フィリピの信徒への手紙

2024年5月31日 (金)

フィリピ3:1 主キリスト・イエスにあって喜ぶことの幸い

 フィリピ31を、
新共同訳は“では、わたしの兄弟たち、主において〔主にあって(聖書協会共同訳)〕喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。”と訳し、
 2017は“最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります〔あなたがたの安全のためにもなることです(新改訳初版~第三版)〕。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“それでは、兄弟のみなさん、主に結ばれた者として喜びなさい。また、同じことを書きますが、それはわたしにとって面倒なことではなく、あなた方のためには安全を期することになります。”と訳し、
 岩波訳は“最後に、私の兄弟たちよ、主にあってあなたがたは喜びなさい。同じことをあなたがたに書くことは、私にとっては煩わしいことではなく、〔むしろ(訳者挿入)〕あなたがたを堅固にすることである。”と訳し、
 リビングバイブルは“愛する皆さん。どんなことが起ころうと、主にあって喜びなさい。このように何度も言いますが、それを私はめんどうとは思いませんし、あなたがたも聞かされたほうがいいのです。”と訳しています。

 「主において」(新共同訳)、「主に在って」(聖書協会共同訳、2017、岩波訳、リビングバイブル)、「主に結ばれた」(フランシスコ会訳)と訳されている語のギリシア語原語は2語で、「エン キュリオー(キュリオス)」で、直訳すると「主の中で」となります。

 「主の中で喜びなさい」と言われて、私がすぐに思い浮かべるのは、1コリント130の聖句です。

 1コリント130
新共同訳は“神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と訳し、
 口語訳は“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのであ る。”と訳しています。

 「キリスト・イエスに結ばれ」(新共同訳)、「キリスト・イエスにある」(聖書協会共同訳、口語訳)、「キリスト・イエスの内にある」(新改訳)と訳されている語のギリシア語原語は「エステ(ある) エン(中に) クリストー イエース」と記されています。
直訳すると、新改訳のように、私たちは、“神によって「キリスト・イエスの内にある」のです。”ということになります。
なんとありがたいことでしょうか。主に感謝し、主を賛美します。

 キリストは、私たちの知恵、私たちの義、私たちの聖、私たちの贖い、となってくださったのです。
それ以外にも色々なものになってくださいました。

 フィリピ31でパウロは、「主にあって喜びなさい。」と語ったのです。
キリスト様が私たちの為に成し遂げてくださったことを思いめぐらすことは何と素晴らしいことでしょうか。

 パウロは、主に在って喜ぶことは、私たちの安全のためにもなることor私たちを堅固にすることでもあるのですよ、と教えてくれたのです。

 「安全」(新改訳、新共同訳、フランシスコ会訳)、「堅固」(岩波訳)と訳されている語のギリシア語原語は「アスファレース」で、安全な、確かな、間違いない、・・等の意があります。

 1テサロニケ516-18には、
16 いつも喜んでいなさい17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて〔ギリシア語原語は「エン クリスト― イエース」(筆者挿入)「キリスト・イエスにあって」(新改訳)〕、神があなたがたに望んでおられることです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主が如何なる恵みを与えてくださったのか、ということを思いめぐらし、ことあるごとに、主に感謝と賛美を捧げる者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月27日 (月)

フィリピ2:25-30 エパフロディトの奉仕

 フィリピ225-30には次のように記されています。
25 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。
彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、26 あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27
 実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛〔別訳「悲しみ」(欄外注)〕を重ねずに済むようにしてくださったのです。
28
 そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。
29
 だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
30
 彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。〔なぜなら、彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。彼は離れているあなたがたに代わって、私に尽くしてくれたのです。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはローマの獄中にいました。
エパフロディトは、フィリピ(ピリピ)教会を代表して、獄中のパウロへ贈り物を届けた人です。
エパフロディトは、贈り物をもってパウロの所へ行く途中に何かの病原性微生物に感染してローマで発症したのか、あるいはパウロの所にいる間に重篤な病に罹患したのかは分かりませんが、死を覚悟するような病にかかったのです。(27.30節参照)

 エパフロディトが重病であるということが、どのような方法でフィリピ教会に届いたのかは分かりませんが、エパフロディトが病の床に伏していることをフィリピ教会の信徒たちはとても心配し、祈っていたのでしょう。
また、エパフロディトという人は、フィリピ教会の信徒たちに心配をかけてしまったことを心苦しく思う人でもあったのです。(26節参照)

