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2023年8月21日 (月)

詩篇90 永遠なる神とはかない人間の肉体/永遠の命と第二の死

 詩篇90篇には次のように記されています。
1 祈り。神の人モーセの詩。
わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕よ、あなたは代々に我らの住まい。
2
 山々がまだ生まれず、あなたが地と世界を生み出される前から、いにしえからとこしえまであなたは神。
3
 「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い、人を塵に帰らせる。
4
 まことに、あなたの目には、千年といえど過ぎ去った一日のよう。夜回りの一時にすぎない。
5
 あなたは人を死の眠りに落とされる。人は朝に萌え出づる草のよう。
6
 朝には咲き誇り、なお萌え出づるが、夕べにはしおれ、枯れ果てる。
7 あなたの怒りに私たちは消え入り、あなたの憤りに恐れおののく。
8
 あなたは私たちの過ちを御前に、隠れた行いを御顔の光にあらわにされる。
9
 私たちの日々はあなたの激しい怒りに、ことごとく過ぎ去り、私たちは吐息のように年月を終える。
10
 私たちのよわいは七十年、健やかであっても八十年。誇れるものは労苦と災い。瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。
11
 あなたの怒りの力を誰が知りえよう。あなたを畏れるほどに、その激しい怒りを知っていようか。
12
 残りの日々を数えるすべを教え、知恵ある心を私たちに与えてください。
13
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、帰って来てください。いつまでなのですか。あなたの僕らを憐れんでください。
14
 朝には、あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。
15
 あなたが私たちを苦しめた日々と、私たちが災いを見た歳月に応じて、私たちを喜ばせてください。
16
 あなたの業があなたの僕らに、輝きがその子らに現れますように。
17
 我らの神、わが主の麗しさが、私たちの上にありますように。私たちの手の働きを私たちの上に確かなものにしてください。私たちの手の働きを力あるものにしてください。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2-6.10節をリビングバイブルは次の様に訳しています。
2 大地が造られ、山が生まれる前から、あなたは神であられました。あなたには初めも終わりもないのです。
3
あなたのひと言で、人は土に帰ります。
4
千年の昔も、あなたにとっては昨日のことにすぎず、ほんのひと時のようです。
5.6
私たちは流れの速い潮に乗って、見る間に過ぎ去り、一夜の夢のように、あわただしく消えていきます。朝のうちは青々と生い茂っていても、夕暮れには刈られてしおれる草のようです。
10
人生は七十年、中には八十まで生きる人もいるでしょう。しかし、一番良い時期でも、人生はむなしく、苦しみに満ちています。しかも、月日は矢のように過ぎて、私たちは、たちまち帰らぬ身となるのです。”とあります。

 永遠なる神とはかない人の一生の対比を読むことが出来ます。
「ヤハウェ(主)」(詩篇9013)には、永遠にして自存、の意があります(出エジプト313-15)。
青少年~熟年の世代で、充実した生活を送ることの出来ている人々は、一部の人たちを除いて5.6節のように感じる人はいないでしょう。
というか、そのように考えなくてよいように生きてきたのではないかと思います。

 しかし、キリスト者の中には、幼少のころから、人は死んだらどうなるのだろう、と真剣に考えさせたれた人も結構います。「考えさせられた」と書いたのは、私の発想では、主がそのような思いを持たせてくださったのではないかと考えるからです。

 「人生は七十年、中には八十まで生きる人もいるでしょう。」と10節にありますが、日本人の感覚では、1970年から1980年の頃であればモーセのように感じたことでしょう。平均寿命は時代によって変化しています。2022年に75歳の人に平均余命を加えた年数を厚労省の表で見ると、男性は約87.5歳、女性は約91歳となっています。
ただし健康寿命(2021年版)は、男性72.6歳、女性75.5歳となっています。
今のような医療のなかったモーセの時代で考えると、モーセの詩は健康寿命を考えると現代でも当てはまります。
(健康寿命の定義は「健康上の問題により、日常生活を制限されることなく暮らせる期間」のことを指します。日常生活を制限されることのない状態は、「介護が必要な状態にならないこと」と「自分の身の世話は、自分ですることができる」といった内容です。)
平均すると上記のような統計になります。

 一般的には、老年期に入り、体のあちらこちらが不具合になり、診察を受けると、その原因は「加齢でしょう」と言われるようになると、目の前に「死」が垂れ下がってきます。それを打ち消すべく旅行に行ったり、運動をしたり、カラオケに行ったり、というような人もいることでしょう。
しかし、また、死の恐怖が襲ってくるのです。

