日ごとの恵みⅤ

2022年5月30日 (月)

主に祝福を願うときのよりどころ/旧約と新約の違い

 詩篇263-9には次のように記されています。
“3
あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。
4
私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。
5
悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。
6
手を洗い自らの潔白を示します。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
7
感謝の声を響き渡らせて語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。
8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私は愛します。あなたの住まいのある所、あなたの栄光のとどまる所を。
9
どうか私のたましいを、罪人どもとともに、私のいのちを人の血を流す者どもとともに、取り去らないでください。2017)とあります。

 旧約時代はどのようにしたら神様から祝福を受けることが出来たでしょうか?
申命記281-14には、祝福を受ける条件と祝福の内容が次のように記されています。
“1
もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く
3
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4
あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
5
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6
あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
8
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9
あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令を守り主の道を歩むなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
10
地上のあらゆる民はあなたに主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
13
私が今日あなたに命じる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命令に聞き従い、守り行うなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
14
私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。2017)とあります。

 祝福を受けるための法則は、上記1,2,13節の下線部分の文言に記されています。

 新約時代の祝福はどのようなものでしょうか?
第一に、救いについては、主イエス・キリストを信じるだけで救われる、ということです。
行いによるのではありません。
逆に、行いによって救われようとしたら、生まれながらの罪人である人間はだれも救われないのです。

 人は、生まれながらに罪人です。
 ローマ5章には、一人の人〔創世記3章参照(筆者挿入)〕によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった12節抜粋・2017)と記され、
 ローマ7章には、“18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。2017)と、肉のうちに住む罪について記されています。
 エペソ21.2には、・・、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者〔神に対して断絶していた者(筆者挿入)〕であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔悪魔{サタン}(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔神に従わない者たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊〔悪しき霊(筆者挿入)〕に従って歩んでいました。2017)と記されています。

 人は、キリストの贖いの故に、行いにはよらず、信仰によって救われるのです。
 エペソ1章には、“キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。”(7節抜粋・2017)と記され、
 エペソ2章には、恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。8.9節抜粋・2017)と記されています。

 繰り返しますが、救いはイエス・キリストを信じる信仰によります。行いによるのではありません。

 ここから話が変わります。
神様に祝福された歩みは、神の御旨に従った歩みと関係します。
祝福の大前提として、父なる神様は、キリスト者にすべての霊的な祝福を与えてくださいました。
 エペソ1章には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(3節抜粋・2017)と記され、
{「キリストにあって」と訳されている語の中の「あって(在って)」のギリシア語原語は「エン」で、英語の「in」です。}
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。(コロサイ232017)と記されています。

 主イエス様は、天の王国の民(天の御国の民)の地上における確かな歩みの法則を語ってくださいました。マタイは、それをいわゆる山上の垂訓(山上での教え)としてマタイ5-7章にまとめて記しました。
キリスト者に艱難(苦難)はつきものです(ヨハネ1633参照)。
しかし、聖霊の助けを頂きつつ霊によって主の教えに従って歩むならば、勝利できると約束されています。
 マタイ7章には、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。24.25節抜粋・2017)と記され、
 ローマ8章には、肉に従って歩まず、御霊〔ギリシア語原語は「プニューマ」で定冠詞なしの「霊」(筆者挿入)〕に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる4節抜粋・2017)と記されています。
{「霊」と訳せば、主キリストの霊と一つにされた新生させていただいた人の霊でしょう。1コリント617参照。新改訳以外の日本語訳聖書で私が持っている聖書は全部「霊」と訳しています。但し、リビングバイブルは「聖霊」と訳していますが、「聖」という単語はギリシア語聖書にはありません。}
 ヨハネ14章には、“わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。”(16.17節抜粋・2017)と記されています。
「助け主」と訳されている語のギリシア語原語は「パラクレイトス」で、とりなし手、慰め主、元気づけるお方、支えるお方、弁護者、擁護者等の意があるだろうと思います。そしてそのお方は、真理の御霊です(ギリシア語聖書では、この箇所の「霊」には定冠詞がついています)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちの心の王座におられる主イエス様に従い、御霊の助けを頂きつつ、あなたの御旨の内を歩み、あなたの御名と主イエス様の御名が崇められる歩みをすることができますよう、よろしくお願いします。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月29日 (日)

ヤハウェ(主)のご命令に従った故に事態が悪くなる場合もある

 出エジプト37-10には、ヤハウェ(主)がイスラエルの民をファラオから救出し、カナンの地に導き上る、という約束と共に、そのためにモーセを派遣するというモーセへの派遣命令が次のように記されています。
“7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
8
わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
9
今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10
今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」2017)とあります。

 モーセは、モーセに対する派遣命令を受けても自分一人ではできない、としり込みをしました。モーセは、ヤハウェ(主)に励まされても一人で行くことができませんでした。
そこでヤハウェ(主)はモーセにモーセの兄アロンを同行させました(出エジプト311-51)。

 モーセとアロンは、主の命令に従い、ファラオに会い、イスラエルをヤハウェ(主)に仕えさせてください、と頼みました。出エジプト51-3には次のように記されています。
“1
その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。
「イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう仰せられます。
『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」
2
ファラオは答えた。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知らない。イスラエルは去らせない。」
3
彼ら〔モーセとアロン(筆者挿入)〕は言った。
「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」2017)とあります。

