伝道者の書

2021年2月20日 (土)

伝道者の書11:7-12:14 創造者を覚え、神を畏れ、神の命令を守れ

 7節には、“光は心地よく、日を見ることは目に快い。”(2017)とあります。

 この箇所をリビングバイブルは、「生きていることは実にすばらしいことです。」と意訳しています。
この様に意訳してある理由は、伝道者の書6:4.5、7:11を読むと分かります。

 8節には、“人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。”(2017)とあります。

 コヘレトは、地上生活を楽しむように勧めています。地上生涯の中には、闇と思われる日々もありますが、連続して闇に感じられるようになる日々もやがて来る、とコヘレトは述べているのであろうと思います。長生きしたら老年期を迎えるからです。これが記されたのは約3000年前のことですから、テレビもパソコンもスマホもない時代です。友人であった人たちは死んでいき、体は弱り、若い頃楽しいと思ったことは楽しく感じられないようになっていくのです。当然、「アー、空しいなー」と思うのです。
私も高齢者ですが、もし救われることなく、三一の主を知らず、死んだら終わり、と老年になっても考えていたとしたら、「死にたくないー」と思うか、「早く死にたい」と思うかのどちらかなのではないかと思います(救われていない私の場合です)。
生きているうちに楽しまなくては、ということであちらこちらを旅行しますが、体が辛くなってくる(ほとんどの人は足腰が弱り痛んでくるのです)と旅行すること自体が辛くなります。ましてコヘレトの時代、一人や二人で旅行などしたら強盗に襲われるかもしれない時代でした。また当たり前のことですが今のような車はない時代であったのです。

 9節には、“若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。”(2017)とあります。

 コヘレトは、若い人に大いに楽しめ、自分のやりたいことを行え、と勧めると同時に、神のさばきが待っているということも忘れるな、と述べています。
神がいないと思っている人は、死んだら終わりだから生きているうちに大いに楽しもう、ということになりますし、余りにも辛い日々が続く人は、生きているよりも死んだほうが楽になれると思って自死する場合もあるでしょう。
しかし、死後に神のさばきを受ける、と何となく思っている人は、裁かれないように生きようとするでしょう。
コヘレトの時代、イエス・キリストによる救いはまだなかったのです。
とは言え、ヤハウェ(主)を信じて、ヤハウェ(主)のみ旨の内を歩んだ人は、ヤハウェ(主)から良く思われていたのです。
イエス様の御言葉からそれを見ると、「義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」(マタイ10:41・2017)、「多くの預言者や義人たち」(マタイ13:17・2017)、「義人アベル」(マタイ23:35・新改訳)などがあり、旧約時代にも主を信じる信仰によって義とされていた人たちがいることが分かります。但しこの人たちは、キリスト者と同じ恵みを受けるわけではありません。義人たちの受ける報いが用意されているのです。

 10節には、“あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。”(2017)とあります。

 「若さも青春も空しいからだ」とありますが、それらの時代を通り過ぎると、それらの時代の思い出は残っていますが、それは過去のものであり、老年から見るとそれらの時代は一瞬の出来事であったのです。
「あなたの心から苛立ちを除け」とありますが、生まれつきの気質によっては、苛立ちを除くことがとても難しい人がいます。
イエス様は、人の心の苛立ちを取り去ることができますが、苛立ちしやすい人が、自分でそれを改善することはなかなか大変なことです。
しじゅうイライラしているのは、交感神経の過緊張状態ですので、様々な病気になり易くなりますし、対人関係も大変です、対自関係も大変なのです。挙句の果ては神様にまでイライラしてしまうのです。

 12:1の“あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。”(2017)という聖句は、伝道者の書の結びのポイント(要点)の一つです。もう一つのポイントは、13節の“結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れ〔畏れ(新共同訳)〕よ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。”(2017)という聖句です。

 いくら知恵があっても、神を畏れ敬っていない人は、主の裁きには耐えられないのですから。その裁きは黙示録20:11-15に記されています。イエス様が語られたお話の中には、陰府の苦しみの様子の記されている箇所があります(ルカ16:23-25)。

 主の内に無い高齢者のみじめさが次のように記されています。
“2 太陽と光、月と星が暗くなる〔目の衰えを述べています(筆者挿入)〕前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。3 その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ〔パーキンソン病や骨粗鬆症や筋力低下症、その他の故です(筆者挿入)〕、窓から眺めている女たちの目は暗くなる〔視力低下(筆者挿入)〕。4 通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり〔早朝覚醒(筆者挿入)〕、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。5 人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。6 こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。7 土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。8 空の空。伝道者は言う。すべては空。”(2017)とあります。

 5節に、“・・・。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。・・・。”とあります。
注解付新改訳聖書の注は、次のように述べています。
“「アーモンドの花は咲き」とは、アーモンドの花は白いので、髪が白くなること。
「バッタは足取り重く歩き」〔「いなごはのろのろ歩き」(第三版)〕とは、足が衰え、腰が曲がり、のろのろと歩くこと。
「風鳥木は花を開く」とは、ふうちょうぼくは性欲亢進の働きがあることから、ここでは性欲も衰えることを指している。”とあります。

 6節に“こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。”とあります。

 “「銀のひも」とは、生命を支えているもの〔の譬え(筆者挿入)〕、「金の器は打ち砕かれ」とは、生命をランプにたとえ、その油を入れてある器が砕かれることにより、死を表している。「水がめは泉の傍らで砕かれ」は、はかないいのちが終わりを告げること。”と注解付新改訳聖書の注は述べています。

 リビングバイブルは、“2 年をとり、日の光や月、星がかすんでよく見えず、夢も希望もなくなってから、神を思い出そうとしても手遅れです。3 やがて、手足が老齢のため震えるようになり、しっかりしていた足も弱くなり、歯がなくなって食べ物もかめず、目も見えなくなる時がきます。4 歯がなくなったら、物を食べるときには口を開かないようにしなさい。鳥がさえずり始める朝早く目が覚めても、耳が遠くて聞こえず、声もしわがれてきます。5 あなたは白髪でしわだらけの老人となり、高い所をこわがり、転ぶことを心配しながら足を引きずって歩きます。性欲もなく、死の門のそばに立ち、死んだ人を嘆く者のように永遠の家へと近づいて行きます。6 もう一度いいます。あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えなさい。銀色のいのちのひもが切れ、金の器がこわれ、水がめが泉のそばでこわれ、滑車が井戸のそばでこわれてしまう前に。7 やがて、ちりは元の地に帰り、たましい〔原語は「ルーアハ」で「霊」(筆者挿入)〕は、これを授けてくださった神のもとに帰ります。8 伝道者は言います。すべて何もかも空しい、と。”と意訳しています。

 コヘレトの自己紹介と知恵の探求、知恵の書の編纂、コヘレトの導き出した結論が9-14節に次のように記されています。
“9 伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。10 伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。11 知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。12 わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。”(2017)とあります。

 ソロモンは、ヤハウェ(主)に、民を裁く知恵が与えられるように願った結果、知恵を与えられ、それと一緒に富と誉れが与えられました(1列王記3:5-13)が、晩年になって背教したのです(1列王記11:1-10)。

 後になって考えると、主が欲しいものを願え、と言われた時に、「生涯、主を畏れ敬い、主を愛し、主のみ旨の内を歩むことが出来るようにして下さい。また、民を裁くに際して必要な知恵を授けてください。」と願っていたらよかったのに、と私は思います。
ソロモンは民に、自分が考えたor発見したor与えられた知恵を教える代わりに、律法の朗読を熱心に行った方がよかったのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
現代でも多くの人は知識を求めます。
私もかつては霊的なことに関してもひたすら知識を求めました。
知識も大切ですが、それ以上に、あなたは私に、主を求めることの重要性を気づかせてくださったことがありました。
常に主と共にあることの重要性にまさるものはありません。
主の臨在我と共にあり、と言い続けることの出来る生涯を送らさせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月19日 (金)

