ヨナ書

2020年5月10日 (日)

ヨナ4:5―11 主の大きな愛の中で

 ヨナ書にあること無いことを振り返りながら、最後に今日の箇所を眺めて見たいと思います。
 主(ヤハウェ)は、全知の神で、その予知能力は驚くべきものです。
主がヨナをニネベに遣わそうと思われた時代のアッシリアの都ニネベに住んでいたアッシリアの王や大臣たち、またその国民について、主は、主が預言者を遣わし、主の預言者が、主の御言葉を布告すれば、主の御言葉を信じて悔い改める素直さがあると予知していたのだろうと、私は思います(1ペテロ11.2を参考にして考えてみて)。

 そこで、主は預言者ヨナを遣わすことにしましたが、ヨナは、やがてイスラエルに害を加えることを知っていたor予知していたことのゆえに、主のご命令に従わず、ニネベ(現イラクの都市モスルの一部or近く?)とは反対のタルシシュ(現スペインの一部)行の船に乗ってしまいました。

 主(ヤハウェ)は、「わたしの語った言葉は地に落ちることはない。わたしが必ず成就させる。」(イザヤ5511)と宣言なさるお方です。

 主(ヤハウェ)は、大暴風を起こすことによって海上の大嵐を起こし、逃亡した預言者ヨナの乗っている船を、危険に陥れました。船のオーナーの損失などお構いなしです。

 嵐の原因がヨナにあることを知った船長以下船員たちは、ヨナの申し出により、ヨナを海に投げ込みました。すると、海は直ちに凪になったのです。自然の営みとは異なる時期の大暴風やヨナを投げ込んだらあっという間に凪になるなど、ということを体験した船員を初め乗客たちは、主(ヤハウェ)を礼拝しました。

 海に放り出されたヨナに対して、主は大きな魚(私は鯨だと思いますが)をヨナの近くへと泳がせ、ヨナをパクリと飲み込ませました。主は、大きな魚の胃の蠕動運動や消化に必要な分泌液を止め、ヨナが三日三晩胃袋の中にいることが出来るようにし、ヨナが、これらの体験を通して悔い改め、主のご命令に従うようにされました。
また、このヨナの出来事をも、後の主イエス様の十字架での贖いの成就の後、肉体は墓の中に、霊はよみへと下られました(1ペテロ318-20)が、三日目に霊の体において復活されるということの予表となるべく意図されたのではないかと思います。

 ヨナは、陸地に吐き出されました。そして、ニネベで、「悔い改めなければ、40日後にニネベは滅びる」という、主が語れと言われた御言葉をヨナは宣布(布告)しました。

 ヨナは、お言葉を布告しながら、心の中では、ニネベの王をはじめ、ニネベの人々は悔い改めることをせず、40日後に主(ヤハウェ)に滅ぼされるであろう、と期待していました。
ところがヨナの意に反して、ニネベの人たちは、なんと1日目に悔い改めたのです。

 ヨナはふてくされました。そして、またもや主(ヤハウェ)にクレームを付けたのです。
主と戦っても勝てませんから、ヨナは、主に、「生きているよりは死んだほうがましだ。」と言って、

 ここから、今日の箇所に入ります。新改訳2017には、
45 ヨナは都〔ニネベ(筆者挿入)〕から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。6 神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」10 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」”と記されています。

 ヨナは、主(ヤハウェ)の御言葉を聞くことの出来る人物でしたけれども、主のしもべとして、主の御言葉に従うということに欠けた部分のある人でした。それは心が聖別されていないからでした。自分には理解できないところの主の深いお考えを、主に尋ねようとはせず、自分を主より上に置いて、自分の価値判断を優先したのです。
 更に、自分の思い通りにいかないと、怒ってしまい、すぐに「死んだほうがましだ」という人であったのです。
 私も、すぐに「早く主が迎えに来てくれないかな」と思う方です。
その点でヨナと一緒です。
私が心筋梗塞になったとき、これで天国に生ける、と喜びました。助かったときには少しがっかりしました。担当医師たちは、助からない、と言ってくれたのですが、自分以外の兄姉たちの祈りを主は聞かれたのです。心筋壊死の部分が広い状態のままで今も生かされ、発症当時から11年以上が経っています。当時、死にはしませんでしたが、心臓を弱められた関係で、生業の仕事+教会や教団のご奉仕をすることが体力的にできなくなりました。その当時を振り返ると、聖歌や讃美歌を歌うとき、4小節(1段の部分)を続けて歌うこともできませんでした。息が切れて苦しいのです。好きだった写真も、シャッターを押す前に息を止めるので、それが苦しくてできなくなりました。
今は、主を歌で賛美することもできるようになりましたが、今でも1日3回横になっています。
主は、座っていてできるご奉仕を与えてくださいました。それが今書いている「トミーの聖書理解」です。主が、毎日、何かしらを教えてくださるので、人生の中で(現在70台)今が一番楽しいです。尚、生業(なりわい)の仕事も、おもに座って頭を使っていればよいので、午前と午後の各2時間をそれに充てています。また、心臓リハビリも続けています。それらで、主が与えてくださる1日分の力を使い切ります。