 ヤハウェ(主)のご命令に従った結果は悲惨なものでした。事態はかえって悪くなったのです。
出エジプト54-14には次のように記されています。
“4
エジプトの王は彼らに言った。
「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」
5
ファラオはまた言った。
「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」
6
その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。
7
「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。8 しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。9 あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」
10
そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。
「ファラオはこう言われる。
『もうおまえたちに藁は与えない。11 おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」
12
そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。
13
監督たちは彼らをせき立てた。
「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」
14
ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。
「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」2017)とあります。

 打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちは、労働環境の改善のためにファラオに直訴しましたが、ファラオに一蹴されるとともに、過酷な労働環境になった理由がモーセとアロンによるのだということもファラオの言葉から理解しました。
 出エジプト515-19には次のように記されています。
“15
そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。
「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。16 しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」
17
ファラオは言った。
「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。18 今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」
19
イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。2017)とあります。

  打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちは、労働環境の悪化は、お前たちが原因だ、とモーセとアロンに言いました。出エジプト520.21には次のように記されています。
“20
途方にくれて外へ出ると、モーセとアロンが待っていました。彼らは二人の姿を見ると、21無性に腹が立ち、思いきりののしりました。
「ファラオやエジプト人からこんなひどい仕打ちを受けることになったのも、元はといえばおまえたちのせいだ。まるで、われわれを殺すための口実を与えたようなものだ。
二人とも主のさばきを受けるがいい。」(リビングバイブル)とあります。

 打ち叩かれたイスラエルの子らのかしらたちが、上記のように言うのは普通でしょう。そのように言われたモーセとアロンは、ヤハウェ(主)に文句を言いました。出エジプト522.23には次のように記されています。
“22
モーセも気持ちがおさまりません。主のもとに戻って抗議しました。
「主よ、どうしてご自分の民なのに、こんなひどい取り扱いをなさるのですか。私が来たのは、いったい何のためでしょう。23あなたの命令をファラオに伝えてからというもの、事態はよくなるどころか、ますます悪くなるばかりです。それなのにあなたは、いっこうに救いの手を差し伸べてくださらないではありませんか。」(リビングバイブル)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主の命令に従ったのに事態が悪くなる、聖さを求めたら罪ばかり示される、人の救いを祈っていたらその人の周りで起こってほしくはないようなことが起こる等々、自分の願いや思いとは反対に見える事が起こることは不思議なことではないことが分かります。
ヨブ記1章にみるヨブの場合もそのようでした。
主に従っているのに、不幸と思われることが起きているときには、「なぜ?」という人が多いです。
しかし、主は最善をなさってくださるお方ですから御名を崇めます。
やがて主が与えてくださる祝福を待ち望みつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月28日 (土)

彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った

 マタイ814-17には次のように記されています。
“14
それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
15
イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
16
夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。
17
これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」2017)とあります。

 マルコの福音書の執筆事情について、伝承によれば、マルコはペテロの通訳であり、ペテロの思い起こすことを正確に書いたと言われる。また別の伝承によれば、多くのローマ人がマルコに対し、ペテロの説教を文書にまとめるように求めた。おそらく後者が執筆のための直接的要因になったと考えられる。と注解付新改訳聖書のマルコの福音書の緒論は述べています。

 ということで、ペテロの姑の病気の癒しの記事の前にあった事柄をマルコの福音書から転記します。
なぜそのようにするかというと、バイブルNaviに、マルコの物語は、4つの福音書のうち、最も年代順に記されている。ほとんどの物語が、それらが実際に起こった順番に配列されている。と記されているからです。

 マルコの福音書は、ペテロの姑の病の癒しの記事の前に何が書いてあるでしょうか。
今日のテーマのマタイ814-17に含まれる記事を、マルコの福音書は、マルコ121-34に次のように記しています。
“21
それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
22
人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
 23 ちょうどそのとき、汚れた霊につかれた人がその会堂にいて、こう叫んだ。
24
「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
25
イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
26
すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
27
人々はみな驚いて、互いに論じ合った。
「これは何だ。権威ある新しい教えだ。この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」
28
こうして、イエスの評判はすぐに、ガリラヤ周辺の全域、いたるところに広まった。
 29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30
シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
31
イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
 32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
33
こうして町中の人が戸口に集まって来た。
34
イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。2017)とあります。

 安息日にイエス様がカペナウム〔ヘブライ語は「カペルナフーム」(筆者挿入)〕に行き、礼拝をした後、シモン・ペテロの家に行ったのです。
マルコの福音書には、29節に、一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。と記されています。
イスラエルに行ってわかったことですが、マルコの福音書に、「すぐに」と書いてあるように、カペナウムの会堂とペテロの家は、とても近いのです。カペナウムの会堂からすぐに行ける場所にペテロの家があったのでびっくりしました。

 ペテロの姑の解熱について、ルカの福音書は、著者のルカが医者であった関係もあるのでしょう。もう少し詳しく書いています。ルカ438.39には次のように記されています。
“38
イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。
39
イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。2017)とあります。

 医者のルカによると、ペテロの姑は、高熱で苦しんでいた、ということです。
そして、主イエス様の癒し方は、熱をしかりつける方法であった、ということが分かります。
現代では発熱のメカニズムはもっと詳しく分かっており、かつ発熱の原因は一つではありませんので、私たちとしては、それらの詳しいことは脇に置いておいて、「発熱の原因よ去れ」と主の御名で命じるようにしたら良いのかも知れません。