伝道者の書10:16-11:6 怠惰にならずに主の御業or主が与えてくださった仕事or使命に熱心でありなさい

 16節には、“わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。”(2017)とあります。

 16節を
 新共同訳は、“いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。”と訳し、
 口語訳は、“あなたの王はわらべであって、その君たちが朝から、ごちそうを食べる国よ、あなたはわざわいだ。”と訳し、
 リビングバイブルは、“王が幼く、指導者たちが朝から酔っている国は、とんでもないことになる。”と訳しています。

 「若輩」(2017)、「召使い」(新共同訳)、「わらべ」(口語訳)、「幼い」(リビングバイブル)と訳された語の原語は「ナアル」で、それらのどの意もあります。

 「高官たちが朝から贅沢な食事をする」というのは、指導者たちの朝食会、というような度を超えて、宴会状態になっていることを指しているようです。

 16節に対比するように17節には、“幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。”(2017)とあります。

 リビングバイブルは、“王が名門の出で、指導者たちが勤勉を第一と心がけていて、これからの仕事のための英気を養うときにだけ宴会を開いている国は幸せだ。”と意訳しています。

 18節には、“怠けていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。”(2017)とあります。

 岩波訳は、“二重の怠惰〔原語「怠惰」の双数形(岩波訳注)〕の故に、〔家の(訳者挿入)〕梁は落ち、手をこまねく〔原意「両手が下がったままでは」(岩波訳注)〕と、家は〔雨(訳者挿入)〕漏りがする。”と訳しています。
「怠惰」の原語は「アツラー」です。ヘブライ語の名詞には、単数形、双数形、複数形とあります。

 19節には、“パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。”(2017)とあります。

 岩波訳は、“楽しむために食事を作れば、葡萄酒が人生を快活にする。また銀はそのすべてに応えよう。”と訳しています。

 「笑う」(2017)、「楽しむ」(岩波訳)と訳された語の原語は「セホーク」です。

 リビングバイブルは、“祝宴は笑いを、ぶどう酒は幸福感を、金銭はすべてのものを与える。”と訳しています。

 20節には、“心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。”(2017)とあります。

 「心の中でさえ、王を呪ってはならない。」とあります。
心の中で思っていることは、そのうち口から出て来るからでしょう。
「寝室でも」以降の文は、日本では、「壁に耳あり、障子に目あり。」という使われ方をしますね。

<11章>
 1節には、“あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。”(2017)とあります。

 岩波訳の注は、“・・。古代エジプトの知恵文学の一節(「善を行ない、それを水に投げよ。乾けば、それを見出そう」)などから、無駄に見えても、他者に善行を施しておけば、いずれその報いを得る、と解されることが多い。「パンを水の上に投げる」は海上貿易のことで、危険を伴う投資が利益をもたらす、という見解もある。”(抜粋)と述べています。
 新聖書注解は、上記のような意に加えて、“<パン>を比喩的に解釈し、「物惜しみしないで、多くの人々に情けを施すがよい。そうすれば、必ずその報いを思いがけないところから受けることができるだろう。」と解する、これが最も良い。”と述べています。
日本には、人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる、という意味で、「情けは人の為ならず」と使われることもあります。

 この節は、よく霊的にも解釈されます。
「パン」を、みことばのパンとして解釈するのです。
命をもたらす神のことばは、無駄に見えても蒔く必要があります。人々の中には、神のことばを食べる人がいるからです。食べた人は命を得ます。
ヨハネ6章に次のようなくだりがあります。
“32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」”(2017)とあり、
また、“63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。”(新共同訳)と記されています〔1コリント15:45に「最後のアダム{即ち復活のキリスト(筆者挿入)}は命を与える霊となった」(口語訳)と記されています〕。
また、ヨハネ1章には、
“1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”(2017)と記されています。

 2節には、“あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。”(2017)とあります。

 岩波訳の注は、“多くの人に施せば、自らが窮したときに、助けてもらえるとも、不慮の事故に備えた財産分散の勧めとも解される。”(抜粋)と述べています。

 人には将来のことは分からないのだから、とにかく働きなさい、という意のことをコヘレトは、3-6節に次のように記しています。
“3 濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。4 風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。5 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風〔原語は「ルーアハ」で「霊」の意もある(筆者挿入)〕の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。6 朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。”(2017)とあります。

 リビングバイブルは、
“3 雲が垂れこめると雨が降りだし、木が北風か南風で倒されると、そのままそこで朽ち果てる。4 しかし、風の状態が良くなるまで待っていたら、何一つなすことはできない。5 神のなさることは風の通り道と同様に神秘的です。それはまた、母親の胎内の赤ん坊にたましい〔原語は「ルーアハ」で「霊」(筆者挿入)〕が吹き込まれるのと同じように、不思議なものです。6 手を休めずに種をまきなさい。どの種が芽を出すか、わからないからです。もしかしたら、全部芽を出すかもしれません。”と意訳しています。

 5節を新共同訳は、“妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。”と訳し、
口語訳は、“あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。”と訳しています。

 この箇所を、実用聖書注解は、“天候は時々刻々と変化し、大きな災害をもたらす。冒険心のない者は災害を恐れて種を蒔かないし、雲行きばかり気にしている人は思い切って刈り入れをすることが出来ない。ただ神に信頼して決断をし、事を行う以外に道はない。人間は、どちらから風が吹くかという自然現象や、母の胎内でどのように胎児が形成されるかということは知りえない。神のみわざは人間の理解を超えているのであるから、未来がどうなるかをいたずらに心配することなく、すべてを神の御手にゆだねて、自分のなすべきわざをするよう著者は勧めている。自然はすべて神の支配の御手の中にあるのだから、人間に残されているのは、朝から夕方まで、休まず勤勉に種を蒔くことである。数多く蒔けば、その中のどれかが実る。将来後悔することがないように、現在精一杯生きることが大切である。”(抜粋)と述べています。

 伝道者の書が書かれたのは、今から3000年近く前のことですから、現代に生きる人は、風の向きは分かるし、災害の来るのは分かるし、胎児の形成についても知っている、という人もいるでしょう。現代人には現代人用の適切な例話があるでしょうが、言わんとしていることは良く分かります。
 種を蒔き続ける、というのを、み言葉の種を蒔き続ける、ととれば、私たちへの叱咤激励になります。私はウェスレー日記の全巻(日本語訳)を読んだことがありますが、私が一番感心したのは、伝道説教の多さです。年によって決まってはいませんが、とにかく1年に500回以上も説教している年が何回もあったように記憶しています{(路傍伝道や家庭集会等で)読んだのが10数年前か20年前くらいなので記憶が定かではありませんが。}。ウェスレーだからきよめのメッセージが多かったということではないのです。種を蒔き続けたのでした。

天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちキリスト者は、あなたの子どもとしてあなたの御性質にあづかる恵みを与えられていますが、あなたのように、未来に何が起こるのかを正確に知ることの出来る能力は与えられていません。それは、あなたに信頼して歩むためです。
また、神の子であるからといって、神のような力も与えられていません。
力は聖霊様が与えてくださることになっています。
私たちが地上に置かれている間は、あなたが与えてくださった使命に基づき、あなたに信頼し、また聖霊様から力を頂き、あなたのみ旨に叶った働きをし続けることができますよう助けてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月18日 (木)

