日ごとの恵みⅧ

2022年10月31日 (月)

キリストの死と復活の予表としてのヨナのしるしとさばきの一端

 マタイ1238-42には次のように記されています。
“38
 その時、律法学者とファリサイ派の人々の何人かがイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
39
 イエスはお答えになった。
「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
40
 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
41
 裁きの時には、ニネベの人たちが今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。だが、ここに、ヨナにまさるものがある。
42
 裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここに、ソロモンにまさるものがある。」(聖書協会共同訳)とあります。

 この箇所をリビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“38
ある日、ユダヤ人の指導者とパリサイ人のうちの何人かがやって来て、ほんとうにメシヤ(救い主)なら、その証拠に奇蹟を見せてほしいと頼みました。
39
しかしイエスは、お答えになりました。
「悪と不信の時代に生きる人々だけが、証拠を要求するのです。けれども、預言者ヨナに起こったこと以外は、何の証拠も与えられません。
40
つまり、ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中で過ごしたように、メシヤのわたしも、三日三晩、地の中で過ごすからです。
41
さばきの日には、あのニネベの人々が、あなたがたをきびしく罰する側に立つでしょう。ニネベの人々はヨナの教えを聞いて、それまでの堕落した生活を悔い改め、神に立ち返ったからです。ところが、今ここに、ヨナとは比べものにならないほど偉大な者が立っているのに、あなたがたはその人を信じようとしません。
42
シェバの女王でさえ、あなたがたをきびしく罰する側に回るでしょう。彼女は、ソロモンから知恵のことばを聞こうと、あれほど遠い国から旅して来ることも、いとわなかったからです。ここに、そのソロモンより、もっと偉大な者がいるのに、あなたがたは信じようとしません。とあります。

 救われる前のサウロ(パウロ)は、パリサイ人でした(ピリピ35)。
そのパウロが、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。」(1コリント1222017)と述べています。

 マタイ1238には、ある日、ユダヤ人の指導者とパリサイ人のうちの何人かがやって来て、ほんとうにメシヤ(救い主)なら、その証拠に奇蹟を見せてほしいと頼みました。(リビングバイブル)と記されています。
別にサウロがやって来たわけではありませんが、「救い主の証拠を見せろ」とユダヤ人の指導者とパリサイ人のうちの何人かがイエス様のもとに来たのです。

 この人たちは、イエス様が、様々な病気の人を癒し、悪霊を追い出し、御言葉を語っていたのに、それでも信じなかった人たちです。
旧約最大の預言者とイエス様に言われたバプテスマのヨハネでさえ、投獄された後、イエス様が本当に「主」であるのかということに確信を失いました(聖書解釈上のこともあったでしょうが)。
その時に、バプテスマのヨハネは、弟子をイエス様のもとに遣わして、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ1132017)と質問させたのです。
その時、イエス様が使いの者に答えたのは、「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイ114-62017)という御言葉でした。

 バプテスマのヨハネは、主イエス様のお答えを思いめぐらして納得したのではないかと思います。
しかし、パリサイ人たちは、同様のことを見聞きしていても納得しなかったのです。

 イエス様を信じることは、その人の意志だ、という人が多いですが、最近の脳科学は、人が意志を決定する前に、その人の選択が決定されている、ということを見出しています。
聖書にはどのように記されているのでしょう。
エペソ28には、“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017)と記され、
この節をリビングバイブルは、あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)なのです。と意訳しています。

 全知全能である神、宇宙を創られた神、地を創られ、その中の生けるものを造られた神、人間の肉眼では通常見ることの出来ない天使たちを造られた神、・・・ですから、人間が神のすべての考えや力を知ろうとしても無理な話です。
主はモーセに言わせました。
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」(申命記29292017)と。

 さて話を進めます。
ヨナのしるしとは、イエス様が地に葬られ、復活されることの予表であったのです。
40
節には、「つまり、ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中で過ごしたように、メシヤのわたしも、三日三晩、地の中で過ごすからです。」(リビングバイブル)というイエス様の御言葉が記されています。ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中で過ごしたことはヨナ書2章に記されています。

 どうしてヨナ書が旧約聖書に入っているのか、その最大の理由は、キリストの予表が記されているからだと思います。勿論、それ以外にも多くのことをヨナ書は教えてくれていますが。

 ユダヤの表現では三日目にかかることも三日三晩と表現します。三日三晩だからと言って72時間を意味するわけではありません。
イエス様の霊のことではなく肉体のことですが、イエス様は、金曜日の午後3時に肉体の呼吸と心拍が止まり、その後墓に納められ、日曜日の早朝に復活されました。もしも復活されたのが朝の5時だと仮定したら死んだ肉体であったのは39時間です。ユダヤでは、これでも三日というのです。

 さて、また話を進めますが、
42
節には、“裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。”とあります。
その理由は、遠くからヤハウェ(主)のことばを聞きに来たからです。
ソロモンが語る神のことばを南の女王(シェバの女王)は喜んだのです。
そして、主を賛美したのです(1列王記109)。

 聖徒たちは、裁判官になるときが来ます。
1
コリント62には次のように記されています。
聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。2017)と記されています。

 42節には、「しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(新改訳第三版)というイエス様の御言葉が記されています。
コロサイ115-17には次のように記されています。
“15
 御子は、見えない神のかたちであり、すべてのものが造られる前に、最初に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られたのです。17 御子は万物よりも先におられ、万物は御子にあって成り立っています。(聖書協会共同訳)とあり、
 同じ個所をフランシスコ会訳は、
“15
御子は目に見えない神の似姿であり、すべての造られたものに先立って生まれた方。
16
それは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座の霊も主権の霊も、支配の霊も権威の霊も、すべてのものは御子のうちに造られたからであり、すべてのものは御子を通して、御子へ向けて造られているからである。
17
御子はすべてに先立つ方、すべてのものは御子のうちにあってこそ存続できる。と訳しています。

