日毎の恵み20

2024年5月30日 (木)

箴言29:1 主に対して不従順であり続けるとある時に滅ぼされる

 箴言291を、
2017
は“叱責されても、なお、うなじを固くする者は、突然打ち砕かれて、癒やされることがない。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“懲らしめを受けてもなおかたくなな者は、突然打ち砕かれ、癒やされることはない。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“戒められても、なお頑迷な者は、立ちどころに滅ぼされて、救われることはない。”と訳し、
 リビングバイブルは“何度しかられても言うことを聞かない者は、突然倒れて二度と立ち直れません。”と訳しています。

 「叱責される」(2017)、「懲らしめを受ける」(聖書協会共同訳)、「戒められる」(フランシスコ会訳)、「叱られる」(リビングバイブル)、「懲らしめられる」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「トーカーホート」で、日本語訳各聖書の訳のような意味があります。言葉による戒め、叱責もあれば、せっかん、懲罰のような意もあります。

 「うなじを固くする」(2017)と訳されている個所のヘブライ語原語は2語で「カーシャー オーレフ」です。「オーレフ」はうなじ、首筋、・・等の意です。「カーシャー」は密集した、厳しい、固い、難しい、・・等の意があります。
聖書協会共同訳は「かたくなな」、フランシスコ会訳は「頑迷な」、リビングバイブルは「いうことを聞かない」と訳しています。

 「打ち砕かれ」(2017、聖書協会共同訳)、「滅ぼされ」(フランシスコ会訳)、「倒れて二度と」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーバル」で、破裂する、破壊する、滅ぼす、全滅させる、・・・等の意があります。

 「癒す」(2017、聖書協会共同訳)、「救う」(フランシスコ会訳)、「立ち直る」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「マルペー」で、癒す、救済する、矯正する、改善する、救出、救助、・・等の意があります。

 幾度も忠告されたり、懲らしめを受けたりしても、回心することの無い人(悔い改めることの無い人)は、癒されることなくor救済されることなく滅ぼされますよ、という聖句です。

 典型的な人の例として思い起こすのは、出エジプト記に登場するファラオ(パロ)です。
モーセを通してヤハウェ(主)は、ファラオにいくたびも忠告しましたが、ファラオは聞き従うことはなく、やがて長子を失い、最後には自分の命をも失ったのです。出エジプト記5-14章に記されています。

 ヤハウェ(主)がファラオに行(おこな)ったことを見ていた出エジプトしたイスラエル人たちもまたうなじのこわい民でした。それゆえ、出エジプト時に20歳以上の人の中で、約束の地(カナンの地)に入れた人は、主に対して従順なカレブとヨシュアだけであったのです。

 民数記1420-35には次のように記されています。
20 主は言われた。
「あなた〔モーセ(筆者挿入)〕の言葉のとおり、私は赦そう。21 しかし、私は生きている。主の栄光は全地に満ちている。22 私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、23 私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。24 しかし、私の僕(しもべ)カレブの心だけは別で、私に従い通したので、私は彼が行って来たあの地に、彼を連れて行く。彼の子孫はそれを所有するであろうが、25 今はアマレク人とカナン人とがあの谷に住んでいるので、明日、あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って、荒れ野に向かって進みなさい。」
 26 主はモーセとアロンに告げられた。
27
 「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。28 あなたは彼らに言いなさい。私は生きている――主の仰せ。
私は、あなたがたが私の耳に語った〔民数記141-3を参照(筆者挿入)〕とおり、あなたがたに対して行う。
29
 あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう。私に対して不平を言った者、すなわち、あなたがたのうち二十歳以上で、登録をされ、数えられた者は皆、倒れるであろう。30 あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。
ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。
31
 あなたがたは『幼子たちが奪われる』と言ったが、私は幼子たちを導き入れる。彼らはあなたがたの拒んだその地を知るようになる。
32
 だが、あなたがたは死体となってこの荒れ野に倒れ、
33
 あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。
34
 あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。
 35 主である私が言う。
私に逆らって集まったこの悪い全会衆に対して、私は必ずこのことを行う。彼らはこの荒れ野で絶え果てて、死ぬ。」」”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、主キリスト・イエス様を信じた(心に受け入れた)ので、約束の地(天国)に入れて頂けるのです。
主イエス様は言われました。
1 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。
2
 私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。
3
 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。”(ヨハネ14章・聖書協会共同訳)とあります。
ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様を信じることを得させてくださり感謝します。
いつも私たちを愛してくださっておられる主に信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月29日 (水)

詩篇115篇 ただ主の御名に栄光あれ

 詩篇115篇には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、私たちにではなく、私たちにではなく、あなたの名にこそ、栄光を与えてください。あなたの慈しみとまことのために。
 2 なぜ国々は言うのか。「彼らの神はどこにいるのか」と。
3
 私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。
〔私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。(新改訳)〕
4
 彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。
5
 口があっても語れず、目があっても見えない。
6
 耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。
7
 手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。
8
 それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる。
 9 イスラエルよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
10
 アロンの家よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
11
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
12
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちを思い起こし、祝福してくださるように。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してくださるように。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々を祝福してくださるように。小さな人たちも大きな人たちと共に。
14
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを増し加えてくださるように。あなたがたもその子孫も。
15
 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されるように。天と地を造られた方に。
16
 天は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。地は人の子らに与えられた。
17
 主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するのは死者ではなく、沈黙の国に下った人々でもない。
18
 私たちこそ、主〔ヤハ(筆者挿入)〕をたたえよう。今より、とこしえに。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4-8節は、偶像について次のように記しています。
4 彼らの偶像は銀と金、人の手が造ったもの。
5
 口があっても語れず、目があっても見えない。
6
 耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅ぐことができない。
7
 手があっても触れず、足があっても歩けない。喉からは声も出せない。
8
 それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる。”とあります。

