使徒言行録

2024年5月28日 (火)

使徒3:1-10 足の不自由な人が癒される

 使徒31-10には次のように記されています。
1 さて、ペトロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に神殿に上って行った。
2
 すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
3
 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7
 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2節には“すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。”(2017)と記されています。

 新共同訳、聖書協会共同訳は「美(うつく)しい門」と訳していますが、口語訳、新改訳、リビングバイブルは「美(うつく)しの門」、フランシスコ会訳は「麗しの門」、岩波訳は「美(うる)わしの門」と訳しています。
この個所の「美しい」と訳されている語のギリシア語原語は「ホーライオス」で、比喩的な意味で、「美しい」の意がある単語です。
「美しの門」などと訳されている日本語訳聖書の個所を、ギリシア語聖書の語順を基に訳しているKJVは“at the gate of the temple which is called Beautiful”と訳しています。
信仰的にはどうでもよいことなのですが、私自身が気になったので記しておきました。

 美しの門について聖書辞典は、
“ヘロデの建設したエルサレム神殿の東側の「異邦人の庭」から、さらに内側の「婦人の庭」に通じている門である。他の門より値打ちのある分厚い金銀とコリントしんちゅうで飾られ、壮麗を極めていたところから「美しの門」と呼ばれたのであろう。ペテロとヨハネによって、生れつき足のきかない男がいやされた場所である(使3:2,10)。”と述べています。

 余談になりますが、新天新地の新エルサレムの美しい門は、12あり、それぞれ大きな一つの真珠でできていると記されています。
黙示録21章には、
11 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは最も高価な宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
12
 都には高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。
13
 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
14
 都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。/
 16 この都は四角形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオン〔約2220km。東京駅から鹿児島駅までの新幹線の距離は約1326kmです。(筆者挿入)〕あった。長さも幅も高さも同じである。
17
 また、城壁を測ると、百四十四ペキス〔約64.8m(筆者挿入)〕であった。これは人間の尺度であって、天使が用いたのもこれである。
18
 都の城壁は碧玉で築かれ、都は混じりけのないガラスのような純金でできていた。
19
 都の城壁の土台は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、20 第五は赤縞めのう、第六はカーネリアン、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21
 また、十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた。そして、都の大通りは、混じりけのないガラスのような純金であった。
22
 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 まさしくBeautifulです。

 話を元に戻します。
宮(神殿)への入り口にあった美しの門の所に、足の不自由な人が毎日運ばれてきて、そこに置いてもらい、物乞いをしていたのです。
ペテロとヨハネが午後三時の祈りのために神殿にやって来たのです。

 足の不自由な人は、ペテロとヨハネに施しを求めました。
その時のやり取りが3-6節に次のように記されています。
3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
4
 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。
5
 その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、
6
 ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」”とあります。

 ご聖霊は神ですから御意志を持っておられます。
主イエス様は、御聖霊は御意志を持って働いておられると語られました(ヨハネ38)。
ヨハネ38に「風は〔吹き(訳者挿入)〕たいところに吹き、あなたがたはその音を聞く。」(岩波訳)と主イエス様の御言葉が記されています。この個所の欄外注には“または「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く。」”と記されています。

 私の推測ですが、ペテロはこの時、御聖霊に導かれたのであろうと思います。
そして、主イエス様が最後の晩餐の時に語られた御言葉の一端が成就していったのではないかと思います。
ヨハネ1412-16には次のように記されています。
12 よくよく言っておく。私〔御子キリスト・イエス(筆者挿入)〕を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
13
 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14
 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
15
 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。
16
 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔ギリシア語原語は「パラクレートス」で、弁護者、慰め主、支持する者、調停者、提唱する者、等の意があり、その他主イエス様は真理の御霊とも語られました。(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 美しの門に置かれていた足の不自由な人は、油塗られたペテロのことばによって立ち上がり、飛び跳ね、歩くことができるようになったのです。それはペテロの力ではなく主なる神の力と足の不自由な人の信仰の故であったのでしょう。
信仰も賜物です。(1コリント129、エペソ28
 7-10節には次のように記されています。
7 そして、右手を取って立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
9
 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
10
 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主のみ声を聞き分け、導きに従ってことを行っていくことの出来る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
アーメン。

2024年5月24日 (金)

使徒2:41-47 主に在る基本的な歩み

 使徒241-47には次のように記されています。
41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42
 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。
43
 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業(わざ)としるしが行われていたのである。
44
 信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。
46
 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 41節の「その日に三千人ほどが仲間に加わった。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。キリスト者の肉体は滅びますが魂は新たにされて永遠です。体はキリストの空中再臨の時に霊の体をいただけます。

 43節の「すべての人に恐れが生じた。」という個所の「人」と訳されている語のギリシア語原語は「プスケー」で、たましい、です。

 41節には3000人ほどが救われた、とありますが、これは神であるのに人の肉体をまとわれ、救いを成就してくださった主キリスト・イエス様を信じた人たちですが、同じ3000人でも偶像礼拝のために滅ぼされた人たちもいました。