 伝道者の書(コヘレトの言葉)117-121.6-8をリビングバイブルには次のように訳しています。
117 生きていることは実にすばらしいことです。
8
長生きしている人は、一日一日を存分に楽しみなさい。ただし永遠と比べたら、地上のことはみな空しいことを覚えておきなさい。
9
若い人よ。若いことは実に素晴らしいことです。若い日を存分に楽しみなさい。したいことは何でもしなさい。欲しいものは何でも手に入れなさい。しかし、自分のしたことはみな、神の前で申し開きをしなければならないことを覚えておきなさい。
10
だから、悲しみと痛みとを取り除きなさい。しかし、これから長い人生が待ち受けている若い日にも、人は過ちを犯してしまうことを忘れてはいけません。
12
1 若い日を夢中で楽しむあまり、あなたの造り主を忘れてはいけません。生きていることを楽しむ余裕などない逆境の時がくる前に、神を信じなさい。
6
もう一度いいます。あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えなさい。銀色のいのちのひもが切れ、金の器が壊(こわ)れ、水がめが泉のそばで壊れ、滑車が井戸のそばで壊れてしまう前に。
7
やがて、ちりは元の地に帰り、たましい〔ヘブライ語原語は「ルーアハ」で霊{ここではいのちの息、の意でしょう}(筆者挿入)〕は、これを授けてくださった神のもとに帰ります。〔イエス・キリストを信じていない人の魂は「よみ」に行きます。新約時代、新生した人の霊と魂は「天」の主の元にいきます。旧約時代、神ヤハウェ(主)を信じて従った人の魂は黄泉の良い所{(アブラハムの懐)ルカ1622}に行ったのです。(筆者挿入)〕
8
伝道者は言います。すべて何もかもむなしい、と。”とあります。

 しかし、新約時代に入ると、キリストの十字架と復活が完了していますから、イエス・キリストを信じた人には永遠の命が与えられます(ヨハネ316.36640)。
永遠の命を与えられた人は、第二の死(黙示録2011-156参照)を受けることはありません。

 主イエス様は言われました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1125.262017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様に大感謝をささげます。
父御子御霊に代々御稜威(みいつ)と御栄とがありますように。
ハレルヤ!
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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コメント

モーセが書かれた詩もある事を初めて知りました。
モーセは80からの人であるイメージが強いので、やはり神の人ですね。
人は死んだらどうなるのだろう?と、トミーさんが書かれていたところを読み、「だから呼んでくださったのだ」と思いました。
私は生まれつき神経質なところがありますので、一般的な方とは捉え方等が異なる部分がある様です。両親も育てるのに一苦労した事をよく言われます。でも、そのおかげでイエス様に出会えたのだと実感します。感謝しがないです。
「死」を目の前にすれば、イエス様が救い主である事をもっと実感するのだろうと思いますし、逆にイエス様のもとへ行けるという気持ちに満ちるのかもしれないですね。
無宗教の父が亡くなった時に多々感じるものがありました。無宗教の父はとても強い人であったのだと、亡くなる時にとても強く思いました。(4、5日前には他者を気遣って冗談言ったり、もてなす心を持ち続けていました。父の特徴です。)
先ずは病気を知らされた時の愕然とした姿が目に飛び込んできました。それを見て、私ができる事をお与えくださいと祈りました。私ができる事は行う事が出来たのは、御聖霊が働いてくださったのだと振り返っても思えます。
そして死が間近になった頃、父本人も気づいているとは思いましたが、看護してくださる方が父にハッキリと「もうすぐですからね。準備しましょうね」という言葉が私の心を突き刺さします。父本人はどう捉えていたのだろう?と思えば思うほど…です。とにかく、随時祈り続けました。父は宗教は何も持ち合わせていませんでしたが、やはり末期になる頃には母が属する新興宗教を頼るようになりました。死を告げ知らされるという事は、なんと酷い事なのか…イエス様は、やはり神様。イエス様の偉大さを改めて実感しました。そしてイエス様の足元にも及ばなくとも、少しでも近づける事ができるという事を知っただけでも救いなのだと思いました。(当たり前の様に宣告された時にも、その後にもキリスト教をすすめました。古い日本の風潮を大事にする人でしたので、全く偏見がありました。かといって否定もされませんでしたけど)
良い事、楽しい事ばかりに満ち溢れて生きていたいと思う気持ちはありますが、この世はサタンが支配している事を知れば、苦を楽に変えてくださるイエス様を知れた事に深く感謝します。(長い文となり申し訳ございません)

イエス様を信じさせて戴けた恵みは感謝しかありません。
日本のクリスチャン比率は約0.8%と言われています。
しかしその中には新生していない人も数多くいるのです。
もし、1%でも100人に一人ですから、新生しているキリスト者は本当に少ないのだろうと思います。

クリスチャンの中で新生していないという事は、どの様な事でしょうか?

洗礼は受けているけれどもイエス様を主として受け入れていない人です。
中には、新生していないけれども洗礼を勧められて受けてしまったという人とか、幼児洗礼を受けたので、救われていると思っている人など、・・・です。

確かに、その様な方はいらっしゃいますね。
教えてくださり、ありがとうございます。

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