 偶像により頼む者も偶像を造る者も虚しいことを教えてくれていますが、新約聖書には、更に次のような教えもあります。
コロサイ35には“ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。”(2017)と記され、
エペソ55には“このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者〔「汚れた」という語のギリシア語原語は「アカサルトス」で、(儀式的or道徳的or性的or霊的に)「汚れた、汚い、不純な」等の意です。(筆者挿入)〕、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。”(2017)と記され、
1
ヨハネ521には“子どもたち、偶像から自分を守りなさい。”(2017)と記されています。
偶像礼拝とは、まことの神以外のものを神とすることです。ですからその中にはまことの神を神としない(まことの神を第一としない)思想、願望、・・・等々も含まれます。

 9-11節には次のように記されています。
9 イスラエルよ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
10
 アロンの家よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
11
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。”とあります。

 まことの神であるヤハウェ(主)こそ「助け主」であるので、主に信頼するようにと勧められています。
キリスト者は、何があっても、「イエス様」を呼び求めると思います。

 12-15節には次のように記されています。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私たちを思い起こし、祝福してくださるように。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福してくださるように。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を畏れる人々を祝福してくださるように。小さな人たちも大きな人たちと共に。
14
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたを増し加えてくださるように。あなたがたもその子孫も。
15
 あなたがたが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に祝福されるように。天と地を造られた方に。”とあります。

 新生したキリスト者は、天と地を造られた方から祝福されているのです。
“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(エペソ132017)と記されています。

 16節には“天は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもの。地は人の子らに与えられた。”と記されています。
キリスト者はキリストの使節として地上に遣わされていますが、国籍は天国籍です。(2コリント520、ピリピ320
エペソ26には“神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。”(2017)と記されています。

 17節には“主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するのは死者ではなく、沈黙の国に下った人々でもない。”と記されています。
イエス・キリスト様の十字架、復活、昇天、高挙の後、この状態は変化したようです。
フィリピ26-11には次のように記されています。
6 キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、
7
 かえって自分を無にして僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者に〔人間と同じように(新改訳)〕なられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9
 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10
 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して父なる神が崇められるためです。”(聖書協会共同訳)とあります。
どうしてそのようになったのでしょう。
1
ペテロ319には“霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。”(新共同訳)と記されています。

 私たちキリスト者は主を賛美することが性質的な意味での本分の一つです。{エペソ16.12.14、詩篇10219(新共同訳)、文語訳は18節}
詩篇10218には“來らんとするのちの世のためにこの事をしるさん。新しくつくられたる民はヤハをほめたたふべし”(文語訳)とあり、
新共同訳は“後の世代のために、このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩篇10219)と記されています。

 キリスト者は、主の栄光をほめたたえることを喜ぶ者たちです。
詩篇1151.18の次の聖句のように。
1 わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。
18
わたしたちこそ、主をたたえよう。今も、そしてとこしえに。ハレルヤ。」(新共同訳)と。

<お祈り>
聖なる天のお父様。
御名があがめられますように。
あなたの御国が来ますように。
天の御国でと同じように、この地上でもあなたの御心が行われますように。
いつも恵みとまことによって私たちを扱ってくださっておられますあなたに、恵みとまことに満ちておられる私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月28日 (火)

使徒3:1-10 足の不自由な人が癒される

 使徒31-10には次のように記されています。
1 さて、ペトロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に神殿に上って行った。
2
 すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
3
 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7
 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節には“すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。”(2017)と記されています。

 新共同訳、聖書協会共同訳は「美(うつく)しい門」と訳していますが、口語訳、新改訳、リビングバイブルは「美(うつく)しの門」、フランシスコ会訳は「麗しの門」、岩波訳は「美(うる)わしの門」と訳しています。
この個所の「美しい」と訳されている語のギリシア語原語は「ホーライオス」で、比喩的な意味で、「美しい」の意がある単語です。
「美しの門」などと訳されている日本語訳聖書の個所を、ギリシア語聖書の語順を基に訳しているKJVは“at the gate of the temple which is called Beautiful”と訳しています。
信仰的にはどうでもよいことなのですが、私自身が気になったので記しておきました。

 美しの門について聖書辞典は、
“ヘロデの建設したエルサレム神殿の東側の「異邦人の庭」から、さらに内側の「婦人の庭」に通じている門である。他の門より値打ちのある分厚い金銀とコリントしんちゅうで飾られ、壮麗を極めていたところから「美しの門」と呼ばれたのであろう。ペテロとヨハネによって、生れつき足のきかない男がいやされた場所である(使3:2,10)。”と述べています。

 余談になりますが、新天新地の新エルサレムの美しい門は、12あり、それぞれ大きな一つの真珠でできていると記されています。
黙示録21章には、
11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
12
 都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。/
 16 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオン〔約2220km。東京駅から鹿児島駅までの新幹線の距離は約1326kmです。(筆者挿入)〕あった。長さも幅も高さも同じである。
17
 また、城壁を測ると、百四十四ペキス〔約64.8m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。
22
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 まさしくBeautifulです。

