日ごとの恵みⅡ

2022年1月19日 (水)

自分の最愛の人よりも神であるヤハウェを愛するか

 創世記221-5には次のように記されています。
“1
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
2
神は仰せられた。
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
4
三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
5
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。2017)とあります。

 1節には、“これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。”とありますように、アブラハムは、神の声を知っており、また、直ちに神の声を聞くことの出来た人です。

 また、1節には、「神がアブラハムを試練にあわせられた。」とありますから、神は、神を愛して神に従う者に対して試練にあわせることがある、ということが分かります。

 2節には試練の内容が記されています。
それは、「彼(最愛のイサク)を全焼のささげ物として献げなさい。」というものでした。
アブラハムにとっての最愛のものはイサクでしたが、キリスト者一人一人の最愛のものとは誰or何でしょうか。
それを献げなさい、とヤハウェ(主)は語られるのです。

 神様は、上記の命令を下す前に、「モリヤの地に行きなさい。」と命じています。
「モリヤ」をStrong辞書で調べると、「モリヤ」の「ヤ」のヘブライ語を英字表記に変換するすると“Yah”となり、ヤハウェ(主)の短縮形となっています。「モリヤ」は、「ラーアー」と「ヤー」という語から来ていると書いてあります。「ラーアー」は、見る、の意です。
モリヤの「モ」(ヘブライ語の「メム」)は全頭前置詞かも知れません。誰か教えてください。

 創世記22章を読み進めると分かりますが、アブラハムは、モリヤの山で神の御業を見るのです。
聖書協会共同訳の創世記2214には、「ヤハウェ・イルエ」、「主の山に、備えあり」という言葉が出て来ます。
聖書協会共同訳の欄外注に、「ヤハウェ・イルエ」は、「主は備える」の意、と記し、
「主の山に、備えあり」という文の「備えあり」について、聖書協会共同訳の欄外注は、別訳として、「主は現れる」と記しています。
「ヤハウェ・イルエ」の「イルエ」について、Strong辞書は、「ラーアー」から来ている、と述べています。「ラーアー」は、見る、の意です。2017訳の、「主の山には備えがある」という箇所の欄外注には、「主が備えてくださる」「主が見てくださる」の意、と記されています。

 アブラハムが住んでいたベエル・シェバという場所からモリヤ山までは100km近くあるようです。アブラハムとイサクはモリヤ山に行くのに3日かかっています。

 アブラハムは、最愛の息子と神ヤハウェのどちらをより愛するか、という試練を与えられましたが、「翌朝早く」(3)神ヤハウェの御言葉に従ってモリヤ山に向けて出発したのです。
 
 イエス様は、キリストの弟子たちに対して、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10372017)と語られました。

 イエス様は、キリスト者に対して、キリスト者は、父母、息子、娘を愛しますが、それ以上に私イエスを愛していなければ、イエス様の弟子としてふさわしくない、と語られたのです。

 「あなたは天国に言った時に、最初にだれに会いたいですか?」と聞かれた時、
「イエス様です。」と答えることが出来たら幸いですね。

 アブラハムが、神の命令に従った理由の一つに次のようなものがあります。
ヘブル1117-19には次のように記されています。
“17
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。
18
神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、
19
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。2017)とあります。
アブラハムが、上記のような考えに至ったのが、出発以前であったのか、歩いている途中であったのかについて、聖書は語っていませんが、ベエル・シェバを出立して三日目には、「おまえたち〔二人の若い者たち(筆者挿入)〕は、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言っています(5)。

 ヘブル1117-19節の解説以外にも、私は、アブラハムが、「モリヤ」という語を聞いたとき、神が出現して、何かをしてくださる、と想像したのではないかと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたは私たちを想像ができないくらいに大いに愛してくださっておられますから、あなたの御言葉に従うことが一番だと思います。
あなたを愛する愛を更に加えてくださり、喜びをもってあなたにお従いすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月18日 (火)

義のために(キリストのために)迫害された者は喜びなさい

 マタイ510を、
文語訳は、幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。と訳し、
新共同訳は、義のために迫害される人々〔原語は複数形(筆者挿入)〕は、幸いである、天の国はその人たちのものである。と訳し、新共同訳スタディ版の注は、後半部分をもしくは「その人たちは天の国のものである」。と記しています。
塚本訳は、ああ幸いだ、信仰のために迫害される人たち、天の国はその人たちのものとなるのだから。と訳しています。

 「義のために」とイエス様は語っておられますが、ここでいう「義」とは何を指しているのでしょうか?
 ピリピ(フィリピ)36のパウロの証しの中に、「律法による義」(2017or「律法の義」(新共同訳)という表現があります。
 イエス様は、「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人〔正しい人(新共同訳)〕を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」(マタイ10412017)と語られ、また、「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人〔義人(新改訳)〕たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(新共同訳)と語られたことがありました。
 今日の箇所の「義のために」と記されている「義」は、「律法の義」なのでしょうか、それとも「義人」と言われる人の「義」なのでしょうか?

