マタイによる福音書

2024年1月16日 (火)

マタイ24:6-8 携挙以前に世界に平和は訪れるだろうか

 マタイ246-8には次のように記されています。
6 戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
7
 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8
 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 現在はロシアとウクライナの戦争、イスラエルとハマス、イスラエルとヒズボラ、それにフーシー派が参加し、ハマス、ヒズボラの背後にはイランがいます。

東アジア、東南アジアについても覇権主義国の影響が不安定化をもたらしています。
日本もお隣の出方によっては、あるいはそれ以外の何かがあれば、被害を受けるかもしれない状態です。
また米中の覇権争いもあれば、ロシアとイランと北朝鮮は軍事協力をしています。
そのほかの地域でも色々とあるでしょう。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、と主が語っておられるのですから。

 戦争嫌いの私としては、いやだなー、という気分です。
クリスチャンの多くは、平和のための祈りをささげていることでしょう。
その平和は、いつ訪れるのでしょうか。

 今がひっ迫している終末期であると仮定したら、現在以降では、平和は2回訪れることが聖書からわかります。
一つは反キリスト(偽キリスト)による極めて短期間のものであり、もう一つは再臨のキリストによるもので、1000年間続きます(黙示録207-10)。

 偽(反)キリストによる平和は、短いものです。
1
テサロニケ53には、
“人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。”(2017)と記され、
 黙示録62には、
“私は見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた〔矢は持っていない(筆者挿入)〕。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得るために出て行った。”(2017)という個所から分かります。

 キリスト者が祈っている平和のための祈りは必ず答えられます。
それは、キリストが地上再臨されることによって平和になるからです。
それ以前には、戦争、飢饉、疫病、地上の獣によって、死ぬことになるというときもあるのです。
 黙示録67.8には、
“小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物が「行け」と言うのを聞いた。そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 子羊とは、キリストのことです。
子羊(キリスト)のみが開くことの出来る封印されている巻物(黙示録51-5)は神の裁きの巻物です(黙示録612.16.17参照)。

 剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々が死ぬというのは、主の裁きなのです。

 マタイ59に「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(2017)という主イエス様が語られた御言葉が記されています。
ここに記されている「平和をつくる者」とは、この世の地上の平和のことを言っているのでしょうか?
この世の一定期間の平和なら、神の子ではない様々な人々が、これまでにもつくりあげてきました。反キリストもつくります。
キリスト者ではない人たちが、この世に平和をもたらしたら、その人たちは神の子と呼ばれるのでしょうか。もしそうであるとすれば、その人たちにはキリストの福音は必要ないのです。キリストを信じなくても神の子とされるのです。果たしてそのようなことはあるのでしょうか。
平和をつくるという行いによって、神の子とされることになってしまします。

 マタイ59の「平和」は、「神との平和」のことを意味して主は語られたのではないかと思います。
 ローマ51.2には、
“こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。”(2017)と記されています。

 「神との平和」をつくりだしてくださった方はイエス・キリスト様です。
それは他の誰もなしえないことでした。そして、イエス・キリストの救いにあずかった人たちも、福音を伝えることによって神との平和を人々にもたらす役割を担っているのです。「平和をつくりだす者」と訳されているギリシア語原語は複数形だからです。

 主がこの世の中の戦争を許可しているかぎり、戦争はなくなりません。
それどころか、黙示録67.8では、主が、裁きとして戦争を導入しているのです。
何故でしょう?
何故、戦争が起こるのでしょう?
それは人の罪の故であり、その罪が実行されることを、主が許可されたからでしょう。

 もし、この世に戦争がないという意味での平和が続き、人々がキリスト・イエスを主としないで死んでいったとしたら、その人たちの死後の世界は平和ではありません(黙示録2011-15)。
罪を持ったまま死ぬことになるのですから。
イエス・キリストを信じないことは罪なのですから(ヨハネ169)。
イエス・キリストをどのように信じるのでしょう。
召使いのようなお助けマンとして信じるのでしょうか、イエス・キリストを万物の主として信じるのでしょうか、更に自分の主として信じるのでしょうか。

 ローマ109には、“自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。”(口語訳)と記されています。
「イエスは主である」と告白したら、殺されるというような場面でも、「イエスは主です」と告白することができますか、と問われています。
それができるとしたら、その人は、聖霊によってその告白に導かれているのでしょう。
1
コリント123には、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」(口語訳)と記されています。

 戦争が怖いから、戦争は悲惨だから、ということで、平和運動をする人たちは数多くいるでしょう。しかし、そのことをしている多くの人たちは地上のことだけを考えているのです。

 まだ成就していない聖書の預言は、それぞれの預言が成就する時が来れば、成就することでしょう。
 主が次のように語っておられるからです。
8 私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なる。――主の仰せ。
9
 天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。
10
 雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく、必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ、種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。
11
 そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。”(イザヤ55章・聖書協会共同訳)と記されています。
 また次のようにも記されています。
“私は、終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げてきた。「私の計画は実現し、その望みをすべて実行する」と。”(イザヤ46:10・聖書協会共同訳)と記されています。

 イザヤ24b.cには、“彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。”(2017)と記されているのは、キリストの再臨の結果です。
この文の前に記されているイザヤ24aには“主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。”(2017)と記されています。
このことは主の再臨がなければ実現しないのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは創造主です。
あなたは万物の保持者です。
あなたは聖なるお方、すなわち被造物とは一線を画しておられる立場のお方です。
三一の主なる神様以外は被造物です。
今は被造物である人間の多くが三一の神を主としないで自分を主としています。
しかし、そのような人はその刈り取りもすることになることを覚えます。
今がどのようなときかを覚え、聖なるお方の内に自分自身を置かせていただき、主を愛し、主に従い続ける歩みをする者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月27日 (月)

マタイ28:16-20 主キリスト・イエス様は天地の主権者/宣教命令

 マタイ2816-20には次のように記されています。
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
17
 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18
 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19
 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。」とあります。

イエス様は最後の晩餐が終わった後、オリーブ山へ出かけた時、すでに、復活後ガリラヤに行く、と言っておられました。

マタイ2631.32には、“31 その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。32 しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。(聖書協会共同訳)と記されています。

 もし私が11弟子の一人であったとしたら、このとき主が語られた「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」という御言葉に心をとらわれて「ガリラヤへ行く」という主の御言葉は上の空になっていただろうと思います。
何しろ、主イエス様から引き離されて散らされてしまう、というのですから。主イエス様から引き離されるということに耐えられません。今の私たちは主イエス様から引き離されませんから本当にありがたく嬉しいことです。

