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2023年9月

2023年9月30日 (土)

詩篇98篇 救い主、裁き主、全地の王なるキリスト・イエス

 詩篇98篇には次のように記されています。
1 賛歌。新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。
2
 主は救いを知らせ、正義を国々の目の前に現された。
3
 イスラエルの家に対する慈しみとまことを思い出された。遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。
4
 全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。歓声を上げよ、喜び歌え、ほめ歌え。
5
 琴に合わせて主にほめ歌を歌え、琴と歌声をもってほめ歌え。
6
 ラッパと角笛の音に合わせて、王なる主の前で喜びの声を上げよ。
7
 海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものはとどろけ。
8
 川という川は手を打ち鳴らせ。山々はこぞって喜び歌え、9 主の前に。
主は来られる、地を裁くために。主は義によって世界を裁き、もろもろの民を公平に裁かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1-3節には次のように記されています。
1 賛歌。新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。主の右の手、聖なる腕が救いをもたらした。
2
 主は救いを知らせ、正義を国々の目の前に現された。
3
 イスラエルの家に対する慈しみとまことを思い出された。遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。”とあります。

 ユダの家と言うのではなく、イスラエルの家(2)とありますから、この救いはエジプトでの奴隷生活からの救いではないかと思います。

 主の御業によって出エジプトしたイスラエルの民が葦の海を渡り終え、イスラエルの民の後を追ってきたエジプトの軍勢を主が全滅させてくださった後に歌われた賛美が出エジプト15章に次のように記されています。
 “1 その時、モーセとイスラエルの人々はこの歌を主に歌った。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた。
2
 主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。この方こそ私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。私はこの方を崇める。
3
 主は戦人(いくさびと)。その名は主。
4
 ファラオの戦車と軍勢を海に投げ込まれ、えり抜きの補佐官は葦の海に沈んだ。
5
 深淵は彼らを覆い、彼らは石のように深みに落ちていった。
6
 主よ、あなたの右の手は力に輝く。主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
7
 大いなる威光によって敵を破り、怒りを放ってわらのように焼き尽くす。
8
 怒りの風で水はせき止められ、流れは水の壁のように立ち、深淵は海の中で固まる。
9
 敵は言った。『追いかけて、追いつき、戦利品を分け、思いのままに剣を抜き、この手で奪おう。』
10
 あなたが息を吹きかけられると、海は彼らを呑み込み、彼らは荒れ狂う海に鉛のように沈んだ。
11
 主よ、神々のうちで誰かあなたのような方がいるでしょうか。誰が、あなたのように聖であって栄光に輝き、賛美されつつ畏れられ、奇しき業を行うでしょうか。
12
 あなたが右の手〔詩篇981参照(筆者挿入)〕を伸ばされると地は彼らを呑み込んだ。
13
 あなたは贖われた民を慈しみをもって導き、力をもって聖なる住まいに伴われた。
14
 もろもろの民は聞いて震え、苦しみがペリシテの住民を捕らえた。
15
 その時、エドムの首長らはおののき、モアブの有力者は震え上がり、カナンの住民らは皆恐れおののいた。
16
 恐れとおののきが彼らに臨み、御腕の力強さによって石のように静かになりますように。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたの買い取られたこの民が通り過ぎるまで。
17
 あなたは彼らを導き、ご自分の山に植えられる。主よ、そこは、あなたの住まいとして自ら造られた所。主よ、そこは、あなたの手によって建てられた聖所。
18
 主は代々とこしえに治められる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇981-3のみならず、4-7節に記されている内容は、上記の喜びを彷彿とさせます。詩編984-7を再掲します。
4 全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。歓声を上げよ、喜び歌え、ほめ歌え。
5
 琴に合わせて主にほめ歌を歌え、琴と歌声をもってほめ歌え。
6
 ラッパと角笛の音に合わせて、王なる主の前で喜びの声を上げよ。
7
 海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものはとどろけ。”と記されています。

 7節に「世界」とありますから、4節の「全地」はイスラエルの全地の意味であろうと思います。
「全地」と訳されている語のヘブライ語は、「その地のすべて」と訳せますから。
「全地」を世界と捉えることはできないでしょう。
軍隊を滅ぼされた方のエジプトは喜べませんし、エドム、モアブ、カナンの地の住民たちも喜べなかったでしょう。
 エリコの例をあげると、ヨシュア28-11には次のように記されています。
8 二人〔エリコを調査に行ったイスラエルの斥候(筆者挿入)〕が寝てしまう前に、女〔エリコの住民のラハブ(筆者挿入)〕は彼らのいる屋上へ上り、9 二人に言った。
「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たち〔エリコの住民たち(筆者挿入)〕もあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたの前で葦の海の水を干上がらせたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたアモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、私たちは聞いています。11 それを聞いて、私たちの心は挫けてしまい、もはやあなたがたに立ち向かう勇気は誰にもありません。あなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕こそ、上は天、下は地において神であられるからです。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 7-9aも当時のことを回想したことに関するものであったと思います。次のように記されているからです。
7 海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものはとどろけ。
8
 川という川は手を打ち鳴らせ。山々はこぞって喜び歌え、9 主の前に。”とあります。

 この世の終わりには、海の中の生物は死にます。
山々は消えてなくなります(おそらく丘のように平坦になります)。ただしシオンの山は高くなりますが(イザヤ22)。
 黙示録163には“第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、海の生き物はことごとく死んでしまった。”(聖書協会共同訳)と記されていますから。
また、黙示録1620には“・・、山々は平地に代わりました。”(リビングバイブル)と記されています。

 9b.cの“主は来られる、地を裁くために。主は義によって世界を裁き、もろもろの民を公平に裁かれる。”(聖書協会共同訳)という個所はキリストの地上再臨及びそれ以降のことでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者は、サタンの支配から、神との断絶から、救い出された者です。
ただ救い出されただけではなく、神の子どもとされ、キリストの花嫁とされていますことを感謝します。
あなたの子どもとしてふさわしく歩む者としてお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月29日 (金)

申命記31:9-13 七年ごとの律法の朗読/現代の多くのキリスト者は日々聖書を読むことができる恵みを与えられています

 申命記319-13には次のように記されています。
9 モーセはこの律法を書いて、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちとイスラエルのすべての長老たちに渡した。
10
 そして、モーセは彼らに命じた。
「七年の終わりごとに、すなわち負債免除の年と定められた年の仮庵祭に、11 イスラエルのすべての人々が、あなたの神、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人々の前でこの律法を読み聞かせなければならない。
12
 男も女も子どもたちも、またあなたの町の門にいる寄留者も、すべての民を集めなさい。彼らが聞いて学び、あなたがたの神、主を畏れ、この律法の言葉をすべて守り行うためであり、13 まだ知らない子どもたちがこれを聞いて学び、あなたがたがヨルダン川を渡って行って所有する土地であなたがたの生きているかぎり、あなたがたの神、主を畏れるようになるためである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスラエルのすべての民に対する7年ごとの律法の朗読について命じられています。
律法を聞くのは、イスラエルの民全員が律法を守り行うための基本でした。
イスラエルの民は、律法を守れば祝福されるという契約を神ヤハウェ(主)とすでに結んでいたのです。 

 イスラエルの民は律法を聞いて学ぶとともに暗記している必要がありました。
7
年に一回の律法の朗読で、どのように暗記することが出来るのだろうか、と考える人もいるでしょう。
しかし、律法の根幹をなす10の言葉、いわゆる十戒については、主はモーセを通して次のように教えておられます。
 申命記6章には次のように記されています。
1 これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えられた戒め、掟と法であって、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で行うべきものである。
2
 あなたも、子も孫も、生きているかぎり、あなたの神、主を畏れ、私が命じるすべての掟と戒めを守って、長く生きるためである。
3
 イスラエルよ、あなたは聞いて、守り行いなさい。そうすれば幸せになり、あなたの先祖の神、主が告げられたとおり、乳と蜜の流れる地であなたがたは大いに増える。
4
 聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。
5
 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。
6
 今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい
7
 そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい
8
 その言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付け、9 また家の入り口の柱と町の門に書き記しなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 このようにすれば、たとえ子どもであっても暗唱することが出来たことでしょう。

 現代の私たち日本のキリスト者は、だれでも聖書を持っていると思います。
子供でも持っているでしょう。
印刷技術が発明されるまでは、個人で聖書を持つことなどできませんでした。
また、日本人についていえば、日本語に翻訳された聖書を与えられたので、私たちは日本語訳の聖書を読むことが出来るようになったのです。
なんとありがたい時代に生かされていることでしょうか。
私たちは、毎日、聖書を読むことが出来ます。
聖書の創世記から黙示録迄を1度読み終えたら、それで終わりにしないで、それを何度でも繰り返すのです。
聖書を70回以上通読した人の話ですけれど、読むたびに、主は、新たに光を与えてくださるそうです。
聖書は、1度通読したから、それでおしまい、とする人も多いと思いますが、もったいない話です。
また、中には、聖書の根幹は、神を愛し、人を愛することである、とわかったから、それを心に留めておけば、それでよいと考える人もいるようです。

 御言葉を読み、御言葉に応答して祈る、ということを生涯つづけていきたいですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
聖書を与えてくださいましたことを感謝します。
日々御言葉を読み、御言葉に応答した祈りを欠かすことなく歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 詩篇119130
新改訳初版~第三版は、“みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。”と訳し。
新改訳2017は、“みことばの戸が開くと光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。”と訳し、
新共同訳は、“御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。”と訳しています。

2023年9月28日 (木)

マタイ26:36-46 ゲッセマネで祈られた主イエス様

 マタイ2636-46には次のように記されています。
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37
 ペトロとゼベダイの子二人〔ヤコブとヨハネ(筆者挿入)〕とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。
38
 そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」
39
 少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」
40
 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。
41
 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
42
 さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」
43
 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
44
 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45
 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。
46
 立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様が十字架上で世の罪の贖いを成し遂げることは、イエス様といえども簡単なことではなく、それは極めて大変なことであったことが分かる箇所です。
 
 最後の晩餐の後、イエス様は弟子たちとゲツセマネ(油しぼりの意)というところに来ました。この場所はオリーブ山の西麓にあります。
イエス様が祈った場所とされる板状の岩のある所には、現在、万国民の教会が立っています。その隣には、今でもオリーブの園があり、私には何年たった木かは全く分かりませんが、「これは2000年前のオリーブの木です」とガイドさんが説明する木も残っていました。

 イエス様が、すべての時代のすべての人の罪を負って十字架につかれるということは、イエス様にとっても、容易なことではありませんでした。
37.38
節には、“ペトロとゼベダイの子二人〔ヤコブとヨハネ(筆者挿入)〕とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」”と記されています。
弟子たちはこのようなイエス様を見たことがなかったでしょう。しかし、弟子たちは眠ってしまいました(37)。

 イエス様は、父なる神様に、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。」とうつ伏せになり祈り続けたのです(39)。しかしその祈りの内容で終わってしまう祈りではなく、「しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」(39)と、父なる神様のみ旨を第一にするという祈りの内容で祈ったのです。

 「杯」には、飲むべきものを入れます。
毒を入れた杯というものもありますが、普通、杯の中には、良いものを入れるでしょう。
ダビデは、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇235.6・新改訳初版~第三版)と主を賛美しました。

 一方、イエス様の「杯」は、飲まねばならない神の裁き、十字架上における神の裁きのことを指していたと思います。
聖書には、「杯」という語を、神の裁きの意で用いている箇所があります。例えば、
イザヤ5117には、「目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」(2017)とあり、
エレミヤ2515.16には、「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」(2017)とあります。

 肉が飛び散り、血が流れる、金属等の付いたむちで打たれる痛み、太い釘で十字架に打ち付けられる痛み、吊り下げられ肉が引き裂かれる痛み、脱水の苦しみ、十字架につけられて呼吸困難になる苦しみ等々をイエス様は受けられましたが、それらの肉体的苦しみのみを想像して恐れ苦しみ悶えたのではないと思います。
そのようなことは、殉教者たちの中にも拷問や殺戮の方法は異なっても経験した人たちがいたでしょう。殉教者たちの中には、喜びをもって殉教した人たちもいたという記述が残っています。聖書の中ではステパノの例を見ることが出来ます。
ステパノの殉教のシーンは、
“55
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59
こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒7章・新改訳第二版)というものであり、主を見上げ、喜びの内に天にあげられたことでしょう。

 キリシタン禁令下の日本でも、12歳や13歳の子どもが、喜びをもって十字架につけられ殉教したという記録が残っているようです。
このような場合、ステパノと同じようにイエス様が現れてくださったのかも知れません。
今の時代でも同じようなことがあります。ISIS(アイシス、イスラム国)に処刑された殉教者たちの中にも、肉体の死を迎える前に、イエス様の現れを体験してから殉教した人がいる、という証が残っているそうです。

 しかし、イエス様の場合は全く異なるのです。
イエス様の場合は、罪を犯したことの無いお方が、世の罪を身代わりに負って罰を受けるのですから。
私が信仰を持って間もない頃のこと、私が、旧約時代の罪の為のいけにえのささげ方について記されている本を読んでいた時、私は、とてもつらくなったことがありました。もし罪の為のいけにえに差し出す動物が、かわいがって育て、一緒に暮らしていた羊であったとしたら。・・・。
私は、イエス様に、「自分の罪の身代わりとして、愛しているものを差し出して、罪の罰としての死を受けさせることは、私には辛いことです。まして、イエス様に身代わりになってもらうなんて。・・・私が裁きを受けて死ねばいいのです。」というような祈りをしたことがあります。その時、未信者の方には、また幻聴と思われるかもしれませんが、「あなたは、地獄を知らない。私に任せておきなさい。」というイエス様のおことばを聞いたような気がしたのです。
父なる神様は、最も愛している「ひとり子の御子」を罪の為のいけにえとして差し出したのです。

 イエス様は、私一人の罪の罰を身代わりに負うだけでも大変なことであったと思います。イエス様は、過去現在未来の歴史上のすべての人の罪を身代わりに負って裁かれたのです。
罪を犯したことの無いお方が、あらゆる時代のすべての人の罪を身代わりに負ってその罰を受けるということを想像するだけでも、イエス様の十字架は大変なことであったと思います。

 ルカ2239-44には、
“39
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
40
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43
すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
44
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(新改訳第二版)とあります。
43
節には、「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。」とあります。
父なる神様が天使を送られて力づけられたのです。
それでも、次の節には、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。

 弟子たちが眠ってしまった理由の一つとして、「悲しみの果てに」(ルカ2245)とルカは記しています。また、マルコ1438には、「心〔原語はプニューマ即ち霊(筆者挿入)〕は燃えていても、肉体は弱いのです。」(新改訳初版~第三版)というイエス様のおことばもあります。

 41節には「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」(聖書協会共同訳)とあります。
この節を岩波訳は「目を覚ましておれ、祈っておれ。試みに陥ってしまわないためだ。霊ははやっても、肉が弱いのだ。」と訳しています。
主イエス様は、弟子たちのことを考えて、そのように言ったのでしょう。

 イスカリオテのユダの先導によって、イエス様を捕縛するために祭司長たちから遣わされた者たちが到着する前に、イエス様は祈り終えていました。イエス様は、彼らが到着した時には、この難局に対してすでに勝利していたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様。
主イエス様の贖いを感謝します。
イエス様の贖いがなければ、私の結末は、永遠の死、すなわち永遠に神ヤハウェ(主)と断絶する、ということであったことを覚えます。
主イエス様は、十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声を上げられました。
御父から断絶されてしまうという罰が最も恐ろしい罰であることを覚えます。それは暗闇であり、また火の池でもあります。
イエス様を信じさせていただけたことのゆえに、罪赦され、義とされ、永遠の命を与えられ、神の子どもとされていますことを感謝します。
その上、天に帰らせて頂いた後には、花婿キリスト様との結婚の儀が備えられていますからありがとうございます。
私たちに良きものをもたらす為、十字架上で罪を引き受け、贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月27日 (水)

箴言25:13 主は主に忠実な者を喜ばれる

 箴言2513には
“忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう。その人は主人の心を生き返らせる。”(2017)と記されています。
 前回、この個所は、次の様にupしました。
“箴言2513を新共同訳は「忠実な使者は遣わす人にとって、刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。」と訳しています。
「魂」と訳されている語の原語は「ネフェシュ」で、人の構成要素としては「魂」ですが、それ以外に、生物、動物、生きる力、元気、活力・・等の意があります。

イスラエルの夏の収穫時期の気温はかなり高いのです。

リビングバイブルは「使用人がよく言いつけを聞いてくれるのは、真夏のすずしい日のように気持ちのいいものです。」と意訳しています。

使用人の方も、主人の言いつけに対して、気持ちよく「はい」と言って行動する方が、心も体も元気でいられるでしょう。但し、平時に、過重労働させる主人は除きます。”(2019.5.16。トミーの聖書理解)と記しました。

 今回は、主キリスト・イエス様から遣わされたキリスト者と主人であるキリストの関係で話を進めていきたいと思います。

 主イエス様は、主に忠実な人を好まれます。
いくつか主イエス様の御言葉を下記します。
 ルカ1610には“最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。”(2017)と記され、

 ルカ1235-48には、主キリスト・イエス様の空中再臨時に、目を覚まして忠実に主に命じられた御用を果たしている僕(しもべ)を、主が厚遇してくださるという話が次のように記されています。
35 「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。36 主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37
 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。
38
 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39
 このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。
40
 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41
 そこでペトロが、「主よ、このたとえは私たちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42
 主は言われた。「主人から、時に応じて穀物を配分するようにと、召し使いたちを任された忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか。
43
 主人が帰って来たとき、そのように働いているのを見られる僕は幸いである。
44
 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を任せるに違いない。
45
 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、男女の召し使いを叩いたり、食べたり飲んだり、酔ったりし始めるならば、46 その僕の主人は、全く思いもよらない日と時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47 主人の思いを知りながらそのとおりに用意もせず、働きもしなかった僕は、ひどく叩かれる。48 しかし、知らずにいて打たれるような働きをした者は、叩かれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 御言葉の御用を任された者は、その御用を忠実に継続することを求められています。
説教台から聖書以外の内容を語るとか、聖書の真理から逸脱したことを善として語るようなことがあると、そのように語っている人は、懲らしめを受けることになる、ということを教えてくれています。

