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2023年10月

2023年10月31日 (火)

申命記33:6-11 ルベン、ユダ、レビへの祝福(預言)

 申命記336-11には次のように記されています。
6 「ルベンを生かし、殺さないでください。その数が少なくなるとしても。」
7
 ユダについて彼は言った。
「主よ、ユダの声を聞き、その民のもとに戻してください。彼は自分の手で戦っています。あなたがその敵からの助けとなってください。」
8
 レビについて彼は言った。
「あなたのトンミムとウリムを、あなたに忠実な者に与えてください。あなたはマサで彼を試み、メリバの水のほとりで彼と争われた。
9
 彼は父と母について、『私は彼らを顧みない』と言い、兄弟も認めず、自分の子さえ無視し、あなたの仰せに従い、契約を守りました。
10
 彼らは、あなたの法をヤコブに、あなたの律法をイスラエルに教え、御前に香をたき、あなたの祭壇に焼き尽くす献げ物を献げる。
11
 主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。彼に逆らう者の腰を打ち砕き、憎む者を立ち上がれないようにしてください。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 6節を、口語訳は、「ルベンは生きる、死にはしない。しかし、その人数は少なくなるであろう。」と訳しています。
新共同訳は、「ルベンを生かし、滅ぼさないでください。たとえその数が少なくなるとしても。」と訳しています。
ルベンのこの預言(or祈り)が成就したのはいつでしょうか。
それはヤハウェ(主)がアッシリアを用いて北イスラエルを攻撃させ、北イスラエルが敗北した時のことであろうと思います。
申命記425-27には次のように記されています。
25 もしあなたが子や孫をもうけ、その地で年を取り、堕落してあらゆる形の彫像を造り、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、主を怒らせるならば、
26
 私は今日あなたがたに対して、天と地を証人として呼び出す。あなたがたは、ヨルダン川を渡って行って所有する地〔ルベン族はヨルダン川を渡らず、ヨルダン川の東側に所有地を得ましたから、ヨルダン川を渡った部族よりも不忠実であったのです。創世記178、民数記32章参照(筆者挿入)〕から取り去られ、たちまち滅び去る。あなたがたはそこで長く生きることはできない。必ずや滅ぼされる。
27
 主は、あなたがたをもろもろの民の中に散らされる。しかし、主が追いやる先の国々で僅かな者は残される。”(聖書協会共同訳)とあります。

 2列王記1529には、「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った。」(新共同訳)と記されています。
ルベン族は広義で言うギレアドの地にありました。

 7節には、“ユダについて彼は言った。「主よ、ユダの声を聞き、その民のもとに戻してください。彼は自分の手で戦っています。あなたがその敵からの助けとなってください。」”とあります。
 
 ユダ族は実によく戦いました。士師記11-20にユダ族とカナン人との戦いが記されています。時代は下り、ヤハウェ(主)が、ユダ族から王としてダビデを選ばれ、ユダ族を中心とした戦いは続きました。その後、北イスラエルと南イスラエル(ユダ族であるダビデの子孫が王位を継承)の間の戦いや他国との戦いもありました。7節はユダの為のとりなしの祈りとして、事の起こる前にささげられています。

 8-11節は、レビについての預言と祈りが記されています。
8
節には、「あなた〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のトンミムとウリムを、あなたに忠実な者に与えてください。あなたはマサで彼を試み、メリバの水のほとりで彼と争われた。」とあります。

 ウリムとトンミムは、ヤハウェ(主)の御旨を伺うための物でした。ウリムとトンミムは大祭司の胸当てに入れられていました(出エジプト2830)。
参考として、1サムエル1437-43の記事を下記します。
37 そこでサウルは神に伺った、
「わたしはペリシテびとを追って下るべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡されるでしょうか」。
しかし神はその日は答えられなかった。
38
そこでサウルは言った、
「民の長たちよ、みなこの所に近よりなさい。あなたがたは、よく見きわめて、きょうのこの罪が起きたわけを知らなければならない。
39
イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それがわたしの子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない」。
しかし民のうちにはひとりも、これに答えるものがいなかった。
40
サウルはイスラエルのすべての人に言った、
「あなたがたは向こう側にいなさい。わたしとわたしの子ヨナタンはこちら側にいましょう」。
民はサウルに言った、「良いと思われることをしてください」。
41
そこでサウルは言った、
「イスラエルの神、主よ、あなたはきょう、なにゆえしもべに答えられなかったのですか。もしこの罪がわたしにあるか、またはわたしの子ヨナタンにあるのでしたら、イスラエルの神、主よ、ウリムをお与えください。しかし、もしこの罪が、あなたの民イスラエルにあるのでしたらトンミムをお与えください」。こうしてヨナタンとサウルとが、くじに当り、民はのがれた。
42
サウルは言った、
「わたしか、わたしの子ヨナタンかを決めるために、くじを引きなさい」。
くじはヨナタンに当った。
43
サウルはヨナタンに言った、「あなたがしたことを、わたしに言いなさい」。
ヨナタンは言った、「わたしは確かに手にあったつえの先に少しばかりの蜜をつけて、なめました。わたしはここにいます。死は覚悟しています」。”(口語訳)と記されています。
神意を伺うウリムとトンミムは正しい答えを出しました。主が関与されているからです。