話を戻します。
イエス様が復活された後、女性たちは、初め天使に会い、次に復活後の主にお会いしましたが、天使もイエス様も、女性たちに「ガリラヤに行くように弟子たちに伝えなさい」と語りました。マタイ281-10には、

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2
 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降(くだ)って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
3
 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4
 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5
 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10
 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。(聖書協会共同訳)と記されています。

 16.17節には「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と記されています。

冒頭に11人と記されていますから、11人しかいないように思えてしまいますが、実は500人以上もいたのかもしれません。定かではありませんが。
1
コリント156には“その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。”(2017)と記されています。

復活の体は、復活前の体とは異なりました。とは言え、まだ、弟子たちの前に現れるときは、あまり驚かれないように調整していたと思います(ルカ2413-31、ヨハネ2014-20.24-29211-22、使徒16-9)。
栄光に輝く姿で現れた時には使徒ヨハネでさえ気絶したかのようになったのですから。
 黙示録112-17には次のように記されています。
12 私は、語りかける声の主(ぬし)を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方〔主であり御子であるキリスト・イエス(筆者挿入)〕がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。
16
また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
17
この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。”(聖書協会共同訳)とあります。
それにしても主キリスト・イエス様はすごいお姿で現れたものですね。
主はその時々の心の思いや感情に合わせて色々なお姿を見せてくださるお方なのではないかと私は考えます。

 横道にそれますが、私たちも霊の体を与えられた時は、今の体とは異なります。キリストの復活の体に似たものとなるのです。霊のからだが与えられる時は、主の空中再臨の時です。
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コリント1552に“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記され、
1
テサロニケ416.17に“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

 18節には、“イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様は、ご復活後、天の父のもとに上り、天と地の一切の権能を授かったのです。

私たちは祈る時、この主イエス様の御名によって祈ることが出来るのです。
また、キリスト者は、イエス様のうちに置かれているのです(1コリント130)。
このイエス様は長兄であり(ローマ829)、花婿なのです(エペソ532、黙示録196-8)。バプテスマのヨハネは、花婿の友です(ヨハネ329)。

私たちが、主のみ旨に叶った祈りをささげるときには必ず聞かれるのです(ヨハネ1571ヨハネ514.15)。

キリスト者の特権は絶大です。そしてそれはすべて神様からの賜物です。なんという神様の愛でしょう。神様の愛は信じられないほど絶大です。

 天と地の一切の権能を持っておられる主イエス様が、「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。」(19.20・聖書協会共同訳)と命令を下されました。そして、不安に陥りやすい弟子たちに対して、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20・聖書協会共同訳)と断言されたのです。

神の霊から新しく生まれた{新しく生まれたのは霊です(ヨハネ36)}キリスト者は、父、子、聖霊の御名(「名」は単数形)の中に浸されたのです。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と訳されていますが、「よって」と訳されている語のギリシア語原語は「エイス」でinto(~の中へ)の意です。
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コリント130には“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。”(2017)と記されています。

 マルコによる福音書16章には、

15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16 信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。(聖書協会共同訳)と記されています。

マルコ1615の内容は、マタイの福音書にもありました。

 16節には、「信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」と記されています。

信じないでバプテスマを受けても、救われていないのですから、罪に定められるのです。
一方、信じたけれどもバプテスマを受けない者については、この節には記されていません。
十字架上の強盗の一人は、イエス様を信じましたが、バプテスマを受けるチャンスがありませんでした。しかし、救われました。

イエス様を信じたら、バプテスマを受けることの出来ない何らかの障害がない限り、バプテスマを受けることは聖句からみても当然のことと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、私たちには想像できないほどの恵みを与えてくださいました。
私たちが未だその全貌を知らないだけであることを覚えます。
マタイによる福音書を学ばせてくださりありがとうございました。
これからも益々真理を教えてください。
真理と霊によって御父を礼拝するのです、と主イエス様が教えてくださっておられますから(ヨハネ424)。
天においても地においても御名が崇められますように。
主イエス様の現われをお待ちしています。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月23日 (木)

マタイ28:1-10 イエス・キリストの復活/とこしえに主と共に

 マタイ281-10には次のように記されています。
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2
 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
3
 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4
 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5
 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たち〔マグダラのマリアともう一人のマリア(筆者挿入)〕は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10
 イエスは言われた。
「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの復活に関連する記述は他の福音書にも記されていますが、多少の違いのある個所もあります。
正確を期すためには、もっと多くの字数を用いて時系列的に、書いてくれたらよかったのにと思いますが、このときの弟子たちは気が動転していた時であったので仕方がなかったのかもしれません。

 1節には、“さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。”とありますが、
ルカ2410には、“それは、マグダラのマリア、ヨハナ〔ヨハンナ(口語訳、新改訳)〕、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。”(聖書協会共同訳)と記されています。
ルカ:2410には“一緒にいた他の女たち”という記述もありますが、その女たちの中にはサロメがいました。 
 マルコ161.2には“安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 サロメについて聖書辞典は“ゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母。マコ15:40によれば、イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、そしてサロメがいた。またマコ16:1では、イエスのからだに油を塗りに行ったのは、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメとなっている。さらにマタ27:56には、十字架を遠くから眺めていた女たちの中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた、とある。これらのことから、サロメはゼベダイの子らの母であったと思われる。他方ヨハ19:25には、イエスの十字架のそばに立っていた女性として、イエスの母、母の姉妹、クロパの妻のマリヤ、マグダラのマリヤの4人があげられている。そこでサロメはイエスの母マリヤの姉妹であり、したがってヤコブとヨセフはイエスのいとこであったという仮説がある。もしそうであれば、十字架上のイエスが、母マリヤをヨハネに託したのもうなずける。しかしマコ15:41によれば、十字架を目撃した女性はこのほかにも多くいたから、マグダラのマリヤは別として、ヨハネは共観福音書と全く別の人名をあげたという可能性もあり、定かでない。”と述べています。

 ヨハンナについて聖書辞典は“イエスによって悪霊や病気をいやされた女たちの一人で、イエスの旅行の手助けをした(ルカ8:2.3)。彼女の夫は、ヘロデ・アンテパスの執事クーザであったが、彼が具体的にどのような役割を担っていたのかは不明である。ヨハンナは、イエスの埋葬のために、週の初めの日の明け方早く墓に出かけ、イエスの復活を11人の弟子に報告した女性の一人である(ルカ24:1‐10)。ルカだけがヨハンナと何人かの女性たちの名をあげているが、それは、ルカが彼女たちと知り合いで、彼女たちから情報を得ていたためであると考えられる。”と述べています。{文中の(ルカ83)を(ルカ82.3)と変えさせていただきました}