 ルカ1911-27では、主から与えられたものを用いて忠実に働いているか否かについて主の前に言い開きをしなければならに時があることを教えています。
 ルカ1911-27には次のように記されています。
11 人々がこれらのことに聞き入っていると、イエスは続けて一つのたとえを話された。ご自身がエルサレムに近づいて来られたのに、人々は神の国がすぐにも現れるものと思っていたからである。
12
 それで、イエスは言われた。「ある身分の高い人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へと旅立つことになった。
13
 そこで、十人の僕を呼んで十ムナ〔ミナ(新改訳・口語訳)〕の金を渡し、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14
 しかし、その国の市民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に戴きたくない』と言わせた。
〔リビングバイブルは“ところがそこの住民の中には、その人が王になるのを快く思わない人々があり、反対の声を送りつけました。”と意訳しています。(筆者挿入)〕
 15 さて、彼が王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16
 最初の者が進み出て、『ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17
 主人は言った。『よくやった。良い僕だ。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町を支配させよう。』
18
 二番目の者が来て、『ご主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19
 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20
 また、ほかの者が来て言った。『ご主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21
 あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22
 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23
 ではなぜ、私の金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24
 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25
 僕たちが、『ご主人様、あの人はすでに十ムナ持っています』と言うと、
26
 主人は言った。『言っておくが、誰でも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
 27 ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 2コリント510には、キリスト者が、キリストの裁きの座で一人一人報酬のための裁きを受けるということが記されています。

 キリストの千年王国や新天新地における王の王は御子キリスト、さらには父なる神です。
ルカ191427に関連したことを書きますが、御子の王国や御父の王国に、御子を嫌う者は、入りたくもないでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
地上においては、あなたに命じられたことを果たしていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月26日 (火)

詩篇97篇 大患難時代の終わりからキリストの千年王国初め頃の時代の預言詩

 詩篇97篇には次のように記されています。
1 主は王となられた。地は喜び躍れ。多くの島々は喜べ。
2
 雲と密雲は主を囲み、正義と公正が王座を支える。
3
 火が主の前を進み、敵対する周りの者を焼き尽くす。
4
 主の稲妻が世界を照らし、それを見て地はおののく。
5
 山々は蝋(ろう)のように溶けた。主の前に、全地の主の前に。
6
 天は主の義を告げ知らせ、もろもろの民は皆、その栄光を見た。
7
 偶像に仕える者、空しい神々を誇る者は皆、恥を受ける。すべての神々は主にひれ伏す。
8
 主よ、あなたの裁きのゆえにシオンは聞いて喜び、ユダの娘たちは喜び躍る。
9
 まことに、主よ、あなたは全地の上におられるいと高き方。すべての神々にまさり、崇められる。
10
 主を愛する者よ、悪を憎め。主は忠実な者の魂を守り、悪しき者の手から救い出す。
11
 光は正しき人に、喜びは心のまっすぐな者に蒔かれる。
12
 正しき者よ、主によって喜べ。主の聖なる名に感謝せよ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1節には「主は王となられた。」とあり、
5
節には「山々は蝋(ろう)のように溶けた。」とあり、
6
節には「天は主の義を告げ知らせ、もろもろの民は皆、その栄光を見た。」とあり、
7
節には「偶像に仕える者、空しい神々を誇る者は皆、恥を受ける。すべての神々は主にひれ伏す。」とあり、
8
節には「主よ、あなたの裁きのゆえにシオンは聞いて喜び、ユダの娘たちは喜び躍る。」とありますからこの詩は、預言詩で、キリストの地上再臨直前からキリストの千年王国の初めのころの預言がなされているのではないかと想像します。

 5節には「山々は蝋(ろう)のように溶けた。」とありますが、黙示録1620には、“山々は見えなくなった。”(2017)とあります。
リビングバイブルは「山々は平地に変わりました。」と訳しています。
 これは、イザヤ22の、
“終わりの日に、主の家の山〔シオンの山。エルサレム。(筆者挿入)〕は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。”(2017)とも一致するように思えます。

 主の全能の力を信じていない人は、一瞬にして山々が低くされるというようなことは、荒唐無稽のように思えることでしょう。
主には、このようなことをすることが出来るのだ、と信じることの出来る人は、創世記1章の三位一体の神の創造の御業もそのまま信じることが出来るでしょう。
また、そのようなことを信じることの出来る人でないと、主が今の宇宙を消失させ、その後に新天新地を新しく創造なさるということを信じることはできないでしょう。
現在の天と地や地に住む全てのものの創造や人の創造は、自然に起きたことではなく、主の御業であると信じることが出来ることは本当にありがたいことです。

 “山々は見えなくなった。”(黙示録1620)と前述しましたが、黙示録のこの裁きは、巻物の裁きの最後のところです。
巻物の最後の裁き(第7の鉢の裁き)の様子は次の様に記されています。
17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大きな声が聞こえ、「事は成った」と言った。
18
 そして、稲妻、轟音、雷鳴が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
19
 あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い起こし、怒りに満ちたぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
20
 島々は逃げ去り、山々も消えうせた。
21
 一タラントンほど〔約35kg(筆者挿入)〕の重さもある大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々はその雹の災いのゆえに神を冒涜した。被害があまりにも大きかったからである。”(黙示録16章・聖書協会共同訳)とあります。

 おそらく上記の預言に関連するものであろうと思いますが、イザヤ24章には次のような預言があります。
17 地に住む者よ、恐怖と落とし穴と罠があなたに臨む。
18
 恐怖の叫びから逃れる者は落とし穴に落ちる。落とし穴の中から這い上がる者は罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
19
 地は裂けに裂け、地は破れに破れ、地は揺れに揺れる。
20
 地は酔いどれのようによろめき、仮小屋のように揺れ動く。地の背きは地の上に重く、地は倒れて再び起き上がることはない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリストの地上再臨はこの後に起こります。
主キリスト・イエス様が言葉を発すると、反キリストやそれに就く軍勢は殺されるのです。
黙示録1915には、“この方〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。”(2017)とあり、
2
テサロニケ28には、“その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。”(2017)と記されています。

 私たちキリスト者は、主が地上再臨されるときには、主に従っていき(黙示録1914)、主の偉大な力を目撃するのでしょう。

 その後、詩篇971に記されているように、主は全地の王となられ、キリストの千年王国が始まっていくのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日の個所は、キリストの地上再臨直前からキリストの千年王国初めの頃の預言がおもに記されていますが、キリストの地上再臨の前には、キリストの空中再臨があり、その時に私たちを携挙してくださいますから感謝します。
その時を待ち望んでいます。
マラナ・タ
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月25日 (月)

申命記31:1-8 後継者としてヨシュアを任命し、イスラエルの民及びヨシュアを激励する

 申命記311-8には次のように記されています。
1 モーセは進み出て、これらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げた。
2
 「私は今日、百二十歳で、もはや思うように出入りすることができない。主は私に『あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない』と言われた。
3
 あなたの神、主があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国民を滅ぼされる。それであなたは彼らを追い払うことができる。主が告げられたとおり、ヨシュアがあなたの先を渡って行く。
4
 主はアモリ人の王シホンとオグ、また彼らの国を滅ぼしたのと同様に、彼らに対しても行う。
5
 主は彼らをあなたがたに引き渡される。あなたがたは、私が命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければならない。
6
 強く、雄々しくあれ。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に進まれる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。」
7
 モーセはヨシュアを呼んで、イスラエルのすべての人々が見ている前で彼に言った。「強く、雄々しくあれ。主が先祖に与えると誓われた地に、この民を導き入れるのはあなたである。あなたはそれを彼らに受け継がせなさい。
8
 主ご自身があなたに先立って行き、あなたと共におられる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
モーセがまもなく地上生涯を終えるにあたって、モーセは、自分に代わって、ヨシュアがイスラエルを率いていくのだ、ということをヨシュア及びイスラエルの民に語っていますが、ヨシュアの前を神ヤハウェ(主)が進んで行くのだから、「強く、雄々しくあれ。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に進まれる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。」(6-8)ということを、主はモーセを通して教えてくださっておられますから御名を賛美します。
 私たちの場合も、主イエス様が先だって進んでくださいますから感謝します。
主が、私たちに与えられた霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です(2テモテ17・新改訳)からありがとうございます。
 しかしながら、サタンが臆病風を吹きつけてくると、すぐに憶病になり、あなたから与えられっている恵みをすっかり忘れてしまうような者です。
そのような場合でも、すぐに悪魔(サタン)の働きに気づかせてくださり、堅く信仰に立って悪魔に立ち向かう(1ペテロ59)者として立たせてください。
 今の世は、サタンの働きの拡大を、サタンに、主が許しているような時代ではないかと思われます。
終わりの時代は困難な時代ですから(2テモテ31)、益々、主の御言葉に堅く立って歩んでいくことが出来ますように。
 いろいろな問題や艱難が押し寄せてきますが、主に対する信頼と主が与えてくださっておられる希望と主に源を発する愛に満たされて歩ませていただく恵みをお与えください。
 私たちの内には主が住んでくださり、私たちは主の内に置かれていて地上生涯を送ることが出来るのですから、いつもそのことを忘れることなく、主に愛されている者として、私たちも主を愛し、主に信頼し、具体的には主の約束の御言葉に信頼して一日一日を歩みつづけていくことが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月24日 (日)

マタイ26:30-35 弟子たちの躓きの預言

 マタイ2630-35には次のように記されています。 
30 一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。
31
 その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。
32
 しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
33
 するとペトロが、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。
34
 イエスは言われた。「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」
35
 ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、31節の個所で、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」とゼカリヤ137の預言を基に語られました。
あなたの予知が完全であることを覚えて感謝します。
また、あなたは、「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』」(イザヤ46102017)と言われました。
あなたの御言葉は常に真実でありますから御名を崇め賛美します。
 主イエス様の弟子たちは、自分のことは、自分には分かる、と思っていた人たちであったようです。
特にペトロは、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(33)と主イエス様に言いました。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(33)と言っています。
それに対して主イエス様は、「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(34)とおっしゃいました。
 主イエス様が、ペトロは躓くよ、と語られても、ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(35)と言ったと記されています。
それだけではなく、弟子たち全員が、「私も躓きません。」と口々に言ったということが記されています。
 この弟子たちの心は、かつての私の中にもありました。
今では、自分のことについてさえ、1秒先もわからない者であるということを痛感しています。
あなたがご計画された大きな流れについては、あなたが教えてくださっておられますからおおよそのことは分かりますが、あなたが啓示してくださっておられないことについては、先のことは全く分からない者、それが自分であるということを痛感しています。
 「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。」(詩編3752017)と教えてくださっておられますから感謝します。
先のことは分かりませんが、私について先々までも見通しておられる愛なる主が私の面倒を見てくださいますから感謝します。
今日も、あなたを愛し、あなたに信頼して、歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月23日 (土)

箴言25:11.12 箴言25:11.12 時宜にかなったことばと知恵ある𠮟責

 箴言2511.12には次のように記されています。
11 時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんご。
12
知恵をもって叱責する者は、聞く者の耳にとって金の耳輪、黄金の飾り。”(2017)とあります。

体調不良が続いておりますので内容の文字数を少なくさせて頂いております。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御言葉を通して、日々お整え下さいますことを感謝します。
私は、時宜にかなわない言葉を発してしまうことが時々ありますが、時宜にかなったことばを語ることが出来る者とさせてください。
他の人に忠告するときには、愛に満たされ、あなたからの知恵を与えられて、お話しすることが出来ますように。
また、他の人から忠告を受けた時には、へりくだってその内容を吟味し、あなたの御言葉に照らし合わせ、直すべきところがあれば、主に祈りつつ、主にも働いていただいて、変えさせていただくことが出来ますように。
様々なことを通して主は、私たちを御父の子どもとしてふさわしくなるようにお整え下さいますから感謝します。
豊かな愛と深きご配慮とをもって導いてくださるあなたの御名を崇め私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月22日 (金)

詩篇96篇 創造主なる神を畏れ敬い礼拝し、主なる神をのべ伝える

 詩篇96篇には次のように記されています。
1 新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。
2
 主に歌い、その名をたたえ、日ごとに救いの良い知らせを告げよ。
3
 国々に、主の栄光を、すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
4
 まことに主は大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさり畏れ敬われる方。
5
 もろもろの民の神々はすべて空しい。主は天を造られた。
6
 威厳と輝きは主の前にあり、力と誉れはその聖所にある。
7
 もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。
8
 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主の庭に入り、9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
10
 国々に告げ知らせよ。「主は王となられた。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。主はもろもろの民を公平に裁かれる」と。
11
 天は喜べ。地は喜び躍れ。海とそこに満ちるものは、とどろけ。
12
 野とそこにあるものも皆、喜び勇め。森のすべての木々も、喜び歌え、13 主の前に。
主は来られる。地を裁くために主は来られる。主は義によって世界を、まことをもってもろもろの民を裁かれる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神の箱をダビデの町に運び入れて天幕の中に安置した時に、ダビデがアサフとその兄弟たちを用いて主をほめたたえさせた時の賛美が1歴代誌168-36に記されていますが、その中の23-33節に詩篇96篇は近似しています。というか、わずかに修正を加えたのが詩篇96篇ではないかと想像したくなるような詩編です。
尚、1歴代誌168-22は詩篇10511-15に近似しています。

 1-4節には次のように記されています。
1 新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。
2
 主に歌い、その名をたたえ、日ごとに救いの良い知らせを告げよ。
3
 国々に、主の栄光を、すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
4
 まことに主は大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさり畏れ敬われる方。”とあります。

1
節の「全地」というのは、イスラエルの全地のことでしょう。ヘブライ語を見ると、定冠詞のついた土地のすべて、となっていますし、3節には、国々に・・・語り伝えよ、とありますから。

 2節には“主に歌い、その名をたたえ、日ごとに救いの良い知らせを告げよ。”とあります。
「救い」と訳されているこの個所の単語は、ヘブライ語では「彼の救い」の語になっています。「救い」は「イェシュア」というヘブライ語がつかわれています。日本人は、イェシュアをイエスと呼んでいます。原語を見たら、新約的だなー、と思って記しました。
日々、主イエスの福音{良い知らせ(2)}を、主イエスの奇しき業を伝えよ(3)と捉えても許されるでしょうから。

 4節と11節を合わせて読むと、“4 まことに主は大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさり畏れ敬われる方。11 天は喜べ。地は喜び躍れ。海とそこに満ちるものは、とどろけ。”となります。
携挙の後の大患難時代の最後に天使によって全世界に宣教される宣教の言葉が、黙示録147に記されています。その内容を見ると詩篇964.11の内容に近似しているように思えます。
 黙示録146.7には次のように記されています。
6 また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音〔a good message(筆者挿入)〕を携えていた。
7
彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(2017)とあります。
いつの時代でも、創造主なる神を畏れ敬って礼拝する、ということの重要性と恵みとを教えられます。
 余談になりますが、キリスト者は、イエス・キリストの福音を聞いてイエス・キリストを信じた者たちで、キリストの花嫁です。

 詩篇965には“もろもろの民の神々はすべて空しい。主は天を造られた。”とあります。
この聖句を読むと、イザヤ40章の下記の個所を思い浮かべます。
18 あなたがたは、神を誰に似せ、どのような像と比べようというのか。
19
 鋳物師が偶像を鋳て造り、細工師がそれに金をかぶせ、銀の鎖を細工する。
20
 貧しい者は献納物として朽ちない木を選び、巧みな職人を探し出し、動かない偶像を据え付ける。
21
 あなたがたは知らないのか、聞かないのか。初めからあなたがたに告げられてはいなかったのか。あなたがたは地の基〔地の基の置かれた様(新共同訳)〕を理解していなかったのか。
22
 主は地を覆う天蓋に住まわれる方。地に住む者はばったのようなもの。主は天を幕のように伸ばされる方。これを天幕のように広げて住まわれる。
23
 主は君主たちを無とされる方。地を治める者を空しいものとされる。
24
 彼らは植えられる間もなく、蒔かれる間もなく、地に根を張る間もない。主がこれらに風を吹きつけると枯れ、暴風がわらのように巻き上げる。
25
 「あなたがたは私を誰に似せるのか。私が誰と等しいというのか」と、聖なる方は言われる。
26
 あなたがたの目を高く上げ、誰がこれらを創造したかを見よ。万象を数えて導き出される方は、すべてを名前で呼ばれる。その大いなる強さと力から逃れうる者は誰一人ない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 13節には“・・。主は来られる。地を裁くために主は来られる。主は義によって世界を、まことをもってもろもろの民を裁かれる。”とあります。
黙示録1911-21に記されているキリストの地上再臨時の裁き、マタイ2531-46に記されている千年王国の初めの裁き、及び黙示録2011-15の裁きが携挙の後に用意されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様を信じさせていただいた恵みの大きさははかり知れません。
これから後もさらに主の恵みを味わいながら歩ませていただけますことを感謝します。
イエス様の救いにあずかりたいと願っている人たちが、イエス様を心の中にお迎えすることが出来ますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月21日 (木)