 さて、話が脱線してしまいましたが、今日の聖書箇所を読んで、思い浮かべたのは、ルカ15章のいわゆる「放蕩息子の譬え」の箇所です。
御父は、弟の放蕩息子を愛していました。
また、真面目に御父に従って働いてはいても、御父と共に働く中での喜びを持たずに、そして怒りや嫉妬がきよめられていない兄をも、愛しておられた、という箇所です。

 使徒ヨハネは、「この方〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。」(1ヨハネ22・新改訳2017)と述べました。
主は、「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる」(1テモテ24)お方です。
 ヨナの今日の箇所から、私は主の大きな愛を感じます。
主は、寛容であり、慈しみ深く、忍耐深いお方です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたの愛に包まれて日々歩ませて頂けますことを感謝します。
今日もあなたの大きな愛に包まれて歩ませて頂けることを感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2020年5月 9日 (土)

ヨナ3:1―4:4 主は悔い改めるすべての人を救われる/御霊によって歩む

 ヨナ31.2には、
1 再びヨナに次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ〔直訳すると「わたしがあなたに語るところの布告(宣言、声明)をその地に対して叫べ」(筆者挿入)〕。」”(新改訳2017)とあります。

 大きな魚の腹の中で悔い改め、再び陸地に立つことを得させてもらったヨナに、主(ヤハウェ)は、もう一度、「立って、あの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」(2・新改訳第三版)という命令をしました。

 3節には、「ヨナは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。」(新改訳2017)とあります。
 アッシリアの都ニネベの大きさと、ヨナが主のご命令に従ってニネベに主のことばの布告に赴いたことが記されています。

 4節には、“ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」”(新改訳2017)と記されています。
 主が、ヨナに宣告するようにと語られた御言葉は、「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」という内容でした。
 するとどうでしょう。ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとったのです(5)。それも宣告1日目からです。

 ヨナは、宮殿に行って主の御言葉を宣言したのではないのですが、ヨナによる主(ヤハウェ)の宣告内容と、ニネベの住民の態度が王に伝えられました。

 王は、怒りを発したでしょうか、それとも、「くだらない」と気にもかけなかったのでしょうか、そうではなく、直ちに罪を悔い改め始めたのです。アッシリアの残虐性は他の国民に恐れられていました。王は、そのような残虐なことは良くないと王の良心が語ることを知りながらこれまで良心の語ることを無視していたのでしょうか。私には分かりませんが、69節には、
 “6 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。7 そして、王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。8 人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴〔暴虐(新改訳第三版・聖書協会共同訳)、暴力や強奪(リビングバイブル)〕な行いから立ち返れ。9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」”(新改訳2017)と記されています。

 ヨナがニネベに行って上記のような宣告をしている時代、イスラエルにはアモスが預言者として遣わされていました。イスラエルは預言者の言葉に耳を傾けなかったのに対し、異邦の民であり、かつ残虐な民アッシリアは、何と1日目で、主の御言葉を信じ悔い改めたのです。
やがて主は、このアッシリアを用いてイスラエルを裁くのです。
アッシリアより先に主の御言葉を聞き続けていたイスラエルよりもアッシリアの方が先に悔い改めました。
「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」(マタイ2016・口語訳)とイエス様が語られたことがありましたが、この箇所では、悔い改めに関し、異邦の民が最初で、選民イスラエルは後になったのです。
 このことは、ひょっとすると、この世の終わりに、異邦の民が先に救われ、イスラエルの民の内の多くの者(イスラエル人でもイエス様を信じて救われている人々がいます)の救いが、大患難時代の最後、キリストの地上再臨時に救われるということの予表の一つであるのかも知れません(ローマ11章参照)。