 ルカ2355-244には次のように記されています。
23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た女たちは、ヨセフの後に付いて行き、墓と、イエスの遺体が納められる様子とを見届け、56 家に帰って、香料と香油を準備した。
56
 女たちは、安息日には戒めに従って休んだ。
24
1 そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。
2
 すると、石が墓から転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに登場する香料を携えて墓に行った女性たちは、墓の石を動かす力が無かったので、墓石を動かしてくれる人が誰かいて欲しいな、と思っていました。
 ルカ241に「・・、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。」とありますが、墓に到着する前に、一つの心配事がありました。それは、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ163・聖書協会共同訳)という女性たちの会話からわかります。
また、マルコは、この女性たちが、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメであると記しています(マルコ161)。

ルカ242には、「すると、石が墓から転がしてあり」とありますが、マタイはこのところを詳しく、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。」(マタイ282)と記し、石をわきにころがしたのは天使であると記しています。

脱線しますが、
私たちも、「あの問題、どうしよう。この問題、どうしよう。」と悩むときがあります。自分ではどうすることもできない問題についての話です。
しかし、そのことを祈り、その祈りの答えを知って(or見てor体験して)、「エッ、そんなふうに解決したの、それは主が働いてくれたのだ。」と思うようなことがあると思います。
主が生きて働いておられることを体験しているに人に対しては、主イエス様の復活の真実を理論的に説明する必要もありません。
主が今生きて働いていてくださっておられること、また、いつも主と交わりをもって生活しているという実感を持っていること、主が自分の内におられること等を体験しているからです。

話を元に戻しますが、天使が現れた時の番兵の様子がマタイ282-4に、「2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記されています。

ルカ242.3には、女性たちの見たこととその後の行動について「すると、石が墓から転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」と記されています。

女性たちが天使にあったのはそのあとでした。次の4節には、「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。」とあります。

この天使は、青年のような若さに見えたのでした(マルコ165.6)。

主イエス様の弟子たちや主イエス様を愛していた婦人たちは誰も墓石が動かされたところを見ませんでした。
しかし、墓の石を開ける者がないように、墓石に封印をし、番をしていたローマの兵士は、天使が天から降りてきて墓石をわきにころがして、墓石の上に座ったのを見たのです。
その時に地が震えたのです。ローマ軍の兵士は恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったのです。
そのときの様子が、マタイ282-4に「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記されています。

 女性たちは、天使たちの言葉を聴いた後、復活されたキリスト・イエス様にお会いしたのです。再掲しますが、マタイ285-9には次のように記されています。
5 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たち〔マグダラのマリアともう一人のマリア(筆者挿入)〕は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。”とあります。

 主イエス様は、女性たちがびっくりしないお姿で現れてくださいました。
その後の弟子たちにも、主イエス様は、驚かせないような姿で現れてくださいました。

 主キリスト・イエス様は、昇天後、御父の右の座に着座されました。そして天地の主権者となられたのです(マタイ2818)。
天の神の王国は、三権分立ではありません。
法はすでに定まっています。
主イエス様は、天においても地においても一切の権威を持たれたのです。
司法と政治、軍事について、権威を持たれているのです。
黙示録1章を見ると、主キリスト・イエス様を見た使徒ヨハネ(最後の晩餐では主の胸に寄りかかっていた人です)はビックリして死人のようになったのです。

 黙示録112-18には次のように記されています。
12 私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方〔主キリスト・イエス様(筆者挿入)〕がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
 その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅〔真鍮(口語訳、新改訳、新共同訳)〕のよう〔おそらく金に似た輝きであったのでしょう(筆者挿入)〕であり、声は大水のとどろきのようであった。
16
 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
17
 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、18 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 また黙示録1911-16には次のように記されています。
11 それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。
12
 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。
13
 この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。
15
 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。
16
 この方の衣と腿(もも)には、「王の王、主の主」という名が記されていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 私たちは、どのイエス様を信じて生活しているのでしょうか。
赤子のイエス様をいつも見て、地上の母であったマリアさんの方を大きく見て生活しているでしょうか。
それとも優しいイエス様でしょうか。
それともいつも十字架にかかっておられるイエス様でしょうか。
それとも天の御座に座しておられる主権者としてのイエス様でしょうか。
主イエス様をどのように認識して生活するかによっても信仰生活はだいぶ変わってくることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私は日常においては、いつも愛してくださる優しいイエス様と一緒に生活させて頂けていますことを感謝します。
罪を示されたときには、十字架上で血を流されたイエス様を思います。
しかし、悪しき霊と対決するときには、天地万物の主権者であられる主イエス様の権威に基づき対決させていただけますから感謝します。
主を重んじる者を主は重んじられるお方(1サムエル230)であられ、主を愛する者を主は愛されるお方であられ(箴言817、ヨハネ1421)、主を愛している者を助けてくださるお方であられ(詩編9114)、主を愛している者に現れてくださるお方です(ヨハネ1421)から御名を崇め、賛美し、感謝します。
代々いついつまでも主を愛し、主にお従いして歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月19日 (日)

マタイ27:62-66、28:2-4、11-15 イエス・キリストを埋葬した墓と墓を見張ることに関係した人々

 マタイ2762-66には次のように記されています。
2762 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、63 こう言った。
「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と 民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」
65
 ピラトは言った。
「番兵を出してやるから、行って、思うとおりに見張らせるがよい。」
66
 そこで、彼らは行って石に封印をし、番兵と共に墓を見張った。”(聖書協会共同訳)とあります。
この箇所の記事内容はマタイだけが記しています。

62節に、“明くる日、すなわち、準備の日の翌日”とあります。
その日は安息日でした。即ち、安息日に、“祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって”とあるように、祭司長たちとファリサイ派の人々の自己矛盾は甚だしいものがあります。
イエス様が、安息日に病人を癒したときには猛烈に非難したにもかかわらず、祭司長やパリサイ人たちは、安息日に行動しているのです(そのように行動しても良い内容であったということなのかもしれませんが)。

