ行く水しか記されていませんが、ゼカリヤ書には、「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。」(148・新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル476.7.12には、川のほとりには、非常に多くの木があり、この木は、食物となる果実をたえず実らせ、木の葉は薬となる、ということが記されています。この水は、「命の水」(ゼカリヤ148)なのです。

 上記の内容は、キリストの千年王国時代に成就しますが、この箇所に限らずキリストの千年王国時代の出来事として記されている内容は、それらを霊的に解釈すると、教会時代を生きるキリスト者にとって大いに益になるように思います。
 今日の箇所は、聖霊の働きを表しているように思えます。
聖霊は、御父の愛に基づくご計画とイエス・キリスト様の御業の成就に基づき、神に対して霊的に死んでる人の霊を生かし、また、傷ついた人には癒しを与え、また、日々の霊の糧を与えます。
 
 ヨハネの福音書は、イエス様が、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(737.38・新改訳2017)と語られたと記し、使徒ヨハネは、この「生ける水」とは「御霊」のことであると説明しています。
主と一つ心となっている時、聖霊は豊かに働かれます(2歴代誌169)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつも霊の人として、主と一つ心になって歩めたらと願います。
その様にしてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月23日 (日)

エゼキエル46章 キリストの千年王国時代の礼拝/キリストの妻の居住地は天

 エゼキエル461-7には、週ごと(安息日)、月ごと(新月)の祭について、
1 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「内庭の東向きの門は、仕事をする六日間は閉じられるが、安息日には開けられなければならない。また、新月の祭りの日にも開けられなければならない。2 君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立つ。祭司たちは彼の全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ、彼は門の敷居のところで礼拝する。それから彼は出て行く。しかし、門は夕暮れまで閉じてはならない。3 民衆も、安息日と新月の祭りの日には、その門の入り口で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に礼拝をする。4 君主が安息日に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げる全焼のささげ物は、傷のない子羊六匹と、傷のない雄羊一匹である。5 また、穀物のささげ物は、雄羊一匹について一エパ。子羊については、彼が献げることができる分量の穀物のささげ物。油は一エパごとに一ヒンである。6 新月の祭りの日には、傷のない若い雄牛一頭と、傷のない子羊六匹と雄羊一匹である。7 穀物のささげ物をするために、雄牛一頭に一エパ。雄羊一匹に一エパ。子羊については、手に入れることができる分でよい。油は一エパごとに一ヒンである。”(新改訳2017)と記されています。

 神殿の庭には、外庭と内庭がありました。
1
節には、「内庭の東向きの門は、仕事をする六日間は閉じられるが、安息日には開けられなければならない。また、新月の祭りの日にも開けられなければならない。」とあり、内庭に入る東向きの門は、安息日と新月祭の日のみ開き、その他の日は閉じておかねばなりませんでした。

 2節には、「君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立つ。祭司たちは彼の全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ、彼は門の敷居のところで礼拝する。それから彼は出て行く。しかし、門は夕暮れまで閉じてはならない。」とあります。
 エゼキエル441-3には、
1 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻すと、門は閉じていた。2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「この門は閉じたままにしておけ。開けてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそこから入ったからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。3 君主だけが、君主として主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でパンを食べるために、そこに座ることができる。彼は門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行く。」”(新改訳2017)と記されていました。
東向きの門は、安息日と新月祭の時に君主だけが通ることを許されたのです。

 君主は民の代表として、ささげ物を祭司に渡し、内庭に入ることは許されておらず、内庭の門の戸口の柱のそばに立って礼拝をします。祭司が、ささげ物を受け取って内庭に入り、祭壇でささげ物を主にささげるのです。
イスラエルの民は、君主の後ろ側におり、東向きの外庭で主を礼拝するのです(3)。

 エゼキエル464-7には、イスラエルの民の代表として立てられている君主が献げるささげ物の規定について記されています。

 エゼキエル468-10には、神殿の外庭に入るときと出るときの規定が、
8 君主が入るときには門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行かなければならない。9 しかし、民衆が例祭の日に主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に入るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通って入る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分が入った門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。10 君主は、彼らが入るときに一緒に入り、彼らが出るときに一緒に出なければならない。”(新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル4611-15節には、祭と例祭と日ごとのささげ物の規定が、
11 祭りと例祭での穀物のささげ物は、雄牛一頭に一エパ、雄羊一匹に一エパ。子羊については献げることができる分量。油は一エパごとに一ヒンである。12 また君主が、進んで献げるものとして全焼のささげ物を、あるいは、進んで献げるものとして交わりのいけにえを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げるときには、彼のために東向きの門を開けなければならない。彼は安息日に献げるのと同じように、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げなければならない。そして彼は出て行くが、出て行った後、その門は閉じられる。13 あなたは毎日、傷のない一歳の子羊一匹を、全焼のささげ物として主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げなければならない。これを毎朝、献げなければならない。14 それに添えて、毎朝、六分の一エパの穀物のささげ物、上等の小麦粉に振りかけるための油三分の一ヒンを献げる。これが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への穀物のささげ物であり、永遠に続く掟である。15 こうして、子羊、穀物のささげ物、そして油を、常供の全焼のささげ物として、毎朝、献げなければならない。」”(新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル4616-18には、君主と土地に関する規定が、
16 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「もし君主が、贈り物として自分の相続地を自分の息子たちに与えるなら、それは息子たちのものとなり、それは相続地として彼らの所有地となる。17 しかし、もし君主が自分の相続地の一部を、贈り物として奴隷の一人に与えるなら、それは解放の年まではその奴隷のものであるが、その後で君主に返される。ただ息子たちだけが、相続地を自分のものとすることができる。18 君主は、民の相続地を奪って民をその所有地から追い出してはならない。彼は自分の所有地から、息子たちに相続地を受け継がせなければならない。それは、わたしの民がその所有地から一人でも散らされないようにするためである。」”(新改訳2017)と記されています。

 16節から二つのことがわかります。
①キリストの千年王国時代の地上の君主とは、キリストではなく、人であるということ。
②君主は自分の息子たちには、君主の土地を贈ることができるということ。
 17節から分かることは、君主が奴隷に君主の土地を与えた場合、その土地は解放の年までであり、奴隷のものとはならないということ。
③余談になりますが、千年王国の時代のキリスト者の体は霊の体であり、他のキリスト者と結婚することはなく、当然子どもを産みません(マタイ2230)。キリスト者はキリストの妻であり(エペソ532)、夫であるキリストとは、霊における一体です(1コリント617)。 
 尚、441-3の箇所で、君主が誰なのか分からない、と私は述べましたが、君主が誰であるのかはこの箇所から推測することができました。君主は霊の体ではなく肉の体を持った子供をもつことの出来るイスラエルの君主です。