 イエス様は、「7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主〔「聖霊」のこと(筆者挿入)〕はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11
さばきについてとは、この世を支配する者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕がさばかれたからです。」(ヨハネ16章・2017)と語られました。

 イエス様の贖いが成就し、私たちに聖霊が遣わされると、イエス様を信じないことが罪であり、十字架上で罪人として裁かれたイエス様こそ義なるお方であると悟ることができる、というのです。
イエス様が十字架につかれたのは、御父の御旨であり、イエス様ご自身の御意志でした。
1
ペテロ222-24には次のように記されています。
“22
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。2017)とあります。
 マルコ1619には、主イエスは彼ら〔弟子たち(筆者挿入)〕に語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。2017)と記されています。

 信仰による義というものがあります。
ローマ320-22を口語訳は、“20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。と記しています。

 1コリント130には、しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)と記されています。

 イエス様が「義のために迫害される人々」(新共同訳)と語られた内容は、「キリストの故に迫害される人々」&「キリストを信じる信仰の故に迫害される人々」と言い換えることが出来るのではないかと思います。

 マタイ510を私なりに意訳すると、「祝福されています。キリストの故に迫害される人々orキリストを信じる信仰の故に迫害される人々。その人たちは天の王国のものです。」となります。

 「義」をこの世的にとって、「あの人は正しい人だ」と、その人をこの世の人々が認めた場合があったとしても、主イエス・キリスト様を信じなければ、天の御国に入ることは出来ないのです。

 11.12節には、迫害を受けたときには、キリストの御座における裁き(2コリント510)において、大きな報酬を受けることが約束されています。
 11.12節を
口語訳は、わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳し、
塚本訳は、わたしゆえに罵られたり、迫害されたり、あらん限りの根も葉もない悪口を言われたりする時、あなた達は幸いである。小躍りして喜びなさい、褒美がどっさり天であなた達を待っているのだから。あなた達より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。と訳しています。

 パウロは、
2
テモテ312で、「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな〔信心深く生きようとする人は皆(新共同訳)〕、迫害を受けます。」(2017)と述べ、
テサロニケの信徒の人たちには、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。2テサロニケ14・新共同訳)と書き送りました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られました。
苦難に会ってもイエス様にあって勝利するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月17日 (月)

自分の心を見張れ

 箴言423-27には次のように記されています。
“23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

 箴言423を、
2017
は、何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。と訳し、
口語訳は、油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。と訳し、
新共同訳は、何を守るよりも、自分の心〔(ヘ)「レブ」(筆者挿入)〕を守れ。そこに命の源がある。と訳し、
リビングバイブルは、「何よりも、あなたの心を守りなさい。心は生活全体に影響を与えるからです。」と意訳し、
フランシスコ会訳は、用心深くお前の心を守れ。そこから、命の泉が湧き出る。と訳し、
聖書協会共同訳は、守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。命はそこからくる。と訳しています。

 「あなたの心を守りに守れ、すべてから。何故なら、いのちの(複数形)出口の一部だから。」(私訳)とも訳せます(直訳的に)。

 この聖句を読んでいると、新約的には、イエス様の次の聖句を思い浮かべます。
ヨハネ737-39には次のように記されています。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、空洞、腹、子宮、心、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」で、人の内に住んでくださるという意味での聖霊はまだ来ていなかった、との意でしょう。旧約時代は内住ではありませんでした。(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)

 新約時代にキリスト者に内住してくださった聖霊は、全き神である御子が全き罪のない人となり、その御子イエス様の内にあって、イエス様と共に人間性を体験なさったのです。その聖霊がキリスト者に内住してくださったのです。それ故、ローマ826.27同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(新共同訳)という聖句にも頷けるのです。

 11弟子たちが聖霊を受けたのは、ヨハネ2021.22の箇所であり、次のように記されています。
“21
イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」2017)とあります。

 11弟子以外の人たちの中でイエス様を信じた人は、ペンテコステ(五旬節)の日及びその後に聖霊を受けたのです。

 フランスにパスカルというキリスト者がいました。この人は、キリスト教の神学者であると共に、哲学者、物理学者、思想家、数学者、発明家、実業家でもあった人です。
パスカルは、多くの言葉を残しましたが、その中に、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」
というものがあります。

 パスカルのこの言葉は、今日書いてきたイエス様の御言葉の中にあるものを組み合わせるとできる言葉です。
再掲しますが、イエス様の御言葉とヨハネの解説は、次のように記されていました。
“37
祭り〔仮庵の祭(筆者挿入)〕が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも〔直訳は、「誰かが渇いているなら」(筆者挿入)〕、わたしのところに来て飲みなさい。
38
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内〔ギリシア語原語は「コイリア」で、原義は「空洞」、その他、腹、子宮、、マトリックス等の意があります(筆者挿入)〕から生きた水〔聖い霊(筆者挿入)〕が川〔「川」は複数形(筆者挿入)〕となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった〔直訳「聖霊はまだなかった」(筆者挿入)〕からである。(新共同訳)と。

 イエス様を信じた時に、心の中の空洞となっている部分に新生という意味での霊の誕生をしたのでしょう。そしてそこに聖い霊が入ってくださったのです。
1
コリント617には、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)と記され、
ヨハネ1416.17には、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊〔聖霊のこと(筆者挿入)〕である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)というイエス様の御言葉があり、
ヨハネ1423には、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。2017)というイエス様の御言葉があるのです。
{「川」(複数形)が流れ出るようになる(ヨハネ738)}

 
新生したキリスト者の心の中には、聖なる、すなわち主なる神の霊があり、心がきよくあるとき、その心の中の霊から、主の何か(様々な良きもの)が流れ出していくのです。
それ故、主の働きを阻害するものを処理する必要があるのです。
今日の箇所、すなわち箴言の続きの聖句には次のように記されています。
“24
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。
25
あなたの目が前方を見つめ、まぶたがまっすぐ前を向くようにせよ〔ヘブル122a参照(筆者挿入)〕。
26
あなたの足の道筋に心を向けよ。そうすれば、あなたのすべての道は堅く定まる。
27
右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはパウロを通して、ローマ信徒への手紙66に、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(新共同訳)と記してくださり、またガラテヤ524には、「キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。」(文語訳)と記してくださいました。
その恵みに立って、私を通しても三一の主なる神様に働いて頂くことができますように。
尊きあなたの御名を崇め、感謝しつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月16日 (日)

