日毎の恵み17

2024年1月 2日 (火)

箴言27:9 主に在る良き友が与えられますように/素晴らしい助言者、もっとも良き友、最高の夫であるキリスト・イエス

 箴言279を、
2017
は“香油も香も心を喜ばせる。友の慰めは自分の考えにまさる。”と訳し、
聖書協会共同訳は“油や香は心を楽しませる。友人の優しさは香木〔別訳「魂の勧め」(欄外注)〕にまさる。”と訳し、
新共同訳は“香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる。”と訳し、
リビングバイブルは“友に励まされるのは、香水をかぐように気持ちの良いものです。”と訳し、
口語訳は“油と香とは人の心を喜ばせる、しかし魂は悩みによって裂かれる。”と訳し、
文語訳は“膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり  心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし”と訳しています。

 日本でもアロマを楽しんだり、アロマによって心を癒されたりしている人がいますね。
歴史をさかのぼると、日本でも「香を聞く」というのがありますね。
漢方薬でも、気剤という成分の入っている薬剤を煎じていると飲む前から香りによって鬱々としていた気持ちが晴れてくるということがありますね。
まさしく「香油も香も心を喜ばせる」(2017)という状態です。

 さて、口語訳聖書以外の日本語訳聖書は、後半部分を「友の慰めは自分の考えにまさる」(2017)、「友人の優しさは魂の勧めにまさる」(聖書協会共同訳の別訳)、「友人の優しさは自分の考えにまさる」(新共同訳)というように訳しています。
個人的には、意訳されている文語訳のように「膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり 心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし」という訳に共感を覚えます。

 口語訳聖書は後半部分を「しかし魂は悩みによって裂かれる」と訳しています。
どうしてそのように訳せるのだろうか、と思い、ヘブライ語聖書の聖句を調べてみると確かに口語訳のように訳すことも可能なのです。
心にとって、良くないほうの訳を私なりに訳すと、「しかし、あなたのパートナーの魂のもくろみ(計画)は、ひどい(最悪である)」となります。

 現実の人間関係を眺めると、「膏(あぶら)と香(こう)とは人の心をよろこばすなり。心よりして勧言(すすめ)を與(あた)ふる友の美しきもまた斯(かく)のごとし」という場合もあれば、「油と香とは人の心を喜ばせる、しかし魂は悩みによって裂かれる。」(口語訳)or「油と香の香り成分は、人の心を晴れ晴れとさせ、また楽しくさせますが、あなたのパートナーのもくろみは魂を引き裂くようなひどいものです」(私的意訳)という両方の状態がありますね(人間関係はこれ以外にも色々とありますが)。

 主イエス様と親しい交わりを持ちながら歩んでいる人は、主イエス様が、友の様であり、ご主人様であり、愛深き夫のようでもあることを経験しながら生活していることと思います。

 御父は、新生させていただいた私たちの霊と主の霊とを霊の領域において結び合わせ一つとしてくださいました。
1
コリント617には「主と交わる者は、主と一つの霊になるのです」(2017)、「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」(新共同訳)、「主に合ものは一靈となるなり」(元訳)と記されています。

 キリスト様は最高の夫です。
 エペソ5章には、
25 ・・キリスト〔花婿(筆者挿入)〕が教会〔キリストの花嫁(筆者挿入)〕を愛し、教会のためにご自分を献げられた・・。/
22
妻たちよ。・・、自分の夫に従いなさい。
32
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。”(2017)と記されています。

 霊と魂とは異なります。
私たち主キリスト・イエス様を信じたキリスト者の魂は、救われています(1ペテロ18.9)が、魂が全く聖とされるまでは、救われる以前の考え方、感じ方、善悪の判断の仕方等を、聖とされていない部分で引きずっていますから、肉的部分が多い状態であるほど、主と一つ、という感じを抱くことは難しいことだと思います。しかし魂の様々な部分が聖とされていくと、主と一つであるということを実感していくことでしょう。

 上記文章の関連聖句を下記します。
1
ペテロ18.9には「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(2017)と記され、
ガラテヤ519-21には「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」(口語訳)と記されています。

 主なる神様による肉の処分方法と歩み方を下記しておきます。
ガラテヤ524.25には「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊〔神の霊。御霊。(筆者挿入)〕の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(新共同訳)と記されています。

 「わが友主イエスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友主イエスは われを見出(みいだ)し 引き寄せ給いぬ 愛の糸もて 御そばに侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主は我がもの 我は主のもの
2.わが友主イエスは 罪ある我を 贖い給えり 命を捨てて この身と魂(たま)をば 主よ 取り給え すべてはながもの 我がものはなし
3.わが友主イエスは いとも優しく 慰め 励まし また守り給う 悩みも 剣も 飢えも 裸も 引き裂くあたわじ 主より我が身を”

 「慈しみ深き」(讃美歌312 新聖歌209
“1.慈しみ深き 友なるイェスは 罪 咎(とが) 憂(うれ)いを 取り去り給う 心の嘆きを 包まず述べて などかは降(おろ)さぬ 負(お)える重荷を
2.慈しみ深き 友なるイェスは 我らの弱きを 知りて憐れむ 悩み 悲しみに 沈めるときも 祈りに応えて 慰め給(たま)わん
3.慈しみ深き 友なるイェスは 変わらぬ愛もて 導き給う 世の友 我らを 棄(す)て去るときも 祈りに応えて 労(いたわ)り給わん”

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
良きもののすべて以上である主イエス様を与えてくださり感謝します。
主を愛し、主に信頼し、主にお仕えし続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。」(エペソ13・リビングバイブル)

2024年1月 1日 (月)

2024年 新年のご挨拶 皆様の上に天父よりの御祝福が豊かでありますように

 主の御名をほめたたえます

いつもトミーの聖書理解のブログを読んでくださっておられる方々に感謝します。

昨年の私は、ままならない体を引きずって生活していました。

15年前に心筋梗塞になり、その時に入れたステントの個所に、もやもやしたものが沢山付き、また、3本ある冠動脈のどれも狭窄して危険になっている個所も生じていたからです。

現在もそのために、あと2回は入院して治療する必要があります。

その他にも手術しなければならない箇所があります。

また仕事の方も、やめないでほしいと言われる方々が数多くおられるので、後期高齢者になっても、お仕事を続けさせていただいている状況の中にあります。

その様な中、「主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩編37:5抜粋・2017)という聖句が心を占めました。主が与えてくださったのでしょう。

今年も、私に関わる全てのことを成し遂げてくださる主に信頼して歩ませていただきたいと思います。(詩編138:8、57:2、37:5)

栄光在主!

ハレルヤ!

2023年12月31日 (日)

詩篇105:16-23 主がヨセフをエジプトに遣わす4/すべてに時あり。主に信頼して歩む

 詩篇10516-23には次のように記されています。
“16
 主はその地に飢饉を呼び、パンの蓄えをことごとく絶った。
17
 主は一人の人を彼らより先に送った。ヨセフが奴隷として売られたのだ。
18
 人々はヨセフの足を足枷で痛めつけ、首には鉄の首輪をはめた。
19
 主の言葉が実現する時まで主の仰せが彼を試した。
20
 王は人を送って彼を解き放ち、もろもろの民の支配者が彼を自由にした。
21
 王は彼を王宮の頭とし、すべての財産を管理する者とした。
22
 それは高官らをヨセフの思いのままにするため。ヨセフは長老たちに知恵を授けた。
23
 イスラエルはエジプトに入り、ヤコブはハムの地に寄留した(聖書協会共同訳)とあります。

 前回は、献酌官長と料理長とヨセフをテーマに記しました。

 創世記4020-411には次のように記されています。
4020 三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオはすべての家臣のために祝宴を催した。そして、家臣の集まる真ん中で献酌官長の頭と料理長の頭を上げさせた。
21
 ファラオは、献酌官長をその献酌の仕事に戻したので、彼は杯をファラオの手に献げるようになった。
22
 しかし、料理長は木に掛けた。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりである。
23
 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。/
41:1
 それから二年たって、ファラオは自分がナイル川のほとりに立っている夢を見た。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨセフは、献酌官長に次の様に言っていたのです。
14 そこで、あなたが幸運に恵まれたときには、私を思い出し、どうか私に慈しみを示してください。ファラオに私のことを話し、この獄から私が出られるようにしてください。15 私は実はヘブライ人の地からさらわれて来たのです。またここでも、私が地下牢に投げ込まれるようなことは何もしていないのです。」(創世記40章・聖書協会共同訳)と記されています。

