日ごとの恵みⅢ

2022年2月28日 (月)

主に在る歩みと主の御旨に反する歩み

 箴言101-6には次のように記されています。
“1
ソロモンの箴言。
知恵のある子は父を喜ばせ、
愚かな子は母の悲しみとなる。
2
不義によって得た財宝は役に立たない。
義のわざは人を死から救い出す。
3
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず、
悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。
4
無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ませる。
5
夏のうちに集める者は賢い子。
刈り入れ時に眠る者は恥知らずな子。
6
正しい人の頭には祝福があり、
悪しき者の口は不法を隠す。2017)とあります。

 この箇所のソロモンの箴言は、3節を除くと、主なる神様抜きでも、そのままこの世においても通じるような箇所ですが、全体を主なる神様との関係で述べていきたいと思います。

 1節には、“ソロモンの箴言。
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。”とあります。
「知恵のある子」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベン(息子) ホーカーム(賢い、分別がある、思慮深い)」です。

 天の父なる神様を喜ばせる神の子どもたちとは、主を信じ、主に従い、みことばに習熟し、分別ある子どもたちです。
パウロは、キリスト者のために次のように祈りました。
9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
10
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
11
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。
12
また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ1章・2017)と記されています。

 2節には、“不義によって得た財宝は役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。”とあります。
「義のわざは人を死から救い出す。」と後半部分にありますが、先ず、イエス様の十字架を思い浮かべます。
イエス・キリスト様の御功績の故に、私たち罪びとは、信仰によって救われたのです。
 ピリピ26-8には、
“6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2017)と記され、
 エペソ17には、
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。2017)と記され、
 エペソ28,9には、
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。2017)と記されています。
 救われるための信仰に関しては、ローマ109,10に次のように記されています。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。2017)とあります。

 3節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず、
悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。”とあります。
 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は正しい人を飢えさせず」とありますが、
詩篇3410には、「若い獅子も乏しくなり飢える。しかし主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。」(2017)とあり、
ピリピ419には、「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(2017)と記されています。(但し、神様から見て、私たちが必要なものとは何なのか、現代人は神様が必要と思っている以上のものを必要と思っているかもしれないと私は思います。)

 「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、悪しき者の欲〔願い(フランシスコ会訳)〕を突き放される。」と3節にありますが、悪しき者の欲を突き放さない霊的な生きものがいます。それが悪魔悪霊です。

 4,5節には、“4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる。5 夏のうちに集める者は賢い子。刈り入れ時に眠る者は恥知らずな子。と記されていますが、霊の世界における働きにも通じるものがあると思います。

 イエス様は次のように語りました。
「「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ1235.362017)と記されています。

 そのうち大患難時代が到来します。
その時に神様は、イエス様を信じない者にどのようにするでしょうか?
 2テサロニケ27-12には次のように記されています。
“7
不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです〔「引き止めている者が取り除かれる時」は、キリストの空中再臨時の携挙の時に起こります(筆者挿入)〕。
8
その時になると、不法の者〔ダニエル927では「荒らす者」(2017)、マタイ2415では「荒らす忌まわしい者」、黙示録131では「獣」(筆者挿入)〕が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
9
不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。
彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです
11
それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります
12
それは、真理〔「私は真理です」とイエス様は言われました{ヨハネ146}(筆者挿入)〕を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。2017)と記されています。

 6節には、“正しい人の頭には祝福があり、悪しき者の口は不法を隠す。”とあります。
新共同訳は、神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す。と訳しています。
神に対して正しい人は祝福を受けるのです。
三一のヤハウェ(主)なるお方だけを自分の神とし、神を愛し、神に信頼し、神に従う人には、神からの恵みが豊かなのです。
 詩篇3210には、悪しき者は心の痛みが多い。しかし主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。2017)と記され、
 詩篇865には、“主よ、まことにあなたは、いつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める者すべてに、恵み豊かであられます。”(2017)と記され、
 ヨハネ114には、ことば〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたにいつも信頼し、あなたに従い続けることが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月27日 (日)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観7/主は生きておられる

 詩篇1846-50には次のように記されています。
“46
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられる。
ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神。
47
この神は、私のために復讐する方。諸国の民を私のもとに従わせてくださる。
48
神は敵から私を助け出される方。実にあなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。
49
それゆえ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私は国々の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います。
50
主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔にとこしえに恵みを施されます。2017)とあります。

 46aには、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられる。”とあります。
新生したキリスト者は全員、主が生きておられることを知っています。
新生したキリスト者は、自分との関わりにおいて主が生きておられることを体験しているものです。
自分はクリスチャンです、と自己申告しても、主との関わりを体験したことの無い人は、問題です。
前はクリスチャンでしたが、今はイスラム教徒です、などという人の話をテレビで聞いたことがありますが、新生したキリスト教徒は、そのようなことを言わないでしょう。
そのような人は、少なくとも、聖霊によって、「イエスは主です」とは言っていないのです。
霊的実際にあって、イエスは主です、と言えるのは、聖霊によるのですから(1コリント123)。

 ダビデは、「ヤハウェ(主)は生きておられる」と証しすることの出来る方でした。
ダビデは、自分の数々の体験を通して、またヤハウェ(主)から預言者として立てられたので、霊の世界をより深く知っていた人でした。
その中には、「ヤハウェ(主)は、アドニ(私の主)に言われた。」というものまであります(詩篇1101)。
ダビデは、御子を、私の主、と言っています。
そして詩篇110篇には、御父が、御子に述べたお言葉が続いて書いてあるのです。

 キリスト者も罪を赦されたとき、新生したとき、祈りの答えを与えられたとき、窮地から救い出されたとき、知恵を与えられたとき、真理の解き明かしを与えられたとき、預言を与えられたとき、・・・・etc.と、色々な主にある体験をしてきたことと思います。

 新約時代のキリスト者は、「主は生きておられる。わが内におられる。」と証しすることが出来ますし、主と共に歩んでいる人は、明確に、「「主は生きておられる。わが内におられる。」と証しすることが出来るでしょう。
正しく主なる神の恵みです。

 そうであれば、ダビデのように主をほめたたえるでしょう。
ダビデとは表現が異なるかも知れませんが、ダビデは、「ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神。」と主を賛美しました。
「わが岩」というのは、私を敵から守ってくださるお方、と言い換えても良いのではないかと思います。

 聖書を読むうえで、「主は生きておられる」という言葉を人が言っているときに、ダビデとは異なる意味合いで用いられている場合も多いのです。
それは、「主は生きておられる」という言葉を、「誓って言うが」という誓いの意で用いているのです。

