オバデヤ書

2020年5月 4日 (月)

オバデヤ1:17-21 主の日は、主の敵には裁きの日、主を信じる者には救いの日

 オバデヤ115-21には、
15 なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。16 おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。19 ネゲブの人々はエサウの山を、シェフェラの人々はペリシテ人の地を占領する。また彼らはエフライムの野とサマリアの野を占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。20 イスラエルの人々に属する、この一群の捕囚の民はカナン人の地をツァレファテまで占領し、セファラデにいるエルサレムからの捕囚の民はネゲブの町々を占領する。21 救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものとなる。”(新改訳2017)と記されています。

 15.16節は昨日、少し扱いました。今日はその不足分を述べさせていただきます。
ご自身の民としたイスラエルに対し、主の許可の範囲を超えて敵対行動を行うものがあるとき、主はその敵を絶滅してしまう場合もありますが、16節に「絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする」とあるように、完全に滅ぼされるのではなく、幾度もある程度の裁きを行う、という場合もあります。

 エドムの場合、昨日述べた箇所では、ユダ・マカバイの軍によって、エドムはかなりやられましたが、消滅したわけではありません。また、エドムの地(セイルの地)は、ナバテヤに取られ、そこには住めなくなりました(ただし混血はあったことでしょう)。

 イエス様の時代のエドムはどこにいたのでしょうか?
エドムは、ギリシア語では「イドマヤ」です。
マルコ38には、「エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。」(新改訳2017)と記されています。
 イドマヤ人からユダヤ人の王ヘロデが登場しています。その時代のユダヤはローマに統治されていましたから、ローマの権威の下で、うまく立ち回ったヘロデがユダヤ人の王となったのです。そして、ヘロデが王であった時代にイエス様が肉体を取られたのです。
この時代のイドマヤ(エドム)は、ユダの南側の地域にありました(セイル山地はナバテヤ人に取られていました)。

 15節の冒頭に、「なぜなら、主の日が」とあります。
この箇所の「主の日」は、主のみ怒りの日(裁きの日)のことですが、「主の日」には色々な意味があります。また、主の日は、ただ1回だけというわけではありません。歴史上、主は、幾度も裁きを行っています。
 「主の日」は、主の敵にとっては裁かれる日ですが、主の内にある人にとっては救いの日です。
 「主の日」は、我らの主イエス・キリスト様の復活の日でもあります(それ故、日曜日を「主の日」とも言います。安息日は土曜日です。)。
 主が復活されたことによって、死が裁かれました。その時より、イエス様を信じて御父によってイエス様の内に置かれた者(霊)は死ななくなりました。
イエス様の内に置かれた者、という表現が分からないという人がいますが、それは、1コリント130に「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。」(新改訳2017)と記されています。
 神の霊から霊の誕生をした者は、神の子どもです(ヨハネ33.61ヨハネ31.2)。
キリストの空中再臨前は、キリスト者と雖もその肉体は、神の子どもにふさわしくない者です。キリストの空中再臨の時、神の子どもとしてふさわしい霊の体を与えられます(1コリント15521テサロニケ416.17)。これを栄化と言います。聖書の他の箇所には「神の子どもたちの現れ」(ローマ819)とあり、また同じ意味合いのことが、コロサイ34にもあります。
 この地上におけるキリスト者の本体は、神の霊から誕生した霊です。
それ故、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1126・新改訳2017)とイエス様が語られた御言葉が成就しているのです。
 少し脱線してしまいましたが、「主の日」には、終わりの日の意味もあります。
この世の終わり、と言っても地球が終わり、人間が全滅するということではなく、人間が人間を支配する時代の終わり、のことですが、この世の終わりは、キリストの地上再臨によって成就します。キリスト者が、「御国が来ますように」と祈っていた祈りの成就する時です。それはオバデヤ121の「こうして、王国は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものとなる。」と預言されていることの成就です。王国は、主キリスト・イエス様のものとなるのです。私たちの花婿主イエス様は、王の王、主の主です。ハレルヤ!
 「主の日」は、キリストの千年王国終了時にも使われています。
2
ペテロ310には、「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(新改訳2017)と記されています。
その後に、永遠に続く「新天新地」を主は創造なさいます(イザヤ6517、黙示録211)。