 エゼキエル4619-24には、神殿地域の調理場について、
19 それから彼は私を、門のわきにある出入り口から、北向きになっている祭司たちの聖所の部屋に連れて行った。すると、西の方の隅に一つの場所があった。20 彼は私に言った。「ここは祭司たちが、代償のためのささげ物や罪のきよめのささげ物を煮たり、穀物のささげ物を焼いたりする場所である。これらの物を外庭に持ち出して、民を聖なるものとしないためである。」21 彼は私を外庭に連れ出し、庭の四隅を通らせた。すると庭の隅には、それぞれまた、ほかの庭があった。22 庭の四隅に仕切られた庭があり、それは長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つともみな同じ寸法であった。23 その四つとも周りは石の壁で囲まれ、石の壁の下の方には調理場が作られていた。24 彼は私に言った。「これは、神殿で奉仕をしている者が、民からのいけにえを煮る調理場である。」”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
この箇所を読みながら、エホバの証人の人たちは、この時代、即ちキリストの千年王国の時代の諸国民に加えられたくて頑張っているのだな、と思わされました。
また、キリストの千年王国の時代のイスラエルの礼拝のあり様を見るにつけ、私たちキリスト者はなんという驚くべき恵みをあなたから受けたのであろうとかと驚嘆します。
あなたに祈り、思いめぐらし、キリストの千年王国の時代の聖句を読み、また、主イエス様が、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(マタイ1343・新改訳)と語られた御言葉を思う時、キリストの千年王国の時代のキリスト者即ちキリストの妻の暮らす場所は天の御父の国であるのかな、と思います。
お父様、間違っていたら、夢の中でも、聖句からでも教えてください。
それにしても、あなたが与えてくださる恵みの大きさに、私は驚嘆するしかありません。
そして、現在すでに、主ご自身が私たちの内に住んでくださっておられるのですから、私たちの内にあなたの聖所があるのですから、恵みの偉大さにまたまた驚嘆します。
大いなる感謝をもってわが主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
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パウロのことば
(ローマ818)「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(新改訳2017
2コリント417)「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」
パウロの苦難はひどいものでした。
その一部の例が、2コリント1123-28に、
23・・・。私〔パウロ(筆者挿入)〕は狂気したように言いますが、私は彼ら以上に・・・労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。”(新改訳2017)と記されています。
パウロの苦難を思う時、私たちに与えられる栄光がどれほど偉大なものであるのか、ただ驚嘆します。

キリストの千年王国時代のキリスト者の居住地は天、という聖句
(ヘブル1222)「・・・あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、」(新改訳2017)と記され、
(黙示録312)「わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て〔新天新地の完成の折に{黙示録212}(筆者挿入)〕天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。」(新改訳2017)と記されています。

2020年2月22日 (土)

エゼキエル45:18―25 キリストの千年王国における年ごとの祭/主に感謝をささげつつ歩む

 キリストの千年王国時代の年ごとの祭は、旧約時代と同じではありません。
旧約時代の年ごとの祭についてはレビ記23章を参照してください。
キリストの千年王国時代の祭にも、キリスト者は関わっていません。キリスト者は即ちキリストの妻は別次元であるように思います。
千年王国時代の年ごとの祭は、新年の祭、過越の祭、仮庵の祭の三つになります。

 新年の祭について、
エゼキエル4518-20は、新年の祭、聖所のきよめ、について、
18 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「第一の月の一日に、あなたは傷のない若い雄牛を取り、聖所から罪を除かなければならない。19 祭司は罪のきよめのささげ物から血を取り、それを神殿の戸口の柱、祭壇の台座の四隅、そして内庭の門柱に塗る。20 その月の七日にも、あなたは、迷い出る者や浅はかな者のゆえにこのように献げ、神殿のために宥めを行わなければならない。”(新改訳2017)と記されています。

 キリストの千年王国時代の暦は、旧約時代のイスラエルのように、陰暦に戻るのかも知れません。
元来、主が太陽と月を創った理由の一つに、「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるし」(創世記114・新共同訳)の為、というものがありました。
現代でもイスラエルの宗教暦は、太陰太陽暦を使っています。

 教会時代の神殿(宮)とは、キリスト者です。
1
コリント316には、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(新共同訳)とあり、
1
コリント619には、「・・あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿・・」(新共同訳)とあります。
それ故、キリスト者は聖である必要があります。

 ヘブル922には、「・・ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(口語訳)と記されています。
旧約時代は、いけにえの動物の血を用いましたが、いけにえの動物の血が予表していたのはキリストの血でした。

 新生したキリスト者である私たちが罪を犯した場合、「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(新改訳2017)が、それは、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださ」(新改訳2017)るからです。

 私たちは、罪を示された時には、直ぐにその罪を告白し、イエス様の血によってきよめられ、常に御父と良き交わりの関係を持ち続けることを期待されていると思います(マタイ614.15)。

 キリストの千年王国においては、毎年、聖所を定められた動物の血によってきよめるのです。
これは、主なる神は聖なるお方であり、聖所は聖くなければない、ということを教えるためであると思います。何故なら、キリストの永遠の贖いは一度限りで成就しているのですから。

 キリストの千年王国における三大祭りの二番目は、過越の祭で、
エゼキエル4521-24に、
21 第一の月の十四日に、あなたがたは過越の祭りを守り、その祭りの七日間、種なしパンを食べる。22 その日に君主は、自分のために、また、国のすべての民のために、罪のきよめのささげ物として雄牛を献げる。23 その祭りの七日間、彼は全焼のささげ物として傷のない七頭の雄牛と七匹の雄羊を、七日間、毎日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げなければならない。また一匹の雄やぎを、罪のきよめのささげ物として、毎日、献げなければならない。24 穀物のささげ物として、雄牛一頭に一エパ、雄羊一匹に一エパを献げる。油は一エパごとに一ヒンとする。”(新改訳2017)と記されています。

 旧約時代のこの祭の守り方については、民数記2816-25を参照していください。
過越の祭は、イスラエル人にとっては、出エジプト12章に記されていることを記念するものです。
過越の祭の子羊はイエス・キリストの予型でもありました。
バプテスマのヨハネは、イエス様を指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言ったのです。
 主がエジプトに罰を下すとき、主はイスラエルに、その刑罰から免れる方法を教えました。その方法は、出エジプト123-13に、
3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。4 もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。9 生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。11 あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕への過越のいけにえである。12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。”(新改訳2017)と記されています。

