日毎の恵み21

2024年6月20日 (木)

箴言29:7 主に在る正しい識別力

 箴言297を、
リビングバイブルは“正しい人は貧しい人の権利を認めますが、神を信じない者は気にもかけません。”と意訳し、
 2017は“正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“正しき者は弱い人の訴えを認めるが、悪しき者はその知識を見極められない。”と訳し、
 新共同訳は“神に従う人は弱者の訴えを認める。神に逆らう者はそれを認めず、理解しない。”と訳しています。

 「正しい人」と訳されている語のヘブライ語原語は「ツァディーク」で、正しい、公正な、正しい人(義人)、・・等の意があります。

 新共同訳は、神に対して正しい人の意で、「神に従う人」と訳しているのでしょう。
対神的に正しい人は、結局、神の観点から見て、人に対しても正しいと捉えることができます。

 「貧しい人」(リビングバイブル)、「弱い者」(2017)、「弱い人」(聖書協会共同訳)、「弱者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ダル」で、貧乏な人、(精神的にor知的にor肉体的にor社会的に)弱い人、・・・・等の意があります。

 「権利」(リビングバイブル)、「さばき」(2017)、「訴え」(聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ディーン」で、さばき、訴え、・・・・等の意があります。リビングバイブル訳の「権利」は審判してもらう権利のことではないかと思います。

 「神を信じない者」(リビングバイブル)、「悪しき者」(2017、聖書協会共同訳)、「神に逆らう者」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、悪い人、の意です。

 「知識をわきまえない」と訳されている語のヘブライ語原語は、3単語からなっていて「ロー ビーン ダーアツ」で、2017が訳しているような意になります。
「ダーアツ」には、知識の他、情報、学識、学問、・・・等の意もあります。

 「ロー」はnotです。

 「ビーン」は、分ける、分離する、・・・等の意があります。

 今日の聖句は、約3000年前に記された箴言に、人権についての記述があることを覚えます。
しかし、主なる神様は、これよりも前に、モーセ五書において、人権を認めています。
 出エジプト22章には次のように記されています。
20 寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。
21
 いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。
22
 あなたが彼らをひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞く。
23
 私の怒りは燃え上がり、あなたがたを剣で殺す。あなたがたの妻は寡婦となり、子どもは孤児となる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記10章には次のように記されています。
17 あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神、偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 気を付けなければならないのは、主の主権を度外視して人権を振り回すことです。
主の御教えを度外視して人権を振り回すと、主との関係においては、罪の泥沼にはまることでしょう。 

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
対神的にも、対他的にも、対自的にも、主のみ旨にかなった判断をすることができますように。
また、御霊の導きによって、そのように歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月19日 (水)

フィリピ3:13bー16 到達しているところを基にして前進また前進

 フィリピ313b-16には次のように記されています。
3:13 ・・・。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15
 だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。
16
 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 13b.14節を
2017
は“13 ・・・。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。”と訳し、
 新共同訳は“13 ・・・。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。”と訳し、
 リビングバイブルは“13 ・・・。ただこの一事に全力を注いでいます。すなわち、過去に執着せず、前にあるものを望み見、14 ゴールに到達して神の栄冠を得るために、一生懸命努力しているのです。この栄冠を与えようと、神は私たちを天へと召しておられます。それは、キリスト・イエスが成し遂げてくださった救いによるのです。”と意訳しています。

 15aには“だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所を2017は“ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。”と訳し、
 リビングバイブルは“ですから、成熟したクリスチャンであるあなたがたはみな、この点について、私と同じ考え方をするようにと願います。”と意訳しています。

 13.14節は、成熟したクリスチャン(リビングバイブル)、大人であるキリスト者(2017)、完全な者(聖書協会共同訳、新共同訳)、全き人(口語訳)を対象として語られていることが15aよりわかります。
「成熟した」「大人である」「完全な」「全き」と訳されているギリシア語原語は「テレイオス」で、完全な(パーフェクトな)、傷のない(無傷の、欠陥のない)、完璧な、・・・等の意があります。

 横道に少しそれますが、ヨハネ1930を、
新共同訳は“イエスは、このぶどう酒〔「酢」(聖書協会共同訳)〕を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。”と訳し、
 新改訳2017は“イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”と訳し、
 岩波訳は“さて、酢を受けるとイエスは「成し遂げられた」と言った。そして、頭を傾けて、霊を引き渡した〔すなわち「息を引き取った」(欄外注)〕。”と訳しています。

