1ペテロ1:8.9 喜びの源
1:8あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(口語訳)
このみことばはキリストの救いに与った者であればだれでも経験していることです。これは説明することではなく体験です。
イエス・キリストを肉眼で見たことはないにもかかわらず、愛しているのです。
イエス・キリストを肉眼で見たことは無くても信じているのです。
主イエス様は、疑い深いトマスに言いました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と。
この幸いも神からくるのです。エペソ2:8には「あなたがたは、恵みの故に、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物〔gift〕です。」とあります。
主との豊かな交わりの中にあるとき、輝きに満ちた喜びを経験することがあります。使徒ペテロは、その理由として魂の救いを得ているからであると言っています。私は、それに加えて、内なる御霊の働きの故ではないかと思うのです。救われた人には御霊が新生された霊の内に住んでいて下さるのです。御霊の実の中に「喜び」があります。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切〔慈愛〕、善意〔善良〕、誠実〔真実、忠実〕、柔和、自制」(ガラテヤ5:22.23)とあるからです。
喜びの現れ方は、同じ程度に喜んでいたとしても、その人の気質によって違って現れるのではないかと思います。この書簡のペテロは感情優位的なところのあった人ですから、表に出てくる喜びは溢れるようであったのだろうと思います。一方、深く静かに安らいで喜ぶような人もいますから喜びの程度を外見だけで判断することはできません。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と1サムエル16:7にありますが、主はしっとりと喜んでいる人でも、喜びが体に現れて飛び上がっている人でも、その表現をも見られますが、それ以上にその心を見てくださる方だと思うのです。
日本人のキリスト者達が賛美している姿を見て、喜びが無い、などと言われる他国のキリスト者の方も時に見受けられますが、内面は分からないのです。喜びなく賛美している場合は別ですけれども。
<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたを喜び、大いなる安らぎの内にあなたと交わることが出来るというのは、自分から出ているものという以上に、元来は、三位一体の神様の内にある交わりに、キリストの内にあって、キリストの御霊によって共に交わりを頂いているのではないかとも思えることです。キリストが内に住んでくださっておられるということの表れのひとつであろうと思います。感謝します。
主の御名によって
アーメン
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