 主イエス様が安息日に病人をいやしたことについてユダヤの指導者たちは批判していたのです。一例としてヨハネ51-16には次のように記されています。
1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2
 エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3
 その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。〔新共同訳は異本訳として53b-4として「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」と記しています(筆者挿入)〕
5
 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6
 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7
 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
8
 イエスは言われた。「起きて、床を担(かつ)いで歩きなさい。」
9
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
10
 そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。
今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」
11
 しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12
 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。
13
 しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。
14
 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15
 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16
 そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

祭司長やファリサイ派の人たちは、ピラトに、「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と 民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」(63.64)。と語ったのです。

 はたして弟子たちに主イエス様を墓から盗み出すというような勇気はあったのでしょうか。
その頃、弟子たちは、恐れに満たされていました。安息日の翌日(日曜日)に、イエス様が復活されたということを、マグダラのマリアや他の女性から、恐らく朝の内に(ヨハネ2011-18、マタイ288)聞いた弟子たちでしたが、それでもユダヤ人たちを恐れていたのです。それは次の聖句によって分かります。

ヨハネ2018.19には、マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(聖書協会共同訳)とあります。

弟子たちは恐れていましたから、イエス様の死体を盗み出すどころではなかったのです。
しかし、祭司長やパリサイ人たちがとった行動は、イエス様の復活を信じることが難しい者にとって役に立ちました。

何故なら、墓石はしっかりと閉められ、石には封印が張られ、かつローマ兵に墓の番をさせたのですから。

 しかし主イエス様は復活されました。ローマ兵たちは、地震が起こったこと。天使が現れ墓の入り口を閉じている大きな石を天使が転がしたこと。天使の姿が光り輝き、その衣が雪のように白かったこと等を見て体が固まってしまったのです。
 マタイ282-4には次のように記されています。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ兵たちは職務を遂行できなかったので罰を恐れて恐怖を覚えていました。ローマ兵たちはピラトのもとに帰ることもできず、祭司長たちの所へ行ったのです。祭司長たちは何と言ったのでしょうか?

マタイ2811-15aには次のように記されています。
11 女たちが弟子たちのところに向かっている間に、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
12
 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13 言った。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14 もしこのことが総督の耳に入ったとしても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
15
 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様を信じる前の私は、イエス・キリストの復活は本当か嘘か、ということについて状況証拠を分析したものです。
しかし、主イエス様を信じさせていただいて、日々主イエス様と交わりを持てるようになると、論理的なことはどうでもよく、復活された主イエス様がおられることは至極当然のようになっています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日々、主イエス様との交わりの内に歩ませていただけますことを感謝します。
恵み深き主に感謝しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月15日 (水)

マタイ27:57-61 イエス様の埋葬と埋葬に関わった人たち

 マタイ2757-61には次のように記されています。
57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフと言う人が来た。この人もイエスの弟子であった。
58
 彼はピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出た。そこでピラトは、渡すように命じた。
59
 ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩に掘った自分の新しい墓に納めた。そして、墓の入り口に大きな石を転がしてから立ち去った。
61
 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓に向かって座っていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所の並行個所であるマルコ1542-47には次のように記されています。
42 すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。
44
 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。
45
 そして、百人隊長に確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡した。
46
 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。
47
 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの納められた場所を見届けた。(聖書協会共同訳)とあります。

「アリマタヤのヨセフ」は、地位の高い議員即ちサンヘドリンの議員でした。アリマタヤは、“「高い所」を意味するヘブル語の複数形〈ヘ〉ラーマータイムに定冠詞がついた語形をギリシヤ語に音訳した地名。預言者サムエルの故郷ラマタイム・ツォフィム(ラマ)と同一視され(参照Ⅰサム1:1,19,2:11,7:17等)、エフライム山地の西部、ルダの東北東約15キロの所にある現在のレンティスと同定される。”(聖書辞典抜粋)とあります。

ルカはアリマタヤのヨセフの人となりについて次のように記しています。
「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」(ルカ2350.51・新共同訳)と。

ルカは、アリマタヤのヨセフについて、イエス様を有罪死刑とすることに同意しなかった善良で正しい人、というところに目を留めています。

ヨハネは、アリマタヤのヨセフについて、ヨハネ1938で、「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、その〔イエスの弟子ある(筆者挿入)〕ことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」(新共同訳)と記しています。

アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子であった人であると、使徒ヨハネは、はっきりと記しています。

マルコは、というよりも三度もイエス様を知らないと言ってしまったシモン・ペテロの感じ方でしょうが、マルコ1543には、「アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。」(口語訳)とあります。
{マルコの福音書について、“ヒエラポリスのパピアスが(140年頃)、ペテロの通訳者となっていたマルコが、ペテロから聞いたイエスの言行を、順序正しくではないが、記憶しているかぎり正確に書き記したと言っているように(エウセビオス『教会史』)、彼がマルコの福音書の著者であると考えられている。”(聖書辞典抜粋)と記されています。}

イエス様の弟子ではあったのですが、かつては12弟子には入っていなかったアリマタヤのヨセフの言動を見て、主イエス様を3度も否んでしまったペテロにとって、アリマタヤのヨセフは、よくも大胆なことが出来るなー、という感じであったのだろうと思います。

また、ヨハネ1939には、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ〔約33kg(筆者挿入)〕ばかり持って来た。」(新共同訳)とあります。ニコデモは、ヨハネ31では、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員(新共同訳)と紹介されています。

このニコデモは、イエス様に対する祭司長たちや議員たちの主張に対して、それを真っ向から否定することは出来なかったとしても、やんわりとあなた方は間違っているのではないですか、と言ったことがあります。しかし、直ちに却下されましたが。それはヨハネ7章に記されています。これは恐らく過越しの祭りの約半年前の仮庵の祭りの時でした。

その時、ニコデモが議員たちに語った内容は、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ751・新共同訳)というものでした。祭司長たちや議員たちは、すでに仮庵の祭りの頃にはイエス様を捕らえたかったのです(ヨハネ732.45)。

しかし、仮庵の祭りにイエス様が捕らえられることは決してなかったのです。

仮庵の祭りは、キリストの1000年王国の予表であり、過越しの祭りがキリストの十字架による贖いの予表であったからです。

マルコ1544には、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。」(聖書協会共同訳)とあります。

イエス様の左右にいた強盗は、イエス様が息を引き取られた時、まだ生きていたので足のすねを折られて、早く死ぬようにされたのです。十字架刑では死ぬまでにもっと多くの時間を要するのが一般的であったことがピラトの言葉からわかります。