 イエス様は多くの人の病をいやされましたが、イザヤは、神ヤハウェ(主)からの、イエス様についての預言の御言葉をいくつも頂いています。
イザヤの預言は、このイエス様の御業が行われた約700年前のものです。
イザヤが神ヤハウェ(主)から語るように言われたイエス様についての預言の中の一つにイザヤ53章があります。イザヤ53章には次のように記されています。
“1
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御腕はだれに現れたか。
2
彼は主の前に、ひこばえ〔一たび切り倒した木から、また芽生えるもの(筆者挿入)〕のように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
3
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のみこころは彼によって成し遂げられる。
11
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。2017)とあります。

 神のひとり子の御子でありながら、天から降り人となられて、贖いを成し遂げられたイエス様についての預言ですが、4節には、まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったと記されています。
この預言箇所は、マタイの福音書だけが取り上げています。
マタイは、ユダヤ人の読者を想定して書いたものだからです。
ユダヤ人は、聖書に慣れ親しんでいましたし、その当時、聖書と言えば旧約聖書のことであったのです。

 さて、イエス様による病の癒しですが、イエス様が、病人の病を負ったのだ、というのです。それも神であるヤハウェ(主)が。
 どういうことなのでしょう。
病も死もアダムの堕罪の結果、すなわち罪を犯した結果、入ってきたものであったからだと思います。
 罪のないところには、病も死もありません。
天から下って来る新エルサレムの中には罪がありません。
黙示録211-4には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」2017)とあります。

 イエス様の十字架と復活がなければ、このようなことはなかったでしょう。
御父の御愛とイエス様の恵みの御業に大感謝です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が私の、私たちのすべての罪をその身に負って十字架上で裁かれた故に、それを信じる私たちは、私たちのすべての罪が赦されていますことを感謝します。
もしイエス様の御復活がなければ、私たちの罪は赦されても新しい霊の誕生と、やがてもたらされる体の復活はなかったことになります。
ですから、イエス様の十字架とご復活の重要性をこれからも宣べ伝える生涯でありますよう力を与え、伝えるべき人を示し、聖霊によって御業をなさせて頂けますよう助け導いていてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ〔「霊」において(筆者挿入)〕、生ける望みを持たせてくださいました。1ペテロ132017
 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。1ペテロ18.92017
 “20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです
25
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。1ペテロ2章・新改訳第三版)

2022年5月27日 (金)

神のことばを真摯に受け取らない者は知恵を求めても得られない

 箴言1462017訳は次のように訳しています。
嘲(あざけ)る者は知恵を求めても得られない。
悟る者には知識を得るのは易しい。とあります。

 2017が「嘲る者」と訳した箇所を、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、口語訳は、同様に訳し、新共同訳は「不遜であれば」と訳し、リビングバイブルは「人をさげすむ者」と訳しています。
「嘲る」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーツ」で、「嘲る」と訳されることの多い語ですが、それ以外の意にも用いられます。

 「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ホクマー」です。
新共同訳は、146の前半部分を、「不遜であれば知恵を求めても得られない。」と訳しています。
不遜とは、へりくだる気持ちがないことですから、教えられにくい心のありようです。

 神様に対して不遜であれば、神の知恵は得られません。
ヨハネ9章に次のような主イエス様の御言葉があります。
“39
そこで、イエスは言われた。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
41
イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」2017)と記されています。

 主に対してへりくだらず、高慢な思いを持っていると、主に、パリサイ人に語られた御言葉のようなことを言われてしまうでしょう。
逆に、へりくだっている人には、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ772017)と、主が言われる通りにしてくださると思います。

 1コリント1章に次のような聖句があります。
“26
兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。2017)とあります。

 ヨハネ940に登場するパリサイ人は、神の知恵や知識を、一般の人よりも豊かに持っていると考えていたことでしょう。
 また、1コリント127に、「この世の愚かな者を選び」、「この世の弱い者を選ばれました」とありますが、この世の愚かな者や弱い者が皆主イエス様を信じたという状態を見てはいません。逆に、大学の長になった人や、国のトップになった人で敬虔なキリスト者であった、という人も世界を見渡せばいるでしょう。
そのような人は、対神的には、とても謙遜であったのです。
即ち、神様の御言葉は、聖霊によって教えていただかなければ、私には分かりません、というへりくだった態度、私は、霊の目が見えない者でございますという態度であったと思います。
それ故、主に真理を理解することが出来るようにと求めたことでしょう。
そのような人に対しては、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」というイエス様の御言葉が成就するのです。

 一方、この世的に、愚かな者、弱い者、と自他ともに認めている人であっても、神に対しては挑発的であり、不遜、傲慢である人たちも数多くいます。
日本人であれば、「神も仏もあるものか」と言うのです。
仏は神ではないので、対象外ですけれども。

 それらのことを考えると、1コリント127を、しかし神は、私には神の知恵がある(神の知恵を理解している)と思っている者を恥じ入らせるために、この世において、自分は神様の御言葉の分からない愚かな者ですと思っている者を選び、神に対して強いと思っている者を恥じ入らせるために、神に対しては弱い者であると思っている者を選ばれました。と捉えることもできるのではないだろうかと思います。

 日本のように、人間が神様を作ってしまう国の民においては、「あの神はダメだ」と言うことも簡単です。
しかし、神ヤハウェ(主)が、天と地とその中の、見えるもの、見えないもののすべてのものを造られた、と心から信じている人は、対神的に、「私は、ほとんど何もわかっていない者です。」と言うでしょう。