 預言者エリシャの弟子にゲハジという人がいました。
エリシャに仕えてはいても、霊の目が開かれていない人でした。
2
列王記5章にナアマンのらい病の癒しの記事が記されています。
その中に記されている文言ですが次のようなものがあります。
そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」20節)
この箇所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
ところが、エリシャのしもべゲハジは、ひそかに考えました。「だんな様のお人好しにも困ったものだ。贈り物を一つも受け取らずに、あの方を帰してしまうとは。よし、あの方のあとを追いかけ、何か頂いて来よう。」と記しています。
ゲハジは、絶対にもらって来るぞ、という思いを込めて、主なる神様抜きで、主は生きておられる、という言葉を使ったのです。
神の人と呼ばれた預言者エリシャは、なにも受け取らなかったのですから。
(内容を詳しく知りたい方は、2列王記5章全体をお読みください。)

 預言者エレミヤは、ヤハウェ(主)の御言葉として、「彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」(エレミヤ522017)と述べている箇所があります。
この箇所を、リビングバイブルは次のように意訳しています。
「彼らは、誓いを立てる時でもうそをつく。」と訳しています。
エレミヤ52に記されている「彼ら」とは、どのような人たちであったのでしょうか?
それは続く3節に、エレミヤの言葉として次のように記されています。
「主よ、あなたの目は、真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、
彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」(2017)とあります。
主との関わりにおいて、主を知らない人たちも、誓いの言葉として、「ヤハウェ(主)は生きておられる」という言葉を使ったのです。

 ダビデも「誓う」という意味合いで、「ヤハウェ(主)は生きておられる」という言葉を使って語っています。
ヨナタンに対するダビデの言葉の中に、「ダビデはなおも誓って言った。「父上〔サウル王(筆者挿入)〕は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」(1サムエル2032017)と記されています。
この箇所のダビデの言葉を理解するためには、1サムエル185から読んでいく必要があります。

 47aには、“この神は、私のために復讐する方。”とあります。
新約時代になると、イエス様は、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5442017)と命じられました。
それだけではなく、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」(マタイ511,122017)とも語られ、また、次のようにも語られました。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ614.152017)と記されています。
「あなたがたの父」、とありますから、語られている対象は、神の子どもたちです。

 余談になりますが、艱難時代の聖徒たちは大勢が殉教します。
その聖徒たちは次のように言います。
黙示録610には、彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」2017)と記されています。
この人達は、次のように言われています。
すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。(黙示録6112017)と記されています。

 神の子であるキリスト者に対して、パウロは次のように述べました。
「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(エペソ4322017)とあります。
イエス様から私に来た御言葉は、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(新改訳第二版)という御言葉でした。(実際は、もう少し、かみ砕いて語られました。)
それは、私が、使用していた聖書を主が用いられたからです。
 コロサイ313には、「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(2017)と記されています。
 この箇所をフランシスコ会訳は、「互いに耐え忍び、誰かに不満が あったとしても、互いに心から赦し合いなさい。主があなた方を心から赦してくださったように、あなた方もそうしなさい。」と訳しています。
「心から赦し合いなさい」と訳していますが、「心から」の語は原文にはありません。しかし、イエス様は、私たちを心から赦してくださいました。
この節を新共同訳は、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と訳しています。
「責めるべきことがあっても」という箇所ですが、原文のヘブライ語単語にはそのような意味もあります。

 48節には、“神は敵から私を助け出される方。実にあなたは、向かい立つ者から私を引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。”とあります。
ダビデは、この様な経験をいくたびもしてきたのです。

 キリスト者の敵は、人ではありません。
キリスト者の敵は、悪魔(サタン)・悪霊です。
私たちは、悪魔(サタン)・悪霊に勝利できる存在です。
彼らに対する戦い方は、エペソ610-18に次のように記されています。
“10
・・・。主に結ばれ〔in the LordNKJV)〕、その力強い威力にあずかって強くなりなさい。
11
悪魔の策略に対して、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい。
12
なぜなら、わたしたちにとっての戦いは、血と肉からなる人間相手のものではなく、支配の霊や権威の霊に対するもの、いわば、この闇の世界の権力者たちに対するものであり、天の者たちの間にいる、邪悪な霊に対するものだからです。
13
ですから、邪悪の日に、これらのものに立ち向かうことができ、また、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を取りなさい。
14
真理で腰回りを堅め、正義の胸当てを身につけて、しっかりと立ちなさい。
15
また、平和の福音を告げるための準備を足ごしらえとし、
16
すべてにおいて信仰の盾をかざしなさい。この盾で、悪い者が放つすべての火矢を消すことができます。
17
救いの兜を頭に戴き、神の言葉である霊の剣を取りなさい。
18
あらゆる祈りと願いをもって、 どんな時にも、霊によって祈りなさい。そのためにも、聖なる人々のために根気強く祈りつつ、目を覚ましていなさい。”(フランシスコ会訳/一部解説的な訳)とあります。

 自分はクリスチャンです、と言うのに、悪魔(サタン)・悪霊の存在を信じていない人もいます。そのような人は聖書を信じていないのです。
聖き歩みを心がけたら、悪魔(サタン)・悪霊との戦いは必至となります。
悪魔(サタン)・悪霊との戦いを抜きにして、聖き歩みの継続は不可能だと私は思います。

 50節には、“主は、ご自分の王に救いを増し加え、主に油注がれた者ダビデとその裔にとこしえに恵みを施されます。”と記されています。

 ヤハウェ(主)は、ダビデに、預言者ナタンを通じて語られました。その中の一部を取り上げますが、2サムエル712,16には次のように記されています。
12 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔〔ヘブライ語原語は「ゼラ」で、子孫の意です(筆者挿入)〕、あなたの身から出る者を後に立たせ〔イエス・キリストのこと(筆者挿入)〕、その王国を揺るぎないものとする。16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(聖書協会共同訳)とあります。


 マタイの福音書は、“アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。”(マタイ112017)という聖句から始まります。

 アブラハムについての預言としては次のようなものがあります。
創世記123には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(2017)とあり、
創世記1818には、「アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。」(2017)と記され、
創世記2218には、「あなたの子孫〔ヘブライ語の原語は「ゼラ」で単数形、イエス・キリストを指しています(筆者挿入)〕によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(2017)と記されています。
パウロは、創世記2216を解説して、次のように語りました。
「約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、『子孫たちに』と言って多数を指すことなく、一人を指して『あなたの子孫に』と言っておられます。それはキリストのことです。」(ガラテヤ3162017)と記されています。
 
 そして神様の壮大なご計画の一部がエペソ13-14に次のように記されています。
“3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
4
すなわち神は、世界の基が据えられる前から〔天地創造の前に(新共同訳)〕、この方〔キリスト(筆者挿入)〕にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
5
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
7
このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
8
この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
11
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
12
それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
13
このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
14
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。2017)とあります。

 三一の神を愛する私たちは、心から喜びをもって、主なる神をほめたたえる者なのです。
“後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩篇10219・新共同訳)

ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
御父の愛をほめたたえます。
御子の恵みを賛美します。
御聖霊の交わりに感謝します。
三一の神に、賛美と誉れと栄光と力が代々限りなくありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月26日 (土)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観6/ヤハウェ(主)こそまことの神