 話を元に戻します。
宮(神殿)への入り口にあった美しの門の所に、足の不自由な人が毎日運ばれてきて、そこに置いてもらい、物乞いをしていたのです。
ペテロとヨハネが午後三時の祈りのために神殿にやって来たのです。

 足の不自由な人は、ペテロとヨハネに施しを求めました。
その時のやり取りが3-6節に次のように記されています。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」”とあります。

 ご聖霊は神ですから御意志を持っておられます。
主イエス様は、御聖霊は御意志を持って働いておられると語られました(ヨハネ38)。
ヨハネ38に「風は〔吹き(訳者挿入)〕たいところに吹き、あなたがたはその音を聞く。」(岩波訳)と主イエス様の御言葉が記されています。この個所の欄外注には“または「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く。」”と記されています。

 私の推測ですが、ペテロはこの時、御聖霊に導かれたのであろうと思います。
そして、主イエス様が最後の晩餐の時に語られた御言葉の一端が成就していったのではないかと思います。
ヨハネ1412-16には次のように記されています。
12 よくよく言っておく。私〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
15
 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔ギリシア語原語は「パラクレートス」で、弁護者、慰め主、支持する者、調停者、提唱する者、等の意があり、その他主イエス様は真理の御霊とも語られました。(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 美しの門に置かれていた足の不自由な人は、油塗られたペテロのことばによって立ち上がり、飛び跳ね、歩くことができるようになったのです。それはペテロの力ではなく主なる神の力と足の不自由な人の信仰の故であったのでしょう。
信仰も賜物です。(1コリント129、エペソ28
 7-10節には次のように記されています。
7 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主のみ声を聞き分け、導きに従ってことを行っていくことの出来る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。

2024年5月27日 (月)

フィリピ2:25-30 エパフロディトの奉仕

 フィリピ225-30には次のように記されています。
25 ところで私は、エパフロディトをそちらに送り返さねばならないと考えています。
彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のときに奉仕してくれましたが、26 あなたがた一同を慕っており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27
 実際、彼は瀕死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけではなく、私をも憐れんで、苦痛〔別訳「悲しみ」(欄外注)〕を重ねずに済むようにしてくださったのです。
28
 そういうわけで、大急ぎで彼を送り返します。そうすれば、あなたがたは彼と再会して喜ぶでしょうし、私の苦痛も和らぐでしょう。
29
 だから、主にある者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
30
 彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。私に対するあなたがたの奉仕の足りない分を補おうとしてくれたのです。〔なぜなら、彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。彼は離れているあなたがたに代わって、私に尽くしてくれたのです。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはローマの獄中にいました。
エパフロディトは、フィリピ(ピリピ)教会を代表して、獄中のパウロへ贈り物を届けた人です。
エパフロディトは、贈り物をもってパウロの所へ行く途中に何かの病原性微生物に感染してローマで発症したのか、あるいはパウロの所にいる間に重篤な病に罹患したのかは分かりませんが、死を覚悟するような病にかかったのです。(27.30節参照)

 エパフロディトが重病であるということが、どのような方法でフィリピ教会に届いたのかは分かりませんが、エパフロディトが病の床に伏していることをフィリピ教会の信徒たちはとても心配し、祈っていたのでしょう。
また、エパフロディトという人は、フィリピ教会の信徒たちに心配をかけてしまったことを心苦しく思う人でもあったのです。(26節参照)

 現代では、お金の送金は、金融機関から送ればそれですみますし、物品を送るのも郵便局から外国へ送ることもできます。
しかし、この当時は、自ら持っていくか、信頼のおける人に託すしかなかったのでしょう。
信徒たちからの贈り物をフィリピからローマまで届けるのは大変なことです。
もちろん、主に祈りつつ旅をしたことと思いますが、途中で、強盗や山賊にあうかもしれませんし、雨に打たれるかもしれません。
パウロは宣教旅行中に、川の難、盗賊の難、町での難、荒野での難、海上での難、・・等の苦難にあったと記しています。(2コリント1126参照)

 エパフロディトが重病にかかったことについての表現をパウロは、「彼はキリストの業(わざ)のために命を懸け、死にそうになったからです。」(30・聖書協会共同訳)と記しました。
2017
はその箇所を「彼はいのちがけでキリストのために働き、今にも死にそうな目に会ったからです。」と訳しています。

 エパフロディトがフィリピ教会を代表し、贈り物をもってパウロのもとへ行ったことにより、パウロは直接エパフロディトからフィリピ教会の問題を聞くことができました。
それゆえに、問題の対処の方法をパウロはこの手紙に書くことができました。
今日の個所で2章まで終わりますが、ここまでの間にも、
1.教会員は、主キリストにあって一致して、宣教の業に従事すべきです。
2.キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
3.一人一人がキリストのへりくだり(謙り)に倣って謙遜に歩み、他の信徒たちを敬愛するようにしなさい。
4.その他。
のことをパウロは忠告してくれました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
パウロは「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント1112017)と述べていますが、少しでもキリストの香りを放つ者としての歩みをさせて頂けますよう恵みによって整えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月26日 (日)

