日ごとの恵みⅩ

2023年2月 9日 (木)

申命記6:16-19 主を試みてはならない/与えられた御言葉に信頼しよう

 申命記616-19には次のように記されています。
16 あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。
17
 あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、18 主の目に適う正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの先祖に誓われた良い地に入り、これを所有して、19 主が語られたとおり、すべての敵をあなたの前から追い払うことができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節の“あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。”と記されているマサでの出来事は、出エジプト171-7に記されています。
この出来事は、イスラエルの民が、エジプトから出立し、マナを与えられた後のことであり、十戒(十のことば)を与えられる前の出来事です。

 出エジプト171-7には次のように記されています。
1 イスラエル人の全会衆は、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の命によりシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。
2
 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争う〔リーブ(筆者挿入)〕のか。なぜ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を試す〔「ナーサー」(筆者挿入)〕のか。」
3
 しかし、民はそこで水を渇望し、モーセに対して不平を述べた。「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるためだったのですか。」
4
 そこでモーセは主に叫んだ。「私はこの民をどうすればよいのでしょうか。彼らは今にも私を石で打ち殺そうとしています。」
5
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。
6
 私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのとおりに行った。
7
 そして、モーセはその場所をマサとメリバと名付けた。イスラエルの人々が、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を試したからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節の「マサ」(へ)「マサー」の原義は、試験で、誘惑、試すこと、試み等の意もあります。
「メリバ」(へ)「メリーバー」の原義は、言い争い,口論,口げんか;仲たがい等の意です。

 7節には、“そして、モーセはその場所をマサとメリバと名付けた。イスラエルの人々が、「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主を試したからである。”とあります。

 イスラエルの民は、エジプトでヤハウェ(主)の十の奇跡(御業)、葦の海(紅海)での奇跡(ヤハウェの御業)、苦い水を甘くするというヤハウェ(主)の御業、マナを与えるというヤハウェ(主)の御業を見たり体験したりしてきたのです。

 ですからイスラエルの民は、ヤハウェ(主)が偉大な御方であると認識していたでしょう。
イスラエルの民は、無神論者ではありませんでした。
しかし、宿営した場所に飲み水がなかったのです(1)。
飲み水がなければ死活問題です。
イスラエルの民が形相を変えて必死にモーセに言い寄る光景を想像することは容易でしょう。
イスラエルの民は、荒野の気温の高い場所にいるのです。
のどは乾き、家畜も水を欲しがっているのです。
しかしヤハウェ(主)は、自動的には水を与えてくれません。
イスラエルの民は、ヤハウェ(主)の存在を認めてはいますが、イスラエルの民にとっての一つの問題は、ヤハウェ(主)が、自分たちと共にいるのかいないのか、ということであったのです。
7
節に、“・・・イスラエルの人々が、「主が私たちの間におられるのかどうか」と言って、モーセと言い争い、主を試した・・・”と記されていますからそのことがわかります。

 士師記には、ギデオンという人が出てきます。
ギデオンの言葉に、「お言葉ですが、わが主よ。主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。先祖が『主は私たちをエジプトから導き上られたではないか』と言って、私たちに語り聞かせたあの驚くべき業は一体どこにあるのですか。今や、主は私たちを見捨て、ミデヤン人の手に渡してしまわれました。」(士師613・聖書協会共同訳)、「もし御目に適いますなら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしをお見せください。」(士師617・聖書協会共同訳)というものがあります。

 ギデオンは、主に見捨てられていると思い、本当に自分に現れたのが主なのかどうなのかということをテストしたのです。
主は、主を試みてはならない、と命じられましたが、この時には、主が主の御業を遂行するためにギデオンの申し出を受け入れられたのでした。

 新生しているキリスト者は、決して見捨てられることはありません。
ヨハネ637には、「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
新改訳初版~第三版は、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と意訳しています。

 キリスト者も主イエス様の存在を疑うことはないでしょう。
しかしキリスト者といえども、厳しい状況に置かれていると、主イエス様が自分の祈りを聞いてくれているのか、聞いてくれていないのか、という思いを持つ場合もあるでしょう。
また、自分が祈った祈りに、祈り通りに主イエス様が答えてくださらないと、自分に何か問題があるからではないだろうか、と思う人がいるかもしれません。
そして、あの人の祈りは聞いてくれるのに自分の祈りは聞かれない、などと言い出す人も現れます。
そのようになってくると、主イエス様が、本当に自分を見てくれているのか、自分と共にいてくれているのか、ということをテストしたくもなるでしょう。
イエス様は、テストに応じてくださるお方です(ヨハネ2024-29)が、甘えすぎてはいけないと思います。

 信仰が成長してくると、いかなる状況に置かれても、また祈った結果を主のお答えとして受け入れ、それでも御言葉を信頼する、というようになるでしょう。
どのような状況になってもローマ828の、“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・”(口語訳)という御言葉から離れることはないでしょう。

 申命記1616で、“あなたがたの神、主を試してはならない。”と命じられているのです。
イスラエルの民は、主を試すのではなく、主に命じられたことを行いなさい、と言われました。
申命記1617.18には、“あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守り、主の目に適う正しいことを行いなさい。・・・。”と記されています。

 ですから主に主を試すことを許可されたギデオンは、主を試すことを恐れたのです(士師記611-24)。
信仰の幼い人や疑心暗鬼になっている人の場合には、主は、主を試すことを許される場合もあるように思えますが、原則は、どのような状況に置かれても、主を畏れ敬い、主を愛し、主に信頼して(主が語られた御言葉に信頼して)歩んでいくことを主は喜ばれるということではないでしょうか。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに信頼して歩み続ける生涯を遅らせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 8日 (水)

マタイ16:24-26 いのちの価値

 マタイ1624-26には次のように記されています。
24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
25
 自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。
26
 たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ1626の前半部分の並行個所をルカ925は、
“人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。”(2017)、
“人が全世界を手に入れても、自分自身を失い、損なうなら、何の得があるだろうか。”(聖書協会共同訳)と記しています。