 詩篇1831-452017は次のように記しています。
“31
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のほかにだれが神でしょうか。
私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。
32
神は私に力を帯びさせ、私の道を全きものとされます。
33
主は私の足を雌鹿のようにし高い所に立たせてくださいます。
34
戦いのために私の手を鍛え、腕が青銅の弓も引けるようにしてくださいます。
35
あなたは御救いの盾を私に下さいます。あなたの右の手は私を支え、あなたの謙遜は私を大きくします。
36
あなたは私の歩みを大きくし、私のくるぶしはゆるみません。
37
私は敵を追ってこれに追いつき、絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。
38
私が彼らを打ち砕いたので、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。
39
あなたは戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を私のもとにひれ伏させました。
40
あなたは、敵が、私を憎む者どもが、私に背を見せるようにされました。私は彼らを滅ぼしました。
41
彼らが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫び求めても救う者はなく答えもありませんでした。
42
風の前のちりのように私は彼らを粉々に砕き、道の泥のように除き去りました。
43
あなたは民の争いから私を助け出し、国々のかしらに任じられました。私の知らなかった民が私に仕えます。
44
彼らは、耳で聞くとすぐ私に聞き従います。異国の人々は私にへつらいます。
45
異国の人々は打ちしおれ砦から震えて出て来ます。とあります。

 31節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のほかにだれが神でしょうか。
私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。”とあります。

 キリスト者も同じことを言えます。
「父・子・聖霊なる三位一体の神の他に誰が神でしょうか。」と。
キリスト者になった人は、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け」(マタイ28192017)られた人です。
大事なことは、霊的に三位一体の神の中に浸されることです。
マタイ2819NKJVは、“Go therefore and make disciples of all the nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,”と訳していますが、in the name の「in」と訳されている語のギリシア語原語は「εις」(イス)で第一義的には“into”(~の中へ) です。
マタイ2819をフランシスコ会訳は、 それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、”と訳しています。
父と子と聖霊の中へと浸された人がキリスト者です。
イエス様は、大祭司の祈りと言われるヨハネ17章で、「聖なる父よ・・・あなたが私に与えて下さっている名のうちに、彼らを守って下さい。」(11節抜粋・岩波訳)
「うちに」と訳されている語のギリシア語原語は「エン」で第一義的には“in”です。同様な意味に訳している日本語訳聖書には、文語訳と第三版までの新改訳があります。
1
コリント130前半を2017訳は、・・あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。と訳しています。
そして父と子と聖霊は父を根源として一つなのです。

 詩篇1831後半には、私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。2017)とあります。
「岩」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツール」で、Strong辞書によると、第一義的には、cliff(崖、断崖、絶壁)で、通常は、岩と訳されますが、それ以外に、神の意もあり、更にその他の意もあります。
 余談になりますが、イエス様は、山上の説教のしめくくりの中で、
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、〔ギリシア語原語は「ペトラ」(筆者挿入)〕の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(マタイ7:24)と語られましたが、マタイ16:18では、「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ〔ギリシア語原語は「ペトロス」(筆者挿入)〕です(2017)。わたしはこの岩〔ギリシア語原語は「ペトラ」で、大きな岩の意。ヘブライ語の「ツール」(岩)には「神」の意もあります。教会は神の家です{1テモテ315}(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(2017)と語られました。

 32-45節には、ダビデがヤハウェ(主)によって、強められ、敵に勝利させていただけたことを中心にダビデ自身の証が記されています。実際には、どのようであったのか、についてはサムエル記に記されています。

 41節に、彼ら〔ダビデの敵たち(筆者挿入)〕が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫び求めても救う者はなく答えもありませんでした。”とあります。
似たような話は新約聖書にもあります。
使徒言行録19章に次のような記事があります。
“11
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
12
彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
13
ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
14
ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
15
悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
16
そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私が、あなたについて知っていることは僅かですが、あなたは、私のすべてを知っておられます。
あなたは、イエス・キリスト様を通してあなたを信じた人をあなたの御名の中に保ち、また、キリスト・イエス様の内においてくださいました。
ありがとうございます。
あなたは、私たちの神です。
私たちが、あなたに祈り願ったとき、「あなたを知らない」とは言われず、逆に「絶えず祈りなさい」と仰ってくださいますから感謝します。
私たちを守り、教え、支え、導き、助け、恵みによってお取り扱いくださいますから感謝します。
とこしえにあなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月25日 (金)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観5

 詩篇18302017は次のように訳しています。
神その道は完全。
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは純粋。
主はすべて主に身を避ける者の盾。とあります。

 神その道は完全。とあります。
「道」と訳されている語のヘブライ語原語は「デレク」で、原義は、(踏み馴らされたような)道のことです。比喩的には、いのちの道、人生の道、生き方の道(方向)、{ふるまい(行為)の}様態(即ち、ものの根底にある本質や属性の現れ方) 

「完全」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」で、原義は、完全な、無傷の、全部そろっている、の意です。誠実、正直、高潔、品位、完全(な状態)、完全性、全体性、真実、真理という意もあります。

「神」と訳されている語の冒頭には定冠詞がついていますから、二行目のヤハウェ(主)を指すでしょう。

併せて考えると、
ヤハウェ(主)というお名前の神の行為or生き方の方向(道)は完全(真理、高潔、誠実、真実)というような感じでしょうか。
とにかく、ヤハウェ(主)神の歩み方は完璧なのです。
ダビデは、ヤハウェ(主)との関わりにおいて、そのように感じたのだと思います。

 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばは純粋。とあります。
「ことば」と訳されている語のヘブライ語原語は「イムラー」で、戒律、命令、おきて、話、話し言葉、等の意があります。

「純粋」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァラフ」で、(金属を)溶かすこと、不純物を除くこと、純化すること、が原義で、金細工職人、純粋な、混じりけがない、(罪や汚れを)きよめる、等の意があります。

新改訳は、主のことば(orみことば)は純粋というような訳仕方であり、
口語訳は、主の言葉は真実ですと訳し、
新共同訳&聖書協会共同訳は、主の仰せは火で練り清められていると訳し、
フランシスコ会訳は、主の仰せには混じり気がないと訳しています。

ヤハウェ(主)のことばは、不純物が混じっておらず、真理であり、(罪や汚れを)きよめる働きもある、とダビデは体験したのでしょう。

イエス様は、「私は真理である」(ヨハネ146)と語られ、また、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」(ヨハネ1532017)と弟子たちに語られたことがありました。

ペテロは、イエス様と寝起きも食事も行動も
共にしていましたが、イエス様について、「その〔キリストの(筆者挿入)〕口には欺きもなかった。」(1ペテロ2222017)と述べています。

主はすべて主に身を避ける者の盾。2017)とあります。
新共同訳は、すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。と訳し、
聖書協会共同訳は、主は御もとに逃れる者すべての盾と訳し、
口語訳は、主はすべて寄り頼む者の盾ですと訳し、
フランシスコ会訳は、主は、すべてみもとに逃れる者の盾と訳しています。