箴言28:28 悪魔(ザ・サタン)に立ち向かえ

 箴言2828を、
リビングバイブルは“正しい人は、悪人が幅をきかせると隠れ、彼らが滅びると戻って来ます。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“悪しき者が立ち上がると人は隠れ、彼らが滅びると正しき者が増える。”と訳し、
フランシスコ会訳は“悪い者が権力をふるうと、人々は身を隠す。彼らが滅びると、正しい人が増える。”と訳し、
 2017は“悪しき者が勢いを増すと、人は身を隠し、彼らが滅びると、正しい人が増える。”と訳し、
 新共同訳は“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”と訳しています。

 「悪しき者」(聖書協会共同訳、2017)、「悪人」(リビングバイブル)、「悪い者」(フランシスコ会訳)、「神に逆らう者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、誤った、不正な、邪悪な、不道徳な、悪い、不敬虔な、不信心な、罪深い、・・・、等の意に使われ、ヘブライ語ではそれに人(者)の意をつけて使いもします。
この個所の単語は複数形です。

 この世のすべての根源はまことの神であるヤハウェ(主)です。
まことの神に対して最も罪深いのは、聖書の三一の神を人間、天使、宇宙を含めた全てのものの創造主とせず、聖なるお方としないことです。
事実、ヤハウェ(主)なる神が、万物を創造されたのですから。
人間は造られたもの、被造物です。
ヤハウェが正しいとすることを正しいと捉え、主が、これが愛である、と言われ、なさることを愛とすることが健全なことですが、それから外れていることは、罪なのです。

 「幅をきかせる」(リビングバイブル)、「立ち上がる」(聖書協会共同訳)、「権力をふるう」(フランシスコ会訳)、「勢いを増す」(2017)、「興る」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「クーム」で、上がる、立ち上がる、増加する、昇る、起こる、等の意があり、留まる、達成する、・・等の意でも使われます。

 「人」(聖書協会共同訳、新共同訳、2017)、「人々」(フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーダーム」(アダム)です。

 文の後半部分に入ります。
「滅びる」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーバド」で、死ぬ、滅びる、等の意があり、この語に接尾辞で「彼ら」を意味する語がついています。
この単語には更に接頭前置詞も付いているので、「悪者たちが滅びると」or「不敬虔な者たちが滅びると」と訳せます。

 「正しい人」(リビングバイブル、フランシスコ会訳、2017)、「正しき者」(聖書協会共同訳)、「神に従う人」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、公正な、有徳な、等の意があります。神に対して正しい人は、神に従う人ですから新共同訳は「神に従う人」と訳したのでしょう。
この個所は複数形になっています。

 「戻ってくる」(リビングバイブル)、「増える」(聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、2017、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーバー」で、増加する、増える、・・等の意があります。

 この聖句を新共同訳は、“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”と訳しました。
アダムが堕罪して以降、人々が神に背を向け、サタンに従ったので、この世の神はサタン(悪魔)となりました。
1
ヨハネ519には“・・。わたしたち〔新生したキリスト者(筆者挿入)〕は神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”(新共同訳)と記されています。

 ノアの時代もひどいものでした。
創世記6章には次のように記されています。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。/
8
しかし、ノアは主の心にかなっていた。/
11
地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。”(2017)とあります。
ノアはアダムから10代目の人でした。それでもその当時、悪に満ちていた世界であったのです。

 ノアには3人の息子がいました。その中にハムという人がいました。
ハムにクシュという子が生まれました。そしてクシュはニムロデ(ニムロド)を生んだのです。ヘブライ語は「ニムロード」です。
ニムロデの意味は“「私たちは反逆しよう」という意味であると思われる。”と聖書辞典に記されています。
創世記1010-12には“10 彼〔ニムロド(筆者挿入)〕の王国の初めは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアル〔別称「バビロニア」(筆者挿入)〕の地にあった。11 彼はその地からアッシリアに出て、ニネベ、レホボト・イル、カラ、12 そしてレセンを築いた。レセンはニネベとカラとの間にあり、それは大きな町であった。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記11章にはバベルの塔の記事があります。
バベルの塔について聖書辞典は次のように述べています。
“古代人がバベル(別名バビロン)に建てた巨大な塔を指す。聖書には、ニムロデがバビロニヤ南部シヌアル平野に建設した町に造られた宗教的な意味を持つ建造物の一つとして描かれ(創11:1‐9.参照創10:10)、今日では神に反抗する人間の傲慢と自己栄化を表徴する固有名詞のように言及されることが少なくない(参照黙14:8,16:19)。バベルという地名は元来アッカド語で「神の門」を意味したが、創世記の著者は「混乱させる」(〈ヘ〉バーラル)という動詞との語呂合せをしている。人々は町と塔の建築を始めたが、人の高慢を見られた神の介入によって言語が混乱し、相互理解が妨げられたので、完成できなかった。
 メソポタミヤにおける考古学的発掘調査により、シュメールの複数の町で、最上階に神殿を築いた巨大な方形の塔が見出された。それらは山を模した人工丘で、おもに日干しれんがとアスファルトを使用して作られており、ジッグラトと呼ばれる。バビロンで見つかった粘土板に楔形文字で記された物語によれば、この地の塔の土台は幅と奥行が約90メートル、高さは神殿自体も含めて100メートルほどあった。ある記録には、アッカド王シャル・カリ・シャルリ(前2250年頃)がバビロンの塔を再建したとある。セナケリブ(前704―681年在位)はその破壊をもくろんだ。エサル・ハドン(前681―669年在位)はジッグラトを修築し始めたが、戦争で中断された。再建を果したのはネブカデネザル2世(前605―562年在位)であったと碑文に記されている。ヘロドトスもその塔を目撃した(前460年頃)。”(抜粋)とあります。