 しかし献酌官長は、ヨセフのことを知らせませんでした。
41:1
には「それから二年たって」と記されています。
ヨセフは献酌官長の夢を解き明かしてあげた(それが可能であったのは神様の霊によることです)のに、そして献酌官長に自分の救出を頼んだのに、献酌官長はヨセフのことを忘れ、ヨセフは二年間も獄の中に留め置かれたのです。

 ヨセフが普通の人であれば、やけを起こした(自暴自棄になった)ことでしょう。
そして神様に文句を言ったかもしれません。
神様がヨセフに、「すべてに時あり」ということを教えられたかどうかは聖書に記されていませんが、私たちキリスト者は主から与えられた聖書を通して学ばせていただいています。

 また献酌官長を通して、多くの人は、自分のことで精一杯or自分さえよければ他人はどうでもよい、というようにはなはだ自己中心的であることを覚えます。たまにはいつも他者の幸せを考えに入れるような人もいますが。

 実は、献酌官長がヨセフのことを知らせなかったことにも神ヤハウェ(主)のご配慮があったのだということをその後の展開から教えられます。
神様のなさることは時にかなってうるわしいのです。

 ファラオが献酌官長を基の職に戻してから2年が経ちました。
その時、ファラオは意味のある夢を見ました。
しかし、その夢を解き明かせる者がエジプトの魔術師や賢者の中にはいなかったのです。
献酌官長は、その時、ヨセフのことを思い出し、ファラオにヨセフのことを話しました。
ヨセフはファラオに呼び出されました。
ヨセフはファラオの夢を解き明かすとともに、夢の中の凶事に対する対策をもファラオに語ったのでした。
その結果、ファラオは、ヨセフを牢から出しただけではなく、エジプトの宰相にしたのです。
ファラオはヨセフを神の霊の宿っている人だと認識したゆえです。
(以上は創世記411-45のダイジェストです)

この時、ヨセフは30歳になっていました。ヨセフは17歳の時に奴隷にされたのです。

 詩編10517b-21には次のように記されていました。
17 ・・・。ヨセフが奴隷として売られたのだ。
18
 人々はヨセフの足を足枷で痛めつけ、首には鉄の首輪をはめた。
19
 主の言葉が実現する時まで主の仰せが彼を試した。
20
 王は人を送って彼を解き放ち、もろもろの民の支配者が彼を自由にした。
21
 王は彼を王宮の頭とし、すべての財産を管理する者とした。”と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ローマ828には“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる”(口語訳)と記されています。
また伝道者の書3章には、
1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
罪の性質を持って生まれた人間が自己中心的であることは自然なことです。
私たちは、いかなる状況に置かれようとも、主に信頼し、主の御業を見させていただきながら、主が天に召してくださる時まで、この地上生涯を歩み続けていく者であらせてください。
私たちの言動を通して、私たちの提示する福音のことばを通して救われる人が起こされますように。
主をほめたたえる人が起こされますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月30日 (土)

エゼキエル38章 イスラエルが危機に瀕する戦争/神ヤハウェ(主)は御自身が聖(被造物とはかけ離れた偉大な存在)であることを証明する

 エゼキエル381-9には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の言葉が私〔エゼキエル(筆者挿入)〕に臨んだ。
2
 「人の子よ、メシェクとトバルの頭である指導者、マゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、彼に向かって預言して、3 言いなさい。
主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。メシェクとトバルの頭である指導者ゴグよ、私はあなたに立ち向かう。
4
 私はあなたの向きを変え、顎に鉤を掛け、あなたとその全軍、馬と騎兵を連れ出す。彼らは皆、完全に武装し、大盾と小盾を持ち、剣を取る大部隊である。
5
 ペルシア、クシュ、プトが彼らと共におり、皆、盾と兜を身に着けている。
6
 ゴメルとその全軍、北の果てのベト・トガルマとその全軍、それに多くの民があなたと共にいる。
7
 備えをせよ。あなたも、あなたのもとに集められる全部隊も備えをせよ。あなたは彼らの見張りとなれ。
8
 多くの日々を経た後、あなたは呼び出され、終わりの年〔「年」と訳されている原語は複数形(筆者挿入)〕に、剣による荒廃から立ち直った地に侵入する。長らく廃虚であったイスラエルの山々に、多くの民の中から集められた者がいる。彼らはもろもろの民の中から連れ出され、皆安らかに住んでいる。
9
 あなたは嵐のように上って来て、地を覆う雲のようになる。あなたとあなたの全軍、それにあなたと共にいる多くの民も。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルは、1948514日に再建されましたが、イスラエルが国として存在するようになったのは、AD70年にローマに滅ぼされて以来のことです。イスラエルは約1900年弱、国として存在しなかったのです。

 少し古い外務省の記述ですが、
“世界における一人当たりのGDP2018年)について記すと、イスラエルは23位(アメリカの一人当たりのGDP 2/3)。ちなみに日本は26位で、中国は70位です(2018年)。
現代のイスラエルは、高度な技術力を背景としたハイテク・情報通信分野及びダイヤモンド産業を中心に経済成長を続けており,基本的には輸出を志向する産業構造となっている。これまでは,死海周辺で産出される臭素等を除きエネルギー・鉱物資源には恵まれていなかったが,近年,排他的経済水域内において,大規模な天然ガス田の開発が進められ,2013年には一部で生産が開始されている。と記されています。

 さて、このイスラエルに敵が攻め込む本当の理由は何なのでしょうか?
それは、イスラエルの財産を略奪するためなのです。
 エゼキエル3810-13には次のように記されています。
10 主なる神はこう言われる。その日になると、あなたの心に思いが浮かぶ。あなたは悪い計画を企て、11 そして言う。
『私は無防備な集落の地に攻め上り、人々が安心して住んでいる平和な国に侵入しよう。彼らは皆、城壁もなく、かんぬきも門も設けずに住んでいる』と。
12
 あなたは、略奪し、強奪するため、今は人の住むようになった廃虚に、そして諸国民の中から集められて今は家畜と財産を得て地の中心〔神様がいう地の中心とはイスラエルです(筆者挿入)〕に住むようになった民に、手を上げようとしている。
13
 シェバとデダン、タルシシュの商人たち、およびそのすべての村はあなたに言う。『あなたは略奪するために来たのか。あなたが部隊を集めたのは強奪するためか、銀と金を運び去るためか、家畜と財産を奪うためか、大いに略奪するためか』と。(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルの財産を武力によって略奪しようとする国々はどこなのでしょうか?
それは、エゼキエル382-6に、メシェク、トバル、マゴグ、ペルシア、クシュ、プテ、ゴメル、ベト(ベテ)・トガルマ等の軍隊+多くの国々の民と述べられています。

 これらの軍隊を統率する人は一体だれでしょうか?
それは北の果ての国のトップで、その人を主(ヤハウェ)は、「大首長」&「ゴグ」と呼んでいます(2)。

 2-6節に記されている国々は古代名で記されていますが、現代名に置き換えると、ロシア、トルコ、イラン、スーダン、リビア、+多くの民(おそらくフーシー派、ヒズボラ、その他イランやロシアの配下にある民兵組織等)などであろうと思います。

 エゼキエル3815.16には次のように記されています。
“15
 あなた〔ゴグ(筆者挿入)〕と、共にいる多くの民が北の果ての自分の地からやって来る。彼らはすべて馬〔恐らく戦車や軍用車両及び軍馬(筆者挿入)〕に乗る者たちであり、大部隊で、大軍である。
16
 あなたはわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。それは終わりの日〔「日」と訳されている語のヘブライ語原語「ヨーム」は複数形。日の他、年、期間等の意もあります。(筆者挿入)〕に起こる。私はあなたをわが地に連れて来る。ゴグよ、それは、私が諸国民の目の前で、あなたを通して自らが聖なる者であることを示すとき、彼らが私を知るようになるためである。

イスラエルに対してこの戦争を起こすのは、ヤハウェ(主)であると4節、16節に記されています。
この書き方は、主がこの戦争を許可するということであろうと思います。
それはイスラエルを攻撃する国々が、イスラエルを攻撃したがっているからです。