 キリストの千年王国に入ったイスラエル人たちは、イエス(イエシュア)がキリスト(メシア)であると信じて(ゼカリヤ1210-14)、私たちが現在持っている肉体と同じ種類の肉体をもって千年王国に入るのです(キリスト者は霊の体でありキリストの妻です)。
千年王国時代のイスラエル人にとっての過越の祭は、出エジプトの記念と感謝及びキリストによる贖いを意味する祭となるのではないかと思います。

 エゼキエル4525には、仮庵の祭について、
“第七の月の十五日の祭りにも、七日間、これと同じように献げる〔エゼキエル4523.24を参照(筆者挿入)〕。罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、穀物のささげ物、それに油を、同じように献げる。”(新改訳2017)と記されています。
 仮庵の祭は、秋の収穫の終わりに行われる主への感謝の祭です。
出エジプトした民は、荒野での40年間、仮庵に住んだのです。
主は、反抗的なイスラエルの民たちに対しても、彼らの衣食住を支えました。
モーセはイスラエルの民に対し、「この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(新改訳2017)と語りましたが、誰も、そんなことはない、とは言いませんでした。

 キリストの千年王国時代には、主への感謝のない民の上には、主から罰が下ります。
ゼカリヤ1416-19には、
16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。17 地上の諸氏族のうち、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打つ疫病である。19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。”(新改訳2017)と記されています。
この時代、主に罪を犯すと、飢饉や疫病に襲われます。

 コロサイ216.17に、「16 ・・・、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。17 これら来たるべきものの影であって、本体〔実体(新共同訳)〕はキリストにあります。」(新改訳2017)と記されているように、すべての祭の本体は、キリストです。

 地上にいる私たちキリスト者は、エゼキエル4525に、「・・・罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、穀物のささげ物、それに油を、同じように献げる。」とある箇所から、
①もし罪を犯したときには、すぐに悔い改め、主の血潮によってきよめて頂くこと(罪のきよめのささげ物)
②献身(全焼のささげ物)「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ121・新改訳2017
③感謝(穀物のささげ物)物質的な物と霊的な物を共にささげさせて頂くこと。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」(2コリント97・新改訳2017)、「・・イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」(ヘブル1315・新共同訳)
等を思わされるのではないでしょうか。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様は、私たちにとって、よきことのすべてになってくださいましたことを感謝します。
今日も主と共に歩み、またあなたに感謝しつつ歩む日であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月21日 (金)

エゼキエル45:9―17 君主及び民たちの責務/地上での婚姻、天での婚礼

 エゼキエル459には、“神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。暴虐と暴行を取り除き、公正と正義を行え。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。”(新改訳2017)とあります。
 旧約時代のイスラエルの王たちの中には、主から「イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。暴虐と暴行を取り除き、公正と正義を行え。わたしの民を重税で追い立てることをやめよ。」と言われてしまうような人たちも多く出ました。

 エゼキエル4510-12には、
10 正しい天秤、正しいエパ升、正しいバテ升を使え。11 エパとバテを同一量にせよ。バテはホメルの十分の一、エパもホメルの十分の一とせよ。その量はホメルを単位とせよ。12 一シェケルは二十ゲラである。二十シェケルと二十五シェケルと十五シェケルとで一ミナとせよ。”(新改訳2017)とあります。
 君主がごまかすことのないように、主が、度量衡を定めています。
「エパ升」とは、個体の容量を量る升で、23ℓです。
「バテ升」とは、液体の容量を量る升で、23ℓです。
1ホメルは230ℓです。
シェケル、ゲラ、ミナは重さの単位です。
1
シェケルは、11.4g
1
ゲラは、0.57g
1
ミナは、60シェケルですから684gです。(旧約時代の1ミナは1シェケルの50倍の重さで570gでした。千年王国では12節のように1ミナは1シェケルの60倍になっています。)

 エゼキエル4513-17には、
13 あなたがた〔イスラエルの民たち(筆者挿入)〕が献げる奉納物は次のとおりである。小麦一ホメル〔230ℓ(筆者挿入)〕から六分の一エパ〔約3.8ℓ(筆者挿入)〕、大麦一ホメルから六分の一エパ。14 バテの単位〔液体の単位(筆者挿入)〕で量られる定められた分は、一コル〔230ℓ(筆者挿入)〕から十分の一バテ〔2.3ℓ(筆者挿入)〕である。一コルは一ホメルと同じく十バテである。15 さらに、羊の群れから二百匹ごとに一匹の羊。これらをイスラエルの潤った地から得て、穀物のささげ物、全焼のささげ物、交わりのいけにえとし、彼らのために宥めを行え──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。16 国のすべての民は、この奉納物をイスラエルの君主に納めなければならない。17 君主は、各種の祭りの日、新月の祭り、安息日、すなわちイスラエルの家のあらゆる例祭に、全焼のささげ物、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を供える義務がある。彼はイスラエルの家の宥めのために、罪のきよめのささげ物、穀物のささげ物、全焼のささげ物、交わりのいけにえを献げなければならない。」”(新改訳2017)と記されています。

 奉納物は、イスラエルの民から君主へともたらされ、そして君主は代表して奉納物を主のもとに持って行き、祭司がそれを受け取って主にささげます。
エゼキエル462には、「君主は外側の門の玄関の間を通って入り、門の戸口の柱のそばに立つ。祭司たちは彼の全焼のささげ物と、交わりのいけにえを献げ、彼は門の敷居のところで礼拝する。それから彼は出て行く。しかし、門は夕暮れまで閉じてはならない。」(新改訳2017)と記されています。

 この世の終わりの大患難時代をくぐりぬけキリストの千年王国に入ることの出来たイスラエルの人たちは、献げ物の本体である主キリスト・イエス様を信じて救われた人達です(ただし霊の体を与えられたわけではなく肉の体のままです)。
ゼカリヤ1210-132には、
12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。12 この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。14 残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。2 その日──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。”(新改訳2017)と記されています。
 キリストの千年王国に入ることの出来たイスラエルの人たちは、献げ物の本体である主キリスト・イエス様(コロサイ217)を信じて救われた人達ですから、千年王国時代における献げ物は、私たちが聖餐式を行っているようなものではないかと思います。即ち、献げ物の本体である主キリストを覚え感謝するのではないかと思います。また、何か罪を犯したとしたらor罪を思い出したら悔い改める機会にもなるのではないかと思います。千年王国でも罪を犯す人はいます。
イザヤ6520に、「〔キリストの千年王国では(筆者挿入)〕わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。」(口語訳)と記されていますから。
 キリスト者は、千年王国が始まる以前に、天において、花婿キリストとの婚礼の儀がありますが、恐らくその直前に、主の恵みによって罪を犯すことのないようにされるのです。
黙示録197.8には、「7・・・。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(新改訳2017)と記されています。
花嫁である教会(エクレシア・呼び出された者たち)即ちキリスト者全員は、婚礼直前には花嫁衣装である白い衣を着せて頂ける、即ち罪を犯すことがないようにされるのです。
 