イエス様は、人によって十字架につけられたから命を落とした、というのではなく、ヨハネ1930に「完了した。」(新改訳)「成し遂げられた。」(新共同訳)とあるように、贖いをなし終えたので、父なる神様に「わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ2346)とご自分の意思によって霊を御父にゆだね、肉体の死を迎えたのだと思います。

ヨハネ1017.18には、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟(おきて)である。」(新共同訳)とありますから。

イエス様を納めた墓についてですが、マタイ2757-60には、
57 夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
58
この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
59
ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。2017)と記されていて、マタイの福音書からは、アリマタヤのヨセフは、金持ちであり、イエス様を納めた墓は、アリマタヤのヨセフが自分の為に造った{だれも葬られたことの無い(ヨハネ1961)}新しい墓であったことが分かります。

埋葬の仕方については、ヨハネ1939.40に、
39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
40
彼ら〔アリマタヤのヨセフとニコデモ(筆者挿入)〕はイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いた。2017)とあります。

マルコ1546.47には、「墓の入口に石をころがしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。」とあります。
マタイはこのところを、「墓の入口に大きな石をころがしておいて、立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。」(マタイ2760.612017)と記しました。

またルカは、「この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」(ルカ2354-562017)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様を十字架から取り下ろし、埋葬するときには、使徒たちを用いられたのではなく、アリマタヤのヨセフを用いられました。
あなたは、しかるべき時のために、しかるべき人を備えてくださっておられることが分かります。
埋葬に関して手際よく事を行ったのは、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。
私たち人間には、未来は隠されているので、それを予想したり、心配したりしますが、あなたは私たちの未来についても配慮してくださっておられる方ですから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2023年11月11日 (土)

マタイ27:48-56 御父と直接交わりを持つことができるようにしてくださった主イエス様

 マタイ2748-56には次のように記されています。
48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51
 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52
 墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53
 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
54
 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
55
 またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
56
 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 48-50節の箇所を補うためにヨハネ1930-37を下記します。
30 イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32
 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
33
 イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。
34
 しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35
 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36
 これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37
 また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」〔ゼカリヤ1210参照{キリストの地上再臨に関連する預言}(筆者挿入)〕とも書いてある。(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1931には“その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。”と記されています。

 「その日は準備の日で」とあります。
何の準備の日であったのでしょうか。
イエス様が十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。日没とともに土曜日の安息日が始まるのがユダヤの暦です。その上、この安息日は一年の中でも特別の日で過越しの祭りの第一日目であったのです。 

またユダヤ人たちが安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすようにと、ピラトに願い出た理由は、申命記2122.23の聖句が根拠なのかもしれません。次のように記されています。
22 ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。
23
 あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。”(聖書協会共同訳)と記されているからです。

 ヨハネ1932.33には“そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。”と記されています。

また、ヨハネ1936には、「これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。」と記されています。
これは、詩篇3421(新改訳は20節)に記されている「彼の骨をすべて守り、その一本も砕かれることはない。」(聖書協会共同訳)という預言の成就であったのですよ、とヨハネは語っているのでしょう。

ローマの兵士は、イエス様が死んでいるのを見届けた(33)にもかかわらず、兵士のうちのひとりがイエス様のわき腹を槍で突き刺した(34)のです。すると、ただちに血と水が出て来た(34)のです。

「血と水が流れ出た」(34)ということについて考えてみます。
イエス様の血は、罪を贖う血です。イエス様の血によって罪は赦され、聖くされるのです。
「水」にはいくつかの解釈がありますが、私は、ここでは「生ける水」と捉えたいと思います。
イエス様はかつて祭りの終わりの大事な日に“「37 渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章・聖書協会共同訳)と言われました。
また、その御言葉についてヨハネは次のように解説しました。
「イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。” (ヨハネ739・聖書協会共同訳)と記されています。

 神の霊から霊の新生を受けた人がキリスト者です(ヨハネ33.6)。キリスト者はキリストの霊を持っています(ローマ89)。

神様は、アダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを造り(創世記27)、アダムの妻としました(創世記222-24)。
神様は、イエス様の脇腹から流れ出た血と水によって、新創造された(2コリント517)キリストの妻である教会を生み出しました(エペソ532)。

人は、自分の行いによって義を得るのではなく、キリストの血によって、罪を赦され、聖とされ、義とされるのです。キリストの血はすでに流されましたが、その血を自分に適用する為には信仰が必要です。自分の行いに重きを置いた時には、キリストの血を脇に退けているのです。キリストの血の他に救いはありません。キリストの血だけが救いの根拠です。キリストの血に目を留めることを忘れ、自分の行いに目を留める人は洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。

 マタイ2750.51には“50 ・・、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、”(聖書協会共同訳)と記されています。

「神殿の垂れ幕」といってもイスラエル人でない者、或いは旧約聖書を読んだことのない者にとっては、何のことか分かりませんので、わかり易く書いてあるヘブライ(ヘブル)91-7を次に転記します。
1 ところで、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
2
 すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台、台、供えのパンがありました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
3
 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
4
 そこには、香をたく金の祭壇と全面を金で覆われた契約の箱があり、その中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板がありました。
5
 また、箱の上では、栄光のケルビムが贖いの座を覆っていました。これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。
6
 以上のものがこのように整えられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
7
 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。(聖書協会共同訳)とあります。

キリストの贖いが成就した時、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです(マタイ2751)。そして、イエス様を信じる者は、イエス様の血によってはばかることなく、神の臨在の場所へと入ることが出来るようになったのです。

ヘブライ(ヘブル)人への手紙91-7に続いて、98-15には次のように記されています。
8 これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます。
9
 この幕屋とは、今〔ヘブライ人への手紙が書かれた当時(筆者挿入)〕という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえが献げられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10
 それらは、ただ食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
11
 しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと 大きく、もっと完全な幕屋を通り、
12
 雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13
 雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、
14
 まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。
15
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様の血は、レビ記に記されているいけにえの血による贖いの本体であったのです。旧約時代のいけにえは主イエス様を指し示す予型でありました(コロサイ216.17)。

 

また、ヘブライ(ヘブル)415.16には、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。16 それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が贖いを成し遂げられた結果、誰でもイエス様の血の故に、大胆に恵みの御座の前に出ることが出来るようになったことを、上から下まで割かれた神殿の垂れ幕を見ることによっても納得させられるのです。