 主は何故この戦争を許可なさるのでしょうか?
それは、イスラエルが主(ヤハウェ)を知るためであり、
また、主及び地上の主の民であるイスラエルに敵対する国々に裁きを下し、主がおられることを示すためです。

 終末の時代、イスラエルは、二段階{イスラエルの神を知ること、メシア(キリスト)を知ること}で救いに至るようです。
第一段階が、エゼキエル38.39章の預言に記されている出来事(特にエゼキエル38233922.28.29)。
第二段階は、キリストの地上再臨です(ゼカリヤ12章)。
そのようにしてまことのイスラエル{イェシュア(イエス)をハマシアハ(メシア=キリスト)と信じるイスラエル人}は皆救われるのです(ローマ1126)。

 一方、新生したキリスト者は既に救われています。その人は神の子どもであり(1ヨハネ31.2)、永遠のいのちを持っているのです(ヨハネ33611261ヨハネ12513参照)。

 現代が終末であると仮定します。
ロシアは、イスラエルが天然ガスをヨーロッパに輸出することを快く思わないでしょう。イランとトルコはイスラエルと大いに敵対しています。イランはしばしばイスラエルを地図から消すと豪語しています。リビアはロシア及びトルコと軍事的関係があります。スーダンはロシアと関係を持っています。
ロシア、トルコ、イランは既にイスラエルのすぐ北のシリアにそれぞれの軍事基地を用意しています。
ヒズボラやフシー派、ハマスなどの武器はイランが、イスラエルを攻めさせる為に供与しているものです。
これが現状です。

 イスラエルとハマスは現在戦争状態です。
引き続きエゼキエル38章の預言が成就するのか、イスラエルとハマスの戦争が落ち着いてからしばらくしてエゼキエル38章の預言が成就するのか、それは私には分かりません。

 いずれにしても、私たちキリスト者は、いつ主が迎えに来られても良いように準備しておくことが大切なのです。
携挙は一瞬です。
携挙はキリストの空中再臨の時に起こります。その時、新生している人の体はあっという間に霊の体に代えられ、天に引き上げられるのです。自分自身で何かをすることは出来ません。すべて主の御業です。私たちに出来ることは、主をほめたたえること、主に大感謝をささげることぐらいです。

 この戦争はヤハウェ(主)が、イスラエルに敵対する国々をイスラエルに侵攻させるものです。
繰り返しになりますが、4節に「私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなた〔ロシアのトップ(筆者挿入)〕の向きを変え、顎に鉤を掛け、あなたとその全軍、馬と騎兵を連れ出す」(聖書協会共同訳)と記され、16節には「ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる」(2017)と記されていますから。
それは神ヤハウェ(主)が、それらの国々に裁きを行うと共に、イスラエル人を覚醒させるためです。
この戦いにアメリカは参戦しません。イスラエルを助ける国はどこもないのです。
イスラエルも、これらの敵の国々に対しては、対抗しきれません。
 
 誰がイスラエルを助けてくれるのでしょうか?
それは、神ヤハウェ(主)です。

 エゼキエル3818-23には次のように記されています。
18 ゴグがイスラエルの土地に向かってやって来る日になると、わが憤りが激しく燃え上がる――主なる神〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕の仰せ。
19
 私は、妬みと激怒の火をもって語る。その日には必ず、イスラエルの土地に大地震が起こる。20 海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這うすべてのもの、および地の面にいるすべての人間は、私の前に震える。山々は覆され、崖は崩れ、城壁はすべて地に倒れる。
21
 私はすべての私の山に剣を呼び寄せ、ゴグへと向かわせる――主なる神の仰せ。人の剣はそれぞれ互いに向けられる〔敵国連合軍による同士討ち(筆者挿入)〕。
22
 私は疫病流血をもって彼を裁く。彼とその軍隊、および彼と共にいる多くの民〔多くの国々の民(新改訳)。「民」と訳されている語のヘブライ語原語は複数形で、人々、国々、部族等の意があります(筆者挿入)〕の上に、豪雨硫黄を降らせる。
23
 多くの国民の前で、私は自らが偉大であり聖なる者であることを示し、私を知らせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 エゼキエル3820には、地震の結果が、「海の魚、空の鳥、野の獣、地面を這うすべてのもの、地上のすべての人間は、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、崖は落ち、すべての城壁は地に倒れる。」(2017)と記されています。
イスラエルに攻め込んだ兵士たちは、巨大地震に腰を抜かすのです。大きな余震もたくさんあるでしょう。兵士たちは気が動転してしまいます。地震で死ぬ者もかなりいるのかも知れません。

 大地震で気が動転してしまったと思われる兵士たちは、同士討ちを始めるのです。
エゼキエル3821には、「わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々〔イスラエルの山々(筆者挿入)〕でゴグを攻めさせる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。剣による同士討ちが起こる。」(2017)と記されています。

 ゴグを攻めるのは、主が力を与えたイスラエル軍かも知れません(私の想像)が、イスラエルを攻める連合軍のイラン(かつてのペルシア帝国)はシーア派、トルコ(かつてのオスマン帝国)はスンニ派です。この両者はイスラム教における覇権争いを、軍事的に始めるのかも知れません。
いずれにしてもイスラエルに攻め込んだ連合軍は、大地震後統率が取れずハチャメチャになるのです。

 主の裁きは、地震だけではありません。エゼキエル3822.23には、「わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼とともにいる多くの国々の民の上に豪雨、雹、火、硫黄を降らせる。わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。そのとき彼らは、わたしが主であることを知る。」(2017)と記されています。

 イスラエルに攻め込んだ兵士たちは、疫病にやられて体力は弱り、疫病で死ぬ者、武器で殺される者(流血)がたくさん出るのでしょう。

 それだけではありません。
2017
訳のように捉えると、イスラエルに攻め込んだ国々の本国の上に、豪雨、雹、火、硫黄が降ってくるのです。
作物は雹に打たれ、また作物も住人も大洪水にやられ、更に恐らく火山の噴火が起こるのでしょう。もともと経済が苦しくなって物を分捕るために(13)イスラエルに攻めてきたのです。
貧しくなっている国々は、大洪水や火山の噴火で立ち直れなくなるのでしょう。これらの国々〔ロシアや軍事力のあるイスラム諸国(筆者挿入)〕が力を落とすとサタンの力を与えられている反キリストを要するヨーロッパが世界に君臨してくるのだと思います。
アメリカには、経済界にも政界にも、携挙を信じているキリスト者たちがいますから、アメリカは携挙後には力を失うでしょう。

 エゼキエル38章の戦争は大きな戦争です。メディアは第三次世界大戦勃発、と報道するかもしれません。そして、そこには戦死、疫病、飢饉、飢え、病死が伴うのです。

 この戦争が、携挙前なのか、携挙後なのかについては、私には分かりません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ4610・新共同訳)と語られました。
いい加減なマスコミの解説報道よりも100%実現するあなたの御言葉を与えて頂いておりますことを感謝します。
私たちは、この戦争云々ということではなく、いつ主が迎えに来られても良いように、日々、主と共に歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月29日 (金)

黙示録1:12.16.20、2:1-7 主イエス様はまことの光、イエス様を宿す者は世の光、イエス様はイエス様との愛の関係を持っている者の中におられる 

 黙示録112.16.20には次のように記されています。
12 私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、/
16 
また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。/
20
 あなたは、私の右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、その秘められた意味はこうだ。すなわち、七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 12節には“私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え”とあります。
「七つの金の燭台」とは、黙示録120の解説で「七つの教会」であることがわかります。
この燭台は、メノーラーとは異なります。メノーラーは7枝の燭台です。

 一つ一つの地方教会が主の光を頂いて世の光として輝かせて頂くのです。また、一人一人のキリスト者も世の光です。

 主イエス様は、「あなたがたは、世の光です。」(マタイ5142017)と言われ、また、「わたし(イエス)は、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8122017)と言われました。
更に、ヨハネ1章には次のような聖句が記されています。
4 この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕にはいのちがあった。このいのち〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は人の光であった
5
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
9
すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。”(2017)とあります。
ですから、イエス様がいなくなってしまうと自動的に闇になります。
主イエス様がいてくだされば光があります。
主イエス様に内住していただくための鍵は主への愛であると主は教えてくださいました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14232017)と記されています。