 そして、御子はキリスト者の総体である教会(エクレシア)の花婿です。
救われていない人が聞いたら荒唐無稽に思うことでしょう。
新生したキリスト者は、神の恵みによって、「アーメン」と言うことができます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御計画と大いなる恵みを感謝します。
私たちは、とこしえに御名をほめたたえます。
感謝しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月30日 (日)

破滅に向かう人と幸いを得る人

 箴言1719の前半部分を、
新改訳2017は「背きの罪を愛する者はけんかを愛する」と訳し、
新共同訳は「罪を愛する者は争いを愛する」と訳し、
聖書協会共同訳は、「背きを愛する者は争いを愛する」と訳し、
リビングバイブルは「罪びとは争いが大好きで」と訳し、
口語訳は、ヘブライ語の文を後ろ側から訳し、「争いを好む者は罪を好む」と訳しています。

 「背きの罪」(新改訳)、「罪」(新共同訳)と訳されている語の原語は「ペシャ」で、原義は、(国家or倫理or宗教等)に反発する、・・という意で、反乱、反抗、罪、等の意に用いられます。
聖書で、「背きの罪」と訳したときには、神に従わないこと、を示しているのだと思います。

 「けんか」(新改訳)、「争い」(新共同訳)と訳されている語の原語は「マツァー」で、言い争い、口論、口喧嘩等の意があります。

 この聖句の反対を考えると、「神に従うことを求めるものは、愛し合うことを求める」となるのではないでしょうか。
イエス様は言われました。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13342017)と。

 この節の後半部分を、
新改訳2017は「自分の門を高くする者は破滅を求める。」と訳し、
リビングバイブルは「高ぶる者はもめごとを探し求めます」と訳し、
岩波訳は「戸口を高くする者は、破滅を求めている〔ことになる〕。」と訳しています。{〔  〕内は訳者挿入}

 岩波訳の注は、「戸口を高くする者」について、「文字通りの意味には取りにくい。人付き合いの悪い人を言うのか、『戸口』は『口』の比喩で、高慢な口のきき方をする者の意味か。いずれにせよ、人間関係が壊れる原因について語る。」と述べています。


 新約聖書には「あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく欲望から起こるのではありませんか。」(ヤコブ4:1・聖書協会共同訳)とあり、「争い」は「肉」の働き(ガラテヤ5:19.20・口語訳)と記されています。


 箴言17:19の後半部分は、関係悪化の原因として「高慢」をあげています。対神的にも対人的にもへりくだって歩むことの大切さを教えてくれています。


 争いの反対の平和は、対神的に、対人的に、へりくだって歩む者達の中に見いだされるのでしょう。

ピリピ23には、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれたものと思いなさい。」(新改訳2017)とありますから、すべての人に他者よりもすぐれたものがあり、また劣っているものがあるのだろうと思います。主がその様に人をつくられたのでしょう。

 今日の箇所をわたしの言葉で言い換えると、
「まことの神様や人に対して争いを好む人は痛い目に会うこともあれば死ぬこともあるよ。まことの神様や人に対して高ぶっている人は滅びを求めるのと同じだよ。」ということになります。

 反対に、「まことの神様に対して従順な人は、神様から多くの恵みを受け、人に対して柔和な人は、その人の周りがあたたかくなるよ。神様に対してへりくだっている人は神様に喜ばれ、人に対してへりくだっている人は、馬鹿にされるかもしれないけれども争いはあまりないよ。」となります。

 本当にへりくだっている人は、「お前は馬鹿だ」と言われても怒りません。
イエス様は、さんざんひどいことを言われ、苦しい目に遭わされたのに、十字架につけられた状態で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのか分かっていないのです。」(ルカ2335・リビングバイブル)と祈られたのです。

 ピリピ23の聖句を先に記しましたが、再度この聖句をも含めてピリピ23-8の聖句を下記します。
“3
何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4
それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
6
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
柔和でへりくだって歩む者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月29日 (土)

罪から来る体調不良・罪責感/罪の赦し

 詩篇381-8には次のように記されています。
記念のためのダビデの賛歌
1
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください。
2
あなたの矢が私に突き刺さり、御手が私に激しく下りました。
3
あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ、私の骨には健全なところがありません。
4
私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって担いきれません。
5
私の傷は、悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。
6
私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩き回ります。
7
私の腰は火傷でおおい尽くされ、私の肉には、どこにも完全なところがありません。
8
私は衰え果て、砕き尽くされ、心もだえて、ほえ叫んでいます。2017)とあります。
(文語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は、表題を1節としているので、新改訳2017の節に比して1節ずつずれています。)

 最初にお断りしておきたいのは、本人の罪ではないのに、病弱に生まれ、あるいは病気をもって生まれてくる人がいます。また、体の不具合が神の栄光のためである場合もあります(ヨハネ91-3)。

 エバとアダムの時代、まだ子孫ができる前にこの二人が罪を犯しました。その結果、人は死ぬことになったのです。(創世記3章)
神であるヤハウェ(主)が、人を造ったときの遺伝子は、人祖の罪により変化してしまったのです。

 現代では、様々な要因で遺伝子に傷がつき遺伝子の変化が起こることがわかっています。
紫外線による遺伝子変異の故に癌になった場合、それはその人の罪だとは言えないでしょう。
生まれつき心臓の器質的変化があり、そのために生まれながらに心不全状態であったとしたら、その赤ちゃんに罪があったとは言えないでしょう。
書いていくときりがないですが、この詩篇38篇の場合は、ダビデが犯した罪の故の状態であるとダビデが書いています。