 テレビに出てくる多くの学者は、進化論が当然であるかのように考えています。
その人たちは、対神的には、甚だしい傲慢な態度です。
本当に、神ヤハウェ(主)に対して、大変失礼なことを言っているということもわかっていません。
という私も、主なる神様が私に臨んでくださるまでは、愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。(詩篇1412017)と記されている通りの者でした。
神様からそのように見られているにもかかわらず、私は、自分では、そこそこ愛もあるし真面目だと思っていたのです。
真理である神と私の自己評価との間には甚だしい乖離(かいり)があったのです。

 箴言146の後半部分には、「悟る者には知識を得るのは易しい。」(2017)とあります。
「悟る者」(2017)という箇所を、聖書協会共同訳は「分別ある人」、フランシスコ会訳は「知性のある人」、新共同訳は「聡明」と訳しています。

 箴言910の後半部分を、
2017
は、聖なる方を知ることは悟ることである。と訳し、
フランシスコ会訳は、聖なる方を知ることは悟りである。と訳しています。
なお聖書協会共同訳は、聖なる方を知ることが分別。と訳し、
新共同訳は、聖なる方を知ることは分別の初め。と訳しています。

 箴言146の後半部分は、「聖なる方を知る者には、〔神の(筆者挿入)〕知識を得るのは易しい。」と読み替えることも可能なのかもしれません。
魂の様々な部分が聖(きよ)くされるに従い、神のことばをより正しく読めるようになるのではないだろうかと思います。主は聖なるお方ですから。

 1コリント216の後半部分を
2017
は、・・、私たちはキリストの心を持っています。と訳し、
新共同訳は、・・、私たちには、キリストの心があるのです。と訳し、
口語訳は、・・、わたしたちはキリストの思いを持っている。と訳し、
フランシスコ会訳は、わたしたちはキリストの心を心としているのです。と訳し、
塚本訳は、ただわたし達(主キリストを信ずる者)は、キリストの(霊 を持ち、その)心を持っているのである。{( )内は訳者挿入}と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
残念なことに、聖なるあなたを知らない故に、聖書の御言葉を自分勝手に引用する人もいます。
しかし、私たちキリスト者に対しては、私たちの魂を隅々まできよめてくださり、益々あなたの御言葉を正しく理解することを得させてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月26日 (木)

罪の苦しみからの解放

 詩篇2516-22には次のように記されています。
“16
私に御顔を向け私をあわれんでください。私はひとり苦しんでいます。
17
私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。
18
私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。
19
ご覧ください。私の敵がどんなに多いかを。彼らは不当な憎しみで私を憎んでいます。
20
私のたましいを守り私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けます。
21
誠実で直ぐな心で私が保たれますように。私はあなたを待ち望んでいますから。
22
神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください。2017)とあります。

 16節の「私はひとり苦しんでいます」、17節の「私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。」、18節の「私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。」という箇所を読むと、ダビデのバテ・シェバ事件(ダビデによる姦淫と殺人教唆の罪)を思い浮かべます。
22
節には、「神よイスラエルをそのすべての苦難から贖い出してください」とありますが、バテ・シェバ事件以後、ダビデは、息子のレイプ事件に対処することもできず、国内にダビデへの憤りや不満を持つ者が徐々に顕在化し、国内に不一致が見られるようになり、やがて息子アブサロムの造反へと繋がったのです。

 美女バテ・シェバの裸を見、人妻のバテ・シェバを召し入れて男女の関係を持ったダビデ。バテ・シェバの妊娠が分かった後の策略と、それがうまくいかなかった後のバテ・シェバの夫ウリヤに対する殺人教唆の罪。バテ・シェバの夫の戦場における無駄死に。それらの罪を心の中に隠し続け、ダビデの苦悩は大いなるものとなりました。
以上の出来事とその余波は、2サムエル11-20章に記されています。

 主は、預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を指摘しました。
ダビデは、主と預言者ナタンの前で、罪を告白しました。

 今日の聖書箇所の一つ前の節には、「私の目はいつも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かう。主が私の足を罠(わな)から引き出してくださるから。」(2017)とあります。
罪を指摘されても、主の御前に留まる人は幸いです。

 ダビデが主に罪を告白し、主に罪を赦された後に書いた詩に、詩篇32篇と51篇があります。
 詩篇321-7には次のように記されています。
“1
幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。
2
幸いなことよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が咎をお認めにならず、その霊に欺きがない人は。
3
私が黙っていたとき、私の骨は疲れきり、私は一日中うめきました。
4
昼も夜も、御手が私の上に重くのしかかり、骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。
5
私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。「私の背きを主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に告白しよう」と。
するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。
6
それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かって、あなたがおられるうちに。大水は濁流となっても、彼のところに届きません。
7
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。2017

 詩篇511-17には次のように記されています。
“1
神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
2
私の咎を私からすっかり洗い去り、私の罪から私をきよめてください。
3
まことに、私は自分の背きを知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4
私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するとき、あなたは正しく、さばくとき、あなたは清くあられます。
5
ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。〔堕罪したアダムの子孫である人間は、原罪、すなわち罪の性質をもって生まれてきます。(筆者挿入)〕
6
確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
7
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
8
楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
9
御顔を私の罪から隠し、私の咎をすべてぬぐい去ってください。
10
神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
11
私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
12
あなたの救いの喜びを私に戻し、仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
13
私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。
14
神よ、私の救いの神よ、血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。
15
主よ、私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
16
まことに私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。
17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑(さげす)まれません。2017)とあります。

 ヤハウェ(主)を信じていたダビデは、罪責感に苦しんでいましたが、自分の何かに頼るのではなく、へりくだってヤハウェ(主)の前に出ました。
罪を告白した時、ヤハウェ(主)は赦してくださったのです。