主により頼む者を主が見捨てることはない

 詩篇99.10{新改訳2017(新改訳、口語訳、リビングバイブルの9.10節を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は10.11節としています)}には次のように記されています。
“9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は虐げられた者の砦、苦しみのときの砦。
10
御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。とあります。

 聖書協会共同訳は、
“10
主は虐げられた人の砦、苦難の時の砦。
11
御名を知る者はあなたに信頼する。主よ、あなたは尋ね求める人を、お見捨てにならなかった。と訳しています。

 イエス様を信じて救われたからといって、苦難がなくなるわけではありません。
イエス様は、最後の晩餐の席で、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と弟子たちに語られました。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難〔「苦難」(2017)〕があります。」(ヨハネ1633抜粋・新改訳第三版)と語られる前に、
18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」(ヨハネ15章・2017)と語られました。

 昨年、中国のある地域では、クリスマス集会が禁止されました。その地域の主に在る兄姉たちにとってはまさに艱難が襲ってきているのです。
 大患難時代には恵みの時代に救われて携挙されたキリスト者はいませんが、大患難時代には、主が備えている艱難時代の聖徒たちが起こされていきます。その人たちは、殉教して天に帰ってくるのです。
 黙示録79-17には次のように記されています。
“9
その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
10
彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
11
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
12
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」
13
すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
14
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。
15
それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
16
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
17
御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」2017)とあります。

 肉体が殺される状態に置かれる苦難は重いものです。
しかし、その時でも、「御名を知る者は、あなたに拠り頼みます。主〔「ヤハウェ」。キリスト者の場合は「イエス」(筆者挿入)〕よ、あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。」(詩篇910)と証しすることができるのです。

 現在の日本においては、迫害によって殺されるということはありませんが、肉体が死んでいく状態に置かれる苦難の一つとして、死病があります。
すべての人の肉体は死に向かっていますが、多くの人はそのことをあまり考えないかのように歩んでいます。しかし、いつ死ぬか分からない状態に置かれている病人は、死ぬかもしれないという心の状態に置かれているのです。
そのような場合でも、主により頼む者、主に信頼する者は、自分のすべてを主に委ね、天を望み、主から平安を賜り、平穏の内に日々を過ごすことができるのです。

 パウロは次のような思いをもって生活していました。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ120-242017)と記されています。

 パウロが、上述のように言えたのは、キリストの愛に包まれていたからor・&内なるキリストの愛が溢れ出していたからではないかと思います。

 それは、パウロの次の言葉からも分かります。
ローマ83537-39には次のように記されています。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(2017)とあります。

 常に主と共にあればパウロのように語ることができるでしょうが、たとえそうでなくても、イエス様は次のように語ってくださいます。
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ637・新改訳第三版)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたに、そしてイエス様に信頼することを得させてくださり感謝します。
あなたは、私たち新生させて頂いた者をイエス様の内に置いて下さり、またイエス様が内に住んでくださっておられますから感謝します。
あなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月15日 (土)

主への信頼を教育する主

 主はアブラム(後のアブラハム)に次にように条件付きの契約を結びました。
創世記121-3には次のように記されています。
“1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」2017)とあります。

 この時、アブラムは75歳、サライ(後のサラ)は65歳でした(年の差が10歳であるのは、創世記1717参照)。
アブラムとサライ夫妻には、サライが65歳になっても子供がいなかったのです。
女性の卵子は、誕生時に全て備えられています。誕生後に卵子が増えることはなく、減っていくのみです。
アブラムは75歳、サライは65歳、おそらくその時から、9年間神のことばを信じて子供が与えられることを待ったことでしょう。
しかし、子どもは与えられませんでした。

 サライは、ヤハウェ(主)の、「あなた〔アブラム(筆者挿入)〕を大いなる国民とし」という約束に、人間の発想で協力しようとしたのかも知れません。
創世記121-3の約束から10年後のことです。
サライは、自分の女奴隷ハガルによって、アブラムの子どもを儲け(もうけ)、その子を自分の子どもにしようとしたのです(創世記163)。

 サライの期待通り、ハガルは子供を産みました。アブラムは、その子をイシュマエルと名づけました。この時、アブラムは86歳でした。サライは76歳であったでしょう。

 イシュマエルが誕生した時から13年間、ヤハウェ(主)とアブラムの関係記事が聖書に記されていません。

 アブラムは、サライの女奴隷ハガルと関係を持つ前(どのくらい前かは分かりません)に、ヤハウェ(主)から次のような約束を与えられていました。
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
19
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」(創世記15章・2017)と記されています。

 ハガルは、アブラムの子を産んだことで、ハガルの女主人サライに対して従順でなくなったようです。ハガルは、アブラムの跡取りを産んだことで、気が大きくなっていったのでしょう。
サライはハガルを苛め(いじめ)抜き、追い出しました(創世記166)。

 
それから13年位の間、アブラムとサライはどのような生活を送ったのか、記されていません。聖書は、ヤハウェ(主)が人間に伝えたいことor教えたいことが書いてあるので、この間にそのような事柄がなかったのでしょう。というか、サライとアブラムがヤハウェ(主)の御旨に背いたので、ヤハウェ(主)からの御言葉がなかったのかも知れません。