 ヨハネ12章には次のような聖句が記されています。
35 そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
36
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。/
46
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。”(2017)とあります。

 主を信じ、主を愛するようにさせていただけることは幸いなことです。もし、愛のうちを歩まなかったらどうなるのでしょう。
愛のうちを歩まないと燭台を取り去られることもあるというのです。

 1620節には「七つの星」とあり、その意味は「七つの教会の天使たち」と記されています。
天使の象徴として、聖書の中では「星」が使われています。
主キリスト・イエス様は、天使をも支配しているのです。

 黙示録21-7には次のような聖句が記されています。
1 エフェソ〔エペソ(口語訳、新改訳)〕にある教会の天使〔御使い(口語訳、新改訳)。ギリシア語原語は「アンゲロス」で、使者、天使、等の意があります。岩波訳は「使い」と訳しています。(筆者挿入)〕に、こう書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕が、こう言われる。
2
 「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪しき者たちに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者たちを試し、その偽りを見抜いたことも知っている。
3
 あなたはよく忍耐して、私の名のゆえに忍び、疲れ果てることがなかった。
4
 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛を離れてしまった
5
 それゆえ、あなたがどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。悔い改めないなら私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけよう
6
 しかし、あなたには良いところもある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。私もそれを憎んでいる。
7
 耳のある者は、霊〔「御霊」(口語訳、新改訳)。ギリシア語は、ト・プニューマで、the Spirit(筆者挿入)〕が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園〔ギリシア語原語は「パラディソス」で、パラダイス、園(その)(筆者挿入)〕にある命の木の実を食べさせよう。」』”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主に在る兄姉方を愛し、世の光として歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月28日 (木)

箴言27:8 キリスト者の幸せは主の内にある

 箴言27.8を、
聖書協会共同訳は“巣からさまよい飛ぶ鳥のように、自分の場所からさまよい歩く人がいる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“自分の家を離れてさまよう人は、自分の巣を離れてさまよう鳥のようだ。”と訳し、
新改訳2017は“自分の巣を離れてさまよう鳥のように、人は自分の家を離れてさまよう。”と訳し、
口語訳は“その家を離れてさまよう人は、巣を離れてさまよう鳥のようだ。”と訳しています。

 クリスチャンホームの子どもとして生まれ、あるいは幼少のころから他の宗教やこの世の惑わしを知る前から教会生活をしてきた人の中には、明確な悔い改めと主イエス様への回心を経験したという感じがないにもかかわらず、主イエス様を信じている、という人もいます。
しかしそのような人の場合でも、やがて自我が芽生え、自分の道を自分で選択できるようになると、主イエス様と共に歩むのではない道を歩みたくなって、主との交わりが減少し、教会生活からも遠のき、この世を謳歌するというような人も出てきます。

 この世に魅せられる人は、主イエス様よりも、1ヨハネ216に記されているような、生まれながらの人、すなわち新生していない人や、肉の人が求めるものに心が引き付けられます。
 1ヨハネ216には次のような聖句が記されています。
「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。」(聖書協会共同訳)とあります。
「見栄を張った生活」の個所を、新改訳は「暮らし向きの自慢」と訳し、新共同訳は「生活のおごり」と訳しています。

 肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の方に心が向いていますと、詩篇73篇を書いた詩聖のある期間の心の状態のようになります。
主を信ぜず、それどころか主に大いに逆らって歩んでいるにもかかわらず、この世で大成功を収めている人を羨ましく思うのです。
見ているところ、すなわち心の関心のある所が、この世なのです。

 詩編73篇の詩聖は神ヤハウェ(主)の御前にきよく歩もうとしていました。
 
“私は心を清く保ち、手を洗って潔白を示した。日ごと、私は打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた。”(13.14抜粋・聖書協会共同訳)と記しています。
13.14
節をリビングバイブルは“私が今までしてきたことは、むだだったのでしょうか。きよくあろうと苦しんだ日々は何だったのでしょう。神に従う生活から得たものは、苦しみと災いだけです。しかもそれは、来る日も来る日も、朝から晩まで私につきまとうのです。”と訳しています。

 詩聖はきよく歩むべき努力をしていましたが、疲れてしまったのでしょうか、主に目を留めるべきところを、そうはしないで、主を信じていないこの世の成功者たちに目を留めたのです。
 2-12
節には次のように記されています。
2 それなのに私は、危うく足を滑らせ今にも歩みを踏み誤るところだった。
3
 悪しき者の安泰を見て驕り高ぶる者を妬んだ。
4
 彼らには苦しみがなく〔「実に彼らの死には苦痛がなく」(2017)、「死ぬまで彼らは苦しみを知らず」(新共同訳)〕、体も肥えて健やかである。
5
 人間の負うべき労苦もなく〔「だれにもある労苦すら彼らにはない」(新共同訳)、「ほかの人々のように悩むことがなく」(口語訳)〕、人々のように打たれることもない。
6
 それゆえ、高慢が首を飾り、暴虐〔ヘブライ語原語は「ハーマース」で、暴力、乱暴、強姦・・・等の意(筆者挿入)〕の衣が彼らを包む。
7
 過ちは脂肪の中からにじみ出て、悪だくみは心に溢れている。
8
 彼らは嘲り、悪意をもって語り、高飛車に暴言を吐く。
9
 彼らは口を天に置き、舌は地を這う。
〔リビングバイブルは「彼らは天を向こうに回していばり、大手を振って地上を闊歩します。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
10
 それゆえ、民はここに帰り、彼らの言葉を水のように貪る。
2017は「それゆえこの民はここに帰り、豊かな水は彼らに汲み尽くされる」と訳し、
リビングバイブルは「その影響は神を信じる人々にも及び、多くの混乱ととまどいをもたらしました」と意訳しています。(筆者挿入)〕
11
 彼らは言う。「神がどうして知っていようか。いと高き方に何の知識があろうか。」
12
 見よ、これが悪しき者。とこしえに安穏に財をなしてゆく。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、詩聖は次の内容を悟ったのです。
24
節には“一生涯、神は知恵と助言を与えて、私を導いてくださることでしょう。そしてついに、私は栄光の天へ入れられるのです。”(リビングバイブル)とあり、
18-20
節には“18 あの者たちは、なんとすべりやすい道を歩いていることでしょう。突然、神から崖っぷちに追いやられて、足をすべらせ、滅びの底に落ちて行くのです。19 こうして、その幸福も、あっけなく幕切れとなり、永遠の恐怖にのみ込まれるのです。20 彼らの今の暮らしぶりも、つかの間の夢にすぎません。夢から現実の世界に引き戻される人のように、いつかは真実を突きつけられるのです。”(意訳・リビングバイブル)とあります。

 主に逆らう者に対する裁きについて、黙示録の第6の封印が開かれたときの様子が次のように記されています。
12 また、小羊が第六の封印を解いたとき、私が見ていると、大地震が起きた。太陽は毛織の粗布のように暗くなり、月は全体が血のようになって、13 天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようであった。
14
 天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
15
 地上の王、高官、将校、富める者、力ある者、また、すべての奴隷も自由人も洞穴や山の岩間に身を隠した。
16
 そして、山と岩に向かって言った。「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。
17
 神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか。」”(黙示録6章・聖書協会共同訳)とあります。

 また黙示録184-11には次のように記されています。
4 また私は、天からもう一つの声がこう言うのを聞いた。
「わが民よ、この女から離れよ。その罪に加担し、その災いに巻き込まれないようにせよ。5 彼女の罪は積み重なって天まで届き、神はその不義を覚えておられる。6 彼女がしたとおりに、彼女に報復せよ。その行いに応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、その倍を注いでやれ。7 彼女が驕り高ぶり贅沢をほしいままにしていたのと同じだけの苦しみと悲しみを与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。
『私は、女王の位にあり、やもめではないから、決して悲しい目に遭いはしない。』
8
 それゆえ、一日の内に、さまざまな災いが、死と悲しみと飢えが、彼女を襲う。そして、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
9
 彼女と淫らなことをし、贅沢をほしいままにした地上の王たちは、彼女が焼かれる煙を眺め、胸を打って嘆き悲しみ、10 彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。
「災いだ、災いだ、大いなる都、強大な都バビロン。お前は一瞬のうちに裁かれた。」
11
 地上の商人たちは、彼女のために嘆き悲しむ。も はや彼らの商品を買う者が誰もいないからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 最後の裁きは、黙示録2011-15に次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者は、旧約時代には奥義であったことも今や開かれ、かつ、聖霊が上に留まるというだけではなく、私たち主を信じる者の内に住んでくださっておられますから感謝します。
日々の主との交わりは、私たちの心を満たし、私達に力を与え、慰めの必要なときには私たちに慰めを与えてくださいます。
御父を礼拝するときには、霊と真理によって礼拝するのです、とイエス様は言われましたが、真理の御霊は、日々真理を教えてくださいます。
さらに更に、数多くの恵みを与えられつつ主に在って歩ませていただけます恵みを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月27日 (水)