 1ヨハネ19には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(2017)と記しています。

 私たちの罪の赦しのためには、大きな犠牲が払われました。
御父は、愛してやまない御子を私達人類の罪の赦しのために、御子に、一人一人が犯したすべての罪を負わせて、御子イエス・キリストを十字架上で裁かれたのです。
御子は、私たちすべての人の罪を身代わりに負って、その裁きを受けるために肉体をとって地上に生まれてくださいましたが、その罪のあまりにも大きな故に、ゲッセマネで主はかくも悩み、十字架上で私たち一人一人の罪をその身に負い、罪の裁きを受けることによって、その愛を示してくださったのです。
 
 イザヤ53章は、イエス様が地上に降誕される約700年前の預言ですが、ペテロは、おそらくそれを要約して引用し、また御そば近くに仕えていたことの故に、聖霊によって1ペテロ221b-25を次のように記したのでしょう。
“21
・・・。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25
あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
罪を示されたときには、すぐに主に告白し、いつも御父と良き関係を保ちつつ地上生涯を送ることができますようお導きください。
主にして救い主であられるイエス様の贖いを御父と主イエス様に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月25日 (水)

神は契約を守るお方

 出エジプト424-26には次のように記されています。
“24
さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに会い、彼を殺そうとされた。
25
そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。
「まことに、あなたは私には血の花婿です。」
26
すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。2017)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、契約を極めて重視するという以上に義なるお方なので契約を履行するお方です。
人が神と契約を結んだ場合、それを人にも求めてきます。

 神ヤハウェ(主)は、アブラハムと割礼の契約を結びました。
創世記17章には次のように記されています。
“1
さて、アブラムが九十九歳のとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はアブラムに現れ、こう言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
2
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
3
アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。
4
「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。
あなたは多くの国民の父となる。
5
あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
7
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
8
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」
9
また神はアブラハムに仰せられた。
あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって
10
次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい
11
あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる
12
あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
13
あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない
14
包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」2017)とあります。

 モーセは、自分の子どもに割礼を施していませんでした。14節にあるように、割礼をしていなければ、イスラエルの民から断ち切られる、というのです。

 神ヤハウェ(主)は、モーセをイスラエルの指導者として立て、イスラエルの民をカナンの地へ導こうとしていました。
しかしそのモーセが、自分の息子に割礼を施していないということは、神様にとって大問題であったのです。
それ故、出エジプト424に、ヤハウェ(主)は、モーセに会い、彼を殺そうとした。と記されているようなことが起きたのだと思います。

 その時、急いで妻のチッポラが火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取ったので、神はモーセを解放したのです。

 イエス様が誕生した時は、旧契約の時代でした。
イエス様は8日目に割礼を受けたのです(ルカ221)。
後にバプテスマのヨハネと呼ばれたヨハネも8日目に割礼を受けました(ルカ159.60)。

 私たちキリスト者は、イエス・キリスト様の贖いが成就した新契約(新約)の時代に生きています。新契約は、旧契約の儀式律法を廃止しました。
何故でしょうか?
旧契約の儀式律法は、キリストの予型、予表であったのです。また、割礼が意味したものとは何であったのでしょうか。
 ローマ229には次のように記されています。
・・・。文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。・・・。2017)とあります。
 コロサイ211-17には次のように記されています。
“11
あなたがたがクリスチャンになった時、キリストはあなたがたを罪に支配された古い性質から解放してくださいました。それは、割礼という肉体の手術によってではなく、心のバプテスマ(洗礼)という霊的な手術によってなされたことです。
12
ですから、古い性質は、キリストと共に死に、共に葬られたのです。そして、キリストを死人の中から復活させた、力ある神のことばを信じたあなたがたは、キリストと共に、新しいいのちへと復活させていただいたのです。13 あなたがたは、以前は罪の中で死んでいましたが、神は、そんなあなたがたをキリストと共に生かしてくださいました。それは、すべての罪を赦し、14 神の定めに違反したことが記されているあなたがたに不利な証書を、塗りつぶしてしまわれたからです。この罪の証書は、キリストの十字架と共に釘づけにされて無効となったのです。
15
こうして神は、罪を犯したあなたがたを責め立てるサタンの力をくじかれました。そして、十字架上でのキリストの勝利を、公然と示されたのです。この十字架によって、罪はすべて取り除かれました。
16
そういうわけですから、食べ物や飲み物のことで、あるいはユダヤ教の祭り、新月の儀式、安息日の決まりを守らないなどという問題で、だれにも批評させてはいけません。
17
それらは、キリストが来られる前にだけ有効であった、一時的な存在にすぎないからです。つまり、キリストという本体の影でしかなかったのです。(リビングバイブル)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、契約の神であり義なる神ですから、契約を守ります。
新契約に移行してからもそうです。
ですから新約聖書に記されている約束はすべてアーメンなのです。
神は義なるお方、すなわち正しいお方です。それ故、ヨハネは次のように記している箇所があります。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(1ヨハネ192017)とあります。
キリストの贖いが完了しているので、神は、義なる神である故に、新契約を反故にすることができないのです。
神は愛の神だから罪を赦すというだけのものではないのです。
キリストの十字架上の贖いに基づいているのです。
かくして「キリストを信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネ336)ということが揺らぐことはありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはキリストの贖いの故に、キリスト・イエス様を信じる私たちをお取り扱いくださいますからまことにありがとうございます。
その感謝の思いを私たち一人一人が行動で表していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祈りの内容を誤解されるといけないので次の聖句も記しておきます。
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ24・新共同訳)
「預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。」(使徒10432017