 10節には、「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」(新改訳2017)と記されています。
 暴虐を行ってきたアッシリアの民であっても、悔い改めたので、主は赦されたのです。もし悔い改めなかったら40日後に主の裁きが下るような民、それがアッシリアであったのです。
 「こんな罪深い私が赦されるはずがない。」と語るような人に遭遇することがありますが、生きている人を串刺しにし、生きている人の皮膚を剥がしていく、というような残虐な王や国民をも、主は、悔い改めたら赦したのです。

 私の想像ですが、ヨナは、「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」という言葉を宣告せよ、と主から言われたとき、これでニネベ、アッシリアはおしまいだ。あと40日後にはアッシリアは滅びると思い、内心喜んだのではないかと思います。アッシリアが滅びれば、自国イスラエルは安泰だ、とヨブは思っていたのではないかと思います。
ところが、アッシリアの王や大臣から下々迄、皆悔い改めたのです。
それを目の当たりにしたヨナは、怒り、やけくそになりました。

 ヨナ41-4には、
1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祈った。「ああ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。3 ですから、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」”(新改訳2017)と記されています。

 ヨナは、「私は生きているより死んだほうがましだ」と、何と、主(ヤハウェ)に祈ったのです。
本当に、主に殺されたらどうなるのでしょう。死者の行く世界に行くことになります。主に怒りを燃やして死ぬことになるのですからどこに行くのでしょうね。

 新約の時代は、キリストの十字架と復活という恵みを私たちは与えられています。
キリストともに、生まれながらの古い自分が十字架につけられれば、新しい霊のいのちに生きることが出来るのです。古い自分の死は主の中で生きることが出来るという希望をもたらすのです。
1
コリント130には、「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(新改訳第三版)とあり、
ヨハネ3章には、「3 だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」(口語訳)とあり、
コリント127には、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」(口語訳)とあり、
ガラテヤ5章には、「24 キリスト・イエスに属する者は、肉〔生まれながらの古き人(筆者挿入)〕を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。」(聖書協会共同訳)とあり、
また、ガラテヤ2章には、「19 ・・・。私はキリストとともに十字架につけられました。20 もはや〔生まれながらの古き(筆者挿入)〕私が生きているのではなく、キリストが〔新生させて頂いた(筆者挿入)〕私のうちに生きておられるのです。今〔霊の人である(筆者挿入)〕私が肉において〔滅びゆく肉体の中で(筆者挿入)〕生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔神の子の真実(聖書協会共同訳)、御子の信仰{ヘブル111によると「実体」}(筆者挿入)〕によるのです。」(新改訳2017)と記されています。

 キリスト者は、生まれながらの古き人即ち「肉」という肉の思いを生じる根源に死に、神の霊から生まれた霊の人として御霊に導かれ、支えられ、教えられ、・・・・して生きることの出来る恵みを与えられているのです。すべて恵です。ですから自ら命を絶って、永遠に主と断絶する必要はありません。
自死の中にも例外があると思います。それは、霊が離れる前に悔い改めて主イエス様に立ち返った人の場合で、その人は天国に召されると私は思います。クリスチャンと言われる人の自死の場合は、ひょっとすると天国で再会するかもしれないと私は考えています。
霊の世界において、主とキリスト者は、相互内住の関係にあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
今日も霊の人として、御霊に導かれて歩む一日であらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 8日 (金)

ヨナ2:1―11(ヘブライ語聖書、新改訳はヨナ1:17-2:10)主にふさわしいものとするために矯正なさる主

 ヨナ21-11のヘブライ語聖書の箇所を新共同訳、岩波訳、聖書協会共同訳は、同じ章節としています。一方、新改訳、口語訳、文語訳は、ヘブライ語聖書の21117とし、ヘブライ語聖書の2221としています。ですから、ヘブライ語聖書や新共同訳の211は、新改訳では210です。

 新改訳2017の訳は、
1:17 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。/
2:1
ヨナは魚の腹の中から、自分の神〔原文は「彼の神」(筆者挿入)〕、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祈った。2 「苦しみの中から、私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。3 あなたは私を深いところに、海の真中に投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波、あなたの大波がみな、私の上を越えて行きました。4 私は言いました。『私は御目の前から追われました。ただ、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』5 水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきは、私のうしろで永遠に下ろされました。しかし、私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。7 私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。8 空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。9 しかし私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のものです。」10 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。”(新改訳2017)と記されています。