伝道者の書10:1-15 愚かさと知恵について/主に信頼して歩む

 1節には、“死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。”(2017)とあります。

 この箇所の解説を、新聖書注解は次のように述べています。
“「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」(9:18)を別の格言をもって繰り返す。<調合した香油>→出エジプト30:23-25.34.35。〔調合した香油とは(筆者挿入)〕聖所の器具を聖別する最も聖なるもので、これに似た調合をしたり、これを聖所ないし祭司以外のものに付ける者は、追放処分になったといわれる。<死んだハエ>。直訳「死のハエ」。・・・。最も聖なる香油も、死んだハエが入ると、台無しにしてしまう。それと同じように、ほんの<少しの愚かさ>も<知恵や栄誉>を台なしにする。”と。

 2節には、“知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。”(2017)とあります。

 新聖書注解は、“<右>は名誉ある座、良き物を意味し、<左>はその反対を意味する。”と述べています。
マタイ25章の羊とやぎのさばきの箇所の右左が同じようになっています。

 3節には、“愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。”(2017)とあります。

 人の行動や言葉は、その人がどの様な人であるのかを、他者に見せているようなものです。

 4節には、“支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。”(2017)とあります。

 この節を、
 聖書協会共同訳は、“支配者があなたに憤っても、自分の場所を離れてはならない。冷静になれば、大きな罪には問われない。”と訳し、
 新共同訳は、“主人の気持があなたに対してたかぶっても、その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。”と訳し、
 リビングバイブルは、“上司にしかられても、職場を放棄してはいけない。冷静な態度は、相手の不機嫌をなだめる。”と意訳しています。

 権力者が犯す過失についてコヘレトは、5-7節に次のように記しています。
“5 私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。6 愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、7 また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。”(2017)とあります。

 この箇所を新聖書注解は、“本来、高い地位につくべきではない<愚か者>が<非常に高い位>につき、高い地位にふさわしい者が、かえって低められるというような事は、伝道者〔コーヘレト(筆者挿入)〕が実際に見聞きしたに違いない。”と述べ、
注解付新改訳聖書の注は、7節について、“君主たちが愚かな政治を行ったために革命が起こり、地位の逆転が起こったのであろう。”と述べています。

 コヘレトは、いくつかの危険をあげて、予め危険に対処するようにと忠告しているのかも知れません。8-11節に次のように記しています。
“8 穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。
9 石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。
10 斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。
11 もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。”(2017)とあります。

 「穴を掘る者は自らそこに落ち」とありますが、注意し、対処しないとそのようになることがあります。
「石垣を崩す者は蛇にかまれる」とありますが、コヘレトの住んでいた地域には、石垣に蛇がよく住んでいたのでしょう。
この言葉を人間関係にあてはめると、人の領分に入り込むと、大変なことになる場合もあるということを教えてくれています。

 9節は、仕事には危険がつきものであることを教えてくれています。あらかじめ、想定される危険や問題については、その対処法も考えておくべきことを教えられます。

 10節を新共同訳は、“なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。”と訳しています。
10節の後半部分の原文は3単語の文章で、直訳すると「正しい知恵は益」とだけ書いてあります。

 11節も、蛇遣いに限ったことではなく、様々な職業で同じことが言えます。

 知恵ある者の言葉の性質と愚かな者の言葉、愚かな者の行動についてコヘレトは12-15節に次のように記しています。
“12 知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。13 彼〔愚かな者(筆者挿入)〕が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。14 愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。15 愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。”(2017)とあります。

 14節には、“・・・。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。”とあります。
人は、未来のことを予測や予想は出来ても、実際に起こることを100%正しく知っているわけではありません。
しかし、100%正しく知っておられるお方がいます。それは父なる神様です。キリスト者は、すべてを知っておられる主なる神様の子どもなのです。主なる神様は全知だけではなく、全能のお方です。私たちは、この父なる神様に信頼して歩むことの出来る立場を与えられています。それどころか、父なる神様は、私たちが父なる神様に信頼することを喜んでくださるお方です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは全知全能のお方です。
あなたは私たち一人一人をこよなく愛してくださっておられます。
私たちには、将来のことは分かりませんが、信頼することの出来る御父がおられますからありがとうございます。
先は見えなくてもいつも最善をしてくださるあなたの御名を崇め、感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月17日 (水)

伝道者の書9章 死、楽しみ、知恵と力/霊の体

 コヘレトは、如何なる人も皆死ぬのだということを1-3節に次のように記しています。
“1 まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。2 すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。3 日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。”(2017)とあります。

 この箇所は前章から続いています。
伝道者の書8:8には、“だれも、たましいが体から離れるのをとどめることはできません。だれも、自分の死ぬ日をかってに決めることはできません。この暗黒の戦いを免れることは、絶対にできないのです。その場に臨んだら、どんな悪人でも、じたばたしないことです。”(リビングバイブル)とありました。
そして、今日の箇所は、地上でいかなる歩みをしたところで(敬虔に歩んだ人も、良い行いをした人も、悪しき行いをした人も、その他いかなる歩みをした人も)、皆死ぬのだ、死の世界に行くのだ、ということを述べています。

 リビングバイブルは、1-3節を、
私は注意深く、次のことも探求してみました。神を敬う人も知恵のある人も神の計画の中にありますが、神がその人のことを喜んでいるかどうかは、だれにもわかりません。確かなことは何も言えないのです。善人でも悪人でも、信仰がある人もない人も、神様をののしる者も神を敬う者も、どんな人も、同じ摂理で動かされています。すべての人に同じ結末がくるとは、なんと不公平でしょう。だからこそ、人は正しく生きようとはせず、常軌を逸した道を選ぶのです。待ちかまえているのは死だけですから、希望などありません。”と意訳しています。

 現代人の中にもこのような考えを持っている人は多くいると思います。
そのように考える人は、死んだら終わりなのだから生きているうちに楽しもう、或いは、苦しいことしかないのなら死んだほうがましだ、・・・、となっていくのです。

 コヘレトは、死んでしまった状態よりは生きているほうがましだということを、4-6節で次のように記しています。
“4 しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。5 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。6 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。”(2017)とあります。

 この箇所をリビングバイブルは、
生きている人にだけ、希望があります。「死んだライオンより、生きている犬のほうがましだ」と言われるとおりです。生きている者には少なくとも自分は死ぬという自覚があります。ところが、死んだ者は何一つわからないのです。記憶さえありません。愛したことも、ねたみ憎んだことも、とうの昔に消えてなくなり、もはやこの地上には一つも分け前がないのです。”と意訳しています。

 死後には何もないのだから地上にいる間に楽しめ、とコヘレトは7-10節に次のように記しています。
“7 さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。8 いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。9 あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。10 あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。”(2017)と訳しています。

 この箇所をリビングバイブルは、
“さあ、食べて、飲んで、愉快に生きればよい。神はそんなことで動じることは無い。かぐわしい香水をつけ、上等の服を着よ。短い一生の間、愛する女性と幸福に過ごしなさい。神が下さった妻は、地上での労苦に対する最大の報酬だからです。何をするにしても、りっぱに仕上げなさい。あなたが行くことになる死後の世界では、仕事も計画も知識も知恵もないからです。”と意訳しています。