 マタイ1626の聖句の中の、「自分の命」について、ルカ925は、「自分自身」と記しています。

 さて、話は変わりますが、
1
テサロニケ523には、“平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。”(2017)とあります。
この聖句の中の、「霊、たましい、からだ」と訳されている語のギリシア語原語ですが、
「霊」は「プニューマ」、
「たましい」は「プシュケー」、
「からだ」は「ソーマ」とあります。

 またギリシア語聖書には、「サルクス」という語も出てきます。「サルクス」の原義は、「肉」の意ですが、からだ、とも訳されます。
パウロは、「肉」を、罪深い肉(ローマ83)、肉の思いは死(ローマ86)、肉の思いは神に対して反抗するもの(ローマ87)として用いています。
なおガラテヤ220にも「肉」(サルクス)が出てきます。
 ガラテヤ220
2017
は、“もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているのは、私を愛し、私のために ご自身を献げられた神の子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。”と訳しています。
 また、“私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているのは”をさらに直訳的に訳すと、「私が今、肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕の中で生きているのは」となります。

 ガラテヤ220の聖句の中には、「今私が肉〔ギリシア語原語は「サルクス」(筆者挿入)〕において生きているいのちは」(2017)とありますが、この「いのち」は、ルカ925の「自分自身」、マタイ1626の「自分の命」ということになるだろうと思います。
マタイ1626の「自分の命」の「いのち」と訳されている語のギリシア語原語は「プシュケー」です。
「プシュケー」は、1テサロニケ523では、「たましい」と訳されている語です。

 パウロが、ガラテヤ220で、「ソーマ」ではなく、「サルクス」を用いていることに感動を覚えます。

 外見上、人間に見える人たちには、救われた魂を持っている人と救われていない魂を持っている人がいます。
救われた魂を持っている人とはどのような人なのでしょうか?
1ペトロ(ペテロ)18.9には次のように記されています。
8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。9 それは、あなたがたが信仰の目標である〔信仰の結果である(2017)〕魂〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕の救いを得ているからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 いよいよ本題に戻ります。
今日の聖書個所は、
24 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。
25
 自分の命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を救おうと思う者は、それを失い、私のために命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を失う者は、それを得る。
26
 たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を買い戻すことができようか。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 さて、私の想像ですが、イエス様は弟子たち(全員イスラエル人)にヘブライ語で、これらの話をされたと思います。
ギリシア語の「プシュケー」に対応するヘブライ語は「ネフェシュ」です。
旧約聖書を読むと、「ネフェシュ」は、「たましい」だけではなく、「人」、「いのち」、「心」、・・等の意でも使われています。さらにStrong辞書には、body, breath, creature,・・・、等の意もあると記されています。

 今日は断定的なことを書きません。今の私には書けないからです。
もしイエス様が、この聖書個所をヘブライ語で語ったとしたら、そして「いのち」と訳されている語を「ネフェシュ」と自分が聞いたとしたら、どのように理解していたかな、と考えてみてください。

{追記}
ヨハネ316.361ヨハネ12513の聖句に出てくる「永遠の命」の「命」と訳されている語のギリシア語原語は「ゾーエー」です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
もし迫害が起こり、肉体の命を懸けるようなことがあったとしたら、肉体を差し出しても魂を差し出すことのないようにお守りください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「からだ〔ギリシア語原語は「ソーマ」(筆者挿入)〕を殺しても、たましい〔ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕を殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10282017

2023年2月 7日 (火)

箴言21:2 主は心を見る

 箴言212には次のように記されています。
新改訳2017は、“人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“人の道は自分の目にはすべてまっすぐに映る。しかし主は心の中を調べる。”と訳し、
口語訳は、“人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。”と訳し、
リビングバイブルは、“どんな行いでも、もっともらしい理由をつければ正しく見えますが、神はどんなつもりでそうしたかを見ます。”と意訳しています。

 この聖句のヘブライ語の文章を、2017も聖書協会共同訳も口語訳もほぼ直訳していると思います。

 聖書協会共同訳によるこの聖句の前半部分の訳は、“人の道は自分の目にはすべてまっすぐに映る。”とあります。
「自分の道は(将来の方向性は)これで間違いがない」、と思える人もいるでしょうが、現代では、様々な情報を知ることが出来ますから、「自分の歩みはこれで良いのだろうか」、いや、「別の道の方が良かったのではないだろうか」、と考えてしまう人も多いのではないかと思います。

 聖書協会共同訳によるこの聖句の後半部分の訳は、“しかし主は心の中を調べる”、と記されています。
ですから、これからの道(方向性)を選ぶとき、その選択の動機が、主に喜ばれるものなのかどうかを熟考する必要がある、ということを教えてくれているように思います。

 2017訳の前半部分は、“人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。”と訳されています。
前述したように、ヘブライ語聖書はこのようにも訳せます。
誰もが、“自分は正しい歩みをしている”とは思わないでしょう。
この世で生きていくのに、“自分は正しい歩みをしている”と思える人は幸いな人です。人の役に立ち、他者に害を与えることなく、それで生活していくことが出来る、という歩みをすることのできる職種ばかりではないでしょう。

 箴言212の後半部分を、
2017
は、“しかし、主は人の心を評価される。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“しかし主は心の中を調べる。”と訳し、
口語訳は、“しかし主は人の心をはかられる。”と訳しています。

 人に迷惑をかけない、人のためになるお仕事をしていたとしても、それは100%自分の為、という場合もあります。
そのような場合、箴言212の後半部分の聖句にあるように、主に心の中を点検されたら、0点になってしまうかもしれません。

 私は、ヨハン・セバスティアン・バッハの作曲のときの心のありように教えられます。
バッハの楽譜の初めには、「JJ」と書いてあるそうです。これは「Jesu Juva」、「イエス様、お助けください」という意味だそうです。
そのようにして、作曲を始めるのでしょう。
そして、作曲を終えた楽譜の最後には、「SDGL」と書いてあるそうです。「Soli Deo Gloria」、「ただ神にのみ栄光」という意味だそうです。

 詩篇291.2には次のように記されています。
1 力ある者〔別訳「神」(筆者挿入)〕の子らよ。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。栄光と力を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。
2
御名の栄光を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に帰せよ。聖なる装いをして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にひれ伏せ。”(2017)とあります。

 バッハはその様に作曲していたのですね。
ハレルヤ!