 当ブログの詩篇381-8の箇所を少し修正して引用します。
この38篇はバテ・シェバ事件に関連した悔い改めの詩の中の一つと考える人が多いようです。私も同意見です。
ダビデは、バテ・シェバ事件(2サムエル11章)を引き起こした結果、バテ・シェバとの姦淫の罪とバテ・シェバの夫である模範的な忠信の部下に対する殺人教唆の罪(殺人罪)の故に、ダビデは激しい良心の呵責にさいなまされたのです。その結果、この詩篇38篇に見られるような状況に陥ったと私は考えます。
 この事件を起こす前のダビデは、極めて困難な状況に置かれ続けても、ガテの王マオクの子アキシュのところへ下って寄留したこと(1サムエル2729章)を除いては、いつも神様により頼み、ほぼ模範的な歩みをしてきたのではないかと思います。
ダビデがイスラエルの王に就任してから、神様は、王としてのダビデを助け、イスラエルも完全ではありませんが安泰になってきて、ダビデの気が緩んだ時に、バテ・シェバ事件は引きおこされたのです。

ゆとりが出来た時は注意する必要があることを教えられます。

いつも神様から為すべきことを与えられて歩んでいる時は幸いです。いつも神様に祈りながら、助けて頂きながら歩んでいかなければならないのですから。

病気や経済的困窮、困難な人間関係等々の中に置かれて、神さまに頼るしかないときも、ある意味幸いです。そのことの故に信仰から離れることなく、益々信仰を成長させて頂ければ感謝なことです。と以前のこの箇所のブログに記しました。(数か所改定)

 6節には、“私は身をかがめ、深くうなだれ、一日中嘆いて歩き回ります。”と記され、私たちは、ダビデが歩き回れる状態であることがわかります。
そういう状態であれば、3節の「私の骨には健全なところがありません。」という箇所を読んだとき、体のあちこちの骨が骨折している、という状態ではなく、体がシャンとしない状態であろうと想像できます。
同様に3節の「私の肉には完全なところがなく」というのは、体に力が入らない、ということを言っているのではないかと思います。
5
節には、「私の傷は悪臭を放って腐り果てました。」とありますが、これも皮膚が化膿したり潰瘍になったりして、というのではなく、心の傷ではないかと想像します。
7
節には、「私の腰は火傷でおおい尽くされ」というのも、その箇所に熱感を感じるということではないかと想像します。

 詩篇38篇を更に読み進めると、17.18節には次のようなダビデの告白があります。
“17
私はつまずき倒れそうで痛みが絶えずともにあります。18 私は自分の咎を言い表します。自分の罪で不安なのです。2017)と記されています。

 ここまで読んでくると、罪から起こった諸症状であることがよりよくわかります。
罪責感が体に表れて色々な症状が出ているのです。

 ダビデは、「私は自分の咎を言い表します。」(18)とヤハウェ(主)に言いました。そして更にダビデは、「21 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠く離れないでください。22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。」(2017)と祈っています。

 ダビデはこの詩の最後に、「主よ、私の救いよ。」と叫んでいますが、このお方こそ、主であり救い主であるイエスという御方であるということが、新約聖書には明確に記されています。
天使ガブリエルは、ヨセフに、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ120.212017)と語っています。

 イエス様の十字架の贖いの故に、私たちは、罪を告白すれば赦されます。
罪を示されたときには、すぐに1ヨハネ19の聖句を思い出して祈る必要があります。
1
ヨハネ19には、“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたは、天地創造の前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたお方です(エペソ14)。
それ故に、あなたの御旨に反することをした時には、それを示し、悔い改めの告白の祈りを祈らせてくださり、きよめてくださいますから感謝します。
益々、あなたを愛する愛を与えられ、あなたにより頼み、あなたの御旨の内を歩むことができますよう祝福してください。
あなたの御旨から外れたときには、すぐに教えてくださり、直ちに御聖霊が祈りを導いてくださいますように。
感謝しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月28日 (金)

神の御言葉よりも肉の目で見える内容を信じる人達と肉の目で見えていることをわきまえながら神の御言葉を信じる人達のその後/キリスト者の恵み

 民数記13章、14章は、12人の斥候派遣に基づく信仰・不信仰の話とその結果です。民数記131-24には、イスラエルの12部族の各かしら達が、ヤハウェ(主)が与えると約束された地であるカナンの地がどの様な所であるかを見てくるように、と遣わされたことが記されています。

 少し前のことになりますが、この時代のイスラエル人たちは、金の子牛を造り、それを礼拝した者が多く、主に打たれた者たちもいたのですが、この偶像作成と偶像礼拝の事件の後、そしてヤハウェ(主)とモーセの間でやり取りがあった後に、ヤハウェ(主)は、モーセに次のように語られました。
“10
・・・。「このとおり、私は契約を結ぼうとしている。私はあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは、あらゆる地のいかなる国民の中でも行われたことのないものだ。あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。私があなたと共にあって行うことは恐るべきものである。11 私が今日あなたに命じることを守りなさい。見よ、私はあなたの前からアモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。/以下26節まで続く。」(出エジプト34章・聖書協会共同訳)と記されています。

 さてカナンの偵察派遣から40日後に帰ってきた12人の報告で、全員に共通していた内容は、カナンの地は、乳と蜜(milk and honey)の流れる地〔自然の資源の豊かな土地(注解付新改訳聖書の注)〕であり、そこの果物は非常に大きいものであったということです(民数記1323.27)。

 派遣された12人の言葉は2種類に別れました。
1.神の御言葉よりも肉の目で見える内容を信じる報告者たち(不信仰な人たち)の言葉
「ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫〔背が高く強大な民(筆者挿入)〕を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。/・・・あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。・・・私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」(民数記1328.29.31-332017
 余談になりますが、「ネフィリムの末裔アナク人」という解釈は眉唾です。何故なら、ノアの洪水で滅ぼされたのですから(創世記6-8章、ルカ17272ペテロ25)。