 この箇所は、ヨナが、嵐の海に投げ込まれた(ヨナ115)後、ヨナが大きな魚に呑み込まれ(新改訳の117)、その後、主によって陸地に戻されるところ(新改訳の210)までの、ヨナの感じたこと(ヨナの主観が含まれています)、ヨナの祈り、ヨナへの主の取り扱いが記されています。

 ヨナ1:17には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」(新改訳2017)と記されています。
「大きな魚」とあると、私などは、魚類の中の大きなさかな、と考えがちなので、聖書に「鯨」が出て来るかどうかを調べたところ、「鯨」は出てきませんでした。地中海にも鯨はいます。「大きな魚」とは魚類という概念ではなく、魚のように泳ぐ海洋生物である哺乳類の「鯨」のことではないかと思います。現代人は、鯨は哺乳類と知っていますが、漢字が造られた当時、「くじら」は魚へんを使いました。今もそのままです。

 「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」とありますが、イエス様は、この箇所を用いて、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子〔イエス・キリスト様(筆者挿入)〕も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ1240・新改訳2017)と語られました。

 ヨナは、「大魚の腹」を「よみの腹」(2)と述べています。
イエス様の死と復活を預言した箇所に、詩篇1610の「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」(新改訳2017)という聖句があります。
これらの「よみ」と訳された語の原語は「シェオール」で、ハデス(よみ)、死の世界、墓、・・等の意です。
ヨナは「大きな魚の腹」を「シェオール」と感じたのでしょう。
詩篇1610の「シェオール」は、地下です。
ペテロは、ペンテコステの日の説教(使徒2章)で、詩篇のこの箇所を用いています。
またペテロは、1ペテロ3章で、
18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところ〔場所は「シェオール」でしょう(筆者挿入)〕に行って宣言されました。”(新改訳2017)と述べています。
上記の内容は、主キリスト・イエス様の、よみ(シェオール)に下っておられる間の活動の一部であろうと思います。
「シェオール」とは、死者が最後の審判を待っている間の場所と思われます。
普通、「シェオール」は地の深き所をイメージしますが、ヨナの感覚では魚の腹の中であったのでしょう。

 主は魚の胃袋の蠕動運動を止め、人間的に言えば、胃酸の分泌も止め(鯨が胃酸を分泌するのかどうかは知りません)、空気も与え、ヨナを守られたのでしょう。もし、そのようにしてくださらなかったら、ヨナが三日三晩も生き物の消化器の中にいることは出来ません。消化されて原形をとどめなくなってしまします。

 ヨナは、このような状態になって初めて、主に「助けてください」と叫んだのです(2)。
主に背を向けて歩んでいても、主のものとされている人は、主の懲らしめによって、主に立ち返り(悔い改め)、主に感謝し、主に従うようになるということをヨナは実体験しました。

 ヨナが、悔い改め、主に従うことを主に約束した時、主は、魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させたのです(10)。

 キリスト者でも、罪の内を歩んでいると、本質的にはヨナと同じ体験をすることになります。
罪の暗闇の世界から、平安な義の世界、主の光の世界へと置かれるのです。
キリスト者の場合は、裁かれるのではなく矯正されるのです。
 ヘブル125-11には、
5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。”(新改訳2017)と記されています。

 9節後半に、「救いは主のものです。」(新改訳2017)とあります。
新共同訳・聖書協会共同訳は、「救いは主にこそある。」と訳し、
岩波訳は、「ヤハウェにこそ救いはある。」と訳し、
文語訳は、「救はヱホバより出るなり」訳しています。
この文の原語の語根or語幹は、シャラーム イェシュア ヤハウェです。
「シャラーム」は、安全であること、フレンドりーであること、完全であること、繁栄すること、・・・等の意があります。
「イェシュア」は、ヤハウェは救い、で、私たちの主イエス様のヘブライ語は「イェシュア」です。
マタイ121には、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(新共同訳)と記されています。
「ヤハウェ」(主)とは、まことの神が、ご自身のお名前として、モーセに教えられた名前であり(出エジプト315)、一般名詞的な意味では、自存にして永遠、の意です。
ゼカリヤ124-10(特に10節)では、主キリストイエスがヤハウェであると読めます。
これらのことはただ列挙しただけで、議論するつもりはありません。私自身天に帰った後、色々教えてもらいたい箇所だからです。