 「くじ」について、聖書辞典は次のように述べています。
“旧約聖書におけるくじ引きは神の意志を見出すために行われた。大祭司が着たエポデの付属品ウリムとトンミム(出28:30,レビ8:8)もそのために用いられた(民27:21,エズ2:63,ネヘ7:65)。”と記されています。

 箴言1633には“くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。”(2017)と記されています。

 8節後半には、「あなたはマサで彼を試み、メリバの水のほとりで彼と争われた。」とあります。
マサ(メリバ)での出来事は、出エジプト171-7、民数記201-13に記されています。

  9節には、「彼は父と母について、『私は彼らを顧みない』と言い、兄弟も認めず、自分の子さえ無視し、あなたの仰せに従い、契約を守りました。」記されています。
 これは、金の子牛事件のときのことです。出エジプト3226-29に記されていますが、出エジプト321から読んでいくとよく分かります。
申命記339をリビングバイブルは、「レビ族は御教えに従いました。大ぜいの悪人を殺し、自分の子ども、兄弟、両親さえも容赦しませんでした。」と訳しています。

 このリビングバイブルの訳を読むと、イエス様が語られた弟子の条件の一部を思い起こします。それは何よりも主イエス様を第一に愛しますか、ということです。マタイ1034-39には次のように記されています。
34 「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35
 私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。36 こうして、家族の者が敵となる。
37
 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。
38
 また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない。
39
 自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 10節には、「彼らは、あなたの法〔「定め」(2017)、「裁き」(新共同訳)。ヘブライ語原語は「ミシュパート」(筆者挿入)〕をヤコブに、あなたの律法〔「御教え」(2017)。ヘブライ語原語は「トーラー」(筆者挿入)〕をイスラエルに教え、御前に香をたき、あなたの祭壇に焼き尽くす献げ物を献げる。」(聖書協会共同訳)とあります。
これは、レビ族に与えられた職務(宗教教育と祭儀)です。

 11節には、「主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。彼に逆らう者の腰を打ち砕き、憎む者を立ち上がれないようにしてください。」とあります。
これはモーセの祈りです。レビ族及び、レビ族に属する祭司、大祭司が、ヤハウェ(主)から命じられたとおりにヤハウェ(主)にお仕えしたら、この祈りは成就することでしょう。

 キリスト者も新約時代の祭司です。
1
ペテロ29には「・・あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(新改訳2017)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちキリスト者は新約の祭司として立てられています。
あなたを愛し、あなたに忠実に仕える祭司としてご奉仕させていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン

2023年10月30日 (月)

マタイ27:32-44 十字架につけられたイエス様とイエス様の両脇に十字架につけられた強盗達1

 マタイ27.32-44には次のように記されています。
32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人〔ギリシア語原語は「クレーナイオス」(筆者挿入)〕に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。
37
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
38
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。”(新共同訳)とあります。

 33.34節を2017は次のように記しています。
33 ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。”と訳しています。

 34節の「苦味」と訳されている語のギリシア語原語は「コレー」で、「鎮痛剤」の意もあります。マルコ1523には「没薬」とあり、マルコ1522.23には次のように記されています。
22 彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23
彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。”(2017)とあります。

 イエス様の十字架は、私たち罪人を贖うための十字架です。
それ故、苦味の入ったぶどう酒を飲んで痛みを和らげることなく、痛みのすべてをそのまま受け入れる必要があったのでしょう。
イザヤ5311には“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。”(新共同訳)と記され、
この個所を2017は“彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。”と記しています。
イザヤ53章は、イエス様の十字架よりも七百年位前に預言として記されたものです。

 もし弱虫の私がイエス・キリストを信じる信仰のゆえに十字架につけられることがあったなら、没薬ではなく、モルヒネが欲しいですね。キリスト者は死ねば天国です。

 35節には“彼ら〔ローマの兵士たち(筆者挿入)〕はイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。”(2017)と記されています。
並行記事であるヨハネ1923.24aには次のように記されています。
23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
24a
そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。”(新共同訳)とあります。