2.肉の目で見たことをよく理解しつつも神の御言葉を信じている報告者の言葉
「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」(民数記13302017

 信仰者と不信仰者の言葉を聞いたイスラエルのほぼ全部の人たちの反応とその言葉が民数記141-4に次のように記されています。
“1
すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
2
イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。
「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。3 なぜ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
4
そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」2017)とあります。

 12人がカナンの地に派遣されましたが、主の御言葉に従う意志を強く持っていたのはヨシュアとカレブの二人だけでした。
その二人は全会衆に次のように言いました。民数記146-9には次のように記されています。
“6
すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、7 イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。
「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。8 もし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。9 ただ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」2017)という内容の信仰に立ったすばらしい言葉でした。

 しかし、会衆の中に信仰に立つ人たちは起こらなかったのです。
それどころかイスラエルの全会衆は、ヨシュアとカレブの二人を石で打ち殺そうと言い出したのです(民数記14102017)。

この危急の時に、ヤハウェ(主)の栄光が現れました。
そして色々とあった後、その最後の結論は次のようになったのです。
民数記1426-38には次のように記されています。
“26
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセとアロンに告げられた。
27
「いつまで、この悪い会衆は、わたしに不平を言い続けるのか。わたしは、イスラエルの子らがわたしにつぶやく不平を聞いた。28 彼らに言え。わたしは生きている──主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。
わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。
29
この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。
30
エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。
31
おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえたちの子どもについては、わたしは彼らを導き入れる。彼らはおまえたちが拒んだ地を知るようになる。
32
しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。
33
おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。
34
おまえたちが、あの地を偵察した日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間おまえたちは自分の咎を負わなければならない。こうして、わたしへの反抗が何であるかを思い知ることになる。
35
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるこのわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ずこうする。この荒野で彼らは死に絶える。
36
また、モーセがあの地の偵察のために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆にモーセに対する不平を言わせた者たちもだ。」
37
こうして、その地を悪く言いふらした者たちは、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に疫病で死んだ。
38
しかし、あの地を偵察しに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブは生き残った。2017)とあります。

 イスラエルへの約束の地はカナンでしたが、キリスト者の場合の約束の地は天にある神の王国です。
この世の旅路では様々なことが起こります。
イエス様は言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16332017)と。
困難に遭遇しても、いつも主に信頼し、主の御言葉を信じて歩み続けることを主は望んでおられます。

 パウロはローマの信徒への手紙8章に次のように記しました。
“31
 では、これらのことについて何と言うべきでしょう。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。
32
 私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
33
 誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
人を義としてくださるのは神なのです。
34
 誰が罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。
35
 誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。
苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。/
37
 しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります〔されど凡(すべ)てこれらの事の中にありても、我らを愛したまふ者に頼(よ)り、勝ち得て餘(あまり)あり(文語訳)〕。
38
 私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39 高いものも深いものも〔高い所にいるものも、深い所にいるものも(フランシスコ会訳)〕、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
つくづく新約の恵み、主イエス様の十字架と復活の恵みのありがたさを思い、感謝します。
イエス様は、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ1027-292017)と語られました。
なんという恵みでしょう。
三一の主なる神様に大いなる感謝をささげます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月27日 (木)

言葉と行為と心とさばき

 マタイ1233-37には次のように記されています。
“33
木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。
34
まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。
35
良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
36
わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
37
あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」2017)とあります。

 34節の「まむし」と訳されている語のギリシア語原語は「エキドゥナ」で、クサリヘビ及び他の毒蛇の意です。クサリヘビ科の中にまむし亜科があります。
この箇所を、多くの日本語訳聖書は「まむし」と訳していますが、聖書協会共同訳は「毒蛇」と訳しています。

 主イエス様が、この箇所を語られる前に、マタイの福音書では、主イエス様や御聖霊に対するパリサイ人たちの言葉での攻撃がありました。その内容は誤りのあるもので、それを信じた人はその毒にやられたのです。

 主イエス様は、偽預言者を見分ける方法の時にも、悪い木の実を見分けるようにと語られました。それは、マタイ715-20に次のように記されています。
“15
偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16
あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17
良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18
良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19
良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20
こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。2017)とあります。

 木、木の実、倉等は比喩で、悪い心からは悪い言葉や行動しか出て来ませんよ、ということをイエス様は語られました。

 イエス様の昇天後には、悪魔悪霊は、イエス・キリストの福音を変容しようとしています。
悪魔は、堕罪する前は大天使でしたから、天使の世界のこと、神様のことをよく知っています。そして、光の天使を偽装することもあるのです。
 2コリント1114には、・・驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。”(新共同訳)と記されています。
サタンは、色々な方法を取りますが、2コリント11章の箇所でパウロが述べている内容のポイントは、偽の福音、異なった霊を受け入れることに関してのことです(2コリント114)。
14
節がダブりますが、2コリント1113-15を下記します。
“13
こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
14
だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
15
だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。(新共同訳)とあります。

 現在でも世界はかなり混乱してきました。異常気象や戦争、飢餓、物価の高騰、民族間の対立、・・・等々、色々あります。
携挙の後には、もっとひどいことになっていくのです。
その時反キリスト(メシア)が登場しますが、おそらく最初は、世界に平和をもたらす人として振る舞うのです(黙示録62)。そして、世界をリードしていくのです。その人が本性を表すのは、キリストの地上再臨の3年半前です(マタイ2415、ダニエル927、黙示録131-9)。この反キリストについているのは悪魔(サタン)です。