 コヘレトはこのように語っていますが、パウロは何と言っているでしょうか。
パウロはコリント人への手紙の中で次のように述べています。
“32 ・・・。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。・・・。
35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
40 ・・、天上の体と地上の体があります。
42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるとき〔肉体から生まれた肉体(筆者挿入)〕は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。44 つまり、自然の命の体が蒔かれて〔肉体のいのちとして生を受けましたが(筆者挿入)〕、霊の体が〔霊の体で(筆者挿入)〕復活するのです。自然の〔肉の(筆者挿入)〕命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダム〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となったのです。46 最初に霊の体があったのではありません。自然の〔肉の(筆者挿入)〕命の体があり、次いで霊の体があるのです。47 最初の人〔アダム(筆者挿入)〕は土ででき、地に属する者であり、第二の人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕は天に属する者です。48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕に等しいのです。49 わたしたちは、土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕の似姿となっているように、天に属するその人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕の似姿にもなるのです。
50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血〔肉の体(筆者挿入)〕は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつく〔肉体の死を迎える(筆者挿入)〕わけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。52 最後のラッパが鳴る〔1テサロニケ4:16(筆者挿入)〕とともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます〔永遠に滅びることなく、力のある栄光に輝く霊の体に変えられます(筆者挿入)〕。53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります〔新生した者の本体は霊であり、霊が霊の体を着るようになります{(ヨハネ3:3.6)、2コリント5:1-4参照(筆者挿入)}〕。54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」〔イザヤ25:8とホセア13:14からの引用(筆者挿入)〕56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です〔罪、すなわち死をもたらすとげは、ことごとく切り取られます。そして、罪をあばく律法も、もはや私たちを裁きません(リビングバイブル)〕。57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。”(1コリント15章抜粋・新共同訳)とあります。

 人生は、いつどんなことが起こるか分からない、とコヘレトは11.12節で次のように記しています。
“11 私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。12 しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。”(2017)とあります。

 この箇所をリビングバイブルは、
私は再び今の世を見て、足の速い人が必ずしも競走で勝つとは限らず、強い人が必ずしも戦いに勝つわけでもなく、知恵ある人が貧しい暮らしをしていたり、実力があるのに認められない人がいることを知りました。あらゆることが意図しないで、時と場所によって起こるのです。人はみな、網にかかった魚、罠にかかった鳥のようです。”と意訳しています。

 主なる神様を愛する者、即ちキリスト者には、次のような御言葉があります。
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”(ローマ8:28・2017)と記されています。
この箇所を口語訳は、“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”と訳し、
リビングバイブルは、“私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。”と意訳しています。

 知恵は力にまさる、また一つの過ちは幸せをことごとく損なう、ということを、コヘレトは13-18節に次のように記しています。
“13 私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。14 わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。15 その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。16 私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。17 知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。18 知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す〔一つの過ちは幸せをことごとく損なう(聖書協会共同訳)〕。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたに在る歩みとそうではない歩み、この世のことだけしか分からない人と死後の世界を知っている人の違いの大きさを覚えます。
あなたは私たちに如何に歩んだらよいのか、将来はどうなるのか、ということを教えてくださっておられますからありがとうございます。
知恵も大いに有益ですが、それ以上にあなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従うことの重要性を覚えます。
今日もあなたのみ旨の内を歩ませて頂けますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月16日 (火)

伝道者の書8:9-17 主を信じない者が裁きを免れることは無い

 9.10節を、
2017は、“9 私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。10 すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。”と訳しています。

 ウェスレアン聖書注解は、“10節はむずかしい。ヘブル語本文も明白ではない。”とのべ、
新聖書注解は、“この箇所は難解な箇所である。協・〔口語訳のこと(筆者挿入)〕はこの節の動詞の主語をすべて「悪人」とみて、一貫して「悪人」への言及と解し、(ヘ)イシュタッケフー(忘れられる)を(ヘ)イシュタッペフー(ほめられる)に修正し、・・・。新・〔新改訳のこと(筆者挿入)〕は原文を修正せず、「忘れられる」と訳し、その主語を「正しい行いのもの」{(ヘ)アシェル・ケーン・アース―}と見ている。・・・。”(抜粋)と述べています。
 新共同訳スタディー版の注は、“〔新共同訳の訳文に注して(筆者挿入)〕忘れ去られるのは、悪人たちの悪行とも解釈できる。”と述べています。

 9.10節を、
 新共同訳は、“9 わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。10 だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。”と訳し、
 口語訳は、“9  わたしはこのすべての事を見た。また日の下に行われるもろもろのわざに心を用いた。時としてはこの人が、かの人を治めて、これに害をこうむらせることがある。10 またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。”と訳し、
 新改訳1970は、“9 私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。10 だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。”と訳し、
 岩波訳は、“9 これらすべてを私は見て、日の下で行われるあらゆる業に心を傾けた。それは、人が人を支配し、自ら災いを招く時代であった。10 こうした中で、葬り去られる悪徳者を私は見た。彼らは聖所に出入りしていたが、彼らがそのように行っていたことは、その町で忘れ去られたのだった。これもまた空である。”と訳し、10節に関し、岩波訳の注は、“マソラ本文には多少の混乱が見られる。前文の「葬り去られる(ケブリム)」を「近づく(ケバリム)」と読み替え、次の「聖所」に続ける訳(「聖所に近づき、出入りする」)も多い。七十人訳は、「墓に近づく」。「そのように行った」は補って「正しく行った」とも訳される。「忘れ去られる」は七十人訳では「自慢の種になる」。全体として、聖所に出入り(冒とく行為?)する悪徳者たちも結局は死んで、忘れられてしまう。ということか。”と述べています。
 リビングバイブルは、9.10節を合わせて、“私は、人々が支配したりされたりして互いに傷つけ合っていることについて考えてみました。悪者でも彼の葬式がすみ、墓地から帰って来る時には、友人たちは故人のした悪事をすっかり忘れています。それどころか、その男は、生前に多くの犯罪を重ねた当の町で、ほめそやされるのです。なんとおかしな話でしょう。”と訳しています。 

 11節には、“悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。”(2017)とあります。

 私たちは、裁きについて、イエス様や使徒を中心とした聖書記者から詳しく教えて頂いています。それは新約聖書に記されています。
 さばきには、裁きの時というものがあります。

「人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。」とありますが、それは、悪い行いに対する宣告がすぐに下されないからということだけではなく、人の心の中に単数形の「罪」が住んでいるからです。その「罪」を原罪とか「罪の性質」とも表現します。単数形の「罪」(原罪or罪の性質or罪を犯させる性質)が具体的な個々の罪を犯させるのです。それはローマ7章に下記のように記され、また、「罪」が入ったのはアダムの堕罪の故であるのです(詩篇51:5、ローマ5:12)。
パウロは、ローマ人への手紙7章で、
「14 ・・・。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。17 ですから、今それ〔律法に反すること(筆者挿入)〕を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。」(2017)と述べています。

 コヘレトの感じる人生の不条理とこの時点におけるコヘレトの結論即ち、快楽を楽しめ、etc.について、12-17節には次のように記されています。
“12 悪を百回行っても、罪人は長生きしている。
しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。
13 悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。
14 空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。
15 だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。
16 私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、17 すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。”(2017)とあります。

 私たちは旧約聖書を通して、主なる神様が折々に裁きを行ってこられたのを見せて頂いています。
今は、恵みの時代と言われ、イエス様を信じるだけで救われる時代ですが、同時にさばきも進行しているのです。それは、人が、イエス様を信じないことを決定する時に明らかにされます。
ヨハネの福音書には、
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。」(3:18・2017)、
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(5:24)と記されています。