 アブラムが99歳(サライは89歳)の時、ヤハウェ(主)はアブラムに現れました。
その時にヤハウェ(主)がアブラムに語った言葉が創世記17章に次のように記されています。
“1
・・・。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ〔完全に主を信じて従うものでありなさい(筆者挿入)〕。2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」/
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなるわたしがあなたを多くの国民の父とするからである。〔アブラムの名の意味は、「父は高められる」or「(地位の)高い父」。アブラハムの名の意味は、「多数のor大勢のor群衆の父」。文語訳は「衆多(おおく)の人の父」と訳し、他の日本語訳は「多くの国民の父」の意に訳しています(筆者挿入)〕
6
わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」/
 〔9-14節は割礼の契約(筆者挿入)〕
9
・・・。「あなた〔アブラハム(筆者挿入)〕は、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017

 創世記1715.16には、アブラハムとサライ(サラ)へのヤハウェ(主)の契約が次のように記されています。
“15
また神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライは、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。〔「サライ」には、「支配的な」の意があります。「サラ」には、「女性の長、女性の支配者、女王」等の意があります。2017訳は、「彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」とヤハウェ(主)の御言葉を載せています。(筆者挿入)〕
16
わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)の冒頭の御言葉は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)というものでした。
しかし、アブラハムもサラもヤハウェ(主)の御言葉を信じることが出来ませんでした。
創世記1717.18には次のように記されています。
“17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。
「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
18
そして、アブラハムは神に言った。
「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」2017)と。

 上記のように答えたアブラハムに対してヤハウェ(主)は次のように語ったと記されています。
“19
神は仰せられた。
「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
20
イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。必ず、わたしは彼を祝福し、子孫に富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。
21
しかし、わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」
22
神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。(創世記17章・2017)とあります。

 サラはというと、サラも信じませんでした。
その後のことになりますが、創世記189-15には次のように記されています。
“9
彼らはアブラハムに言った。
「あなたの妻サラはどこにいますか。」
彼は答えた。
「天幕の中におります。」
10
すると、そのうちの一人が言った。
「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」
サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いていた。
11
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた〔閉経していた(筆者挿入)〕。
12
サラは心の中で笑って、こう言った。
「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。14 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」
15
サラは打ち消して言った。
「私は笑っていません。」恐ろしかったのである。しかし、主は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」2017)とあります。

 アブラハムもサラもヤハウェ(主)が語られたときには、すぐに信じることは出来ませんでした。
ヤハウェ(主)から、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記1712017)と言われたからといって、アブラハムといえども、アブラハムとサラの間に子供が生まれる、ということを信じることは出来なかったのです。
しかし、上記の一連の出来事があった後、主の御言葉を信じる信仰が与えられたのでしょう。 

 ヤハウェ(主)は、「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」(創世記18142017)と語られていますから、妊娠日数を差し引いた日にち以前には、アブラハムもサラも悔い改めて、ヤハウェ(主)の御言葉を信じる信仰を与えられたのではないかと想像します。
ヘブル1111に、アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。2017)と記されていますから。
 イシュマエルは、肉の欲求or人の欲求に基づく子でしたが、
イサクは、ヤハウェ(主)の御言葉に基づく子でした。

 キリスト者に対しては次のように記されています。
“3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
5
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
6
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
7
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
8
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
9
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。{エフェソ(エペソ)1章・新共同訳)とあります。

 ガラテヤ428には、「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
信仰の父と言われたアブラハムであっても、主から語られた約束を、すべて直ちに信じたわけではありませんでした。
あなたの恵みによって、私たちにあなたの御言葉のすべてを信じる信仰を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月14日 (金)

幸いなるかな 平和ならしむる者or者たち

 マタイ59
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。と訳し、
2017
は、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。と訳し、
聖書協会共同訳は、平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。と訳し、
岩波訳は、幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。と訳しています。
 複数形と単数形、時制をそのまま直訳しているのは岩波訳です。

 「神の子」と呼ばれるためには、神から生まれる必要があります。
永遠の昔から、神の御子は神のひとり子の御子です。
神のひとり子の御子は、贖いを成し遂げるために肉体を持ってマリアから誕生しました。マリアのお腹にいた神の御子は、聖霊によって肉体を纏ったのです(マタイ120)。
そして、誕生すると、イエス(イェシュア)と名づけられたのです。イェシュアとは、「神は救う」の意ですから、この子が救い主だということをユダヤ人なら理解できたでしょう。

 マタイ120.21には、彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」2017)と記されています。

 ローマ51には、“・・私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。”(2017)と記されています。

 神と人との間に平和を造りだしたお方、そのお方は、イエス・キリスト様です。
人間の新生児は、罪を内包している肉の両親から生まれたのであって、神から生まれたのではありません。それ故、人の子どもであって、神の子どもではありません。

 
ヨハネ36には、“肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 もし、今日の箇所の聖句が、「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。」(文語訳)のように、「平和ならしむる者」、「その人は神の子」と、日本語的に単数形と捉えたとしたら、この聖句は、イエス・キリスト様を表していることになったであろうと思います。

 キリスト者は、救い主であり、主であるイエス・キリスト様を信じました。心にお迎えしました(ヨハネ112、黙示録320)。その結果、神から霊の誕生をしたのです。そして神の子どもと呼ばれる身分となりました。新生したキリスト者は、肉体は罪を有する両親の遺伝子を受け継いだも出で出来ています。霊は神からのものです。体も神の子としてふさわしい霊の体に変えられるのは、キリストの空中再臨時です。