 出エジプト記32章には次のように記されています。
1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民はアロンのもとに集まって言った。「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってく ださい。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか、分からないからです。」
2
 アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」
3
 すると民は皆、耳にある金の輪を外し、アロンのところに持って来た。
4
 アロンは彼らの手からそれを受け取り、のみで型を彫り、子牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ」と言った。
5
 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日は主の祭りである」と宣言した。
6
 彼らは翌朝早く起き、焼き尽くすいけにえを献げ、会食のいけにえを献げた。民は、座っては食べて飲み、立っては戯れた。/
25
 モーセは、民が勝手な振る舞いをしたこと、また、アロンが民に勝手な振る舞いをさせて、敵対する者の嘲りの的になったのを見た。
26
 そこでモーセは宿営の門のところに立ち、「主に付く者は誰でも私のもとに来なさい」と言った。するとレビ人は皆彼のところに集まった。
27
 そこで彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『おのおのその剣を腰に帯び、宿営の門から門まで行き巡り、自分の兄弟、友人、隣人を殺せ。』」
28
 レビ人はモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人が倒れた。
29
 モーセは言った。「今日、あなたがたはおのおの自分の息子や兄弟を犠牲にしても、主に仕える者になった。それゆえ、今日あなたがたに祝福が与えられる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 創造主であり、救いをもたらしてくださった神であるお方を信じるのか、信じないのか、という選択は、その魂の永遠を決めるのです。
罪とはキリストを信じないことです(ヨハネ169)。
罪とは神ヤハウェ(主)を信じないことです(出エジプト203)。
罪とはまことの神以外のものを神とすることです。
イスラエル王国(北イスラエル)は偶像礼拝のためにアッシリアに捕囚となり(2列王記171-23)、ユダ王国(南イスラエル王国)は偶像礼拝のためにバビロンに捕囚になり(2歴代誌365-20)、捕囚からの帰還後も、主イエス様を拒絶した故に世界に散らされたのです(ルカ1332-35)。

 話を元に戻します。
ペンテコステの日に救われた人たちのありようが42節に“一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
1.使徒たちの教えを守ること・・使徒たちの教えはローマ書以降に詳しく書かれています。
2
.交わりをなし・・・1ヨハネ13には“私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。”(2017)と記されているように、御父及び御子イエス・キリストとの交わりの中で信徒たちが互いに交わりをすることです。
3.パンを裂くこと・・聖餐、愛餐
4.祈りを共にすること
が記されています。

 46節には“毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり”と記しています。
これに関連して、Bible navi は、
“最初のクリスチャンたちはユダヤ人だったが、ユダヤ教を拒絶したわけではない。彼らは、イエスの教えと復活を、旧約聖書の成就であるとみなした。最初ユダヤ人信者たちは、ユダヤ人社会から自分たちを切り離して考えなかった。彼らは礼拝や聖書の学びのために宮や会堂へ行った。しかしイエスへの信仰は、イエスを信じないユダヤ人たちとの摩擦を引き起こした。それで、信じるユダヤ人は、聖餐や祈り、キリストの学びのために、個人の家に集まることを余儀なくされた。1世紀の終わりまでには、ユダヤ人信者たちの多くは、会堂から破門された。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのみ旨に従った信仰生活を送る私たち一人一人であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月20日 (月)

使徒2:37-42 ペンテコステの日の出来事/約3000人の人が救われる

 使徒237-41には次のように記されています。
37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と言った。
38
 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
39
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
40
 ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。
41
 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
42 そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。 ”(聖書協会共同訳)とあります。

 37節には“人々はこれを聞いて大いに心を打たれ”とありますが、何によって心を打たれたのかを振り返ってみます。
ひとつ前の36節には、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシア〔キリスト(口語訳、新改訳)〕となさったのです。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 もしこのペトロ(ペテロ)のメッセージを聞いている人の中に、ポンテオ・ピラトの裁判の場所で、「十字架につけろ」と叫んでいた人たちがいたとしたらどうでしょう。
あるいは、あのイエスという正しい人が有罪にされそうなのに、自分は反対の意を唱えることができなかった、という人もいたかもしれません。
弟子たちの多くは、自分たちの保身のために雲隠れしたのです。ペトロでさえ、「呪われても良い、私はあの人(イエス)を知らない。」といったのです。少し前にペトロは「あなたは生ける神の子キリストです。」とか「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」とも言ったのです。
ヨハネは十字架の下にいましたが。

 「神は、あなたがたが十字架につけたこのイエスを主とし、またメシア〔キリスト(口語訳、新改訳)〕となさったのです。」というメッセージを主の弟子たちから聞いたら、そこにいた聴衆は恐れおののいてしまうのではないでしょうか。

 私がそこにいたとしたら、顔面蒼白になっていたかも知れません。
ペトロのメッセージを聞いた人たちは、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」とペトロや他の使徒たちに聞いたのです。
このように叫んだ人たちは、聖霊によって心を刺されたのでしょう。
“人々はこれを聞いて大いに心を打たれ”(37)と記されていますから。

 悔い改めも、イエスを主と告白することも、聖霊の助けが必要です。
使徒1118には“人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。”(2017)という聖句が記されていますし、
1
コリント123には“ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(2017)と記されています。