 
聖書をよく読み信じていれば、何が偽りなのかを見抜くことができるでしょう。

 イエス様は、「わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。」(マタイ1236)と語られました。

 この基準で裁かれるのですから、だれ一人無罪の人はいないでしょう。
しかし、イエス・キリスト様は、私たちの悪しき言葉をも含めて、私たちのすべての罪をその身に負って、十字架上で罪の罰を受けてくださいました(1ペテロ224)。
ですから、イエス様を信じる者は、罪に定められることがなく義と認められるのです(ローマ322)。
イエス様は「完了した。」と言われました(ヨハネ1930)。贖いが完了したのです(エペソ17)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私の今までの生涯を振り返ると、無益な言葉をどれだけ発してきたのか、数が多くて数えることさえできません。
そして、言葉によって多くの人を傷つけてきたことでしょう。
自分では覚えていなくても、傷つけられた人は覚えていることでしょう。
御父の愛とイエス様の贖いと聖霊の導きがなければ、私は火の池に投げ込まれたことでしょう(黙示録2015)。
そのような者が、キリスト・イエス様を信じさせて頂き、罪を赦されたのです。
三一の神様に感謝します。
御名をほめたたえつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月26日 (水)

祈りもせず軽々しく保証人になるな

 箴言1718には、“良識のない人は、すぐ誓約をし、隣人の前で保証人となる。”(新改訳2017)とあります。

 「良識」と訳されている語のヘブライ語原語は「レーブ」でheart”(心)で、知・情・意の意を持ちます。
ちなみに「心臓」のヘブライ語原語は「レーバーブ」で、「レーバーブ」には、「レーブ」の意もあります。

 今日の聖句の中の「レーブ」(心)をどう捉えるかによって色々な訳が生まれます。
「レーブ」(心)をいくつかの日本語訳聖書はどのように訳しているのでしょうか。
「知恵」(口語訳、文語訳)
「思慮」(リビングバイブル新版、新改訳初版~第三版、フランシスコ会訳)
「考え」(リビングバイブル旧版)
「意志」(新共同訳)
「良識」(新改訳2017

 ヘブライ語の文は、アダム(人) ハーセール(欠けている) レーブ ・・・となっています。
聖書協会共同訳は、「ハーセール(欠けている) レーブ」の箇所をまとめて、「浅はかな」と訳しています。

 2017が「直ぐ誓約をし、隣人の前で保証人となる」と訳した箇所を、
新共同訳は「手を打って誓い、その友のために証人となる」と訳し、
聖書協会共同訳は「手を打って誓い、友の前で保証人となる」と訳し、
フランシスコ会訳は「手を打って、隣人の保証人となる」と訳し、
口語訳は「手をうって、その隣り人の前で保証をする」と訳し、
文語訳は「手を拍てその友の前にて保證をなす」と訳し、
リビングバイブルは「きやすく保証人になり、他人の借金の責任を負います」と訳しています。

 ヘブライ語原語の文には、「ターカー カフ(手)」(手を打って)という語が入っています。イスラエルでは誓うときには手を打ったようです。

 連帯保証人になって、土地と家屋を手放さなければならなくなった人を数人知っています。
私の知り合いは、気持ちの良い人です。でも財産を失いました。

 簡単に保証人となる人は、私の経験では、知識がないからではなく、情に脆(もろ)く、意志が弱い場合が多いのではないかと思います。
 今日の聖句では、「レーブ」の欠けた人は、となっていました。
レーブは「心」ですから、知・情・意のどれでもよいし、全部でもよいわけです。

 箴言61-5には次の様なことが記されています。
“1
わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他人のために誓約をし、2 自分の口のことばによって、自分が罠にかかり、自分の口のことばによって、捕らえられたなら、3 わが子よ、そのときにはすぐにこうして、自分を救い出せ。
あなたは隣人の手に陥ったのだから。さあ行って、伏して隣人にしつこくせがめ。4 あなたの目を眠らせず、そのまぶたにまどろみを与えるな。5 自分を救い出せ。かもしかが狩人の手から逃れるように、鳥がそれを捕る者の手から逃れるように。2017)とあります。

 キリスト者は、どのような場合にも主に祈ることができます。
主に祈り、主から御言葉を頂いて事を為していったら良いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
いつでもどの様なことでも、先ずあなたに祈りをささげてから事を行うようにすることを忘れませんように。
特に、大切なことに関しては御言葉をください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月25日 (火)

救いは主に求める

 詩篇3739.40には次のように記されています。
“39
正しい人の救いは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から来る。苦難のときの彼らの砦から。
40
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らを助け解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち彼らを救われる。彼らが主に〔原語は「彼に」(筆者挿入)〕身を避けているからだ。2017)とあります。

 新約時代のキリスト者としてこの箇所の聖句を考えていきます。

 39節の「正しい人」の箇所を新共同訳は「主に従う人」と訳しています。
主に従う人は、正しい人です。それは間違いのないことです。
しかし、人間は弱いのです。人祖アダムの子であるセツの子にエノシュ(エノーシュ)と名づけられた人がいます。「エノーシュ」という語の意味は、死ぬべき運命の、人間、・・等の意があります。

 時代は下り、主であり、救い主であられるイエス様が現れてくださったのです。
イエス様は突然現れたのではなく、旧約聖書の中にイエス様の預言は多く記されています。
ヤハウェ(主)とは、神の呼称の一つで、永遠にして自存の意があります。
主イエス様は、人の肉を纏(まと)う以前から永遠の神です。
 ローマ93-5には次のような聖句があります。
“3
私〔パウロ(筆者挿入)〕は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞〔イスラエル人たち(筆者挿入)〕のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
4
彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。5 父祖たちも彼らのものです。
キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です2017)と記しています。

 主イエス・キリスト様は、私たちに永遠のいのちを与えるために十字架にかかられ、そしてよみがえられたのです。
主イエス様を信じた者は、イエス様の十字架の故に、すべての罪が赦されました。そして、イエス様の御復活のゆえに、主イエス様を信じた者は、霊においては新生させていただき(ヨハネ33.61ペテロ13)、魂は救われ(1ペテロ18.9)、体の部分は定めの時(主キリスト・イエス様の現れの時=空中再臨の時)に霊の体を頂戴するのです{すでに天に行っている霊たちは霊の体を頂き(復活し)、その時地上にいる人は霊の体に変えられるのです}(1コリント1549-521テサロニケ416.171ヨハネ32)。