ヨナの2章には、三日三晩、よみ(シェオール)、イェシュア(イエス)、ヤハウェ、と色々出てきたので、面白さを再認識しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは私たちを矯正して、あなたの子どもとしてふさわしく整えてくださいますから感謝します。
日々、我らの主キリスト・イエス様にあって祈る者、歩む者、であらせてください。
主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 7日 (木)

ヨナ1:7―16 主(ヤハウェ)は、ヨナの罪によってもご自身の聖性を表された/死を前にしても悔い改めないヨナ

 ヨナ17には、
“人々は互いに言った。「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。”(新改訳2017)と記されています。
 「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」とありますが、地中海で大暴風のために難破した船はそれまでにも数多くあったことでしょう。しかし、人々が、この様に言うわけは、この航海の時期に、このような大暴風が吹くことはなかったのではないかと思うのです。
それ故、誰かの罪の故に、この災いが起きたのだ、と人々は想像したのだろうと思います。

 使徒279.10には、“かなりの時が経過し、断食の日〔レビ記2327-29の贖罪の日(筆者挿入)〕もすでに過ぎていたため、もはや航海は危険であった。そこでパウロは人々に警告して、10「皆さん。私の見るところでは、この航海は積荷や船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう」と言った。”(新改訳2017)と記されています。
注解付新改訳聖書の注は、上記の箇所の説明として、“地中海では、海が荒れるため、1111日から35日までは航海は完全に休止され、更に515日までと、914日からは航海は危険とされていた。”と述べています。
これはパウロの時代のことであり、ヨナの時代はB.C.8世紀頃でしょうから時代にずれはありますが、ヨナの時代の船員たちも、航海の危険な時期は分かっていたことと思います。フェニキア人は、B.C.1200年ごろから地中海貿易を担っていましたから。

 現代の多くの人は、だれかのせいで大暴風が起こったなどとは考えないでしょう。だれかのせいで大暴風が起こることがあるというような考えは、非科学的とか迷信という言葉で一掃されてしまうでしょう。古代人は、迷信や非科学的なことに縛られていた部分もありましたが、霊的な分野(ヤハウェ側とサタン側の両方)では、現代人よりもすぐれていたかもしれません。現代の大多数の人は霊的な分野を排除していますから、世に起きている事象が霊の世界との関わりによって起こることが多々あるということに気づかないであろうと思います。

 さて、誰が大暴風の原因なのかということでくじを引いたところ、そのくじはヨナに当たりました(7)。
 そこで人々は、ヨナに、「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」(8・新改訳2017)とヨナに詰め寄りました。

 それに対して、ヨナは、「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔畏れる(岩波訳・新共同訳・聖書協会共同訳)〕者です。」(9・新改訳2017)と答えたのです。
 人々は、ヨナから、「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、ヤハウェを畏れる者です。」(9)という話と、「主(ヤハウェ)の御顔を避けて逃れようとしています」という話とを聞いたので、非常に恐れました。
そしてヨナに対して、「何でそんなことをしたのか」と言いました(10)。

 人々やヨナとの会話の間にも、海はますます荒れてきました。
そこで人々はヨナに、「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」とヨナに叫んだのです(11)。
 海は大暴風で大荒れですし、死の恐怖を持った人々と、風の音、波の音、波が船に打ちつける音等を考えると、おとなしく話し合っていたとは考えられません。大声で叫びあっていたと思います。

 このような状態に陥っても、ヨナは、悔い改めることをしないばかりか、ニネベへ行くよりは死を選んでorやけくそになって、「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」とヨナは人々に答えています(12)。

 ヨナの答えを聞いた船員たちは、ヨナを海に投げ込むのではなく、船を陸地に戻そうと必死に漕ぎましたが、船を進めようとする方向からますます強い風と大波が向かって来るので陸地に戻ることなど到底できない状態になりました(13)。

 万事休すです。人々は、主(ヤハウェ)に向かって叫びました。
14
節の人々の祈りを、岩波訳は、 “「ああヤハウェよ、この男のいのちのことで、私どもを滅ぼさないでください〔原文は「私たちが滅びることのないように」という懇願を表現するもの(岩波訳注)〕。どうか私どもに無実の血〔の責め(訳者挿入)〕を負わせないでください。ヤハウェよ、あなたはあなたの心のままに行われたからです。」”と訳しています。