申命記30:15-20 命を選びなさい/人の選択、神の予知、神の選び、神の予定

 申命記3015-20には次のように記されています。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
16
 私が今日あなたに命じているとおり、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される。
17
 しかし、もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされ、他の神々にひれ伏し、仕えるならば、18 私は今日、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って所有する土地で長く生きることはできない。
19
 私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
20
 あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 リビングバイブルはこの個所を次の様に意訳しています。
15 いいですか、これは生きるか死ぬかの問題です。主に従って生きるか、従わないで死ぬかの、どちらかしかありません。
16
私はきょう、主を愛し、その道に従い、律法を守るようにと命じました。そのとおりにすれば生きることができます。主はあなたと、もうすぐあなたがたのものになる地とを祝福し、大きな国民としてくださるでしょう。
17
しかし、心が離れ、その教えに耳も傾けず、外国の神々を拝んだりすれば、18 今はっきり断言しますが、必ず滅びます。あなたのものになる国で、いつまでもしあわせに生きることはできません。
19
さあ、天と地が証人です。どちらを選びますか。生きることですか、それとも死ぬことですか。祝福ですか、のろいですか。もちろん、あなたのためにも子孫のためにも、生きるほうを選ぶべきです。
20
主はあなたのいのちです。あなたの神、主を愛し、信頼し、ご命令に従いなさい。そうすれば、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに約束された地で平安に生きられます。
”とあります。

 一読すれば文章の内容は理解できると思います。
しかし、読んで理解できることと、律法を全うすることとは別です。
神ヤハウェ(主)に「あなたは命を選びなさい。」(19)と言われても、いのちを選んだ人はいなかったのです。
律法を全うできたのは、イエス・キリスト様ただ一人であったのです。

 罪(罪の性質)をもって生まれた人間{詩編515(新改訳・口語訳)新共同訳・聖書協会共同訳は517、ローマ512参照}は、罪を犯さずに生きることはできませんでした。

 父なる神様と御子なるイエス・キリスト様は、新たなる救いの道を備えてくださいました。
 それは、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に復活し、弟子たちに現われたキリスト・イエスを信じれば救われる(1コリント153-5)ということでした。

 何と、今日の本文の個所から、「〔主イエス(筆者挿入)〕こそあなたの命」(20)、「あなたは命を選びなさい。」(19)と抜粋することが出来ます。

 ヨハネ316には、“実に神はひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず永遠のいのちを得るためです。”と記されています。

 主イエス様が、私たちの罪のために十字架上で贖いを成し遂げられたことについての預言は、イエス様が十字架につけられる約700年前の預言であるイザヤ53章に記されています。
 ペトロ(ペテロ)は、イザヤ53章を引用して次のように記しました。
22 「この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」
23
 罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方に委ねておられました。
24
 そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり監督者である方のもとへ立ち帰ったのです。”(1ペトロ2章・聖書協会共同訳)とあります。

 パウロは、主イエス様を信じることによって救われるという、救われる方法を次のように記しています。
9 口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10
 実に、人は心で信じて義とされ口で告白して救われるのです
11
 聖書には、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。
12
 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13
 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。”(ローマ10章・聖書協会共同訳)とあります。

 またパウロは次のようにも書いています。
8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物〔贈り物(筆者挿入)〕です。
9
 行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
10
 私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”{エフェソス(エペソ)2章・聖書協会共同訳}とあります。

 救いを求める人の多くは、善い行いをすることによって救われようとします。
しかし、人は、主が良しと認めるような善い行いをするようなことは出来ないのです。
常に神様を愛し、神様を自分よりも第一とし、隣人に対しては自分と同じように愛するということなどできるでしょうか(マタイ2236-40参照)。特に主イエス様を信じる前の人が(主イエス様を信じた後もなかなか難しいものです)。愛の行為については、1コリント134-7にあらましが記されています。

 話を変えます。
命と幸い、死と災い、のどちらを選ぶかは、その人自身の選択にかかっているのです。
 申命記3015.19を抜粋して下記します。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
19
・・・、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。・・・。”とあります。

 神様は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます(1テモテ2:4)。
しかし、救いか、滅びかの選択権は人の側にあります。
神様が人に自由意思を与えられましから、人は選択権を持っているのです。

 キリストの福音が個々人に提供されたとき、主キリスト・イエス様を自分の救い主として選択する人を、父なる神様は、天地創造の前から予知し、予知した人をキリストのうちに選び、キリストの血によって、御前で聖い者として整えるというご計画をたてられたのです(創世記126.27、申命記30191ペテロ12、エペソ14.5、ローマ829.30参照)。

 ヨハネ524には、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕のことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(2017)と記され、
 ヨハネ640には、「わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(2017)と記されています。

 ヨハネ318には、“御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。”(2017)と記されています。
 生まれながらに、イエスはキリスト(油注がれた者。メシア)であり、神のひとり子であり、主であり、救い主であると信じている人はいません。
すなわち、人とはアダムの堕罪のゆえに、生まれながらに裁かれている(罪定めされている)者なのです。しかし、ある時点で、主イエス様を信じたことにより、罪赦され裁きにあうことがなくなるのです。それどころか、義とされ、永遠の命にあずかり、神の子どもとされ、やがては霊のからだをいただき、天に移された後、花婿キリストとの結婚式があるのです。

 聖書の御言葉を信じない人にとってはおとぎ話のように思えることでしょう。
しかし、聖書の御言葉を信じ、キリスト・イエス様を信じる人にとっては、上記した祝福受けることになるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父が御子イエス様による救いの計画をたてられ、御子イエス様は贖いとなって私たちが救われるための準備を成就してくださいました。
私たちが救いを探究しているときに、聖霊様は光を当ててくださり、罪を示し、救い主を示してくださいました。
三一の神様に感謝します。
御名が世々限りなくほめたたえられますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月20日 (水)

マタイ26:26-30 主の晩餐

 マタイ2626-30には次のように記されています。
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」
27
 また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
28
 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。
29
 言っておくが、私の父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
30
 一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主の晩餐の並行記事は、ルカ2214-20、マルコ1422-251コリント1123-25にも記されています。

 ルカ2215には、“イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」”(2017)とあります。
イエス様は、「切に願っていた」のです。
この食事の間に、イエス様が弟子たちに教えた内容は、極めて重要な内容であり、ヨハネの福音書をも合わせて考えると教えられた分量も多いことが分かります。ご自分が十字架に架かられる前に言っておこうと考えられたことを語ったのだと思います。その時には弟子たちが理解できなかったことでも。

ヨハネ13:7に、イエス様が、「わが爲すことを汝いまは知らず、後に悟るべし。」(文語)と語られた御言葉が記されています。これを語った時だけではなく、その後に語られた内容もイエス様が復活し、聖霊が注がれた後にならなければ分からないことが沢山あったと思います。

 16節には、“あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。”(2017)とあります。

聖書現代訳はこの箇所を、「よくいっておきますが、私は間もなく、イスラエルの民が繰り返し守って来た過越しの祭りの中心である子羊としてほふられます。そうすれば、やがて、私はあなた方を御国に招きます。それまでは、あなた方とこうして親しく食事をし、交わることはもうありません。」と解釈を加えて訳しています。

 ルカ2217-20を新共同訳は次のように記しています。
17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱(とな)えて〔感謝の祈りをささげて(2017)〕から言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
18
言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
19
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて〔感謝の祈りをささげた後(2017)〕、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
20
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。とあります。

 パンもぶどう酒もイエス様を象徴したものでした。
イエス様は、この食事以前にも、弟子以外の人をも対象として、パンとぶどう酒について語られたことがありました。
 それは、ヨハネ6章に分かり易く記されています。その箇所(抜粋)を下記します。
35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。/
48
わたしはいのちのパンです。
49
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」/
53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。/
58
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(新改訳第二版)とあります。

 イエス様が地上に来られる前は、三位一体の第二位格の神として霊的な存在であったのです。
しかし神の第二位格の神すなわち御子が、罪の贖いを成し遂げるためには、体が必要であり(ローマ83参照)、血が流されることが必要であったのです(へブル922参照)。そこで聖霊によって、マリアを通して肉体の誕生をし、ここに至ったのです。
御子イエス様が肉体をもって十字架につかれ、血を流されて死なれたのは、贖いの為でした
 イエス様が贖いを成し遂げてくださったので、ヨハネ6章の上記の箇所を読むと、信じた者は、罪を赦され、義と認められ、永遠の命が与えられ、更にイエス様がその人の内に住んでくださり、やがては栄光の体によみがえらせて頂ける、ということを知ることが出来ます。
 新生したキリスト者は、栄光化された体以外はすでに体験し、証することが出来る者とされているのです。そして、キリストの空中再臨の時に、栄光の体に変えられることを待ち望んでいるのです(1コリント15521テサロニケ416.17を参照)。

 イエス様は、弟子を含めたユダヤ人たちに、ヨハネ6章の上記の内容を語られました。
その結果はどのようであったのでしょうか。それは、
60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」/
66
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。(ヨハネ6章・新改訳第二版)と記されています。

 イエス様の御言葉は、信じない者には実体化されないのです。
イエス様を信じてイエス様を心の中にお迎えすると、イエス様が語られたことが実体化するのです。
 ヘブル42.3(抜粋)には、「わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(新共同訳)と記されています。

 ヨハネ6:54を再び求道中の方のために取り上げます。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(新改訳)とあります。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」とは、イエス様を信じイエス様を心の中にお迎えする者のことを言います。
イエス様の血は、私たちの罪の赦しの為、私たちを聖とする為、私たちを贖う為に流されたものです。イエス様が十字架上で流された血を自分のものとして受け入れるだけで、罪は赦され、神のものとして聖別され、神の子どもとされるのです。イエス様を信じるや否や神の霊はその人の霊を生まれさせ(ヨハネ33.6、ヤコブ1181ペテロ13、ヨハネ113)、新生された霊と主の霊は一つ霊となるのです(1コリント617)。それ故、イエス様を信じた人は永遠の命を持ったのです。イエス様を死から復活させた方即ち父なる神様の霊が内に住んでおられるので、神様が定められたキリストの空中再臨の時に、肉体をもって生きている人は、肉の体の方も滅びることの無い栄光に輝く霊の体に変えられます。もし、キリストの空中再臨以前に霊は生かされて永遠に生きていても肉体の死を迎えた人は栄光の霊の体によみがえるのです。
少し膨らませて書きましたが、おおむね以上のようなことをヨハネ654は語っています。
記した内容を確かめたい方は、次の聖書箇所をお読みください。
(ローマ321-26)、(ヨハネ33.6)、(ヨハネ112.13)、(ヨハネ316)、(ヘブル1010)、(1コリント130)、(1コリント617)、(ガラテヤ46)、(ローマ811)、(1テサロニケ416.17)、(1コリント1552.43)、(ピリピ321

 私たちは、記念として(ルカ2219)、聖餐を守るようにイエス様に命じられています。

パウロは、1コリント1123-32に次のように記しています。
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29
みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31
しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(新改訳第二版)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の贖いを感謝します。
主が贖ってくださったゆえに信じられないほどの祝福を頂いております。
さらに将来においては、霊のからだ、携挙、天国での生活、千年王国、新天新地での驚くべき祝福が約束されています。
何という驚くべき祝福でしょうか。
あなたの栄光をほめたたえます。
御名を崇め感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月19日 (火)

箴言25:7bー10 覆水盆に返らず

 箴言257b-10には次のように記されています。
7 あなたがその目で見たことを、8 性急に争いの場に持ち出すな。
後に友人に辱められ、あなたが何か事を起こさないために。
9
 自分のことは友人であっても争え。
だが他人の秘密を漏らしてはならない。10 それを聞く者があなたを蔑まないために。あなたは悪評を元には戻せない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは8-10節として次の様に意訳しています。
“かっとなって、よく考えもせずに人を訴えてはいけません。
引っ込みがつかなくなり、おまけに裁判にも負けたらどうするのでしょうか。
そんな恥をかかないためにも、まず二人だけでよく話し合いなさい。
第三者に告げ口して、陰口をたたいたといって責められないためです。
口に出してしまったことばを取り消すことはできません。”とあります。

 言葉を発してしまった後に、「アーぁ、あんな事、言わなければよかったな。」と思ったことはないでしょうか。
私は何度もあります。

 イエス様は、人の内にあるものが、人を汚すのだ、ということを教えられました。
マルコ715.20-23には次のように記されています。
15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。/
20
・・・。人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
21
内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。
淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。”(2017)とあります。

 ヤコブの手紙3章には次のように記されている箇所があります。
2 私たちは皆、度々過ちを犯します。言葉で過ちを犯さないなら、その人は体全体を制御することのできる完全な人です。
8
 しかし、舌を治めることのできる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
9
 私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。
10
 同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。
11
 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が湧き出るでしょうか。
12
 私のきょうだいたち、いちじくの木がオリーブの実をつけたり、ぶどうの木がいちじくの実をつけたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を生むこともありません。13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適(かな)う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
14
 しかし、あなたがたが心の内に、苦々しい妬みや利己心を抱いているなら、誇ったり、真理に逆らって嘘をついたりしてはなりません。
15
 そのような知恵は、上から降(くだ)って来たものではなく、地上のもの、自然のもの〔肉に属するもの(口語訳)〕、悪魔から出たものです。
16
 妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです。
17
 しかし、上からの知恵〔「知恵」のギリシア語原語は「ソフィア」。「上からの知恵」とは神の知恵(筆者挿入)〕は、何よりもまず、清いもので、さらに、平和、公正、従順なものです。また、憐れみと良い実りに満ち、偏見も偽善もありません。
18
 義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は次のようにも語りました。
15 「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。
16
 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。
17
 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい〔教会があなたを支持してもなお、相手がそれを受け入れないなら、教会はその人と交わるのをやめなさい。(リビングバイブル)〕。”(マタイ18章・聖書協会共同訳)とあります。

 私たちの心がきよめられれば、悪い言葉は出てこなくなります。
ダビデは次のように祈りました。
12 誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。隠れた罪から私を解き放ってください。
14
 あなたの僕を傲慢から引き離し、これに支配されないようにしてください。その時、私は全き者となって、多くの背きの罪から解き放たれるでしょう。
15
 私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」(詩篇19篇・聖書協会共同訳)と記されています。

 私たちキリスト者は、他者と話す前に、その問題を主イエス様と話すことが出来ます。
主イエス様と話していると、自分の過ちや、対処の仕方、物事の考え方を教えてくださいますから、当該問題を口から発する前に、解決する場合もかなりあると思います。
覆水盆に返らず、となる前に、まずは主イエス様と会話することの重要性を覚えます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつでも、どんなことでも、主イエス様と会話することが許されていますから感謝します。
常に主に導かれて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月18日 (月)

詩篇95篇 神ヤハウェ(主)に従順な者への幸いと不従順な者への災い

 詩篇958-11には、主に対して不従順な人は主の安息に入れない、と次のように記されています。
8 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
9
 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。私の業を見ていながら、私を試した。
10
 四十年の間、私はその世代をいとい、そして言った。
『彼らは心の迷える民、私の道を知らない。』
11
 私は怒り、誓いを立てた。
『彼らは私の憩い〔「安息」(2017)〕に入れない』と。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 8.9節には“8 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。9 あのとき、あなたがたの先祖は私を試みた。私の業を見ていながら、私を試した。”とあります。
この出来事は、出エジプト171-7に記されています。
この時、モーセに率いられていた民は、エジプトに下った10の災いや紅海での出来事という主の御業を体験した人たちでした。それにもかかわらず、飲み水のない地に宿営したとき、主に対してへりくだって、飲み水を与えてくださるようにお願いするのではなく、ひどい言動をしたのです。その時の様子が出エジプト172-4に次のように記されています。
2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
3
しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇き で殺すためなのか。」
4
モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」・・”(新共同訳)とあります。

 出エジプトした民は、主へのへりくだりと主に対する信頼と感謝が欠けていたのです。
彼らは不平や愚痴を言い続けたのでした。

 10.11節をリビングバイブルは、
10 「この四十年間、わたしは苦々しい思いで民を見すえてきた。心も思いも遠く離れているこの民は、わたしのおきてを見向きもしなかった。
11
だから、わたしは激しい怒りをこめて誓った。彼らに約束した安息の地へ、彼らが入ることは決してない。」”と訳しています。

 主が、10.11節のようなことを語られたのは、マサの地における出来事の故ではなく、民数記13.14章に記されている、代表者12人によるカナンの地の偵察とその報告、報告を聞いた民の言葉、それを聞いた時に発せられた主の御言葉です。