 17節には、「しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。」
「逃れの者」とは、主を信じている故に滅ぼされることなく、災いから逃れた者のことです。
このようなヤコブ(イスラエル)の民は、領地を与えられるのです。

 この世の終わりには18-20節のようなことが起こるのであろうと思いますが、このような細かいことは私にはよく分かりません。このようなことが起こるのは、私たちキリストの花嫁が、まだ天にいる時か、或いは主の地上再臨の時に主の後に従って下って来る時のことであろうと思うのですが、私には、時の関係がよく分かりません。
 ただし、このようなことが起こることは、ゼカリヤ12.14章などからも想像がつきます。
 ゼカリヤ12章には、
3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る〔まずはメギドに集まるのでしょう。ハルマゲドンはハルメギドでメギドの丘or
。黙示録1612-16参照(筆者挿入)〕。4 その日──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。5 ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕によって私の力となる。』6 その日、わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。8 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の使いのようになる。9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。”(新改訳2017)と記され、
 ゼカリヤ14章には、
1 見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日が来る。あなた〔イスラエル(筆者挿入)〕から奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。2 「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」3 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。5 「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主〔ヤハウェ、主イエス・キリスト(筆者挿入)〕が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る〔黙示録1914参照(筆者挿入)〕。6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。7 これはただ一つの日であり、その日は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る〔エゼキエル471-12参照(筆者挿入)〕。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。9 主〔ヤハウェ、主キリスト・イエス様(筆者挿入)〕は地のすべてを治める王となられる。その日には主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は唯一となられ、御名も唯一となる。10 全土はゲバからエルサレムの南のリンモンまで、アラバのようになる。しかしエルサレムは高くそびえ、ベニヤミンの門から第一の門のところを経て隅の門まで、またハナンエルのやぐらから王家のぶどうの踏み場まで、元の場所にそのまま残る。11 そこには人々が住み、もはや聖絶の物はなく、エルサレムは安らかに住む。12 これは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がエルサレムを攻めるどの民にも加えられる疫病である。彼らの肉は、まだ足で立っているうちに腐る。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。13 その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕からの大いなる混乱が、彼らの間に起こる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いに殴りかかる。14 ユダもエルサレムで戦う。周りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。15 馬、らば、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜にも、同じような疫病が臨む。16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。”(新改訳2017)と記されています。

 ゼカリヤ1412の「疫病」は、現在はやっているCOVID19よりもずっとすごいですね。
「彼らの肉は、まだ足で立っているうちに腐る。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。」とあります。この疫病は、「主がエルサレムを攻めるどの民にも加えられる疫病です」。
 また、ゼカリヤ書の方では、ユダに、主から力が与えられて、ユダの人々は強くされ、勝利していくさまがよく分かります。

 主の再臨後、イドマヤの地もイスラエル12氏族のものとなっているということが、エゼキエル47.48章より分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、一つ、また一つ、と着々とご計画を成し遂げて行かれるお方ですから、御名を崇めて賛美します。
あなたが与えてくださった御約束をしっかり信じて歩むことを得させて頂けますことを感謝します。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように地でも行われますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 3日 (日)

オバデヤ1:5-16 エドムの悪行と主の裁き/自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい

 オバデヤ15-7には、
5 盗人がおまえのところに来るなら、しかも夜に、荒らす者が来るなら、──いかに、おまえは荒らされることか──彼らは欲しい分だけ盗んで行くではないか。ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。6 ああ、エサウは捜し出され、その秘宝は見つけ出される。7 おまえと同盟を組む者たちがみな、おまえを国境まで送り返し、親しい友がおまえを欺いて征服する。おまえのパンを食べていた者が、おまえの足もとに罠を仕掛ける。こんなおまえに英知はない。”(新改訳2017)と記されています。