 現代では、お金の送金は、金融機関から送ればそれですみますし、物品を送るのも郵便局から外国へ送ることもできます。
しかし、この当時は、自ら持っていくか、信頼のおける人に託すしかなかったのでしょう。
信徒たちからの贈り物をフィリピからローマまで届けるのは大変なことです。
もちろん、主に祈りつつ旅をしたことと思いますが、途中で、強盗や山賊にあうかもしれませんし、雨に打たれるかもしれません。
パウロは宣教旅行中に、川の難、盗賊の難、町での難、荒野での難、海上での難、・・等の苦難にあったと記しています。(2コリント1126参照)

 エパフロディトが重病にかかったことについての表現をパウロは、「彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。」(30・聖書協会共同訳)と記しました。
2017
はその箇所を「彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。」と訳しています。

 エパフロディトがフィリピ教会を代表し、贈り物をもってパウロのもとへ行ったことにより、パウロは直接エパフロディトからフィリピ教会の問題を聞くことができました。
それゆえに、問題の対処の方法をパウロはこの手紙に書くことができました。
今日の個所で2章まで終わりますが、ここまでの間にも、
1.教会員は、主キリストにあって一致して、宣教の業に従事すべきです。
2.キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
3.一人一人がキリストのへりくだり(謙り)に倣って謙遜に歩み、他の信徒たちを敬愛するようにしなさい。
4.その他。
のことをパウロは忠告してくれました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント1112017)と述べていますが、少しでもキリストの香りを放つ者としての歩みをさせて頂けますよう恵みによって整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月23日 (木)

フィリピ2:19-24 自分自身のことよりもキリスト・イエスのために生きる人

 フィリピ219-24には次のように記されています。
19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
20
 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
21
 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22
 テモテが確かな人物であることは、あなたがたの認めるところです。子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました。
23
 そこで、私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、テモテを送りたいと願っています。
24
 私自身も間もなくそちらに行けるものと、主にあって確信しています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、福音宣教のために牢獄に入れられて、自分ではフィリピ教会に赴けないパウロが、親身になってフィリピ教会の兄姉たちを心にかけている弟子のテモテを、フィリピ教会に送ります、ということを述べている個所です。

 テモテは、パウロの第二次伝道旅行の折、パウロに同行してフィリピ(ピリピ)にも行ったのです。そしてフィリピ教会の創設にもかかわった人です(使徒161-411-15)。

 今日のテーマは21節です。21節を、
新共同訳、聖書協会共同訳は“他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“みな、自分のことばかり考えて、イエス・キリストのことは考えていないのです。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。”と訳し、
 新改訳2017は“みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。”と訳し、
 リビングバイブルは“ほかの人はみな、自分の計画に心を奪われ、キリスト・イエスのことなど気にかけていないようです。”と意訳しています。

 新生にあずかった人は、最初は自分が救われたくて主イエス様を信じた人です。
すなわち100%自分のために主イエス様を信じたのです。
その後の信仰生活は人によって異なりますが、初めの内は誰でも自分の何かを満たすための信仰生活ではないでしょうか。
救いの確信を持つことができ、主の恵みの大きさを知り続け、そして、「私は主のもの」と思えるようになっていくのではないかと思います。
自己実現のために生きるために主イエス様を信じている人もいるでしょう。
一方、主の愛に浸されて主のために生きるようになった人もいるでしょう。
主の弟子としてふさわしいのは、すべてにまさって主を愛する人ですよ、と主イエス様は語られました。
 マタイ1037.38には次のように主イエス様の御言葉が記されています。
「私〔を愛する〕以上に父や母を愛する者は、私にふさわしくない。また、私〔を愛する〕以上に 息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。また、自分の十字架をとって私の後に従わない者は、私にふさわしくない。」{〔 〕内は訳者挿入。岩波訳}とあります。