 また、この世が終わり、キリストの千年王国が始まる前に、大々的な裁きがあります(マタイ25:31-46)。
最後の裁きは、キリストの千年王国が終わり、宇宙が崩壊し、新天新地が始まる前に行われます。白い御座の裁きと言われるものです。(黙示録20:11-15)。

 キリスト者に対してパウロは、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17・新共同訳)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは、あなたの義に基づき、個々人の言葉と行為に応じて裁きをなされるお方であることを覚えます。
私も裁かれるべき一人でしたが、イエス様が私に変わって裁きを受けてくださったことを信じた故に、罪を赦され義と認めてくださいましたからありがとうございます。
主の御名を崇め、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月15日 (月)

伝道者の書8:1-8 知恵の効用、主が立てたものに従え、それ以上に主に従え、時と裁きと死について/イエス・キリスト様を信じた者は罪の裁きを受けることがなく、永遠のいのちを持っている

 1節には、“知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。”(2017)とあります。

 1節を新共同訳は、“「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。”と訳し、
リビングバイブルは、“知恵を身につけて、物事を正しく判断し、さらに分析し説明できる能力があったら、どんなにすばらしいことか。知恵は人の顔を輝かし、その顔を和らげる。”と訳しています。

 知恵があり、物事を正しく判断し、さらに分析し説明できる能力があったら、心にゆとりが生まれます。

 「王の命令を守れ」というテーマのもと2-5a節には次のように記されています。
“2 私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。3 王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。4 王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。5 命令を守る者はわざわいを知らない。”(2017)とあります。

 2節の「王の命令を守れ。神への誓約があるから。」の意味を、注解付新改訳聖書の注は、“〔民は(筆者挿入)〕神の御名において、王に忠誠を尽くすことを誓ったのだから、王の命令は守らなければならない。”と説明しています。

 リビングバイブルは、2節と3節をまとめて、“誓ったとおりに王に従いなさい。どんないやなことであっても、誓いを果たすことから逃げようとしてはなりません。王は不従順な者に罰を加えるからです。”と意訳しています。

 4節を新共同訳は、“王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。”と訳しています。

 ソロモンの時代は、上記本文のようであったのでしょう。
現代の日本にあてはめるとどのようになるのでしょう。
日本は法治国家ですから、「王」の所に「国の法律」という語を入れると分かり易いと思います。
また「法律」は変更されることもあります。

 キリスト者に対してパウロは、
“1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。”(ローマ13章・新共同訳)と述べました。

 しかし、この世の権威者の上に主なる神が君臨しています。
この世の支配者が、万物の主権者であられる主なる神に従っていないときもあるのです。
その時には、万物の主権者であられる主なる神に従うのです。
使徒4:19.20に、支配者に対するペテロとヨハネの言葉が次のように記されています。
神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」とあります。
主なる神に従ったがゆえに、この世の支配者から罰せられる場合もあります。その場合にはそれを甘んじて受けることになります。このような場合には、主からの祝福が約束されています。マタイ5章には、“11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。”(2017)と記されています。

 イエス・キリスト様を信じる信仰が害されない限りにおいて、国の法律に従う、という姿勢が大切なのではないかと思います。
日本の場合は、法律がおかしいと思える時には、法律を変えることが出来るのですから、その意味においては幸いな国です。しかし、悪しき者たちが悪い方へと法律を変更する場合もあります。それは阻止したいですね。

 時と裁きと死について5b-8節に次のように記されています。
“5 ・・・。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。6 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。7 何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。8 風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。”(2017)とあります。

 5節後半から6節前半には、“知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。”と記されています。
主なる神様の裁きについては、聖書に記されています。また、神様のさばきの時について、7節に「いつ起こるかを、だれも告げることはできない。」と記されているように、何年何月何時何分かを告げることは出来ません(マタイ24:42、25:13)が、いかなる状況の時になったらそれが起こるのかということは分かるのです(1テサロニケ5:1-5)。

 8節には、“風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。”(2017)とあります。

 新共同訳は、“人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない。”と訳し、
 リビングバイブルは、“だれも、たましいが体から離れるのをとどめることはできません。だれも、自分の死ぬ日をかってに決めることはできません。この暗黒の戦いを免れることは、絶対にできないのです。その場に臨んだら、どんな悪人でも、じたばたしないことです。”と訳しています。

 「風」(2017)、「霊」(新共同訳)、「魂」(リビングバイブル)と訳されている語の原語は「ルーアハ」です。
「ルーアハ」には、風、息、命、霊、etc.の意があります。

 8節の「死の日を支配することはできず」という箇所を読むと、その前の箇所は、「風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいないのと同じように、人は霊を支配できない。霊が抜け出ていく時、自分のからだの中に霊を押しとどめておくことはできない。」というように解釈できるのだろうと思います。即ち、人の死について語っているのだと思います。霊が人の体から完全に出て行ったままである状態は死の状態です。
ルカ8章に次のような記事が記されています。
“49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。
しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。”(2017)と記されています。

 肉体が使い物にならなくなったら、その人の霊と魂は体から抜け出るのです。また、肉体は元気でも主が霊と魂を抜いてしまえば、肉体は死ぬのです(創世記6:3、申命記32:48.50、34:1-7、ルカ12:20)。

 イエス様は、肉体の死に際して、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って息を引き取ったのでした。初代教会の最初の殉教者であるステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」と言って息を引き取りました。

 以上のように霊が体から離れると体は死にます。しかし、体がまだ使える状態であれば、霊が戻ってきたときに体は活動できるのであろうと思います。ヤコブ2:26には、“からだが霊〔プニューマ(筆者挿入)〕を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”(2017)と記されています。
 (「霊」のヘブライ語は「ルーアハ」で、ギリシア語は「プニューマ]です。 )
ヤコブ2:26の文中の「霊」(プニューマ)の箇所を、新改訳第三版と新共同訳は「魂」と訳していますが、魂のギリシア語は「プシュケー」が使われている場合が多いです。

 ある聖書翻訳者の方から、「霊と魂は同じようなものです」という言葉を聞いたことがありますが、ヘブル人への手紙の著者は、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12・新改訳第三版)と述べて、たましいと霊の違いを明らかにし、また、パウロは、「あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが」という表現を1テサロニケ5:23の聖句の中で使っています。

 通常は霊は魂の内側にあるのかな、と私は想像しています。その理由は、魂が抜け出ても死ぬのですから(創世記35:18)。

 だいぶ脱線しましたが、伝道者の書8:8の最後の句の前までは、“だれも、たましいが体から離れるのをとどめることはできません。だれも、自分の死ぬ日をかってに決めることはできません。この暗黒の戦いを免れることは、絶対にできないのです。”という意味であろうと思います。

 キリスト者は、イエス様を信じた故にorイエス様を信じさせて頂けた故に、罪に対する裁きを受けることは無く(ヨハネ3:18)、永遠のいのちを与えられ(ヨハネ3:36)ているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様を信じさせて頂けた故に罪赦され、永遠のいのちを与えられ、神の子どもとされていますことを感謝します。
今日もあなたに感謝をささげながら歩む一日とさせてください。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月14日 (日)

伝道者の書7:21-29 言葉、 知恵と知者、 人間の知恵・知識は不完全/栄光の体

 陰口、罵りについて21.22節に次のように記されています。
“21 また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。22 あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。”(2017)とあります。

 非難(人の欠点や過失などを取り上げて責めること)、中傷(根拠のないことを言いふらして他人の名誉を傷つけること)、陰口(その人のいない所で悪口を言うこと)等を言われること(書かれること)によって、人の心はどれだけ傷つくことでしょうか。非難、陰口、中傷を言われた人は、悪くすると体や精神の病気を引き起こすことがあり、究極的には死を選択することもあります。またそれを言った人に暴行を振るうと言った場合もあるかも知れません。