 ローマ1215には、“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。”(口語訳)と記されています。
隣人に共感して、喜ぶ、泣く、というだけではなく、その人の気持ちを汲んで、愛の観点から、ことを行うことが出来ていますか、ということも問われているのだろうと思います。
私の場合は追試です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたは全能の神です。
あなたに喜ばれる歩みを具体的にしていくことが出来ますようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 6日 (月)

詩篇53篇 無神論者の驕(おご)りと不幸

 詩篇53篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。
2
 愚か者は心の中で言う。「神などいない」と。彼らは堕落し、忌むべき不正をなす。善を行う者はいない。
3
 神は天から人の子らを見下ろし、神を求める悟りある者はいないかと探られる。
4
 彼らはすべて背き去り、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない。5 悪事を働く者たちはこのことを知らないのか。パンを食らうように私の民を食い尽くし、神を呼び求めようとはしない。
6
 恐れる必要のないところで、彼らは恐れおののいた。神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らしたから。神が彼らを退けたので、あなたは彼らを辱める〔あなたは彼らを辱めた(2017)〕。
7
 シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。神が民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜びに包まれる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 口語訳、新改訳は、1節を表題として、1節とはしていませんので、1節分、節がずれています。

 “善を行う者はいない”(2.4)と記されている中の「善」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で、基本的には、good good thingの意です。

 6節の「骨」と訳されている語のヘブライ語原語は「エツェム」で、骨の意ですが、からだ(body)の意でも用います。

 2節に「愚か者」という語がります。ヘブライ語では「ナーバール」といいます。
1サムエル25章に、「ナバル」という名の人が出て来ます。
この人は、非常に裕福な牧羊家で多くの使用人を抱えて羊の世話をさせていました。
この集団を、ダビデはナバルから頼まれたのではないのですが、守ってあげていたのです。ダビデが守ってくれていたので羊が守られているということを使用人たちは知っていました。使用人たちの証言は、「あの人〔ダビデ(筆者挿入)〕たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために防壁となってくれました。」(1サム2515.16・新改訳2017)というものでした。

 ダビデは、ナバルの羊の毛の刈り取りの祝いに、10人の若者を遣わし、若者たちに、ダビデの名で安否を尋ね、あいさつをし、次のように言わさせたのです。
「あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥じをかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。」(1サム256-8・新改訳2017)と。
 それに対するナバルの答えはひどいものでした。ダビデを侮辱して若者達を追い返したのです。
 それを見ていたナバルの使用人の一人が、見目麗しく聡明なナバルの妻アビガイル(253)に、次のように告げたのです。
「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動を共にしていた間、何も失いませんでした。一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」(1サム2514-172017)と。

 これを聞いたアビガイルは、早速ダビデの所に行き、ダビデの足もとにひれ伏して次のように嘆願したのです。
「ご主人さま。あの責めは私にあります。どうか、このはしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たち会ってはおりません。ご主人様。今、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人さまに持ってまいりましたこの贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。」(1サム2524-272017)と。
嘆願はまだ続きますが、この様にアビガイルが語ったことによって、ナバルの使用人たちは誰も殺されずに済んだのです。ナバルは、10日後に、ヤハウェ(主)によって命を取られました(1サムエル2538)。

 聖書に、ナバルという愚かな人の話があるので上記しましたが、同じように、この世に、「神はいない」というナーバールな人がいるのです。
神様を知る前の私も同じようにナーバールでした。
2
節に、“愚か者は心の中で言う。「神などいない」と。彼らは堕落し、忌むべき不正をなす。善を行う者はいない。”とありますが、私も、創造主なる「神などいない」と大言壮語していた者であったのです。
なんと恩知らずな言葉を発していたのかと思います。

 万物は、御父の御計画に従い(ローマ1136)、御子にあって御子のために御子によって造られたのです(コロサイ116)。創造の御業には御聖霊も関与されたことでしょう(創世記12)。
 最大の罪は創造主にして救い主、主である神を認めないことです。
父なる神を正しく知るためには御子を知る必要があるのです。
しかし御子イエス・キリスト様を知るためには聖霊の働きが必要なのです。

 ヨハネ168.9には次のように記されています。
8 その方〔聖霊(筆者挿入)〕が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らが私〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないこと、”(聖書協会共同訳)とあります。
 
 1コリント12:3には、“そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も「イエス は主である」と言うことはできません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ1127には、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(新共同訳)と記されています。

 創造主なる神様を信じない人は、ヒューマニズム的に良い人だと言われるような人でも、神様の御前では善なる人ではないのです。

 7節に、“・・・神が民〔イスラエル12部族の民(筆者挿入)〕の繁栄を回復されるとき〔キリストの地上再臨後に起こります(筆者挿入)〕、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜びに包まれる。”と記されています。
この時、無神論者であった人も、創造主なる神を知ることになるでしょう。
無神論者で、それ以前に死んだ人も、「死んだら終わり、何も残らない。」と思っていた人も、まことの神を知るのです。

 ピリピ2章には次のような聖句があります。
6 キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。
7
かえって、その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。
8
そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。
9
しかし、それゆえに、神はキリストを高く天に引き上げ、最高の名をお与えになりました。
10
それは、その御名のもとに、すべてのものが天でも地でも〔「地下でも」が抜けています。リビングバイブル旧版には入っています(筆者挿入)〕ひざまずき、
11
すべての口が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。”(リビングバイブル)と記されています。