 この世の終わりには、獣(反キリスト)をリーダーとした世界の軍勢が、再臨のキリストに戦いを挑むのです。しかしたちまち返り討ちにあうのです。
その後、主キリスト様が統治する1000年間があります。
その時代に生きている人々は、サタン(悪魔)が解放されるまでは、主に従うのです。
そこは、アダムの堕罪前のエデンの園のようです。

 今日の個所である“神に逆らう者が興ると人は身を隠し、彼らが滅びると神に従う人がふえる。”(新共同訳)という聖句を読んだとき、アダムの堕罪以降とキリストの千年王国に思いが行きました。

 私たちキリスト者は、サタン(悪魔)が支配している時代にあっても、サタンや配下の悪霊たちに勝利できる恵みを与えられています。
悪魔の策略に対抗し、日々主に仕えていきたいものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ヤコブ47には「・・・神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(新改訳初版~第三版)と記されていますから、いつも主を愛し、主に従い、悪魔に立ち向かって勝利しつつ地上生涯を全うさせていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月25日 (土)

詩篇114篇 創造主なる神、力ある神が私たちとともにおられる

 詩篇114篇には次のように記されています。
1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき、
2
 ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の治めるところとなった。
2017は後半部分を“イスラエルは神の領地となった。”と訳し、リビングバイブルは“その時、ユダとイスラエルの地は、神様の新しい住まいとなり、王国となったのです。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
3
 海は見て、逃げ去り、ヨルダン川は後ずさりした。
4
 山々は雄羊のように、丘は小羊のように跳ね踊った。
5
 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダン川よ、後ずさりするとは。
6
 山々よ、雄羊のように、丘よ、小羊のように跳ね踊るとは。
7
 地よ、主である方の前で身もだえせよ。ヤコブの神の前で。
8
 それは岩を池に、硬い岩を泉に変える方。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1.2節には“1 イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき、2 ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の治めるところとなった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 これは出エジプトしたときのことでしょう。
イスラエルは神ヤハウェと契約を結んだのです。
出エジプト記20章の十の言葉(十戒)から始まって、出エジプト記23章までの律法に対して、イスラエルは神ヤハウェと契約を結んだのです。
そして神ヤハウェがイスラエルを治めることになったのです。

 出エジプト241-11には次のように記されています。
1 また、主はモーセに言われた。「あなたはアロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老たちと共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。
2
 モーセだけは主に近づくことができるが、他の者は近づいてはならない。民はモーセと共に登ってもいけない。」
3
 さて、モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に語り聞かせた民は皆声を一つにして、「主が語られた言葉をすべて行います」と答えた
4
 そこで、モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山の麓に祭壇を築き、イスラエルの十二の部族にちなんで十二の石柱を立てた。
5
 さらに、モーセはイスラエルの人々のうちから若者たちを遣わした。彼らは数頭の雄牛を焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして主に献げた。
6
 モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇に打ちかけた。
7
 そして、その契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と言った
8
 そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけて言った。「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。」
9
 さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に登って行って、10 イスラエルの神を仰ぎ見た。その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。
11
 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 3.5節には“3 海は見て、逃げ去り、ヨルダン川は後ずさりした。5 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダン川よ、後ずさりするとは。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 これは葦の海での主の御業とヨルダン川を堰き止めた主の御業です。
エジプト軍がイスラエルの民を追ってきたとき、主が海の水を分けられたので、イスラエルの民は、乾いた地を渡りました。
しかし、イスラエルの民を追ってきたエジプト軍は、主が水を元に戻されたので、その全軍勢が滅びたのです。
この話は出エジプト記14章に記されています。

 また、主がヨルダン川を堰き止められたので、イスラエルの民(おそらく200万人位はいたと思います)が、民は、乾いた地となったヨルダン川を渡ったのです。
この話はヨシュア記3章に記されています。

 4.6節には“4 山々は雄羊のように、丘は小羊のように跳ね踊った。6 山々よ、雄羊のように、丘よ、小羊のように跳ね踊るとは。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 これは主が十の言葉(十戒)をイスラエルに与えられる前に主が起こされたことです。
 出エジプト1916-19には次のように記されています。
16 三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
17
 モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。彼らは山の麓に立った。
18
 シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた
19
 角笛の音がますます力強くなったとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴で答えられた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 8節を2017は“神は岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を水のあふれる泉に。”と訳しています。
 