 他者から言われた場合の対処法として、イエス様は、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:11.12・2017・新改訳第三版)と語られ、また、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44・2017・新改訳第三版)と語られました。

 イエス様が教えてくださった対処法は、自分に害を加えた者に対して祝福の祈りをしなさい、ということです。この祈りの行為は、主に喜ばれるものであって、主が祈った人を祝福してくださるのです。

 エペソ4:29.30には、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(新改訳第三版)と記され、
 1ペテロ3:9-11には、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」(新改訳第三版)と記されています。
 ヤコブ3:5-18には、「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。16 ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」(新改訳第三版)とあります。

 ダビデは、「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(新改訳第三版)と祈りました。 

 私もダビデのように祈りました。私の場合は、「心の思いと感情を聖くし、口から出る言葉を麗しくしてください。」と。
何度祈ったか分かりませんが、未だ完全には答えられていません。肉の思いや意志による制御ではなく、主の御業がなされることを期待しています。最悪の場合でも黙示録19:8の段階では成就されることでしょう。

 知恵の追及には終わりがないことが23-25節に次のように記されています。
“23 私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。24 今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。25 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。”(2017)とあります。

 自然科学分野においても探求できていない事柄は数え切れないほどあります。
霊的な分野においても多くのことが隠されています。
申命記29:29には、「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえ〔律法(新共同訳)〕のすべてのことばを行うためである。」(2017)と記されています。
リビングバイブルは、「主はすべてのことをお示しになったわけではありません。確かに、主だけがご存知の秘密もあります。しかし、はっきり示されたことには、私たちも子孫も永遠に従わなければならないのです。」と訳しています。

 26節には、“私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。”(2017)とあります。

 これはコヘレト、恐らくソロモンの体験でしょう。
1列王記11章に次のように記されていることと関係しているのではないだろうかと思います。
“1 ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。2 この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。3 彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。4 ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。5 ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。6 こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。7 当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。8 彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。9 主はソロモンに怒りを発せられた。”(2017)とあります。

 女性からしたら、男も同じよ、と言うでしょう。
そうです。
男も女も同じです。エバとアダムの堕罪により(創世記3章)、その子孫、即ちその後の人すべてが、単数形の「罪」(原罪or罪の性質)をもって誕生することになったからです。
 ローマ5:12には、「・・一人の人によって罪〔単数形の「罪」(筆者挿入)〕 が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった・・・」(2017)と記されています。
 詩篇51:5には、「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」(2017)とダビデの告白が載っています。

 27-29節には、コヘレト(恐らくソロモン)の体験と思想が次のように記されています。
“27 伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。28 私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。29 私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られた〔しかしアダムは自由意思によって堕罪し、その子孫である人類は「罪」をもって生まれてきたのです(筆者挿入)〕が、人は多くの理屈を探し求めたということだ。”(2017)とあります。

 27-29節をリビングバイブルは、
“27.28 そこで、「私の結論はこうだ」と伝道者は言います。私はあらゆる方面から調べてみて、次のことを確信するようになりました。私が話を聞いた男性の千人に一人は、確かに知恵がある人物です。しかし女には、知恵のある者は一人もいませんでした。 29 さらに、次のことも知りました。神は人を正しい者に造ったのに、人々は堕落の道に向かって行ったということです。”と訳しています。

 28節には、“私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。”とあります。
私の邪推ですが、ソロモンが男性と付き合うときには、先ず知性を優先しただろうと思いますし、女性と付き合うときのソロモンの本質にあったものは知性ではなく肉欲にあったのではないかと思います。また妻とした人達の中には政略結婚としての女性たちもいたのです。女性を容姿ではなく知性や性格を基に探し求めたら、ソロモンは女性からも賢者を見出すことができたのではないかと思います。聖書の中には知恵ある女性も出てくるのですから。
容姿がどうでもよいと言っているのではありません。また地上の容姿が、容姿端麗ではなかったからと言って残念がることもありません。霊の体は栄光ある体なのです(1コリント15:43)。
主がどの様にしてくださるのか楽しみです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
エペソ5:27には、「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(2017)と記されているように、やがてキリスト者である私たち一人一人を、しみや、しわや、傷のようなものが何一つない、聖なるものとして、内面的にも外面的にも整えてくださいますからありがとうございます。
主が迎えに来てくださることを待ち望みつつ、また、主が、「為せ」ということを行いながら歩ませて頂けますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月13日 (土)

伝道者の書7:13-20 善、悪、賢、愚/御名の崇められる歩み

 13節には、“神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。”(2017)とあります。

 最新のリビングバイブルは、“神のすることに目を留め、それに従いなさい。神が決めたことを変えることなど出来ません。”と意訳し、
前のリビングバイブルは、“神様のなさることに目を留め、それに従いなさい。自然界の道理を敵に回してはいけません。”と意訳しています。

 14節には、“順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。”(2017)とあります。

 この箇所を岩波訳は、“幸いの日には幸いであれ。災いの日には〔災いを(訳者挿入)〕見つめよ。人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ(訳者挿入)〕ないようにと、神はあれもこれも〔幸いの日も災いの日も(岩波訳注)〕造り出したのだ。”と訳しています。

 順境の日には幸いを与えてくださった主を賛美し、災いの日には、何がいけないのか、何を踏み外したのかを考え、その結果、主を賛美することになります。
ある詩聖は「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。あなたの御口のみおしえは私にとって幾千もの金銀にまさります。」(詩篇119:71.72)と証し、かつ賛美しています。

 15-17節には、“15 私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。16 あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。17 あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。”(2017)とあります。

 15-17節をリビングバイブルは、
私は、このむなしい人生のすべてを見てきました。正しい人が若死にし、悪人がたいそう長生きすることもあるのです。だから、正しすぎたり、知恵がありすぎたりして、自滅してはいけません。かといって、悪人になりすぎるのも、愚か者になるのも考えものです。自分の時が来る前に〔天寿を全うする前に(前のリビングバイブル)〕死んではいけません。”と意訳しています。

 この箇所のコヘレトの考え方は、永遠の観点からではなく、この世のことだけに焦点を当てています。コヘレトは死んだ後のことをあまり啓示されていなかったのではないかと思います。私の考えはコヘレトとは異なるので、詩篇73篇のアサフの賛歌を下記しておきます。
“1 まことに神はいつくしみ深い。イスラエルに心の清らかな人たちに。
2 けれどもこの私は足がつまずきそうで私の歩みは滑りかけた。3 それは私が悪しき者が栄えるのを見て誇り高ぶる者をねたんだからだ。
4 実に彼らの死には苦痛がなく彼らのからだは肥えている。5 人が苦労するときに彼らはそうではなくほかの人のように打たれることもない。6 それゆえ高慢が彼らの首飾りとなり暴虐の衣が彼らをおおっている。7 彼らの目は脂肪でふくらみ心の思い描くものがあふれ出る。8 彼らは嘲り悪意をもって語り高い所から虐げを言う。9 彼らは口を天に据えその舌は地を行き巡る。10 それゆえこの民はここに帰り豊かな水は彼らに汲み尽くされる〔おかげで、その影響は神様を信じる人々にもまともに及び、多くの混乱ととまどいをもたらしたのです(リビングバイブル)〕。11 そして彼らは言う。「どうして神が知るだろうか。いと高き方に知識があるだろうか。」12 見よこれが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで富を増している。
13 ただ空しく私は自分の心を清め手を洗って自分を汚れなしとした。14 私は休みなく打たれ朝ごとに懲らしめを受けた。15 もしも私が「このままを語ろう」と言っていたならきっと私はあなたの子らの世代を裏切っていたことだろう。16 私はこのことを理解しようとしたがそれは私の目には苦役であった。
17 ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った。
18 まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き彼らを滅びに突き落とされます。19 ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。20 目覚めの夢のように主よあなたが目を覚ますとき彼らの姿を蔑まれます。
21 私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき22 私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした。23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。24 あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。25 あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。26 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。
27 見よあなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。
28 しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。”(2017)とあります。