 上記に関連する民数記13.14章の聖句をピックアップすると大体次のようになります。
1317 モーセは次のように彼らに命じ、カナンの地の偵察に遣わした。/
25
 四十日の後、彼らはその地の偵察から戻り、26 パランの荒れ野のカデシュにいたモーセとアロン、およびイスラエル人の全会衆のもとに帰って来た。彼らは二人と全会衆に報告し、その地の果実を見せ、27 モーセに説明した。
「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行って来ました。そこはまことに乳と蜜の流れる地でした。これがそこの果実です。28 しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。私たちはそこでアナク人の子孫さえも見ました。29 ネゲブの地にはアマレク人が住み、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人が住み、海辺とヨルダンの岸辺にはカナン人が住んでいます。」
 30 カレブは民を静め、モーセに向かって「私たちはぜひとも上って行くべきです。そこを手に入れましょう。私たちには必ずできます」と言った。
31
 だが、彼と一緒に上って行った者たちは「いや、あの民に向かって上ることなどできません〔主への信頼が全くありません(筆者挿入)〕。彼らは私たちよりも強いからです」と言い、32 偵察した地について、イスラエルの人々の間に悪い噂を広めて言った。「私たちが偵察のために行き巡った地は、そこに住もうとする者を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民は皆、巨人だった。33 私たちはそこでネフィリムを見た。アナク人はネフィリムの出身なのだ。私たちの目には自分がばったのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」
 14:1 全会衆は声を上げて叫び、民はその夜、泣き通した。2 イスラエルの人々は皆、モーセとアロンに向かって不平を言い、全会衆が彼らに言った。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。この荒れ野で死んでいたらよかったのに。」/
 22 私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、23 私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。/
27
 「この悪しき会衆は、いつまで、私に対して不平を言うのか。私は、イスラエルの人々が私に対して言い続ける不平を十分聞いた。28 あなたは彼らに言いなさい。
私は生きている――主の仰せ。私は、あなたがたが私の耳に語ったとおり、あなたがたに対して行う29 あなたがたの死体はこの荒れ野に倒れるであろう。私に対して不平を言った者、すなわち、あなたがたのうち二十歳以上で、登録をされ、数えられ た者は皆、倒れるであろう
30
 あなたがたは、私があなたがたを住まわせると誓った地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別である。
31
 あなたがたは『幼子たちが奪われる』と言ったが、私は幼子たちを導き入れる。彼らはあなたがたの拒んだその地を知るようになる。32 だが、あなたがたは死体となってこの荒れ野に倒れ、33 あなたがたの子どもは、あなたがたの死体が荒れ野で朽ち果てるまで、四十年の間、荒れ野で羊飼いとなってあなたがたの背信の罪を負う。34 あなたがたがあの地を偵察した四十日という日数に従い、一日を一年として四十年の間、あなたがたは自分の罪を負い、あなたがたは私に反逆することの意味を知るであろう。35 主である私が言う。私に逆らって集まったこの悪い全会衆に対して、私は必ずこのことを行う。彼らはこの荒れ野で絶え果てて、死ぬ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 主に信頼しない罪は恐ろしいものです。
それは新約でも同じです。
ヨハネ316-18には次のように記されています。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17
 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
18
 御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている〔ここのギリシア語原語は完了形で、本文の訳以外に「罰せられている」「罪に定められている」の意もあります(筆者挿入)〕。神の独り子の名を信じていないからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1-7bには、主に対して従順で心から主を賛美する者こそ主の民である、ということが次のように記されています。
1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。救いの岩に喜びの声を上げよう。
2
 感謝のうちにその前に進み、賛美と共に喜びの声を上げよう。
3
 まことに主は大いなる神、すべての神々にまさる偉大な王。
4
 地の深みもその手の内にあり、山々の頂も主のもの。
5
 海も主のもの。主が造られた。その手は乾いた地を形づくられた。
6
 さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。
7
 まことに、主こそ我らの神。私たちはその牧場の民、御手の羊。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1テサロニケ5章には、
16 いつも喜んでいなさい。
17
 絶えず祈りなさい。
18
 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 神ヤハウェ(主)に従順であるように、という勧めが7c-8節に次のように記されています。
“あなたがたは今日、主の声を聞きなさい。
8
 「メリバにいた時のように、マサの荒れ野にいた日のように、心をかたくなにしてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
愚痴や不平を言わずに、いつも主に在って喜び、祈り、感謝しつつ歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月17日 (日)

申命記30:11-14 神の教えと戒めはすでに与えられている

 申命記3011-14には次のように記されています。
11 私が今日命じるこの戒めは、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもない。
12
 それは天にあるものではないから、「誰かが私たちのために天に昇ってそれを取って来てくれるなら、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。
13
 また、それは海のかなたにあるものではないから、「誰が私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来てくれるのだろうか。そうすれば、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。
14
 その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 11節には、「私が今日命じるこの戒め」とあり、それは申命記において明らからかにされている神の教えを指しています。

 申命記11-5をリビングバイブルは、次の様に意訳しています。
“この書は、モーセがヨルダン川の東、モアブ平原のアラバ渓谷でイスラエルの人々に向けて語った時の記録です。
当時、イスラエルの人々はそこに野営していましたが、付近には、スフ、パラン、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブなどの町がありました。
この時、ホレブ山(シナイ山)を出発してから四十年目の第十一月の一日(太陽暦二月十五日)でした。
ホレブ山のふもとからカデシュ・バルネア(約束の地パレスチナの南端)までは、セイルの山地を通れば、普通なら歩いても十一日ほどで来られます。
それはともかく、ヘシュボンでエモリ人の王シホンを、エデレイに近いアシュタロテでバシャンの王オグを打ち破ったあとのことでした。
ここにたどり着くまでの間、主はいろいろな法律(教えと定め)をモーセを通して伝えましたが、それを全部まとめて、もう一度、モーセが説明しなおしたのです。”とあります。

 申命記13には、“第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。」とあります。”(口語訳)とあります。

 モーセは申命記に記されている説教が終わった後に死ぬのです(34章)。それ故、申命記はモーセの告別説教でもあります。この説教の聴衆は、ヨシュアとカレブを除くと、出エジプト時には、20歳未満であった人と荒野で生まれた人たちでした。ですから聴衆の大多数は、出エジプト記19章に記されている、シナイ山にヤハウェ(主)が臨まれた恐ろしい(大いなる)出来事を体験していなかったのです。それらの人たちにモーセは語ったのでした。

 モーセはこの律法をイスラエルの民に語り終えました。
ですから、この律法についてモーセは、「11 ・・・、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもない。12それは天にあるものではないから、『誰かが私たちのために天に昇ってそれを取って来てくれるなら、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。13 また、それは海のかなたにあるものではないから、「誰が私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来てくれるのだろうか。そうすれば、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うには及ばない。』と言うことが出来たのです。

 私たちキリスト者に対しても、主は、神の教えを聖書以外に探しに行かなくても、あなたたちは聖書を持っているでしょ、と言われることと思います。
新しいもっともらしい言葉を探さなくても良いのです。

 神のことばを変えてはならない、ということが申命記、箴言、黙示録に次の様に記されています。
 申命記42には「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。」(2017)とあり、
 箴言306には「神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。」(2017)と記され、
 黙示録2218.19には「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」(2017)と記されています。

 また、聖書について、主はパウロを通して次のように言われました。
「聖書はすべて神の霊感によるもので〔聖書全体は神の霊によるもので(岩波訳)〕、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16・2017)と記されています。

 14節には“その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる。”とあります。
律法を行うことが出来ると言われても、罪の性質を持って生まれてきている私たち人間には、神の戒めを守ることが出来ませんでした。
神ヤハウェ(主)がこれを与えてくださったことにより、神は義なる方であり、愛なる方であるということを私たちは知り、また、私たちが律法を守ることが出来ないということを通して、私たちをイエス・キリストを信じる信仰による救いへと、主は導かれたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
律法を通して、聖霊によって、自分が神に対して罪があるということを認識させていただけましたことを感謝します。
罪による絶望で終わることのないように、救い主イエス・キリストを示してくださり、信じさせていただけましたことを感謝します。
今や、主イエス・キリスト様を信じさせていただけたことによって与えられた平安、愛、喜び、希望を胸に、歩ませていただけますことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月16日 (土)

マタイ26:14-25 ユダの裏切り/サタンに心を支配されないように

 マタイ2614-16には次のように記されています。
14 その時、十二人の一人で、イスカリオテのユダと言う者が、祭司長たちのところへ行き、
15
 「あの男をあなたがたに引き渡せば、幾(いく)らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払った。
16
 その時から、ユダはイエスを引き渡そうと、機会をうかがっていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 続くマタイ26:17-25には次のように記されています。
“17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「私の時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」 と言っています。』」
19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「よく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」
22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。
23 イエスはお答えになった。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。
24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」
25 イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 ”(聖書協会共同訳)とあります。

 並行記事が記されているヨハネ13章には次のように記されています。
1 過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。
2
 夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた/
18
 ・・・。私〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴(あしげ)にした』という聖書の言葉は実現しなければならない。
2017はこの個所を「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」と訳しています。(筆者挿入)〕
19
 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『私はある』ということを、あなたがたが信じるためである。
2017は、「わたしが『わたしはある』である」と訳し、この聖句は、イエスの神性を表している、と欄外に注釈を加えています。(筆者挿入)〕/
21
 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。「よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」
22
 弟子たちは、誰のことを言われたのか察しかねて、顔を見合わせた。
23
 イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者〔ヨハネ1926202217.20参照(筆者挿入)〕が席に着いていた。
24
 シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。
25
 その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、「主よ、誰のことですか」と言うと、
26
 イエスは、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
27
 ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言われた。
28
 座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
29
 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
30
 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、3年半の間、主イエス様と寝食を共にしてきたイスカリオテのユダが、主イエス様を銀貨30枚で祭司長たちに売る場面です。
 主イエス様は、イスカリオテのユダについて、詩篇419(新共同訳、聖書協会共同訳は、10節)の聖句を引用し、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」という言葉が成就するのだ、と語られました(ヨハネ1318)。

 続くヨハネ1319には、「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」(2017)と記されています。

 「わたしは『わたしはある』である」という宣言は、私は神である、という宣言です。
主イエス様が11弟子に、ご自分が神である、ということを自ら教えられたのです。

 「わたしは『わたしはある』である」という聖句が最初に出てくる個所は出エジプト3章です。そこには次のように記されています。
13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
14
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
〔神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」(2017)〕
15
神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名これこそ、世々にわたしの呼び名。”(新共同訳)とあります。

 余談になりますが、
ヘブライ語は、子音字の単語からできています。子音字につける母音記号の付け方で読み方が変わります。「主」という語は英語のアルファベットに置き換えると「YHW(V)H」となります。YHW(V)Hに母音記号を付けて読む場合、ヤハウェ、ヤハヴェ、ヤーヴェ―、ヤーウェー、イェホバー、等と読むのです。Hにはハ行として使う場合と「―」というように伸ばす使い方があります。私は、「ヤハ(あるいは、ヤー)、YHWHはとこしえの岩(神にたとえている。守り)だから」(イザヤ263)という聖句が好きなので、「ヤハ」から「ヤハウェ」とさせていただいています。主は、心の中まで、すべて見通されるお方なので、読み方が多少異なってもすべてその人の本心を察してくださいます。

 話を元に戻します。
イスカリオテのユダについて:
イスカリオテのユダは、主にかかとをあげるように主によって仕組まれたのでしょうか?
私は、そうではないと思います。
詩篇419の聖句は、神の予知であると捉えます。
イスカリオテのユダの中にサタンが入るまでの、イスカリオテのユダの心の変遷をたどってみます。
ヨハネ132には、“・・、悪魔(サタン)は・・、ユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。”(2017)とあり、
ヨハネ1327には、“・・サタンが彼(イスカリオテのユダ)に入った。”(2017)とあります。

 イスカリオテのユダは、サタンが働きやすい心の状態の中にありました。
ヨハネ12章には次のように記されています。
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2
 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。
3
 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。
4
 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った
5
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イスカリオテのユダの心は、主イエス様に向いていたのではなく、お金に向いていたのです。

 サタンは、イスカリオテのユダの心に、イエス様を裏切ろうという思いを入れたのです(ヨハネ132)。
イスカリオテのユダが、主イエス様からパンを受け取った時、イスカリオテのユダは、主イエス様を祭司長たちに売ることを決心したのです。悪しきことを意志すると、サタンは入ってくることが出来ます。
ヨハネ1327には、“・・サタンが彼(イスカリオテのユダ)に入った。”(2017)と記されています。

 少し話が飛びますが、サタンがその人から抜けるとどうなるのでしょうか?
マタイ27章には次のように記されています。
3そのあと、イエスを売り渡したユダは、イエスが〔死刑を〕宣告されたと知り、後悔して銀三十枚を祭司長たちと長老たちとに返して4言った、
「俺は罪なき血を売り渡して、罪を犯した」。
しかし彼らは言った、「そんなことはわれわれの知ったことか。お前が勝手に始末せよ」。
5
そこで彼は、銀貨を神殿に投げ入れ、立ち去った。そして行って、首をくくっ〔て果て〕た。”{(岩波訳)/〔 〕内は訳者挿入}とあります。

 予定と予知の違いをイスカリオテのユダから学ぼうと思います。
聖書辞典は、イスカリオテのユダについて、
“「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きました」(使1:25)ということばと、「滅びの子が滅びた」(ヨハネ17:12)ということばをどのように調和すべきだろうか。ユダは神に強制されて滅びの子になったのではなく、神のあわれみを積極的に拒んだのである。私たちは神の召命の誠実さを疑うべきではない。また主の予知は、ユダが強制されて裏切者にならなければならなかったという予定を意味していない。ユダは決してキリストの真の弟子ではなかったのである。”(抜粋)と述べています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主は、私たちキリスト者を、こよなく愛してくださっておられます。
ありがとうございます。
とこしえに主を愛し、主に従い続ける私たちであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月15日 (金)

箴言25:4-7a きよさの重要性

 箴言254-7aには次のように記されています。
4 銀から金かすを除け。そうすれば細工人に、良い器ができあがる。
5
王の前から悪しき者を除け。そうすれば、王座は義によって堅く据えられる。
6
王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。
7a
高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。”(2017)とあります。

 4.5節をリビングバイブルは、
“銀からかすを除けば良い器ができ、宮廷から心の腐った役人を追い出せば、正しい政治ができます。” と意訳しています。

 前回も、25章からは王や指導者たちに必要な知恵を集めて記されていると書きましたが、この4.5節もまさしくその通りの箴言で、王が良き政治を行うためには、王のもとで働く役人たちが、正しい心をもった人たちである必要を述べています。

 地上に置かれている各諸教会の指導者たちも指導者個々人の肉の満足(or肉の自己実現)のために生きている人ではなく、聖い人、すなわち主の霊に満たされ知恵に満ちている人達から構成されていると良いですね(使徒63参照)。

 テトス16-9には次のように記されています。
6 長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。
7-9
監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。”(2017)とあります。

 これは聖書の箴言ですから、箴言255の「悪しき者」(新改訳)、「心の腐った人」(リビングバイブル)というのは、主に敵対する人、主の教えに聞き従わない人、と捉えることもできます。国家を地域教会に置き換えても同じことが言えます。但し、教会の場合には、排除すればよいというのではなく、悔い改めへと導くことが大切です。イエス様はイエス様を裏切り、イエス様を銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダがイエス様を捕まえるためにやって来た時でさえ、「友よ」と呼びかけ、悔い改めへと導いています(マタイ2647-50)。ペテロの場合も、イエス様を知らないと、3度も偽ったのですが、主イエス様は、ペテロを迎え入れ、ペテロに使命を与えられたのです(マルコ1466-72、ヨハネ2115-17)。 

 4節には“銀から金かすを除け。そうすれば細工人に、良い器ができあがる。”とあります。
この聖句は一人一人のキリスト者にも当てはめることが出来ます。
2
テモテ219-21には次のように記されています。
19 ・・、神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」また「主の名を呼ぶ者は皆、 不正〔「不義」(口語訳、新共同訳、新改訳)から離れよ。」
20
 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は卑しいことに用いられます。
21
 それゆえ、卑しいことから離れて自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い行いのために備えられたものとなるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 6.7節aには“王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。”とあります。

リビングバイブルは“自分が有力な貴族でもあるかのように、ずうずうしく王の前に出てはいけません。列の最後に回されて、みんなの前で恥をかくより、呼ばれるまでじっと待つほうがりこうです。”と意訳しています。

 主イエス様は次のようなお話をなさいました。
7 イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。
8
 「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10
 招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
11
 誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」”(ルカ14章・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の血潮と御言葉によってきよくされ、無意識なるへりくだりの内に歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月14日 (木)

詩篇94:16-23 世においては色々なことがありますが主のみ旨だけが堅く立ちます

 詩篇9416-23には次のように記されています。
16 悪をなす者に対し、誰が私のために立ちはだかるだろうか。悪事を働く者に対し、誰が私のために立ち向かうだろうか。
2017は「だれが私のために、悪を行う者に向かって立ち上がるでしょうか。だれが私のために、不法を行う者に向かって堅く立つでしょうか。」と訳し、
リビングバイブルは「だれが、盾となって私を悪者から守ってくれるのでしょう。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
17
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が私の助けとならなければ、私の魂〔原語は「ネフェシュ」で、呼吸をする生き物、たましい、精神、体・・etc.の意(筆者挿入)〕は危うく沈黙の内に伏していただろう。
〔リビングバイブルは「もし主の助けの手が差し伸べられなかったら、今ごろ私は死んでいたことでしょう。」と訳しています。
2017
は「もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいは、ただちに沈黙のうちに、とどまったでしょう。」と訳しています。(筆者挿入)〕
18
 私が「足がよろめく」と言ったとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたの慈しみが私を支え、
2017は“「私の足はよろけています」と私が言ったなら、主よ、あなたの恵みで私を支えてください。”と訳し、
リビングバイブルは“「神よ、私はよろめいています」と叫ぶと、主は救い上げてくださいました。”と訳しています。(筆者挿入)〕
19
 思い煩いが私の内を占めるときも、あなたの慰めが私の魂〔原語は「ネフェシュ」(筆者挿入)〕に喜びを与える。
2017は「私のうちで思い煩いが増すときに、あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。」と訳し、
リビングバイブルは「神よ、何もかもが信じられず動揺してしまうとき、私の心を静め、新しい希望を与え、元気を取り戻させてください。」と意訳しています。
20
 破滅をもたらす王座が、掟の名の下に危害をたくらむ者が、あなたにくみするだろうか。
2017は「破滅をもたらす法廷が、あなたを仲間に加えるでしょうか。おきてに従いながら邪悪なことを謀る者どもが。」と訳し、
リビングバイブルは「どうか、悪が正義を打ち負かす腐敗した政治を、あなたが支持し存続させることがありませんように。」と意訳しています。
21
 彼らは正しき人〔神に従う人(新共同訳)〕の命を狙って結託し、潔白な人の血を罪に定める。
22
 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はわが砦となり、わが神はわが逃れの岩となられた。
23
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らの不義に報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる。我らの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らを滅ぼされる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
聖なるあなたの御名を賛美します。
あなたは、義なる神であられる故に必ず裁きをなさり、また愛なる神であられる故に慈しみ深いお方です。
 19節を2017は「私のうちで思い煩いが増すときに、あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください。」と訳しています。
あなたは私たちに「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ46.72017)と約束し、また「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペトロ57・新共同訳)と御声をかけてくださいますからありがとうございます。
私たちは、あなたの御言葉に支えられて、安らいで過ごすことが出来ますから感謝します。
 17節を2017は「もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいは、ただちに沈黙のうちに、とどまったでしょう。」と訳しています。
「とどまる」という語の原語「シャーカン」を調べると「住む」という意もあることを知りました。
主が助けてくださらなかったら、たましいが落ち込んだまま日々を過ごすというような状態になってしまうことがあることを覚えます。
しかしあなたは、あなたに信頼し、問題をあなたに委ねるたましいを引き上げ、元気を取り戻させてくださるお方ですから御名を賛美します。
讃美歌72節の「委ねまつる我が重荷を 主は代わりて負いたもう 悩み多き世の旅路も 主のいませば安けし」という歌詞を思い浮かべます。
自分では負いきれない重荷を、主に委ねれば、主は代わって負ってくださいますからありがとうございます。
 21節を2017は「彼らは、正しい者〔神に従う者(新共同訳)〕のいのちを求めてともに集まり、不義に定めて、咎なき者の血を流します。」と訳しています。
この訳を見ると、黙示録の第五の封印の個所を思い起こします。
艱難時代には、「イエスだけが主であり、救い主である」と証しすることによって殺される人がたくさん出てくる時代です(黙示録69-11)。
しかしヤハウェ(主)は、23節の2017訳にあるように、“主は彼らの不義をその身に返し彼ら自身の悪によって彼らを滅ぼされます。私たちの神主が彼らを滅ぼされます。”と記されていることを行ってくださる義なるお方であることを覚えます。
教会時代には、迫害者が、あなたの恵みによって救いにあずかり、良き働き人となるような例があるのを見ます。パウロはその最たる例ですけれども、そのような例があるので、教会時代においては、迫害してくる人を祝福することの大切さを覚えます。また何よりも「迫害する者のために祈りなさい。」というのはイエス様の御命令ですから、主イエス様の御命令に従う歩みをする者であらせてください。
 文脈や元の文から少し離れますが、21.23節の文に登場する人を単数形として読み、さらに創世記315の神ヤハウェ(主)のサタンに対する宣告を思い浮かべるとき、救い主であり、主であるイエス様とサタンとの戦いの後を見るような気がします。
21.23
節の文に出てくる者を単数形とし、創世記315に合うように読んでみると、「彼(サタン)は、正しい者(イエス)のいのちを求めて、サタンが用いることの出来る者たちを集め、不義に定めて咎なき者(イエス)の血を流します。主は彼(サタン)の不義をその身に返し、彼自身の悪によって彼を滅ぼされます。私たちの神主が彼を滅ぼされます。」と捉えると、創世記315、イエス・キリストの裁判と十字架刑、黙示録201-3.10等を思い浮かべます。
天のお父様、あなたの御思いに従って、全てを治めてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月13日 (水)