 自分のことは、主イエス様に委ねきって、主イエス様のために生きることのできる恵みを与えられた人は幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの愛を益々体験し、あなたを愛する愛を増し加えていただき、自分自身のことは主に委ね、主を愛し、主のみ旨の内を歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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 「わが友 主イエスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友主イエスは 我を見出し 引き寄せ給(たま)いぬ 愛のいともて
御側(みそば)に侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主は我がもの 我は主のもの
2.わが友主イエスは 罪ある我を 贖い給(たま)えり 命を捨てて
この身と魂(たま)をば 主よ 取り給え すべてはながもの 我がものは無し
3.わが友主イエスは いとも優しく 慰め励まし また守り給(たも)う
悩みも剣も 飢えも裸も 引き裂くあたわじ 主より我が身を”

2024年5月19日 (日)

フィリピ2:12-18 導いてきた兄姉たちが聖く歩んでくれたら殉教時にも喜びがある

 フィリピ212-18には次のように記されています。
12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13
 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
〔神は人の心に働きかけて、従おうとする思いを起こさせ、神が望まれる行いができるように助けてくださるのです。(リビングバイブル)〕
14
 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
〔何事においても、不平を言ったり、疑ったりしてはいけません。(リビングバイブル)〕
15
 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。
 こうして私は、無駄に走ったわけでも、無駄に労苦したわけでもなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
17
 さらに、たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれることになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18
 あなたがたも同じように喜びなさい。私と共に喜びなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 515日には、フィリピ212-16aの個所を記しました。
今日はその続きですが、今日の個所だけを読む人もいると思いますので、12節から記しています。
前回の個所のポイントは、聖なる者とされ世の光として輝きなさい、という内容でした。

 パウロは、フィリピの信徒たちが、神に従い、神の子どもとして汚れのないきよらかな生活をし、世の人々の間で、いのちのことばを高く掲げ、世の光として輝く歩みをしてくれたら、たとえ自分が殉教するようなことがあっても、喜びつつ殉教することができますよ、と語ったのです。

 またパウロは弟子のテモテに対して、手紙の中で、
「私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。
私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今や、義の冠が私を待っているばかりです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」(2テモテ46-8・聖書協会共同訳)と述べています。

 繰り返しになりますが、ピリピ215-18をリビングバイブル訳は次の様に意訳しています。
15.16 だれからも非難されないためです。心の曲がった邪悪な世の中にあって、あなたがたは神の子どもとして、汚れのない、きよらかな生活を送りなさい。世の人々の間で、いのちのことばを高く掲げ、世の光として輝きなさい。そうすれば、キリストが帰って来られた時〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕、私はあなたがたに対する労苦が無駄でなかったことを知り、どんなに喜ぶことでしょう。
17
あなたがたの信仰を供え物として神にささげる時、その上に、たとえ私の血を注がなければならないとしても――あなたがたのために、いのちを捨てなければならないとしても――私はうれしいのです。そして、あなたがた一人一人にも、この喜びを分けてあげたいのです。
18
このことは、当然、あなたがたにとっても喜びなのですから。私があなたがたのためにいのちを捨てる特権を持っていることを、ともに喜んでください。”と記しています。

 パウロがフィリピ信徒に対してこのように思うところがあったのは、パウロがフィリピ教会の設立に用いられたことにも関係しているのでしょう。
そのいきさつは使徒1611-40に記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロの内に働いて、宣教と牧者の御業を成し遂げていかれた主の御名を崇めます。
また私たちの内に働いて、聖い生活を送らせようとして私たち一人一人に応じてお整え下さっておられますことを感謝します。
あなたの御前に立たせていただけるときには、全く聖なる者としてお整え下さり立たせてくださいますからありがとうございます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。”(エペソ14・新共同訳)
“どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(1コリント523.24・新共同訳)
“あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(フィリピ16・新共同訳)

2024年5月15日 (水)

フィリピ2:12-16a 聖なる者とされ世の光として輝きなさい

 フィリピ212-16aには次のように記されています。
12 だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13
 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14
 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15
 そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所のポイントは、「とがめられるところのない純真なキリスト者としてすなわち神の子どもとして、置かれている地上世界の中にあって輝き、いのちのことばをしっかり保つ&いのちのことばを与える者となるために罪から救われ続けなさい、すなわち聖い歩みをしなさい、主の霊に従い、主の恵みによって。」ということになるのではないかと思います。

 この個所は、キリストの救いにあずかったばかりの人、自分が救われたのか救われていないのかはっきりしないという人、救われたけれどもほとんど肉の歩みをしている人には、「何を言ってるんだか」とか「そんなの無理」とか「自分もその様になりたいものだ」と思うような個所であると思います。