 蛇足になりますが、
新生した人(ヨハネ33.6)がイエス様の霊と結ばれた時(1コリント617)、それは、個人におけるキリスト・イエス様との婚姻です。新生したすべての人達即ち教会(エクレシア)が天において花婿キリストと式を挙げるのが婚礼であると私は考えています。
(その時が早く来ないかなー)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたはコロサイ書に、「上にあるものを求めなさい」と記させましたが、私たちの多くは天での婚礼の時を持ち詫びています。
上にあるものを求めつつ、今日も地に足をつけて、主と共に歩ませて頂けますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年2月20日 (木)

エゼキエル45:1―8、48:8-22 主への奉納地と君主の土地

 エゼキエル451-4には、
1 「あなたがたが相続地としてその地をくじで分けるときは、その地から奉納地として聖なる区域を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げなければならない。その長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビト。その全域は聖なる地である。2 このうち、縦横五百キュビトの正方形を聖所に充て、五十キュビトの空き地がその周りにあるようにする。3 この区域の中から、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトを測り、その中に最も聖なる所、聖所があるようにせよ。4 これはこの地の聖なる部分である。これは、聖所で仕え、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に近づいて仕える祭司たちのものとなる。ここを彼らの家の敷地とし、聖所のための聖なる所とする。”(新改訳2017)と記あります。

 昨日のブログでは、この箇所より後ろの部分の4713-23を扱いました。そこにはキリストの千年王国時代にイスラエルに与えられる土地の東西南北の境界線が記されていました。
今日の箇所は、イスラエル領地内にあって、主の為に用いられる聖なる土地、即ち聖なる区域に関する土地及びレビ人の地、町(都)の所有地、王の土地に関するものです。
 
 エゼキエル37章以下には「エルサレム」という用語が出てきません。
しかし、「聖なる区域」の中のある区域or「聖なる区域」全体がキリストの千年王国時代のエルサレムなのでしょうか。或いは奉納地全体がエルサレムなのでしょうか。或いは「町」or「都」と訳されている場所がエルサレムなのでしょうか。
 イザヤやゼカリヤ等の預言者は
、キリストの千年王国時代のエルサレムについて下記のように預言しています。
イザヤ21-3には、「1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。2 終わりの日に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。3 多くの民族が来て言う。「さあ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばが出るからだ。」(新改訳2017)と記され、
またイザヤのこの箇所と同じような内容の預言は、ミカ41.2にもあり、
更にゼカリヤ1416-19には、「16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。17 地上の諸氏族のうち、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が打つ疫病である。19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。」(新改訳2017)と記されています。

 本文の「聖なる区域」の広さについて、
横幅は、25000キュビト(ヘブライ語は「アンマ」)ということですから、1アンマを一応52cmとすると、13000m13km)となり、
縦幅は、10000キュビトですから、5200m5.2km)となります。

 この聖なる区域の中央(エゼキエル488)に縦横500キュビト(260m)の正方形の聖所を造るようになります。
聖所の周囲には外に向かって50キュビト(26m)の空き地を用意します。
聖所と聖所の周囲の空き地を除いた部分は、主に仕える祭司たちのもの{ツァドクの子孫で聖なる者とされた祭司たち(エゼキエル4811)}であり、祭司たちはそこに家を建てて住むようになります。
 聖なる区域の北側の地はユダ族に与えられます。
エゼキエル488-12に、「8 ユダの地域に接して、東側〔ヨルダン川や死海側(筆者挿入)〕から西側〔地中海側(筆者挿入)〕までが、あなたがた〔イスラエル(筆者挿入)〕の献げる奉納地となる。その幅は二万五千キュビト、その長さは、東側から西側に及ぶ部族の割り当て地の一つと同じである。聖所はその中央にある9 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に献げる奉納地は、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。10 祭司たちへの聖なる奉納地は次のとおりである。北側〔東西幅(筆者挿入)〕は二万五千キュビト、西側〔の北から南まで(筆者挿入)〕は一万キュビトの幅、東側〔の北から南まで(筆者挿入)〕は一万キュビトの幅、南側〔東西幅(筆者挿入)〕は二万五千キュビトの長さである。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖所はその中央にある。11 この区域は、ツァドクの子孫で聖なる者とされた祭司たちのものである。彼らは、イスラエルの子らが迷い出たとき、レビ人が迷い出たように迷い出ることなく、わたしへの務めを果たした〔主に真実、忠実に従う者には祝福がある(筆者挿入)〕。12 彼らの地域はレビ部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。」(新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル455には、レビ人の土地として、「また、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、神殿で奉仕をするレビ人のものとし、二十の部屋〔ヘブライ語聖書は「二十の部屋」、70人訳聖書は「居住用の町々」(岩波訳参考)〕を彼らの所有としなければならない。」(新改訳2017)と記されています。
また、エゼキエル4812-14には、「12 彼ら〔祭司たち(筆者挿入)〕の地域はレビ部族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。13 レビ部族の分は、祭司たちの地域に接して、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトである。すなわち、全体の長さは二万五千キュビト、幅は一万キュビトである。14 彼らはそのどの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない。その初めの土地を譲り渡してはならない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の聖なるものだからである。」(新改訳2017)と記されています。
レビ部族の住むところは、聖所のある聖なる区域に隣接しています。

 エゼキエル456には、「聖なる奉納地に沿って、幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトを町の所有とし、これをイスラエルの全家のものとする。」(新改訳2017)と記されています。
 エゼキエル4815-20には、上記のイスラエル全家のもの、の更に詳しい説明が、
15 幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトの残りの地所は、町〔都(新共同訳)〕の一般用であり、居住地と放牧地のためである。町〔都(新共同訳)〕 はその中央に建てられなければならない。16 その大きさは次のとおりである。北側は四千五百キュビト、南側は四千五百キュビト、東側は四千五百キュビト、西側は四千五百キュビトである。17 また、町の放牧地は、北へ二百五十キュビト、南へ二百五十キュビト、東へ二百五十キュビト、西へ二百五十キュビトである。18 残りの地所の長さは、聖なる奉納地に接し、東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。それは聖なる奉納地に接している。そこから収穫した物は町の働き人の食物となる。19 その町の働き人はイスラエルの全部族から出て、これを耕す。20 奉納地の全体は二万五千キュビト四方であり、あなたがたは、聖なる奉納地を町の所有地とともに献げることになる。」(新改訳2017)と記されています。
 レビ部族の地域の南に接して、町(都)と放牧用の地があります。
この広さは、南北五千キュビト(2.6km)、東西二万五千キュビト(13km)です。
これはイスラエル全部族のものです。
 町自体は、一辺四千五百キュビト(2340m)の正方形です(東から西までは25000キュビトであり、町はその中央に位置します)。 
 町の周囲(東西南北)は各250キュビト(130m)で、それは放牧地です。
 放牧地の東側と西側は共に長さ10000キュビト(5.2km)南北の幅は5000キュビト(2.6km)で、食料を生産する畑地で、その収穫物は、町の働き人の食物となります。
町の働き人はイスラエルの全部族から出て畑を耕すのです。みんなで仕事をするのです。