 詩篇2218には“彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします。”(2017)と預言されていました。この預言はキリストの十字架の千年位前のものでした。

 39.40節には次のように記されています。
39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(新共同訳)と。
主イエス様は、三日目に復活されたのです。
主イエス様のお体こそ神の霊が住んでおられる神殿でした。
新約時代、キリスト者のからだは、神の霊が住んでくださっておられる神殿(宮)です(1コリント316,619)。”

 「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」という者たちもいましたが、もしイエス様が十字架から下りてしまわれたら、贖いが成就せず、この世に救われる者がいなくなってしまうのです。そして、すべての人が、自分の罪のために死に、死後に裁きを受け、行先は火の池に行くことになります(黙示録2011-15)。

 宗教指導者たちや民の指導者たちも、主イエス様が行った善き業を認めていました。
42
節を読むと、指導者たちも、主イエス様が、「他人を救った」と認めています。
使徒ヨハネは、主が行われたさまざまな奇跡をヨハネの福音書の2-11章に7つのしるし(ヨハネ21-11446-5451-961-14616-2191-12111-44)として記しました。その意図は、イエスがキリストであることを明らかにするものでした。主イエス様を信じた人は信仰を強められたのです。一方、イエスがキリストであるというしるしや証しを見、また聞いても信じない人は罪に定められたのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の十字架を自分のものとして信じさせていただけましたことを感謝します。
主イエス様が贖いを成就してくださらなかったならば、私の行き先は火の池でした。
主イエス様の十字架、復活、昇天、高挙のゆえに、私も御父の最大の祝福の内に主イエス様と共にとこしえに生きることができますことを感謝します。
御名に感謝と賛美をささげつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月29日 (日)

箴言26:1.2 呪いを引き受けてくださったイエス様

 箴言261.2には、
1 夏の雪のように、また刈り入れ時の雨のように、愚かな者に誉れはふさわしくない。
2
 渡り行く鳥のように、飛び行くつばめのように、呪いが理由もなく襲い来ることはない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 1節の「ふさわしい」と訳されている語のヘブライ語原語は「ナーヴェー」で、適切な、の意もあります。
「愚か者」と訳されている語のヘブライ語原語は「ケシール」で、思慮の無い(者)、浅はかな(者)、・・等の意もあります。

 余り思慮深くない人であまり褒められたことにない人が、大いに褒められて後、感情の高ぶりから精神的に少しおかしくなってしまったという人を見たことがあります。
誉め言葉を言った人の方も、少し浅はかであったのかもしれません。

 2節を口語訳は“いわれのないのろいは、飛びまわるすずめや、飛びかけるつばめのようなもので、止まらない〔来ることはない(筆者挿入)〕。”と訳しています。

 主イエス様を信じているのに、何か悪いことが立て続けに起きたとき、異教の神(悪霊)を信じている人から、それは呪われているのだから、除霊をしてもらった方が良い、と言われて嫌な気分になっている人を見たことがありました。

 イエス・キリスト様は律法ののろいをすべて身代わりに受けてくださったお方です。
ガラテヤ313には、“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(2017)と記されています。

 キリスト者に起こる、一見悪く見えることはすべて、神様からの祝福です。
ローマ828には“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる・・。”(口語訳)と記されています。

 ヨハネ116には“私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。”(2017)と記されています。
キリスト者は、主イエス様から「恵みの上にさらに恵み」を受けつつ地上生涯を歩んでいる者です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たちは、主イエス様から恵みの上に恵みを頂きつつ歩ませていただいております。
そのように思える考え方をして地上生涯を歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月28日 (土)

詩篇103:3-5 主の贖い、恵み、赦し、癒し、祝福

 詩篇1033-5節には
3 主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、
4
あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
5
あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。”(2017)と記されています。

 3節前半を2017は“主はあなたのすべての咎を赦し”と訳していますが、おもだった日本語訳聖書は、2017が「咎」と訳した語を、「咎」(新改訳)、「過ち」(聖書協会共同訳)、「罪」(新共同訳)、「不義」(口語訳、文語訳)と訳しています。そのように訳されている語のヘブライ語原語は「アーボーン(アーオーン)」で、「つむじ曲がり、強情」、(倫理的、道徳的)「悪」の意で、過失、罪、不正、邪悪、いたずら、悪さ、(不正の)罰、等の意で用いられます。

 4節前半には“あなたのいのちを穴から贖われる。”(2017)とあります。
「穴」(新改訳)、「墓」(口語訳、文語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「シャハト」で、「穴」の意ですが、破滅、破壊、墓、堕落、等の意もあります。