2022年5月24日 (火)

主の御言葉を頂けばその通りになるという信仰

 マタイ85-13には次のように記されています。
“5
イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
6
「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
7
イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8
しかし、百人隊長は答えた。
「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
9
と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
10
イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
13
それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。2017)とあります。

 本題に入る前に、12節の、「しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」という箇所にいついて述べておこうと思います。
「御国の子ら」は、10節のイスラエル11節のあなたがたで分かるように、神が支配している地上の国イスラエルを指しています。
おそらくこの時にイエス様の話を聞いていたイスラエル人の群衆たちは、イエス様をメシア、神のひとり子、救い主、主であると信じている人はいなかったのだろうと思います。イエス様は一瞬にして人の内側をも読み取りますから、この時、この様に言われたのではないかと思います。

 11節には、“あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。”というイエス様の御言葉があります。
ここに記されているのは、「天の御国」、すなわち「天の神の王国」のことです。

 参考になる箇所が、ルカ1322-30に次のように記されています。
“22
イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
 23 すると、ある人が言った。
「主よ、救われる人は少ないのですか。」
 イエスは人々に言われた。
24
「狭い門から入る〔イエス様を信じる、すなわちイエス様を心にお迎えする(筆者挿入)〕ように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
25
家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
26
すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
27
しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち〔イエス様が神のひとり子の御子であられ、主であられ、救い主であられることを信じ従わない者たち(筆者挿入)〕、みな私から離れて行け。』
28
あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
29
人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
30
いいですか、後にいる者〔異邦人で主を信じた人(筆者挿入)〕が先になり、先にいる者〔イスラエル人(筆者挿入)〕が後になるのです。〔ローマ9-11章、ゼカリヤ12章、エゼキエル37章参照(筆者挿入)〕」2017)とあります。

 29節の「神の国」の箇所は、「天の」という語がありませんから、ここではキリストの千年王国のことを言っているのかも知れません。その時になったらわかります。

 さて、今日の本題は、百人隊長の「御言葉信仰」です。
主の御言葉を、単純に素直に信じる者は幸いです。
百人隊長のしもべは癒されました。
主の働きは時間空間を超えるのです。

 12弟子の一人、トマスとイエス様のやり取りがヨハネ20章に次のように記されています。
“24
十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25
そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
 26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28
トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29
イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」2017)とあります。

 トマスは、主の御名によって祈ったわけではありませんでしたが、主は聞いていたのです。そして、ご復活の8日後の主日に弟子たちの集まっていたところに現れ、語られた内容の一部に上記の事柄があったのでしょう。

 私たちの会話も、独り言も、思いも、感情もすべて、主はお見通しです。主に隠せるものは何もありません。主はすべてをご存知ですが、私たちを愛して十字架上で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださり、その後も愛し続けてくださっておられるのです。そして、とこしえに愛してくださるのです。
ある人は詩を作りました。
「御手の中で、すべては変わる賛美へ、・・・」と。

 トマスとは逆に、イエス様のお話を聞いて、イエス様の御言葉を単純に素直に聞いて、自分ができると思う最善のことをした人にマリアという人がいました。
マタイ26章には次のように記されています。
“6
さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「何のために、こんな無駄なことをするのか。9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10
イエスはこれを知って彼らに言われた。
「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」2017)とあります。

 この時の12弟子たちは、これまでに、イエス様から十字架と復活の預言を聞いてはいましたが、信じることも悟ることもできていなかったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御言葉を単純に素直に信じ続ける者であらせてください。
あなたは、あなたの御計画の中にあって、あなたの御言葉を成就なさいますから御名を賛美いたします。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月23日 (月)

不当な世界と、神のことばで心の満たされる人と満たされない人

 箴言132325には次のように記されています。
“23
貧しい者の耕地に、多くの食糧があっても、それは不当に取り去られる。
25
正しい人は食べてその食欲を満たし、悪しき者は腹をすかせる。2017)とあります。

 出エジプトしたイスラエルの民は、神ヤハウェ(主)と契約を結び、神がイスラエルを統治するところの神権国家として出発しました(出エジプト20-248)。
それはイスラエルが初代の王サウルを立てるまで、すなわち預言者であり士師であった神の人サウルの時代まで続きました。この時迄のイスラエルの王はヤハウェ(主)であったのです。その時迄の税金はとても低いものでした。
神が神の代理者である士師を立てていた時代までは、箴言1323に記されているようなことはなかったのです。

 しかし、イスラエルは神ヤハウェ(主)ではなく人間の王を立ててくれとサムエルに要求しました。神ヤハウェ(主)は、サムエルにそれを受け入れるように言いました。その際、王がどの様なことをするかを神ヤハウェ(主)は、サムエルを通して次のように教えました。
 1サムエル811b-18には次のように記されています。
8 ・・。あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
12
また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。
13
また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。
14
あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。
15
あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。
16
あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。
17
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。
18
その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたがたに答えはしない。」(2017)とあります。

 イスラエルは人間の王を立てたときから、同じ民族の人による搾取が始まったのです。

 この世は、神ヤハウェ(主)による直接統治ではありません。
アダムの堕罪によって、私たちアダムの末裔は、サタン(悪魔)が支配している経済環境の中で生活しています。
どうしてそのように言えるのかというと、1ヨハネ519に次のように記されているからです。
世はくまなく悪しき者のもとに置かれている19節抜粋・岩波訳)
世全体は悪い者の支配下にあること19節抜粋・2017)とあります。
「悪しき者」、「悪い者」と訳されているギリシア語原語は「トー ポネイロー」で、訳されている如き意がありますが、「トー ポネイロー」は、the devil という意に訳されることもあります。