 父なる神様は、キリスト・イエス様を信じた者を正しい人と見てくださったのです(ローマ326)。
イエス様が私たちの義となってくださいました。
1
コリント130には、・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(新改訳第三版)と記されています。

 さて今日の本題に入ります。
詩篇3739.40には、
“39
正しい人の救いは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から来る。苦難のときの彼らの砦から。
40
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らを助け解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち彼らを救われる。彼らが主に〔原語は「彼に」(筆者挿入)〕身を避けているからだ。2017と記されている。
 この御言葉を信じ切って生活する人は、自分に対してなされる主の御業を数多く見ることができるでしょう。

 苦難にあった時には、先ず主に信頼して主に祈ることから始めることが大切です。
いきなり人やお金やその他のものに考えがいってしまっては、主はお喜びにならないでしょう。主は、「わたしがここに居るのになー」と残念に思うことでしょう。

 40節には、“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らを助け解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち彼らを救われる。彼らが主に〔原語は「彼に」(筆者挿入)〕身を避けているからだ。2017と記されています。

 第二次世界大戦中、イムマヌエル教団創設者の蔦田二雄(つぎお)牧師は信仰の故に投獄されました。投獄された当初はひどい扱いであったそうですが、日が経ち、看守が次のように言ったそうです。「先生、今度、私に子供が生まれます。名前を付けてくださいませんか」と。
そのような時点での看守の扱いは、最初とは異なっていたことでしょう。それにしても素晴らしい獄中の証しです。

 第二次世界大戦中、私の義妹の祖父は、信仰の故に投獄されました。そして、獄中死しました。主は、この悪の世から天へと移してくださったのです。
主の現れを待ち望み(ヘブル928)、日々主に祈りを献げている者(ルカ2136)は、携挙の時には一瞬にして天に移されます(1コリント15521テサロニケ416.17)。

 パウロは、ガラテヤ信徒への手紙の最初のあいさつ文の中に次のように記しています。
“3
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和〔「平安」(新改訳、口語訳)〕があなたがたにありますように。
4
 キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。
5
 この神に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。(聖書協会共同訳)とあります。

 40節の中に、悪しき者という語があります。
この世は、悪しき霊に満ちています。
そして、悪しき霊に導かれた人たちが、したい放題のことをしています。
不信仰の霊、妬みの霊、淫らな霊、怒りの霊、物欲の霊、戦う欲望の霊、権力欲の霊、またその他の肉に属するような行為(ガラテヤ519-21)を行わせる霊たちがおおぜいいます。
私たちは、人を見てしまい易いものですが、その人を見るとともに、その人を突き動かしている霊に気づく必要があるのです。
主は、悪しき者から救い出してくださいます。
積極的には、主の御名によって追い出すのも良いでしょう。
それは無理だと思う人の場合は、助けていただけるように祈ればよいでしょう。
祈るのも難しければ主を賛美することです。
主は、悪しき者に対処する方法をいくつも用意してくださいました。
ただし方法ではなく、主が強いからです。主が万物の主権者であるからです。
そのことを忘れてしまっている場合には、勝利できるかどうか定かではありません。
イエス様は言われました。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主を愛し、主に従い、主にあって悪しき霊に勝利し続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「栄の王にます主の」<新聖歌361番、聖歌456番、聖歌総合版469番>
1.栄の王にます主の 御言葉に堅く立ちて 「神には御栄えあれと」 高く歌い叫ばん
(折り返し)*
立て立て 永遠(とわ)に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て
2.世は変わるとも変わらぬ 御言葉に堅く立ちて惑い恐れの嵐に 心は乱されじ

4.愛もて主に結びつき 御言葉に堅く立ちて 悪魔に向かえば常に 勝ち得て余りあり
*  

2022年10月24日 (月)

神の人に対する妬みとその妬みに対する神のさばき

 民数記121には次のように記されています。
そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。2017)とあります。

 「そのとき」とはいつなのでしょう。
一つ前の節の民数記1135には次のように記されています。
キブロテ・ハ・タアワ〔「貪欲の墓」(聖書協会共同訳欄外注)〕から、民はハツェロテに進んで行った。そしてハツェロテにとどまった。2017)とあります。
このブログの1020日(4日前)にアップした箇所の記事のところです。

 「モーセが妻としていたクシュ人の女」と記述がありますが、モーセは、エジプトの王を恐れてミディアンに逃れた後、その地でミディアンの祭司レウエルの娘ティポラと結婚しました。そして二人の間には、ゲルショムとエリエゼルが与えられました。
二人が結婚したのは、主に召される前であったので、民数記12章の記事の40年以上前の話です。40年以上前の話と言えるのは、使徒723に、モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。2017)と記されているからです。

 ミディアンの祭司レウエルの娘ティポラと結婚したのは40年以上前の話です。
今日の聖書箇所の中には、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。とあります。
クシュをエチオピアと理解している人たちもありますが、クシュはエジプト南部から北スーダンのあたりのことを言ったようです。

 「モーセが妻としていたクシュ人の女」という記述には、三つ考えられることがあり、クシュ人の女は、ティポラであるとする説と、ティポラ亡き後に結婚したかティポラの存命中に結婚した、という説です。