ダビデの生涯は戦いの連続でした。
サウルが命を狙ってきたときには、サウルを殺すことの出来る場面でも、主がサウルを王として立てたのだから、ということで、殺さずにお帰り頂く、ということもあったのです。
ダビデは、自分の体験を通して、「主はすべて主に身を避ける者の盾」だと言うことができたのです。ダビデは、戦いで命を落としたのではなく、ベッドの上で死んだのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはすべての善き事において完全なお方です。
あなたの御言葉は、嘘偽りがなく真実です。
あなたは、あなたに身を避ける者を守ってくださいますから感謝します。
ダビデがそのように言えた、ということは、あなたに信頼していたからであることを覚えます。
私たちも、いかなる状況に置かれても、あなたに信頼し続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 “4神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。1ヨハネ5章・2017
4神様の子供たちはみな、神様に従います。そして、キリスト様に信頼することによって助けを受け、罪と悪との楽しみに、打ち勝つことができるのです。5イエス様がほんとうに神の子であると信じる人以外に、この戦いに勝てる人はいません。”(リビングバイブル旧版)

2022年2月24日 (木)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観4

 詩篇1825-28には次のように記されています。
“25
あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。
26
清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げる方。
27
まことにあなたは、苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされます。
28
まことにあなたは、私のともしびをともされます。私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の闇を照らされます。
29
あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって城壁を跳び越えます。”(2017)とあります。

 25節の前半部分のあなたは、恵み深い者には恵み深く(新改訳)を、
聖書協会共同訳(26節になっています)は、あなたは忠実な者には忠実な方としてと訳し、
フランシスコ会訳(26節になっています)は、あなたは忠実な者には忠実でありと訳し、
新共同訳(26節になっています)は、あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示しと訳し、
口語訳(25節になっています)は、あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となりと訳しています。

 「恵み深い」、「忠実な」、「慈しみ深い」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーシード」で、第一義的には、優しい、親切な、思いやりのある、の意であり、更に信心深い、敬虔な、良い、聖い、慈悲深い、情け深い等の意があります。

 聖書協会共同訳とフランシスコ会訳は、対神的に、(神に対して)忠実な者には忠実な方として、の観点から訳したのかなと想像します。神に対して忠実な人は敬虔な聖い人ですから。
一方、新改訳、口語訳、新共同訳は、対人的な観点で訳したのではないだろうかと想像します。

 神に対して「忠実であり」、人に対して「慈しみ深い」人でありたいと思います。

 25節後半部分を2017は、“(あなたは、)全き者には全き方。”と訳しています。
「全き」と訳されている語のヘブライ語原語は「ターミーム」で、全くの、完全な、傷の無い、誠実、正直、高潔、真実、・・・等々の意があります。
「全き者」と訳している日本語訳聖書には、新改訳や聖書協会共同訳があり、新共同訳は「無垢な者」、口語訳は「欠けたところのない者」と訳しています。

 いずれにしてもダビデは、人に対するヤハウェ(主)の対応について、
“25
あなたは、(人に対して)恵み深い者には恵み深くor(神に対して)忠実な者に対しては忠実なお方、全き者には全きお方。
26
清い者には清く、曲がった者にはねじ曲げるお方。というように感じたと述べているのだと思います。

 新約的に言えば、父なる神様は、罪に落ちた人間を救うために、そして神の敵として歩んでいる人間のために、愛してやまないひとり子の御子を十字架上で人の罪の身代わりとしたほどに、一人一人の人を愛してくださったのです。その愛は御子も同じである(1ヨハネ49-11a、ピリピ26-8、ローマ56-10)ということを決して忘れることは出来ません。
その上で、詩篇1825,26を考えるべきではないかと思います。
新約聖書の中には、次のように記されている箇所があります。
“17
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
18
というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19
神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
24
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
25
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
28
また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。(ローマ1章・2017)とあります。

 27節には、“まことにあなたは、苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされます。”とあります。
「苦しむ民」(2017、聖書協会共同訳)と訳された箇所を、新共同訳は「貧しい民」、フランシスコ会訳は「哀れな者」、第三版は「悩む者」と訳しています。
以上のように訳されたような人は、地球上に大勢います。
そのような人たちが、もし、明らかにヤハウェ(主)に反逆していたら、ヤハウェ(主)は救うでしょうか?
神に敵対したままで救われようとしても難しいのではないでしょうか。
しかし、ひとたび神の御前にへりくだり、悔い改め、主に信頼すれば、主は救ってくださると思います。
詩篇3210には、「悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。」(口語訳)と記されています。
「悪しき者」を対神的に捉えると、三一の神を信じない者ということになります。
しかし、主の約束に信頼する者は、主の慈しみ、恵みに囲まれるのです。但し悔い改めるところがある場合には悔い改めが先行します。

 28,29節には、“28 まことにあなたは、私のともしびをともされます。私の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の闇を照らされます。
29
あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって城壁を跳び越えます。2017)と記されていますが、これはダビデの体験であったことでしょう。
そしてまた、霊的、時には物質界的分野において、キリスト者にあっても同様でしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主の御前にへりくだり、主を愛し、主に信頼し、主に忠実に従うこと、即ち聖く歩むことが、如何に祝福の基であるのかということを教えてくださっておられます箇所を読ませていただきました。
ありがとうございます。
しかしそれ以前に、主イエス様の贖いの御業があった故であることを決して忘れることなく、常に感謝して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月23日 (水)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観3

 詩篇1820-24には次のように記されています。これは昨日の続きです。
“20
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い、
手のきよさにしたがって顧みてくださいました。
21
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。
22
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけませんでした。
23
私は主の前に全き者。
自分の咎から身を守ります。
24
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。
御目の前のこの手のきよさにしたがって。2017

 20節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い」とあります。
私たちキリスト者は、キリストを信じたことの故に、義と認められ(ローマ322,26,30)、キリストが私たちの義となってくださいました(1コリント130)。
それ故、義なる御父のみ前に立つことができるのです。
もしそうでなかったならば、火の池を待つのみです(黙示録2015)。
新生した者は、天の御父の家に入れていただけるのです(ヨハネ141-3)。

 21
節には、「私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。」とありますが、そのように言えるのはイエス様だけです。
私たちキリスト者は、自分が罪人である、すなわち神に対して不従順な生き方をしてきたことを認めた者たちです。自分が罪人であることを神のみ前で認め、イエス様を自分の救い主として、そして主として受け入れた者が救われるのです。自分の行いに頼って救われようとしても救われません(ヤコブ210)。自分の行いに頼ること自体が、神に対して不従順です。神は、人の罪をご覧になり、救い主を遣わしたのに、それを受け入れないことになるから、或いは、キリストの贖いだけでは不足であると言っているのだからです。

 23節には、「私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。」とあります。
このように言えるのは、イエス様を信じた後のことです。
 「私は主の前に全き者。」と言えるのは、主のおかげです。
ヘブル1010には、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されています。
これが御父のみ前における新生したキリスト者の立場です。