 詩篇73篇を記したアサフの時代には奥義になっていたことが、新約時代には明らかにされました。私たちキリスト者は、キリストにあって(in Christ)生きることが最善であることを知っているのです。その歩みは、地上のいのちの生死を越えています。ハレルヤ!
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:20.21・2017)とパウロは証しています。

 18節には、“一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。”(2017)とあります。

 18節を15節からの流れで考えてみると、“一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。”とある文中の「一つ」「もう一つ」とは、正しいことと知恵、悪いことと愚かなこと、と捉えることができます。
もし、この解釈で間違っていないのならば、キリスト者の神様の御前に出るあり方と同じです。自分のすべてを主なる神様にさらけ出すことが大切なのですから。
人間が自分から自分をさらけ出す以上に主なる神様は、その人のことを知っていますが。

 19節には、“知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。”(2017)とあります。

新共同訳は、“知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。”と訳しています。

 20節には、“この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。”(2017)とあります。

 この節を読むと、パウロが、ローマ人への手紙3:10の「義人はいない。一人もいない。」(2017)と述べている箇所を思い起こします。
主なる神様は、私たちのすべてを知った上で、愛し、導いてくださっておられるのですからありがたいかぎりです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
「生まれるのに時があり」とありますが、新約の時代に生を受け、生かされておりますことを感謝します。
日々あなたの愛の内に生かされておりますことを感謝します。
パウロは「生くるにも、死ぬるにも、我が身によりてキリストの崇められ給はんことを切に願ひ」(文語)と述べていますが、私たちキリスト者の多くの者も同じ思いでいることと思います。
私たちの歩みを通してあなたの御名が崇められますよう、私たち一人一人を更にお整え下さり、私たちを通して主が働き出でられますように。
我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16・2017)とイエス様は語られました。

2021年2月12日 (金)

伝道者の書7:11.12 資産と知恵/キリスト者が受け継ぐもの

 知恵と資産の関係について、11.12節は次のように記しています。
“11 資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。12 知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。”(2017)とあります。

 この箇所を、
新共同訳は、“11 知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。12 知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい、知恵はその持ち主に命を与える、と。 ”と訳しています。
リビングバイブルは、“11 知恵ある者になることは、金持ちになるのと同じくらい、いや、それ以上の価値がある。12 知恵からでも金銭からでも、利益を上げることができる。しかし、賢くなることの方が、多くの利点がある。”と意訳しています。

 11節の「資産」(2017)、「遺産」(新共同訳)と訳された語の原語は「ナハラー」で、受け継いだ(何か)の意があり、また、遺産の意もあります。2017の方は、訳者に聞かないと分かりませんが、恐らく、親から受け継いだ資産という意味での資産として訳したのではないかと想像します。

 ところで、キリスト者が受け継ぐ(継いだ)資産と言うものを考えると、主なる神様の気前良さに甚だしくビックリします。
地上にいるときにも素晴らしいものですが、天に帰った後には驚嘆することでしょう。

キリスト者は資産も知恵も与えられているのです。それらはすべてキリストの内に在ります。

キリスト者は、罪の赦しを頂きました。

キリスト者は、永遠のいのちを頂きました。

キリスト者は、キリストの内に置かれました。

キリスト者の内には主の霊が住んでおられます。

キリストの地上再臨前に、天において、キリスト者の総体であるエクレシア(日本語聖書では教会)はキリストとの結婚をします。キリスト者個々人の全体がキリストの花嫁です。

 イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(2017)と言われました。
「心の貧しい者は幸いです。」という文中の「心」と訳された語の原語は、(ギ)「プニューマ」で、新約聖書では、霊と訳される場合の多い語です。多くの日本語訳聖書が、マタイ5:3の「心」と訳している箇所をKJVやNIVは、“spirit”と訳しています。聖書協会共同訳は、欄外に“直訳「霊において貧しい人々」”と注しています。
「天の御国」とは神の王国のことです。
イエス様は「天の御国はその人たちのもの」と言われたのです。
「その人たちのもの」と主が言われた「その人」は「主のもの」です(1コリント3:23、6:20)。「主キリスト」は父なる神のものです(1コリント3:23)。「その人」と言われている人は、キリストとの結婚の時、正しい行いをすることが出来るようにされるのです(黙示録19:8)。これもギフトです。

 「キリスト者は資産も知恵も与えられているのです。それらはすべてキリストの内に在ります。」と前述しましたが、
 1コリント1:30には、“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳第三版)とあり、
この箇所を新共同訳は、“神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”と訳しています。
 コロサイ2:3には、“知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。”(新共同訳)と記されています。
 コロサイ1:16には、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(新共同訳)とあります。

 「キリスト者の内には主の霊が住んでおられます。」と前述しましたが、
 ヨハネ14章には、“16 わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は父にお願いしよう。父は別の弁護者〔助け主(新改訳)、(ギ)パラクレートス(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。/20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。23 わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。”(新共同訳)と記されています。
 コロサイ1:27には、“・・・この奥義は、あなたがたのうちにいますキリスト ・・・”(口語訳)と記されています。

 「キリストの地上再臨前に、天において、キリスト者の総体である(ギ)エクレシア(日本語聖書では教会)はキリストとの結婚をします。キリスト者個々人の全体がキリストの花嫁です。」と前述しましたが、
 黙示録19章には、“6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」9 御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。”(2017)と記されています。
 エペソ5章には、“22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。25 夫たちよ。キリストが教会〔キリスト者の総体(筆者挿入)〕を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。”(2017)と記されています。
 1コリント6:17には、“主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。”(新共同訳)
 2コリント11:2には、“あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。”(新共同訳)と記されています。
 コリント人への手紙を書いたパウロはベニヤミン族出身(ピリピ3:5)のヘブル人でした。
ユダヤにおける婚約について聖書辞典は次のように述べています。
“婚約:将来結婚することを公に約束すること.ユダヤでは一般に,結婚は一種の商業的契約の手続きをとった.結婚の申し込みが受諾され,花嫁の代価が払われると両者の間に婚約が成立した.婚約は結婚と同様の拘束力があり,一度婚約が成立すれば,証人等の立ち会いのもとで正規の手続きを経なければ解消できなかった.婚約から結婚までの期間は約1年であった.婚約時に支払われる花嫁の代価(花嫁料)が労力による場合は数年を数えることもあった.この期間に女に不貞行為があると姦淫罪に問われた(申命記22:23‐27).婚約中の男子は徴兵の義務から免除された(申命記20:7).パウロは教会をキリストに嫁ぐ純潔な処女にたとえ,「私はあなたがたを,清純な処女として,ひとりの人の花嫁に定め,キリストにささげることにしたからです」(2コリント11:2)と述べている.”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちはあなたから恵みの上に恵みを与えられ、そして更に恵みを与えられ続けて歩ませて頂いている者です。
愛に満ち溢れているあなたの御名を賛美します。
今日もあなたの愛に包まれて歩ませて頂けますことを感謝し、我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2021年2月11日 (木)