申命記30:1-10 預言の確かさ/イスラエルへの帰還1

 申命記301-10には次のように記されています。
1 私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらすべてのことがあなたに臨むとき、あなたは、あなたの神、主があなたを追いやった先のあらゆる国民の中で、その言葉を思い起こし、2 あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるように、あなたの息子たちと共に、心を尽くし、魂を尽くして、主の声に耳を傾けなさい。
3
 そうすれば、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から連れ戻し、あなたを憐れみ、あなたの神、主があなたを散らした先のすべての民の中から再び集めてくださる。
4
 たとえ天の果てに追いやられても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、連れ戻してくださる。
5
 あなたの神、主は、あなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れてくださり、あなたはそれを所有することができる。そして、主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やしてくださる。
6
 あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる。
7
 あなたの神、主は、これらの呪いをすべて、あなたの敵とあなたを憎んで迫害する者にもたらす。
8
 それゆえ、あなたは立ち帰って主の声に聞き従い、私があなたに今日命じる戒めをすべて守るようになる。
9
 あなたの神、主は、あなたのすべての手の業、あなたの胎から生まれる子、家畜の産むもの、また、土地の実りを豊かに溢れさせてくださる。主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされる。
10
 それは、あなたがあなたの神、主の声に聞き従って、この律法の書に書かれている戒めと掟とを守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰るからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この箇所はイスラエルに対する祝福と呪いについての契約の続きです。
約束の地に入った後のイスラエルの歩みを見ると、イスラエルは祝福を受ける歩みをしたときもありますし、呪いを受ける歩みをしたときもありますが、結局この個所は、イスラエルに対する壮大な預言となっています。

 1節には、「私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらすべてのことがあなたに臨むとき、・・・」とありますから、イスラエルは祝福の約束も経験し、呪いの約束もすべて経験することを述べています。
実際、ダビデが王として統治した時代から始まりソロモン王の時代には祝福の絶頂を迎えました(マタイ629には、「栄華を極めたソロモン」というイエス様の言葉があります)。

 申命記281-13には祝福の契約が記されていました。下記のようになっています。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民 の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも〔戦いや仕事に出ていくときも帰ってくるときも(リビングバイブル)〕祝福される。
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。
9
 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、 下になることはない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 神に従い祝福を受けるという契約に基づき、ダビデやソロモン、またその時代のイスラエルの民が、祝福を受けたということは、サムエル記や列王記、歴代誌に歴史として記されています。

 ダビデ王の主への愛と信頼、ソロモンの治世の初めの頃の真実さに、ヤハウェ(主)は祝福の契約を履行されたことがよくわかります。

 申命記2815には“もしあなたがあなたの神、主の声に聞き従わず、私があなたに今日命じる戒めと掟のすべてを守り行わないならば、これらのすべての呪い〔申命記2816-68(筆者挿入)〕があなたに臨み、あなたに及ぶ。”(聖書協会共同訳)とありましたが、南北イスラエルの王が、偶像礼拝の罪、即ち、ヤハウェ(主)を自分の神とせず、愛さず、信頼しなかった王の時代には、次々と呪いの条項が成就したのです(レビ2614-44も参照してください)。
 ソロモン王がどの様にして主に背き、その結果はどのようになっていったのか、また、その後の歴代の王たちはどのようであったのかということについては、1列王記11章以降と列王記Ⅱの全体及び2歴代誌10章-36章を読むと分かります。

 ヤハウェ(主)は、信仰的に下っていく時代の中にあっても、主に立ち返った王の時代には、概して、それに応じて祝福を与えて下さいました。「概して」というのは、王によってはそうではなかったからです。ヨシヤ王の時代、ヨシヤは信仰の復興をするのですが、それまでの王たちの罪の累積がイスラエルに暗い影を落としていたのです。

 北イスラエル(イスラエルの10部族)はアッシリアに滅ぼされ(BC721年)、南イスラエル(ユダ族を中心とし、ベニヤミン族やレビ族も含まれる)もBC586年に滅ぼされたのです。

 南イスラエルの民は、聖書の預言(エレミヤ2511.122910)の通りに、後日、一部の者たちが捕囚の地から帰ってきました(エズラ記、ネヘミヤ記)。
しかし、多くの者は捕囚の地に残ったのです。帰還せず捕囚の地で主に用いられた人たちの中には、ダニエル、モルデカイとエステル等がいました(ダニエル101、エステル記)。
 アッシリアに捕囚となった北イスラエルの10部族の子孫の行方がすべてわかるのは、主の地上再臨時及びそれ以降になるのではないかと思います。今日の聖書個所の預言は、全イスラエルに与えられたものですから、この成就も、主が地上に再臨されるに伴って、そしてその後に、この預言は確かに成就した、と言えるようになるのであろうと思います。
その理由は、エゼキエル3715-28に次のように記されているからです。
15 主の言葉が私に臨んだ。
16
 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に、『ユダとその友イスラエルの子らのために』と書き記しなさい。またもう一本の木を取って、その上に、『エフライムの木であるヨセフとその友であるイスラエルの家すべてのために』と書き記しなさい。
17
 それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。
18
 同胞があなたに向かって、『これらはどういう意味なのか、我々に告げてくれないか』と言うとき、19 彼らに語りなさい。
主なる神はこう言われる。私はエフライムの手の中にあるヨセフの木とその友イスラエルの諸部族を取り、これらをユダの木に合わせて、一本の木とする。これらは私の手の中で一つとなる。
20
 あなたの書き記した木が彼らの目の前であなたの手の中にあるとき、21 彼らに語りなさい。
主なる神はこう言われる。私はイスラエルの子らを、行った先の諸国民の間から取り戻し、周囲の国々から集め、彼らの土地に導き入れる。
22
 私はその地、イスラエルの山々で彼らを一つの国民とする。一人の王〔主キリスト・イエス(筆者挿入)〕が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国民とはならず、もはや二度と 二つの王国に分かれることはない〔キリストの千年王国時代の始まり(筆者挿入)〕。
23
 彼らは二度と偶像や憎むべきものや、もろもろの背きによって汚されることはない。私は彼らを、罪を犯させるあらゆる背きから救い、清める。彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。
24
 わが僕ダビデ〔「主キリスト・イエス」のこと(筆者挿入)〕が彼らの王となり、彼らすべての者のために、一人の牧者となる。彼らはわが法に従って歩み、わが掟を守り、これを行う。
25
 彼らは、私がわが僕ヤコブに与えた地、すなわちあなたがたの先祖が住んでいた地〔イスラエルの地(筆者挿入)〕に住む。彼らもその子らも、その子孫もとこしえにそこに住み、 わが僕ダビデ〔すなわち主キリスト・イエス(筆者挿入)〕が永遠に彼らの指導者となる。
26
 私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる。私は彼らを祝福し、増やす。私はわが聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。
27
 わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
28
 こうして、わが聖所がとこしえに彼らの中にあるとき、諸国民は私がイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 エルサレム神殿はAD70年にローマ軍によって滅ぼされました。エルサレム神殿の壊滅は二度目のことでした。
 マタイ241.2には、
1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
2
そこで、イエスは言われた。
「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」”(新共同訳)と記されています。

 主イエス様が、エルサレム神殿の崩壊の預言をしたのです。
このことが起こったのがAD70年でした。そして、ユダヤ人たちは全世界に散らされていったのです。
そして、第二次世界大戦のときには、ヒットラーによって多くのユダヤ人が殺されたのです。
第二次世界大戦終了時には、まだイスラエルは再興されていませんでした。
現在、イスラエルは1948年の独立から75年たち、人口は約950万人(20225月 イスラエル中央統計局)ですが、イスラエルの最先端産業は目覚ましいものがあり、石油や天然ガスも輸出しています。一人当たりのGDPは日本よりも上です。
しかし、この後、ヤコブの苦難のとき(エレミヤ307)というのが来るのです。それは、イエス様が、「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。」(マタイ2421・口語訳)と述べられた時のことでしょう。
これに続くマタイ2422-30には、
22 もしその期間〔ヤコブの苦難のとき(大患難時代){筆者挿入}〕が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民〔イスラエル(筆者挿入)〕のためには、その期間が縮められるであろう。〔大患難の期間は1260日との預言あり(筆者挿入)〕
23
そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
24
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
25
見よ、あなたがたに前もって言っておく。
26
だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
27
ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
28
死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
29
しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
30
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。”(口語訳)と記されています。

 マタイ2430に記されている内容に関連してゼカリヤ127-14や黙示録17の「見よ、その方〔地上に再臨されるイエス・キリスト(筆者挿入)〕は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(口語訳)という聖句も参考になります。

 このような大患難時代以前に、主を待ち望んでいる新生したキリスト者は、すでに栄光の体に変えられており(ヨハネ33.5.61コリント15521テサロニケ416.17、へブル928)、地上が艱難時代の最中に天において花婿キリストとの結婚式があり(黙示録196-8)、艱難時代の最後のキリストの地上再臨時には、主イエス様に従って天から下ってくるのです(黙示録1914、ユダ14節)。

 今回は、この聖書個所の聖句以上の内容になってしまいました。
ご容赦ください。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたはイザヤを通して、「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(イザヤ559-112017)と語られ、また「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』」(イザヤ46102017)と語られました。
あなたが与えてくださいました預言の中ですでに歴史上成就した預言が数多くあります。まだ成就していない預言は、これから成就していきますから御名を崇めます。
私たちのからだの贖いも近づいていることを思い、待ち望んでいます。
あなたは聖であられ、愛であられ、義であられ、全能全知であられ、・・・・であられるお方です。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月12日 (火)

マタイ26:6-13 マリアの香油注ぎ/主に愛され、主を愛して

 マタイ266-13には次のように記されています。
6 さて、イエスがベタニアで、規定の病を患っている〔ツァラアトに冒された(2017)〕シモンの家におられたとき、
7
 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8
 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のためにこんな無駄遣いをするのか。
9
 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10
 イエスはこれに気付いて言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。
11
 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。
12
 この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。
13
 よく言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 並行記事の個所と思われるヨハネ121-8には次のように記されています。
1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2
 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に席に着いた人々の中にいた。
3
 その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。
4
 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。
7
 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の埋葬の日のために、それを取っておいたのだ。
8
 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 いよいよイエス様の十字架が近づいてきた頃の出来事です。それはヨハネ121の「過越祭の六日前」と記されている言葉や、ヨハネ127の、イエス様が「わたしの埋葬の日のために」と語っていることからわかります。
ここに記されていることは、エルサレムから約3kmしか離れていないベタニアで起こったことでした。
このべタニアに、マルタとマリアとラザロが住んでいました。
ラザロはこの少し前に、一度死にましたが、死んで4日目に、イエス様によって生き返らせてもらった人です(ヨハネ111-44)。

 イエス様は、ラザロのよみがえりの奇跡をおこなわれる前に、
「わたし〔イエス(筆者挿入)〕は、よみがえりです〔近未来に起こるイエス様の十字架での死の後の復活を先取りして語っています(筆者挿入)〕。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ1125.26・新改訳)という大切なおことばを語られました。
イエス様を信じた者は、たとえ肉の体が死んだとしても、主が定められた時、すなわち主の空中再臨を合図する神のラッパが吹かれた瞬間に、神が霊の体によみがえらせてくださるのです(1テサロニケ416.17、1コリント1552、ローマ811)。
また、イエス様を信じた者は、イエス様を信じた時に、神の霊によって新たに霊の誕生を得させていただいています(ヨハネ33.6)。そして、その霊の内に永遠の命そのものであられる主が住まわれ、主と一つ霊とされています(ヨハネ14201コリント617)から、主イエス様を信じた人の本体である霊は永遠に死ぬことがないのです(1ヨハネ513、ヨハネ336)。
また歴史上1度だけ起こることですが、キリストの空中再臨の時に肉体をもって地上で生活している新生しているキリスト者は、死んで葬られる経験をすることがありません。キリストの空中再臨時に、一瞬の内に霊の体に変えられ天に携え挙げられるのです(携挙)。それに要する時間はあまりにも短い時間ですから天にあげられない人たちは見ることが出来ないだろうと思います(1テサロニケ416.171コリント1552、2テサロニケ210.11)。神様の能力はそれほどにすごいのです。その能力の凄さは、天地万物の創造について記されている創世記1章を信じることのできる人にとっては当たり前のことでしょう。
ラザロの復活の時にも、ラザロの細胞が壊れている状態、即ち、構成原子の配列が取り返しがつかないように崩れてしまっているような状態であったにもかかわらず、ラザロは、イエス様の一声で、生き返り、歩いて出てきたという事実(ヨハネ1139-44)からも神の力が分かるでしょう。
(少し前の引照個所で2テサロニケ210.11をあげた理由について:携挙されない地上の人々は、キリストの空中再臨やキリスト者の体が栄光の体すなわち霊の体に変えられて天に昇っていくのを見ることが出来ないので、キリスト者が突然消えた理由について、神の許可のもと、反キリストによる偽りの物語が残された人々に語られると、人々はその偽りを受け入れるということです。)

 さて、マリアは、マリアが大切にしていた300デナリもする高価な香油をイエス様に注ぎました(マタイ267)。
これはイエス様を心から愛していた証拠でしょう。
マリアは、イエス様がお話をなさる時にいつもイエス様のお話に聞き入っていた人でした。
マリアはイエス様の今までのお話から、イエス様が間もなく十字架におかかりになるのだと理解していたのだろうと思います。それは、イエス様が、「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。」(マタイ2612)と語られたことからも分かります。
このおことばは、マリアを弁護する為に語られただけではなく、事実であったからだろうと思うのです。「ハイはハイ、イイエはイイエ」とおっしゃるイエス様ですから。イエス様には偽りがないのですから。
マリアは、イエス様に愛された者が、心の底からイエス様の愛を知り、イエス様を愛してイエス様に大切なものをささげたという模範でしょう。マリアは、必要ならば自分の命であってもささげたのではないでしょうか。イエス様を愛する故の殉教は愛の極致です。

 自分の為にイエス様に従って来ていたイスカリオテのユダについて、ヨハネの福音書124-6には次のように記されています。
“4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである。”とあります。
イエス様に従って来ているといっても、イスカリオテのユダは、マリアとは真逆の人でした。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主に愛されるだけではなく、主を愛して歩む生涯を送る者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月11日 (月)

箴言25:1-3 主は知恵と知識を与えてくださるが、主の知恵と知識の富は極めがたい

 箴言25:2.3には次のように記されています。
2 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。
3
天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。”(2017)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次のように訳しています。
2.3 物事を秘密にするのは神の特権、それを探り出すのは王の特権です。だから、天の高さや地の深さ、それに王の考えを知ることはできません。”とあります。

 25章からは、またソロモンの箴言になります。
箴言251には、“次もソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。”(2017)と記されています。

 箴言251-3131の個所について、Bible naviは、次のように記しています。
“これらの箴言はヒゼキヤの助言者たちによってまとめられた。最初の部分はソロモンが書き、続く2つの部分は他の人たちが書いたものである。私たちはこれらの箴言から学ぶことが出来るが、ほとんどが、もともとは王や、王に関係する人に直接向けて書かれたものである。これらは特にリーダーや、これからリーダーになることを目指している人たちにとって助けになる。箴言は、敬虔な知恵の模範である、真に良い妻の記述で終わっている。”とあります。

 上述した文章を読むと、私たち一般のキリスト者には無関係のように思われるかもしれませんが、何と、キリスト者は、「王である祭司」(1ペテロ29・新改訳)なのですから、キリスト者全員にとって箴言25-31章は適用することが出来ます。