 イエス様が悪魔(サタン)の試みを受けた時のことがルカ41-13に記されていますが、その中の6節に、「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。」(2017)というサタンの言葉あります。
その時、イエス様は、それを否定しませんでした。

 しかし、ヨブ記1章や復活後のイエス様の御言葉(マタイ2818)で分かるように、この世に対するサタンの支配は神ヤハウェ(主)の許可の下にあることが分かります。
世界経済については、サタンの支配をヤハウェ(主)は、認めているようです。
それ故、箴言1323の「貧しい者の耕地に、多くの食糧があっても、それは不当に取り去られる。」という聖句に記されているようなことを世界中で見るのです。
この聖句は、会社勤めをしている人にも当てはまります。個々人が働いた故に生み出されている利益の一定の部分を取り上げられるのです。それは共産主義でも同じです。地位の高い人は相当好き勝手なことをしているようでありますから。国家の搾取も同じです。日本の場合には、所得税、住民税、消費税はだれにでもかかってくるでしょう。一部の税を免れる人もいますが。
キリスト様が、キリストの千年王国を統治なさる時には、サタンの支配ではなく、キリスト様の支配ですから、色々変わることでしょう。

 現代でも、霊的分野においては、キリスト・イエス様を主とした人たちは、サタンの支配ではなく主イエス様の支配の下にありますから感謝です。
1
ヨハネ519に、私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にある19節抜粋・2017)と記されているとおりです。

 箴言1325に、“正しい人は食べてその食欲を満たし、悪しき者は腹をすかせる。”とありますが、霊的な意味においては、この聖句は成就しています。
正しい人、すなわち主を畏れ敬い、キリスト・イエス様を主とし、主に従う人は、霊の糧であるみことばのパンを食して満足することができるのです。
しかし、悪しき者、即ち主を蔑ろ(ないがしろ)にし、主に従わない人は、聖書の言葉を読んでも満たされることはなく、まさしく豚に真珠で、御言葉に対して怒ってくる場合もあるのです(マタイ76)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御支配の下に置かれておりますことを感謝します。
あなたは、ピリピ419に約束されているように、私たちの必要を満たしてくださるお方ですから御名をほめたたえます。
日々霊の糧と肉体の糧を与えてくださいますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月22日 (日)

主を畏れ敬い主に信頼する人の幸い

 詩篇2511-15には次のように記されています。
“11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの御名のゆえに私の咎をお赦しください。それは大きいのです。
12
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を恐れる〔「畏れる」(聖書協会共同訳)〕人はだれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
13
その人のたましいは幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ。
14
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分を恐れる〔「畏れる」(聖書協会共同訳)〕者と親しく交わり、その契約を彼らにお知らせになる。
15
私の目はいつも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に向かう。主が私の足を罠〔直訳「網」(欄外注)〕から引き出してくださるから。2017)とあります。

 11節をリビングバイブルは、「しかし、主よ。
私はなんと数多くの罪を犯していることでしょう。
ああどうか、御名のために私をお赦しください。」と訳しています。

 この様に祈る人に対してヤハウェ(主)は次のように語ってくださることでしょう。
イザヤ5715.16には次のように記されています。
“15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。16 わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊〔ヘブライ「ルーアハ」(筆者挿入)〕が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息〔ヘブライ語原語は「ネシャマー」(筆者挿入)〕が。2017)とあります。

 神に対してへりくだって神に従う人と、神に対してへりくだることなく神に逆らう人の違いを、上記の箇所が含まれている聖句は次のように記しています。
“14
主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
15
高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。
16
わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように。わたしの造った命ある者が。
17
貪欲な彼の罪をわたしは怒り、彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け〔神に対して背き続け(筆者挿入)〕、心のままに歩んだ。
18
わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ、慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために19 わたしは唇の実り〔聖書協会共同訳は訳者挿入として「賛美」を加え、「唇に賛美の実り」としています(筆者挿入)〕を創造し、与えよう。平和、平和〔平和があるように(聖書協会共同訳)〕、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
 20 神に逆らう者は巻き上がる海のようで、静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。21 神に逆らう者に平和はないと、わたしの神は言われる。(イザヤ57章・新共同訳)とあります。

この箇所をリビングバイブルは次のように訳しています。
“15
永遠を住まいとする高くあげられた聖なる方が語ります。
「わたしは高くて聖なるところに住んでいるが、そこには、心のへりくだった謙遜な人が住む。わたしは謙遜な人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。
16
いつまでもあなたと戦い、怒りをぶつけるわけではない。そんなことをしていたら、私が造った全人類は死に耐えてしまう。
17
わたしは怒って、貪欲な者たちを打った。ところが、彼らは性懲り(しょうこり)もなく罪を犯し続け、思いのままに悪の限りを尽くした。
18
彼らのしわざはこの目で見た。しかし今は、ともかく彼らをいやそう。彼らを導き、慰め、罪を嘆いて告白するように導こう。
19
近くにいる者にも遠くにいる者にも、平安があるように。
わたしは彼らをいやす。20 それでもなお逆らう者は、少しも静まることのない海のようだ。片時も休まず泥を吐き出している。21 そのような者に平安はない。」
こう神は語ります。(イザヤ57章・リビングバイブル)とあります。