 五旬節のこの日、弟子たちに聖霊が豊かに下りましたが、ペトロをはじめ弟子たちの話を聞いていた聴衆の人たちにも豊かに御聖霊は働かれたのです。
弟子たちの話を聞いていた人たちにも聖霊が働かれたのは、その人たちが、七週の祭りのために離散諸地方からエルサレムに礼拝に来ていた敬虔な人たちであると主に認められた人が多かったからではないかと推測します。
ペトロのメッセージを聞いて救われた人は3000人ほどもいたのですから(41)。
主なる神様は一人一人の心をご覧になりますから。
ヨハネ38に“風は思いのままに吹きます。”(2017)という主イエス様の御言葉がありますが、「風」と訳されている語のギリシア語原語は「プニューマ」で、「霊」の意もあります。聖なる霊はご自身の意志をもって事を行うお方です。またそれは御父の意志、御子の意志と同じです。

 どうしたら救われるのか?と聞いてきた人たちにペトロが語った内容は38-40節に次のように記されています。
38 そこで、ペトロは彼らに言った。
「悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
39
 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」
40
 ペトロは、このほかにも多くの言葉で証しをし、
「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って彼らを励ました。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
ハレルヤ!
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの大いなる御業を見させていただけて感謝します。
あなたの御意志が天で行われているように、この地でも行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月16日 (木)

使徒2:22-36 ペンテコステの日のペテロの説教2/キリストの十字架と死、復活、高挙

 使徒222-36には次のように記されています。
22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。
神は、この方を通してあなたがたの間で行われた奇跡と不思議な業としるしとによって、そのことをあなたがたに示されました。
あなたがた自身がご承知のとおりです。
 23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手によって、はりつけにして殺したのです。
〔神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。(2017)〕
 24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました
イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
 25 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、私は揺らぐことがない。
26
 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜び躍った〔私の舌は喜びにあふれます(2017)。この個所の「舌」という訳は70人訳ギリシア語聖書からです(筆者挿入)〕。私の肉体もまた希望のうちに安らう。
27
 あなたは私の魂を陰府に捨て置かず、あなたの聖なる者を朽ち果てさせない。
28
 あなたは、命の道を私に示し、御前にいる私を喜びで満たしてくださる。』
 29 きょうだいたち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあると、はっきり言えます。
30
 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人を王座に着かせると、神が堅く誓ってくださったことを知っていました。
31
 そして、キリストの復活について予見して、
『彼は陰府に捨て置かれず、その肉体は朽ち果てなかった』と語りました。
 32 神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。
33
 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
34
 ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ。35 私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
36
 だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロ(ペテロ)が伝道説教に引用した聖書個所の使徒225-28は、詩篇168-11からの引用で、詩篇の方には、
8 私は絶えず目の前に主を置く。主が右におられ、私は揺らぐことがない。
9
 それゆえ、私の心は喜び、心の底から〔ヘブライ語原語は「カーボード」で「栄光」の意(筆者挿入)〕喜び躍り〔ヘブライ語聖書からの直訳では「私の栄光は喜び踊り」(筆者挿入)〕、この身もまた安らかに住まう。
10
 あなたは私の魂を陰府(よみ)に捨て置かず、あなたに忠実な者〔ヘブライ語原語は「ハーシードゥ」で聖なる者とも訳せます(筆者挿入)〕に滅びの穴を見せず、
11
 命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが、右の手には麗しさ〔ヘブライ語原語は「ナーイーム」で、楽しさ、心地よさ、甘さ等の意があります(筆者挿入)〕が永遠にありますように〔楽しみがあなたの右にとこしえにあります(2017)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 次にペトロ(ペテロ)が伝道説教に引用した聖書個所の使徒234-35の個所は、詩篇1101からの引用で、詩篇の方には、
“主は、私の主に言われた。「私の右に座れ。私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 ペトロが説教したこの時、新約聖書はまだありませんでした。
聖書といえば旧約聖書です。
ペトロは、聖書(旧約聖書)からイエスがキリストであることを弁証していったのです。

 ペトロが用いた詩篇の個所はダビデの作ですから主イエス様の時代から約1000年前のものです。
ペトロは詩篇のこの個所から、イエスがキリストであったことを聖霊によって明らかにしました。

 詩篇のこの2ヶ所から、キリストはよみに下ったが、死から復活し、天に昇って御父の右の座に座しておられることを弁証したのです。

 ペトロ(ペテロ)は詩篇16篇と詩篇110篇の一部を基にして語った後、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒236・聖書協会共同訳)と語ったのです。

 ペトロ(ペテロ)は、最初の伝道説教で、
①聖なる方であるイエス(使徒227)が十字架上で死んだこと(殺されたこと)。
②イエスは死んで肉体は墓に葬られたけれども、魂はよみに行き、しかしよみに居続けたのではなく、その魂は、復活させられたからだと共に天の神(御父)の右の座に着座されたこと。
③(まとめとして)、「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)と述べたのです。

 ペトロは、1ペトロ222-24に、
22 「この方〔キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。”(聖書協会共同訳)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの御復活後の最初の福音宣教は、キリストの十字架上での死とその意味、キリストの復活、キリストが御父の右の座に座しておられること、等の内容でした。
私たちにも大いに参考になることです。
福音を語ったとき、御聖霊が働いてくだされば、私たちから福音を聞いた人は信仰告白をすることができることでしょう。
主の導きに従って、聖霊によって福音を単純に分かりやすく伝えていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
“聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”(1コリント1232017
“心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。”(1ペトロ315.16a・新共同訳)