 ヨハネ33.6には、エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」/肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳)と記されています。
 1
ペテロ13には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 1ヨハネ31.2には、私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。2017)と記されています。
「神の子ども」と訳されている「子ども」のギリシア語原語は「テクノン」です。
テクノンは「生む」という動詞に由来し,出生の系統に重点をおいています(聖書辞典参照)。

 1コリント15章に、“49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです2017)と記されています。

 1テサロニケ416.17には、“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。キリストの空中再臨

 キリスト者でない人が、平和運動をしても「神の子」とは呼ばれません。
キリスト者が平和運動をしたら、平和をもたらし、神の子と呼ばれるようになるのでしょうか?
キリスト者が平和運動をしたところで、世界に永続する平和をもたらすことなど出来ないでしょう。

 この聖句を原語のギリシア語聖書で読むと、「神の子らと呼ばれるであろう。」と未来形で記されています。
 ローマ819には、被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。2017)と記されています。
「神の子どもたちの現れ」とは、霊のみならず、体も神の子どもとしての霊の体を与えられた後のことを指していると思います。

 そのように考えると、神の子どもたちは、何時平和を造りだすことになるのか、という問いに、私は一つだけ思いあたるものがあります。
その時の描写を黙示録は次のように記しています。
“11
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方〔地上再臨される神のひとり子の御子であられる主キリスト(筆者挿入)〕は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。
12
その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
13
また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布〔黙示録198よりするとキリストの花嫁=エクレシア=真の教会=神の子どもたちです(筆者挿入)〕をまとってこの方に従っていた。
15
この方の口からは、鋭い剣〔エペソ617からすると「霊の剣」(筆者挿入)〕が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める(黙示録125)。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。
16
この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
17
わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。
18
王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」
19
わたしはまた、あの獣〔大患難時代の地上支配者(筆者挿入)〕と、地上の王たち〔獣に従う諸国の統治者たち(筆者挿入)〕とその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。
20
しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者〔大患難時代の宗教指導者(筆者挿入)〕も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。
21
残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19章・新共同訳)とあります。

 平和を造るための最終手段は、何と、無暴力の平和運動ではなく、武力による平定でした。

 神の子どもと呼ばれる者たちが平和を造りだすための計画に参画させて頂けるのは未来のことであり、黙示録のこの箇所しかないのではないかと、私は思いました。

 私の想像ですが、実際には、私たちはイエス様について行くだけで、イエス様が、一言、裁きの御言葉を発すれば、事は終わってしまうのではないかと思うのです。
戦いの天使たちも行くことでしょうから。

 今日の文章は、未来に関わることが多く、私の推測というか妄想と思われるようなものが含まれています。事実はその時が来れば分かります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは私たちに溢れ過ぎるほどの恵みを与えてくださることを感謝します。
いつもあなたを賛美し、あなたに感謝し、歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月13日 (木)

へりくだった者には恵みが与えられる

 箴言334には、へりくだった者には恵みが与えられる。2017)と記されています。

 「へりくだる」という語は、一般的には、相手を敬って自分を控えめにする。謙遜する。卑下する。(デジタル大辞泉)というように用いられます。

 聖書に、「へりくだる」と書いてある場合、その対象は、誰に対して(どなたに対して)のことでしょうか?
「へりくだる」対象は、三一の神様である、と私は思います。

 神様に対してへりくだる人は、神様が語られた御言葉に対してへりくだります。
ですから、聖書に記されていることを素直に受け入れるのです。

 その反対に、聖書に記されている神様の御言葉を信じない人、ないがしろにする人、敵対する人は、神様に対して「高慢な人」、「高ぶる人」と言えると思います。

 キリスト者は、見境なくへりくだるべきではないでしょう。
悪魔悪霊のような悪しき霊にへりくだっては困ります。
悪魔悪霊に従っている人の命令に対して素直に聞き従うことは、神に対する高慢になります。

 一方、神に聞き従って歩んでいる人、神の御言葉の中を歩んでいる人に聞き従うことは、神に対して謙遜な行動です。
とはいえ、相手が人間の場合、平素より神様に従っている人の言動が100%神様の御旨の通りとは限りません。一例として、ガラテヤ211-13があります。
 ガラテヤ211-14には次のように記されています。
“11
さて、ケファ〔「ペテロ」の別称(筆者挿入)〕がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたし〔パウロ(筆者挿入)〕は面と向かって反対しました。
12
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来る〔「ヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来る」(リビングバイブルの意訳)〕までは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
13
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
14
しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(新共同訳)とあります。
「ケファ」とはペテロの別名です。ギリシア語聖書(TR)には、この箇所は「ペトロス」となっています。「ケファ」はアラム語で「岩」です。

 いつもは主に対して謙遜なケファ(ペテロ)とバルナバでしたが、パウロに叱責されたときには、主に対して高慢になっていました。人を恐れて罠にかかってしまったのです。
一方、パウロの方は、ケファ(ペテロ)とバルナバに対して高慢なように見えますが、主に対して謙遜であったのです。

 余談になりますが、
「岩」という語が出てきたので、マタイ1618の聖句の一部を下記します。
イエス様がシモン{「ヨナの子シモン」(ペテロorケファはイエス様がつけた名前)}に、「あなたはペテロ〔原語であるギリシア語は「ペトロス」で、岩{の一部分(かけら)}の意(筆者挿入)〕です。
わたしはこの岩〔キリストが自分を指して「この岩」と言っています。この岩の「岩」と訳されている語の原語であるギリシア語は「ペトラ」で、大きな岩の意です(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。

リビングバイブルは、同じ個所を次のように意訳しています。
“あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの大きな岩の上に私の教会を立てます。”と。