詩篇105:16-23 主がヨセフをエジプトに遣わす3/束縛の境遇の中にあっても主がともいてくださる/(「聖」について)

 詩篇10516-23には次のように記されています。
16 主はその地に飢饉を呼び、パンの蓄えをことごとく絶った。
17
 主は一人の人を彼らより先に送った。ヨセフが奴隷として売られたのだ。
18
 人々はヨセフの足を足枷で痛めつけ、首には鉄の首輪をはめた。
19
 主の言葉が実現する時まで主の仰せが彼を試した。
20
 王は人を送って彼を解き放ち、もろもろの民の支配者が彼を自由にした。
21
 王は彼を王宮の頭とし、すべての財産を管理する者とした。
22
 それは高官らをヨセフの思いのままにするため。ヨセフは長老たちに知恵を授けた。
23
 イスラエルはエジプトに入り、ヤコブはハムの地に寄留した。(聖書協会共同訳)とあります。

 前回のこの個所では、ヨセフがポティファルの妻の偽りによって牢に入れられたところまでを記しました。今回はその続きを記します。

 創世記3921-23には次のように記されています。
21 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨセフと共におられ、慈しみを示し、牢獄長の目に適うようにされた。
22
 牢獄長は、牢獄にいる囚人をすべてヨセフの手に任せ、そこでなされることはすべて、ヨセフが取りしきるようになった。
23
 牢獄長は、ヨセフの手に任せたことには何ら目を配る必要がなかった。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がヨセフと共におられたからである。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、彼のなす事が順調に運ぶようにされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨセフが牢獄の中にいるときにも、ヤハウェ(主)はヨセフとともにおり、ヨセフを祝福したのです。
またヤハウェ(主)は、ヤハウェ(主)のご計画を行われ、それと共に、後にヨセフに遂行させようとしているための訓練を、監獄の中で、ヨセフに行われたのです。

 その後、ヨセフが入っている監獄にファラオの献酌官長と料理長が送られてきました。
 創世記401-4には次のように記されています。
1 これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理人が主君であるエジプト王に過ちを犯した。
2
 ファラオは、この二人の宮廷の役人、献酌官長と料理長に対して憤り、
3
 親衛隊長の屋敷にある監獄に入れた。そこはヨセフがつながれている牢獄であった。
4
 親衛隊長は彼らをヨセフに委ねたので、ヨセフは彼らの世話をした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主が共にいてくださるヨセフは献酌官と料理長の夢を解き明かしました。
創世記405-23には次のように記されています。
5 牢獄につながれていたエジプト王の献酌官と料理人は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味が隠されていた。
6
 朝になって、ヨセフが二人のところに行って見ると、彼らは困惑していた。
7
 ヨセフは、主人の屋敷にある監獄に自分と一緒に入れられていたファラオの宮廷の役人に尋ねた。
「どうして今日は、そんなに顔色が悪いのですか。」
8
 彼らは答えた。
「私たちは夢を見たのですが、それを解き明かしてくれる人がいないのです。」
ヨセフは、「解き明かしは神によることではありませんか。どうぞ話してみてください
と言った。
 9 献酌官長はヨセフに自分の見た夢を話し、彼に言った。
「夢の中で、一本のぶどうの木が目の前にありました。10 そのぶどうの木には三本のつるがあり、それが芽を出し、花を咲かせ、ぶどうの房が熟しました。
11
 私の手にはファラオの杯がありましたので、私はぶどうを取って、ファラオの杯に搾り、その杯をファラオの手に献げました。」
12
 ヨセフは言った。
「その解き明かしはこうです。三本のつるは三日のことです。
13
 三日のうちに、ファラオはあなたの頭を上げて、元の仕事に戻してくれるでしょう。あなたは先に献酌官であったときの慣例に従って、ファラオの杯を、その手に献げるでしょう。14 そこで、あなたが幸運に恵まれたときには、私を思い出し、どうか私に慈しみを示してください。ファラオに私のことを話し、この獄から私が出られるようにしてください。15 私は実はヘブライ人の地からさらわれて来たのです。またここでも、私が地下牢に投げ込まれるようなことは何もしていないのです。」
 16 料理長は、ヨセフの解き明かしが良かったのを聞いて言った。
「私も夢を見たのですが、なんと三つのパン籠が私の頭の上にあったのです。17 いちばん上の籠には、料理人がファラオのために作ったあらゆる料理がありました。しかし鳥が私の頭の上で、籠からそれをついばんでいたのです。」
18
 ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つの籠は三日のことです。19 三日のうちに、ファラオはあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木に掛けます。そして、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」
 20 三日目はファラオの誕生日であったので、ファラオはすべての家臣のために祝宴を催した。そして、家臣の集まる真ん中で献酌官長の頭と料理長の頭を上げさせた。
21
 ファラオは、献酌官長をその献酌の仕事に戻したので、彼は杯をファラオの手に献げるようになった。
22
 しかし、料理長は木に掛けた。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりである。
23
 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 献酌官長と料理長は、ファラオを毒殺や誤って毒入りのものを口に入れさせないための任務を持っている重要な働きを任務としていました。ですから逆に彼らは、ファラオを毒殺しようとすれば最もそれを行いやすい立場にいたのです。
これらの役職は、ファラオに信頼されて着任できるものであったと思います。

 現代でも、学校給食を学校で調理している場合には、児童生徒にそれを食べさせる前に、学校長がまず食べるようです。

 余談になりますが、地域教会を破壊するために、異端の教会などから人が派遣され、派遣された人は、派遣先の教会で信用を勝ち取るために、良き働きをし、その人が、役職に就けられた後、内側からその地域教会を分裂させ破壊していく、という手法をとることがあるそうでが、それはサタンの手口の一つです。
教会を分裂させるために遣わされた人は、そのとき悪魔悪霊の手先になっている人です。気を付ける必要があります。
 「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(1テモテ315・新共同訳)とあるように、異端の人の持っている偽りを見極めて役職に就任させることの無いようにする必要があります。

 話しを元に戻します。
献酌官長と料理長が意味のある夢を見たことの中に、神ヤハウェ(主)を信じていない人の中にも働く主の働きを見ることができるように思います。
主がこの二人に、同じ日に、近未来に起こる夢を見させたのだろうと私は思います。
そして、ヨセフに働いている主が、その夢の意味を、ヨセフを通して明らかにしたのです。
献酌官長と料理長、及びヨセフを用いて、神ヤハウェ(主)は、ご自身のご計画を進めておられるのだろうと私には思えます。また、主は、人間個々人に対して、無理やり何かを行わせているのではなく、その人のありようを用いているのだろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
語弊があるかもしれませんが、ヨセフがすばらしいとかいうのではなく、この個所を読むと、あなたの聖性を見させられます。
あなたのご計画は着々と進んで行きます。
私たちは土の器ですが、内には主が宿っておられます。
神の宮として、あなたに在ってふさわしい歩みをすることができますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追加
<聖>(ヘブライ語原語の「コーデシュ」)について:基本的な意味は、栄光(明るい、輝かしい、等の意)と分離(聖が神の属性として用いられる時、神がすべての被造物から隔絶していること、悪や罪からも全く分離していること、等の意)です。
 聖書辞典の中に、聖のまとめとして、
“このように聖いという語は、神が罪との分離を保たれるという特性を指すだけでなく、神のために聖別された人や事物にも用いられている。これらのもの自体が聖いとか聖さを達成したというのではなく、神御自身がその愛のゆえに被造物に近づき関係を持たれるのであり、その関係によってのみ聖いとされるのである聖とは、神および神と関係あるものとそうでないものとの区別を表す。イスラエルの民は全体としても個人としても倫理的に善でもなく完全でもなかったにもかかわらず、神の招きに応じて神との関係を持ったゆえに聖なるものと呼ばれたのである(申7:6)。それは新約聖書にも貫かれている原理である。すなわち倫理的水準による聖俗善悪の区分ではなく、神との関係による信仰で事がなされるかどうかが重要なことなのである(ロマ14:23)。こうして神の聖はキリストを信じる信仰を持つ者に与えられペテ1:15‐16,Ⅱペテ1:4)、神を知り神との関係に生きる者は、「後の状態」、すなわちキリストが再臨してキリストのありのままの姿を見る時にその実体においても「キリストに似た者」として完全に聖なるものとされる望みを持っている。この望みを抱いている者は、「キリストが清くあられるように、自分を清く」するという、イエスへの応答をもって生きるのである(Ⅰヨハ3:1‐3)。”と記されています。