 救いにあずかったばかりの人は、救いの確信を明確にしてもらうことが大切です。
今日の個所は、肉によって歩んでいる時間よりも霊によって歩んでいる時間の方がズーっと多いという人にとってはよくわかる個所でしょう。

 キリスト者は、立場的には、へブル1010に“イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されているように、キリストの血によって、聖い者とされています。

 しかし実質的には、すべての言動においてキリストの香りを放っているかというとそうではありません。
それ故、ペテロ(ペトロ)は次のように記しています。
“従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。”(1ペテロ114-16・新改訳初版~第三版)〕とあります。

 フィリピ212.13の聖句では、主が、すべての罪に関することから救われたい、すなわち聖くされたいという思いを持たせてくださり、事を実行させてくださる、と記されています。
きよくされていくときには、理不尽と思えるようなところ、肉的には喜べないようなところも通るのです。主イエス・キリスト様以上に理不尽な扱いを受けたお方はいないのです。
14
節には“何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。”と記されています。

 パウロは、ローマ828において“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”(口語訳)と記しています。
これは肉的に益となるという意味ではありません。
私たちは、様々なところを通されて、キリストに似たもの、神のご性質にあずかる者とされていくのです。

 フィリピ215.16aの聖句は“そうすれば、とがめられるところのない純真な者となり、ゆがんだ邪悪な時代にあって、傷のない神の子どもとなって、この世で星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つ〔ギリシア語原語は「エペコー」で、しっかり保つ、の意ですが、与える、の意にも使われます(筆者挿入)〕でしょう〔いのちのことばをしっかり保ちまた与えるでしょう(私訳)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 聖書の最後の章である黙示録2211にも“・・・・・聖徒はいよいよ聖なるものとされ なさい。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
新共同訳は、エフェソ14.5として“天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって 神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。”と訳していますが、その御心に従って、私たちをきよくお整え下さり、主の器として用いようとしてくださっておられますから感謝します。
あなたの導きに従い、あなたのみ旨にかなう者としてお整え下さり、あなたに喜ばれる歩みをしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月11日 (土)

フィリピ2:9-11 天においても地においても、すべての権威が与えられている主

 フィリピ29-11には次のように記されています。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、
11
 すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 9節の「このため」の「この」というのは、その前の6-8節の次の聖句を指しているのでしょう。
6 キリストは、神の形〔身分(新共同訳)。「形」のギリシア語原語は「モルフィー」で、形、形状、姿、・・等の意(筆者挿入)〕でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
〔キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。(リビングバイブル)〕
7
 かえって自分を無にして、僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者に〔人間と同じように(2017)。「同じ者」と訳されている語のギリシア語原語は「ホモイオーマ」で、形、形状、似たもの、・・等の意(筆者挿入)〕なられました。人間の姿で現れ、
8
 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神のひとり子の御子が、6-8節のようになられたゆえ、“・・神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”(9節・聖書協会共同訳)と記されているように、父なる神がなさったということです。

 日本語訳聖書の数書を見ると、ギリシア語聖書の9節の聖句の中の「カイ」という語を、おそらく「and」の意に捉えて、あえて訳出していません。
「カイ」には「and」の他、「alsotoo」の意、その他の意もあります。KJV訳は「also」を入れて訳しています。
ギリシア語の「カイ」をalsoとして訳出すると、「このため(orそれゆえ)、神は、また、キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と訳すことができます。
「また」と訳す場合は、御子が人となられる前は「神であった」ということをもとにして述べているとも考えられます。
御子は、元来、神の第二位格の神であり続けたのです。
御子は、人の姿を取られても、神の本質を持っておられたお方です。
御子が人の形を持ったとき、御子は、神の権能を封印されておられましたが、ご性質(本質)は神そのものでした(へブル13)。

 堕罪前の人は、神の形(本質)に似せて作られたのです。
創世記126.27には“神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。”(2017)と記されています。
神は霊です(ヨハネ424)から、神と人の外形が似ているというのではありません。ですから、似ているというのは、神のご性質のことであると思います。