 預言者オバデヤは、将来エドムにもたらされる災いを預言しています。
この箇所をリビングバイブルは、
5 夜中にどろぼうが来るほうが、はるかにましだ。根こそぎ持って行きはしないから。あるいは、ぶどう畑の実をぜんぶ盗まれるほうがまだましだ。少なくとも落ちた実は残るだろうから。 6 だがおまえは、隅から隅まで家捜しされ、奪われる。宝はすべて見つけ出され、持ち去られる。 7 同盟者はみな敵に回り、この地からおまえを追い出そうとする。平和を約束しながら、滅ぼすことを企んでいる。信頼する友が罠をしかけ、反撃は、ことごとく失敗する。”と意訳しています。
 オバデヤが預言した後の時代、エドムは同盟国には裏切られ、何から何まで持って行かれてしまう、という預言です。

 オバデヤ18.9には、
8 その日には、──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。9 テマンよ、おまえの勇士たちは気をくじかれる。虐殺され、エサウの山から一人残らず断ち切られる。”(新改訳2017)と記されています。

 この箇所をリビングバイブルは、
8 「その日、エドム中を捜しても、賢い者など残っていない」と主は言います。「わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、エドムの賢者たちを愚かにするからだ。 9 テマンのもっとも屈強な兵士も慌てふためき、虐殺者を防げなくなる。”と意訳しています。


 「テマン」とは、エドム人の祖先エサウの孫(創世記3611)であり、恐らくその人の子孫たちが住んだ場所がエドムの地の中のテマンという場所の名になったのではないかと思います(想像です)。
ヨブ211を見ると、「テマン人エリファズ」がヨブの病気見舞いに来ています。この人は知恵のある人であったと思います。ですから、テマン人の子孫にそのような知恵者がいてもおかしくはないし、すぐれた知恵は子孫に受け継がれていった可能性もあります。

 8節では、主(ヤハウェ)が、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去るだろう、と預言されています。
 9節では勇敢な兵士たちが敗れ去ることを述べています。

 話は変わりますが、敵が襲ってきたときに、勇敢に戦うことなく、直ちに逃げ去れば助かることもあります。エドムにもそのような人がいたと思われます。エドムの末裔には、新約聖書に登場するヘロデがいますから。ヘロデ(ヘロデ大王)は、イエス様が誕生した時のユダヤの王でした。ヘロデは、ローマに取り入って、ローマ元老院からユダヤの王に任ぜられ、B.C.37-A.D.4年の間ユダヤを統治したのです。

 オバデヤ110.11には、
10 おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。”(新改訳2017)と記されています。

 エドムへの裁きの理由が記されています。
リビングバイブルは、本文に入る前の、この書の解説の所に、
“本書はエドム滅亡の預言です。この国は紀元前587年にバビロンがエルサレムを攻めた時、援軍を出さないばかりか、バビロンに味方し、傷ついた都の略奪に加わったのです。エドム人はエサウの子孫であり、イスラエル人はヤコブの子孫です。ヤコブとエサウは兄弟でした。エドムが罰せられるのは、兄弟イスラエルに対する暴虐行為のためでした。エドムは、裏切りと高慢のために神にさばかれたのです。”とオバデヤ書の概要を記しています。

 オバデヤ112-14の箇所は、未完了形で記されていますから、警告と取れます。新共同訳は、
12 兄弟が不幸に見舞われる日に、お前は眺めていてはならない。ユダの人々の滅びの日に、お前は喜んではならない。その悩みの日に、大きな口をきいてはならない。13 その災いの日に、わが民の門に入ってはならない。その災いの日に、苦しみを眺めていてはならない。その災いの日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。14 逃げて行く者を殺すために、別れ道で待ち伏せしてはならない。その悩みの日に、生き残った者を引き渡してはならない。”と訳しています。

 オバデヤ書の執筆年代は定かでないようですが、単純に考えれば、12-14節の文章があるのですから、少なくともエルサレムが陥落する以前に記されたのではないかと、単純な私は思います。
尚、未だ成就していない預言が完了形で書かれるのは、主が語られたことは成就するからです(イザヤ5511)。

 ユダ王国は、バビロンに捕囚になり、その後BC538年に、捕囚から解放され、エズラ15に、「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。」(新改訳2017)と記されているように、神殿再建のためにエルサレムに帰還した人たちがいました。そして、神殿はB.C.515年に完成しました(エズラ615)。