 唯物論者、無神論者、創造主を否定する進化論者でも魂は持っているのです。
イエス・キリスト様を自分の救い主、主として地上にいる間に信じないと、死後、地下の国で「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神をほめたたえることをせざるを得なくなるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
私も地下の国、すなわち地獄で、無理やり「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神をほめたたえざるを得なくなるような人間でしたが、あなたの憐れみによって、イエス様を信じさせていただけましたことを感謝します。
今や地上において喜びをもって主をほめたたえ、肉体を脱いだ後には、天において主をほめたたえることが出来ますから心から感謝します。
まだ主イエス様を信じていない人が、イエス様を求め始めますように。
求める者は与えられるのですから(マタイ77)。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 5日 (日)

申命記6:1-15 唯一の神ヤハウェ(主)を愛する者の幸いと主から離れる者の不幸

 申命記61-15には次のように記されています。
1 これは、あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたに教えられた戒め、掟と法であって、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で行うべきものである。
2
 あなたも、子も孫も、生きているかぎり、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、私が命じるすべての掟と戒めを守って、長く生きるためである。
3
 イスラエルよ、あなたは聞いて、守り行いなさい。そうすれば幸せになり、あなたの先祖の神、主が告げられたとおり、乳と蜜の流れる地であなたがたは大いに増える。
 4 聞け、イスラエルよ。私たちの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は唯一の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕である。
5
 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛しなさい。
6
 今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。
7
 そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。
8
 その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け、9 また家の入り口の柱と町の門に書き記しなさい。
10
 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが築いたのではない大きくてすばらしい町、11 あなたが満たしたのではないあらゆる財産で満ちた家、あなたが掘ったのではない水溜め、あなたが植えたのではないぶどう園やオリーブ畑を得て、 食べて満足するとき、12 エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出した主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を忘れないように注意しなさい。
13
 あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。
14
 他の神々、あなたの周りにいる民の神々に従ってはならない。
15
 あなたの中におられる、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は妬む神である。あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の怒りがあなたに向けて燃え上がり、あなたが地の面から滅ぼされることのないようにしなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルの歴史を見ると、“心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして唯一の神である主ヤハウェ(主)を愛し”(5)たダビデのような人もいましたし、“他の神々、あなたの周りにいる民の神々に従ってはならない。”(14)と言われていたにもかかわらず、他の神々に従っていった人たちも非常に多くいました。

 他の神々とは、悪しき霊が支配するところの偶像です。偶像を礼拝することを繰り返し行ったゆえに、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(2列王記175-23参照)、南イスラエル(ユダ)王国はバビロンに滅ぼされたのでした(2歴代誌3611-20参照)。

 イエス様が地上におられた時代、ファリサイ派(パリサイ人)やサドカイ派の人たちは、いつもイエス様を亡き者にしようと努力していました。
 マタイ2234-36には次のように記されています。
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 恵みと誠に満ちておられるイエス様(ヨハネ114)は、質問者の、罠にかけようとする悪しき心の状態からの質問にも、真理に基づいて、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ2237・聖書協会共同訳)と答えたのでした。
この御言葉は、申命記65の聖句がもとになっています。
申命記65の聖句は、“心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を愛しなさい。”(聖書協会共同訳)となっていますが、「力」と訳されている個所を主イエス様は、「思い」と述べています。
申命記65の聖句の中の「力」と訳されているヘブライ語原語は「メオド」で、原義は、熱意、熱情、激しさ、の意です。そして、力、とも訳されます。
主イエス様が、「思い」と述べられた語のギリシア語原語は「ディアノイア」で、深い考え、(意識・思考などを担う)心、の意です。前田訳は、意志、と訳しています。

 「あなたの神である主を愛しなさい。」とあります。
人との関係でも「愛」は大切ですが、神様との関係でも「愛」はとても大切です。
イエス様は次のように語られました。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(ヨハネ14212017)と。

 箴言8章の「知恵」は、イエス様を擬人化したもの、とよく言われますが、箴言817には、「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」(2017)と記されています。

 また1サムエル230には、“・・──イスラエルの神、主のことば──・・・。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる・・。”(2017)と記されています。

 また、詩篇9114-16には次のように記されています。
14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。
15
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。
16
わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
愛の出どころはあなたです。
あなたとの交わりの中で、ますます愛を知り、愛をいただいて、あなたを愛して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 4日 (土)

マタイ16:21-23 思いの中心が神より人の危険(マタイ16:21-23)

 マタイ1621-23には次のように記されています。
21 この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22
 すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23
 イエスは振り向いてペトロに言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 21節の冒頭に、“この時から”、とあります。
これは、ペテロ(ペトロ)が、「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ1616・聖書協会共同訳)と信仰告白した時の後、ということです。

 主イエス様は、ペテロの信仰告白を受けた後、イエス様が「エルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」、と十字架と復活の預言を弟子たちに語りました。ペテロの信仰告白以前には、イエス様は、ご自分の十字架と復活の話をなさらなかったのです(マルコ829.31、ルカ920.22も参照)。

 イエスの十字架の預言を聞いたことは、ペテロにとって、大きな驚きであったのでしょう。大好きなイエス様が、エルサレムで、ユダヤの長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される、ということを受け入れることは、とてもできなかったのです。

 22節をリビングバイブルは、“ところが、ペテロはイエスをわきへ呼んでいさめました。「先生。とんでもないことです。あなたのようなお方に、そんなことが起こってなるものですか!」”と意訳しています。

 父なる神様の愛のご計画を知らなければ、大好きな人が苦しい目にあわされて殺されるなどということを受け入れることは出来ないでしょう。

 ペテロの言葉を聞いた主イエス様は、なんと、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」とペテロに言ったのです。

 サタンの元来の意味は、敵対者、です。すなわち神の敵対者です。ヘブライ語では「サーターン」、ギリシア語では「サタナス」です。
サタンの別名は色々あります。
新約聖書によると、サタンを、悪魔(マタイ4:1、ルカ4:3、ヨハネ8:44、使徒10:38等)、試みる者(マタイ4:3)、誘惑者(Ⅰテサロニケ3:5)、悪い者(マタイ13:191ヨハネ519)、告発者(黙示録12:10)、敵(マタイ13:39、ルカ10:19)、悪霊どものかしら(マタイ9:34、マルコ3:22)、この世を支配する者(ヨハネ12:31)、空中の権威を持つ支配者(エペ2:2)、ベルゼブル(マタ10:25)などと記しています。