2023年12月26日 (火)

マタイ24:3ー8と黙示録6:1-8の違い

 マタイ243-8には次のように記されています。
3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
4
 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5
 私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
6
 戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。
7
 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8
 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 並行記事のルカ217-11には次のように記されています。
7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、それが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8
 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。
9
 戦争や騒乱があると聞いても、おびえてはならない。こうしたことは、まず起こるに違いないが、それですぐに終わりが来るわけではない。」
10
 そしてさらに、言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる。
11
 また、大地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や天から大きな徴が現れる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録61-8には次のように記されています。
1 また、小羊が七つの封印の一つを解いたとき、私が見ていると、四つの生き物の一つが、雷鳴のような声で「行け」と言うのを聞いた。
2
 そして見ていると、白い馬が現れ、それに乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上になお勝利を得ようとして出て行った。
3
 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が「行け」と言うのを聞いた。
4
 すると、火のように赤い馬が現れた。それに乗っている者には、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取る力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。
5
 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が「行け」と言うのを聞いた。そして見ていると、黒い馬が現れた。それに乗っている者は、手に秤を持っていた。
6
 私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油 とぶどう酒を損なってはならない。」
7
 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物が「行け」と言うのを聞いた。
8
 そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死〔「死病」(新改訳、フランシスコ会訳)「疫病」(塚本訳)。ギリシア語原語は「サナトス」で死(筆者挿入)〕と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されている終末のしるしを列挙すると次のようになります。
①偽メシアの出現
②戦争
③戦争のうわさ
④民族間の対立
⑤国家間の対立
⑥あちらこちらでの飢饉
⑦あちらこちらでの地震
⑧疫病
⑨その他

 メシアとは「油注がれた者」の意です。
元来、油を注ぐというのは、祭司の聖別や王の即位の時に行われるものでした。
 旧約時代の祭司を除くメシア像は、王的メシアのイメージでした。
バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民は、それぞれの時代当時の帝国に支配されていましたから、メシアを「救済者」の意味で用いるようになりました。また、ダビデ系の王としての救済者を待望して用いられた称号でした。
主イエス様の初臨の時にも人々は「ダビデの子のイエス様」と主イエス様に声を掛けました。

 さて、上記箇条書きの中で、①~③の個所はユダヤにおいて、すでに起きている可能性があります。
それはユダヤ戦争です。
特に第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱とも言われますが、その時には、メシアとしてたてられた者もいたのです。
第一次ユダヤ戦争と言われることが起きたときに、神殿は燃え落ちました。その後、多くのユダヤ人たちは世界各地に散らされていったのですが、イスラエルの地に残った人々もいました。

 第二次ユダヤ戦争についてウィキペディアは次の様に記しています。
“第一次ユダヤ戦争の後もユダヤ人たちの反ローマ感情と独立願望は高まっていた。115年から117年にかけて皇帝トラヤヌス率いるローマ軍がパルティア戦争で東に動いた隙をついて、ユダヤ本国だけでなく、キレナイカ・エジプト・キプロス・メソポタミアなどのディアスポラのユダヤ人たちも、東地中海各地で同時多発蜂起を起こしている(キトス戦争(英語版) )。こういったユダヤ人の鬱憤が指導者を得ることで爆発したのがバル・コクバの乱であった。
 その頃、シメオンという男が自分こそはユダヤ民族を救う救世主(メシア)であると言い始めた。これに対して当時のユダヤ教の精神的指導者ラビ・アキバ・ベン・ヨセフが支持を表明したことから人々の期待が一気に高まる。当時のユダヤ教思想の中に救世主待望論が持たれ続けていたのである。その救世主は政治的な指導者であり、人々を異民族の支配から解放してくれる人物であると人々は疑わなかった、と言われる(福音書には、イエス・キリストに政治的な指導者であることを求める人々に対し、それをたとえ話の形で否定するイエスの姿が描かれている)。シメオンは「星の子」(バル・コクバ)というメシア称号を自称するようになる
 きっかけは130年のハドリアヌス帝の巡幸であった。彼は精力的に帝国領内を巡ったが、70年のエルサレム攻囲戦でローマ軍に破壊されたまま荒れ果てていたエルサレムにも足を伸ばした。彼はユダヤ人たちに同情し、エルサレムの再建・修復を約束した。しかし、自分たちの聖地エルサレムが「アエリア・カピトリナ」という名前に変えられること、およびその計画にエルサレム神殿跡地にユピテル神殿を立てることも含まれていることが判明するとユダヤ人の怒りが爆発した。また、モーセ以来、神との契約のしるしであった割礼を時代遅れの野蛮行為として禁止しようとしたことなどもユダヤ人には耐えられないことであった。
 ラビ・アキバの尽力によって最高法院も反乱の実行を計画。第一次ユダヤ戦争の問題点を徹底的に研究した上で、バル・コクバをリーダーとして対ローマ反乱に踏み切った。
 「イスラエルの復興」
当初、この反乱計画はスムーズに進行し、各地でローマ軍の守備隊を打ち破り、ユダヤの支配権を取り戻すことに成功した。2年半にわたって、バル・コクバは政治的指導者の座に収まり、ラビ・アキバが宗教的指導者となるユダヤ的支配構造が確立された。彼らは「イスラエルの復興」を宣言し、コインを鋳造し、神殿の再建を計画した。 
 しかし、不意打ちを食らったローマ軍も決して事態を静観していなかった。ハドリアヌス帝はブリタンニアから勇将ユリウス・セウェルスを召喚し、ドナウ川流域に駐留していた軍団を与えてユダヤへと出動させていた。ユダヤ人は意気盛んで戦闘は困難であったが、ローマ軍団は着々とユダヤ各地を再征服していき、ついに135年にエルサレムを陥落させることに成功した。
 バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバは首謀者として捕らえられ処刑された。多数のユダヤ人の死と完全に廃墟となったエルサレム、荒れ果てたユダヤ全土を残して反乱は終結した。
 「戦後処理」
ハドリアヌス帝はユダヤの不安定要因はユダヤ教とその文化にあると考え、その根絶を図った。ユダヤ暦の廃止が命じられ、ユダヤ教指導者たちは殺害された。律法の書物は神殿の丘に廃棄され、埋められた。さらにエルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じた。紀元4世紀になって初めてユダヤ人は、決められた日のみに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許された。ハドリアヌス帝は徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州ユダヤの名を廃して、属州「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったものである。現代まで続くパレスティナの名前はここに由来している。”(抜粋)と述べています。

 主キリスト・イエス様の昇天後から約100年余までの間に、ユダヤにおいて大きな戦争が2度あったことがわかりますし、偽メシアも現れたのでした。

 しかし、上記の箇条書きの①~⑧の出来事はまた、終末のしるしとも考えられます。
聖書の預言の中には二重預言として捉えることの出来るものもありますから。
マタイやルカの終末預言の内容というものは、黙示録61-8に記されている内容に似ています。

 黙示録61-8に記されている内容を箇条書きにすると次の様になります。
①偽メシアの出現
②戦争
③殺し合い
④飢饉
⑤死病(疫病)