 「私は自分の咎から身を守ります。」とあります。
このようなことを自分のみの力で出来ると思ったらそれは錯覚というか大間違いです。キリスト者の敵はサタン(ヘブライ語原語は「サーターン」で、敵対者の意。悪魔、古い蛇、竜、・・・等々ともいう)で、人や自然を使ってキリスト者を殺すこともありますし、誘惑(その種類はいくつあるのかというほどに色々あります)を用いて堕罪させ神から離れさせようとすることもします。また光の御使いにも変装するのです(2コリント1114)。
しかし、キリスト者のうちには聖霊が遣わされています。聖霊は霊を見分ける能力を与えてくださるお方です。即ち、霊を見分ける能力は聖霊の賜物です(1コリント1210)。
私たちは、天においても地においても一切の権能を授かっているキリスト・イエス(マタイ2818)の御名or神のことば(黙示録1913、ヨハネ11,14)によって勝利していくのです。キリストは神のことばでもあります。神のことばはサタンに対する攻撃の武器です。
エペソ617には、「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(新共同訳)と記されています。〔「霊の剣」と訳している日本語訳聖書には、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳等があります(筆者挿入)〕
サタン(悪魔)・悪霊の攻撃を防御するものはキリスト信仰、すなわち神のことば信仰です。エペソ614-16には、「14 ・・・。腰には真理の帯を締め、胸には正義〔義(岩波訳)〕の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべての上に、信仰の盾〔ギリシア語原語は「トゥレオス」で大楯の意もあります。第三版は「大楯」と訳しています。(筆者挿入)〕を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」(2017)

 22節を聖書協会共同訳は、「私は主の道を守り、わが神に悪をなさなかった。」と訳しています。
キリスト者は、誰一人このようなことを言わないでしょう。
このように言えるのは、イエス・キリスト様だけであり、イエス・キリスト様以外の人がこのように言った瞬間、その人は嘘をついているのか、神が罪と呼ぶものを罪と認識していないのです。
使徒ヨハネは次のように述べています。
「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(2017)と。

 24節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。」とあります。
前述したように、私たちキリスト者は、私たちの罪のために十字架にかかられて贖いを成就してくださり、三日目によみがえられたイエス(ヘブライ語原語は「イェシュア」=神は救う、救い主)という名をつけなさいと神が言われた(マタイ121)キリスト(油注がれた者)を信じた故に、義と認められたのです。
ローマ330には、実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(新共同訳)と記されています。
イエス様は十字架にかかられる前に弟子たちに、「父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。」(ヨハネ16272017)と言われました。
イエス様を愛し、イエス様が父なる神のもとから出て来たことを信じた人を、御父は愛してくださっておられるのです。
御父の愛は、その質において完全であり、その量ははかり知れません。
御子も同様です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日の聖句をキリストについての預言と捉えるとしっくりきますが、ダビデにあてはめると違っていることを覚えます。
イエス様が、私たちにとって、神の義と聖と贖いになってくださいましたことを感謝します。
霊の人として、聖霊に導かれて歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・キリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを義とし、聖なるも のとさせ、また、罪から贖う方となられたのです。1コリント130・フランシスコ会訳)
ハレルヤ!

2022年2月22日 (火)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観2

 詩篇1820-24には次のように記されています。
“20
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって私に報い、
手のきよさにしたがって、顧みてくださいました。
21
私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の道を守り、私の神に対して悪を行いませんでした。
22
主のすべてのさばきは私の前にあり、主のおきてを私は遠ざけませんでした。
23
私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。
24
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の義にしたがって顧みてくださいました。
御目の前のこの手のきよさにしたがって。2017)とあります。

 ダビデのこの詩の箇所は、バテ・シェバ事件以前に書かれたものか、あるいはダビデが新約的に捉えていたと解釈しなかったならば理解できません。
ダビデは、バテ・シェバの裸を見て姦淫を起こしたのです。その結果、バテ・シェバは妊娠しました。ダビデはそれを隠ぺいするためにバテ・シェバの夫ウリヤに対し殺人教唆の罪を犯したのです。

 ダビデは、十の言葉(十戒)の中の、あなたの隣人の妻を欲しがってはならない、姦淫してはならない、殺してはならない、という戒めを破ったのです。

 ダビデは次のようなメシア預言をしました。詩篇1101に、
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、私の主〔アドニ―(筆者挿入)〕に言われた。
「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」2017)とダビデは記しています。

 使徒ペテロは、ペンテコステの日に、この詩篇の箇所を用いて、説教しています。
この詩篇では、ヤハウェ(主)は、父なる神です。アドニは、アドン即ち主or主人、・・に、イーを末尾につけて、私の主、という語にしてあるのです。
ダビデは、神様から啓示を受けてメシア預言をしていますが、それだけではなく、御子を私の主と呼んでいるのです。

 ダビデは、前述の罪を犯しましたが、罪を告白し、神様にきよめてもらい、回復させていただきました。
これはキリストの十字架の先取り、というか、ダビデの後の時代のイエス・キリストの贖いを土台としての罪の赦しときよめであったのです。

 ダビデが罪を犯した後のダビデの状況を、ダビデは詩篇32篇で次のように述べています。
3 私には、罪状を認めたくない時がありました。
しかし、私はかえってみじめになり、来る日も来る日も挫折感にとらわれて過ごしました。
4
神の御手が、いつも重くのしかかっていました。
私の力は、強烈な日ざしの照り付ける水たまりのように干上がりました。
5
とうとう私は、自分の罪を神の前にさらけ出さざるをえませんでした。
「何もかも主にお話ししよう」と決心したのです。
すると、あなたは赦してくださいました。
私の罪は跡形もなく消えたのです。 」(意訳・リビングバイブル)