 2節の前半部分には、“事を隠すのは神の誉れ。”とあります。
福音書の中には、イエス様が譬えで語られた話が載っています。
イエス様が譬えで話された理由の一つとして、マタイ1313には次のように記されています。
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」(2017)とあります。

 2節の後半部分には、“事を探るのは王たちの誉れ。”と記されています。
主イエス様の弟子たちも主イエス様が語られたたとえ話を理解できませんでした。
弟子たちは、主イエス様にたとえ話の意味を質問して、理解させてもらったのです。
 マタイ13章には次のように記されています。
10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
11
イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
12
持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。」/
51
あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。
52
そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」”(2017)とあります。

 1
コリント2章には次のように記されています。
6 しかし、私たちは、成熟した人たちの間では、知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の無力な支配者たちの知恵でもありません。
7
 私たちが語るのは、隠された秘義としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8
 この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9
 こう書いてあるとおりです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」
10
 私たちには、神は霊〔御霊(口語訳等)〕を通してこのことを啓示してくださったのです。霊〔御霊(口語訳等)〕はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。
11
 人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12
 私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13
 この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊〔御霊(口語訳等)〕が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するので す。
14
 自然の人〔生まれながらの人間(新改訳)〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。
15
 霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。
16
 「誰が主の思いを知り、主に助言するというのか。」しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています〔ただわたし達(主キリストを信ずる者)は、キリストの(霊を持ち、その)心を持っているのである{塚本訳/( )内は訳者挿入}〕。”(聖書協会共同訳)とあります。

 私たちは、聖書の分からないところを、主に教えていただくことが出来ます。また聖霊は真理の霊でもあります。
 ヨハネ1426には、“父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。” (2017)と記され、
 ヤコブ15には、“あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。”(2017)と記されています。
ヤコブ15の中にある「知恵」と訳されている語のギリシア語原語は「ソフィア」で、知恵、英知、知識、等の意があります。

 主は知恵と知識とを与えてくださいますが、主なる神の知恵と知識の富はあまりにも深く極めがたいものでもあります。
 ローマ1133には、「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは聖書に記されている知恵や知識を一つまた一つと教えてくださいますからありがとうございます。
聖書に記されている知恵や知識の奥義を知っていくためには、頭の良さよりも、きよさが大切であると感じます。
御言葉によって聖別され、あなたのみ旨に一致して歩む者とさせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月10日 (日)

詩篇94:3.4.8-15 主に見捨てられない人

 詩篇94:3.4.8-15には次のように記されています。
3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るのでしょうか。
4
 彼らは思い上がった言葉を吐き散らし、悪事を働く者は皆、傲慢に語ります。/
8
 民の中の愚かな者よ、気付くがよい。無知な者よ、いつになったら悟るのか。
9
 耳を植えた方が聞かないとでも言うのか。目を造られた方が見ないとでも言うのか。
10
 国々の民を懲らしめる方が、人に知識を教える方が、責めたてないことがあろうか。
11
 主は知っておられる、人の思いを、その空しいことを。
〔主は、人の考えや判断には限りがあり、どれほど無益であるかを、よくご存じです。(リビングバイブル)〕
12
 主よ。幸いな者、あなたに懲らしめられ、あなたの教え〔別訳「律法」(欄外注)〕を受ける人は。
13
 あなたはその人の災いの日々にも〔直訳「災いの日々から」(欄外注)〕憩いを与えられる。悪しき者には滅びの穴が掘られる〔直訳「穴が掘られるまで」(欄外注)〕。
〔あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまでその人に平安を与えられます。(口語訳)〕
14
 まことに、主はその民を見放さず、ご自分の民を見捨てられない。
15
 裁きは義に帰り、心のまっすぐな者は皆、それに従う。”(聖書協会共同訳)とあります。

 今日は都合によりお祈りだけをupします。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
11
節には、「主は、人の考えや判断には限りがあり、どれほど無益であるかを、よくご存じです。」と記されていますが、本当にその通りだなーと実感します。
特に、神ヤハウェ(主)を、万物を創造された神、永遠に存在し、自ら存在なさる神であるということを悟らせていただいていない、神に従わずサタンに従うところの「主に対して無知で、主に対して思い上がった言葉を吐き散らし、主と人に対して悪事を働く者は皆、傲慢に語ります」(4.8参照)と記されている生き方を選択している人の考えは、11節にあるように、格別無益であることを覚えます。
そのような状態のまま肉体の死を迎えた人は、最後の審判(黙示録2011-15)の時に、受けたくはない判決を受けることになるからです。
 とはいえ、救いにあずからせていただいた私自身も、かつては、この世の人と同じ生き方をし、主なる神様の御旨とは異なる生き方、すなわち、聖書がいうところの主なる神に従わないという罪に満ちた生活をし、主なる神様を心にお迎えしないので、主に反抗する人の心に働くサタンの支配のもとに置かれていたことを覚えます。
その当時の私は、常に不安と緊張に支配されていたことを覚えます。
 しかし、憐み豊かな主なる神様は、私のような者にも、私に応じた方法で導いてくださり、聖書預言から聖書が真理の書であり、見えないところに実在者がいることを悟らしめ、創造者なる神が存在することを悟らせ、イエスを信じればよいのだ、ということを語ってくださいました。
そして、イエス・キリストを信じたときに私の心に平安が来ました。
救われた、と思いました。
 14節に、「まことに、主はその民を見放さず、ご自分の民を見捨てられない。」と記されていますが、主は、「そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てない。」と語ってくださいました。
 12節には、「主よ。幸いな者、あなたに懲らしめられ、あなたの教えを受ける人は。」とありますが、あなたの子どもされた者にとって、ふさわしくないところをあなたは矯正してくださり、それは今も継続され、これからも継続されることでしょう。
あなたのご性質を受け継ぐ者とされているのですから。
あなたに整えていただけることは本当に幸いなことであることを覚えます。
 13節に、「あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまでその人に平安を与えられます。」と記されていますが、主の現れを待ち望み、主と共に歩んでいる者を、あなたはエノクのように携挙してくださいますからありがとうございます。
 また、主キリスト・イエス様を信じている者は、「いのちの書」に名が記されているので、最後の審判のときにも無罪とされ、最後の審判の後に、神ヤハウェ(主)が創造なさる新天新地に入れていただけますから感謝します。
 慈しみ深いあなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 9日 (土)

申命記29:29 主が啓示された律法は行うもの/律法によって罪を悟った者の中にはキリストによる救いを求める者があり、そしてキリストを信じた者は救われる

 申命記2929には次のように記されています。
“隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。”(2017)とあります。

 この個所を新共同訳と聖書協会共同訳は、28節としており、次の様に訳しています。
聖書協会共同訳は、
“隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものであり、私たちがこの律法のすべての言葉を行うためである。”と訳し、
新共同訳は、“隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。”と訳しています。

 私自身が原文をも参照しながら、自分がわかり易いように訳しなおすと、
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、啓示されていることは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこの律法(原語は「トーラー」)のすべてのことばを行うためである。」となります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルの民に、神ヤハウェ(主)が啓示した事柄以外を探し求めるのではなく、啓示された律法を行いなさい、という内容です。

 啓示された律法を余すところなく行うことが出来ればよいのですが、残念ながら罪の性質を持って生まれた人間は、律法を一つ残らず行うということは出来ないのです。

 十戒(原語では「十の言葉」)の十番目は、「あなたの隣人の妻を欲してはならない〔貪るなかれ(文語訳)〕。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない〔貪るなかれ(文語訳)〕。」(新共同訳)というものでした。

 パウロは、自分を顧みて次のように言っています。
「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったで しょう。律法が、『むさぼってはならない〔あるいは「悪い欲望を持ってはいけない」(欄外注)〕。』と言わなかったら、私はむさぼり〔あるいは「悪い欲望」(欄外注)〕を知らなかったでしょう。」(ローマ77・新改訳初版~第三版)とあります。

 人間は、幼少のころから、お友達が遊んでいるものを欲しがります。それどころか、そのおもちゃを奪いに行きます。
罪の性質を持って生まれてきているので、人から教えられなくても貪ることを自然に行うことが出来るのです。

 律法は読めばわかります。しかし行えないので、解釈を加えるのです。
イエス様が地上におられた頃、律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエス様から次のように叱責されました。
 マタイ23章には次のように記されています。
16 ものの見えない案内人、あなたがたに災いあれ。あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない』と言う。
17
 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか。
18
 また、『祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない』と言う。
19
 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか。
20
 だから、祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21
 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのである。
22
 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
23
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにはできないが。
24
 ものの見えない案内人たち、あなたがたは、ぶよは漉して除くが、らくだは呑み込んでいる。
25
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。
26
 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側を清めよ。そうすれば、外側も清くなる。
27
 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28
 このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、次のように教えられています〔塚本訳で下記します{塚本訳の( )内は役者の挿入です}〕。
19 それでは、律法は何のためにあるか。(わたしは答える。)律法は違反のため(、言いかえれば、罪を知らせてこれを犯させるために、あとから約束に)つけ加えられたものであり、しかも約束された子(なるキリスト)の来られる時まで(のもの)である。(かつ、これは神が直接につけ加えられたものでなく、)天使たちをもって、仲介者(モーセ)の手をもって規定されたに過ぎない。
20 ──
仲介者は一方的のものではない。しかし(約束を与えられた)神はただ一人である。──
21
それでは、律法は神の約束に矛盾するか。以てのほかである。もしも命を与える力をもつ律法が与えられたのであったら、(それこそ)本当に律法によって義たることがあるでもあろう。
22
しかし(律法は命を与えるものでなく、人を罪に閉じこめる力をもつだけである。)聖書はすべての人を(律法によって)罪の下に閉じこめ、イエス・キリストを信ずる信仰によって、信ずる者に約束が与えられるのである。(律法は約束に矛盾しない。むしろこれに導く家庭教師である。)
23
しかし信仰が来る前には、わたし達は(みな)律法の下に閉じこめられ、監督されて、信仰が現れねばならぬ時にまで及んだ。
24
だから(モーセ)律法は(わたし達を)キリストへつれて行く家庭教師となった。信仰によってわたし達を義とするためである。
25
しかし(それは信仰が来るまでのことで、)信仰が来た以上は、わたし達はもはや家庭教師の下にはいない。
26
(なぜか。)あなた達はキリスト・イエスを信ずる信仰によって、みな神の子だからである。
27
すなわちキリストへと洗礼を受け(て彼のものとなっ)たあなた達はみな、キリストを着たからである。”(ガラテヤ3章)と記されています。

 またパウロは次のようにも語りました。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実〔別訳「イエス・キリストへの信仰」(欄外注)〕によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(ガラテヤ216・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
律法によって、自分で考えるよりもより詳しく、罪とは何なのかを教えてくださり、また、イエス・キリストを信じれば救われるということも教えてくださり、救いにあずからせていただけましたことを感謝します。
また、主イエス様を信じさせていただけたことにより、律法の本質である、神を愛し、隣人を愛する、という生き方を主に在って行うことが出来る恵みを与えられましたことを感謝します。
今日も、主に在って(in the Lord)歩むことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 8日 (金)

マタイ26:1-5 罪なきイエス様を殺そうと相談する祭司長たちや民の長老たち/罪人である私たちを救ってくださる愛なる神

 マタイ261-5には次のように記されています。
1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2
 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
3
 その頃、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファと言う大祭司の屋敷の中庭に集まり、4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した
5
 しかし、彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆の中に騒ぎが起こるといけない」と話していた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神の愛、御子なる神の父なる神への従順、人の罪の性質、神の予知、神のご計画、悪事に対する神の許可、サタン(悪魔)の働き等をこの個所を基に考えることが出来ると思います。

 過越しは、神の愛の現われでした。
過越しの子羊の実体は、イエス・キリスト様でした(ヨハネ129)。
(聖書引照個所の多くは「お祈り」の後に聖句を記しています)

 御子イエス様は、御父に従い続けました(マタイ2636-46)。
キリストの十字架は、御子イェシュア(イエス)が、御父に従順であった故に、また愛なる神であったゆえに成就したものです。
キリストの血は、私たちの罪を赦すためのものでした。
キリストの血は、私たちをきよめるためのものでした。(へブル9221ヨハネ17

 人の罪は、罪なき人を殺す画策をしました。
この個所によると、そのようなことをしたのは、祭司長たち(宗教家たち)と民の長老たち(司法、行政を司る者たち)でした。
{罪なき人は、神が人となられたイエス・キリスト様以外にはいません。それ以外の人はすべてアダムとエバの子孫であり、生まれながらの罪人です。(ローマ512、詩篇51篇の、新改訳は5節、新共同訳は6節)}

 神様は完全な予知能力を持っています(イザヤ4610)。
神様は、祭司長たちや民の長老たちが、イエス・キリスト様を殺そうと画策することを予知していました。

 義なる神であり、愛なる神であるお方が、堕罪した人を救うためには、堕罪した人の罪を引き受け、身代わりに罪の罰を受ける罪なき方が必要でした。また、罪人を完全に救うためには、身代わりの死だけではなく、死からの復活が必要でした。(詩篇145171ヨハネ49

 御子が人の肉体をまとい、その肉において罪の贖いを成し遂げ、死んで終わりではなく、復活することによって死に打ち勝ち、たましいの救いだけではなく、霊の新生と体の贖いを成就させるというご計画を、父なる神は立てられました(ローマ831ペテロ13.8.9、1コリント1552)。
御子は、ご自分から、死と復活をする役を引き受けられました(ヘブライ105-7)。
キリストの死と復活によって、神の義と神の愛が両立するのです。

 神様は、祭司長たちや民の長老たちの考えを予知されていました。
神様は、ご自身の愛と義を両立させ、イエス・キリスト様を信じる万民を救うために、祭司長たちや民の長老たちの悪い考えを実行に移すことを許可しました。
その許可は、サタン(悪魔)にも与えられたのです。
サタン(悪魔)こそは、神に対する反逆者、偽りの父、人殺し、・・等の悪の元締めです(ヨハネ844)。

 罪なきイエス・キリスト様が十字架につけられたのは、サタンの唆(そそのか)しを受けた祭司長たちや民の長老たちの考えに基づくものであったと思いますが、また当人たちの罪の性質に基づくものであったと思います。神様は、これらの人の悪を善きことのために許可したのです。
それだけではなく、神様の思いの中には、贖いによって罪を赦そうとするお考えがありました。
それを、神様は、旧約時代には、贖いの儀式によって教えてこられました(レビ4章)。そればかりか、アダムとエバが堕罪したときに、神様は二人を動物によって贖うことによって地上に存続させたのです(創世記321)。

 何よりも、キリストの十字架と復活は、神であり、人となられた(人の肉をまとわれた)御子イエス・キリスト様の御意志であられたのです。
ヨハネ1018には、“だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。”(2017)と記され、御子が御父の御命令を自らの意思をもって実行されたことがわかります。

 神が人となられたという御言葉の参考として、1テモテ25も下記しておきます。
“神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父の予知と愛なる善なるご計画に基づき、また御子の愛と従順に基づき、私たちは、キリストの十字架と復活によって、それとともに聖霊が関与された信仰によって、罪赦され、たましいの救いを与えられ、霊の新生を受け、やがてキリストの空中再臨の時に吹かれる神のラッパが吹かれたときに、体の贖いを受けることを得させていただけますからありがとうございます。
これからの世界は、益々困難を極めていきますが、あなたが与えてくださる希望を胸に秘め、また公言もし、日々の歩みを主と共に、地上に置かれている間、継続していくことが出来ますように。
御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (ヨハネ129)“ヨハネ〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕は自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」”(2017
 (マタイ26章)“36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37 ペトロとゼベダイの子二人とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。38 そして、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」
39
 少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」
40
 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても、肉体は弱い。」
42
 さらに、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」”(聖書協会共同訳)
 (へブル922)“律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。”(2017
 (1ヨハネ17)“御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。”(口語訳)
 (ローマ512)“一人の人によって罪が世界に入り”(2017
 (詩篇515)“私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。”(2017
 (イザヤ4610)“わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う”(口語訳)
 (詩篇14517)“主はご自分のすべての道において正しく、そのすべてのみわざにおいて恵み深い方。”(2017
 (1ヨハネ49)“神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。”(2017
 (ローマ83)“神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。”(新改訳初版~第三版)
 (1ペテロ1章)“3 神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。/8.9 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。”(2017
 (ヘブライ105-7)“5 それで、キリストは世に来て、次のように言われたのです。「いけにえも供え物も、あなたは望まず、私のために、体を備えてくださった。6 焼き尽くすいけにえも清めのいけにえも、あなたは喜ばれなかった。7 その時、私は言いました。『御覧ください。私は来ました。巻物の書に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」”(聖書協会共同訳)
 (ヨハネ844)“悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。”(2017
 (創世記321)“神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。”(2017

2023年9月 7日 (木)

箴言24:28.29 復讐のために噓の証言をするな/どんなことでも主にお話ししましょう

 箴言2428.29には次のように記されています。
28 あなたは、あなたの隣人に対し、根拠を持たない証人となってはならない。あなたのその唇で惑わそうとするのか。
29
「彼が私にしたように、私も彼にしよう。彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。”(2017)とあります。

 28.29節について諸聖書は次のように訳しています。

 口語訳は、“28 ゆえなく隣り人に敵して、証言をしてはならない、くちびるをもって欺いてはならない。
29
「彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところにしたがって、その人に報いよう」と言ってはならない。”と訳し、

 新共同訳は、“28 いいかげんに友人の証人となってはならない。自分の唇で惑わされたいのか。
29
「人がわたしにするように、わたしもその人に対してしよう。それぞれの行いに応じて報いよう」とは、あなたの言うべきことではない。”と訳し、

 フランシスコ会訳は、“28 理由もなく、お前の隣人に反対して証言するな。お前の唇で欺いてはならない。
29
「彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう。わたしは誰にでも、その行いに応じて仕返しをしよう」と言うな。”と訳し、