 確かにマタイ24章やルカ21章の世の終わりのしるしと似ているので、人によっては、もう黙示録の封印が開かれたのではないだろうか、という人もいるのです。

 人間界にも霊界にも黙示録に記されている封印を開くことの出来る者は、主キリスト・イエス様を除いてはいないのです。
 黙示録51-5には次のように記されています。
1 また私は、玉座におられる方の右の手に巻物を見た。その表と裏に文字が記されており、七つの封印がしてあった。
2
 また一人の力ある天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者は誰か」と大声で叫んでいるのを見た。
3
 しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開き、見ることのできる者は誰もいなかった。
4
 この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者が誰一人見つからなかったので、私は激しく泣き出した。
5
 すると、長老の一人が私に言った。「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデのひこばえ〔若枝(口語訳)〕が勝利を得たので、七つの封印を解き、この巻物を開くことができる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 七つの封印のある巻物に記されている内容は、第五の封印が解かれたときに記されている内容の他はみな裁きの内容です。第五の内容も読み方によっては殉教者を産み出す者たちへの裁きが隠れています。すなわち、後になって主は、殉教者の訴えに従って裁きを行われるのです。
特に第六の封印が開かれると主イエス様を信じていない人たちが次のように言うのです。
15 地上の王、高官、将校、富める者、力ある者、また、すべての奴隷も自由人も洞穴や山の岩間に身を隠した。16 そして、山と岩に向かって言った。
「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。17 神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか。」”(黙示録6章・聖書協会共同訳)と記されています。

 大患難時代は、携挙の後に来ますから、新生したキリスト者は、子羊(主イエス・キリスト)が開くことの出来る巻物が開かれる前に携挙されますので、黙示録6章に記されている巻物の1-4の封印が解かれた内容と、マタイ245-7に記されていることが似ているとはいえ、同じではないのです。
マタイ245-7の出来事を私たちは見ること知ることができますが、まだ大患難時代には入っていません。
黙示録の第2-4の封印が開かれると、地上の四分の一の人が死ぬのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちが祈りに覚えている人々が救われますようにと切に願いつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月25日 (月)

黙示録1:9-11 黙示録の送り先は教会です

 黙示録19-11には次のように記されています。
9 私は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
10
 主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた。
11
 その声は言った。「あなたが見ていることを巻物に記し、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録に記されている内容の送り先は、地上のキリスト教会でした。
11
節に「あなたが見ていることを巻物に記し、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」と記されていますから。

 これらの教会は、当時のローマ帝国内のアジア州にありました。
これら7つのエクレシア{教会(集会)}は、現在はトルコ共和国のアジア側、アナトリア半島(小アジア)にある地域教会でした。
これらの教会は、①当時存在した教会であると共に、啓示されている内容を読むと、②教会歴史における教会についての、ある時代区分を象徴するような内容でもあり、更に③すべての教会時代(恵みの時代)における教会は、これらの7つのどれかに当てはまるような性質のものでもあり、かつ個々人に当てはまるものでもありました。
さらに言えることは、エクレシア以外の人に宛てて与えられたものではないということです。
ですから、御父が御子に与えられた人以外で、正しく理解することの出来る人はいないということなのかもしれません。

 「御父が御子に与えられた人」に関する関連聖句の一部を下記します。
ヨハネ10章には次のように記されています。
1 「よくよく言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
2
 門から入る者が羊飼いである。
3
 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す
4
 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く
5
 しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである。」
6
 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7
 イエスはまた言われた。「よくよく言っておく。私は羊の門である。〔命に至る門は御子キリストです{マタイ713}(筆者挿入)〕
8
 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
9
 私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。
10
 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである
11
 私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる
12
 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
13
 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
14
 私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている
15
 それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は羊〔御父が御子に与えてくださった人(筆者挿入)〕のために命を捨てる。
16
 私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる〔こうして、羊は一人の羊飼い〔主キリスト(筆者挿入)〕に導かれ、一つの群れになる(新共同訳)〕。/
22
 その頃、エルサレムで神殿奉献記念祭〔「宮清めの祭り」(2017)。1マカバイ記459参照。1マカバイ記1-5章全部を読むともっとよくわかります。(筆者挿入)〕が行われた。冬であった。
23
 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
24
 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。
「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25
 イエスはお答えになった。
「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。26 しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。27 私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う28 私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。29 私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない30 私と父とは一つである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 「教会」と訳されているギリシア語原語は「エクレシア」です。
呼ぶ、招集する、の意がありますが、キリスト教では、会衆、教会、集会、などと訳されています。
誰が召集するのでしょうか?
主なる神様です。

 黙示録は、使徒ヨハネに、キリストが御使いを遣わして啓示したものであり、キリストは、御父から黙示録に記されている内容を与えられたのです。なぜヨハネに与えられたかというとキリスト者にその内容を示す為でした。(黙示録11参照)

 ヨハネが黙示録を与えられた時はどのような状態にあった時でしょうか?
それは、ヨハネが迫害されパトモス島に島流しにされていた時です。

 パトモス島について聖書辞典は次の様に記しています。
“エーゲ海スポラデス群島に属する火山岩の小島。エペソの南西約100キロ、ロドス島の西方に位置する。南北約16キロ、東西9キロで細長く湾曲した形をしている。地表は岩が露出して荒れており、穀物や果実の栽培には適さない。古くはドーリア人やイオニア人が住んだことがあるが、ローマ時代には罪人の流刑地とされていた
 使徒ヨハネは迫害を受けて、この島に流刑となっている間に、神から啓示と幻を与えられ、ヨハネの黙示録を書いた(黙1:9)。
 ヨハネがこのパトモス島に流されたのは、ローマによる迫害の時代である。その時期は、ネロの時代(紀元54―68年在位)ではなく、ドミティアヌスの治世下(81―96年在位)と思われる。
 現在、島の南半分は聖ヨハネ修道院の管轄下にあり、ヨハネが幻を見たとされる「黙示の洞穴」が設定されている。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
黙示録を与えてくださり感謝します。
その真意を十分に知ることができますように真理の御霊がご教示ください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年12月24日 (日)

箴言27:7 貧しいものは幸い

 箴言277を、
リビングバイブルは“腹がいっぱいだと、どんなごちそうもまずく感じますが、腹がすいていると何でもおいしく食べられます。”と意訳し、
2017
は“満ち足りている者は蜂の巣の蜜も踏みつけ、飢えている者には苦い物もみな甘い。”と訳し、
聖書協会共同訳は“満ち足りている者は極上の蜜をも踏みつけるが、飢えている人には苦いものもみな甘い。”と訳し、
新共同訳は“飽き足りている人は蜂の巣の滴りも踏みつける。飢えている人には苦いものも甘い。”と訳しています。

 「空腹は最上の調味料である」とローマ帝国時代の哲学者キケロが語ったと言われますが、箴言277の聖句はキケロの時代意よりも1000年くらい前のものです。

 肉体的なことではなく霊的な意味を考えてみたいと思います。
マタイ53には、“Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.”(KJV,NIV)と記されています。

spirit」と訳されている語のギリシア語原語は「プニューマ」で「霊」です。

 多くの日本語訳聖書は「心」と訳していますが、前田訳は“さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。”と訳しています。

 心が貧しいというと、知性感情意思のすべてが貧しいということになりますが、知性感情意思等は豊かである方が幸いであると私は思います。
一例をあげると、誰かが悲しんでいるのに、悲しんでいる人に共感できないと、「・・・、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12152017)というような聖句に従うことはできないでしょう。

 多くの日本語訳聖書のように「心の貧しい」という訳ではなく、英語訳聖書や前田訳のように「霊において貧しい」という訳を基に考えてみたいと思います。

 20211215日の当ブログを再掲させていただきます。この時には次のように記しておきました。
“ マタイ53に、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(聖書協会共同訳)と記され、「心の貧しい人々」について、欄外注に、“直訳「霊において貧しい人々」”と記されています。

この聖句については今までにも幾度か述べてきていますがさらに詳しく記していきます。

当ブログの2015911日 で述べた内容は、以下のようでした。
3節に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(口語訳)とあります。
 新改訳は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と訳しています。
 日本語の聖書で、「心」と訳している語のギリシア語の原語は"πνεῦμα"(プニューマ)で、英語では普通は"spirit"、「霊」です。
 NKJVは、"Blessed are the poor in spirit, For theirs is the kingdom of heaven."と訳しています。

「貧しい」と訳されている語のギリシア語原語は、「プトーコス」で、“beggar”(物乞い、乞食、物もらい)、貧乏人、非常に貧乏な人等の意があります。「プトーコス」の意味としてStrong辞書に最初に出てくるのは、beggarです。
ですから、この聖句の前半部分を、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」と訳すこともできます。