 ダビデが罪の重荷にうめいたときの悔い改めの祈りが詩篇51篇に次のように記されています。
1 ああ、愛と恵みにあふれる神よ。
私をあわれんで、恐ろしい罪の汚れをぬぐい去ってください。
2
どうか私を洗い、この罪からきよめて、もう一度、潔白な身としてください。
3
私は、自分がどんな恥ずべきことをしたか、よく存じております。
そのことで昼も夜も責めさいなまれているのです。
4
私はあなたに、ただあなたに罪を犯し、この恐ろしいことをしてしまいました。
すべてをご存じのあなたが下すさばきに、誤りはありません。
5
私は生まれながらの罪人です。
母が私をみごもった時から、罪人でした。
6
あなたがお喜びになるのは、徹底した正直さです。
ああ、そのことを私に心底わからせてください。
7
汚れをきよめる血を振り注いでください。
再び身も心もきれいになれるように、私を洗ってください。
そうすれば、雪よりも白くなるでしょう。
8
罰は受けます。
でもそののち、喜びを取り戻させてください。
9
どうか、いつまでもこの罪を見続けず、あなたの目から消し去ってください。
10
ああ神よ。
どうか、きよい思いと正しい願いで満たされた、新しいきれいな心にしてください。
11
私を見限って、永久に御前から追放しないでください。
聖霊を私から取り上げないでください。
12
救いの喜びを再び鮮やかにして、心からあなたに従おうとする思いに満たしてください。
13
私のように罪深い者たちに、私はあなたの道を教えます。
きっと悔い改めて、あなたに立ち返ることでしょう。
14,15
ああ神よ。
私の頼むところはあなただけですから、どうか死刑の宣告を下さないでください。
助けてくださるなら、私の舌はゆるみ、あなたの赦しを高らかに歌いだすでしょう。
ああ、私はどれほどあなたをほめたたえるでしょう。
16
あなたは罪滅ぼしに何かをせよとはおっしゃいません。
もしそうおっしゃるなら、喜んで仰せに従うでしょう。
あなたは、祭壇で焼かれる供え物〔全焼のささげ物(2017)〕を求めておられるわけではありません。〔全焼のささげ物は、献身の予型ですから、それは罪を処理された後のことです。(筆者挿入)〕
17
あなたがお望みなのは、悔い改めて、くずおれたたましいです。
ああ神よ。
罪を深く後悔して砕かれた心にこそ、あなたは目を留めてくださるのです。
18
どうか主よ、私の罪のためにイスラエルの国を罰しないでください。
あなたの民を助け、エルサレムをお守りください。
19
私が潔白の身となってはじめて、あなたは私の善行と、祭壇に供えるいけにえ〔全焼のささげ物(2017)〕の雄牛とを、喜んで受け入れてくださることでしょう。」(意訳・リビングバイブル)とダビデは祈りました。

 そしてダビデは祈りの応答を神様から頂き、次のように記したのです。
「罪を赦された人は、どれほど幸せなことでしょう。
罪がすっかり消された喜びは、どれほど大きいことでしょう。
罪を告白し、その記録を消し去ってもらった人は、どれほど解放感を味わうことでしょう。」(詩篇321,2意訳・リビングバイブル)と。
 イエス様は、私たちのすべての罪をご自身の身に負って十字架上で義なる神から呪われた者となってくださいました(ガラテヤ313)。即ち罪の罰を受けたのです。
それ故に、私たちは、罪を告白すれば、キリストの血の故に赦されるのです。

 レビ1711には、実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上〔キリストにとっては十字架上(筆者挿入)〕であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。2017)と記され、
ヘブル922には、律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。2017)と記されています。

 イエス様は、すべての人の罪をご自身の身に負って十字架上で血を流して死なれたことを御父は見届けました。そして、それは神にとって愛と義にかなったことであり、キリストの行為が義であることを3日目に公にされたのです。即ち、イエスを復活させました。
 パウロは、イエス様を信じた者、即ちイエス様を心にお迎えした者に対して、「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」(1コリント1302017)と述べています。

 今日の詩篇の箇所は、まるでダビデが新約(新契約)の人であるかのようです。
というか、旧約も新約もその真髄は同じです。同じ神様が聖書記者に書かせたのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様の贖いを感謝します。
イエス様がよみがえられたことによって、先ずは霊において新しく生まれさせて頂けたことを感謝します。
あなたは、魂もきよめてくださるお方ですから御名を崇めて感謝します。
あなたのみ前を聖く歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ132017

2022年2月21日 (月)

詩篇18篇にみるダビデの体験に基づくダビデの神観1

 詩篇18篇は2サムエル22章とほぼ同じです。
詩篇18篇の表題に指揮者によって。主の僕ダビデの詩。
主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った。(聖書協会共同訳)と記されています。

 聖書協会共同訳が、・・・主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日・・・と訳した中の「また」の箇所を2017は、「特に」と訳し、2017は、・・・主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に・・・としています。「また」(聖書協会共同訳)と訳された語のヘブライ語原語は「ヴェ」で、ここでは、and の意だと思います。

 詩篇18篇は、ヤハウェ(主)が、ダビデをサウル及び周辺諸国の敵から守られた後に書かれた詩篇ということになりますから、とても重い価値を持っていると私には思えます。ダビデはサウルに執拗に追われ、また他国との戦いのさなかで死ぬのではないかと思われるようなところを通ったこともあった人です。しかし、主はダビデを守られ、ダビデは、老人になってベッドの上で死んだのです。

 ダビデは親友ヨナタンに次のように語った場面があります。1サムエル20章には次のように記されています。
“1
ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。
「私があなたの父上〔サウル王(筆者挿入)〕の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
2
ヨナタンは彼に言った。
「とんでもないことです。あなたが死ぬはずはありません。父は、事の大小を問わず、私の耳に入れずに何かをするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょうか。そんなことはありません。」
3
ダビデはなおも誓って言った。
「父上〔サウル(筆者挿入)〕は、私があなたのご好意を受けていることを、よくご存じです。『ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう』と思っておられるのです。けれども、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます〔主は~二度目の「生きておられます」までは、「主とあなたに誓って言うけれども、本当に」の意(筆者挿入)〕。私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません。」2017)とあります。
ヤハウェ(主)抜きで、人間的に考えれば、ダビデは、しばしばサウル王の前にそのような状態であったのです。
 
また、2サムエル21章には次のような記事が記されています。
“15
ペリシテ人が再びイスラエルに戦いを仕掛けたことがあった。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。
16
ラファの子孫の一人であったイシュビ・ベノブは、「ダビデを討つ」と言った。
彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。
17
ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。
そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。
「あなたは、もうこれから、われわれと一緒に戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」2017)とあります。

 上記の2例のみならず、ダビデはサウルから幾たびも殺されそうになり、異邦人からも極めて危険な目にあわされたことが幾度もあったのです。

 そのような状態のときのダビデの祈りと、ダビデに対するヤハウェ(主)の対応を、ダビデは詩篇184-19に次のように記しています。
“4
死の綱は私を取り巻き、滅びの激流〔「敵の軍隊」のことでしょう(筆者挿入)〕は私をおびえさせた。
5
よみの綱は私を取り囲み、死の罠は私に立ち向かった。〔私は罠に落ち、助けてくれる人もなく、死へと引きずり込む綱の力に抵抗してもがきました。(リビングバイブル)〕
6
私は苦しみの中で主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは御耳に届いた。
7
地は揺るぎ、動いた〔地震(筆者挿入)〕。山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったからだ。
8
煙は鼻から立ち上り、その口から出る火は貪り食い、炭火は主から燃え上がった。
9
主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして。
10
主は、ケルビムに乗って飛び、風の翼で天翔(あまがけ)られた。
11
主は闇を隠れ家とし、水の暗闇、濃い雲を、ご自分の周りで仮庵とされた。
12
御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と燃える炭。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は天に雷鳴を響かせいと高き方は御声を発せられた。雹そして燃える炭。
14
主はご自分の矢〔稲妻でしょう(筆者挿入)〕を放って彼らを散らしすさまじい稲妻を放ってかき乱された〔9-14節は、恐らく強烈な雷{稲妻と雷鳴と大雨}の連続でしょう(筆者挿入)〕。
15
こうして水の底が現れ地の基があらわにされた〔烈風によるのでしょう(筆者挿入)〕。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたのとがめにより、あなたの鼻の荒い息吹によって。
16
主は、いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ、大水〔押し寄せる敵の軍隊のことでしょう(筆者挿入)〕から私を引き上げられました。
17
主は力ある敵から私を救い出されました。私を憎む者どもからも。彼らが私より強かったからです。
18
私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の支えとなられました。
19
主は私を広いところに導き出し私を助け出してくださいました。主が私を喜びとされたからです。2017)とあります。