 イエス様は、ペテロに対して、「サタン」と言ったのです。
ペテロのこの時の考え方、及びそれから発せられた言葉は、神に敵対するものであったのです。
もし、霊の世界が見えていたならば、この時のペテロの言葉は、ひょっとするとサタン(悪魔)が、ペテロを用いて語った言葉か、あるいはそのような思いを入れたのかもしれません。悪魔は、イエス様が殺されて終わりであったならば万々歳です。しかし、サタン(悪魔)にとって「三日目に復活する」という言葉は聞き捨てならない言葉でした。
もしサタンが、イザヤ53章の意味を正しく理解していたとしたら、主イエス様の復活を見たくはなかったでしょう。

 イエス様は、「神のことを思わず、人のことを思っている。」(23)と言われました。
主権は神ヤハウェ(主)のものです。
神ヤハウェ(主)から主権を剝奪したいのがサタンです。サタンは自分が神ヤハウェ(主)のようになりたいのです。サタンはこの世の神です。
神ヤハウェ(主)なしの人権(人権が悪いと言っているのではなく神の下における人権が良いのです)、神ヤハウェ(主)なしのヒューマニズムはサタンから来たものでしょう。
コロサイ28には、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されています。
この世のもろもろの霊の親分が悪魔(ザ・サタン)です。悪しき霊たち一霊一霊も神に敵対するものですから「ア・サタン」です。

 キリスト者であっても、その生き様が神第一ではなく、自分第一、人間第一に陥ることがあります。
イエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ633・新改訳初版~第三版)と語られました。
神様のみ旨を第一にすることの重要性を語っておられます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
いつもあなたのみ旨に従って歩むことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 3日 (金)

導いてくださる主

 箴言211には次のように記されています。
“王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。”(新改訳初版~第三版)とあります。

 BIBLE navi は、この聖句について次のように解説しています。
“ソロモンの時代、王は絶対的な権威を持っており、よく、神々のように考えられていた。この箴言は、神が世の支配者に対して究極的な権威を持っておられることを示した。支配者たちはそれに気づいていないかもしれないが、地上において最も力ある王たちは常に神の支配下にいるのだ(神の目的のために用いられた異邦人の王の例については、イザヤ105-8を参照)”と述べています。
 イザヤ105-8には次のように記されています。
5 災いあれ、私の怒りの鞭であるアッシリアに。その手にある杖は私の憤り。
6
 私は神を敬わない国に彼を遣わし、私の怒りを買った民に対して、彼に命じる。「戦利品を取り、略奪品を手に入れよ。路上の泥のようにそれを踏みにじれ」と。
7
 しかし彼はそうしようとは思わず、心にそうした考えもなかった。むしろその心にあるのは破壊すること、多くの国を滅ぼし尽くすこと。8 実際、彼はこう言っている。「私の高官たちは皆、王たちではないか。・・・」”(聖書協会共同訳)とあります。

 “王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。”とありますが、神ヤハウェ(主)は、人を造られましたが、何でも言うがままに神に操られるものとして造ったのではなく、人に自由意思を与えられました。
例えば、出エジプト5-14章に出てくるエジプトのファラオ(パロ)の場合、ファラオが神ヤハウェ(主)に従わないので(従わないというファラオの意思があるので)、神ヤハウェ(主)は、ご自身の力を示すのにファラオを用いた一面があると思えます。

 “主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。”(2歴代誌1692017)という聖句もあります。
 主は、人の心を読み取り、ケースバイケースで、行なわれるのではないかと想像します。
ソロモン王の場合、王に就任した頃の心の状態は、主に喜ばれるものでした。その結果、主は素晴らしい祝福をソロモンに与えました(2歴代誌11-12)が、警告も与えていました(1列王記31494-9)。
主がソロモンに警告も与えたにもかかわらず、ソロモンは、外国の女性たちを愛し、晩年になってからは偶像礼拝を許可したのです(ソロモンの罪と罰については、1列王記111-14)。それらの偶像の中には人を焼き殺すような儀式を持つものもあったのです(人身御供)。
ソロモンが主の命令に反したことをサタンは大喜びしたことでしょう。

 話を変えて、私たちキリスト者の場合を考えます。
キリスト者は、「王なる祭司」(文語訳、リビングバイブル、塚本訳、前田訳)or「王である祭司」(新改訳)です(1ペテロ29)。
そして主は次のようにしてくださるというのです。
“あなた方のうちに働きかけて、 ご自分の善しとするところを望ませ、実行に移させるのは神だからです。”{フィリピ(ピリピ)213・フランシスコ会訳}とあります。

 上記の聖句が含まれる12-15節をフランシスコ会訳は次のように記しています。
12ですから、わたしの愛する人たち、これまでいつもそうであったように、わたしがともにいる時だけでなく、ともにいない今はなおさらのこと、従う者であってください。畏れおののきながら、自分の救いを、力を尽くして達成しなさい。13あなた方のうちに働きかけて、 ご自分の善しとするところを望ませ、実行に移させるのは神だからです。14何事も、不平を言ったり理屈をこねたりしないで行いなさい。15あなた方が、咎められるところのない、潔白な者となり、ゆがみ、ねじ曲がった世代にありながらも、非の打ち所のない神の子となるためです。そして、命の言葉を自分のものとすることによって、人々の中で、この世に輝く星のように光り輝きます。・・・。”とあります。

 リビングバイブルは、ピリピ212-16を次のように意訳しています。
12 愛する皆さん。私がそちらにいた時、あなたがたはいつも、私の教えに従順に従ってくれました。離れている今はなおさら、しっかりしてください。深い尊敬の思いをこめて神に従い、神に喜ばれないことからは手を引きなさい。
13
神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いが出来るように助けてくださるのです。
14
何事においても、不平をいったり、疑ったりしてはいけません。
15,16
だれからも非難されないためです。心の曲がった邪悪な世の中にあって、あなた方は神の子どもとして、汚れのない、きよらかな生活を送りなさい。世の人々の間で、いのちのことばを高く掲げ、世の光として輝きなさい。・・・。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたを愛し、あなたに信頼し、あなたに従って、あなたに喜ばれる歩みをし続けていくことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 2日 (木)