 聖書辞典の中には、クシュ人の女は、ティポラであるとする説を次のように述べています。
ミデヤンの地でモーセは祭司イテロの娘チッポラと結婚し、ゲルショムとエリエゼルという子供を与えられた(出エジプト22122,18:14)。彼は羊の番をしながら将来の働きへの備えをした。妻の父イテロはレウエル(出エジプト218、民数記1029)とも呼ばれている。妻チッポラはクシュ人の女(民数記121)と呼ばれているが、それはハバクク37に出てくるクシャンのことで、ミデヤンと同義と思われる。と述べています。

 真相はどうであれ、ヤハウェ(主)は、モーセの結婚のことでモーセを非難してはいないようです。

 さて、モーセの姉ミリアムとモーセの兄アロンが、モーセが妻としていたクシュ人の女のことでモーセを非難した動機は何であったのでしょう。
2
節には次のように記されています。
彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」2017)とあります。
結局、モーセの姉と兄がモーセを非難した理由は、弟のモーセがイスラエルのトップに立って導いているという指導権に対しての嫉妬であったということがわかります。

 この嫉妬の本質は根が深いのです。
時代をさかのぼっていくと、大天使の反逆の箇所にまでいくことになります。
イザヤ14章には次のように記されています。
“12
明けの明星、暁の子よ。・・・。13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』2017)とあります。
『 』内の言葉は、大天使がサタン(サタンとは敵対する者の意)に変化した時の心の中のことをヤハウェ(主)が読んでいたことを示しています。
神の星々とは天使たちのことです。
明けの明星のヘブライ語原語は「ヘイレル」、ラテン語に翻訳されたときには「ルシフェル」、英語では「ルシファー」です。
「明けの明星」というのは、天使達の中でも初期に造られたからのようです。
ヘイレルは、神様の御旨に逆らいました。神様が立てている秩序を重んじることなく神様に反逆したのです。即ち堕罪したのです。
権力欲と嫉妬が見て取れるのではないでしょうか。

 そのような罪が頭をもたげると、悪しき霊はそれを土台として活動しやすくなるのです。権力欲や嫉妬の思いをきよめられたキリスト者の場合で、そのような思いが出て来るときには、悪しき霊がそれらの思いを心の中に入れてくる場合があります。その場合には、「嫉妬の霊よ、出て行きなさい。主の御名によって命じます。」と命じれば、直ちにそのような思いはなくなります。自分の肉から出ている場合には罪を告白してきよめていただく必要があるのです。

 話を元に戻します。
モーセに逆らった、即ち神に逆らった、ミリアムとアロンのその後はどうなったのでしょう。
 民数記124-15には次のように記されています。
“4
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は突然、モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出て行った。
5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出て行くと、6 主は言われた。
「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。7 だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。8 彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」
9
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
10
雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。
11
アロンはモーセに言った。
「わが主〔アドニ(筆者挿入)〕よ。どうか、私たちが愚かにも陥ってしまった罪の罰を、私たちに負わせないでください。12 どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
13
モーセは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に叫んだ。「神よ、どうか彼女を癒やしてください。」
14
しかし主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。
「もし彼女の父が彼女の顔に唾したら、彼女は七日間、恥をかかされることにならないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」
15
それでミリアムは七日間、宿営の外に締め出された。2017)とあります。

 一方、モーセの性格について、民数記123には次のように記されています。
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。(新共同訳)とあります。
新共同訳が「謙遜」と訳している箇所を、
2017
と口語訳は「柔和」、
フランシスコ会訳は「謙虚」、
文語訳は「温柔」、
聖書協会共同訳、新改訳初版~新改訳第三版は「謙遜」と訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
常にあなたのみ前にへりくだって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月23日 (日)

悪魔、悪霊、主イエス、聖霊に対しての見方

 マタイ1222-32には次のように記されています。
“22
そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
23
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
24
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」
25
イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。
26
もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。
27
また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
29
まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。
30
わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
31
ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
32
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。2017)とあります。

 イエス様のもとに目が見えず口もきけない人が連れて来られました。
目が見えず口もきけない人が皆悪霊につかれてそうなるのではありませんが、この人の原因は悪霊につかれていたことがその理由であると記されています(22)。
イエス様は、その人から悪霊を追い出して、その人が話をすることが出来るようにし、目も見えるようにしてあげました(2228)。

 イエス様が行ったことに対する群衆の反応とパリサイ人の反応は正反対でした。
群衆の反応:「この人はダビデの子なのかもしれない。」
パリサイ人の反応:「悪霊どものかしらであるベルゼブルによって悪霊どもを追い出している。」

 「ダビデの子」とは、「メシア」=「キリスト」のことです。
ダビデの子について、聖書辞典は次のように述べています。
イスラエル人が捕囚によって異民族の支配を受けるようになってから、理想の王であるダビデの子孫がメシヤとして現れ、イスラエルに勝利を与えることを強く待望するようになった(ヨハネ742)。それは神が約束されていたことでもあった(2サムエル71213、イザヤ97、エゼキエル342324)。「ダビデの子」はメシヤの称号であり、聖書はイエスがダビデの子孫であることを明確に記している(マタイ11、ルカ331、ローマ13)。しかし、この称号は多くの人々にこの世の王としてのメシヤを期待させることにもなった。だが一方では、真に霊的な王なる方を待望している人々〔この人々は聖霊によって預言しています(筆者挿入)〕もいた(参照ルカ16879,2:2538)。イエスは御自分でこの称号は用いられなかったが(マルコ123537)〔この聖書箇所は復活して昇天し高挙されたキリストを預言している箇所を解説しているところです(筆者挿入)〕、人がそう呼ぶことは容認された(マタイ21916、マルコ1047)。とあります。

 「ベルゼブル」(TRのギリシア語聖書は「ベエルゼブブ」)は、ヘブライ語では「バアル(主人) ゼブーブ{飛び回る(者)}」と言い、ゼブーブの意味は、飛び回る(者)が原義で、とぶ、ハエ、の意にも訳されます。
空中を飛び回っている悪しき霊的存在者は悪魔(サタン)悪霊です(エペソ22)。
悪霊の中には、現在、悪霊の牢〔底知れぬ穴(新改訳第三版)〕に入れられている者たちも数多くいます(黙示録91-11参照)。