出エジプト171-6には次のように記されています(これは出エジプトした最初の年のことです)。
1 イスラエル人の全会衆は、主の命(めい)によりシンの荒れ野を出発し、旅を重ねて、レフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲む水がなかった。
2
 民はモーセと言い争いになり、「飲み水をください」と言った。
モーセは彼らに言った。「なぜあなたがたは私と言い争うのか。なぜ主を試すのか。」
3
 しかし、民はそこで水を渇望し、モーセに対して不平を述べた。
「私たちをエジプトから上らせたのは何のためだったのですか。私や子どもたちや家 畜を渇きで死なせるためだったのですか。」
4
 そこでモーセは主に叫んだ。「私はこの民をどうすればよいのでしょうか。彼らは今にも私を石で打ち殺そうとしています。」
 5 主はモーセに言われた。
「民の前を通り、イスラエルの長老を何名か一緒に連れて行きなさい。ナイル川を打ったあなたの杖も手に取って行きなさい。6 私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前でそのとおりに行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 民数記201-11には次のように記されています(出エジプトした40年目、荒野の生活の最後の年です)。
1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。
2
 さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
3
 民はモーセと言い争った。「私たちの兄弟が主の前で死に絶えたとき、私たちも死に絶えていればよかった。
4
 なぜ、あなたがたはこんな荒れ野に主の会衆を導き入れたのですか。私たちと家畜をここで死なせるためですか。
5
 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、 飲み水さえもありません。」
6
 モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主の栄光が彼らに現れた。
 7 主はモーセに告げられた。
8
 「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい。」
 9 モーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、10 モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」
11
 モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主なる神は、葦の海の水を右と左に分けて乾いた地を出し、ヨルダン川では、イスラエルの民が渡る場所の上流で水を堰き止め、十戒を与えられる前には山を震(ふる)わせ、飲み水のない所では岩から水を出されたお方です。

 主イエス様は、ガリラヤ湖において嵐に見舞われたとき、一声「黙れ。静まれ」と言って、嵐を鎮められました。
 マルコ436-39には次のように記されています。
36 そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37
 すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。
38
 しかし、イエス自身は、艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神なる主は自然界を支配できるお方です。それ以上に万物を創造なさり保っておられるお方です。(へブル12.3
ガリラヤ湖の嵐を鎮められた主イエス様の御業を見て、弟子たちは、この方はひょっとして神ではないだろうか、と思った可能性があります。
41
節には“弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った”(聖書協会共同訳)と記されていますから。

 1コリント101-5には次のように記されています。
1 きょうだいたち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼(バプテスマ)を受け、3 皆、同じ霊の食物を食べ、4 皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
5
 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 「岩」は比喩的には神を象徴します。
イスラエルの民は受肉前の御子に導かれ、守られてカナンの地に入ったのであろうと私は思います。
この御子が、私たちを愛し、私たちの為に、肉の体をまとい、十字架上で贖いを成し遂げてくださり、御復活後、信じた者の心の中に住んでくださり(コロサイ127)、天においてはとりなしの祈りをしてくださっておられるお方(ローマ834)、キリスト者の総体である教会(エクレシア)の花婿なのです(エペソ531.32)。

<お祈り>
天のお父様。
創造主なる神様をほめたたえます。
その主が常に私たちと共にいてくださいますからありがとうございます。
今日も主に守られて歩ませていただけますことを感謝します。
私たちは、未来のことを知る力がありませんが、永遠の未来までも見通しておられる主が私たちを導き、すべてのことを相働かせて益としてくださいますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月24日 (金)

使徒2:41-47 主に在る基本的な歩み

 使徒241-47には次のように記されています。
41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42
 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
43
 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。
44
 信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46
 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 41節の「その日に三千人ほどが仲間に加わった。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。キリスト者の肉体は滅びますが魂は新たにされて永遠です。体はキリストの空中再臨の時に霊の体をいただけます。

 43節の「すべての人に恐れが生じた。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。

 41節には3000人ほどが救われた、とありますが、これは神であるのに人の肉体をまとわれ、救いを成就してくださった主キリスト・イエス様を信じた人たちですが、同じ3000人でも偶像礼拝のために滅ぼされた人たちもいました。

 出エジプト記32章には次のように記されています。
1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民はアロンのもとに集まって言った。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってく ださい。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
2
 アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」
3
 すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。
4
 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。
5
 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。
6
 彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は、座っては食べて飲み、立っては戯れた。/
25
 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。
26
 そこでモーセは宿営の門のところに立ち、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」と言った。するとレビ人は皆彼のところに集まった。
27
 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」
28
 レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。
29
 モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 創造主であり、救いをもたらしてくださった神であるお方を信じるのか、信じないのか、という選択は、その魂の永遠を決めるのです。
罪とはキリストを信じないことです(ヨハネ169)。
罪とは神ヤハウェ(主)を信じないことです(出エジプト203)。
罪とはまことの神以外のものを神とすることです。
イスラエル王国(北イスラエル)は偶像礼拝のためにアッシリアに捕囚となり(2列王記171-23)、ユダ王国(南イスラエル王国)は偶像礼拝のためにバビロンに捕囚になり(2歴代誌365-20)、捕囚からの帰還後も、主イエス様を拒絶した故に世界に散らされたのです(ルカ1332-35)。

 話を元に戻します。
ペンテコステの日に救われた人たちのありようが42節に“一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
1.使徒たちの教えを守ること・・使徒たちの教えはローマ書以降に詳しく書かれています。
2
.交わりをなし・・・1ヨハネ13には“私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。”(2017)と記されているように、御父及び御子イエス・キリストとの交わりの中で信徒たちが互いに交わりをすることです。
3.パンを裂くこと・・聖餐、愛餐
4.祈りを共にすること
が記されています。