 ダビデが死を覚悟するような苦境に陥った時、ヤハウェ(主)は、現代人が自然現象と言うところの地震や激しい雷(稲妻と雷鳴)そして雹、また火山の噴火をも思わせる描写もありますが、それらを引き起こし、それらによって敵を恐怖のどん底に落とし、人によっては稲妻に打たれて死ぬ、雹に打たれて死ぬ、というようなことも起こったのでしょう。

 実はダビデに限らず、これらの方法を主が採用することがあります。
 ヨシュア記10章には次のような記事が記されています。
“8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに告げられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」
9
ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。
10
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。
11
彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が天から彼らの上に、大きな石〔大きな雹(筆者挿入)〕をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。2017)とあります。

 このようなことは昔のことでしょ、という人がいるかもしれませんが、これからも起こるのです。

 エゼキエル38章は、これから起こる戦争の預言です。
ロシア、イラン、トルコ、リビア、スーダン(以上の国々について聖書は古代名で記しています)が、略奪のためにイスラエルを攻撃します。
その時、ヤハウェ(主)は、次のようなことを行うのです。
“16
おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日〔「日」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヨミーム」で複数形(筆者挿入)〕に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
17
神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言う。おまえは、わたしが昔、わたしのしもべであるイスラエルの預言者たちを通して語った、まさにその者ではないか。この預言者たちは長年にわたり、わたしがおまえに彼らを攻めさせると預言していたのだ。』
18
ゴグがイスラエルの地を攻めるその日〔「日」は単数形(筆者挿入)〕──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしの憤りは激しく燃え上がる。
19
わたしは、ねたみをもって、激しい怒りの火をもって告げる。その日〔「日」は単数形(筆者挿入)〕には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。20 海の魚、空の鳥、野の獣、地面を這うすべてのもの、地上のすべての人間は、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、崖は落ち、すべての城壁は地に倒れる。
21
わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。剣による同士討ちが起こる。
22
わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼とともにいる多くの国々の民の上に豪雨、雹、火、硫黄〔恐らく豪雨、雷、雹、火山の噴火でしょう(筆者挿入)〕を降らせる。
23
わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。そのとき彼らは、わたしが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを知る。」2017)とあります。

 また大患難時代末期には、次のようなことが起こると次のように記されています。
“17
第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18
そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19
あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20
島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった〔地殻変動(筆者挿入)〕。
21
また、一タラント〔34kg(筆者挿入)〕ほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒涜した。その災害が非常に激しかったからである。2017)とあります。

 主にあって真実に歩んでいる人は、大患難時代には天にいることでしょう。
ルカ2137に、「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのこと〔大患難時代の災い(筆者挿入)〕から逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(2017)とイエス様が語っておられますから。

 日本の80台以上の方々は、戦争の記憶があると思います。戦争は大変でした。高齢者ではなくても、大地震、津波、疫病(コロナも含む)を体験した人はいますが、大患難時代は、それらの比ではありません。天変地異までも起こるのです。現在物価が上昇していますが、大患難時代の初期の頃には、既に、1日に一人が働いて得た賃金で一人が食べていける、というようになっていくのです(黙示録66)。

 
主と共に歩み、携挙の恵みにあずかることの重要性を覚えます。

大分話が横道にそれましたが、ダビデは、自分の経験をももとにして、
1 ・・・わが力なる主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。私はあなたを慕います。2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。3 ほめたたえられる方。この主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を呼び求めると、私は敵から救われる。」(2017)と言いました。

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
1 主よ。私はどれほど主をお慕いしていることでしょう。
こんなにもすばらしいことをしてくださった主を。
2
主は、安心して身を寄せることのできるとりでです。
誰ひとり、このとりでに入って来て、私を殺すことは出来ません。
主は、身を隠すことができる険しい山であり、私の救い主です。
だれも近づくことのできない岩、安全を守る塔、また私の盾です。
3
私はただ、主に叫び求めさえすればよいのです。
そうすれば主は、あらゆる敵から助けてくださいます。
ああ、主をほめたたえます。」とあります。

 キリスト者のうちには主が住んでくださっておられ(コロサイ127)、天使も遣わされます(ヘブル114)。主に信頼することが大切です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼して、あなたに従い、あなたにあって歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月20日 (日)

ヤコブの妻たちの間の嫉妬

 ヤコブが現れる前のレア(姉)とラケル(妹)の関係はどのようなものであったのでしょうか?
それについて聖書は語っていません。
 レアは、優しい目をしていた人でした(創世記2917・新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)。
同箇所について、2017の欄外には、別訳「穏やかだった」と記されていますから、「レアは穏やかだった。」という訳もあるのです。

 イエス様は、「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら〔目が澄んでいれば(新共同訳)〕全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(マタイ622.232017)と語られました。
イエス様の御言葉を基にしてかどうかは分かりませんが、英語には、The eyes are the window of the soul.とあり、「目は心の窓」or「目は心の鏡」と言いますし、
孟子も「人をみるは、まなこより良きはなし」と言っています。

 それからすると、レアは、元来は優しい人であったのでしょう。
 
 一方、ラケルは、「ラケルは見目麗しかった。」(創世記2917・フランシスコ会訳)と記されています。

 創世記2918-31には次のように記されています。
“18
ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。
19
ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」
20
ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。
21
ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」
22
ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、
23
夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。
24
ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。
25
ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、
26
ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。
27
とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」
28
ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。
29
ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。
30
こうして、ヤコブはラケルをめとった。
ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。
31
主は、レアが疎んじられている〔レアが嫌われている(2017)〕のを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。(新共同訳)とあります。

 このような状態に置かれたレアは、気弱になったり、ラケルを嫉妬したのではないかと思います。
ラケルに対するレアの嫉妬は、創世記3014-16に次のように記されています。
“14
小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。
ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、
15
レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」
「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。
16
夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。(新共同訳)とあります。

 ラケルもレアに嫉妬しました。
創世記301-3には次のように記されています。
“1
ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。
ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」
2
ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」
3
彼女は言った。「ここに、私の女奴隷のビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私の膝に子を産むようにしてください。そうすれば、彼女によって私も子を得られるでしょう。」2017)とあります。

 ヤコブが来る前のレアとラケルは嫉妬の故に激しく戦うということはなかったことでしょう。ラケルが容姿端麗であったとしても、レアは優しい目をしていたのですから。
結婚後のレアの目は、弱々しくなったり、怒りに満ちたりしたことでしょう。