2024年5月12日 (日)

使徒2:14-21 ペンテコステの日のペテロの説教1/ヨエルの預言の成就

 使徒214-21には次のように記されています。
14 そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。
15
 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。
16
 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 17 『神は言われる。終わりの日に、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
18
 その日、男女の奴隷にも、わが霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
19
 上では、天に不思議な業を、下では、地にしるしを示す。血と火と立ち上る煙が、それだ。
20
 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
21
 しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』”(聖書協会共同訳)とあります。

 15節には“今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。”と記されています。
何故、使徒たちは、酒に酔っていると思われたのでしょう。
それは、使徒たちの話している状態を見て、酒に酔っていると思われたのです。

 このときにエルサレムに来ていた人たちは、ユダヤに住んでいた人たちだけではなく、離散しているユダヤ人たちも五旬際のために集まってきていたのです。
離散していたユダヤ人たちがユダヤ以外に住んでいる地域は、使徒29-11より“パルティア(カスピ海南東のペルシヤ帝国の一部分)、メディア(カスピ海西南)、エラム、メソポタミア、カパドキア(小アジアの東部)、ポントス(小アジヤ北東部)、アジア(小アジアの西海岸の地域)、フリギア(小アジヤ中央部)、パンフィリア(小アジヤ中央の南岸)、エジプト、リビアのキレネ側の地方、ローマ、クレタ、アラビア”などであったのです。
使徒たちは、上記の地方の国言葉で福音を語ったものですから、その他の地域の言葉を知らない人々は理解することができず、酒に酔っていると思ったのでしょう。
また、聖霊に満たされて語り、あるいは祈るとき、酒に酔って気持ちがリラックスしたかのような気持ちの良い状態になることがありますが、この人々には、使徒たちがそのように見えたのかもしれません。

 関連した聖句といえるかどうかわかりませんが、エペソ518には“また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。”(2017)と記されています。
この聖句の前半部分を、新共同訳は“酒に酔いしれてはなりません。”と訳していますが、ギリシア語聖書を読むと、「ワインに飲まれてしまわないように」というような感じで書かれているように思えます。
酒のことはどうでもよいのですが、使徒たちの御霊に満たされた状態は、酔っているが如き状態に見えたのでしょう。

 ペトロ(ペテロ)が引用した17-21節の聖句の、ヘブライ語聖書、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、ヨエル31-5の個所になりますが、文語訳、口語訳、新改訳は、ヨエル228-32に記しています。

 聖書協会共同訳のヨエル31-5には次のように記されています。
3:1 その後、私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。
2
 その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。
3
 私は、天と地にしるしを示す。血と火と煙の柱が、それだ。
4
 主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
5
 しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムに、また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに、逃れる者がある。”とあります。

 上記の聖句は、キリストの高挙後、すなわち御父の右の座に着座された(マルコ1619、ルカ2269参照)後からキリストの地上再臨(キリストの空中再臨ではありません)までの期間に起こることが預言されています。

 使徒たちは、「神の霊が注がれて、預言する」という預言を体験したのです。

 ヨエル33.4はキリストの空中再臨に伴う携挙後の出来事です。
4
節は黙示録の第6の封印が開かれたときに相当するのだろうと思います。
 黙示録612-17には次のように記されています。
6:12 また、小羊が第六の封印を解いたとき、私が見ていると、大地震が起きた。太陽は毛織の粗布のように暗くなり、月は全体が血のようになって、13 天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようであった。
14
 天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
15
 地上の王、高官、将校、富める者、力ある者、また、すべての奴隷も自由人も洞穴や山の岩間に身を隠した。
16
 そして、山と岩に向かって言った。
「私たちの上に覆いかぶさって、玉座におられる方の顔と小羊の怒りから、私たちをかくまってくれ。
17
 神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨエル35aの「・・、主の名を呼び求める者は皆、救われる。」という御言葉は、キリストの御復活後、誰にでも成就しました。これは、キリストの地上再臨迄続くのでしょう。「主の名」とはキリストご自身のことです。「名」とはそのものを表します。

 余談になりますが、「イェス わがすべて」という賛美があります。
その歌詞は、“喜び 平安 愛 イェスの名前にあり 信仰 恵み 御救い イェスの名前にあり 幸せ 赦し 永遠のいのち 心のすべての希望 イェスの名前にある イェス イェス 今生きている オー オー オー イェス イェス わがすべてです”というものです。
「イェスの名前にある」を「イェスご自身の中にある」とも言いかえることが可能です。この曲を知らない方は、ユーチューブで知ることができます。
以上、「名」というものについての説明でした。