 9節の聖句に関しては、主イエス様ご自身が、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28182017)と語られました。
マタイ2818の聖句の中の「権威」と訳されている語のギリシア語原語は「エクスシア」で、力、能力、特権、統御、・・・等の意があります。
リビングバイブルはピリピ26を“キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。”と訳していました。

 10.11節には“10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、11 すべての舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 10節の「地下のもの」とは「よみに住んでいる者」という意味だろうと思います。
「天上のもの」とはすでに天で生活している聖徒や神に従っている天使たちでしょう。
「よみに住んでいる者」とは、死んでよみに下った者とよみに閉じ込められた悪霊でしょう。
よみは新天新地が創造される前の、最後の審判の時まで存在する場所です。
最後の審判によってよみは火の池に入れられます。(黙示録2011-15参照)

 フィリピ210.11の聖句は、新天新地が創造される前までの期間において適用される聖句でしょう。
新天新地の後には、御父がすべて上に立たれます。(1コリント1528参照)

 「地下のもの」たちに関しての考察を述べると議論を呼ぶので、ここには書かないことにします。
地上では、「イエス・キリストは主である」と告白しなかった者たちが、どうして地下で、「イエス・キリストは主である」と告白するのでしょう。
後になって分かることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖なる御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天において行われているようにすべての所で行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 7日 (火)

フィリピ2:5-8 愛に基づくキリストのへりくだり/いけにえの本体であるキリスト

 フィリピ25-8には次のように記されています。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。
6
 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
7
 かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8
 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 文語訳は5節を“汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。”と訳しました。
汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。ということですが、今日の個所は、特にキリストの愛に基づく謙遜の姿が記されています。

 6節に「神の形」(聖書協会共同訳)とあります。新改訳は「神の御姿」、口語訳は「神のかたち」、新共同訳は「神の身分」と訳しています。
6
節前半部分のギリシア語聖書を読むと「キリストは、神の本質の中に存在している」と捉えることができると思います。
「存在している」というギリシア原語は「フパルコー」という語ですが、これは現在形で書かれていますから、ギリシア語としては、存在し続けているという意も持っています。どうしても時間の概念の中で捉えてしまう私のような者の解釈で表現すると、過去も現在も未来もすなわち永遠に存在し続けている、ということになるのだと思います。神の御子は永遠の御方です。

 6節を口語訳は“キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、”と訳しています。
リビングバイブルは“キリストは神であられるのに、神としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。”と意訳しています。

 とはいえ主イエス様が人となられたときも、神性すなわち神のご性質(本質)を捨てたのではありません。
へブル13には“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、・・。”(2017)と記されています。
キリストは、神であり、罪なき人となられたのです。罪なき人であられたからこそ罪人の罪を身代わりに負うことができたのです。イエス様は、マリアの卵子とは何の関係もなく、聖霊によって肉体を持ったのです(マタイ120)。
神の御力を思い起こしてみると、創造の6日目には、人だけではなく多くの生物を創造なさいました。
 創世記1章には次のように記されています。
24 神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
25
 神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
26
 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」/
31
 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節を2017は“ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、”と訳し、
口語訳は“かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、”と訳しています。

 神は霊です(ヨハネ424)から土で造られた人間の罪を身代わりに負うことはできません。
人の罪は、肉において処罰するのです。
ローマ83には“肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。”(ローマ832017)と記されています。

 また、申命記2123には“その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。”(2017)と記され、
ガラテヤ313は“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(2017)と記しています。

 キリストは私たち罪人を贖うために肉の体を持つ必要があったのです。
フィリピ28には“へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また1テモテ25.6には“神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスですキリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。”(2017)と記されています。

 血を流すことなしには罪の赦しもきよめもありません。
へブル922には“律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。”(2017)と記されています。

 主イエス様が肉の体を持たなかったら、イエス様の流された血による赦し&きよめは無かったのです。

 8節には“へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(聖書協会共同訳)と記されています。
御父への従順は、御父への愛に基づくものであったでしょう。
また、私達への愛の故にも主イエス様は十字架にかかられたのです。