 イエス様のお答え:
1.わたしイエスは神の霊(「神の霊」は原語の直訳)によって悪霊どもを追い出している(28)。
2.わたしイエスは神の霊(「神の霊」は原語の直訳)によって悪霊どもを追い出しているのだから、神の国{「国」と訳されている語のギリシア語原語は「バシレイア」で、国の他、支配、統治の意もあります。}は来ている(28)。
というものです。

 29節には、“まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。”と記されています。
「強い者」とはサタンのことを言っています。
「家財」とは、ここでは、サタンの所有となっている者のことです。
キリスト者はサタンの支配から救い出された者たちです。
エペソ21-5には次のように記されています。
“1
さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者〔サタン(筆者挿入)〕、すなわち、不従順の子ら〔まことの神に従わない人たち(筆者挿入)〕の中に今も働いている霊に従って歩んでいました。
3
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り〔神の怒りor罰(筆者挿入)〕を受けるべき子らでした。
4
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2017)とあります。

 神の恵みをわかるようにしてくださるのは聖霊です。
1
コリント123に、“神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。”(新共同訳)と記されています。

 イエス様はパリサイ人のことば(マタイ1224)を受けて、「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる〔それはキリストの十字架の故です(筆者挿入)〕。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない〔救い主&主であるイエス様を信じることができないからです(筆者挿入)〕。」(マタイ1231.32・口語訳)と語られたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
主イエス様を信じさせて頂けましたことを心から感謝します。
ますます主を愛して歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2022年10月22日 (土)

友とは、兄弟とは

 箴言1717には、友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。2017)と記されています。

 「友」という単語を、イエス様は、たとえ話以外でどのように用いたでしょうか?
ヨハネ15章には最後の晩餐の席上で語られた次のようなイエス様の御言葉が記されています。
“12
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです
13
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です
15
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです2017)とあります。

 12節に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とありますが、これはイエス様が11弟子に与えた新しい戒めでした。
12
弟子ではななく、11弟子と書いたのかというと、この時は、イスカリオテのユダがサタンに入り込まれ、イエス様を大祭司たちに売りに行った後であったからです。

 ヨハネ13章からは17章は最後の晩餐のときのことが記されています。
ヨハネ13章の一部には次のように記されています。
“21
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
22
弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。23 弟子の一人〔ヨハネ(筆者挿入)〕がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子〔「ヨハネ」1926.272120,24参照(筆者挿入)〕である。
24
そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。
25
その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。
「主よ、それはだれのことですか。」
26
イエスは答えられた。
「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」
それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。
すると、イエスは彼に言われた。
「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」2017)とあります。

 この話に続く箇所でも新しい戒めについて語っています。
“31
ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。・・・。/
34
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。2017)と記されています。

 12弟子以外に友と言われた人がいました。
ヨハネ1111には、「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(2017)と記されています。

 12弟子以外に、と書いたのには訳があり、実は、イスカリオテのユダも、イエス様から「友よ」と言われています。
マタイ2646-50には次のように記されています。
“46
「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
47
イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、
「先生。お元気で」と言って、口づけした。
50
イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。(新改訳第三版)と記されています。

 イスカリオテのユダもイエス様が、「わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」と語られた一人に該当したからでしょう。

 箴言1717の「友」と訳されている語のヘブライ語原語は「レーア」で、原義は、結び付けられるもの、の意があり、KJVの中では、brother(兄弟)、companion(仲間、友人、話し相手)、fellow(仲間、友達、同僚、・・・)、friend(友人)、husband(夫)、lover(恋人、愛人)、neighbour(隣人)という訳で用いられているようです。
なおヤコブの妻のレア(疲れ切った、疲れさせる、うんざりさせる、・・等の意があります)とはスペルが異なります。

 余談になりますが、愛なるイエス様が、イスカリオテのユダに「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言ったあなたとは、サタンかもしれないと私は思います。
イエス様を売ったユダにも、イエス様は、「友よ」と言っています。
この時、ユダがイエス様に罪の赦しを願ったならば、救われたことでしょう。
しかし、ユダからサタンが抜けた後、ユダに何が起こったでしょうか。
マタイ271-5には次のように記されています。
“1
さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。2 そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
3
そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」
しかし、彼らは言った。
「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5
そこで、彼〔ユダ(筆者挿入)〕は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。2017)と記されています。

 後悔や反省では救われませんが、ユダもペテロと同じように、回心して主に赦して頂くという方法を取っていれば良かったのに、と思います。

 箴言1717の後半部分には、・・。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。2017)と記されています。

 「兄弟」にはいくつかの兄弟の定義があるでしょう。
肉の両親から生まれた子供たちは、この世における兄弟です。
私は映画でしか知りませんが、ある世界の人たちの間では、兄弟の契りを結ぶようです。
私たちキリスト者の場合の兄弟は、神から生まれた者たちであり、永遠の兄弟です。
 ヨハネ51-3aには、
“1
イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。
2
このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。2017)と記され、
 エペソ219には、
・・、あなたがたは、・・・、神の家族なのです。2017)と記されています。

 肉のみにおける兄姉は、地上だけのことですが、霊における兄姉は永遠です。
肉における兄姉が、皆霊における兄姉になれたら良いなーと思いますし、肉における親子が皆霊においても神の家族の一員となれたらなんと幸いなことでしょうか。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
新生させて頂いた者同士はとこしえに兄弟であり、また神の家族です。
また地上の肉における親子の関係は地上のものであり、永遠の親子の関係は霊のものであることを覚えます。
主にある兄弟姉妹が相和して地上生活を送って行くことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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