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2017年9月29日 (金)

レビ22:1-9 祭司と供えものの聖別2

 1-9節には、
22:1主はまたモーセに言われた、
22:2「アロンとその子たちに告げて、イスラエルの人々の聖なる物、すなわち、彼らがわたしにささげる物をみだりに用いて、わたしの聖なる名を汚さないようにさせなさい。わたしは主である。
22:3彼らに言いなさい、『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
22:4アロンの子孫のうち、だれでも、らい病の者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、
22:5または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、
22:6このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。
22:7日が入れば、彼は清くなるであろう。そののち、聖なる物を食べることができる。それは彼の食物だからである。
22:8
自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べ、それによって身を汚してはならない。わたしは主である。
22:9それゆえに、彼らはわたしの言いつけを守らなければならない。彼らがこれを汚し、これがために、罪を獲て死ぬことのないためである。わたしは彼らを聖別する主である。”(口語訳)とあります。

 ウェスレアン聖書注解はこの箇所を、“祭司はいかなる理由であれ(22:1-9)汚れているときは(6)聖なるものに(22:2)触れてはならなかった。人が汚れてしまう方法の一覧表がここに含まれている。汚れている祭司(そしてどの祭司もときには汚れるものである)は、夕方になって水を浴びて聖なるものを食べることが出来るようになるまでは待たなければならない(6)。このようなことに不注意であることは、祭司の上に罪をもたらし、彼の死を招くことであった(9)。”と要約しています。

 祭司は、新約においては、キリスト者です(1ペテロ2:9)。キリスト者は、聖なる歩みをすることが求められています。1テサロニケ4:3-8には、
“4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4:4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
4:6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
4:8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。”(新共同訳)とあり、
1ペテロ1:15.16には、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい〔聖なるものとされなさい(新改訳)〕。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」(新共同訳)とあり、
ヘブル12:14には、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(新共同訳)と記されています。
誰でもイエス様を信じれば救われますが、イエス様との豊かな交わりには、聖い歩みが必要であることを教えてくれています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス・キリスト様が十字架上で血を流してくださったゆえに、イエス様の血により罪赦され、聖としていただきました。ありがとうございます。
法的に(立場的に)聖とされたことと、実質的に聖なる歩みができることとはまた別物であることを覚えます。
御霊によって聖なる生活を送っていくものであらせてください。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

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コメント

ここではツァラアトではなく、らい病と表現なのですね。
神様の聖なるものをみだり用いて、神様の聖なる名を汚さないようしないといけないと…自分で戒めようと思ってしまうのですが、これすらも、〝聖霊によって〟なのでしょうか?
神様が「聖なるものとなる事、聖なる生活をさせる為」に呼び導いてくださったという事を改めて感謝します。その始まりがなければ、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」この箇所を実現する事もできないのですものね。
私はまだまだ始まったばかりである事を再認識させてもらったのと同時に、導いてくださった事に改めて感謝します。

ツァラアトはヘブライ語です。
数十年前までの日本語訳聖書は、らい病、という訳でした。
人間のハンセン病以外の、ツァラアト、例えば、壁のツァラアト、などという聖書箇所がありますが、壁のらい病という訳ではおかしいですね。
また、らい病という訳について、ハンセン病の方からの意見もありました。
訳者の方々が、色々考えて、原語をそのまま用いたのが新改訳です。
新共同訳は、重い皮膚病、と訳しました。
しかし、医学的には、重い皮膚病でも皮膚が白くならないものはいくつもあります。
さてさて、神様はどのようなことを意図されたのでしょうか?
聖なる生活、については、日ごとの恵み1(1とは書いてありませんが)の最後の方の「聖化」の項を読んでみてください。

私は、救いと聖化を混同していますね…。
〝いつも主と共に歩んでいけば、主は必ずそのようにしてくださいますから〟という所が100%信じれていないという事を自覚しました。
〝無理やり思い込んでも信仰がついて行きません〟このお言葉にもドキリとします。
【霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません】

色々な事が起きた時こそ、もっと主により頼まないといけないのに、私は人を頼ろうとしてました。それは、大きな間違いです。わかってはいても、パニック状態に近くなりそうでしたので、目先に見える何か…という愚かな考えが浮かんでしまいました。
色々な事が起きた時こそ、主にのみ祈れば良いのですよね。頭ではわかっているので、祈るのですが…、何処かで私の考えている事が起きて欲しいと思ってしまったり。最悪な状況になりそうだった時には藁にも縋る思いで、神様に全面的な救いを求めるのに、そこでも、私の勝手な思いを巡らせてみたり…。それは神様に対してとても失礼だと思います。
この2、3日少しおかしかったです。
ご指摘ありがとうございます。感謝します。

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