  人々は祈った後、ヨナを海に投げ込みました。そうしたら海は凪となったのです。
岩波訳には、“そして彼らはヨナをかかえ、彼を海に投げ込んだ。海の怒りのさまはおさまり、静まった。”(15)とあります。

 ヨナを海に投げ込んだら、大嵐が一瞬にして静まったのです。
それは偶然だ、という人は少ないでしょう。
16
節には、「人々はヤハウェを非常に恐れた。そして彼らはヤハウェに生け贄(いけにえ)を献げ、誓いを立てた。」(岩波訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは、このようなことを通しても、あなたが、聖なるお方であることを示されました。
主に逆らうことは実に愚かなことであることを覚えます。
しかし中には、死ぬことよりも自分のプライドを守る人もいます。
死んで終わりではなく、よみの世界も主の管轄下にあることを考えないor信じない人々が多いのも事実です。
私は結構頑なな人間でしたけれども、あなたは憐れんでくださって、イエス様を信じることを得させてくださいました。
感謝します。
三一の主なる神様は、この上なく素晴らしいお方です。
天のみならず地においてもあなたの御名が崇められますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 6日 (水)

ヨナ1:4-6 ふてくされているヨナ/主への不従順の結果は他者にも及ぶ(その逆も真)

 ヨナ14-6には、
4 ところが、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。5 水夫たちは恐れて、それぞれ自分の神に向かって叫んだ。そして、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。一方、ヨナは船底に下りていて、横になってぐっすり寝入っていた。6 すると船長が近づいて来て、彼に言った。「いったいどうしたのか。眠りこけているとは。起きて、あなたの神に願いなさい。もしかすると、その神が私たちに心を留め、私たちは滅びないですむかもしれない。」”(新改訳2017)と記されています。

 主(ヤハウェ)は、ヨナに、アッシリアのニネベに行って、アッシリア人の悪が主(ヤハウェ)に届いていることを告げるようにと命じました(ヨナ12)が、主がアッシリアを滅ぼすかアッシリアを無力にしてほしいと思っているくらいのヨナは、主のご命令に従わず、アッシリアとは反対方法に行く船に乗ってタルシシュ(スペインの地の一部)へと向かったのです。

 ヨナは、主(ヤハウェ)が寛大なお方で、如何なる悪人でも、悔い改めれば赦されるお方であることを知っていました(ヨナ42)。それ故、ニネベの人たちが悔い改めて主に赦されることを望まないヨナは、ニネベで預言活動をしたくなかったのです。

 イスラエル出身のヨナが、主(ヤハウェ)の裁きによってニネベの人々に滅んでもらいたかったのは、イスラエルを愛していたからだろうと思います。
ヨナは、主のご命令を受ける以前に、アッシリアによってイスラエルが滅ぼされることorアッシリアによってイスラエルが苦しめられることを知っていたのではないかと思います。

 さてヨナは、アッシリアのニネベとは反対方向のスペインの方へ行く船に乗り込みました。
人は、主(ヤハウェ)の姿を見ることは出来ませんが、主は人のすべてを見ることができます。主は人の心の中さえ、その人自身よりも詳しく、というか、何から何まで知っておられます。

 ヨナはどうなったのでしょう?
ヨナの乗った船は、大暴風に襲われたのです。
主は自然界を支配しておられます。主にとっては、主が大暴風を起こしたり鎮めたりすることは簡単なことなのです。{サタンでさえ、主の許可があれば、それぐらいのことはします(ヨブ113-19)}。
 ヨナのおかげで、船は風と波にもてあそばれ難破しそうになりました(4)。
そこで船員たちは、各々自分が信じている神に祈りをささげましたが、嵐は一向に収まりません。更に船員たちは、船を軽くするために積み荷を海に投棄しました(5)。

 ヨナの主(ヤハウェ)に対する不従順は、船員をも巻き込み、他の乗船客にも怖い思いをさせ、船のオーナーには多大の損失を与えたのです。

 人や国家の主(ヤハウェ)に対する不従順が、その人や国家に関係する人にも影響を与えてしまうということは、現代でもあるのでしょうか?
被害の現れ方にはいろいろな違いがありますが、あるのです。