 ヨハネ1930の「完了した」「成し遂げられた」と訳されている語のギリシア語原語は「テテレスタイ」です。
 
「テレイオス」のもとの語は、「テロス」で、有名な「テテレスタイ」の語のもとにもなっている語です。「テテレスタイ」は「テロス」の完了形、受動態、直接法、三人称単数形です。
新改訳は「テテレスタイ」を「完了した」と訳していますが、「テテレスタイ」が「テロス」の完了形、受動態であることを考えると、「成し遂げられた」という訳の方が良いように私は思います。

 話を元に戻します。
フィリピ315の「完全な」(テレイオス)は前述のとおり「テロス」からきている語で、テロスには、終わり、終局、・・等の意があります。

 フィリピ312には“私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。”(聖書協会共同訳)と記されています。
この個所の「完全な」というのは「テレイオオー」ですがそのもとは「テレイオス」です。
ですから、この一連の個所は、ギリシア語単語からだけで意味を確定することが難しいのです。

 さて、わたしたち新生したキリスト者に対して、完全な者として与えられたものとは何でしょうか。
それは、父なる神がキリストにあって与えてくださった「救い」です。
これは完全なものです。
 1コリント130に記されている聖句はそのことを表しています。
“あなたがたがキリスト・イエスに〔キリスト・イエスのうちに(新改訳)。「うちに」のギリシア語原語は「エン」で英単語では「in」(筆者挿入)〕あるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 私たちキリスト者の救いは完璧なものです。
その意を前提として考え、フィリピ313b.14を意訳すると、「完璧な救いをいただいたのですから、神が与えてくださる栄冠を得るために前進、また前進していきましょう。」(私訳)と捉えることもできるのではないかと思います。
 
 ところで、キリスト者に与えられる冠について、聖書は、次のような冠を記しています。
2
テモテ48には“あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。”(2017)と記され、
 ヤコブ112には“試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。”(2017)と記され、
 1ペテロ51-4には“1 私は長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
2
 あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。恥ずべき利得のためにではなく、本心から、そうしなさい。
3
 割り当てられた人々を支配しようとせず、むしろ、群れの模範になりなさい。
4
 そうすれば、大牧者が現れるとき、あなたがたは消えることのない栄冠〔栄光の冠(新改訳)〕を受けることになります。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 私は、主の現れを待ち望んでいるので「義の冠」を与えて頂けるのかな、と思っています。

 聖歌638、聖歌総合版687、新聖歌468に「御国に住まいを」(「やがて天にて」)という賛美があります。その歌詞を下記します。
“1.御国に住まいを備え給(たま)える 主イエスの恵みをほめよ たたえよ
(折り返し)* やがて天にて喜び 楽しまん 君にまみえて 勝ち歌を歌わん
2.浮世のさすらい やがて終えなば 輝く常世の御国に移らん *
3.もろとも勤(いそ)しみ 励(はげ)み戦かえ 栄の主イエスに まみゆる日まで *
4.目標(めあて)に向かいて 馳(は)せ場を走り 輝く冠(かむり)を 御殿(みとの)にて受けん *”とあります。

 上記の歌詞の3節にも関連しますが、フィリピ314.16には、“14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。/16 いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ユダの手紙20節には“愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ”(抜粋・新改訳初版~第三版)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ユダ20節に「愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、」(新改訳初版~第三版)と勧められているように歩ませてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月18日 (火)

詩篇118:19-21 正しい人は主の城門に入れる/天のエルサレム

 詩篇11819-21には次のように記されています。
19 義の城門を開けよ。私は入って、主に感謝しよう。
20
 これこそ主の城門、正しき人はここに入る。
21
 あなたに感謝します。あなたは私に答え、私の救いとなってくださった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1920節を2017は“19 義の門よ。私のために開け。私はそこから入り主に感謝しよう。20 これこそ主の門。正しい者たちはここから入る。”と訳し、
 リビングバイブルは“19 神殿の門よ、開きなさい。私は中に入って、主に感謝します。20 主を信じて従う人が、この門から入って主の前に出るのです。”と訳しています。

 直訳すると、2017訳のようになると思います。
詩聖が記した当時のことを言っているのであれば、リビングバイブル訳のように捉えることができると思います。
今回は地上のことよりも天上に関することを記したいと思います。
私たちは上にあるものを求めているものです(コロサイ31.2

 19-21節を一塊として考え、かつ預言的に考えると、これは意味深いものになると思います。

 この個所に出てくる門は「義の門」(19)であり、「主の門」(20)です。
「天のエルサレム」とも捉えることができるでしょう。

 新生したキリスト者は、すでに天のエルサレムの市民権を持っている天の国籍を持つ者です。
すでに天に帰ったキリスト者は天のエルサレムの門を入って御父や御子並びにすでにそこに住んでいる者たちと暮らしているのでしょう。

