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2023年7月27日 (木)

申命記21:22-23 死刑で木にかけられた死体/キリストは私たちのために呪われた者となってくださった

 申命記2122.23には次のように記されています。
22 ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、
23
その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。”(2017)とあります。

 レビ記20:14、21:9や出エジプト2112-17,232218-20等には死刑の項目が記され、出エジプト22:21-24には、主の裁きとしての死が含まれています。

 ローマ623aには、“罪の支払う報酬は死である。”(口語訳)と記されています。
続くローマ623bには、“しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。”(口語訳)と記されています。

 申命記2123の聖句の一部を引用してパウロは次のように記しています。
“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(ガラテヤ3132017)とあります。
 ガラテヤ313をリビングバイブルは、“しかし自分の悪い行いのために、私たちが受けなければならないはずののろいを、キリストはご自分の身に引き受け、私たちを律法ののろいから救い出してくださいました。聖書に、「木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である」と書いてあるからです。”と訳しています。

 1ペテロ224には、“木の上に懸(かか)りて、みづから我らの罪を己(おの)が身に負ひ給へり。これ我らが罪に就きて死に、義に就きて生きん爲なり。汝らは彼の傷によりて癒されたり。”(文語訳)と記され、その前の22.23節には、
“彼〔キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口に虚僞(いつわり)なく、また罵(ののし)られて罵らず、苦しめられて脅(おびや)かさず、正しく審きたまふ者に己を委ね、”(文語訳)と記され、1ペテロ224に続くのです。

 1ペテロ222-24をリビングバイブルは、
22 キリストは一度も、罪を犯したり、偽りを語ったりなさいませんでした。
23
侮辱されても、苦しめられても報復せず、公平にさばかれる神にご自分をお任せになりました。
24
キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは罪から離れ、正しい生活を始めることができたのです〔それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため(2017)〕。キリストが傷つくことによって、私たちの傷はいやされました。”と訳しています。

 話は変わりますが、
「私が受けた心の傷や体の傷はだれにもわからない」と言って、頑なになる人がいますが、一方、キリストが受けた傷によって心が癒された、という経験をされた人たちもいます。
イザヤ535に、
“・・、彼〔キリスト(筆者挿入)〕は私たちの背(そむ)きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。”(2017)とあるように。

 キリストが受けた傷は、体に損傷を受けた茨の冠の茨のとげとげによる傷やとげとげのついた鞭で打たれ続けた数多くの傷やとても太い釘で十字架に打ち込まれた傷や槍の傷だけではなく、ゲッセマネの祈りを見るときに、その心の痛みの激しさも少し垣間見ることが出来ます。
へブル人への手紙の著者は、「私たちの大祭司〔キリスト(筆者挿入)〕は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(へブル4162017)と述べました。
キリストの苦難を思い、キリストに祈るとき、心も癒されます。
主が癒してくださるのです。
キリストの受けた苦難は、私たちの為であったのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
三一の主なる神様の御愛に感謝します。
主のおかげで、生き生きと生きることが出来るような恵みを与えられていますことを感謝します。
それだけではなく、永遠の命が与えられていますことを感謝します。
すべて御父の御愛と御子の恵みと御聖霊の御働きによるものであることを覚えます。
神様の御名を賛美し、感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

死刑の項目が記されている箇所をあげてくださっている出エジプト記21:12-23.24と分けてあるのは、死には死で償い、24節以降は代償として記されているから分けられたのでしょうか?又、細かな質問ですみません。
〝「私が受けた心の傷や体の傷はだれにもわからない」と言って、頑なになる人〟は、傷が癒えず、光が見えなくて苦しいのでしょうね。その様な方々達にこそ、イエス様の愛が届いたら良いのだと思いました。
主であるイエス様によって癒されています、感謝しかありません。(御聖霊が働いてくださった事を実感します。感謝しかありません)
今日は、より主であるイエス様への感謝の心を忘れない様にしたいと思いました。

“出エジプト21:12-23、22:18-20.21-24等には死刑の項目が記されています。”→
この個所は書き換えておきます。丁寧さに欠けているな、と思いました。

とんでもございません。とても詳しく教えていただけております。無知な為の質問で申し訳ございません。
詳しく学ぶことができ、とても感謝しております。

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