 20節には、聖なる奉納地の広さが、
「奉納地の全体は二万五千キュビト(13km)四方(169km²)であり、あなたがたは、聖なる奉納地を町の所有地とともに献げることになる。」(新改訳2017)と記されています。

 エゼキエル457.8には、「7君主〔指導者(岩波訳)、原語は「ナーシー」で君主の他、族長の意もあります(筆者挿入)〕の土地は、聖なる奉納地と町の所有地との両側にあり、聖なる奉納地と町の所有地に面し、西側は西の方へ、東側は東の方へ延びている。その長さは一つの部族の割り当て地と同じで、西の境界線から東の境界線にまで及んでいる。8これがイスラエルの中の彼の所有地である。わたしの君主たち〔「族長たち」かも知れない(筆者挿入)〕は二度とわたしの民を虐げることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる。」(新改訳2017)と記されています。

 君主の土地に関する平行個所であるエゼキエル4821.22には、
21 聖なる奉納地と町の所有地の両側にある残りの地所は、君主のものである。これは二万五千キュビトの奉納地に面し、そこから東の境界までである。西の方も、その二万五千キュビトに面し、そこから西の境界までである。これは部族の割り当て地〔北側はユダ族、南側はベニヤミン族(筆者挿入)〕にも接していて、君主のものである。聖なる奉納地と神殿の聖所とは、その中央にある。22 君主の所有する地区の中にあるレビ人の所有地と、町の所有地を除いて、ユダの地域とベニヤミンの地域との間にある部分は、君主のものである。」(新改訳2017)と記されています。

 君主の土地は、主への奉納地の東側と西側になり、それぞれ国境までの間となります。尚、南北の長さは25000キュビトです。
主への奉納地の南側はベニヤミン部族に与えられます。

 キリストの花嫁であるキリスト者たちはどこにいるのでしょう?
キリストの千年王国の次の時代の世界である主が創造される新天新地についての記述の中には、
1また私〔使徒ヨハネ(筆者挿入)〕は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。9また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」10そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。11都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。12都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。”(黙示録21章・新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
聖所や土地の分割や奉納地に関することetc.について、人々が意見を出し合ってあれこれ考えるのではなく、主ご自身がご計画を持ち、ビジョンを示してくださっておられますからありがとうございます。
千年王国時代の私たちが、どこで何をするのか、多少の想像は出来ても、明確には分かりませんが、主が最善にご計画くださっておられますからありがとうございます。
あなたを信頼して歩める幸いを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月19日 (水)

エゼキエル47:13―23 キリストの千年王国時代にイスラエルに与えられる土地/キリスト者はどこにいるのかな?

 エゼキエル4713.14には、
13 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、この地を相続地として与えるときの境界は、次のとおりである。ヨセフには二つ分を与える。14 あなたがたは、それを等分に割り当てなければならない。それは、わたしがかつて、あなたがたの父祖たちに与えると誓約したものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。”(新改訳2017)と記されています。
 13節に、「ヨセフには二つ分を与える。」とありますが、ヨセフはマナセとエフライムを生み、イスラエル(ヤコブ)はマナセとエフライムを自分の子としました(創世記481-5)。それ故、マナセとエフライムは、他の部族と同等の扱いを受けるのです。
 14節の中に、「わたしがかつて、あなたがたの父祖たちに与えると誓約したものである。」とありますが、創世記1518には、「あなたの子孫に、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。」(新改訳2017)というアブラハムへの契約が記されています。ここ契約はイサクに継承され(創世記263)、この契約は更にヤコブに継承されたのです(創世記2813-15359-12)。

 エゼキエル4715-17には、
15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海〔地中海(筆者挿入)〕からヘテロンの道を経て、レボ・ハマテ〔「レボ・ハマテ」は「ハマテの入り口」の意。オロンテス川上流の町。ハマテはダマスカス北方約192kmのまち(筆者挿入)〕、ツェダデ〔シリアのダマスカスの北方約100kmの町(筆者挿入)〕、16 ベロタ、および、ダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらに、ハウラン〔ゴラン高原北東部(筆者挿入)〕の領土に面したハツェル・ハ・ティコンに至る。17 こうして、境界線は海〔地中海(筆者挿入)〕から始まり、ダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北の方へ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。”(新改訳2017)と記されています。
 キリストの千年王国時代のイスラエルの北の境界線が述べられています。
主は、アブラハムに、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。」と約束されましたが、北の境界線が、ユーフラテス川まで、ということであったのだろうと思います。

 18節には、「東側は、ハウラン〔ヘルモン山の南東(新共同訳スタディー版の注)〕とダマスコの間と、ギルアデ〔ヨルダン川東岸北部の山地(新共同訳スタディー版の注)〕とイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海〔死海(筆者挿入)〕を経てタマル〔「なつめやしの木」の意。死海の南にある町(筆者挿入)〕に至るまでの境界線である。これが東側である。」(新改訳2017)と記されています。
これが東の境界線です。

 エゼキエル4719-21には、
19 南側は、タマルから南に向かって、メリバテ・カデシュの泉〔死海南端から南西約50数キロにあるカデシュ・バルネアの泉のこと。民数記202-132714(筆者挿入)〕とエジプト川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテに面した地点にまで至る。これが西側である。21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。”(新改訳2017)と記されています。
南側の境界はメリバテ・カデシュの泉からエジプト川に至るラインです。
西側の境界は地中海です。
キリストの千年王国時代のイスラエルの領地は、以上のように与えられました。
主(ヤハウェ)が、アブラハムに約束した土地は、キリストの千年王国時代に成就するのです。