 ローマ5章には次のように記されています。
6 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました
7
 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
8
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました
9
 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10
 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11
 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日のフィリピ信徒への手紙の個所とローマ5章のこの個所には、レビ記1章の本体である御父への全焼のいけにえとしてのキリスト、レビ記4章にの本体である私たちの罪のためのいけにえとしてのキリスト、レビ記3章の本体である和解のいけにえとしてのキリストが記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様、大いなる感謝をお捧げします。
イエス様を示してくださり、またその他の真理をも教えてくださる聖霊様、ありがとうございます。
三一の主なる神様が、それぞれの役割に応じた御業をもって関与してくださっておられますことを心より感謝申し上げます。
三一の主なる神様の御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 3日 (金)

フィリピ2:1-5 キリストの心を心とせよ

 フィリピ21-5には次のように記されています。
1 そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
3
 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。
4
 めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5
 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 あなたがたには、クリスチャンとして互いに励まし合う気持ちがありますか。
私を助けたいと思うほどの愛がありますか。
あなたがたは同じ御霊を共にいただいており、主にあって互いが兄弟であるということの、ほんとうの意味がわかっているでしょうか。
やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか。
2
もしそうなら、互いに愛し合い、心からうちとけ合い、思いと目的とを一つにして共に働き、私を心から喜ばせてください。
3
自己中心であったり、見栄を張ったりしてはいけません。
謙そんになって、他の人を自分よりもすぐれた者と考えなさい。
4
自分のことばかりにとらわれるのではなく、他の人のことにも目を向けなさい。
5
私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。”と記されています。

 5節を、
聖書協会共同訳は“互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。”と訳し、
 リビングバイブルは“私たちに対するキリスト・イエスの態度を、見ならいなさい。”と訳し、
 2017は“キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。”と訳し、
 文語訳は“汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。”と訳しています。

 1-5節の個所について、Bible navi は次の様にいくつかに分けて適用注解しています。
“〔1-5節全般について(筆者挿入)〕多くの人は、クリスチャンでさえ、他の人に良い印象を与えたり自分を喜ばせたりするためだけに生きている。しかし自己中心は不和をもたらす。それゆえパウロはピリピ人たちに、互いに愛し合い、心を合わせ、志を一つにするよう求めて、霊的な一致を強調した。他の人たちの問題に、まるで自分の問題であるかのように気づかって共に取り組むとき、他の人たちを最優先するというキリストの模範を明かに示し、一致を経験するのだ。神の家族における結びつきにひずみを与えるほどに、良い印象を与えることや自分の必要を満たすことに関心を持たないようにしよう。

3節の個所について(筆者挿入)〕心からへりくだることは教会を築き上げる。謙虚であるには、自分についてのバランスのとれた見方を必要とする(ローマ123)。それは自分を抑えつけるべきであるという意味ではない。神の前では私たちは罪人であり、神の恵みによってのみ救われたのだが、私たちは救われているので、神の御国において大いに価値があるのだ。私たちは自己中心を捨て、敬意と礼儀正しさをもって他の人たちに接するべきだ。他の人の利益を自分の利益より重要だと考えることは、私たちをキリストと結びつける。キリストは謙遜さの信実な模範であった。

4節の個所について(筆者挿入)〕ピリピは国際都市だった。いろいろな素性や社会的階級出身の人々がいたので、教会の構成は非常に多様性を反映していた。使徒16章は、この教会の多様な構成を私たちに示している。教会員の間の非常に異なった背景のために、一致を維持することは困難だったに違いない。教会における分裂の証拠はないが、その一致は守られなければならなかった(3242)。パウロは、意見の相違を引き起こすかもしれないどんな自己中心や偏見や妬みにも用心するよう励ましている。他の人たちに心からの関心を示すことは、信者の間での一致を維持することを積極的に一歩前進させるものなのだ。

5節の個所について(筆者挿入)〕イエス・キリストは謙遜であり、神に従い人々に仕えるために喜んでご自分の権利を譲った。私たちはキリストのように、自責の念や恐れからではなく、神や他の人への愛によって仕えるしもべの態度を持つべきだ。自分の態度を選ぶことができることを忘れずにいよう。仕えられることを求める人生を選ぶこともできるし、他の人たちに仕える機会を探すこともできる。キリストのしもべとしての態度についてはマルコ1045を参照。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの心を心とし、神を愛し、隣人を愛し、何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって他の人の優れたところを学ばせていただく者であらせてください。
そのためにも霊のみならず魂もキリストの霊に満たされ続けて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月29日 (月)