 ヨエル33-5を一塊(ひとかたまり)として捉えると、ヨエル35は、ゼカリヤ12.13章に記されている事柄なのでしょう。次のように記されています。
12:10 私〔12章前半部分より「私」=ヤハウェ(筆者挿入)〕はダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のことで私を見て、独り子の死を嘆くように 嘆き、初子の死を悼むように悼む。
2017は次のように訳しています。「わたし〔12章前半部分より「わたし」=ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕、〔すなわち(筆者挿入)〕わたし〔12章前半部分より「わたし」=ヤハウェ(筆者挿入)〕を仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(筆者挿入)〕/
12
 この地は氏族ごとにそれぞれ嘆く。ダビデの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。ナタンの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
13
 レビの家の氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。シムイの氏族は彼らだけで嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
14
 残りの氏族もすべて氏族ごとにそれぞれ嘆き、その妻たちも彼女たちだけで嘆く。
13:1
 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。
2
 その日になると、私は偶像の名をこの地から絶ち滅ぼす――万軍の主の仰せ。/
8
 すべての地はこうなる――主の仰せ。〔ユダヤ人の(筆者挿入)〕三分の二は死に絶え、三分の一〔ヨエル35の「残りの者」すなわち、主を畏れ敬う者(筆者挿入)〕はそこに残される。
9
 私〔「ヤハウェ」のこと(筆者挿入)〕は〔残りの者である、すなわち(筆者挿入)〕三分の一を火の中に入れ〔艱難の中に入れ(筆者挿入)〕、銀を精錬するように精錬し、金を吟味するように吟味する。
彼は私の名を呼び、私は答える。私は「彼はわが民」と言い、彼は「主はわが神」と言う。”(聖書協会共同訳)とあります。
主を畏れ敬い信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を信じる信仰を与えてくださり感謝します。
未だ救われてはいないところの、私たちが祈っている人たちをも、イエス様を心にお迎えする者となさしめてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 8日 (水)

使徒2:1-13 聖霊に満たされ、学んだこともない外国語で福音を語った弟子たち

 使徒21-13には次のように記されています。
1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした
 5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。
そして、誰もが、自分の故郷〔国(新改訳)〕の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。
7
 人々は驚き怪しんで言った。
「見ろ、話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうして、それぞれが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。
9
 私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10 フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、11 ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12
 人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13
 しかし、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 以前にも書きましたが、聖霊に満たされるという状態は大きく分けると二つあります。
 一つは、内面的に満たされた状態です。
使徒1352に“弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。”(2017)と記されているような、内面的に喜びが起こり、感謝が沸き上がり、自然に祈るというようなことを行い、内側から御霊による教えがあり(ヨハネ14171ヨハネ227)、生まれながらの自分にはない他者に対する愛を感じ、平安に満たされている、・・・等のようなものです。
 もう一つは、主に在る働きのためのものです。
聖書では霊の賜物として記されています。
この霊の賜物の中には、異言もあります。
御霊の賜物は、霊と魂が御霊に満たされていなくても与えられるものです。
御霊の賜物については聖書のいくつかの個所に記されていますが、ここでは1コリント124-11を参考にします。次のように記されています。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔「御霊」(口語訳、新改訳)。ギリシア語原語は「ト
アフトース プニューマ」で、定冠詞付きの同じ霊or定冠詞付きのご自身の霊、の意となっています。直訳すると「同じ霊」or「ご自身の霊」となります(筆者挿入)〕です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
7
 一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
11
 しかし、これらすべてのことは、同じ一つの霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 使徒29-11に記されている個所の地域から来た人々or地域出身の人々は、これらの人々の先祖が捕囚や迫害のために各地に散らされたユダヤ人たちの末裔であったのでしょう。
また11節に記されている「改宗者」というのは、ユダヤ教に改宗した異邦人の人々のことです。

 申命記1616には“あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。”(2017)と記されています。
七週の祭りとは五旬祭のことです。
主なる神様の御命令に従い、三大祭りの一つの七週の祭りに主を礼拝するためにエルサレムに来ていた人たちは、この個所に見られる新約の幕開けに遭遇したのです。

 11.12節には“・・・「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、戸惑い、「一体、これはどういうことなのか」と互いに言った。”と記されています。

 この個所に関連して<Bible navi>は次の様に適用注解を記しています。
“群衆は、何か超自然的なことが起こっていることを認め、説明を求めた。ペテロは前に進み出て、神についての真理を説明した〔このことは使徒214-3638-40に記されています(筆者挿入)〕。このことは私たちの人生においても模範であるべきである。人々に、私たちの内にキリストがおられることがわかるような生き方をすることが期待されている。もし私たちが輝き(マタイ514、ピリピ215)、「塩気」があるなら(マタイ513)、他の人の注意を引き付けるだろう。彼らはその理由を知りたいと願う。そのとき私たちは、「うちにある希望」(1ペテロ315)を説明することができる。あなたには、「いったい、これはどうしたことか」と言わせるような、他の人と異なる特徴が表れているだろうか。”と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
Bible navi>のお勧めにあるように、キリストの香りを放つ者としてお整え下さり、また、イエス様を救い主として求める人を与えてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年5月 4日 (土)