 国家の場合の例を聖書から、(時間の都合で)一つだけ取り上げると、
ゼカリヤ12章には、
2 見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。/9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。”(新改訳2017)と記されています。
国の方針で、主のみ旨に反することをエルサレムに行おうとする国々は裁かれるのです。その国民もその巻き添えになります。

 先の世界大戦を、日本は聖戦としていましたが、敗北の結果に終わる聖戦は聖戦ではありません。万軍の主は負けないのです。戦争に反対していた日本人も大いなる被害を受けました。
しかしどのような中にあっても、「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となる」(ローマ828・文語訳)という聖句が揺らぐことはありません。
また、「知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき主は聞いてくださる。」(詩篇43・新改訳2017)とダビデは記しました。
如何なる時にも、ハレルヤであり、主はアーメンなるお方であり、主は、主の御言葉にアーメンという人を喜ばれます。

 さて話を元に戻します。
大暴風により、船が大揺れしている時、ヨナは何をしていたのでしょうか?
「主よ。ごめんなさい。あなたに従いますから、この嵐を鎮めてください。無関係の人たちまで苦しめないでください。私が悪いのです。・・・」と祈ったでしょうか。
 5cには、「ヨナは船底に下りていて、横になってぐっすり寝入っていた。」と記されています。
ヨナは、ふてくされて寝ていたのです。それも他者のことなど気にもかけず、一番揺れの少ない船底で。
ヨナは、「主よ。私を殺そうと思うなら殺してください。私は、ニネベに宣教に行くくらいなら死んだほうがましです。」という気分であったのではないかと思います。
死を覚悟するといっても、エステルとは逆バージョンです(エステル416)。

 船員や乗船客たちは、自分の信じている神々に祈りをささげました。しかし、効果は無かったのです。大損を覚悟で、人の命のためにはということで船の積み荷も捨てました。それでも船は転覆しそうなのです。船長はヨナを不審に思ったのでしょう。船長は、ひょっとするとこの嵐は、ヨナかヨナの神に関係があるのかも知れない、と思ったのかも知れません。
 6節には、「すると船長が近づいて来て、彼〔ヨナ(筆者挿入)〕に言った。「いったいどうしたのか。眠りこけているとは。起きて、あなたの神に願いなさい〔寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ(新共同訳)〕。もしかすると、その神が私たちに心を留め、私たちは滅びないですむかもしれない。」と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたが、人を用いて事を成そうとされる時、どんなことをしても実行されていかれることを覚えます。
あなたに対して従順であるということの重要性を再確認させられます。
あなたのご命令を喜んで行うことの出来る場合は良いのですが、それとは反対の心の状態のときには困難を覚えます。ヨナは、従うよりも死んだほうがましだ、と考えました。イエス様の場合は、私たちとは次元が異なりますが、イエス様でさえゲッセマネで祈ったことを覚えます。
いつも主を愛し、主に従い続けることができますよう祝福してください。
従えそうもないときには、あなたに祈って、自分自身を変えていただき、従うことができますように。
ひとたびあなたに従えば、聖霊様が力を与えてくださることを覚えつつ、また全能にして全知であり、愛をもって導いてくださるあなたの御名を賛美しつつ、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

2020年5月 5日 (火)

ヨナ1:1-3 イスラエルを愛して逃亡するヨナ/天のエルサレム

 ヨナ11には、
“アミタイの子ヨナに、次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。”(新改訳2017)と記されています。

 「アミタイの子ヨナ」という記載は、聖書に二か所出てきます。
ヨナ書以外では、2列王記1425に、「彼〔{ヤロブアム二世(在位期間B.C.783-743年)}(筆者挿入)〕は、レボ・ハマテ〔ダマスコの北80kmの所(筆者挿入)〕からアラバの海〔死海(筆者挿入)〕までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル〔ナザレの北5km(筆者挿入)〕出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(新改訳2017)と記されています。
 ヨナは、2列王記1425の文章からすると、イスラエルの王ヤロブアム二世の時代の預言者であったのだろうと思います。

 ヨナ12.3には、
2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」3 しかし、ヨナは立って、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。”(新改訳2017)と記されています。