詩篇52篇 偽りを愛し富に信頼する者と、主を畏れ主に信頼する者との違い

 詩篇52篇には次のように記されています。
1 指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。2 エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。
3
 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみは絶えることがない。
4
 あなたの舌は破滅を思いたくらむ。それは刃物のように鋭く、人を欺く。
5
 あなたは善よりも悪を、正しい言葉よりも偽りを愛する。〔セラ
6
 欺きの舌よ、あなたはあらゆる破滅の言葉を愛している。
7
 そこで神はあなたを打ち倒し、永遠に滅ぼされる。天幕からあなたを引き抜き、生ける者の地から根を絶やされる。〔セラ
8
 正しき者はこれを見て、神を畏れ、この男を笑って言う。
9
 「見よ、この者は神を砦とせず、自分の豊かな富を頼みとし、自分を滅ぼすものを力としている。」〔「見よ、彼こそは、神を力とせず、自分の大きな富に頼り、破滅のわざを勝ち誇る者。」(7節・2017)〕
10
 私は神の家に生い茂るオリーブの木のように、代々とこしえに神の慈しみに信頼します〔私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む(2017)〕。
11
 私は、あなたの計らいのゆえに、とこしえに、あなたに感謝します。私は忠実な人たちを前に、恵み深いあなたの名に望みを置きます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳等の1.2節を、口語訳、新改訳等は表題としていますので、それぞれの聖書の節の間には2節のずれがあります。

 この詩が読まれた背景は、1サムエル21.22章に記されています。
ダビデは主に信頼していました(3b)。もし、ダビデが主に信頼することなく、自分の力に頼り、自己防御に駆られて、密告者ドエグ(2)と戦えば、ドエグを殺すことも出来たでしょう。

3節の「力ある者よ」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ギボール」で、強大な(者)、強い(者)、勇敢な者、・・等の意があります。
新改訳は「勇士よ」と訳しています。

 3節の「慈しみ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ヘセド」で、親切、思いやり、やさしさ等の意が原義で、慈悲深い、恵み、・・等の意があります。また神に向かってこの語を使うときには、信心、信心深さ、敬虔等の意で用います。
新改訳は「恵み」と訳し、フランシスコ会訳は「敬虔」と訳し、3節を、“力ある者よ、なぜ、悪を誇るのか。敬虔なふりをする者よ、なぜいつも、”と訳しています。

 詩篇52篇に記されている悪者の特徴は、①悪を誇ること(3)、②欺くこと(4)、③神に従う者の破滅を図ること(4)、④善よりも悪を愛すること(5)、⑤信実を語ることよりも偽りを語ることを愛すること(5)、⑥破滅の言葉や行為を愛すること(6.9)、⑦神をよりどころとしないで、自分の富の豊かさに頼ること(9)等であると記されています。

 悪者の根本にあるのは、神をよりどころとしない、というところにあります。
この様な悪者即ち神を神とも思わず、神に信頼しない者の最後は、7節に記されているように、「そこで神はあなたを打ち倒し、永遠に滅ぼされる。天幕からあなたを引き抜き、生ける者の地から根を絶やされる。」(聖書協会共同訳)となるのです。白い御座の裁き(黙示録201114)において、待っているのは火の池です。

 一方、正しき者(神に信頼し従う者)については、「これ〔神様の裁き(筆者挿入)〕を見て畏れ、この男を笑って言う」(8)、「見よ、彼こそは、神を力とせず、自分の大きな富に頼り、破滅のわざを勝ち誇る者。」(20177節)と記しています。

 正しき者(神様に信頼し神様に従う者)は、「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」(20178節)と言うでしょう。
神様の恵み、慈しみにより頼みながら歩んでいけることは本当に幸いなことです。

 11節には、「私は、あなたの計らいのゆえに、とこしえに、あなたに感謝します。私は忠実な人たちを前に、恵み深いあなたの名に望みを置きます。」とあり、ダビデは神様がして下さったことに感謝し、主を証ししています。

 エレミヤ17章には次のような主の御言葉が記されています。
5 主はこう言われる。呪われよ、人間を頼みとし、肉なる者を自分の腕として、その心が主から離れる人は。
7
 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。”(聖書協会共同訳)とあります。
この個所では、主が、「呪われよ」、「祝福されよ」と言っておられます。

 詩篇1篇を新共同訳は次のように意訳しています。
1 いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、2 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5
神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
日々、あなたの御言葉にふれ、あなたを賛美し、あなたの仰せに従って歩む者であらせてくださいますように。
あなたの御名を賛美し私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年2月 1日 (水)

申命記5:18-21 十戒7/むさぼりの罪とその実行及びそれに対する主のお取り扱い

 申命記518-21には次のように記されています。
18 姦淫してはならない。
19
 盗んではならない。
20
 隣人について偽りの証言をしてはならない。
21
 隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切貪ってはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 18節には、“姦淫してはならない。”とあります。
「姦淫」のヘブライ語原語は、ナーアフです。
「ナーアフ」は、既婚者Aが配偶者以外の異性の既婚者Bと性的関係を持つことを言うようです。男女の区別はありません。

箴言632-35には、
32 女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。
33
彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。
34
嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。
35
彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。”(新改訳初版~第三版)とあります。

この箇所の「男」と「女」を入れ替えてもまたしかりです。

姦淫は家庭を崩壊させてしまう可能性大の罪です。

レビ記2010には、次のような罰則も記されています。
“人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。”(新改訳初版~第三版)とあります。

 申命記521には、“隣人の妻を欲してはならない。”と記されています。これは次のイエス様が語られた御言葉とも関係してくるでしょう。

 イエス様は、肉体的に関係を持つということだけではなく、心の中の出来事も同じであると言われました。マタイ527.28には次のように記されています。
「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(新改訳初版~第三版)とあります。