今回は、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学非才な小生の訳に従って書いていきます。
 「心」について、デジタル大辞泉には、“人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。”と記されています。

「理性」については、“物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。”と記されています。理性のこの解説を聖書の翻訳原語でいうと「良心」ということもできると思います。
 2サムエル2410を、新改訳2017は、ダビデは、民を数えた後で、良心のとがめを感じたと訳しています。
この箇所で「良心」と訳された語のヘブライ語原語は、「レブ」で「心」です。
日本語訳聖書の内、「良心」と訳しているのは、新改訳、リビングバイブル、聖書協会共同訳です。口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、文語訳は、「心」と訳しています。  
 新約聖書の中で、「良心」という語が出てくる有名な聖句に、“彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。”(ローマ2152017)というものがありますが、この文章から考えると、「良心」は「心」に包含されているように思います。
「心」のギリシア語原語は「カルディア」です。
「良心」のギリシア語原語は「スネイデーシス」です。

「心が貧しい」というと、良心が貧しく、知性、感情、意志も貧しい、という様に、私には感じられます。
良心がほとんど無く、知性が暗く、感情が希薄で、意志薄弱の人は幸いでしょうか、神に祝福されているでしょうか。と、私などは考えてしまします。

そこで今回は前述したように、「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」という浅学非才な小生の訳に従って書いていきます。

先ずは、「霊」について考えてみます。
人によっては、アダムの堕罪の時に、霊は死んだ、と表現する人たちがいます。
ところが、「霊」は人の肉体を生かしています。「霊」が体から離れると人の肉体は死にます。
 ヤコブ226には、からだが霊〔ギリシア語原語は「プニューマ」(筆者挿入)〕を欠いては死んでいる・・・2017)と記されています。
 また、ルカ8章には次のような記述があります。
49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
50
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
51
イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52
人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
53
人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54
しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
55
すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
56
両親が驚いていると、・・・。2017)と記されています。

人の肉体を生かしている霊は、「いのちの息」とも言われます。「いのちの息」の語のヘブライ語原語は、「ネシャマー」で、「霊」と訳される場合もあります。
参照聖句として、イザヤ5716には次のように記されています。
“わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊〔「ルーアハ」(筆者挿入)〕が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息〔「息」はネシャマー(筆者挿入)〕が。”(2017)とあります。
〔わたしが造った「霊」とも言うことができます→ゼカリヤ121参照(筆者挿入)〕

創世記27には、“And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath〔原語は「ネシャマー」即ち「息」(筆者挿入)〕 of life; and man became a living soul〔原語は「ネフェシュ」即ち「魂」(筆者挿入)〕.”KJV)とあります。
 聖書には「死者の霊」という語が記されています。
イザヤ14章は13章から続くヤハウェ(主)がイザヤに見させたもの、語ったものです。
その中に、“よみは、下界で、おまえが来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。”とあります。(イザヤ1492017
 また、ヤハウェ(主)がイザヤに語らせた預言の箇所に次のようなものがあります。
“あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。”(イザヤ26192017)とあります。〔イザヤ26章は、キリスト者に与えられた預言ではありません。キリスト者の霊が肉体から出た後、その霊は直ちに天に行きます。(筆者挿入)〕
 イザヤ261には、その日、ユダの地でこの歌が歌われる。2017)と記されています。
 神様から義人と言われたヨブは、“死者の霊たち、水に住む者たちは、その底で、もだえ苦しむ。”(ヨブ2652017)と述べています。
 箴言2116は、悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(新改訳第三版)と記し、悟りとは何を指しているのかについて、ヤハウェ(主)はエレミヤに、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を知っていることを。」(エレミヤ9242017)と語っています。

キリストの内に無い人の霊は、無いと思っている人がいますが、上記の聖句からも、そうではないことが分かります。

ゼカリヤ121は次のように記されています。
“宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。”(2017)とあります。
キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊について、ヤハウェ(主)は、人の霊を造った、と語っておられます。

人がキリストの救いにあずかるとアダムの堕罪前の状態に戻ったという人がいますが、それは違います。何が違うのでしょう。霊が違うのです。

さて、キリストの復活後の人の霊は?
1.キリスト様を信じていない人の霊は、キリストの復活以前の旧創造の人たち(アダム系列の人たち)の霊です。
2.キリスト様を信じた人の霊は、新しく生まれた、と使徒ヨハネも使徒ペテロも述べています。主イエス・キリスト様の公生涯の間、常に主のそばにいて主から教えを受けたこの二人が残した聖句を下記します。

ヨハネ3章に次のように記されています。
1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2
ある夜、イエスのもとに来て言った。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3
イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。(新共同訳)とあります。
3
節と7節の「新たに」と訳されている語のギリシア語原語は「アノーセン」で、上から、新しく、再び等の意があります。
 イエス様の御言葉を合わせると、上から新しく、そして霊から生まれなければ神の国を見、神の国に入ることができない、ということになります。
キリスト者の霊は、造られた霊ではなく神の霊から生まれた霊です。

ペテロは次のように記しています。
“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)とあります。
 キリストの復活以前には、新しく生まれるということはなかったようです。

本論に戻ります。
イエス様を信じ、霊の誕生をさせて頂けたといっても、その霊は赤ちゃんです。
神の子どもである霊の赤ちゃんは、霊の乳即ち御言葉を求めるのです。
それだけではありません。神様ご自身を求めるのです。
主と交わる者は主と一つの霊となるのです(1コリント617)。
また、主を慕う赤ちゃんは、主に満たされたいのです。
神のひとり子であられるイエス様が人にもなられたときの聖霊との関わりはどのようであったのでしょうか?
ヨハネ334には、神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。2017)と記されています。
キリスト者も、「御霊に満たしてください」と祈るのです。
「幸いですor祝福されています 霊の中で物乞いしている人は」とあるように。

更に、恵みによって信仰から信仰へと進ませて頂き、恵みから恵みへと進ませて頂き、主の愛を豊かに感じ取れるようになった人は、益々主を愛することでしょう。
そのような人は、私の霊を専有してください、と、愛の動機から言うでしょう。
パウロはそのような人であったのではないかと想像します。
「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私〔新生した私は霊(筆者挿入)〕の内に生きておられるのです。」とパウロは証しています。
パウロは、生まれながらの肉体を自分とは捉えていませんでした。
唯物論者や唯脳論者にとっては、「私」というのは、物質ですが、新生した者にとって、「私」、は肉体ではなく「霊」なのです。
パウロは次のように述べています。

1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋〔「肉体」=霊の入れ物(筆者挿入)〕が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
2
私たちはこの幕屋〔肉のからだ(筆者挿入)〕にあってうめき、天から与えられる住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を着たいと切望しています。
3
その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4
確かにこの幕屋〔地上の肉体(筆者挿入)〕のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まい〔霊の体(筆者挿入)〕を上に着たいからです。
5
そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。
6
ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
7
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
8
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
9
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。2コリント51-92017)と記されています。

ペテロも同じようなことを述べています。
「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋〔肉体(筆者挿入)〕を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」(2ペテロ1142017)とあります。 
霊が肉体から出ていく時、イエス様やステパノはどのように祈ったでしょうか?
 イエス様は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23462017)と祈り、
ステパノは、「主イエスよ、私の霊をお受けください。」(使徒7592017)と祈りました。
新生した人の本体は、上から新しく誕生させて頂いた霊であり、この霊は、主と一つにされている霊であり、永遠のいのちを持っている霊です(ヨハネ33.61ペテロ13、ヤコブ1181コリント6171ヨハネ511.13、ヨハネ1126)。

 霊の中で、主が満ち満ちてくださることを、ひたすら求める者の心は豊かになることでしょう。

 「祝福されています。霊の中で〔主に、満ち満ちてくださいと(筆者挿入)〕乞い求める人は。天の御国〔原語の意味→天の王国、天の支配(筆者挿入)〕はその人のものだからです。」(筆者訳)とも訳すこともできるのではないかと思います。

 イエス様は、「みこころが天で行われるように、地でも〔「私の内でも」とも祈れます(筆者挿入)〕行われますように。」(マタイ6102017)と祈るようにと教えてくださいました。”と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の霊が私の霊の中で充満してくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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