 私たちキリスト者、キリストの花嫁は、この時代どこで生活するのでしょうか?
気になりますね。
イスラエルの地に、私たちの相続分はありません。
キリストの千年王国時代の陸地はどのようになっているかというと、現在とは異なります。
黙示録614後半には、「すべての山と島は、かつてあった場所から移された。」(新改訳2017)と記されています。
また、黙示録1620には、「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」(新改訳2017)と記されています。
大患難時代には、天変地異が起こるのです。地震も私たちが経験したものとは異なります。
イザヤ2417-23には、
17 地上の住民よ。恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。18 その恐怖の叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる。天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。19 地は割れに割れ、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。20 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背きはその上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。21 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天では天の大軍〔恐らくサタンや配下の悪霊(筆者挿入)〕を、地では地の王たちを罰せられる。22 彼らは、囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、何年かたった後に罰せられる。23 月は辱めを受け、太陽も恥を見る。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前にあるからである。”(新改訳2017)と記されています。

 一方、イエス様は、私たちに、「1 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14章・新改訳2017)と語られました。
 パウロは、ガラテヤ人への手紙の中に、「・・上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。」(426・新改訳2017)と記しました。これをリビングバイブルは、「・・私たちの母なる都は、天にあるエルサレムで、それはユダヤ教のおきてに属していません。」と意訳しました。
 使徒ヨハネは、“9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊〔主キリスト(筆者挿入)〕の妻である花嫁を見せましょう。」10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。”(黙示録21章・新改訳2017)と記しました。

 キリストの千年王国時代の私たちはどこにいるのでしょうか?
私は、天のエルサレムにいるのかな、と思います。
私たちがどこにいるにせよ、御父は、私たちを愛し、私たちに良くしてくださいます(ヨハネ1627、ルカ1228)。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたが、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された領地の成就がやがて果たされるという預言を読みました。
あなたは約束されたことを果たされますから御名を崇めます。
あなたの御名を賛美しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月18日 (火)

エゼキエル44:28―31 主が祭司たちに与えるもの/キリスト者は祭司

 エゼキエル4428-31には、
28 祭司たちへのゆずりとなるのはこれである。わたしが彼らへのゆずりである。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。29 彼らの食物は、穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物である。イスラエルのうちで、聖絶されたものはみな、彼らのものである。30 あらゆる種類の初物、あなたがたのあらゆる奉納物のうちの最上の奉納物は、すべて祭司たちのものであり、あなたがたの麦粉の初物も祭司に与えなければならない。あなたの家に祝福が宿るためである。31 祭司たちは、死んだ動物や、野獣にかみ裂かれたものはすべて、鳥であれ獣であれ、食べてはならない。」”(新改訳2017)とあります。

 28節には、「祭司たちへのゆずりとなるのはこれである。わたしが彼らへのゆずりである。あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。」とあります。
冒頭の「祭司たちへのゆずりとなるのはこれである。」(新改訳2017)と訳している中の「ゆずり」の語について、他の聖書は以下のように訳しています。
新改訳第三版は、「相続地」
新共同訳と口語訳と岩波訳は、「嗣業」
聖書協会共同訳は、「相続分」
リビングバイブルは、「相続財産」と訳しています。
このように訳された語の原語は、「ナハラー」で、KJVNIVは、inheritance と訳しています。
「ナハラー」の意は、受け継いだもの、というのが原義です。

 28cには「あなたがたはイスラエルの中で彼らに所有地を与えてはならない。」とあります。
元来、主が創造されたすべてのものは主のものなのです。
多くの現代人にはこの感覚がありませんが。
コロサイ116には、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、〔霊の世界の(リビングバイブル)〕王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(新共同訳)とあります。
地球上の土地も、当然のことですが、主のものです(申命記1014、詩篇241)。

 キリストの千年王国時代、イスラエルの12部族には、それぞれの所有地が主から与えられます。このことに関しては、エゼキエル4713以降に記されています。12部族以外のレビ部族や祭司にも生活用地は与えられます。

 29節には、「彼らの食物は、穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物である。イスラエルのうちで、聖絶されたものはみな、彼らのものである。」(新改訳2017)とありますが、その中の「聖絶されたもの」と新改訳2017が訳している箇所を、
新改訳第三版は、「献納物」
新共同訳は、「ささげられたもの」
口語訳は、「ささげられた物」
聖書協会共同訳は、「永久に奉納されたもの」
リビングバイブルは、「主にささげられる物」と訳しています。
この箇所の後半部分は、「イスラエルのうちで、主にささげられたものはみな、祭司たちのものである。」の意であると思います。

 30節をリビングバイブルは、「あらゆる果実の初物や神にささげられたすべての物は、祭司のものとなる。穀物の初物も祭司に贈られる。そうするなら、わたしはおまえたちの家庭を祝福しよう。」と訳しています。

 31節には、祭司たちに対する禁止事項が、「祭司は、自然に死んだ鳥や動物、あるいは他の動物に殺された鳥や動物の肉は、絶対に食べてはならない。」(リビングバイブル)と記されています。

以上の規定は、モーセを通して主が語られた内容と本質的には同じです。
以上の祭司に関する事柄の本質は、教会時代にも通じるものがあると思います。しかし、教会時代の教職者に対する規定を新約聖書は事細かには述べていません。新約の聖徒は、主なる神を愛し、隣人を愛し、主に立てられた人を敬うという観点から、おのずから主のみ旨に叶う対処の仕方をするであろうと、主から期待されているのではないかと思います。
主は旧約時代の祭司にも、千年王国時代の祭司にも、衣食住で困るような目にあわせるような設定をしてはいません。逆に祝福しています。

 さて、地上の物質的な事柄を離れ、霊的な事柄に移りたいと思います。
1
ペテロ29に、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされ

た民です。」(新改訳2017)と記されているように、キリスト者はだれでも祭司です。
また、エゼキエル4428には、「祭司たちへのゆずり〔相続財産(筆者挿入)〕となるのはこれである。わたしが彼らへのゆずりである。」(新改訳2017)と記されていました。

 私たちキリスト者に対して、主は何をしてくださったでしょうか?
主イエス様は次のように語られました。
ヨハネ1416-18には、「16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(新改訳2017)とあり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(新改訳2017)と記されています。

 私たちが主から与えられたものは、何と、主ご自身なのです。
このことを霊的に体験できる人は本当に幸いな人であると思います。

物質的なことに関する約束はどのようなものでしょうか?
パウロは、「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(新改訳2017)と述べています。
必要をすべて満たしてくださる、という約束であって、有り余る財産を与えてくださる、といわけではありません。キリスト者の中には、有り余る財産を与えられる人もいるでしょう。その人はその財産を主の為に用いるためにそうされているのです。