 イエス様は十字架にかかられる前日に次のように語られました。
ヨハネ141-3には、
1 「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。2 私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 多くの人は天のエルサレムに入るために必死になって良い行いをしようとします。
しかし、その方法では入れないのです。人は生まれながらに罪の性質を持って生まれてきているので、律法を守ることができないからです。
パウロはガラテヤ4章に地上のエルサレムと天上のエルサレムの対比を比喩を用いて次のように記しています。
21 律法を守らなければ救われない、と考えている皆さん。私のことばに耳を傾けてください。どうして、律法のほんとうの意義を理解しないのですか。
22
アブラハムに二人の子供があって、一人は奴隷である妻から生まれ、もう一人は自由人である妻から生まれたと書いてあります。
23
奴隷である妻の子供の誕生については、取り立てて変わった点はありませんでした。しかし自由人である妻の子供の場合は、まずその誕生に関して、特別な神の約束が先行し、それから生まれたのです。
24.25
このことは、神様が人間を助けるために開かれた二つの道を示しています。
一つは、律法を示して、それを守るようにとお命じになった道です。神様は、シナイ山でこの道をお示しになりました。その時、モーセに「十戒」をお与えになったのです。アラビヤ人はこのシナイ山を、「ハガル山」と呼んでいます。
ここでアブラハムの奴隷である妻ハガルは、戒めに従うことによって神に喜ばれようとする生き方の象徴、ユダヤ人の母なる都エルサレムを表わしています。そして、この生き方に従うユダヤ人は、すべてハガルが産んだ奴隷の子供なのです。
26
しかし、私たち〔新生したキリスト者たち(筆者挿入)〕の母なる都は天にあるエルサレムで、それは律法に属していません。
27
イザヤの次の預言は、このことを言おうとしたのです。
「喜べ、子のいない女よ。喜びの声をあげよ、子を産んだことのない女よ。あなたに多くの子を、女奴隷の子より多くを授けよう。」(イザヤ541
28
愛する皆さん。あなたがたも私も、イサクと同じ、神の約束に基づく子どもです。/
31
愛する皆さん。私たちは、律法に縛られた奴隷の子どもではありません。信仰によって神様に受け入れられる、自由の女の子どもです。”(リビングバイブル)と意訳されています。

 新生したキリスト者は、神の恵みと神が与えてくださった信仰によって救われた者たちです。
エペソ27-9をリビングバイブルは次のように意訳しています。
7 神がキリスト・イエスを通してなしてくださった、すべてのことからも、神の恵みのすばらしさがわかります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す見本とされているのです。
8
あなたがたは、恵みにより、キリストを信じることによって救われたのです。しかも、そのキリストを信じることすらも、あなたがたから自発的に出たことではありません。それもまた、神様からの賜物(贈り物)なのです。
9
救いは、私たちの良い行ないに対する報酬ではありません。ですから、だれ一人、それを誇ることはできません。”と記されています。

 天のエルサレムの外観について黙示録21章には次のように記されています。
11 都は神様の栄光に包まれ、宝石のように光り輝き、碧玉のように(水晶のように)透き通っていました。
12
都には、分厚い城壁が高くそびえ、十二人の天使が守る十二の門があり、それぞれに、イスラエルの十二部族の名が記されていました。
13
また、門は東西南北の方角に、三つずつ設けられていました。
14
城壁には十二の土台石があって、それぞれに、小羊の十二使徒の名が書き込まれていました。/
18.19
都は、ガラスのように透き通る純金でできていました。
城壁は碧玉で、さまざまの宝石がちりばめてある、十二の土台石の上に築かれていました。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、20 第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十は緑玉髄、第十一はヒヤシンス石、第十二は紫水晶です。
21
十二の門は、それぞれ一つの大きな真珠でできていました。大通りは、ガラスのように透き通る純金でした。/
27
・・・。小羊のいのちの書に名前が記されている人々だけが、ここに入ることができるのです。”(リビングバイブル)と意訳されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様の大いなる恵みに感謝します。
天にあるものを思いつつも、地上生活も一つ一つ主に導かれ助けられてあなたのみ旨にかなうように歩み続けていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月17日 (月)

使徒4:13-22 この世の権力者に聞き従うのではなく神に聞き従う/私の証し

 使徒413-22には次のように記されています。
13 人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であることも分かった。
14
 しかし、足を癒やされた人がそばに立っているのを見ては、何も言い返せなかった。
15
 そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16 言った。
「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムの住民全体に知れ渡っているので、否定しようもない。17 しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう。」
18
 そして、二人を呼んで、イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じた。
19
 しかし、ペトロとヨハネは答えた。
「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。20 私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」
21
 そこで、彼らは二人をさらに脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を崇めていたので、人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。
22
 このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ペトロとヨハネは、ユダヤの権力者によって、前日に逮捕され、拘留されていました(使徒43)。
そして、逮捕の翌日にユダヤの権力者たちに尋問されたのです。
その尋問に対する応答は堂々とした、確信をついたものでした。
それは、聖霊がそのようにさせてくださったからでした。

 ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネの堂々とした応答の態度を見、更に、二人が無学な普通の人であることを知って驚いたのです(13)。

 ユダヤの指導者たちは、「イエスの名によって一切話したり、教えたりしないように」とペトロとヨハネをさらに脅迫したのですが効果はありませんでした。

 それどころかペテロとヨハネは「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。20 私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と話したのです。

 二人がしっかりした態度を取り続けることができたのは、二人が復活されたキリストにお会いしたからというだけではなく、聖霊によって強められたからでしょう。

 御聖霊は内住してくださっておられますが、どのようなキリスト者でも聖霊に満たされ続けるということは難しいことです。
パウロも主イエス様から「恐れるな。語り続けよ。」と言われたことがありました。(使徒189

 話は変わりますが、22節には“このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。”と記されています。
歩けないので、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた人は、40年以上も歩けなかったのです。
この人は、主の御力によって歩けるようにして頂けました。
この人は、癒されるとすぐに立って歩いたというだけではなく、飛び跳ねたりもしながら神を賛美していました。(使徒38.9
嬉しくて、感謝と賛美が満ち溢れたのでしょう。

 私が救いにあずかったのは40年以上前ですが、私はその当時、将来の世界情勢を想像し、5年以上も、日々不安の中で生きていました。私は心の平安が欲しくて様々な宗教書をむさぼり読んでいましたが、やがて聖書にいきつき、イエス様に「私を信じればよいのだよ。」と語られ(人は思い込みだと思うでしょうが)、その時、私は「信じればよいのだ。」と思ったのです。そのとたんに、平安が与えられたのです。
イエス様を信じたら救われたのです。
これが私の証しの中心です。
5年以上も求道していたので、求道中の様々な心の思いを語るととても長くなりますが)
この証しは以前にも書いたことがありますので、すでにご存じの方もおられることでしょう。
その時の私の心境は、聖歌560(聖歌総合版584)の2番の歌詞が表してくれています。
「この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり」と。

 聖歌560(聖歌総合版584、新聖歌254)の歌詞を下記します。
“1.心にあるこの安きを 奪うもの地になし 試みにて苦しむとも わが安き動かじ
{(折り返し)* 我がものなる主を宿す その喜び 言い難し
主 宣(の)たまえり 「我 などて なれを捨てて去るべき」}
2.この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり 悩みあらず 涙もなく 歌声のあるのみ *
3.この安きを持てる 土の器なる我が身も やがてイェスに会わば 変わらん 栄ある姿と *”

 “あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。”(1ペトロ225・新共同訳)
ハレルヤ!

 新生させていただいたキリスト者は、自分の証しをして、「主イエス様を信じれば、救われます」ということを宣言することができます。
救われた後も、主と共に歩んでいれば、様々の分野の証しを加えて頂けるでしょう。
それらも証しすることができます。
私たちの証しを聞いて、聞いた人が信じるかどうかは、聞いた人の自由意思に基づく聞いた人の責任です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
三一の主と共に歩ませていただける恵みを感謝します。
いくら感謝しても感謝しきれませんがありがとうございます。
あなたを賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月16日 (日)

箴言29:5.6 この世の人の声ではなく、主のみ声に従って歩む

 箴言295.6を、
リビングバイブルは“調子のいいお世辞は罠です。悪人はそれに足をとられて転びますが、正しい人は近寄ろうともしないので安全です。”と意訳し、
 2017は“5 隣人にへつらう者は、自分の足もとに網を張る。6 悪人は背きを犯して自分に罠をかける。正しい人は声をあげて喜び歌う。”と訳し、
 聖書協会共同訳は“5 友人にへつらう者は、自分の足元に網を仕掛ける者。6 悪に捕らわれた者は背きの罠にかかり、正しき者は歓声を上げて喜ぶ。”と訳し、
 新共同訳は“5 友にへつらう者は、彼の一歩一歩に網を仕掛ける者。6 悪を行う者は罪の罠にかかる。神に従う人は喜びの叫びをあげる。”と訳しています。

 「隣人」(2017)、「友人」(聖書協会共同訳)、「友」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「レア」で、パートナー、同僚、仲間、・・等の意があり、兄弟、友人、夫、恋人、愛人、隣人、・・等の意にも訳されます。

