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2023年4月24日 (月)

箴言22:9 祝福を受ける一つのパターン/聖化

 箴言229を、
口語訳は、“人を見て恵む者はめぐまれる、自分のパンを貧しい人に与えるからである。”と訳し、
新改訳初版~第三版は、“善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。”と訳し、
リビングバイブルは、“親切な人は貧しい人に食べ物をわけて喜ばれます。”と訳し、
新改訳2017は、“善意の人〔直訳「目つきの良い人」(欄外注)〕は祝福を受ける。自分のパンを貧しい者に与えるからだ。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“慈悲深い目の人は祝福を受ける。彼は自分のパンを貧しい者に施すから。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“善意に溢れるまなざしの人は祝福される。自分のパンを弱い人に与えるから。”と訳しています。

 ヘブライ語聖書で、前半部分を直訳すると、「目の良い人は祝福されるだろう(未完了形)」となります。

 この聖句の前半を、直訳した文から考えていこうと思います。
「目の良い人」の「良い」と訳されている語のヘブライ語原語は「トーブ」で英語ではgoodです。
「トーブ」の原義は、good(良い)ですが、英語のgoodに多くの意味があるように、「トーブ」にも多くの意味があり、「良い」の他に、美しい、惜しみなく与える、豊富な、快活な、朗らかな、元気のいい、気を引き立てるような、愉快な、楽しい、気持ちのよい、明るい、快くする、慈悲深い、恵み深い、親切な、愛情のある、思いやりのある・・・・等々の意があります。

 直訳すると、「目の良い人」の個所を、
新改訳は、「善意の人」と訳し、
口語訳は、「人を見て恵む者」と訳し、
リビングバイブルは、「親切な人」と訳し、
フランシスコ会訳は、「慈悲深い目の人」と訳し、
聖書協会共同訳は、「善意に溢れるまなざしの人」と訳しています。

 イエス様が語られた山上の垂訓の中には、「目」という語が出てくる個所がいくつかありますが、その中の一つのマタイ622.23の個所には次のように記されています。
「目が澄みきっているなら、あなたのたましいも輝いているはずです。しかし、目が、悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたのたましいは暗やみの中にいるのです。その暗やみのなんと深いことでしょうか。」(リビングバイブル)とあります。

 この個所を聖書協会共同訳は、「目は体の灯である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が悪ければ、全身も暗い。だから、あなたの中にある光が暗ければ、その暗さはどれほどであろう。」と訳しています。

 「目が澄んでいれば」の個所は、原語からは、「目が単一であれば」とも訳せます。
神は光ですが、生まれながらの人(新生していない人)の心は暗闇であり、混沌としています。
目が単一で(ものの見方が一点に集中しており)、いつも主を見ていれば、光の中にいることが出来ます。

 キリスト者の場合は、新しく生まれた霊と主の霊が一つとなっています(ヨハネ361ペテロ131コリント617)。
霊はたましいに囲まれています。
たましいが、主と同一化していないと、内奥の霊の光が外に輝きださないのです。
たましいが聖い状態に保たれていると、内なる主の光が外まで輝き出るのです。

 主イエス様は、別の表現もしています。
ヨハネ737.38には、「渇いている人は誰でも〔直訳「誰かが乾いているなら」(欄外注)〕、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から〔直訳「腹から」(欄外注)〕生ける水が川となって流れ出るようになる。」(聖書協会共同訳)と記されています。
使徒ヨハネは、「生ける水」について、次の39節で、“イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。”(聖書協会共同訳)と解説しています。

 新約時代は、聖徒の内におられる主の慈しみが、外に流れ出すことの可能な時代です。そのためには、たましいを主によって聖くして頂くことが大切です。
イエス様は八福の教えの中で、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(2017)と言われました。
自然に出てくる憐み深さ、憐みの行為をしたことを自分でもよく覚えていないような憐みの行為は、内なる主から出てくるのでしょう。
憐みを受けたいから、人を憐れむ、というのは肉の思いです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
主の血潮によりたましいを聖別して救ってくださり感謝します。
さらに、思いや感情、意志も具体的に、御聖霊が御言葉を用いてきよめてくださり、霊の内におられる主の霊が輝き出ることが出来ますように。
そのようにして、御父の御名があがめられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5162017

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コメント

至福の教えを八福という言い方をするという事を初めて知りました。初めて知るとき嬉しくて目が飛び出てしまいます笑。

憐みを受けたいから人を憐れんだり、何かを為すのではなく…けれども、天におられる父をあがめられるようにする為には、私の行いを人々の前で輝かせる様にしないと…ですね。今の私には難しいです…。その様に考えてしまう時点で、御聖霊の働きによっていないと自覚します。
トミーさんも書いておられましたが、〝自分でもよく覚えていない〟という言動という事なのですよね。(たまに、言われたりしましたが、本当に思い出せなく人違いでは?と思ったものです)何か意図している時は覚えていて、記憶が蘇りますから、それは肉の思いという事ですね。
私は何か気に触ることをしてしまったかな?と思い煩う事がとても多くありました。最近は、その思い煩う気持ちを主に預けて、目の前にある事に取り組む様になれてきている様な気がします。
特別目立って長けているものを持っている訳ではありませんので、何かをしなければならないと焦ってしまう気持ちも湧き上がります(暫くその様な思いに悩まされた時もあったりしました)が、今は神様は私に日毎の糧を与えてくださっていると思える様になれてきております。
神様がどうお考えなのか?は明確にはわかりませんが、人を憐れむ気持ちや愛を心に持つ心を神様は望んでおられるという事は明確ですので、私がその様な心を常に持ち続ける事ができますよう祈り求めます。

ハレルヤ!
1コリント13章に「いつまでも残るものは愛です。」とありますものね。

アーメン。

アーメン。

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