1ヨハネ2:1.2 キリスト者が罪を犯したときの弁護者キリスト
“2:1わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
2:2彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(口語訳)
1章で、個々の罪を犯す罪の源となる罪SINは、誰でも持っているし、誰でも具体的な罪を犯してしまうこともある、とヨハネは述べました。それならいくら罪を犯しても良いのかというとそうではなく、この手紙を書いている目的の一つは、「あなたがたが罪を犯さないようになるためである。」と記しています。
パウロは、ローマ5:20、6:1-4に次のように記しています。
「・・罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。/それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。](新改訳)と。
主は、キリスト者が、罪を軽く見たり、キリストの恵みを軽く扱ったりすることを良しとはしません。放縦に走ってしまうことを警戒しています。罪を犯すとサタンに攻撃され易くなります。
しかし、罪を犯そうと思わなくても、弾みで犯してしまう場合もあるのです。不信仰の罪に陥ったり、妬んだり、高慢になったり、卑屈になったり、つい嘘をついてしまったり、等々、色々あります。罪を犯したとき、父なる神様に対してイエス様は弁護者となってくださるのです。
1節に、「義なるイエス・キリスト」と記されています。ローマ5:18には、「・・ひとり(イエス・キリスト)の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。」(新改訳)と記されています。
私たちは、キリスト様が私たちを愛してくださって、身代わりに死んでくださった、ということからイエス様の愛に思いが行ってしまうことですが、イエス様の行為は、義の行為でもあるのです。
パウロはローマ8:34に、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(新改訳)と記しています。
2節に、「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」と記されています。
イエス様は、全世界の為の贖いの供え物となってくださいました。これによって、罪人の救いの為の神様の方の準備が完了しました。しかし、救いの達成のためには、罪人がイエス様を信じる必要があるのです。イエス様を信じることによって、イエス様がなされた贖いが適用されます。ですから、神様の方の準備は終わっていてもイエス様を信じもしないで自動的に救われているということはないのです。
エペソ2:8には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(新改訳)と記されています。「恵み」とは、キリストの贖いです。2:8はこのあと「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と続きます。
とすると、信仰も神様からのプレゼントということになります。
私は救いに与って数ヵ月後に、このおことばの体験をしました。
私は、自分がよく勉強して、知識を増した。それで信じた、と思った時(救われた数ヵ月後)があったのです。
「聖書は何とうまくできているのだろう。ひょっとすると騙されているのかもしれない。」と心の中で思ったのでした。これは私の高慢とそれに付け込んだサタンの仕業であったのです。
私がその様に思ったとたんに、私は、イエス様を信じることが出来なくなったのです。
そして、非常に焦りました。「信じることが出来ない。どうしよう。地獄へ行ってしまう。」と。
そして、必死に祈ったのです。「信仰を与えてください。信じることが出来るようにさせてください。」と。
その時、「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」{(ルカ22:31.32)新改訳}というイエス様の声が心に響きました。
私の信仰は、直ちに戻ったのです。
この出来事はとても短い時間内に起こったことでした。
30年以上前のことでも昨日のことのようによみがえります。
高慢の罪と、サタンの恐ろしさ、地獄に行ってしまう恐ろしさ、信仰もイエス様が与えてくれたものだったのだ、ということをその時学んだのです。
恐らく、イエス様を信じたいという願いがある時、イエス様を信じようとし時に、賜物として信仰は与えられるのでしょう。私は、自分の経験からその様に考えます。或いは違うのかもしれませんが、その他の考えは浮かびません。
<お祈り>
天のお父様
あなたの御名を崇め感謝します。
イエス様の贖いを感謝します。
信仰を与えてくださりありがとうございます。
救われた後も、しばしば罪に陥り、その度にイエス様が父なる神様にとりなしてくださいましてありがとうございます。
これからも、天の御国に招き入れてくださるときまで、助け、導き、励まし、慰め、・・・ながら共に歩んでくださいますことを感謝し、イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン
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