使徒2:1-4 五旬節(ペンテコステ)の日の聖霊降臨

 使徒21-4には次のように記されています。
1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。
3
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4
 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節に「五旬節」とありますが、五旬節の日に行わること、行われたことは出エジプト以来、聖書に様々な記述がありますので、それをまとめている聖書辞典より学びたいと思います。聖書辞典には次のように記されています。
 “五旬節とは50日目の祭日という意味で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われた(レビ23:15以下)ことから生れたギリシヤ語訳のペンテーコンタ・ヘーメラスの訳語である。ペンテコステとも言う。五旬節、すなわち7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれていた(出34:22,16:10)。立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終りを意味し(申16:9、いよいよ小麦の収穫となるのである(出34:22)。それゆえ「刈り入れの祭り」(出23:16)、「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれている。この祭は3大祭の一つとして(申16:16)、ソロモンの時代にも守られていたようである(8:13)。その日にはいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれて、イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられた(レビ23:21,16:16)。新しい小麦粉にパン種を入れて焼いた2つのパンが、和解のいけにえと共に祭司によって主に向かって揺り動かされた(レビ23:17‐20)。敬虔なイスラエル人はこの日を喜びの日として(申16:11)、穀物収穫の恵みに対する感謝と主に対する恐れ(畏れを表現した(エレ5:24)。ささげられる罪のためのいけにえと和解のいけにえは、贖われた人々の感謝と恐れ(畏れ)を表すものであったが、さらに神の契約の民として、エジプトから解放されたことを記念する祭でもあった(申16:12)。いけにえをささげる根底には、罪の除去と神との和解の概念があるのである。後に五旬節はシナイにおける律法の賦与を記念するものと考えられるようになった。サドカイ派の人々は過越の後の第1日曜から50日目に祝いをなし、それをエルサレムの神殿が破壊されるまで守り続けた。しかしパリサイ派の人々はレビ23:15の安息日を種を入れないパンの祭と解釈し、それが紀元70年以降ユダヤ教では一般的となった。それで今日ユダヤ人の暦では五旬節はいろいろな曜日に当るようになっている。新約聖書では五旬節に関して3つの言及がある。(1)使2:1.キリストの復活と昇天の後、五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており、天からのしるしを受けた。聖霊が下り、新しいいのち、力、そして恵みがもたらされた。それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる。(2)使20:16.パウロは五旬節の日にはエルサレムにいたいと、旅路を急いだ(紀元56―57年頃)。(3コリ16:8.パウロは五旬節までエペソに滞在するつもりでいた(紀元54―55年頃)。伝道のための扉が開かれていたからである。”とあります。{下線部分と( )内は筆者の挿入です。}

 ルカ2449には、「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(2017)と主イエス様に命じられていました。
弟子たちは、主の命令に従い、おもに祈りを中心とした集まりをしていたようです。
 使徒112-15には次のように記されています。
12 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
13
 彼らは都〔エルサレム(筆者挿入)〕に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。
14
 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。
15
 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていた・・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 4節には“すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。”(聖書協会共同訳)とあります。
「霊が」と訳されている語のギリシア語原語は2語で「ト プニューマ」で、定冠詞付きの「霊」とも「その霊」とも訳せます。

「聖霊」と訳されている語のギリシア語原語は2語で「プニューマ(霊) ハギオス(神聖な、聖なる)」です。

 五旬節の日(ペンテコステの日)に弟子たちは、上から下ってきた聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出したのです。

 ヨハネ2019-22には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ2022に記されている聖霊は、新生したキリスト者ならば誰にでも与えられています。
 すべての聖徒に与えられる約束の聖霊について、ヨハネ1415-17は主イエス様の御言葉を次の様に記しています。
「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者〔「助け主」(新改訳)。ギリシア語原語は「パラクレートス」で慰め主、の意もあります(筆者挿入)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を 知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(聖書協会共同訳)と記されている働きをする意味での聖霊だろうと思います。

 聖霊は新生した者を神の子どもとしてふさわしく整えてくださる働きもします。
ガラテヤ522.23には“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。”(2017)と記されています。

 五旬節に天から降ってきた聖霊はキリストを証しする霊でした。
ヨハネ1526には「わたしが父のもとから遣わす助け主〔ギリシア語原語は「パラクレートス」(筆者挿入)〕、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(2017)と記されています。

 このように書いてくると御霊はたくさんいるのかな、と思う人もいる人がいるかもしれませんが、御霊は唯一です。
 1コリント12章には次のように記されています。
4 恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊〔ギリシア語聖書は「(定冠詞付きの)霊」、口語訳、新改訳は「御霊」(筆者挿入)〕です。
5
 務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。
6
 働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です。
7
 一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8
 ある人には、霊〔ギリシア語聖書は「(定冠詞付きの)霊」、口語訳、新改訳は「御霊」(筆者挿入)〕によって知恵の言葉、ある人には同じ霊に応じて〔よって(2017)〕知識の言葉が与えられ、9 ある人には同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって癒やしの賜物、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
11
 しかし、これらすべてのことは同じ一つの霊〔「御霊」(口語訳、新改訳)〕の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
4-11
節に出てくる「霊」はギリシア語原語の直訳では「霊」ですが、すべて新生した人の霊ではなく聖霊を指しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主なる神様のみ旨に従い、与えられた分に応じ、御聖霊によって、主がよしとする時までご奉仕を続けさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月30日 (火)

使徒1:15-26 イスカリオテのユダの自死とユダのポストの後継者のための選び

 使徒115-26には次のように記されています。
15 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。
16
 「きょうだいたち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
17
 ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ務めを割り当てられていました。
18
 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。
19
 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
20
 詩編にはこう書いてあります。『彼の住まいは荒れ果て、そこに住む者はいなくなりますように。』また、『その職は、他人が取り上げるがよい。』
21-22
 ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
23
 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、24 次のように祈った。
「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかをお示しください。
25
 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、この務めと使徒職を継がせるためです。」
26
 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスカリオテのユダは主イエス様を銀貨30枚で売った後、そのことを後悔し、銀貨を祭司長たちに返しに行きましたが、祭司たちに受け入れてもらえなかったので、その銀貨を神殿に投げ込み、首をつりました(マタイ273-5)。ユダは首をつったのですが、綱が切れたか枝が折れたかして(伝承)、ユダはまっさかさまに落ちて体が裂け、はらわたが外に出てしまったのです(使徒118)。