 「ニネベ」というのはアッシリア帝国の主要都市です。ヨナ411によると、ニネベの人口は12万人余と記されています。
 日本の12万人以上の市区は、2,020年1月1日現在で、236あります(東京23区だけは区)。
ヨナの時代の大都市は、12万人で大都市です。
 余談になりますが、
世界人口の推移を見ると、学者によって見解が違うのですが、ウィキペディアによると、アブラハムの頃の世界人口は、27,000,000人、ダビデの頃の世界人口は、50,000,000人、ヨナの時代より250年後位(捕囚から帰還した人々によってエルサレムの神殿が再建された頃)は、100,000,000人ということだそうです(すべて推計)。
ヨナの時代はダビデと神殿が再建された頃の中間です。
神殿再建の頃の世界人口は現在の日本の人口よりも少なかったのです。

 2節には、「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に上って来たからだ。」とあります。

 「彼らの悪がわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に上って来たからだ。」という御言葉の関連ですが、
 ソドムとゴモラについての主の御言葉が、創世記1820.21に、「20 ・・。ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい。」(新改訳2017)と記されています。
 また、創世記65-7には、
5 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。6 それで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。7 そして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」”(新改訳2017)と記されています。
 また、創世記1516には、「そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」(新改訳2017)と記され、咎が満ちると主が裁かれることを暗示しています。

 ヨナはイスラエル出身の預言者でした。ヨナの時代のイスラエルの王ヤロブアム二世の死後、僅か21年でイスラエルはアッシリアに打ち負かされ、捕囚として連れて行かれ、その子孫は未だにどこにいるか確定できないのです。アッシリアの覇権主義は大分前からのものでした。預言者でなくても世界情勢に通じていた者は、イスラエルもアッシリアにやられるかもしれないと思っていたことでしょう。
 アッシリアの王ティグラテ・ピレセル3世{聖書では「プル」という名。治世はB.C.745727年。(筆者挿入)}は、北王国イスラエル貢物を課した王です。イスラエルはそれを拒否できませんでした。
 2列王記1520には、「メナヘム〔北イスラエルの王で治世期間はB.C.743-738年(筆者挿入)〕は、イスラエルのすべての有力者にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリアの王に与えたので、アッシリアの王は引き返し、この国にとどまらなかった。」(新改訳2017)と記されています。
 北イスラエルの王の首都サマリアの陥落(B.C.722年)前に、ヨルダン川の東側やイスラエルの北部地方に住んでいたイスラエルの人々は、アッシリアに捕囚として連れて行かれました。
 2列王記1529には、“イスラエルの王ペカ〔在位期間B.C.737-732年(筆者挿入)〕の時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。”(新改訳2017)と記されています。

 恐らくヨナは、主(ヤハウェ)から、「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」と語られた時、ヨナは預言者ですから、イスラエルの将来を考えて、アッシリアが滅んでしまえば、イスラエルは助かる、と考えたことと思います。アッシリアが悔い改めなければ、アッシリアは主(ヤハウェ)によって滅ぼされ、イスラエルは助かる、と思ったのではないかと思います。
預言者ヨナは、主(ヤハウェ)と結構親しく話をすることの出来る間柄であったのではないかと思います。
 ヨナ12の文は短いですが、実際には、主とヨナは話し合っていて、ヨナが、ニネベに行って、ニネベの罪を指摘し、悔い改めなければ主(ヤハウェ)によって滅ぼされる、ということを宣べ伝えるように、としつこく主に言われていたのではないかと思います。ヨナは、ニネベの人々が悔い改めたら主(ヤハウェ)は、お赦しになるから嫌だ、主(ヤハウェ)が赦さなければ、アッシリアは滅び、イスラエルは助かると、主に申し上げていたのではないかと想像します(ヨナ41-3)。

 しかし、主の命令は撤回されませんでした。
ヨブは、アッシリアに滅んでもらいたいので、3節に、「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。」(新改訳2017)と記されているように、ニネベとは逆方向のタルシシュ(現スペインの中の地)へ逃れようとしたのだと思われます。
 アッシリアの残虐性は有名で、王は反逆する者に対し、生きている状態のままで串刺しをすることもあれば、また生きたままの状態で皮を剥ぐなどということを行いました。
 
 アッシリアに限らず、拷問には、様々なひどいものがあります。人間はどこまで残虐になれるのでしょうか。本当にゾ~ッとします。
 それと比べると、新天新地は良いですね。
黙示録213.4には、「3 ・・。見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。4神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(新改訳2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
天のエルサレムは「いいなー」と思いますが、まだ地上にいるということは、与えられた使命を果たし終えていない、ということですから、今は聖霊様の助けを頂いて与えられた使命を果たしていけますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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