 2017は、“28 あなたは、あなたの隣人に対し、根拠を持たない証人となってはならない。あなたのその唇で惑わそうとするのか。
29
「彼が私にしたように、私も彼にしよう。彼の行いに応じて、仕返しをしよう」と言ってはならない。”と訳し、

 聖書協会共同訳は、“28 理由もなく友に対する証人となるな。唇で惑わしてはならない。
29
 「人が私にしたように、私もその人にしてやろう。それぞれの行いに応じて報いてやろう」と言ってはならない。”と訳し、

 リビングバイブルは、“28.29 無実の人について、わざと不利な証言やうその証言をしてはいけません。「いい機会だから、これまでのし返しをしてやろう」と考えてはいけません。”と訳しています。

 下線部分の訳のヘブライ語原語は「ヒナーム」で、無料で、コスト(費用、代価)の無い、(正当な理由or原因or根拠)もなく、無罪の、中身の無い、等の意があります。

 わかり易く訳すとリビングバイブル訳のようになるのだろうと思います。
以前の恨みを、嘘をついても晴らしてやろう、というところでしょうか。

 キリスト者は、ありもしないことで、悪口雑言を言われたとしても、それを主のもとに持ち出して慰めていただいたり、お言葉を頂いたりして解決することが出来ますから感謝です。
不快な目にあわされた感情を主のもとに持ち出さないで、自分の心の中に押しとどめておくと、いつか爆発する可能性があります。その感情を外に発散しなければ、自分の心身を病んでしまうことにもなりかねません。
キリスト者は、悪感情であっても、主に聞いていただけるのですから本当にありがたいですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、「義のために迫害された人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ510-12・聖書協会共同訳)と語られました。
また、イエス様は、十字架につけられている状態で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23342017)とも祈られました。
私たちも、主イエス様のように整えられることを願いますが、そこまで整えられていない状態でも、恨みを抱えることは決してありませんように。
心に生じたすべての悪感情を主にきよめていただき、愛に満たしていただき、聖霊に満たされて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 6日 (水)

詩篇94:1-7 悪しき者を裁いてくださいとの嘆願/罪が満ちると主は裁かれるお方

 詩篇941-7.23には次のように記されています。
1 報復の神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ。報復の神よ、輝き出てください。
2
 地を裁かれる方よ、立ち上がり、高ぶる者に報いてください。
3
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るのでしょうか。
4
 彼らは思い上がった言葉を吐き散らし、悪事を働く者は皆、傲慢に語ります。
5
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、ご自分の民を苦しめます。
6
 やもめや寄留の民を殺し、みなしごを虐殺します。
7
 彼らは言います。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は見ていない。ヤコブの神は気付かない」と。/
23
 主は彼らの不義に報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる。我らの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らを滅ぼされる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、悪が満ちると裁きを行われるお方です。
創世記6章には、ノアの時代のことが次のように記されています。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
7
そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。・・・」”(2017)とあり、
 創世記11章には、人が、神ヤハウェ(主)反抗して歩んでいこうとしたため、言葉を乱されたことが次のように記されています。
3.4 やがて大都市を建設しようという話が持ち上がりました。永久に残る記念碑として、天にも届くような塔を造り、自分たちの力を見せつけようというのです。「こうやって一致団結すれば、あちこちに散らされる心配もなくなるだろう。」そう豪語すると、人々はよく焼いた堅いれんがをうずたかく積み上げ、アスファルトで固めました。/
6
「なんということだ。同じことばを使い、一致して事にあたると、人間はこれだけの事をやすやすとやり遂げてしまう。この分だと、これからどんなことを始めるか、わかったものではない。思ったことを何でもやってのけるに違いない。
7
地上へ降りて行って、彼らがそれぞれ違ったことばを話すようにしてしまおう。そうすれば、互いの意思が通じなくなるだろう。」”(リビングバイブル)とあります。
 創世記15章では、イスラエルを用いたヤハウェ(主)によるカナンの民への処罰について、罪が満ちたら主が裁くということを、主はアブラムに次のように語っています。
13 主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである〔アモリびとの悪がまだ満ちないからです(口語訳)〕。」
”(聖書協会共同訳)と記されています。

 創世記18.19章には、ソドムとゴモラの裁きについて次のように記されています。
1820 そして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは実に大きく、その罪は極めて重い。
21
 さあ、私は降って行って、私に届いた叫びのとおり、彼らが確かに行っているのかどうか見て確かめよう。」
19
24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、ソドムとゴモラの上に、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のもとから、すなわち天から硫黄と火を降らせ、25 これらの町と低地一帯、町の住民すべてと、土地に芽生えるものを滅ぼされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 出エジプト1229.30には、神ヤハウェ(主)の御言葉に従わず、9回にも及ぶ主の御業を見させられながら、さらに逆らい続けたエジプトのファラオへの裁きについて次のように記されています。
29 深夜になり、主はエジプトの地のすべての初子を打たれた。王座に着くファラオの初子から、地下牢にいる捕虜の初子まで、さらに家畜の初子もすべて打たれたので、30 ファラオもその家臣もすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人のない家はなかったので、悲痛な叫びがエジプトで上がった。”(聖書協会共同訳)とあります。
 出エジプト1421-28には、初子(ういご)を殺されても悟らなかったエジプトのファラオが紅海で死体となったことが次のように記されています。
21 モーセが海に向かって手を伸ばすと、主は夜通し強い東風で海を退かせ、乾いた地にした。水が分かれたので、
22
 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。
23
 エジプト人は彼らの後を追って行き、ファラオの馬も戦車も騎兵もすべて海の中に入って行った。
24
 朝の見張りのとき、主はエジプト軍を火と雲の柱から見下ろされ、エジプト軍をかき乱された。
25
 主が戦車の車輪を外し、進みにくくされたので、エジプト人は言った。「イスラエルの前から逃げよう。主が彼らのためにエジプトと戦っているのだ。」
26
 主はモーセ に言われた。「海に向かって手を伸ばしなさい。水はエジプト人の戦車と騎兵の上に戻るだろう。」
27
 モーセが海に向かって手を伸ばすと、海は夜明け前に元に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主は彼らを海の中に振り落とされた。
28
 水は元に戻り、戦車も騎兵も、彼らの後を追って海に入ったファラオの軍隊すべてを呑み込み、一人も残らなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)が行ったさばきは、その他にも数多く聖書に記されていますが、きりがないので、次にユダの手紙を引用します。
5 あなたがたは十分承知していることですが、思い起こしてほしい。主は一度は民をエジプトの地から救い出しましたが、次に信じない者たちを滅ぼされました。
6
 また、自らの領分を守らず、その住まいを捨てた天使たちを、大いなる日の裁きに向けて、永久につないで暗闇の中に閉じ込められました。
7
 ソドムとゴモラ、またその周辺の町も、この天使たちと同じく、淫らな行いにふけり、異なる肉の欲を追い求めたために、永遠の火の罰を受けて見せしめにされています。/
9
 大天使ミカエルは、モーセの体のことで悪魔と言い争ったとき、あえて罵って相手を裁こうとはせず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」と言いました。/
11
 不幸なことです。彼ら〔唯一の支配者である主イエス・キリストを否定する人。4節参照。(筆者挿入)〕はカインの道を歩み、報酬のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びました。
12
 この者たちは、あなたがたの愛餐の染みです。厚かましくも宴席に連なり、わが身を養っています。彼らは、風に吹き飛ばされる水なき雲、実を結ばず枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、13 わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、さまよう星です。彼らには、真っ暗な闇が永遠に待ち受けています。
14
 アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は幾万の聖なる者たちを引き連れて来られる。15 すべての人に裁きを行うため、神を畏れぬ者たちが犯したすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人が主に対して口にしたすべての暴言とを罪に定めるためである。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 言葉と裁きの関係について主イエス様は次の様に語られました。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ1236.37・聖書協会共同訳)と記されています。

 主の裁きについて書いてくると、だれもが、「もう、私はダメ。」と思うと思います。
少なくとも私はそうです。
しかしありがたいことに、主は次の様に語られました。
13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。
14
 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も〔十字架の上に(筆者挿入)〕上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章・聖書協会共同訳)と記され、続く個所には次のように記されています。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17
 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
18
 御子を信じる者は裁かれない。/
36
御子を信じる人は永遠の命を得る。”(ヨハネ3章・聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様を、神の御子、キリスト(メシア)、主(ヘブライ語で「ヤハウェ」、ギリシア語で「キュリオス」)、救い主(ヘブライ語で「イエシュア」、すなわちイエスは、「神は救う」の意)と信じさせていただけましたことを感謝します。
口を開けば、罪に定められるような者です。
このような私をも救ってくださり感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ああ驚くべきイェスの愛よ」の1番(聖歌699 聖歌総合版759
“1.ああ 驚くべき イェスの愛よ 罪をのみさる 大御恵(みめぐみ)よ いかなる者も 立ち返らば 救いたもう 主の恵みよ 恵みの深さ広さ はかりうるものなし 深さ広さ誰かはかりうる? 汚れに汚れし身も 恵みにて救わる とうとき御名をたたえよ たたえよ”

2023年9月 5日 (火)

申命記29:15-28 捕囚の預言/祝福される生き方

 申命記2915-28には次のように記されています。
15 私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また諸国民の間を通って来たことは、あなたがたはよく知っているはずだ。なぜなら、あなたがた自らが 通って来たからだ。
16
 あなたがたは、彼らのところにある木や石、銀や金でできた憎むべき偶像を見た。
17
 あなたがたの中に、今日、心変わりして私たちの神、主を離れ、諸国民の神々のもとに行って仕えるような男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。
18
 この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。
19
 主はその人を赦そうとはされない。その時、主の怒りと妬みは燃え上がり、この書に書かれているすべての呪いがその者にかかり、主は彼の名を天の下から消し去られる。20 主はイスラエルのすべての部族から彼をえり分け、この律法の書に書かれている契約の呪いに従って災いを下される
21
 後の世代の者たち、すなわち、あなたがたの後に続く子孫や、遠くの地から来た外国人も、その地に主が下された災いと病を見て言うであろう。
22
 「主が怒りと憤りで覆されたソドムやゴモラ、アドマやツェボイムのように、その地はすべて硫黄と塩で荒廃し、種も蒔けず、いかなる草も育たず、生えない。」
23
 また、あらゆる国民は言うであろう。「主はなぜ、この地にこのようなことをされたのか。どうしてこのように大いなる怒りを燃やされたのか。」
24
 これに対して人々は言うであろう。「彼らの先祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出したときに結ばれた契約を、彼らが捨て25 彼らの知らない、また彼らに割り当てられてもいない他の神々のもとに行って、これに仕え、これにひれ伏したからである
26
 それゆえ、主の怒りがこの地に向かって燃え、この書に書かれている呪いがことごとく臨んだのである。
27
 主は怒りと憤りと激怒をもって彼らをその土地から引き抜き、他の地に投げ捨てて今日のようにされた。」28 隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものであり、私たちがこの律法のすべての言葉を行うためである。”(聖書協会共同訳)とあります。
(口語訳、新改訳のこの個所は、16-29節となっています。)

 十戒の第一~第四には、
7 あなたには、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕以外に、ほかの神があってはならない。
8
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。9 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
11
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。
12
安息日を守って、これを聖なるものとせよ。”(申命記5章・2017)と記されています。

 神ヤハウェ(主)との契約を破り、契約を破っても心から悔い改めることなく平然としていたら、神からの呪いが下るという契約をイスラエルは神ヤハウェ(主)と締結していました。
神ヤハウェ(主)からの最初の呪いは、
16 あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。
17
 あなたの籠もこね鉢も呪われる。
18
 あなたの胎から生まれる子も、土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。”(申命記28章・聖書協会共同訳)というものでした。

 呪いには段階があり、ヤハウェ(主)は、神ヤハウェ(主)に背を向けたイスラエルに悔い改めるようにと、折々に預言者を送り、神ヤハウェ(主)とイスラエルの関係を正そうとしました。

 悔い改めて主に立ち返れば、ヤハウェ(主)は、祝福を与えたのです
しかし、立ち返ることをせず、どんどん悪の道に突き進んだ場合は、呪いの最終段階がもたらされます。
 申命記2858-68には次のように記されています。
58 もしこの書に書かれている、この律法の言葉のすべてを守り行わず、この栄(は)えある畏るべき名、あなたの神、主を畏れないならば、59 主はあなたとその子孫に激しい災いを下される。災いは大きく、久しく続き、病もまた重く、久しく続く。
60
 主は、あなたが恐れていたエジプトのあらゆる病気を再び臨ませる。それらはあなたにまとわりつくだろう。
61
 主はさらに、この律法の書に書かれていないあらゆる病と災いをあなたにもたらし、あなたを滅びに至らせる。
62
 あなたがたは空の星のように数が多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、僅かな者しか残らない。
63
 主は、あなたがたを幸せにして数を増やすことを喜ばれたように、今はあなたがたを滅ぼし絶やすことを喜ばれる。あなたが入って所有する土地から、あなたがたを引き離される。
64
 主は地の果てから果てまで、あらゆる民の中にあなたがたを散らされ、あなたはそこで、あなたも先祖たちも知らなかった木や石でできた他の神々に仕えるようになる
65
 その諸国民の中では、安らぐことも、足の裏を休めることもできない。主はその地であなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、気力を挫く。
66
 あなたの命は危険にさらされ、夜も昼もおびえ、その命さえおぼつかなくなる。
67
 あなたは、心に抱く恐怖と目の当たりにする光景のために、朝には「夕方ならよいのに」と言い、夕方には「朝ならよいのに」と言う。
68
 「あなたは二度と見ることはない」と私が言った道を通って、主はあなたを船でエジプトに送り返される。あなたがたはそこで自らの身を男女の奴隷として敵に売ろうとするが、買ってくれる者はいない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主に従えば祝福を与えられたのに、呪いの内容を知らされていながらも、主に背き続けた結果、北イスラエル王国はアッシリアに捕囚となり、南イスラエル(ユダ王国)はバビロンに捕囚となったのです。(ダビデ王の時代は、主の祝福が成就したのです。)

 2列王記17章には次のように記されています。
2 彼は主の目に悪とされることを行った。/
5
 アッシリアの王はこの国の全土に攻め上った。彼はサマリアに攻め上って、三年間この町を包囲した。
6
 そして、ホシェアの治世第九年に、アッシリアの王はサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕囚としてアッシリアへ連れ去り、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディア各地の町に住まわせた。
7
 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から、エジプトの王ファラオの支配から導き上った神、主に対して罪を犯したからである。彼らは他の神々を畏れ敬い、8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国民の風習と、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。
9
 イスラエルの人々は、自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行った。見張りの塔から城壁に囲まれた町に至るまで、すべての町に高き所を築き、10 すべての小高い丘の上に、すべての生い茂った木の下に石柱〔偶像神バアルの依り代(筆者挿入)〕やアシェラ像を立てた。
11
 主が彼らの前から追い払われた諸国民と同じように、彼らはすべての高き所で香をたき、悪を行って主を怒らせた。
12
 「このようなことをしてはならない」と主が言っておられたにもかかわらず、彼らは偶像に仕えたのである
13
 実際、主は、すべての預言者、すべての予見者を通して、イスラエルとユダにこう厳しく命じられていた。「悪の道から離れて立ち帰りなさい。すべての律法に従って、私の戒めと掟を守りなさい。それは私があなたがたの先祖に命じたものであり、僕である預言者を通してあなたがたに伝えたものである。」14 しかし、彼らは聞き従わなかった。自分たちの神、主を信じなかった先祖がかたくなであったように、彼らもかたくなであった。
15
 彼らは、主の掟、主が先祖と結ばれた契約、主が彼らに厳しく命じられた定めを拒み、空しいものに従って歩んで、自らも空しくなり、主が彼らのように行ってはならないと命じられていた周囲の諸国民に従って歩んだ。
16
 彼らは自分たちの神、主の戒めをことごとく捨て去り、自分たちのために、二頭の子牛の鋳像を造り、アシェラ像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕え、17 自分たちの息子や娘に火の中を通らせ〔人身御供(筆者挿入)〕、占いやまじないを行った。彼らは自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い、主を怒らせた。
18
 主はイスラエルに対して激しく怒り、御前から彼らを退け、ただ、ユダの部族だけしか残されなかった。
19
 ところが、ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ
20
 そこで、主はイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、略奪者の手に渡された。こうして彼らをついには御前から捨て去られた。
21
 主がダビデの家からイスラエルを引き裂かれたとき、人々はネバトの子ヤロブアムを王にした。だがヤロブアムは、イスラエルを主から離れるように仕向け、彼らに大きな罪を犯させた。
22
 イスラエルの人々は、ヤロブアムが犯したすべての罪を犯し続け、それから離れなかった。
23
 ついに主は、僕であるすべての預言者を通して語られたとおり、イスラエルを御前から退けられた。主はイスラエルをその土地から捕囚としてアッシリアへと連れ去られ、今日に至っている。”(聖書協会共同訳)とあります。
 ユダ王国の民のバビロン捕囚については省略します(呪いを受ける原理は同じです)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ダビデのように、あなたを愛し、あなたに従えば祝福が与えられることを覚えます。
主を愛し、主に従い、喜びをもって主にお仕えすることが出来る者として主がお整え下さいますように。
そのようにしつつ、主キリスト・イエス様の現われを待ち望む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 4日 (月)

マタイ26:1ー5 キリストの十字架とその予表としての過越し

 マタイ261.2には次のように記されています。
1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2
「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」”(2017)とあります。

 主イエス様が、ご自身が十字架につけられるor殺されるという預言をしたのは、これで4度目です。
一度目のときの予告とペトロ(ペテロ)の反応はマタイ1621-23に次のように記されています。
21 この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22
 すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23
 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 第二回目の予告は、マタイ1722.23に、
22 一行がガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。
「人の子は人々の手に渡されようとしている。23 そして殺されるが、三日目に復活する。」
弟子たちは非常に心を痛めた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 第三回目の予告は、マタイ2017-19に、
17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
18
 「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、19 異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
 そして四度目の予告が今回でした。