 余談になりますが、ユダは「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」(マタイ274a)と大祭司たちに言ったのです。悔いただけではなく、主イエス様のもとに戻れば赦してくださったのではないかと思うのです。
「悔い改め」と日本語聖書で訳されている語のギリシア語原語は「メタノイア」という語で、文字通りには心の転換を意味しています。回心です。メタノイアに相当するヘブライ語原語は「シューブ」という語で、(罪や神への不服従の状態から神に)「立ち返ること」を表しています。
私の表現を用いると、ペテロは、召使いの女に「あなたはあの人の仲間だ」と言われたとき、「私は、イエスという男を知らない。もし私の言葉が嘘であったら呪われてもよい(神の罰を受けてもよい)。」と言ったのです。
しかし、ペテロはその後、悔いましたが、ただ悔いただけではなく、主イエス様の下に行ったのです。まずは主の墓を見に行きました。

 話しを元に戻します。
イスカリオテのユダの死の際、体の落下に伴い、はらわたが飛び出すという破損を伴う出血がありました。祭司長たちは、ユダが神殿に投げ込んだ銀貨30枚を血の地所の代金として、ユダが落下した土地を買い、異国人のための墓地としました(使徒118.19、マタイ275-8)。

 ペトロ(ペテロ)と他の10人の使徒たちは、使徒の欠員を補うために、旧約時代のようにくじを引いてマティア(マッティア)を選出しました。
この段階での使徒たちは、直接御霊からの声によって使徒を任命することの出来る段階にはいなかったようです。

 話は変わりますが、
パウロは、御父と御子からの任命を受けて使徒とされたと自己紹介しています。
ガラテヤ11には“人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方〔キリスト(筆者挿入)〕を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主なる神様のご計画の中で、主の内にあっては、使徒が誰であるのかは、はっきりしています。
12
名の使徒名については、キリストの千年王国の後に来る新天新地を主なる神様が新創造された時、だれの目にも明らかになることが聖書に記されているからです。
黙示録2114には“都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。”(2017)と記されています。
この城壁の土台石に刻まれている使徒名は、主イエス様が選んだ11名ともう一人は誰なのでしょうか。
その時になればわかります(キリストの花嫁はそれ以前に分かります)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
詩篇328に「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(新改訳初版~第三版)と記されていますが、そのように、あなたの御声を明確に聞きつつ、進んで行くことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月26日 (金)

使徒1:12-15 主に命じられた待ちのぞみの実行・・祈り

 使徒112-15には次のように記されています。
12 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
13
 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。
14
 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカ2444-53には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
44 イエスは言われた。「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」
45
 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 言われた。
「次のように書いてある。
『メシア〔キリスト(筆者挿入)〕は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』
48
 あなたがたは、これらのことの証人である。49 私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 49節の「父が約束されたもの」とは聖霊です。
聖霊は弟子たちに力を着せるというのです。

 使徒14.5には次のような主イエス様の御言葉が記されています。
4 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。
「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 「あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである」という個所を直訳すると、「あなたがたはまもなく聖霊の中に浸されるであろう」となります。
聖霊の中に浸されることは聖霊を着ることです。

 このことが起こる前に、弟子たちは御復活された主キリスト・イエス様から聖霊を受けていました(ヨハネ2022)。それは聖霊の内住でした。
ヨハネ2019-23には次のように記されています。
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20
 そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21
 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
22
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 弟子たちは、主イエス様から、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ2449)と言われたからといって、ただエルサレムにいただけというのではありません。

 皆で祈っていたのです。祈祷会です。
使徒114には“彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。”と記されています。

 この節の「イエスの兄弟たち」とは、ヨセフとマリアの子どもたちです。主イエス様の受肉は聖霊によったのです(マタイ120)。
ヨセフとマリアの子どもたちは、主イエス様が宣教活動をしている間は、主イエス様をメシア(キリスト)とは考えていませんでした(ヨハネ75)。
 ヨハネ71-5には次のように記されています。
1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。
2
 時に、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
3
 イエスの兄弟たちが言った。
「ここをたってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世に現しなさい。」
5
 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、主の御復活後、ヨセフとマリアの子どもたちもイエスがメシア(キリスト)であることを悟ったのです。
ヨセフとマリアの子どもたちの名前がマタイ1355には“ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ”と記されています。
また主の御復活後、ヤコブには復活の体で現れています(1コリント157)。ヤコブは、彼が書いた手紙の冒頭に次のように記しました。
“神と主イエス・キリストの僕(しもべ)であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。”(ヤコブ11・新共同訳)とあります。

 弟子たちはどのくらいの人数で祈っていたのでしょう。
使徒113-15には“13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。14 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。5 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていた、・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主が弟子たちの見ている前で昇天した後、弟子たちはともに集まり10日の間祈っていました。そして五旬節(ペンテコステ)になりました。その日に約束の聖霊が下ったのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
何時でも主に祈ることの大切さを覚えます。
祈らずに、あるいは祈りを伴わないで行動してしまうことがありませんようお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年4月22日 (月)