イエス様は、生きていくのに困らないようにして下さると約束しておられます。
マタイ633には、「30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。」(新改訳2017)と記されています。

 新生したキリスト者は、神の子どもです(1ヨハネ31.2)。
誰よりも豊かな愛をもっている御父が、自分の子に良くしないはずはないのです。
イエス様はそのことを譬えを用いて話されました。それは、ルカ1511-32に記されています。

 祭司に関連して、1ペテロ29を引用しましたが、先ほどは、前半部分しか記しませんでした。この聖句の全文をリビングバイブルは、「・・。あなたがたは、神様から選ばれた王なる祭司であり、きよい民として、神様のものとされた人たちです。それはすべて、どうして自分が、暗やみから神様のまばゆいばかりの光へと招き入れられたかを、人々に語り伝えるためなのです。」と訳しています。
自分の救いのあかしをすることは大切なことです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちがあなたのみ旨に従って歩み続けることができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月17日 (月)

エゼキエル44:4-27 千年王国時代の祭司/キリスト者は教会時代の祭司

 エゼキエル444.5節には、
4 彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮に満ちていた。私はひれ伏した。5 すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「人の子よ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮のすべての掟とそのすべてのおしえについて、わたしがあなたに告げていることをすべて心に留め、それに目を注ぎ、耳を傾けよ。神殿の入り口と、聖所のすべての出口を心に留めよ。”(新改訳2017)とあります。

 エゼキエルは幻の中で、キリストの千年王国時代の北の門を通って神殿の前に連れて行かれました。
エゼキエルは、主の栄光が宮に満ちているのを見たのです。エゼキエルは畏敬の念に駆られ、ひれ伏しました。
エゼキエルが、ひれ伏したところで主は、「人の子よ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮のすべての掟とそのすべてのおしえについて、わたしがあなたに告げていることをすべて心に留め、それに目を注ぎ、耳を傾けよ。神殿の入り口と、聖所のすべての出口を心に留めよ。」と語られました。

①主の宮のすべての掟とそのすべての教えについて、
②神殿の入り口と、聖所のすべての出口について、
心に留め、目を注ぎ、耳を傾けよ、とエゼキエルは言われましたが、これらの内容は、エゼキエル40章から始まり、46章まで続いています。

 エゼキエル446-9には、
6 あなたは、反逆のイスラエルの家にこう言え。『神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌み嫌うべきわざは、もう十分だ。7 あなたがたは、心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民を連れて来て、わたしの聖所にいさせ、わたしの神殿を汚した。あなたがたは、わたしのパンと脂肪と血を献げたが、あなたがたの行った忌み嫌うべきあらゆるわざによって、わたしとの契約を破った。8 あなたがたは、わたしの聖所での任務も果たさず、かえって、自分たちの代わりにほかの者たちを、わたしの聖所で務めを果たす者として置いた。』9 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。「心に割礼を受けず、肉体にも割礼を受けていない異国の民は、だれもわたしの聖所に入ってはならない。イスラエルの子らの中にいる異国の民はみなそうだ。」”(新改訳2017)とあります。

 この語りかけは、バビロンに捕囚となっている民に、その当時のエルサレム陥落前の時代の聖所における罪を列挙したものです。

 6節に、「イスラエルの家よ。あなたがたのあらゆる忌み嫌うべきわざは、もう十分だ。」とありますが、エゼキエル85-17には、主の忌み嫌うべきわざが、
5 その方は私に言われた。「人の子よ。さあ、目を上げて北の方を見よ。」私が目を上げて北の方を見ると、なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像〔偶像(筆者挿入)〕があった。6 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。あなたはなおもまた、大きな忌み嫌うべきことを見る。」7 それから、この方は私を庭の入り口に連れて行かれた。見ると、壁に一つの穴があった。8 この方は私に言われた。「人の子よ。さあ、壁に穴を開けて通り抜けよ。」私が壁に穴を開けて通り抜けると、一つの入り口があった。9 この方は私に言われた。「入って行き、彼らがここでしている悪い忌み嫌うべきことを見よ。」10 私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた。11 また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた〔偶像に香をたいている(筆者挿入)〕。12 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちが、暗闇の中、それぞれ自分自身の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちを見ておられない。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。」13 また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」14 それから、この方は私を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズ〔バビロンの神(筆者挿入)〕のために泣きながら座っていた。15 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。あなたはなおもまた、これよりも大きな忌み嫌うべきことを見る。」16 それから、この方は私を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた〔つくり主の主には背を向け、主につくられた太陽を神として礼拝していた(筆者挿入)〕。17 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ、彼らは〔呪術的行為として(筆者挿入)〕ぶどうのつるを自分たちの鼻にさしているではないか。”(新改訳2017)と記されていました。
主がバビロンを用いてエルサレム陥落させる以前のイスラエルは、主の神域の中でも偶像礼拝をし、対人的には暴力的な状態であったことがわかります。

 エゼキエル4410-14には、エルサレム陥落前の、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちを除くレビ人たちの罪の故に、主は、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちを除くレビ人の任務を降格させることが、
10 イスラエルが迷って自分たちの偶像を慕い、わたしから迷い出たとき、〔主に仕えるべき(筆者挿入)〕レビ人もわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から離れ去ったので、彼らは自分たちの咎を負わなければならない。11 彼らは神殿の門で番をし、神殿で奉仕をして、わたしの聖所で仕え、また、民のために全焼のささげ物といけにえを屠り、こうして民の前に立って、彼らのために仕えるはずなのだ。12 〔そうあってしかるべきなのに(筆者挿入)〕レビ人たちは民の偶像の前で民に仕え、そのことでイスラエルの家を不義に引き込むものとなった。それゆえ、わたしは彼らに手を上げて厳かに誓う──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。彼らは自分たちの咎を負わなければならない。13 彼らは、祭司としてわたしに仕えるために、わたしに近づいてはならない。わたしのあらゆる聖なるもの、また最も聖なるものに近づいてはならない。彼らは、恥辱と、自分たちの行った忌み嫌うべきわざの責めを、負わなければならない。14 わたしは彼らに、神殿のあらゆる奉仕と、そこで行われる神殿のすべての任務を果たさせる〔しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる(口語訳)〕。”(新改訳2017)と記されています。

 キリストの千年王国時代の祭司としてツァドクの子孫が選ばれ、主への務めを果たせさせて頂ける理由を、エゼキエル4415.16は、「15 しかし、イスラエルの子らが迷ってわたしから離れたときも、わたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしの前に立ち、わたしに脂肪と血を献げることができる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。16 彼らはわたしの聖所に入ることができる。わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの務めを果たすことができる。」(新改訳2017)と記しています。
主は一人一人をよくご覧になっておられるのです。