フィリピ1:29.30 恵みによって与えられる苦闘もある

 フィリピ127-30には次のように記されています。
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。
 あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、28 どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神 によることです。
 29 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。
30
 あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は、最後の晩餐の時に、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ1633・新改訳初版~第三版)と言われました(この時にはイスカリオテのユダはいません。イスカリオテのユダは少し後に自死しました)。
ヨハネを除く10人の使徒全員が殉教したのです。
ヨハネは島流しにあいましたが、そこで啓示が与えられ「黙示録」を残しました(神様のご計画であったのでしょう)。

 使徒でなくても、キリスト者は誰でも信仰の戦いから逃れることはできません。キリスト者の方が戦いたいと思わなくても、サタンは、悪霊やサタンの自由になる人達を使ってキリスト者に戦いを挑んでくるからです。

目的は、福音宣教の邪魔をすること、イエス・キリストへの信頼を揺るがせること、祈らないようにさせること、聖書を読めないようにさせること、恐れを抱かせること、・・・等々とあるでしょう。

イエス様を信じて少したってから、聖書を読む気がしない、祈れない、或いは祈る気がしない、礼拝に出ることに気後れする、などの現象に襲われることがあります。これらの多くは悪霊の働きや示された罪をそのままにしておくことから来るものです。

試しに、祈れないとき、「主よ、喜びを持って祈ることが出来るように祝福してください。悪霊が祈らせないように邪魔しているのであれば、悪霊を排除してください。主イエスの御名によって祈ります。」と祈ってみてください。スムーズに祈れるように変わっているかもしれませんよ。
また、祈りたいと思っているのに何か祈りにくいようなときには、悪霊に対して「主イエスの御名によって命じる。祈りを妨げている悪霊よ、引き下がれ。 主よ、私を祈りの霊で満たしてください。」というような祈りでも結構です。
悪霊による場合には、直ちに祈れるようになるでしょう。
祈り方は色々あります。
聖書を読めないとき、教会に行きたくないときもこれを応用してみてください。

また、信仰から遠ざかってしまう自分自身からくる問題としては、罪を示されているのに主に対して罪を告白していない、というのがあります。そのようにしていると主との間に壁が出来てしまいます。

罪を示されたら兎に角すぐに悔い改めることです。
主は“もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。” (1ヨハネ192017)と約束してくださっておられるのですから。

信仰の戦いを戦い抜くためには、キリスト者としてふさわしい歩みをすることが大切であることを27節は教えてくれていると思います。

27節には“・・。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦って・・、”(聖書協会共同訳)とあります。
聖書によっては、「一つの霊によって」と訳している聖書(聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳)と「霊を一つにして」と訳している聖書(文語訳、新改訳)がありますが、前者の方の訳の場合は「御霊によって」と捉えることができるでしょうし、後者の場合は「個々人の霊を主に在って一つにして」と捉えることができるだろうと思います。
いずれにしても、主と良い関係にあることが重要であることを覚えます。


御霊は、神ですからサタンやサタンの配下の悪霊に対して圧倒的な力を持っています。創造者と被造物との甚だしい違いがそこにはあります。終末に登場して世界を自分の手に治める獣(反キリスト)もキリストの体である教会の中におられる御霊が地上におられる間は、抑えられていて活動できないのです。(2テサロニケ26.7参照)

キリスト者の本体は、神から生まれた霊(ヨハネ11333.6)と救われて新しくされた魂{(キリストを信じキリストを愛する魂)1ペテロ18.92コリント5172ペテロ14}です。
それ故、万が一、肉体を使いものにならないようにされたとしても、イエス・キリストを信じる信仰をしっかり持っていたら、それは勝利です。

 1ヨハネ54には次のように記されています。
“神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。”(新共同訳)
“神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。”(2017)とあります。

この地上の肉体は、長く持っても120年でしょう。しかし、キリスト者は、永遠に滅びることなく古びることのない霊の体を頂くのです。
霊の体について、1コリント15章には次のように記されています。
「天上の体」(40)、「朽ちないもの(体)」(42)、「輝かしい(栄光ある)もの(体)」(43)、「力強いもの(体)」(43)とあります。
 1ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)と記されています。
新生させていただいたキリスト者たちの総体はキリストの花嫁なのですから、キリストに似たものとしていただいても不思議ではありません。それにしてもものすごい玉の輿ですね。