 パートナー、同僚、仲間、隣人にへつらうことは良くないことがわかりますし、へつらう人には気を付けたほうが良いことを教えられます。

 「お世辞を言う」(リビングバイブル)、「へつらう」(2017、聖書協会共同訳、新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーラク」で、原義は、なめらかな、の意で、おべっかを使う、おもねる、お世辞を言う、・・・・・等の意でも用います。

 リビングバイブルは「調子のいいお世辞は罠です。」と訳していますが、この文を読むと、お世辞やもうけ話等に乗せられて失敗する人を思い浮かべます。
しかし、そのようなことをする人も自分の罠に捕われるという警告です。

 ヤコブ113-15を思い浮かべます。そこには、
13 誘惑に遭うとき、誰も「神から誘惑されている」と言ってはなりません。・・・。
14
 人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
15
 そして、欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また、2テモテ313の“・・、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。”(新改訳初版~第三版)という聖句も思い起こします。

 日本でも、政府自体が、リスクをあまり話さないで、NISAのようなもうけ話を国民にしています。株が暴落したときは責任を取ってくれないでしょう。

 キリスト者は、政府や経済アナリスト、その他、美味しい話をしている人の話を聞くのではなく、主に信頼して歩むことのできる者、主の導きを得て歩むことの出来る者とされていますから感謝です。

 6節を新共同訳は、“悪を行う者は罪の罠にかかる。神に従う人は喜びの叫びをあげる。”と訳しています。

 リビングバイブルは“悪人はそれに足をとられて転びますが、正しい人は近寄ろうともしないので安全です。”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたに信頼し、あなたの導きに従って歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月15日 (土)

フィリピ3:10-13a 復活の体

 フィリピ310-13aには次のように記されています。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12
 私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。
13
 きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 死んだ人の復活について、聖書は、キリスト者以外の復活についても記しています。死んだすべての人は復活するのです。ただし、復活するのが幸いな人と幸いでない人とがいます。
ヨハネ528.29には“28 ・・・。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。29 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。”(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉が記されています。

 使徒2415でパウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活する」(抜粋・聖書協会共同訳)と述べています。

 正しくない者が復活する時はキリストの千年王国が終了した後のことです。黙示録2011-15に次のように記されている裁きは、全歴史上における最後の裁きです。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 上記の白い御座の裁き(最後の審判)の時には、よみにいた人たちが体をもって復活し、最後の裁きを受けるのです。「よみ」はヘブライ語では「シェオール」ギリシア語では「ハデース」です。
「ゲヘナ」(ギリシア語では「ゲヘンナ」)は、ヘブライ語のヒンノムの谷(火が燃え続けている所)と同じようなところだろうと思います。{マタイ529.301028、マルコ943-48参照}
 黙示録1919.20には、
“また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。”(2017)と記され、大患難時代に聖徒を苦しめ、多くの聖徒を殺したこの二人は、よみ(シェオール、ハデース)に送られることなく、直接ゲヘナに投げ込まれたのです。

 イザヤ書の最後の個所に次のような預言聖句があります。
22 私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように。あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く――主の仰せ。
23
 新月ごと、安息日ごとに、すべての肉なる者は私の前に来てひれ伏す。――主は言われる。
24
 彼らは出て行き、私に背いた者たちの死体を見る。それに付く蛆(うじ)は絶えず、それを焼く火は消えることがない。それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる。”(イザヤ66章・聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者のよみがえりor変容と霊の体について
新生したキリスト者の場合には、キリストの空中再臨時前までに肉体を離れて天に挙げられた魂と、キリストの空中再臨時迄、肉体をもって地上にいるキリスト者では少し主なる神様のお取り扱い方が異なります。そのあたりのことは聖書本文でご理解ください。

 新生したキリスト者のよみがえりについて主イエス様は次のように語られました。
39.40 わたし〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕を遣わされた方〔父なる神(筆者挿入)〕のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。/
44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。/
54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。”(ヨハネ6章・2017)と記されています。

 新生したキリスト者のよみがえりあるいは変容は何時なのでしょうか。
1コリント1552に“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記され、
 1テサロニケ414-17には、
14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

 新生したキリスト者のいのちは永遠です。
主イエス様は「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(2017)と語られました。

 キリスト者の霊の体について1コリント15章は次のように述べています。
42 ・・・朽ちないもの・・・
43
・・栄光あるもの・・、力あるもの・・・
44
・・・霊の体・・・
48.49
・・・天上の者たちはすべて、天上のその方に等しい・・・/・・・天上の方のかたちをも持つ・・・”(聖書協会共同訳)と記されています。