伝道者の書7:1-10 より良いのは

 1節には、“名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。”(2017)とあります。

 良い香油も私たちを気持ちよくさせてくれますが、香油の香りはまもなく消えて行きます。
名声すなわち良き評判を得るには、1日1日の地道な良き歩みが必要です。香油の香りは一時ですが、名声は長く続きます。

 後半部分に「死ぬ日は生まれる日にまさる」とありますが、そのように言える人は幸いです。
少なくとも、キリスト者は死後の方がより幸いです。
パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」(ピリピ1:23・2017)と言っています。
しかし、イエス様を信じていない人が、この世の生活が苦しいから、人間関係が辛いから、その他の~だから、死にたい、と言うのはどうでしょう。
イエス様を信じないで死んだ人は、死後も苦しむことになります。死んで終わりだと思ったのに、死んでも、人間には魂があって、それが生きていて、生前の苦しみを持ったまま、さらに苦しい世界(陰府)に住むことになるのですから。そこには、新生したキリスト者はひとりもいません。新生したキリスト者は天国にいるからです。そして、最後の審判も受けなければならないのです(黙示録20:11-15)。

 イエス様は次のような話をなさいました。
“19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら〔「聖書を信じないなら」と意訳できます(筆者挿入)〕、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」”(ルカ16章・新共同訳)とあります。

この箇所を読んでいる人で、もしイエス様を信じていない人がいましたら、イエス様を信じてください。お願いします。

 妬みや羨望のない祝宴の場に行き、いっとき楽しむことが出来ることは良いことです。しかし本当に良いのは、自分の人生について思い返し、死後について考えさせられる葬儀に行く方がよい、とコヘレトは言います。そのことが2‐4節に次のように記されています。
“2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。3 悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。4 知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。”(2017)とあります。

 2-4節をリビングバイブルは、
“2 宴会に顔を出すより、葬式に列席する方がよい。やがて死ぬわけだから。生きているうちに死について考えるのは良いことだ。3 悲しみは笑いにまさっている。悲しみは、私たちの心から不純物を取り除く効果があるからだ。4 知恵ある者は死についてじっくり考えるが、愚か者はどうしたら今、愉快に過ごせるかだけを考える。”と意訳しています。

 5節には、“知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。”(2017)とあります。

 「愚かな者」と訳されている語の原語は「ケシール」で、太った、でっぷりした、ばかな、愚かな、愚か者、思慮のない人等の意があります。
詩篇14:1に、“愚か者は心の中で「神はいない」と言う。”という文中の「愚か者」と訳されている語の原語は「ナーバール」で、ばかな、愚かな、邪悪な、よこしまな、等の意があります。

 6節には、“愚かな者〔原語は「ケシール」(筆者挿入)〕の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。”(2017)とあります。

 新聖書注解は、“炭火や木材は徐々に燃えて、物を良く温めることができる。しかし、いばらはすぐに火がついて威勢の良い音を立てて燃えるが、たちまちに燃え尽きて物を十分の温めるのには役に立たない。それと同じように愚かな者の笑いは価値がない。”と述べています。

 7節には、“虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。”(2017)とコヘレトの言葉が記されています。

新共同訳は、“賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う。”と訳しています。

 キリスト者は、キリスト者であるからと言って虐げられることがあります。
賢者さえも、虐げられれば狂い」とありますが、狂わない方法を主は教えてくださっています。
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。(マタイ5:41)
あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:39・2017)
③義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。(マタイ5:10-12・2017)
④その他

 7節の後半部分には「賄賂をもらえば理性を失う」とありますが、私たちはテレビのニュースからも賄賂によって人生をダメにした政治家を時々見ています。

 8節には、“事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。”(2017)とあります。

新共同訳は、“事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。”と訳しています。
事の終りは始めにまさる。」とコヘレトは言いますが、中には事を始めなかったらよかった、というものもあるでしょう。

 2017が「忍耐は、うぬぼれにまさる。」と訳している文を
新共同訳は「気位が高いよりも気が長いのがよい。」と訳し、
岩波訳は「悠長の方が高飛車にまさる。」と訳し、岩波訳の注に「字義通りには「気(ルーアハ)の長いことは気〔ルーアハ(筆者挿入)〕の高いことにまさる」と述べています。
「ルーアハ」には、風、呼気、息、生命、霊、等の意があります。旧約聖書に「ルーアハ」は378回出てきます。ルーアハを「霊」と訳す場合が多いですが、文脈の中で、風、息、と訳している個所もあります。

 9節には、“軽々しく心を苛立たせてはならない。苛立ちは愚かな者の胸にとどまるから。”(2017)とあります。

 リビングバイブルは、“短気を起こしてはならない。短気は愚か者の特徴だからだ。”と訳しています。

 10節には、“「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。”(2017)とあります。

 新共同訳は、“昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない。”と訳し、
リビングバイブルは、“過ぎ去った昔の栄光に未練を残してはいけません。ほんとうに昔が今より良かったかどうか、わからないからです。”と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
コヘレトの知恵の文には、時に?という箇所がありますが、イエス様の教えにはしっくりきます。
キリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されていますから感謝します。
イエス様の内に私たちキリスト者は置かれ、また私たちキリスト者の霊の内にキリストが住んでくださっておられますから感謝します。
みなをほめたたえつつ我らの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3・2017)
あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(1コリント1:30・新改訳第三版)

その他のカテゴリー

Ⅰヨハネの手紙 Ⅰ歴代誌 Ⅱ歴代誌 アモス書 イエス・キリストのことば イザヤ書 ウェブログ・ココログ関連 エステル記 エズラ記 エゼキエル書 エフェソの信徒への手紙 エペソ人への手紙 エレミヤ書 オバデヤ書 ガラテヤ コロサイ コロサイ人への手紙 ゼカリヤ書 ゼパニヤ書 ダニエル書 テトスへの手紙 テモテへの手紙Ⅰ テモテへの手紙2 ナホム書 ネヘミヤ記 ハガイ書 ハバクク書 ピリピ人への手紙 ピレモンへの手紙 ヘブル ヘブル人への手紙 ペット ペテロの手紙Ⅰ ペテロの手紙2 ホセア書 マタイによる福音書 マラキ書 ミカ書 ヤコブの手紙 ユダの手紙 ヨエル書 ヨシュア記 ヨナ書 ヨハネの手紙Ⅱ ヨハネの手紙Ⅲ ヨハネの福音書 ヨブ記 ルカ ルツ記 レビ記 ローマ人への手紙 伝道者の書 使徒の働き 信仰 共観福音書 出エジプト記 創世記 哀歌 士師記 平安 悪しき霊 救い 救いと裁き 救いの確かさ 救い・救われたい方へ 日ごとの恵み 日ごとの恵みXⅢ 日ごとの恵みⅡ 日ごとの恵みⅢ 日ごとの恵みⅣ 日ごとの恵みⅤ 日ごとの恵みⅥ 日ごとの恵みⅦ 日ごとの恵みⅧ 日ごとの恵みⅨ 日ごとの恵みⅩ 日ごとの恵みⅩⅢ 日ごとの恵みⅩⅣ 日ごとの恵みⅪ 日ごとの恵みⅫ 日毎の恵み15 日毎の恵み16 日毎の恵み17 日毎の恵み18 日毎の恵み19 日記・コラム・つぶやき 民数記 申命記 箴言 終末 終末預言 経済・政治・国際 聖化 詩編 趣味 雅歌 黙示録 黙示録(2回目) 1コリント 1サムエル記 1テサロニケ 1列王記 2コリント 2サムエル記 2テサロニケ 2列王記

カテゴリー

2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