使徒1:9-11 キリストの昇天とキリストの昇天を目撃した人々及びキリストの再臨に関する天使の預言

 使徒19-11には次のように記されています。
9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。
10
 イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、11 言った。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主の弟子たちは、主が捕縛された時から、とても臆病な者たちになりました。
主が捕縛される直前の弟子たちの言葉は次のようでした。
マタイ2635には“ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。”(2017)と記されています。
十字架の近くにいたのはヨハネだけでした(ヨハネ1925-27)。
ペテロ(ペトロ)は、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ2635)と言ったにもかかわらず、自分が嘘をついているのなら呪われても良いと言って、主と一緒にいたことを否定したのです。
 マルコ1466-72には次のように記されています。
66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司の召し使いの女の一人が来て、67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、まじまじと見て言った。
「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68
 ペトロは打ち消して、「何を言っているのか、分からない。見当もつかない」と言った。そして、庭口の方に出て行くと、鶏が鳴いた。
69
 召し使いの女はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70
 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。
「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71
 しかし、ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。〔ペテロは、「そんな男{イエス(筆者挿入)}のことなど知らない。これがうそたったら、どんな罰(ばち)があたってもかまわない」と叫びました。(リビングバイブル)〕
72
 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉〔マルコ1426-31参照(筆者挿入)〕を思い出して、泣き崩れた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 弟子たちは、主が復活されたという言葉を聞いてからも、しばらくの間は臆病でした(ヨハネ201-29、特に19.26節、参照)。

 使徒13.4には“3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話され
た。4 そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。・・・。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 いよいよ40日目となりました。そして、弟子たちが見ている前で天に戻っていかれたのです。弟子たちは、主の昇天の姿を目撃していたのです。
 9.10aには“9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。10 イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 使徒16には“さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 弟子たちの質問に対して主は次のように語られました。続く7節には、
“イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 弟子たちは、イスラエルの独立がすぐに起こることを期待していたのです。
イスラエルが独立したのは、なんと1948年でした。
主の昇天から約40年後、ローマの統治下にあるユダヤは滅ぼされ、神殿は焼け落ち、人々は世界に散らされたのです。

 主が天に昇っていかれる時、弟子たちのそばに天使が二人遣わされていました。
その時の天使の言葉が続く11節に次のように記されています。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 この一連の出来事はオリーブ山でのことでした。
12
節には“それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主は大患難時代の終わりにオリーブ山に立ちます。その時、どのようなことが起こるのでしょう。ゼカリヤ14章には次のように記されています。
1 主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕の日〔主キリスト・イエス様の地上再臨の日(筆者挿入)〕が来る。略奪されたあなた〔イスラエル(筆者挿入)〕のものが、あなたのただ中で分けられる。
2
 私は〔大患難時代の終わりに(筆者挿入)〕諸国民をすべて集め、エルサレムに戦いを挑ませる。町は占領され、家は略奪され、女たちは犯される。町の半分は捕囚とされて連れて行かれる。しかし、残りの民〔主を信じているイスラエルの民(筆者挿入)〕は、町から絶たれることはない。
3
 主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」。再臨のキリスト(筆者挿入)〕は出て来られ、決戦の日に、自ら戦われた日のように〔一例をあげると、主は軍勢の長(主の軍の将)として戦われた{ヨシュア513-15参照}(筆者挿入)〕、それらの諸国民と戦われる。
4
 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、他の半分は南へ移る。
5
 山間の谷がアツァルに達するので、あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたようにあなたがたは逃げる。わが神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が来られる。すべての聖なる者たち〔天で結婚式を挙げる携挙される私たちも含まれるのでしょう。黙示録195-911-16参照(筆者挿入)〕も主と共に来る。
6
 その日になると、光がなく、寒さも霜もない。
7
 それはただ一日であり、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に知られている。昼もなければ、夜もない。夕暮れ時になっても、光がある。
8
 その日になると〔キリストの千年王国が始まると(筆者挿入)〕、エルサレムから命の水が流れ出て、その半分は東の海〔死海(筆者挿入)〕に、他の半分は西の海〔地中海(筆者挿入)〕に流れ、夏も冬も流れ続ける。〔エゼキエル471-12参照。死海にも魚が住めるようになる。(筆者挿入)〕
9
 主はすべての地の王となられる。その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる。
10
 全地はゲバ〔エルサレムの北方約9㎞(筆者挿入)〕からエルサレムの南のリモン〔エルサレムの南西約60km(筆者挿入)〕まで、平野のように変わる。しかしエルサレムはそこに高くとどまり、ベニヤミンの門から第一の門のところまで、さらに角の門まで、またハナンエルの塔から王の搾り場にまで及ぶ。
11
 そこには人々が住み、もはや再び滅ぼし尽くされることはなく、エルサレムは安らかにとどまる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは「終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』(イザヤ4610・口語訳)と言われるお方ですから御名を崇めます。
あなたとのかかわりの中で、日々あなたの素晴らしさを体験させていただきつつ歩ませていただけますことを感謝します。
あなたの聖なる御名が崇められますように。
あなたのご計画に基づいて全地が御国とされますように。
マラナ・タ
御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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