 コリント信徒への手紙はパウロが書きましたが、使徒ヨハネも1コリント1549の聖句と近似した内容を記しています。
1
ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)とあります。

 使徒ヨハネは、上記の聖句の次に、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(2017)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主キリスト・イエス様の空中再臨を待ち望む者として、神の子どもとしてふさわしく整えてください。
永遠の命を与えてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月14日 (金)

詩篇118:10-18 主は、わが救い、わが旗、わが力/主への信頼

 詩篇11810-18には次のように記されています。
10 国々はこぞって私を包囲したが、主の名によって私は必ず彼らをしのぐ。
11
 私を幾重にも包囲したが、主の名によって必ず彼らをしのぐ。
12
 蜂のように私を包囲し、茨の火のように燃え上がったが、主の名によって必ず彼らをしのぐ。
13
 私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。
14
 主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。
15
 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
「主の右の手は力を振るう。16 主の右の手は高く上がり、主の右の手は力を振るう。」
17
 私は死なずに生き長らえ、主の業を語り伝えよう。
18
 主は私を厳しく懲らしめたが、死に渡すことはなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節の「国」と訳されている語のヘブライ語原語は「ゴーイ」で、外国、異邦人、異教徒、人、・・等の意があります。
 10-12節の文末の「しのぐ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ムール」で、原義は、短く切ることで、切り詰める、遮る、等の意ですが、破壊する、打ち壊す、滅ぼす、・・等の意でも用います。
また、この単語は未来形で記されています。

 10-12節を新改訳初版~第三版は次のように記しています。
10 すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
11
彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
12
彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。”とあります。

 10-12節を、詩聖は、極めて厳しい状況に立たされたけれども(殺されそうな状況に置かれているけれども)、ヤハウェ(主)への信頼によって、この状況を打破しよう、ということを記しているのでしょう。

 詩聖が主に信頼したとき、主はどのようにしてくださったのでしょう。
13.18
節には“私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。/主は私を厳しく懲らしめたが、死に渡すことはなかった。”と記されています。

 詩聖は、主の御力を体験し、主の御力を賛美し、主の御力を後世に伝えようとしています。13-17節には次のように記されています。
13 私は激しく突かれて倒れそうだったが、主が私を助けてくださった。
14
 主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。
15
 歓喜と勝利の声が正しき人の天幕に響く。
「主の右の手は力を振るう。16 主の右の手は高く上がり、主の右の手は力を振るう。」
17
 私は死なずに生き長らえ、主の業を語り伝えよう。”とあります。

 このようなことは、モーセもヨシュアも士師たちも、ダビデも多少の差はあれ経験してきたことでしょう。
私たちキリスト者も、程度の差はあっても、本質的には似たような経験をすることでしょう。

 主が「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ1633・新共同訳)と語られたのですから。

 また、1コリント1013には“あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。”(2017)と記され、
 1コリント4章には、
8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
9
迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
7
私たちは、この宝を土の器〔肉の体(筆者挿入)〕の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。”(2017)と記されています。

 詩篇118篇を記した詩聖は、窮したときに大切なことは「主への信頼」ですよ、と教えてくれています。

 詩篇375には“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”(2017)と記され、
詩篇3210には“主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。”(抜粋・2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
厳しい状況の中に置かれたときでも常にあなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「われは幼子」(聖歌490 聖歌総合版508
“1.われは幼子(おさなご) われ主にすがらん 小さくあれど 信仰いだきて
(折り返し)*絶えず 主イェスの手に よりすがらん 静けき昼も 風吹く夜も
2.などか おずべき われ主にすがらん 神の御霊の導きあれば *
3.晴れたる朝も われ主にすがらん 嵐の夜は すがり祈りせん *
4.息を引くとき われ主にすがらん よし あめつちは 崩れ去るとも *”

2024年6月13日 (木)

使徒4:5-12 聖霊による働き/キリスト以外に救いはない

 使徒45-12には次のように記されています。
5 翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
6
 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
7
 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、
「お前たちは何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」と尋問した。
8
 その時、ペトロは聖霊に満たされて言った。
「民の指導者たち、また長老の方々、9 今日私たちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によって癒やされたかということについてであるならば、10 皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるものです。
11
 この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ、隅の親石となった石』です。
12
 この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 5.6節には“5 翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。”(聖書協会共同訳)とあります。
 2017は“5 翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。”と訳しています。
 5節の「議員」(聖書協会共同訳、新共同訳)、「指導者」(岩波訳、フランシスコ会訳、新改訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アルコーン」です。
聖書協会共同訳は8節の「アルコーン」を「議員」ではなく、「指導者」と訳しています。