 1コリント57に、「私たちの過越の子羊キリスト」(2017)と記されているように、過越しの子羊はキリストの予表でした。

 キリストが誰であるかを、主から遣わされて、証しをする任を負っていた預言者であるバプテスマのヨハネは、まだ主イエス様の弟子となる前のヨハネとペテロ(ペトロ)の兄弟のアンデレに、「見よ、神の子羊」と言ったのです(ヨハネ136)。
アンデレとヨハネは、バプテスマのヨハネの弟子でした(ヨハネ135)が、この後、主イエス・キリスト様の弟子となったのでした。

 過越しの子羊は、過越し迄の四日間、完全であるかどうかを調べられました。
出エジプト12章には次のように記されています。
3 イスラエルの全会衆に告げなさい。
「この月の十日に、父祖の家ごとに、すなわち家族ごとにそれぞれ自分たちのために小羊一匹を用意しなさい。4 もし、家族が小さくて小羊一匹に見合わないなら、隣の家族と共に、人数に合わせて、それぞれ食べる量に見合う小羊を選びなさい。5 あなたがたの小羊は欠陥のない一歳の雄の小羊でなければならず、羊か山羊の中から一匹を選ばなければならない。6 あなたはそれを、この月の十四日まで取り分けておき、夕暮れにイスラエルの会衆は皆集まってそれを屠る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様の場合は、祭司長や民の長老たち、ファリサイ派(パリサイ人)、ヘロデ党の人々、サドカイ派の人々、律法の専門家たちによって、罪(欠陥)を詮索されましたが、ユダヤの宗教指導者たち、政治指導者たちによっても欠陥(罪)を見出すことが出来ませんでした。これらの質問とイエス様の答弁は、マタイ2123-2246に記されています。

 主イエス様には、罪がないゆえに、罪のゆえに逮捕することが出来ませんでした。
それ故、祭司長や民の長老たちは、イエス様をだまして捕らえることにしたのです。
マタイ263-5には次のように記されています。
3 その頃、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファと言う大祭司の屋敷の中庭に集まり、4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
5
 しかし、彼らは、「祭りの間はやめておこう。民衆の中に騒ぎが起こるといけない」と話していた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イザヤ53章には次のように記されています。
5 彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに 平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。/
11
彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、多くの人〔キリストの贖いを信じる人(筆者挿入)〕が正しい者とされるために、彼ら〔私たち(筆者挿入)〕の罪を自ら負った。
12
・・・。彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。”(新共同訳)とあります。

 主イエス様は、十字架上での贖いが完了したとき、「テテレスタイ」(終わった、完了した)と言われました。(ヨハネ1930

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたが愛してやまないひとり子の御子を、これまたあなたが愛してやまない私たち人間のために、そして、その人間の罪を贖うために、神のひとり子の御子で、神であられるお方が、救い主として人の肉体をまとい、その肉において贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
昔は、買い取られたら奴隷として働かされたものですが、あなたは、私たちをキリストの花嫁として買い取り、豊かな愛を注ぎ続けてくださっておられます。
私たちも、キリストを愛し、キリストに従い、喜びをもってキリストに仕えていく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 3日 (日)

箴言24:26.27 心がまっすぐで欲に振り回されず順序をわきまえている人

 箴言2426.27には次のように記されています。
26 率直な答えをする者は、その唇に口づけされる。
27
外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、その後で、あなたは家を建てよ。”(2017)とあります。

 26節のヘブライ語の文は5単語からなっていて、色々に訳せそうです。
それをどのように訳すか、主だった日本語訳聖書は次のように訳していますが、時宜にかなった訳を用いることも出来そうです。

 聖書協会共同訳は、“その唇に口づけすると、真摯な言葉が戻って来る。”と訳し、
新共同訳は、“正しい答えをする人は、くちづけをする人。”と訳し、
新改訳初版~第三版は、“正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる。”と訳し、
口語訳は、“正しい答をする者は、くちびるに、口づけするのである。”と訳し、
文語訳は、“ほどよき應答をなす者は口唇に接吻するなり”と訳し、
NIV
は、“An honest answer is like a kiss on the lips.”と訳し
リビングバイブルは、“率直に答えてもらえることは、ありがたいことだと思いなさい。”と訳しています。

 イエス様は、イエス(yes)のときにはイエスの答え方をし、ノーのときにはノーの答え方をし、答えたくないときには黙っていました(マタイ2712.14、マルコ154.5、ルカ238.9)。

 27節について、おもだった日本語訳聖書は次のように訳しています。
新改訳初版~2017は、“外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、その後で、あなたは家を建てよ。”と訳し、
新共同訳は、“外ではあなたの仕事を準備し、畑を整え、それから、家を築くがよい。”と訳し、
フランシスコ会訳は、“お前の外での仕事をよく果たし、お前の畑をよく耕作し、その後で、お前の家を建てよ。”と訳し、
口語訳は、“外で、あなたの仕事を整え、畑で、すべての物をおのれのために備え、その後あなたの家を建てるがよい。”と訳し、
聖書協会共同訳は、“外で仕事にいそしみ、畑を整えよ。そうすれば、あなたは家を建てることができる。”と訳し、
リビングバイブルは、“家を建てるのは、仕事がうまくいってからにしなさい。”と訳しています。

 今の世は、欲望を満たすために、お金を借りなさい、自己実現のためにお金を借りなさい、という時代です。
しかし、聖書は言います。
“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(へブル1352017)と、また、
6 満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
7
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。
8
衣食があれば、それで満足すべきです。
9
金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。
10
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。”(1テモテ6章・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたに感謝します。
あなたは、私たちの貪欲からくる欲望を満たすのではなく、私たちの必要を満たしてくださるお方ですから感謝します。
天にあるものも地にあるものもすべては主のものであるだけではなく、必要と思えば、創造することもお出来であるお方があなたです。
神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神がすべてのことを働かせて益となるようにして下さいますから感謝します。
あなたの内にあって安らぎつつ、また、あなたからの力を頂いて、与えられたご奉仕を全うしていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「キリストには代(か)えられません」(聖歌521 聖歌総合版539 新聖歌428
“1.キリストには代えられません
世の宝も また富も このお方が私に代わって死んだゆえです
(折り返し) *
世の楽しみよ 去れ 世の誉れよ 行け キリストには代えられません 世の何物も
2.キリストには代えられません
有名な人になることも 人のほめる言葉も この心を引きません *
3.キリストには代えられません
いかに美しいものも このお方で 心の満たされてある今は *”

2023年9月 2日 (土)

詩篇93篇 御子であられるキリストが王となられた

 詩篇93篇には次のように記されています。
1 主は王となられた。主は威厳をまとい、力の衣を身に帯びておられる。世界は固く据えられ決して揺らぐことはない。
2
 王座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえよりおられる。
3
 主よ、潮は上げた。潮は声を上げた。潮はとどろきを上げる。
〔リビングバイブルは、「大海も鳴りとどろいて、あなたを賛美しています。」と訳しています。(筆者挿入)〕
4
 主は大水のどよめきにまさり、大波にまさり、勢いがあり、威勢があり、高みにおられる。
5
 あなたの定めは確かであり、聖なることはあなたの家にふさわしい。主よ、日の続くかぎり。
〔リビングバイブルは、「そのおきては不変で、その支配の原理は、きよさです。」と意訳しています。(筆者挿入)〕”(聖書協会共同訳)とあります。
 1.3.4.5節の「主」は、「ヤハウェ」です。

 出エジプト313-15には、
13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。”(2017)と記されています。

 出エジプト313-15より、ヤハウェ(主)は、「ある」というお方ですから、永遠に存在し、自存のお方であることがわかります。

 新約聖書では、「主」はイエス・キリストです。
キリスト者ならば誰でも知っています。

 さて、キリスト・イエスはヤハウェ(主)なのでしょうか。
キリスト・イエスは神ヤハウェ(主)なのです。

 ゼカリヤ12章には次のように記されています。
1 宣告。イスラエルについての主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。
2
「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。
3
その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。
〔世の終わりの最終戦争の状況です(筆者挿入)〕/
〔主の地上再臨が起こります(筆者挿入)〕
8
その日、主はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。
9
その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。
10
わたし〔「ヤハウェ(主)」のこと(筆者挿入)〕は、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。”(2017)とあります。

 新改訳2017訳のヨエル2章には、次のように記されています。
27 あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。/
32
しかし、主〔ヘブライ語原語は「ヤハウェ」(筆者挿入)〕の御名を呼び求める者は、みな救われる。”とあります。
(新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブルの、ヨエル232を聖書協会共同訳、新共同訳は、ヨエル35としています。)

 ペテロは、ペンテコステの日(五旬節の日)に聖霊に満たされてメッセージを語りました(使徒2章)。
そこで語られたメッセージの中に、“しかし、主〔ギリシア語原語は「キュリオス」(筆者挿入)〕の御名を呼び求める者は、みな救われる。”(使徒2212017)とありますが、その個所は、ペテロのその前の引用個所(使徒217-21)から、ヨエル228-32(特に32節)であることがわかります(新共同訳等は、31-5)。

 パウロもヨエル232を引用して、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(2017)と語りました。

 出エジプトの民を導いたのはヤハウェ(主)でした。
出エジプト1321.22には、
“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。”(2017)とあります。

 さて、今日の本文に戻ります。
2
節には、“王座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえよりおられる。”とありますが、1節を聖書協会共同訳は、「主は王となられた。」と訳しています。ヘブライ語聖書の原文は「ヤハウェ マラク」なので、「主 王」とだけあります。口語訳も同じような意味合いで、「主は王となり、」と訳していますが、新改訳初版~第三版は「主は、王であられ」と訳し、新改訳2017は「主こそ王です」と訳し、新共同訳は「主こそ王」と訳しています。

 聖書協会共同訳は、1節を、“主は王となられた。主は威厳をまとい、力の衣を身に帯びておられる。世界は固く据えられ決して揺らぐことはない。”と訳し、
5
節は、“あなたの定めは確かであり、聖なることはあなたの家にふさわしい。主よ、日の続くかぎり。”と訳されています。

 私は、この詩篇93篇は、キリストの千年王国を統治するキリストの預言詩ではないだろうかと想像します。(いろいろな捉え方はありますが。)

 5節の最後には、「日の続く限り」とありますが、新天新地の時代になると、もう夜はありません(黙示録225)。日にちを数えることはなくなるでしょう、永遠なのです。キリストの千年王国時代には、太陽も月もあります。

「日の続く限り」の個所のヘブライ語は、「レオーレク ヨーミーム」で、直訳すると、日々の長さに、となり、日々の期間に、日々のとこしえに、とも訳せます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたを賛美します。
主イエス様が、全世界を統治なさる時が待ち遠しいです。
今の世界は、偽りや不正や暴虐が横行し、聖書の神のことばが軽視されるどころか、わざと反対のことをするような時代です。
あなたは、罪が満たされると裁きを行われますが、その前に携挙してくださいますから感謝します。
あなたの御心がなりますように。
あなたは御心を行ってくださいますから御名を賛美します。
主を待ち望みつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年9月 1日 (金)

申命記29:9-14 神ヤハウェ(主)とイスラエルの間で締結された祝福と呪いを伴う律法契約/キリストを信じた者への祝福

 申命記299-14には次のように記されています。
9 今日あなたがたは全員、あなたがたの神、主の前に立っている。部族の頭たち、長老たち、役人たち、イスラエルのすべての男たち、
10
 あなたがたの子どもたちや妻たち、それに陣営の中にいる寄留者、すなわち、木を切る者から水を汲む者までがすべている。
11
 それは、あなたの神、主の契約、すなわち、今日、あなたの神、主があなたと結ばれる、呪いを伴う契約に入るためである。
12
 こうして主があなたに約束し、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたとおり、今日、主はあなたをご自分の民として立て、あなたの神となられる。
13
 私はあなたがたとだけ、この呪いを伴う契約を結ぶのではなく、
14
 今日、ここで私たちの神、主の前に、私たちと共に立っている者、ならびに、今日、ここに私たちと共にいない者とも結ぶのである。”(聖書協会共同訳)とあります。
(この個所は、口語訳、新改訳、リビングバイブルでは、10-15節になります。)

 13節を聖書協会共同訳は、“私はあなたがたとだけ、この呪いを伴う契約を結ぶのではなく、”と訳していますが、
口語訳は、“わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。”と訳し、文語訳も同様の意で訳しています。
新改訳、新共同訳は、聖書協会共同訳のような意で訳しています。
 リビングバイブルは、聖書協会共同訳の13.14節をまとめて、
“この契約は、今、主の前に立っている者とだけでなく、イスラエルの子孫全員と結ばれます。”と訳しています。

 「呪い」(聖書協会共同訳、新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳)、「誓い」(口語訳、文語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「アーラー」で、どちらの意にも使われるのです。

 実際、イスラエルは神ヤハウェ(主)と、祝福と呪いを伴う律法契約を結びました。

 神ヤハウェ(主)を捨て、神ヤハウェ(主)以外を神とし偶像礼拝をする場合には、神からの呪いが注がれます。
聖書協会共同訳の申命記2915-20には次のように記されています。
15 私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また諸国民の間を通って来たことは、あなたがたはよく知っているはずだ。なぜなら、あなたがた自らが通って来たからだ。
16
 あなたがたは、彼らのところにある木や石、銀や金でできた憎むべき偶像を見た。
17
 あなたがたの中に、今日、心変わりして私たちの神、主を離れ、諸国民の神々のもとに行って仕えるような男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたの中に毒草や苦よもぎの根があってはならない。
18
 この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。
19
 主はその人を赦そうとはされない。その時、主の怒りと妬みは燃え上がり、この書に書かれているすべての呪いがその者にかかり、主は彼の名を天の下から消し去られる。
20
 主はイスラエルのすべての部族から彼をえり分け、この律法の書に書かれている契約の呪いに従って災いを下される。”とあります。

 神ヤハウェ(主)から呪われてイスラエルの地から追いやられても、追いやられた地で、心から悔い改めて主に立ち返るならば、神ヤハウェ(主)は、イスラエルをイスラエルの地に戻してくださる、とヤハウェ(主)は約束されました。
申命記301-5には次のように記されています。
1 私があなたの前に置いた祝福と呪い、これらすべてのことがあなたに臨むとき、あなたは、あなたの神、主があなたを追いやった先のあらゆる国民の中で、その言葉を思い起こし、
2
 あなたの神、主のもとに立ち帰り、私が今日命じるように、あなたの息子たちと共に、心を尽くし、魂を尽くして、主の声に耳を傾けなさい。
3
 そうすれば、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から連れ戻し、あなたを憐れみ、あなたの神、主があなたを散らした先のすべての民の中から再び集めてくださる。
4
 たとえ天の果てに追いやられても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、連れ戻してくださる。
5
 あなたの神、主は、あなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れてくださり、あなたはそれを所有することができる。そして、主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やしてくださる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、イスラエルに律法を守れば祝福し、すなわち命と幸いを与え、律法を守らなければ呪われる、すなわち死と災いを与える、ということを語られました。15-20節には次のように記されています。
15 見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。
16
 私が今日あなたに命じているとおり、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される。
17
 しかし、もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされ、他の神々にひれ伏し、仕えるならば、
18
 私は今日、あなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って所有する土地で長く生きることはできない。
19
 私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。
20
 あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 私たちは新契約(新約)時代に生きるキリスト者です。
神ヤハウェ(主)は、私たちキリストを信じる者(キリストを心にお迎えした者)をどのように扱われるのでしょう。
 キリスト者の魂を救ってくださいます。
1ペテロ1:8.9には次のように記されています。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9
あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。”(2017)とあります。

 キリスト者は新生したもの{二度目の誕生(再生)をしたもの}です。
1
ペテロ13には、“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。” (2017)とあります。
ヨハネ3.3.6には、
3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく〔ギリシア語原語は「アノーセン」で、「新しく」の他に「上から」の意もあります。「上から新しく」(筆者挿入)〕生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって〔直訳「霊から」。神の霊から(筆者挿入)〕生まれた者は霊です。”(2017)と主イエス様の御言葉が記されています。

 キリスト者は神の子どもとされています。
1
ヨハネ31.2には、
1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。
2
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。”(2017)と記されています。

 キリスト者は、キリストの空中再臨の時に霊のからだを与えられます。
1
コリント15章には、
40 また、天上の体〔霊のからだ(筆者挿入)〕と地上の体〔肉体(筆者挿入)〕があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。/
50
肉と血〔肉体(筆者挿入)〕は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。/
49
わたしたちは、〔体についていえば(筆者挿入)〕土からできたその人〔アダム(筆者挿入)〕の似姿となっているように、天に属するその人〔復活のキリスト(筆者挿入)〕の似姿にもなるのです。
51
わたしはあなたがたに神秘〔奥義(新改訳)〕を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
52
最後のラッパ〔神のラッパ{1テサロニケ416}(筆者挿入)〕が鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです〔ギリシア語原語は「アトモス」で、「uncut」、瞬きよりも早い時間です。(筆者挿入)〕。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。”(新共同訳)と記されています。

 キリスト者は自分を整えていただけるように御父に願う生き方をします。
それは、主がそのような思いを持たせてくださっておられるからでしょう。
黙示録2211には、“不正を行う者には、ますます不正を行わせ、汚れた者は、ますます汚れた者とならせなさい。正しい者には、ますます正しいことを行わせ、聖なる者は、ますます聖なる者とならせなさい〔聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい(新改訳初版~第三版)、聖なる者は聖化され続けさせなさい(岩波訳)〕。”(2017)と記され、
 1ヨハネ32.3には、
2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。”と記され、
 ピリピ(フィリピ)213には、
“神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。”(新改訳初版~第三版)と記されています。

 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ132017

<お祈り>
天のお父様。
あなたを賛美します。
豊かな豊かな祝福を感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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