 罪からくる報酬は死です(エゼキエル184・ローマ623a)。
赦しの根底には、御父の愛と御子イエス・キリストの贖いがあったことを覚えます(1ヨハネ49.10)。
レビ記の贖罪の規定は、イエス・キリストによる贖罪の予表でした(レビ4.5章)。
しかし罪ある人間には、それらのことを悟ることができません。それらのことを悟ることができたのは、聖霊様が関与してくださったからです。
1
コリント123には、“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。
私たちが救われたのは、三一の神様の御愛の故です。

 詩篇2512-15をリビングバイブルは次のように訳しています。
“12
主を恐れる人はどこにいますか。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。13 その人は神の祝福の中に住み、子孫は地を受け継ぎます。14 神との親密な関係は、主に従う者にしか持つことは出来ません。神はそのような人とだけ、秘密の約束を交わします。15 私の目はいつも助けを求めて、主に向いています。私を救い出せるのは、主おひとりだからです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛とイエス様の贖いと聖霊様の御教導を感謝します。
それ故、私は尊い御救いに与らせて頂けました。
救われた後も日ごとにそして永遠にお導き下さり、養い、祝福してくださいますから感謝します。
あなたの御名を崇めつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年5月21日 (土)

最初からモーセが主に従っていたらどうなったのでしょう

 出エジプト41-17には次のように記されています。
“1
モーセは答えた。
「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
2
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼に言われた。
「あなたが手に持っているものは何か。」
彼は答えた。「杖です。」
3
すると言われた。
「それを地に投げよ。」
彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。
モーセはそれから身を引いた。
4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。
「手を伸ばして、その尾をつかめ。」
彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
5
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」
6
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はまた、彼に言われた。
「手を懐に入れよ。」
彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。
7
また主は言われた。
「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」
そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。
8
「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう〔たとえ最初の奇蹟を信じなくても、二番目の奇蹟は信じるだろう(リビングバイブル訳)〕。
9
もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」
10
モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に言った。
「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
11
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼に言われた。
「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ではないか〔「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なるわたしではないか」(聖書協会共同訳)〕。
12
今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
〔「さあ、ぐずぐず言わず、わたしの言うとおりにしなさい。はっきり話せるように助け、何を話すかも教えよう。」(リビングバイブル訳)〕
13
すると彼は言った。
「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
14
すると、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。
「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」2017)とあります。

 ここに記されているお話の前に、モーセは、柴が燃えているのに燃え尽きないという奇跡を見せられ、主の使い{「主の使い」は主であり神である御子(出エジプト32,5.6.7参照)です。神は三位一体であり、ヤハウェ(主)は神の呼称です。}に声をかけられ、モーセに現れたのは、モーセの先祖の神であるヤハウェ(主)であると告げられたのです(31-6)。
 
 続いてモーセは、ヤハウェ(主)から派遣命令を受けました。
その内容は、奴隷としてこき使われ、苦しんでいるイスラエルの民をファラオから解放し、カナンの地に導き上れ、というものでした(37-10)。

 それに対して、モーセは、私には出来ない、と答えます。
モーセの答えに対して、ヤハウェ(主)は、「わたしが、あなたとともにいる。」から、と答えたのです(311.12)。

 ヤハウェ(主)に命令されても、その命令を遂行する自信のないモーセは、更にヤハウェ(主)に食い下がりました(313)。
その結果モーセは、さらなる真理を教えて頂きました。ヤハウェ(主)は、イスラエルの先祖の神であり、永遠に存在しておられるお方である、という真理です(314.15)。

 その上で、再度、モーセに派遣命令を下すとともに、ファラオやエジプト人がヤハウェ(主)に取る態度がどのようなものであるのかということをも含めてモーセに話したのです(315-22)。

 ヤハウェ(主)がそこまでしても、モーセは素直に従えませんでした。
その後のことが出エジプト41-17に記されていたのです。

 モーセは、主の最善に従うことができませんでした。
主を見ないで、即ち主に全面的に信頼するということをしないで、自分を見てしまったからでした。 
主は、常に最善をなさってくださり、最善の御言葉をかけてくださったのに、モーセは、主の最善の方法を選択できず、主の次善の策を受け入れたのです。

 自分自身のことを振り返っても、主の最善をどれだけ選択できただろうかと考えます。次善か、三善か、四善か、・・というのが私の選択の歴史でした。
神である主が言われた通りに常に従うことができたならば、何と幸いなことであっただろうかと思います。
もっとも、歴史を振り返っても、躊躇なく常に最善を選べた人は、誰もいないことは明らかです。何の疑いを持つことなく御言葉通りに歩めた人はいないのですから。

 後に神である主は、モーセをどのように見てくださったでしょうか。
ヘブル11章には次のように記されています。
“24
信仰によって、成人したモーセは、ファラオの娘の子と呼ばれるのを拒みました。
25
モーセは、罪のはかない快楽に 耽るよりは、むしろ神の民とともに虐待されることを選びました。
26
また、メシア〔「油注がれたもの」の意。油は聖霊の象徴。新約の表現は「キリスト」(筆者挿入)〕の辱めを、エジプ トの財宝に勝る富と思いました。彼は、与えられる報いから目を離さなかったからです。
27
信仰によってモーセは、王の怒りを恐れず、エジプトを去りました。彼は、見えない方を見ていたかのようにして、耐え忍んでいたからです。(フランシスコ会訳)とあります。

神である主は、良いところを取り上げて見てくださるお方のようです。
なんと有り難いことでしょう。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたの御旨に従って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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