話しを元に戻しますが、マタイ2754には“百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が十字架上で過越しの子羊、即ち予型ではなく実体である神の子羊として贖いを成し遂げられた後は、ユダヤの過越しの祭りは必要がなくなったのです。しかし、霊の目が開かれない人達は旧約聖書に示された祭りを続けていきました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、御子なる主イエス様の御父と直接交わることができるようにしてくださいました。
これは本当に驚嘆すべきことです。
ヤハウェ(主)はかつてモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33202017)と言われたことを思い出します。
私たちも直接御父を見たわけではありませんが、御父に親しく祈りを献げ、交わりを持たせていただくことができるのですから大感謝です。
あなたは、私たちが、あなたを賛美し、あなたに祈り、あなたの御言葉を心に留め、あなたを愛してあなたにお従いすることを喜ばれます。
日々、あなたに喜ばれる歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 7日 (火)

マタイ27:45-50 (贖いが)完了した/テテレスタイ/主イエスを信じる者は救われる

 マタイ2745-50には次のように記されています。
45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
46
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48
 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1928-30には次のように記されています。
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29
酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”(2017)とあります。

 主イエス様は、「完了した」と言われました(ヨハネ1930)。「完了した」という語がギリシア語で「テテレスタイ」とギリシア語聖書に記されていますが、おそらく主イエス様はヘブライ語で語られたのでしょうね。「完了する」「終える」のヘブライ語に「シャーレーム」or「シェラム」というのがありますが、この個所では何といったのでしょう。ご存知の方は教えてください。
(余談になりますし、私の想像も入っていますが、主イエス様の贖いがシャーレームorシェラムし、主イエス様への信仰がシャーレームorシェラムした人の心はシャ-ローム(平安)になります。シャーレームorシェラムとシャ-ロームの子音字は同じで母音記号が異なるだけです。)

 主イエス様による贖いの完了、なんとありがたいことでしょう。
私たちのすべての罪が赦されたのです。
私たちは、主のものとして贖われたのです。
ハレルヤ!
エフェソ(エペソ)17には“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)とあります。
コロサイ114には“この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”(2017)と記され、
ローマ324には“神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。”(2017)と記されています。

 「贖い」という概念は、“ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身代金(みのしろきん)を払って身受けするという概念である。”と聖書辞典に記されています。
黙示録5章には次のように記されている個所があります。
7 小羊〔贖いとなられた主イエス様(筆者挿入)〕は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った。
8
 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は 聖なる者たちの祈りである。
9
 そして、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなた〔御子キリスト(筆者挿入)〕は、屠られて、その血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い
10
 彼らを私たちの神に仕える御国の民、また祭司となさったからです。彼らは地上を支配するでしょう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は十字架上の贖いによって、罪の赦しを成し遂げ、また私たちを買い取ってくださったのです。
なんとありがたいことでしょうか。

 マタイ2745には、「昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。」とあります。
ルカ2344.45には、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と記されています。

 全地が暗くなったのは、父なる神様が御子に対して御顔を隠されたことの象徴であると思います。
神との断絶or分離、それは霊における死を象徴しています。
この時、イエス様は、それまで絶えざる豊かな交わりを持っていた御父と分離したのです。即ち、すべての人類の罪を負って罰を受けたのです。
それは、マタイ2746に「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と書いてある通りのことです。

 イエス様の十字架刑の約1000年前に記された詩篇221に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(新改訳初版~第三版)とあります。
これはイエス様の十字架の預言であったでしょう。或いはダビデが体験したことが予表となっているのかも知れませんが。

 イエス様が、この言葉を発した時、神様に裁かれていたのです。
神様(父なる神様)に裁かれる前までの御子イエス様と御父との関係は、「わたしの父よ」とか「わが父よ」という関係でした。また「わたしと父とは一つです」と言える関係でした。
しかしここでは、「わが神、わが神」に変わっています。その内容も霊的な死を意味する神との分離です。

 イエス様がこの言葉を発せられた時は、すでに3時ごろでした。
十字架刑終了の間際でありました。
イエス様が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言葉を発せられると、十字架の近くにいた人たちの言動は次のようでした。
“47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。

48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。とあります。

 そして、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(50)とありますが、イエス様が息を引き取られる前に、イエス様が語られた大切なおことばが他の福音書に記されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の次のおことばは、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928)のおことばです。
マタイ2748には「するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。」とありますが、この行為は、イエス様が、「わたしは渇く。」と言われたからでしょう。
常に、父なる神様と共におられた方が、父なる神様から分離させられたのです。
それは暗闇に覆われた状態でありましたし、また、単にのどが渇いたということだけではなく、心が渇いた、干からびた状態になったということでしょう。それらのことを表わしていたのだろうと思います。
肉体的なのどの渇きは相当前からあったことでしょう。それも相当に激しく。何故ならどう考えても脱水状態にあったのですから。

 イエス様は、「わたしは渇く」と言われた後、「完了した。」(新改訳)、「成し遂げられた。」(新共同訳)と語られたのです(ヨハネ1930)。
贖いが成し遂げられたのです。贖いは完了したのです。


そして、イエス様は大声で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取ったのです(ルカ2346)。マタイ2750は、ただ、「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」と記されてある内容をルカは詳しく記してくれたのです。


神の裁きが済んで「完了した」と言われたイエス様と神様の関係は、「父よ。」という呼びかけで分かるように、親と子の関係に戻っています。

 イエス様が贖いを成し遂げてくださったので、イエス様を信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ28に“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017)と記されていますが、その聖句の通り、主イエス様の贖いの成就に基づき、主イエス様を信じる信仰によって救っていただけますから感謝します。
主イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人はすでに救われていますが、現在求道中の人も、主イエス様を信じて救いを自分のものとすることができますように。
御父の御愛と御子であり主であるイエス様の贖いと信仰を導いてくださる御聖霊に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「われ贖(あがな)われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり 
(折り返し)* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ! ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて 「ハレルヤ」を叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主は我がもの 御霊の証しは 心にあり *”

2023年11月 3日 (金)

マタイ27:38-44 十字架につけられたイエス様とイエス様の両脇に十字架につけられた強盗達2/パラダイス

 マタイ2738-44には次のように記されています。
38 同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
39
 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、40 言った。
「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
44
 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様と共に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられました(38)。
二人の強盗たちも、最初の内は、通りかかった人たちや祭司長たちや律法学者たち及び長老たちと一緒に、「神殿を壊し、三日で建てると言ったのだろ。神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてみろ。」とか、「他人は救ったのに、自分は救えないのか。イスラエルの王なのだろ。今すぐ十字架から降りてみろよ。」というように、イエス様を罵ったのだろうと思います(39-44)。