 46節には“毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり”と記しています。
これに関連して、Bible navi は、
“最初のクリスチャンたちはユダヤ人だったが、ユダヤ教を拒絶したわけではない。彼らは、イエスの教えと復活を、旧約聖書の成就であるとみなした。最初ユダヤ人信者たちは、ユダヤ人社会から自分たちを切り離して考えなかった。彼らは礼拝や聖書の学びのために宮や会堂へ行った。しかしイエスへの信仰は、イエスを信じないユダヤ人たちとの摩擦を引き起こした。それで、信じるユダヤ人は、聖餐や祈り、キリストの学びのために、個人の家に集まることを余儀なくされた。1世紀の終わりまでには、ユダヤ人信者たちの多くは、会堂から破門された。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのみ旨に従った信仰生活を送る私たち一人一人であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月23日 (木)

フィリピ2:19-24 自分自身のことよりもキリスト・イエスのために生きる人

 フィリピ219-24には次のように記されています。
19 さて、私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、すぐにでもテモテをそちらに遣わすことを、主イエスにあって望んでいます。
20
 テモテのように私と同じ思いを抱き、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいません。
21
 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22
 テモテが確かな人物であることは、あなたがたの認めるところです。子が父に仕えるように、彼は私と共に福音に仕えました。
23
 そこで、私は自分のことの見通しがつき次第すぐ、テモテを送りたいと願っています。
24
 私自身も間もなくそちらに行けるものと、主にあって確信しています。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、福音宣教のために牢獄に入れられて、自分ではフィリピ教会に赴けないパウロが、親身になってフィリピ教会の兄姉たちを心にかけている弟子のテモテを、フィリピ教会に送ります、ということを述べている個所です。

 テモテは、パウロの第二次伝道旅行の折、パウロに同行してフィリピ(ピリピ)にも行ったのです。そしてフィリピ教会の創設にもかかわった人です(使徒161-411-15)。

 今日のテーマは21節です。21節を、
新共同訳、聖書協会共同訳は“他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。”と訳し、
 フランシスコ会訳は“みな、自分のことばかり考えて、イエス・キリストのことは考えていないのです。”と訳し、
 新改訳初版~第三版は“だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。”と訳し、
 新改訳2017は“みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。”と訳し、
 リビングバイブルは“ほかの人はみな、自分の計画に心を奪われ、キリスト・イエスのことなど気にかけていないようです。”と意訳しています。

 新生にあずかった人は、最初は自分が救われたくて主イエス様を信じた人です。
すなわち100%自分のために主イエス様を信じたのです。
その後の信仰生活は人によって異なりますが、初めの内は誰でも自分の何かを満たすための信仰生活ではないでしょうか。
救いの確信を持つことができ、主の恵みの大きさを知り続け、そして、「私は主のもの」と思えるようになっていくのではないかと思います。
自己実現のために生きるために主イエス様を信じている人もいるでしょう。
一方、主の愛に浸されて主のために生きるようになった人もいるでしょう。
主の弟子としてふさわしいのは、すべてにまさって主を愛する人ですよ、と主イエス様は語られました。
 マタイ1037.38には次のように主イエス様の御言葉が記されています。
「私〔を愛する〕以上に父や母を愛する者は、私にふさわしくない。また、私〔を愛する〕以上に 息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。また、自分の十字架をとって私の後に従わない者は、私にふさわしくない。」{〔 〕内は訳者挿入。岩波訳}とあります。

 自分のことは、主イエス様に委ねきって、主イエス様のために生きることのできる恵みを与えられた人は幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの愛を益々体験し、あなたを愛する愛を増し加えていただき、自分自身のことは主に委ね、主を愛し、主のみ旨の内を歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「わが友 主イエスは」(聖歌493 聖歌総合版511 新聖歌317
“1.わが友主イエスは 我を見出し 引き寄せ給(たま)いぬ 愛のいともて
御側(みそば)に侍(はべ)れば 何をか恐れん 今 主は我がもの 我は主のもの
2.わが友主イエスは 罪ある我を 贖い給(たま)えり 命を捨てて
この身と魂(たま)をば 主よ 取り給え すべてはながもの 我がものは無し
3.わが友主イエスは いとも優しく 慰め励まし また守り給(たも)う
悩みも剣も 飢えも裸も 引き裂くあたわじ 主より我が身を”

2024年5月22日 (水)

箴言28:27 貧しい人への援助

 箴言2827を、
リビングバイブルは“貧しい人を助けておけば、いざという時に困りませんが、見て見ぬふりをすると恨まれます。”と訳し、
新共同訳は“貧しい人に与える人は欠乏することがない。目を覆っている者は多くの呪いを受ける。”と訳し、
2017
は“貧しい者に施す者は不足することがなく、目をそらす者は多くののろいを受ける。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。”と訳し、
フランシスコ会訳は“貧しい者に施す者は、何一つ不足することがない。貧しい者から目をそらす者は、多くの呪いを受ける。”と訳しています。

 「助ける」(リビングバイブル)、「与える」(新共同訳)、「施す」(新改訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ナータン」で、giveの意です。

 「困る」(リビングバイブル)、「欠乏する」(新共同訳)、「不足する」(新改訳、フランシスコ会訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーシュ」で、困窮している、極貧である、欠乏している、・・・等の意があります。