「情欲」とは、男女間の肉体的欲望です。(大辞林)

 19-21節(一部省略)には、“19 盗んではならない。20 隣人について偽りの証言をしてはならない。21 ・・・。隣人の・・、畑、・・など、隣人のものを一切貪ってはならない。” とありますが、その禁止事項をすべて犯した人がいます。
 1列王記211-16には次のように記されています。
1 これらの出来事の後のことである。イズレエル人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていたが、それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
2
 アハブはナボトに話を持ちかけて言った。
「お前のぶどう畑を譲ってほしい。私の王宮のすぐそばにあるので、菜園にしたいのだ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑をやろう。もしよければ、それ相当の代価を銀で支払ってもよい。」
3
 ナボトはアハブに言った。
「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」〔土地は主のものであり、主が各人に貸し与えているのです(レビ2523参照)〕
4
 アハブは、イズレエル人ナボトが、「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなどできません」と言ったことに機嫌を損ね、激しく怒って王宮に戻った。そして寝台に横たわって顔を背け、食事もしなかった。
5
 すると妻のイゼベルが来て、「どうしてそのように機嫌を損ねて、食事もなさらないのですか」と尋ねると、
6
 アハブは話しだした。
「私はイズレエル人ナボトに次のように話を持ちかけたのだ。『代金を支払うからぶどう畑を譲ってほしい。あるいはお前が望むなら、代わりのぶどう畑をやろう。』だがナボトは、『ぶどう畑は譲りません』と言うのだ。」
7
 妻のイゼベルは王に言った。
「今、イスラエルを王として治めているのはあなたではないですか。起きて食事をしてください。そうすれば気分はよくなるでしょう。イズレエル人ナボトのぶどう畑は、この私が手に入れてさしあげましょう。」
8
 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、彼の印で封をし、その手紙をナボトが住む町の長老や貴族に送った。
9
 手紙にはこう記されていた。
「断食を布告し、ナボトを民のいちばん前に座らせなさい。10 そして二人のならず者を彼に向き合って座らせ、『お前は神と王を呪った』と証言させなさい。それからナボトを連れ出し、石で打ち殺しなさい。」
11
 町の人々、町に住む長老や貴族たちは、イゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で書き送ったとおりに行った。
12
 彼らは断食を布告し、ナボトを民のいちばん前に座らせた。
13
 二人のならず者も来て、ナボトに向き合って座った。ならず者の連中は民の前でナボトについて証言し、「ナボトは神と王を呪った」と言った。
人々はナボトを町の外に連れ出し、石で打ち殺した。
14
 人々はイゼベルに使いを送って、「ナボトは石で打ち殺されました」と伝えた。
15
 イゼベルは、ナボトが石で打ち殺されたことを聞くや、アハブに言った。「直ちにイズレエル人ナボトのぶどう畑を自分のものにしてください。ナボトはあなたにぶどう畑をお金で譲るのを拒みましたが、彼はもう生きていません。死んだのです。」
16
 アハブはナボトが死んだと聞くや、直ちにイズレエル人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 悪王アハブと悪を平然と行えるイゼベルに対する主の言葉、及び主の裁きの言葉を聞いて自分の罪を認め、主に憐みを請うたアハブに対する主のお取り扱いの言葉が、続く1列王記2117-29に次のように記されています。
17 主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。
18
 「直ちにサマリアに下って、イスラエルの王アハブに会いに行きなさい。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。19 アハブにこう言うがよい。
『主はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、その人の物を自分のものにしようというのか。』また、こう言うがよい。『主はこう言われる。犬どもがナボトの血をなめたその場所で、今度は、あなたの血を犬どもがなめる。』」
20
 アハブがエリヤに、「わが敵、私を見つけたか」と言うと、
エリヤは答えた。「見つけたとも。あなたは主の目に悪とされることに身を委ねたからだ。
21
 〔21.22節は19節に続く主の言葉(筆者挿入)〕『見よ、私はあなたに災いをもたらし、あなたの子孫を除き去る。奴隷であれ、自由な者であれ、イスラエルにいる男子で、アハブに属する者は滅ぼす。22 あなたの家をネバトの子ヤロブアムの家のように、またアヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたが私を怒らせたためであり、またイスラエルの人々に罪を犯させたためである。』
23
 主はまた、イゼベルにもこう言われる。
『イズレエルの所有地で、犬どもがイゼベルを食らう。24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬が食らい、野で死ぬ者は空の鳥がついばむであろう。』」
25
 確かにアハブほど、主の目に悪とされることに身を委ねた者はいなかった。唆(そそのか)したのは妻のイゼベルである。26 アハブは、主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリ人と全く同じように偶像に従い、甚だしく忌まわしいことを行った。
27
 アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を引き裂き、粗布を身にまとって断食した。粗布のままで横になり、打ちひしがれて歩いた。
28
 その時、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。
29
 「アハブが私の前にへりくだったのを見たか。彼が私の前にへりくだったので、その生きている間は災いを下さない。その家に災いを下すのは、その子の時代においてである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イゼベルの身には預言どおりのことが起こりました。2列王記930-37には次のように記されています。
30 イエフ〔新改訳は「エフー」(筆者挿入)〕はイズレエルにやって来た。
イゼベルはそれを聞いて、目の縁を黒く塗り、髪を整え、窓から見下ろした。31 イエフが門を入って来ると、「どうしたのですか、主君殺しのジムリ」と声をかけた。
32
 すると、イエフは窓の方を見上げ、「誰かいないか。私に味方する者は誰かいないか」と叫んだ。この時、二、三人の宦官が彼の方を見下ろしたので、33 「そいつを突き落とせ」とイエフは言った。彼らはイゼベルを突き落とし、その血は壁や馬に飛び散った。イエフは彼女を踏みつけて、34 中に入り、食べて飲み、それから言った。「あの呪われた女の面倒を見て、葬ってやれ。あれでも王の娘なのだ。」
35
 だが、葬ろうとして彼らが行ってみると、頭蓋骨と両足、両手首しかなかった。
36
 彼らが帰って、そのことを報告すると、イエフは言った。
「これは、僕ティシュベ人エリヤを通して語られた主の言葉のとおりだ。『イズレエルの所有地で、犬どもがイゼベルの肉を食らう。37 イゼベルの遺体は、イズレエルの所有地で畑の肥やしのようになり、誰も、これがイゼベルだとは言えなくなるだろう。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 アハブ王は、エリヤをとおして主から罪の罰の宣告を受けたとき、主に憐みを請いました。主はアハブの心を見たのでしょう。主はアハブに下した罪の宣告を変更しました。
今の世界にあっては、中には本質的にアハブと同じようなことをしている人もいると思うのです。アハブのように悪を行っても回心したら主は赦されました。
一方、悪のままであったイゼベルは、主の警告預言のとおりになりました。
誰もが皆罪人です。
自分の罪を認め、イエス様を救い主として信じ、主イエス様を心にお迎えすることのできた人は幸いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
罪を示された時には、ただちにその罪を告白し、罪赦され、きよめていただき、常に主と共に歩み続けるものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年1月31日 (火)