 主イエス様を嘲っていた人たち、すなわち宗教指導者や民の長老たちをはじめとして一般人に至るまで、主イエス様が様々な奇跡を行ったことを認めていました。
主イエス様が行った奇跡は、メシアとしてのしるし(証拠)でもあったのです。
特に宗教指導者たちは、聖書の聖句を思い出すべきでした。
 とはいえ、バプテスマのヨハネも、イエス様のメシア性について疑惑を持ってしまったことがありました。それは牢につながれていたときでした。
 その時の記事がマタイ112-6に次のように記されています。
2 さて、ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
4
 イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病〔ツァラート(2017)〕を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 私につまずかない人は幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 上記の5節の、主イエス様が語られた内容は、イザヤ355.6とイザヤ611の個所のメシア預言でした。
特に、イザヤ611の預言の成就を主イエス様はナザレで宣言されたのです。
 ルカ416-21には次のように記されています。
16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。
17
 預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。
18
 「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。
21
 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。”(聖書協会共同訳)とあります。

さて、マタイ2738-44の並行記事がルカ2333-43には、もう少し詳しく次のように記されています。
33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34
 〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。
35
 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36
 兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38
 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
39
 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。
「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
40
 すると、もう一人のほうがたしなめた。
「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
43
 するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園〔パラダイス(新改訳、口語訳)〕にいる」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、自分を十字架につけた兵士たちや嘲弄している人たちの為にもとりなしの祈りをしました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)と。

 このとりなしの祈りの恵みに最初にあずかった人は、イエス様の隣の十字架につけられていた一人の強盗でした。
この強盗は心を変えられました。
 ルカ2340-42には、
“40
すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41
 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。」と記されています。

 初めは悪口を言っていた強盗の一人が、もう一人の悪口を言い続けている強盗に対して、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめたのです。
更に、イエス様に対して、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とお願いしました。

 イエス様は、「お前も今までさんざん私に悪口を言っていたではないか」、とは言わずに「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)と言ってくださったのです。

 ここで主イエス様が言われているパラダイスは天国ではありません。
イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳初版~第三版)と言われたのです。

 主イエス様は、十字架上で贖いを成就した後、黄泉(よみ)に下ったのです。
主イエス様が御復活なさる前の黄泉は、良い場所と悪い場所〔エゼキエル3218-26参照(筆者挿入)〕に分かれていました。良い場所の方は、アブラハムの懐(ふところ)とも言われていました(ルカ1622)。

 アブラハムの懐にいた神ヤハウェ(主)を信じていた義人たちは、主がご復活された後、天へと行ったのだと思います。
私は、エペソ48を新共同訳を基に次のように解釈します。
“そこで、〔主イエス様は(筆者挿入)〕高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き〔黄泉の良い場所にとらわれている人を天国に連れて行き(筆者挿入)〕、・・・。”というように。

 これも想像になりますが、パラダイスは「園」の意ですが、天国にも園があることが聖書から分かります。神の王国の園です。
2
コリント122-4には次のように記されています。
2 私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです。
3
 私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
4
 その人は楽園〔パラダイス(2017)〕にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
 
また黙示録27には、“耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイス〔楽園(新共同訳)。園(筆者挿入)〕にある。”(2017)と記されています。

 パウロは、ローマ56-11
“6
 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7
 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
8
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
9
 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10
 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11
 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。(聖書協会共同訳)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ17には“キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017)と記されています。
主イエス様の贖いに感謝します。
私は、創造者であられる主なる神様を認めず、進化論を信じ、神である主が主権者であるにもかかわらず、それを認めずに自己中心的に生きてきた者です。まさしく神の敵として歩んできた者です。
そのような私をも主は救ってくださいました。
三一の主なる神様に感謝と賛美を捧げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月30日 (月)

マタイ27:32-44 十字架につけられたイエス様とイエス様の両脇に十字架につけられた強盗達1

 マタイ27.32-44には次のように記されています。
32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人〔ギリシア語原語は「クレーナイオス」(筆者挿入)〕に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。
37
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。”(新共同訳)とあります。

 33.34節を2017は次のように記しています。
33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。”と訳しています。

 34節の「苦味」と訳されている語のギリシア語原語は「コレー」で、「鎮痛剤」の意もあります。マルコ1523には「没薬」とあり、マルコ1522.23には次のように記されています。
22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23
彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。”(2017)とあります。

 イエス様の十字架は、私たち罪人を贖うための十字架です。
それ故、苦味の入ったぶどう酒を飲んで痛みを和らげることなく、痛みのすべてをそのまま受け入れる必要があったのでしょう。
イザヤ5311には“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。”(新共同訳)と記され、
この個所を2017は“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。”と記しています。
イザヤ53章は、イエス様の十字架よりも七百年位前に預言として記されたものです。

 もし弱虫の私がイエス・キリストを信じる信仰のゆえに十字架につけられることがあったなら、没薬ではなく、モルヒネが欲しいですね。キリスト者は死ねば天国です。

 35節には“彼ら〔ローマの兵士たち(筆者挿入)〕はイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。”(2017)と記されています。
並行記事であるヨハネ1923.24aには次のように記されています。
23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
24a
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。”(新共同訳)とあります。

 詩篇2218には“彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。”(2017)と預言されていました。この預言はキリストの十字架の千年位前のものでした。

 39.40節には次のように記されています。
39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(新共同訳)と。
主イエス様は、三日目に復活されたのです。
主イエス様のお体こそ神の霊が住んでおられる神殿でした。
新約時代、キリスト者のからだは、神の霊が住んでくださっておられる神殿(宮)です(1コリント316,619)。”

 「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」という者たちもいましたが、もしイエス様が十字架から下りてしまわれたら、贖いが成就せず、この世に救われる者がいなくなってしまうのです。そして、すべての人が、自分の罪のために死に、死後に裁きを受け、行先は火の池に行くことになります(黙示録2011-15)。

 宗教指導者たちや民の指導者たちも、主イエス様が行った善き業を認めていました。
42
節を読むと、指導者たちも、主イエス様が、「他人を救った」と認めています。
使徒ヨハネは、主が行われたさまざまな奇跡をヨハネの福音書の2-11章に7つのしるし(ヨハネ21-11446-5451-961-14616-2191-12111-44)として記しました。その意図は、イエスがキリストであることを明らかにするものでした。主イエス様を信じた人は信仰を強められたのです。一方、イエスがキリストであるというしるしや証しを見、また聞いても信じない人は罪に定められたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の十字架を自分のものとして信じさせていただけましたことを感謝します。
主イエス様が贖いを成就してくださらなかったならば、私の行き先は火の池でした。
主イエス様の十字架、復活、昇天、高挙のゆえに、私も御父の最大の祝福の内に主イエス様と共にとこしえに生きることができますことを感謝します。
御名に感謝と賛美をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月26日 (木)