 後半部分には「貧しい者」と訳せる単語はありません。フランシスコ会訳は理解しやすいように「貧しい者から」と加えているのだと思います。
聖句の全体の意味としてはフランシスコ会訳が分かりやすいです。

 箴言1917には“貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”(2017)と記されています。

 困っている人に私たちが遭遇した時、困っている人を助けるのと、見て見ぬふりをするのとでは、私たちに対する神さまの態度がまるで違ったものになりますね。

 しかし、助けてもらう方も、援助してもらうことに味をしめて、怠惰になってしまっては困りものです。助けるほうの人も、1テサロニケ4112テサロニケ36-12の聖句もありますので、そのあたりの塩梅を考慮する必要があります。

 経済的な困窮のみならず、霊的な困窮、霊的な欠乏、という面からも考えてみたいと思います。
霊的に、あるいは精神的に困っている人がいたら、この世的な、心理学的な対応ではなく、御霊に導かれた適切な聖句を、その人に提供することができたら幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
それぞれの場面で、主に導きを戴いて、適切に対応することができますようお導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月21日 (火)

詩篇113篇 主はとこしえにほめたたえられるべきお方/主を心にお迎えした者の報いは甚だ大きい

  詩篇113篇には次のように記されています。
1 ハレルヤ。主の僕(しもべ)たちよ、賛美せよ。主の名を賛美せよ。
2
 主の名がたたえられるように。今より、とこしえに。
3
 日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。
4
 主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える。
5
 私たちの神、主のような方がほかにあろうか。
高きところに座し、6 天にあっても地にあっても、低きに下って御覧になる方。
7
 弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ、8 高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。
9
 子のない女を家に住まわせ、子らを授かり喜ぶ母にしてくださる。ハレルヤ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエル人は神の選びの民です。特にその中でも主なる神様を畏れかしこみ主にお従いする者たちを主は祝福されます。
新生したキリスト者は、主を心にお迎えしている者たちです。
ヨハネ112には“この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”(2017)と記され、
黙示録320には“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら〔心の扉を開けるなら(筆者挿入)〕、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”(2017)と記されています。
そのような者たちの賛美が、この詩の中に記されています。

 4節には“主はすべての国を超えて高くいまし、その栄光は天を超える。”と記されています。
2017
は“主はすべての国々の上に高くおられ、その栄光は天の上にある。”と訳しています。
「天」と訳されている語のヘブライ語原語は「シャーマイム」(複数形)で、skyの意味もあれば、heavenheavensの意味もあります。

 パウロは「第三の天」(2コリント122)という場所を記しています。
2
コリント121-4には次のように記されています。
1 私は誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示とについて語りましょう。
2
 私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです。
3
 私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
4
 その人は楽園〔ギリシア語原語は「パラディソス」(筆者挿入)〕にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 7節には“7 弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ”と記されています。
アダムの子孫である私たち人間の実体は、弱い人、貧しい人、以下の者です。
キリストの救いにあずかる前の状態は、創造主なる神に反逆して歩み続けていた神の怒りを受けるべき人間であったのです。

 エフェソ(エペソ)21-3には次のように記されています。
1 さて、あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者であって、2 かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいたのです。
3
 私たちも皆、以前はこういう者たちの中にいて、肉の欲のままに生き、肉とその思いとの欲することを行い、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
1 〔今ではキリストを信じ、キリストの救いにあずかったあなたがたですが(筆者挿入)〕以前のあなたがたは、罪のために永遠に滅びる定めにありました。
2
この世の人と同じ生き方をし、罪にまみれ、主に反抗する人の心に今も働いている、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。
3
私たちもみな、以前は他の人たちと同じで、その生活は、心にある悪を反映したものでした。欲望や心のおもむくままに生き、行動していたのです。私たちは、生まれながらに神の怒りを受けて当然のものでした。”とあります。

 このような私たち人間でしたが、義であると共に愛である主なる神様は、罪を犯し続けて生きてきた私たち人間の罪の結果としての神の御怒りを、神の第二位格の神である御子が、神でありつつ人となることによって、そしてその人において神の御怒りを受けてくださったのです。それが十字架上の死でした。
1
テモテ25.6は“5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。”(2017)と記しています。

 キリストの十字架によって、信じる者の罪は赦されました。
しかし、それで終わりでは、罪を赦されてもそこまでです。
神(父なる神)様は、キリストをよみがえらせたのです。
それによって、キリストを信じる者は、新生させて頂けたのです。
1
ペテロ13には“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。
1
ヨハネ33.5.6には“3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”(新共同訳)と記されています。

 驚くべき恵みです。
それだけではありません。詩編1138には“高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、キリスト者はどのような扱いなのでしょうか。
エペソ26には“キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所〔天の領域(筆者挿入)〕にすわらせてくださいました。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
主イエス様は他の個所で「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ142.3抜粋・2017)と約束してくださったのです。
それもキリストの花嫁としてなのです(黙示録196-9、エペソ531.32)。

 主イエス様は、私たちが地上にいる間も共にいてくださいます。
コロサイ127には“あなたがたのうちにいますキリスト”(抜粋・口語訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちにはとらえきれないほどの恵みを私たちに与えてくださっておられますから限りない感謝をお捧げします。
常に心を主に向けつつこの世の歩みを主に在って歩ませていただけますように。
今日も、主を愛し、主に信頼し、主に従い、主を賛美しながら、歩みたいと願います。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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