 後になって、ペテロは、手紙の中で次のように記しました。
意訳になりますが、リビングバイブル旧版は次のように訳しています。
“キリスト様に近づきなさい。キリスト様は生ける土台石となり、神様はその上に、神の家をお建てになるのです。キリスト様を、人々は拒絶しましたが、神様は最も重要な存在として選ばれたのです。そして今、あなたがたは、神の家を建て上げるための生ける石となったのです。そればかりか、神様のきよい祭司となりました。イエス・キリストによって、神様に受け入れられたあなたがたは、喜ばれる供え物を神様にささげなさい。”(1ペテロ2:4.5)とあります。

 今日の聖書箇所は、“へりくだった者には恵みが与えられる。”(箴言3:34・2017)という聖句です。
主は最初に救いの恵みを与えてくださり、更に、聖書に記されている主が約束してくださった聖句に信頼していけば、その聖句に基づいた恵みが与えられていくのです。
主に信頼すること、即ち主の御言葉に信頼することは非常に幸いなことです。

 イエス様は、キリスト者を羊に譬えて次のように語られました。
ヨハネ10:10(抜粋)には、次のように記されています。
諸聖書の訳を記しますと、
 2017は、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と訳し、
 新改訳第三版は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と訳し、
 新共同訳は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と訳し、
 口語訳は、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」と訳し、
 塚本訳は、「わたしは(羊に)命を持たせるため、あり余るほど(の命を)持たせるために来たのである。」と訳し、
 リビングバイブルは、「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」と訳しています。

 ヨハネ1:16には、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(新共同訳)と記されています。
 
<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたが与えてくださった私たちへの約束の聖句を単純に、素直に信じて歩み続ける者であらせてください。
次から次へと恵みを与えてくださろうとなさっておられることを感謝します。
というよりも、あなたは、「天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3・2017)からありがとうございます。
あとは、私たちが約束された聖句を信じるか否かであることを覚えます。
信じることも賜物ですから、それをも豊かに与えてください。
イエス様が、「求めなさい。そうそれば与えられます。」と語られたのですから。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月12日 (水)

ヘブル人への手紙2章に引用された詩篇8篇、イエス・キリストの預言

 ヘブル人への手紙25-10を、
2017
は、
5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。
「人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。
7
あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8 万物を彼の足の下に置かれました。」
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。”と訳し、

 フランシスコ会訳は、
“5
神は、わたしたちが今、語っている、この来たるべき世界を、み使いたちの支配のもとに置くことはなさいませんでした。6聖書のある箇所で、こう証言している人がいます、
「人とは、何者なので、これをみ心に留められるのか。
人の子とは、何者なので、これを顧みられるのか。
7
あなたは、人を、しばらくの間、み使いたちよりも低いものとし、彼に栄えと誉れの冠を与え、8すべてのものを、その足の支配下に置かれた」。
「すべてのものをその支配下に置かれた」ということは、神がこの方の支配下に置かれなかった ものは何一つ残っていないということです。それなのに、今もなお、わたしたちは、この方が万物を支配しているのを目にしていません。9しかし、わたしたちが見ているのは、「しばらくの間、み使いたちよりも低いもの」とされたこのイエスが、その死の苦しみの故に、「栄えと誉れの冠」をお受けになったことです。こうして、イエスは、神の恵みによって、すべての人のために、この死を味わったのです。
10
万物の目的であり、造り主である方にとって、多くの子らを栄光に導くために、救いの創始者を数々の苦しみを通して、完全な者となさったのは、ふさわしいことでした。と訳しています。

 新改訳や口語訳が、詩篇84-6としている箇所を、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳等は、5-7節としています。
ここではフランシスコ会訳を下記します。
“5
人とは何者なので、これをみ心に留められるのですか。
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
6
あなたは人を神よりも僅かに劣るものとし、
彼に栄えと輝きの冠を与え、
7
み手の業を司どらせ、すべてのものを彼の足の下に置かれました。と訳しています。

 もしもアダムが罪を犯さなかったならば、この詩篇の箇所は、アダムに該当するものです。
創世記126-29には次のように記されています。
“26
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」(新共同訳)とあります。

 アダムは堕罪しました。
その結果、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」という神の御言葉は堕罪後のアダムに実現しなくなりました。
アダムの堕罪後、この地はサタンに横奪されたのです。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕の支配下にあることを、私たちは知っています。2017)と記されている通りです。

 詩篇8篇の表題(新共同訳等は1節)には、指揮者のために。ギテトの調べにのせて。ダビデの賛歌。2017)と記されていますから、この詩篇はアダムが死んだ後のものであることが分かります。
とすると、詩篇84-8の箇所は、人となられたイエス様(御子は完全な神であり、罪人を贖うために人ともなられたお方ですが)にピッタリの預言であることが分かります。
 再掲部分も含めて4-8節には次のように記されています。
“4
人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。
5
あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。
6
あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
7
羊も牛もすべて、また野の獣も、8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。とあります。
 4節冒頭の「人」と訳されている語のヘブライ語原語は、アダムではなく、「エノーシュ」で、死ぬべき運命の人、の意があります。