マタイ16:13-20 ペテロの信仰告白と、それを受けたイエス様の御言葉3

 マタイ1613-20には次のように記されています。
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14
 弟子たちは言った。
「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます。」
15
 イエスは言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
16
 シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
17
 すると、イエスはお答えになった。
「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。
18
 私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。
19
 私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」
20
 それから、イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1/27のブログでは、18節について書きました。
今日は19.20節について記そうと思います。

 19節には“私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 イエス様は、「私はあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われました。
ペテロは、ある時に回心して「イエスがメシア、生ける神の子だ。」とイエス様を信じたのです。
 そしてイエス様が、「あなたがたは私を何者だと言うのか。」(15)と弟子たちに聞かれた時に、ペテロは、「あなたはメシア、生ける神の子です。」(16)と答えたのです。
それを受けて、ペテロのこの信仰告白を聞いた主イエス様は、ペテロに、「私はあなたに天の国の鍵を授ける。」と言われたのです。
確かに、ペテロは説教を通して最初はユダヤ人たちに天の国の門を開きました(使徒241)それは使徒2章に記されている五旬節(ペンテコステ)の出来事です。ペテロは主イエス様を信じたユダヤ人たちに天の国の門を開けましたが、異邦人に対しても最初に天の国の門を開けた人です。それは使徒10章に記されているコルネリウス(コルネリオ)の話です(中心は使徒1034-48)。

 次に、「あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ」とある中の「結ぶ」(聖書協会共同訳、岩波訳、塚本訳)と訳されている語のギリシア語原語は「デオー」という語で、bindの意です。
「デオー」を「つなぐ」と訳している日本語訳聖書には、文語訳、口語訳、新改訳、新共同訳等があります。またリビングバイブルは、(鍵を)「かける」と訳しています。
なお2017の欄外注には“あるいは「禁じる」”と注されています。

 続く「地上で解くことは、天でも解かれる。」という文の中の「解く」と訳されている語のギリシア語原語は「ルオー」でloosenの意で、聖書協会共同訳、岩波訳、新共同訳、新改訳、口語訳、フランシスコ会訳、塚本訳は「解く」と訳し、リビングバイブルは、(鍵を)「開ける」と訳しています。
なお2017の欄外注には“あるいは「許す」”と注されています。

 リビングバイブルは、19節を、“あなたに天国のかぎをあげましょう。あなたが地上でかぎをかけるなら、天でも閉じられ、あなたが地上でかぎを開けるなら、天でも開かれるのです。”と訳しています。
塚本訳は、“わたしはあなたに天の国の鍵をあずける。(だから)あなたが地上で結ぶことは(そのまま)天でも結ばれ、地上で解くことは(そのまま)天でも解かれるであろう。」”と訳しています。

 地上の天の国とはどこでしょう?
それは教会です。
教会に所属するためには、イエスこそキリスト(メシア)であり、神の子ですというペテロと同じ信仰告白が必要です。
このような信仰告白をした人に対して、主イエス様は、「あなたは幸いです。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父です。」と言われるのです。
エペソ28には、端的に“あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神からの賜物(贈り物)です。”(リビングバイブル)と記されています。

 20節には、“それから、イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられた。”と記されています。
イエス様が地上におられたころのユダヤ人は、地上にかつてのダビデ、ソロモン時代のような王国がメシアによってたてられることを待ち望んでいました。もし、弟子たちが、「イエスこそメシアだ」ということを宣教したら、イエス様を王として立てて、暴力的にでも、国を再興しようとしたことでしょう。もしそれをしてしまったときには、それは神の経綸に反することで失敗に終わり多くの死亡者が出たと思います。
神様の経綸(ご計画)では、初臨のキリストは、罪の贖いの為であり、再臨のキリストは、イスラエルの王国を樹立し、地上をキリストが治める神の国とするためであったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
恵みにより、イエス様を救い主&主と信じさせてくださいましたことを感謝します。
私の場合は、それによって大いなる平安をいただきました。
今から50年前は、今のような世界情勢、いやそれよりももっとひどい世界情勢になることを日々危惧し、疲れていましたが、今や、このような世界情勢の中にあっても平安を持ち、キリストの空中再臨を待ち望む身として頂いておりますことを感謝します。
栄光がとこしえにあなたにありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<心にあるこの安きを>(聖歌560番、聖歌総合版584番)
1.心にあるこの安きを奪うもの地になし 試みにて苦しむともこの安き動かじ
(折り返し)*
我がものなる主を宿す その喜び言い難し 主のたまえり 「我などて なれを捨てて去るべき」
2.この安きを受けし時に雨雲は晴れたり 悩みあらず 涙もなく 歌声のあるのみ

3.この安きを持てる土の器なる我が身も やがてイェスに会わば変わらん 栄ある姿と

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