 その後、300年以上経った後の記録には、
3 ・・、ユダ〔ユダ・マカバイ(筆者挿入)〕はイドマヤのエサウの子孫に対して、アクラバタで戦いをしていた。彼らがイスラエルを包囲したからである。ユダは大打撃を与えて彼らを屈服させ、戦利品を奪い取った。/65 ユダ〔ユダ・マカバイ(筆者挿入)〕とその兄弟たちは出撃して、南部の地に住むエサウの子孫と戦い、ヘブロンとその村々を撃ち、その砦を破壊し、周囲の塔に火を放った。”(マカバイ記53.65・聖書協会共同訳)と記されています。

 余談になりますが、マカバイ記を読むと、マラキ書からバプテスマのヨハネの登場の間の期間にも、主が豊かに働かれていた時があり、また、主の為には命を投げ出す人たちもいたことが分かります。小生のブログの2013121日のヘブル1135の箇所を読むと、少し分かると思います。

 オバデヤ115.16には、
15 なぜなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。16 おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々〔諸国民(聖書協会共同訳)〕も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。”(新改訳2017)と記されています。
 
 マカバイ記の記事からも分かるように、イスラエルの敵は、その蒔いた実を刈り取ることになるのです。それはエドムだけにとどまるものではありません。

 詩篇137篇はバビロン捕囚になった人たちの主への訴えをも含む詩で、
1 バビロンの川のほとりそこに私たち〔バビロンに捕囚になったユダ王国の民たち(筆者挿入)〕は座りシオンを思い出して泣いた。2 街中の柳の木々に私たちは竪琴を掛けた。3 それは私たちを捕らえて来た者たちがそこで私たちに歌を求め私たちを苦しめる者たちが余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。4 どうして私たちが異国の地で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の歌を歌えるだろうか。5 エルサレムよもしも私があなたを忘れてしまうならこの右手もその巧みさを忘れるがよい。6 もしも私があなたを思い出さずエルサレムを至上の喜びとしないなら私の舌は上あごについてしまえばよい。7 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ思い出してください。エルサレムの日に「破壊せよ破壊せよ。その基までも」と言ったエドムの子らを8 娘バビロンよ荒らされるべき者よ。幸いなことよおまえが私たちにしたことに仕返しする人は9 幸いなことよおまえの幼子たちを捕らえ岩に打ちつける人は。”(新改訳2017)と記されています。
 「幸いなことよおまえが私たちにしたことに仕返しする人は」とありますが、主が仕返しをするのです。

 ローマ1217-21には、
17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主は、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」と語られます。
そして、私たちが為すべきこととして、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけ、自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と命じられます。
ですから、何時もその様に歩ませて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 2日 (土)

オバデヤ1:1-4 主に敵対するエドムは低くされる/主の預言に心を留める者は幸い

 オバデヤ11abには、
“オバデヤの幻。神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エドムについてこう言われる。”(新改訳2017)とあります。

 オバデヤは人の名前ですが、オバデヤは、「アーバド」と「ヤー」から成り立っています。
ヤハウェ(ヤーウェ、ヤーヴェ―、エホバ、イェホバ)のスペルを英字で代用すると、YHV(W)Hになります。
オバデヤの「ヤ」は「YH」で、「ハレル・ヤ」の「ヤ」と同じで、ヤハウェの短縮形です。
「アーバド」は、働くこと、仕えること、の意です。
それ故、ヤハウェに仕えること、ですから、オバデヤは、ヤハウェのしもべ、の意になります。

 オバデヤ書は1章しかありません。
この書は、オバデヤがエドムについて見た幻(映像+ことば)です。
「エドム」という民族の祖先は、アブラハムの孫、イサクの子、ヤコブ(イスラエル)の双子の兄弟エサウです。エサウは母の胎内から出て来た時、赤かった(ヘブル語で「アドモニー」)のです。「赤」は「アーダム」(エドム)です。それで「エサウ」と名づけられ、「エドム」は「エサウ」の別名でもありました。また、創世記2530には、“エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドム〔赤い、赤、の意(筆者挿入)〕と呼ばれた。”(新改訳2017)と記されています。