 ペテロは、かつて上記のユダヤの指導者たちを非常に恐れたのです。
今回は、以前に恐れをなした人々の前で恐れることなく証言し、宣教しました。
以前の場面から見ていきます。
 マタイ2657-75(抜粋)には次のように記されています。
57 人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58
 ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
59
 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。/
65
 そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。
「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。66 どう思うか。」
人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
67
 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、68 「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。
69
 ペトロが外の中庭に座っていると、召し使いの女が一人近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70
 ペトロは皆の前で打ち消して、「何を言っているのか、分からない」と言った。
71
 ペトロが門の方へ行くと、ほかの召し使いの女が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72
 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73
 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」
74
 その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
〔塚本訳は解説を加えて“そこでペテロは、「そんな男は知らない。(これが嘘なら、呪われてもよい)」と、幾たびも呪いをかけて誓った。するとすぐ鶏が鳴いた。”と訳しています。(筆者挿入)〕
75
 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 災いに会う前は熱い心を持った強気のペトロでしたが、ひとたび恐怖を覚えるような状態に置かれたペトロは、上記のような弱さを持った人でした。

 しかし今回は、聖霊の力によって、大祭司たちや長老たち及び議員たちの前に立って堂々と証言をし、福音を語っているのです。今度はその内容をリビングバイブル(意訳)で読んでみます。使徒47-12には次のように記されています。
7 ペテロとヨハネは一同〔大祭司や長老、サンヘドリン{最高法院}の議員たち(筆者挿入)〕の前に引き出され、尋問が行われました。
「おまえたちは、何の力で、また、だれの権威で、こんなことをしたのか。」
 8 その時、ペテロは聖霊に満たされ、落ち着きはらって答えました。
「わが国の名誉ある指導者、ならびに長老の方々。9 お尋ねの件は、あの足の悪い男のことで、どのようにして彼が治ったかということでしょうか。
10
そのことなら、あなたがた、いやイスラエルのすべての人たちに、はっきりお話ししたいのです。
この出来事は、あなたがたが十字架につけ、神様が復活させてくださった、あのメシヤ(救い主)、ナザレのイエスの名と力とによるのです。
11
メシヤのイエスは、まさに『建築士たちの捨てた石が、最も重要な土台石になった』(詩篇11822)と聖書にある、その石なのです。
12
この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」”とあります。

 主イエス様は、弟子たちを離れて、天に昇って行かれる前に、弟子たちに「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒18抜粋・2017)と語られ、また、それ以前に、「・・、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊〔直訳「父の霊」(筆者挿入)〕です。」(マタイ1018-202017)と語っておられました。

 弟子たちは、御復活されたキリスト・イエス様にお会いした後も、まだ怖がっていたのかもしれません。ヨハネ2026を読むと、弟子たちがいた戸には鍵がかけられていた、と記されています。イエス様が地上におられたときは開放的でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様は「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ1526)と語られましたが、今日の個所から、そのことを学ばせていただきました。
また、このことは、私たち自身の証しともなることを覚えます。
「キリスト以外に救いはない」ということを覆そうとするキリスト教会の中からの背教が世の終わりに起こりますが、新生したキリスト者は、そのようなことを語る指導者たちは偽物であるということを見分けてそのような人たちから離れることと思います。離れることが大変な人には主が力を与えてあげてください。
キリスト以外には救いがないのですから。
まことの救い主、唯一の救い主、慈しみ深い主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月12日 (水)

箴言29:4 公正と正義によって統治され、繁栄と平和が続く王国

 箴言294を、
聖書協会共同訳は“王は公正によって国を立たせ、貢ぎ物を取り立てる者〔直訳「貢物の人」(欄外注)〕はこれを滅ぼす。”と訳し、
 新共同訳は“王が正しい裁きによって国を安定させても、貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。”と訳し、
 2017は“正義によって王は国を建てる。重税を取る者は国を壊す。”と訳し、
 リビングバイブルは“正しいことをする王は国をしっかり治め、わいろを要求する王は国を滅ぼします。”と訳しています。

 「公正」(聖書協会共同訳)、「正しい裁き」(新共同訳)、「正義」(2017)、「正しいこと」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ミシュパートゥ」で、裁き、裁く、公正、公平、正しい、正しいこと、神の法、・・等の意があります。

 「立たせ」(聖書協会共同訳)、「安定させる」(新共同訳)、「建てる」(2017)、「治める」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーマドゥ」で、立つ、立たせる、設立する、確立する、定着させる、・・・等の意があります。