 ラケルは、ラケルの長子ヨセフを産み(創世記3024)、次にベニヤミンを産みました(創世記3516-18)。ラケルはベニヤミンを産んだのち死にました。
これによって、レアとラケルの確執は終わったことでしょう。

 しかし、ヤコブは、ラケルの子どもを他の子どもたちよりも特別に扱っていました。
それ故、今度は子供の間で嫉妬やそれに伴う出来事が起こっていったのです。

 ヤコブの手紙には、私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。(ヤコブ212017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
人によって難しさの違いはあるでしょうが、えこひいきをしないこと、嫉妬をしないこと、その他の数多くの個々の罪を自分で解決していくということは、とても難しいことです。何しろ、生まれたときから罪の性質を持って生まれてくるのですから。
しかし、あなたは、そのような私たちを変えることがお出来になりますから御名を崇めて感謝します。
あなたの御旨に基づいた歩みをすることができますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年2月19日 (土)

誓いについて

 マタイ533-37には、
“33
また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34
しかし、わたしはあなたがたに言います。
決して誓ってはいけません。
天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35
地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。
エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36
自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37
あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。
それ以上のことは悪い者〔「悪」(口語訳)〕から出ているのです。2017)と記されています。

 この箇所は、2015年920 ()に記した箇所です。
今回はその時の文章に使用聖書の変更、及び加筆をして記します。

 神様はモーセを通して、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ1912・新共同訳)と語られました。
 また、民数記302には、「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」(新改訳第三版)とあります。

 余談になりますが、民数記302の冒頭の「人」と訳された箇所を2017は、「男」と訳しています。ヘブライ語原語は「イーシュ」で第一義的には「男」、Strong辞書の最後の方に「人」の語も出て来ます。私が所有している他の日本語訳聖書はすべて「人」と訳していますが、民数記30章全体を読むと、「男」と訳したほうが良いと私も思います。

 申命記2321-23には、「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」(新改訳第三版)とあります。

 新聖書註解は次のように述べています。
“この誓いについて、律法学者たちは詭弁的な逃げ道を考案した。すなわち、誓いを二種類に分け、神の名によるものは絶対に守るべきであるとし、神の名によらないものはその限りでないとした。そこで、「天」「地」「エルサレム」「頭」を指して回避的に誓うことによって、その誓いは破られてもよいとした。誓う時に神の名を使ったら神は関係してくるが、使わなかったら関係してこないというのがその考え方である。”と記しています。

 イエス様は、律法学者やパリサイ人たちに、
「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。
『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。」(マタイ2316-22・新改訳第三版)とも語られました。

 イエス様は34.35節で、「わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。」(口語訳)と言われました。
 またマタイ2321.22には、「21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。
22
天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。」(2017)というイエス様が語られた聖句が記されています。

 余談になりますが、
イエス様は、エルサレム神殿について「父の家」と語られたことがありました。
ルカ1249には、すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」2017)と記されています。

 父なる神は天の御座におられ、御子キリスト・イエス様は御父の右の御座におられ(マルコ1619)、御聖霊が万物の中に偏在していると言われる方がいます。
果たしてそうなのでしょうか?
 イエス様は、「神は霊です」(ヨハネ424)とも語られました。
 イエス様には、御父が天の御座におられること、そして神殿にもおられることを教えてくれています。
 イエス様についても、復活されたキリスト・イエス様は霊のからだでした。
復活の主は、物質をもすり抜けたのです。
ヨハネ2019には、その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていたすると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」2017)と記されています。
コロサイ127には、・・・この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト・・・2017)と記されています。
霊なるお方を人間の体のように物質的に捉えると間違ってしまうのではないかと思います。
 ヨハネ14章には次のようなイエス様の御御言葉があります。
“10.11
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる・・・(2017/
23
・・だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(2017/
16.17
わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者〔「助け主」(新改訳)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(新共同訳)/
26
助け主、すなわち、父がわたしの名によって〔直訳「名の中で」(筆者挿入)〕お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(2017と記されています。
 マタイ2819
新共同訳は、「・・・彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と訳し、
フランシスコ会訳は、「それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け」と訳しています。
「よって」(新共同訳)と訳されている語のギリシア語原語は「イース」で、英語ではinto という語がつかわれていますから、「父と子と聖霊の中へと浸す」の意があるのではないかと思います。  
フランシスコ会訳は、「父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け」と訳しています。

 よく考えると、よく考えなくても、三一の神様は相互内住、かつ偏在のお方、どこにでもおられ、すべてのことを聞いておられるお方です。その事実を思いうかべると、ぞっとする人もいれば、安心する人もいることでしょう。

 36節には、「自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。」とあります。
脱色剤や毛染めを使えばできると言われても困ります。そのようなことを言っているのではありませんから。
人間のできることは限られています。それどころか、明日は死んでいるかもしれないのです。

 誓いに関する締めくくりで、イエス様は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(口語訳)と語られたと37節に記されています。
口語訳で「それ以上に出ることは、悪から来るのである。」と訳しているところを、新改訳は「それ以上のことは悪いことです。」と訳し、新共同訳は「それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と訳しています。
イエス様は、「悪から来る」(37)の「悪」を人の内に住み着いている罪、あるいは悪しき霊、と分けて一方だけに限定してしまうよりも、両方を含んだものとして言われたのではないだろうかと想像します。

 ヤコブは、「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。」(ヤコブ512・新改訳第三版)と述べて、ヤコブは裁きにまで言及しました。

 イエス様は他の箇所で、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(マタイ1236・新共同訳)と語っておられます。

 マタイ533-37は神様に対する誓いについて取り上げられた箇所ですが、マタイ1236のおことばを読むときゾ~とします。しかしイエス様は、私が話したつまらない言葉、裁かれるべき言葉のすべての罪をも身代わりに負って十字架についてくださり、罰を受けて解決してくださいました。
罪をしめされたら、御父に告白すれば、赦してもらえるだけではなく、きよめて頂けます(1ヨハネ19)から感謝です。それというのもイエス様が十字架上で御血を流してくださったからです。
思いの罪、言葉の罪、行動の罪、・・・一体私はどれだけ罪を犯したのでしょう。まったくわからないほどの数ですが、いずれにしてもすべての罪をイエス様は身代わりに負ってくださったのです。いくら感謝しても足りません。長く生きるほど犯した罪も増えます。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
自分では数え切れないほどの罪を犯してきましたがこれからもまだ地上にいればその罪の数も増すことでしょう。
しかし、そのすべての罪をイエス様が身代わりに負って十字架の上で死んでくださいましたことを感謝し、主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<いかにけがれたる>聖歌701、聖歌総合版586
1.如何に汚れたる者の心をも きよめたもう主は げに ほむべきかな
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
2.君に逆らいし時こそ多けれ 従いまつりし日は そもいくばく
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
3.汚れのみ多く いさおは無けれど 君は血潮もて 洗わせ賜えり
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり
4.かくも満ちたれる恵みの数々 力限りなおたたえ歌わばや
  罪汚れは いや増すとも 主の恵みも また いや増すなり

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