「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ1033)と主イエス様は言われました。
ペテロは、人前で「主を知らない」と言ったのですが、主に赦された人です。

 話しを元に戻します。
29.30
節には“29 なぜなら、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。
30
 あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
しかし、パウロに次のようにも語っています。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(2テモテ472017)と証したパウロは、弟子のテモテに「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(1テモテ6122017)と語り、更に「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(2テモテ21・新改訳初版~第三版)とも勧めました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは私達に、苦難をも恵みとして与えてくださるお方です。
いつも主に信頼して、勝利していくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月25日 (木)

フィリピ1:27.28 御霊により心を一つにして福音のために労する教会は幸いです

 フィリピ127.28には次のように記されています。
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私は次のことを聞けるでしょう。あなたがたが一つの霊によってしっかりと立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っており、28 どんなことがあっても、敵対者たちにひるんだりはしないのだと。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神によることです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
27 しかし、たとい私の身にどんなことが降りかかろうと、あなたがたは、いつもキリストの福音にふさわしく生活するよう心がけてください。そうすれば、もう一度会えるにしても、会えないにしても、あなたがたについて、いつでもうれしい報告を聞けるでしょうから。つまり、あなたがたが、キリストの福音を宣べ伝えるという一つの目標に向かって、しっかり一つとなり、28 敵対する者たちのどんなしわざにもたじろぐことがないと。そのことは、彼らの滅びを暗示するのですが、あなたがたにとっては、神が共にいて永遠のいのちを与えてくださることの確かな証拠となります。”と記しています。

 岩波訳は次のように訳しています。〔 〕内は訳者の挿入です。
27ただあなたがたは、キリストの福音にふさわしい〔市民として〕生活をしなさい。それは、私が行ってあなたがたに会っているにしても、〔あなたがたから〕離れているにしても、あなたがたに関する〔次のような〕ことがらを私が聞くことになるためである。すなわち、あなたがたが一つの霊において堅く立っているということ、〔その際〕一つ心において福音の信仰のために共に闘いながら、28なにごとにおいても反対者たちによって脅かされないでいるということを、である。そのことは彼らにとっては滅びの表示であるが、他方、〔あなたがたにとっては〕あなたがたの救いの〔表示〕であり、そしてそのことは神から〔出た〕ものなのである。”と記しています。

 27節に関して、BIBLE navi は、適用注解で次のように述べています。
“一部の教会で、一致して本当の反対者に対抗する代わりに互いに戦うことによって多くの時間と努力が浪費されるのは、何と悲しいことだろう。内部抗争に屈せず、キリストに仕えるという共通の目的を持ち続けるには、勇気のある教会を必要とする。”と記しています。

 内部抗争に陥る理由にはいくつかの原因があるでしょう。
その中には、肉の思いが対処されていない、という場合があります。
ガラテヤ5章に次のような聖句があります。
19 肉の行いは明白です。・・・、20 ・・・、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、・・・・、その他このたぐいのものです。”(抜粋・聖書協会共同訳)と記されています。

 これへの対処として、ガラテヤ524-26には次のように記されています。
24 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
25
 私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。
26
 思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 御霊による一致に歩むためには、その前にガラテヤ524の経験が必要なのです。
その後に、御霊のご支配の下に(別の表現では「御霊に満たされて」)生きることができるのです。すなわち25節にあるように「私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進む」ということが可能になるのです。

 霊(御霊)によらない一致というものもあります。
肉による一致です。
その場合には、肉における利害が一致する場合です。
霊肉混淆(こんこう)ではなく、肉は十字架につけられたという信仰に立ち、御霊の支配の下に一つになることが要求されているのです。
パウロが、ここでこのように記した理由は、フィリピ教会内に主に喜ばれない生き方があったからなのです。
それをフィリピ3-4章の一部から見ていきます。そこには次のように記されています。
317 きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18
 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架の敵として歩んでいる者が多いのです。
19
 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹〔欲望(新改訳)〕を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。
・・・・略・・・・
4
2 私はエボディア〔ユーオディア(2017)〕に勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。〔二人は意見が合わず、主に在る一致を持つことができなかったのです(筆者挿入)〕
3
 なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと 力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
また、パウロは次の様にも述べています。
19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
20
 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
21
 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
自分のことは主に委ねて、主のみ旨の内を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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