 前半部分と後半部分の文の間には接続詞「ヴェ」があり、andにもbut、・・等、という意にも用いられます。

 今日の聖句の前半部分を読むと、これが完全に行われるのは、キリストの千年王国における王の王、主の主であるキリスト・イエス様の統治の時代です。
主は、神の法に基づき、地上を統治なさるのです。
私たちに、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ610)と祈り方を教えてくださいましたが、この祈りは、キリストの千年王国時代に成就するのです。
キリスト者の場合、まずはキリスト者の心の中で、この祈りは成就していきます。

 今の時代でも、主が正しいとするあり方で国を治めたら、その国は祝福されることでしょう。
しかし、「重税を取る者は国を壊す。」、「わいろを要求する王〔「王」と訳されている語のヘブライ語原語は「イーシュ」で「人」です(筆者挿入)〕は国を滅ぼします。」(リビングバイブル)、「貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。」と後半部分にあります。
わいろを取る政治家や役人、わいろを要求する政治家や役人、重税を取る政治家や役人、貢物を要求する政治家や役人が力を持つと、国はどうなるのでしょう。
この聖句は、国が壊される、国が亡びる、と教えています。

 ソロモン王の時代の末期は、おそらく税が重かったのでしょう。その上、ソロモンの子のレハブアムは更に重税を課しました。
その結果、12部族からなるイスラエルは、北イスラエル王国とユダ王国(南イスラエル王国)に分裂したのです。そのいきさつは1列王記121-24に記されています。

 キリスト様が統治する千年王国は、公正と正義によって統治され、繁栄と平和が続く王国です。
イザヤ96.7には次のように記されています。
“・・・。
主権はその〔王の王、主の主であるキリストの(筆者挿入)〕肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの千年王国まで待たずとも、私たちキリスト者の内にはキリスト様が王として座してくださり、助言を与えてくださり、平安を与えてくださり、霊的力を与えてくださり、主が良しとされるすべての善きものを与えてくださいますからありがとうございます。
常に主キリスト様に心の王座にお座りいただき、歩み続けることができますよう、お導き下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2024年6月11日 (火)

フィリピ3:8-11 キリストに似たものとされる

 フィリピ38-11には次のように記されています。
8 そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。
キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。
キリストを得、9 キリストの内にいる者と認められるためです。
私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実〔キリストを信じる信仰(意訳:筆者挿入)〕に基づいて神から与えられる義があります。
10
 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら〔キリストの死と同じ状態になり(新改訳)〕、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは、
8 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。
それは、キリストを自分のものとするためであり、9 もはや、良い人間になろうとか、律法に従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリストを信じることによって救われ、キリストと結ばれるためです。
神が私たちを正しい者と認めてくださるのは、信仰――ただキリストだけを信じ頼ること――を持っているかどうかで決まるからです。
10
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。
11
死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。”と意訳しています。

 2017は、
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。
私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10
私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。”と訳しています。

 今日の聖書個所に関連する他の聖書個所を下記します。
ガラテヤ221には“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。”と記され、
 ヤコブ210には“律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。”と記されています。

 ローマ117には“福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。”(抜粋・新共同訳)と記され、
 ローマ321.22には“律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。”(2017)と記されています。

 1コリント130には“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(抜粋・新改訳初版~第三版)と記されています。

 ローマ63-11には、
3 ・・・。キリスト・イエスにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたのです。
4
 私たちは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。
5
 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。
6
 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。
7
 死んだ者は罪から解放されているからです。
8
 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9
 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10
 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11
 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。”(聖書協会共同訳)と記され、
 ガラテヤ524には“キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。”(2017)と記され、
 ガラテヤ219.20には“私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1コリント1552.53には“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。”(2017)と記され、
 1テサロニケ413-17には、“13 きょうだいたち、眠りに就いた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
14
 イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。それならば、神はまた同じように、イエスにあって眠りに就いた人たちを、イエスと共に導き出してくださいます。
15
 主の言葉によって言います。主が来られる時まで生き残る私たちが、眠りに就いた人たちより先になることは、決してありません。
16
 すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。
すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、
17
 続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。
こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 1ヨハネ32には“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたとき〔キリストの空中再臨の時(筆者挿入)〕に、キリストに似た者になる〔霊の体が与えられる(筆者挿入)〕ことは知っています。キリストをありのままに見るからです。”(2017)と記されています。

 今日の聖書個所は、聖霊によるお取り扱いが必要な箇所なので、解説は無しにします。祈って、恵みのゆえに与えられる内容が多いからです。
主によって与えられないと頷くことができません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖歌568番の2節に「日々 主イエスと歩み ややに 御姿(みすがた)を映(うつ)し ただ神より来る愛に満たされつつ 心は燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 御霊の火にて燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 心は燃(も)ゆ 御霊の火にて燃(も)ゆ」というのがありますが、そのように生かさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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