 「神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕は、エドムについてこう言われる。」(新改訳2017)とあるように、エドムについての預言が続いていくのです。

 1節の後半には、
“私たちは主から知らせを聞いた。使節が国々の間に送られてこう言った、と。「さあ、立ち上がれ。エドムと戦おう」”(新改訳2017)と記されています。
「使節」(原語は「ツィール」で単数形で書かれています)とありますが、これは、主(ヤハウェ)の使節です。「天使」なのではないかと想像します。天使が国々の支配層たちにエドムと戦おう、という思いを入れるのであろうと思います。(1列王記2219-23、黙示録1613.14、新改訳2017のコロサイ28、ヨハネ132、等々参照)
この世の事象は、霊的世界からの働きかけが大いに関与しているのです。

 24節には、
2 「見よ。わたしはおまえ〔エドム(筆者挿入)〕を国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。3 岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。4 鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。”(新改訳2017)と記されています。

 エドムは、北は死海,南は葦の海(紅海)に至る山地に住みました。その地を、エドムの地、セイルの地、セイル山とも言います。エドム人は、後なってイドマヤ人と呼ばれました。

 3節に「岩の裂け目」とありますが、これに関して、新共同訳スタディー版の注は、
“「岩の裂け目」は普通名詞であるが、後の首都となったペトラ、北のボツラ、あるいはヘブライ語で岩という意味のセラを指しているとも考えられる(2列王記147)”と述べています。

 横道にそれますが、
大患難時代、反キリストが主に従うイスラエル人を殺そうとします。
その時のことを、イエス様が、
15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。”(マタイ24章・新改訳2017)と預言したと記されています。
このことは、他の聖書の預言から、キリストの地上再臨の3年半前に起こることです。
「山へ逃げなさい」という山は、セイル山のことかもしれません。
「ボツラ」(要塞、の意)もエドムの地です。
 恐らく、主は、セイルに逃れたイスラエル人を敵の手から守るために戦われるのです。
イザヤ631-6には、
1 「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」2 「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか。」3 「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。4 復讐の日がわたしの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ〔主の日は、主に敵対するものには裁かれる日であり、主を信じる者には救いの日です(筆者挿入)〕。5 見回しても、助ける者はだれもなく、支える者がだれもいないことに唖然とした。それで、わたしの腕がわたしの救いとなり、わたしの憤り、それがわたしの支えとなった。6 わたしは怒って諸国の民を踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた。」”(新改訳2017)という預言が記されています。

 そして黙示録1913には、
“その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。”(新改訳2017)と記されています。

 話を元に戻します。 
3
節を見て分かるように、エドムは自然の要害に住んでいました。
しかし、主(ヤハウェ)は、エドムを裁き、「国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。」と明言しているのです。

 14節をリビングバイブルは、
1神である主は幻によって、これからエドムの地に起こることをオバデヤに示しました。
オバデヤは言いました。
「主から知らせがあった。神は国々に使者を遣わして、次のようにお命じになったと。『よく聞け。軍を動員し、エドムを滅ぼすのだ。』2エドムよ。わたしはおまえを国々の中で小さい者とし、さげすまれる者としよう。 3おまえは人が寄りつけないような高い断崖に住んで、高慢になっている。『だれも、ここまで登って来られまい』と誇っている。思い違いをしてはならない。4おまえが鷲のように高く舞い上がり、星の間に巣を設けても、わたしはおまえを引きずり降ろす」と主は言います。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
ひとたび主が事を行われるとそれに抵抗出来得る者はありません。
主は、事を起こされる前に、預言を与えてくださっておられますから感謝します。
主が与えてくださっておられる預言の言葉を正しく理解することができますよう祝福してください。
主のみ旨は、すべて成就していくことを覚え、主の御名を崇め、賛美し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ4610には、
「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」(新改訳2017)、
「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(新共同訳)、
「何が起こるかを教えることができるのは、このわたしだけだ。わたしの言ったことは、みなそのとおりになる。心に決めたことはどんなことでも実行する。」(リビングバイブル)、
と記されています。

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