 話は変わって、私たちキリスト者の働きに大いに関係ある詩篇82(新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、3節)の聖句を2017訳は次のように記しています。
幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは御力を打ち立てられました。
あなたに敵対する者に応えるため、復讐する敵を鎮めるために。とあります。
 「幼子たち、乳飲み子たち」というのは、新生したキリスト者で、単純に霊の父及び主イエスを信じる者たちのことです。
「あなたに敵対する者」とは、詩篇8:1の文脈から言うと、「ヤハウェ(主)に敵対する者」ということになりますから、サタン(悪魔)のことです。
サタンのヘブライ語原語は「サーターン」で、元来、「敵対者」の意です。
「復讐する敵」もサタンのことを言っていますが、「敵対する者」や「復讐する敵」と称される見える部分の人たちもいます。三一の神に敵対する人たちです。その人たちは、悪魔悪霊の配下に置かれているのです。しかし、キリスト者もかつては悪魔悪霊の配下に置かれていたのです。
エペソ21-3に次のように記されている通りです。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔=サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔三一の神に従わない者たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神からの罰(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。2017)と。

 ところが、キリストの御救いにあずかったキリスト者たちは、幼子や乳飲み子が親を信じるように、単純に霊の父を信じ、主イエス様を信じ、そのおことばを信じ、御父や御子を賛美するように変えられていますor変えられていきます。
空中の権を持つサタンやその配下の者たち(悪しき霊の者たちやサタンに従う人達)は、幼子や乳飲み子と言われるキリスト者によって、敗北しているというのです。
私たちキリスト者はどの様にして勝利しているのでしょうか。
それは、主を愛し、主に信頼し、主を賛美し、主のあかしをすることによってです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちが、御父や主イエス様を賛美するとき、またあかしをするとき、サタンは嫌な思いをし、逆に、御父と御子と御霊は喜んでくださいます。
ハレルヤ!
あなたを賛美しながら歩んでいく生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月11日 (火)

人を恐れずに主に信頼し、主に従おう

 創世記20:1.2には、
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。”(2017)と記されています。

 サラはアブラハムの異母妹でした。
創世記20:12に、アブラハムの言葉として、「あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。」(2017)と記されています。
 サラは既に高齢になっていました。
創世記18:11に、“アブラハムとサラは多くの日を重ねて年を取り、サラには月経がなくなっていた。”(フランシスコ会訳)と記されています。
 サラは美しい人であったので、以前のことですが、アブラハム(アブラム)はサラ(サライ)と次のような取り決めをしたことがあったのです。
創世記12:11-13には次のように記されています。
“11 彼〔アブラム(筆者挿入)〕がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」”(2017)とあります。

 アブラム(アブラハム)の自己保身から、アブラムとサライ(サラ)が、主に信頼せずに、人知のみによって50%の真実だけを告げたことによる、エジプトでの出来事が次のように記されています(創世記12:11-13も再掲します)。
“9 アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
10 その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。
11 彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。
「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。12 エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。13 私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」
14 アブラムがエジプトにやって来たとき、エジプト人はサライを見て、非常に美しいと思った。
15 ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
16 アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
17 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。
18 そこで、ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
「あなたは私に何ということをしたのか。彼女があなたの妻であることを、なぜ私に告げなかったのか。19 なぜ、『私の妹です』と言ったのか。だから、私は彼女を自分の妻として召し入れたのだ。さあ今、あなたの妻を連れて、立ち去るがよい。」
20 ファラオがアブラムについて家来に命じたので、彼らは彼を、妻と、所有するすべてのものと一緒に送り出した。”(創世記12章・2017)とあります。

 上記の記事は創世記12章ですが、同じ創世記12章の冒頭には次のような主の約束が記されていました。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに言われた。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」”(2017)とあります。

 アブラムは、創世記12:1bの御命令に従ったのですが、従っておきながら、2.3節のヤハウェ(主)の約束を信じ切れなかったのかも知れません。

 今日の箇所は、創世記20章ですが、アブラハムは同じ失敗を繰り返したのです。
アブラハム(アブラム)は、殺されることを恐れて、エジプトでの失敗と同じ失敗をしたのです。

 既に、創世記20:1.2、12は上記に記しましたが、それをも含め創世記20章を下記します。
“1 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき、
2 アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、
ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
3 その夜、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。
「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」
4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかった。そこで彼は言った。
「主〔アドナイ(筆者挿入)〕よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。
5 彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」
6 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕は夢の中で彼に仰せられた。
「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている。それでわたしも、あなたがわたしの前に罪ある者とならないようにした。だからわたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。7 今、あの人の妻をあの人に返しなさい。あの人は預言者で、あなたのために祈ってくれるだろう。そして、いのちを得なさい。しかし、返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことを承知していなさい。」
8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべをみな呼び寄せ、これらのことをすべて語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。
9 アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。
「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ。」〔アブラハムはヤハウェ(主)に対する不信仰の罪の故にヤハウェ(主)の民ではない人に叱責されました。(筆者挿入)〕
10 また、アビメレクはアブラハムに言った。
「あなたはなぜ、こんなことをしたのか。」
11 アブラハムは答えた。
「この地方には、神〔エロヒーム(筆者挿入)〕を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。12 また、本当に、あれは私の妹、私の父の娘です。でも、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。
13 神〔エロヒーム(筆者挿入)〕が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『このようにして、あなたの真実の愛を私に尽くしてほしい。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい』と言ったのです。」
14 アビメレクは、羊の群れと牛の群れと、男女の奴隷たちを連れて来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。
15 アビメレクは言った。
「見なさい。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思うところに住みなさい。」
16 サラに対しては、こう言った。
「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。これはあなたにとって、また一緒にいるすべての人にとって、あなたを守るものとなるだろう。これであなたは、すべての人の前で正しいとされるだろう。」
17 そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。
18 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。”(2017)と記されています。