マタイ27:27-31 ローマ兵から侮辱されたイエス様

 マタイ2727-31には次のように記されています。
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
28
 そして、イエスの着ている物を剥ぎ取り、深紅の外套を着せ、
29
 茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
30
 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。
31
 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 28.31節には“、「深紅の外套」(28節)、「外套」(31節)、と出てきますが、新共同訳スタディ版の注は、“おそらくローマ兵のマントかケープ”と記しています。
主イエス様がヘロデのもとに送られたときにも、ヘロデから外套を着せられて送り返されています。ルカ236-11には次のように記されています。
6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねた。
7
 ヘロデの管轄下にあると分かると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデもその頃、エルサレムに滞在していたからである。
8
 イエスを見ると、彼は非常に喜んだ。というのは、イエスの噂を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
9
 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
10
 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しい口調で訴えた。
11
 ヘロデも、自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱したあげく、きらびやかな衣〔はでな衣(2017)〕を着せてピラトに送り返した。”(聖書協会共同訳)とあります。
主イエス様は、ヘロデからきらびやかな衣〔はでな衣(2017)〕を着せてピラトに送り返されたのです。
この衣はどうなったのでしょうね。
さて、ヘロデは皮肉を込めて王が着るような外套をイエス様に着せたのです。
ヘロデも最後の審判のときには、王の王である主イエス様の前に立つのです。
一時の王がまことの王の前で判決を受けるために。

 脱線しますが、ルカの福音書には、ヘロデから送り返されてきたイエスについて、次のような総督ピラトの言葉が2313-16節に記されています。
13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。
「あなたがたは、この男が民衆を惑わしているとして私のところに連れて来た。私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えているような罪はこの男には見つからなかった。
15
 ヘロデもそうだった。それで、我々のもとに送り返してきたのだ。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16 だから、懲らしめたうえで釈放しよう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 兵士たちは、主イエス様を侮辱し、暴力を振るいました(マタイ2728-31)。
茨の冠は、とげが頭にささって痛いというだけではなく、宝石等でできている王冠の代わりでした。
兵士たちには分からなかったでしょうが、茨は、呪いの象徴でした(創世記317.18、へブル68)。
主イエス様は、私たち罪人の上にある呪いを代わりに負って十字架にかかられるのです。
今日の個所ではありませんが、兵士たちは、その後主イエス様を、太い釘で十字架に打ち付けたのです。
十字架につけられた主イエス様は、この兵士たちをも含めた罪人に対してとりなしの祈りをしたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)と。

 この兵士たちだけではありません。
私たち人間は、生まれながらに、御子であり、主であり、救い主となってくださった(ヘ)イェシュア(イエス)様を信じ、すなわち心に受け入れて生まれてきたわけではないのです。すなわち罪人として生まれてきたのです。
ヨハネ169には「罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(リビングバイブル)と記され、
詩篇515には「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」{2017(新共同訳は7節)}と記されています。
 私たち人間は、まことの神を神とも思わず、神に感謝もせず、生まれてきた者です。
そして、ここで見る兵士たちと同じように罪の中を歩んできたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)という救い主イエス様のとりなしは私たちに対しても当てはまります。

 ニュースなどを見ていると、「ユダヤ人はイエスを殺した悪い奴だ」というようなクリスチャンもいることに驚かされます。
イエス様を十字架につけたのは、私たち罪人ですから。
私たちが罪を犯さなかったら、主イエス様は私達の身代わりとして十字架にかかる必要はなかったのです。
現在、ハマスがユダヤを襲ったことで戦争が勃発していますが、私は、どちらか一方だけを応援することはできません。
かのISISの暴力的な人からも、悔い改めてキリスト者になった人がいるということを聞いています。
ロシアがウクライナに侵攻したことで、ウクライナの人たちの中から、イエス様を個人的な救い主として信じるようになった人たちが起こされているということも耳にします。
私には、だれがイエス様を信じて救われるのか分かりません。
地上で、平和で豊かな生活を送ったとしても、罪人のままで死んだならば、最後の審判の時に、有罪を宣告されて永遠の処罰を受けるのです(黙示録2011-15)。
この地上におかれている間に、唯一なすべきことは、主イエス様を信じることです。それに勝る何物もありません。
そして、キリスト・イエス様を信じて救われた者は、キリストの証人として生きていくのです。

 余談になりますが、戦争になると、Aが悪い、いやBが悪い、いやそれだけではなくCも悪い、と地上のことだけを考えがちですが、戦争の背後には悪魔(サタン)の策略もあります。
主は、人の欲望や恨み及びサタンの策略からもたらされる戦争状態をも用いて、人々に永遠の命を提供したいと望んでおられる善なるお方なのではないかと思います。
この世の最後に大患難時代が来ます(主を待ち望んでいるキリスト者は大患難時代前に携挙されます)が、ユダヤ人が大迫害を受ける大患難時代の第一目的は、それを通してイスラエル人が、イェシュア(イエス)をハマシアハ(キリスト)と信じ、救われるためです。私たち人間は、地上の平和、地上の幸せ、地上の豊かさ、・・・と地上のことだけを考えがちです。しかし主は、地上のことにも配慮してくださいますが、永遠の観点から物事を考えられるお方です。

それ故私は、戦争状態にある地域や人々について、主が教えてくださった祈りの中から「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と、とにかく「御心がなされますように」と、また、天使たちが祈っていたように「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和(平安)がみこころにかなう人々にあるように。」と祈ることが精一杯です。
いと小さき私は、世界が平和になることを願いつつも、愛にして、また義なる、そして全知全能である神様にすべてをゆだね祈ります。主が最善をなしてくださいますようにと。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたはすべてを予知なさるお方です。
あなたは悪しき霊たちや人間が悪を行っても、その行為をも用いて、それをあなたに在って、良きことへと用いられるお方ですから御名を崇めて賛美します。
主イエス様は、私たちを救うために、侮辱を甘受し、暴力を甘受し、十字架上で贖いを成し遂げてくださいました。
ありがとうございます。
私たちキリスト者は、あなたの証人として歩みつづけていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。

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