 続いて、ツァドクの子孫が、キリストの千年王国時代の神殿において、主の祭司として職責を果たすにあたって、ツァドクの子孫の守るべき規定が17-27節まで、
17 彼らは、内庭の門に入るときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織物を身に着けてはならない。18 頭には亜麻布のターバンをかぶり、腰には亜麻布のももひきをはく。汗の出るようなものを身に着けてはならない。19 彼らが外庭に出て、外庭の民のところに出て行くときは、務めのときに着ていた服を脱ぎ、それを聖所の部屋に置き、ほかの服を着なければならない。その服によって民を聖なる者とすることのないためである。20 彼らは頭を剃ってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭の毛はきちんと切りそろえなければならない。21 祭司はだれでも、内庭に入るとき、ぶどう酒を飲んではならない。22 やもめや離縁された女を妻にしてはならない。イスラエルの民のうちの処女を妻としなければならない。しかし、やもめでも、それが祭司のやもめであれば、妻としてもよい。23 彼らはわたしの民に、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を告げ知らせなければならない。24 争いがあるときには、わたしの定めにしたがってさばきの座に着き、これをさばかなければならない。わたしのすべての例祭には、わたしのおしえと掟を守り、わたしの安息日を聖なるものとしなければならない。25 彼らは、死んだ人間に近づいて身を汚してはならない。ただし、自分の父、母、息子、娘、兄弟、未婚の姉妹によって汚れることは許される。26 その場合、祭司はきよめられた後、さらに七日を数えなければならない。27 聖所で仕えるために聖所の内庭に入る日には、罪のきよめのささげ物を献げなければならない──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。”(新改訳2017)と記されています。
 以上のような規定は、モーセ五書に記されている内容と同じようなものです。

 今の世にあって、私たちキリスト者はすでに主によって、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民とされました。それ故に、私たちを闇の中から、主の驚くべき光の中に召してくださった主イエス・キリスト様の栄誉を告げ知らせる、即ち宣教する(1ペテロ29参照)という務めが私たちに与えられています。それも御霊の導きと助けを頂きながら主に仕えさせて頂けることができるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちは新約の祭司であることを覚えます。
喜びをもって主にお仕えしていくことができますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年2月16日 (日)

エゼキエル44:1-3 東門について

 エゼキエル441-3には、
1 彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻すと、門は閉じていた。2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「この門は閉じたままにしておけ。開けてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がそこから入ったからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。3 君主だけが、君主として主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でパンを食べるために、そこに座ることができる。彼は門の玄関の間を通って入り、そこを通って出て行く。」”(新改訳2017)とあります。

 1.2節は、主(ヤハウェ)が東向きの門から入ったので、東向きの門は閉じたままにしておくように命じられたことが記されています。
 ヤハウェの栄光が東側の門から入ったことについては、エゼキエル431-5に、
1 彼は私を東向きの門に連れて行った。2 すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いた。3 私が見た幻は、かつて主がこの町を滅ぼすために来たときに私が見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。私はひれ伏した。4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が東向きの門を通って神殿に入って来た。5 霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の栄光が神殿に満ちていた。”(新改訳2017)と記されていました。

 エゼキエル443には、「君主だけが、君主として主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前でパンを食べるために、そこに座ることができる。彼は門の玄関の間〔その門の通廊(岩波訳)、廊(新共同訳、口語訳)〕を通って入り、そこを通って出て行く。」とあって、君主だけは特別であることが記されています。
君主と訳されている語の原語は、「ナーシー」で、地位の高い人、高貴な人、王、族長、・・等の意があります。岩波訳と聖書協会共同訳は、「ナーシー」を指導者と訳しています。
 エゼキエル458には、「君主たち」という語が出てきます。
新改訳2017は、「・・・。わたしの君主〔原語は「ナーシー」(筆者挿入)〕たちは二度とわたしの民を虐げることなく、この地は部族ごとに、イスラエルの家に与えられる。」と訳し
新共同訳は、「・・・。わたしが立てた君主たちは、もはやわが民を虐げない。彼らはその他の土地をイスラエルの家とその部族にゆだねる。」と訳しています。
この文章からは、ここの「君主たち」とは複数なので、族長たちのことであろうと思います。

 さて、エゼキエル443の「君主」とは誰なのでしょうか?
①主キリスト・イエス様{(参照)エレミヤ235
②復活させられたダビデ{(参照)エレミヤ309、エゼキエル3423.243724.25、ホセア35
③千年王国時代のイスラエルの君主
私には分かりません。わたしにとっては奥義です。教えて頂ける時を待ちます。

 話を変えますが、
キリストの千年王国時代、私たちキリストの花嫁はどこにいるのでしょう。
果たして地上にいるのでしょうか?
天にいるのでしょうか?
ユダヤ人であっても初代教会時代に、ユダヤ人から多くのキリスト者がおこされましたし、今の時代にもユダヤ人たちからキリスト者となる人たちがおこされています。
教会時代に救われたキリスト者の人数は一体どの位なのか、私には分かりませんが、かなりの人数がいることでしょう。

 また、黙示録1620には、「島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。」(新改訳)、「すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。」(新共同訳)、「島々は消え去り、山々は平地に変わりました。」(リビングバイブル)と預言されています。
ですから、キリスト者が地上にいたときの場所で王となるということは無理なことなのです(元々聖書に預言されていませんが)。

 キリストは、復活後、天地の主とされました。また、キリストは王の王、主の主、と紹介されています(黙示録1916)。
キリスト者は、キリストと共に天のところに座を占めたのです(エペソ26)。
私たちキリスト者は、キリストと共に、天から地を支配するのでしょうか?

 地上の王として、はっきり立てられた人達がいます。
その人たちは、大患難時代に殉教した聖徒たちです。
黙示録204の後半に、「わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」(新共同訳)と記されています。
 この人たちの殉教に関係する預言は、
黙示録13章に記されています。1節から読んだ方が良いのですが、省略して、15-18節を記しますと、「5 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がものを言うことさえできるようにし、また、その像を拝まない者たちをみな殺すようにした16 また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。17 また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」(新改訳2017)とあります。 

 今日は、冒頭の「君主」について色々と考えているうちに時間がたち、ほぼ何も書けずに終わりました。
せっかく読んでいただいたのに申し訳ありませんでした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ヨハネ137に「今は分からなくても、後で分かるようになります。」(新改訳2017)とありますように、いずれ分かるときが来るので感謝します。
今日も、あなたが私に対する最善の1日を与えてくださることを感謝し、御名を崇めつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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