 箴言29:25を、
 2017は、“人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。”と訳し、
 聖書協会共同訳は、“人間を恐れると、それは罠となる。主を信頼する人は高い所で安らかである。”と訳し、
 フランシスコ会訳は、“恐れは人を罠にかける。しかし、主に信頼する人は安全。”と訳し、
 新共同訳は、“人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。”と訳し、
 新改訳第三版は、“人を恐れるとわなにかかる。しかしに信頼する者は守られる。”と訳しています。
 直訳的に私訳すると、「人を恐れると、ロープの端を引っぱると輪が縮まるような輪をかけられ首を絞められる。しかし、ヤハウェ(主)に信頼する者は守られるor高いところに置かれる。」となります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
これまでにも数々の不信仰の罪を犯してきましたが、あなたは、私たち新生した者を、あなたの子であるがゆえに、あなたの愛する子として扱ってきてくださいましたことを感謝します。
聖書の中には、あなたが約束してくださった御言葉がたくさんあります。
あなたの御言葉に即ちあなたに信頼し、あなたに従い続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年1月10日 (月)

心のきよい人は神を見る

 マタイ58
文語訳は、幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。と訳し、
2017
は、心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。と訳し、
口語訳は、心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。と訳し、リビングバイブルは、心のきよい人は幸いです。そういう人は親しく神とお会いできるからです。と訳しています。

 イエス様は、100%神であり、100%人となった唯一の特殊なお方です。
三一の神の中でも、そのようなありようをとったお方はイエス様だけです。

 イエス様が地上におられたとき、ガリラヤ、ユダヤ、サマリア、デカポリス、ツロ、シドン、その他の地に住んでいた人たちがイエス様を見たのです。
イエス様を見た人達の中には、祭司長もいれば、その他の祭司たち、役人たち、ローマ人たち、また、「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人たちや十字架上のイエス様をあざけった人たちもいました。
この人達は、心が清かったのでしょうか?

 イエス様が、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」と語られたとき、「見る」という語を、肉眼で見る、という意味で語られたのでしょうか?

 最後の晩餐のとき次のような会話がありました。
“1
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2
わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4
わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8
ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9
イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです〔わたしのうちに住んでおられる父の命じるままに話しているのです。父は、わたしを通して、働きをなさいます(リビングバイブル)〕。
11
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい〔もし信じられないなら、わたしが行った力ある奇蹟を思い出してごらんなさい。そうしたら信じられるでしょう(リビングバイブル)〕。2017)と記されています。

 イエス様は、御父の御子であって御父ではありません。
それにも拘らずイエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」と言われたのです。
イエス様の姿が御父にそっくりであると、言うのでしょうか?

 「肉眼で見る」という発想から抜け出ないと、何が何だか分からなくなります。
新約聖書はギリシア語で記されていますが、イエス様が弟子たちに語られたときは、ギリシア語ではなくヘブライ語かアラム語であったことでしょう。
 ヨブ925に、ヨブの言葉として、「私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。」(2017)というものがあります。
「幸せを見ることはない。」とある中の「見る」とは、肉眼で見るということではないと思いますが、ヘブライ語原語をみると「ラーアー」とあり、原義は、見る、で、考える、経験する、会う、・・・等々の意にも用いられます。

 イエス様は、「わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。」とも語られました。

 イエス様の代わりに、父なる神様がいたとしたら、イエス様と同じ内容のことを語られたのです。      

 御父と子どもの関係の話の中に、放蕩息子とその父の話があります(ルカ1511-24)。
新約的に言うと、霊にあって新しく生まれさせて頂いて(新生させて頂いて)神の子どもとされたにも拘らず、親の心子知らずで、親の元を離れ、放蕩三昧をする、というようなものです。
その子供に対して、今日は帰ってくるかな、生きているかな、元気にしているかな、明日は帰ってくるかな、と子どもを思いやっているのが、父なる神様だというのです。旧約の神も新約の神も同じ神です。

 御父もイエス様も同じ内容の事柄をお話しされるのです。
しかし、理解できる人とできない人がいます。
神様は、愛に満ちた優しい言葉を語ることがあります。
神様は、愛と義に基づいた厳しい言葉を語ることもあります。
しかし、心が清くされないと、神様の真意を捉えることができないのです。

心をきよくしていただけるのは、主イエス様の血潮であり、神のことばであり、聖霊の働きです。
人の側では、悔い改めと信仰です。
それらが一つとなってきよくされていきます。
へブル1214には「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(新改訳2017)と記されています。

地上にあっては、心が聖くされると、誰でも神様を知ることor神様がどのようなお方であるかを体験する(経験する)ことが出来るようになるでしょう。
中には、天国を見せられて、イエス様を見た人もいますが、私の知る限りでは、父なる神様をはっきりと見た人はいないようです。
天に帰ってからは、私たちは直接神様にお会いすることが出来るのです。

 召天した霊たちは、御父の家、すなわち天の都エルサレムに住むのです。
イエス様は言われました。次のように記されています。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」と記されています。

 黙示録219-23(この時のキリスト者は霊の体も与えられています)には次のように記されています。
“9
・・・七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁〔霊の教会の総体(筆者挿入)〕を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。〔主が新天新地を創造された後の話です(筆者挿入)〕
11
都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった
12
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
13
東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。
15
また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。
16
都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
17
また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。
18
都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。
19
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。
22
私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはイエス様を通して、「幸福(さいわい)なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。」と語り、心が清くされるために必要なことを備えてくださり、この地上にあっては、あなたと交わりを持つことを体験させ続けてくださり、天に迎え入れてくださった後には、あなたの都、天のエルサレムに住まわせて頂けますこと、直接あなたを見させて頂けますことを感謝申し上げます。
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように地でも行われますように。
感謝と共に私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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