 新約的に言えば、御子イエス・キリストがご自身の肉の体の命をもって贖ってくださったということ、そしてキリストの復活をも土台として、罪、過ち等の赦し、病の癒し、死からの解放、新生、霊の体へのよみがえりor霊のからだへの変貌がもたらされるのですよ、ということになります。

 マルコ1045には、“・・多くの人の贖いの代価として、自分の命を与える・・”(2017)という主イエス様の御言葉が記されています。
コロサイ112には“・・、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。”(2017)と記され、
へブル10章には、
5 ・・キリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。」/
10
・・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)と記されています。

 病の癒しについては、この世でその体験をする人もいるでしょう。しかしいずれにしても、肉のからだは罪のために滅びることになります。
天国においては、天国にふさわしい霊のからだが必要なのです。
 1コリント15章には、
40 ・・、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、・・、/
50
・・・。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」”(2017)と記されています。
ハレルヤ!

 4節後半には“主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ”(2017)と記されています。
 「恵み」(新改訳、リビングバイブル)、「慈(いつく)しみ」(口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)と訳されている語のべブライ語原語は「ヘセド」で、親切、良き行為、慈悲、情け、恵み、(神に対しては)信心、敬虔、等の意があります。
 「憐(あわ)れみ」と訳されている語のヘブライ語原語は「ラハム」で、思いやり、深い同情、憐れみ、子宮、腸、慈悲、憐れみ深い、優しい、等の意があります。

 5節には、“あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。”(2017)と記されています。
前半部分に「一生」という語がありますが、欄外注には“「飾り」の読み替え”と記されています。
聖書協会共同訳は、「望み」と訳し、欄外注に“「望み」という訳は70人訳ギリシア語聖書による。ヘブライ語聖書は「飾り」”と記しています。
新共同訳は「長らえる限り」と訳し、口語訳は「生きながらえるかぎり」と訳し、リビングバイブルは「一生」と訳しています。

 旧約時代にあっては、肉体をもって地上に生きている間のことに心が向けられていました。
サドカイ派の人々は、エルサレムの神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級の人々でありましたが、この派の人たちは、復活はないと主張していたのです(マタ2223、使徒238)。

 私たちキリスト者は、この世だけではなく、すでに永遠を生きています。
地上は、永遠の生活の中の地上での生活部分であり、天上は天における生活部分です。
地上において肉体は、成長期が終われば衰えていきますが、霊的、たましい的には、日々新たにされ、肉体がボロボロでも霊と魂は生き生きと歩むことができる恵みを与えられています。
パウロは、「・・、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4162017)と語りました。
私自身も、肉体はボロボロですが、内なる人は元気です。
このようにしてくださっておられる主の御名をほめたたえます。

 キリスト者は、“神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(エペソ13・新共同訳)と言える者です。
ハレルヤ!
何という恵みを与えられたことでしょうか。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの聖なる御名をほめたたえます。
日々、あなたに感謝し、常に主イエス様に主権を取っていただき、聖霊に満たされて歩ませていただけますように。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。

2023年10月27日 (金)

申命記33:1-5 主は私たちの王

 申命記331-5を、
聖書協会共同訳は、
1 これは、神の人モーセがその死に臨んで、イスラエルの人々に述べた祝福の言葉である。
2
 「主はシナイから来られ、セイルから彼らのために輝き昇り、パランの山から光を放つ。幾万の聖なる者たちを従えて来られ、その右の手には燃え上がる炎がある。
3
 民を心から愛し、聖なる者をすべて御手の内に置かれる。彼らはあなたの足元に導かれ、あなたの言葉を受ける。
4
 モーセは私たちに律法を命じ、ヤコブの会衆のものとした。
5
 民の頭たちがイスラエルの諸部族と共に集まったとき、主はエシュルンで王となられた。”と訳し、

2017
は、
1 次は神の人モーセが、その死を前にしてイスラエルの子らを祝福した、祝福のことばである。
2
彼は言った。
「主はシナイから来て、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、幾万もの聖なる者のところから近づいて来られる。その右手に彼らの御使いたちを伴って。
3
まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、御手のうちにすべての聖なる者がいる。彼らはあなたの足もとにひれ伏し、あなたの御告げを受ける。
4
みおしえはモーセが私たちに命じ、それをヤコブの会衆の所有とした。
5
民のかしらたちがイスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」”と訳し、

リビングバイブルは、
1 次にあげるのは、神に立てられた忠実な指導者モーセが、死を目前にしてイスラエルの人々を祝福した時のことばです。
2
「主はシナイ山でわれわれのところに来られ、セイル山からご自身を現わし、無数の天使に囲まれ、パラン山から光を放たれました。その右手には炎が燃えさかっていました。
3
ああ主は、どんなに深く民を愛しておられることか。聖徒はあなたの腕にしっかりと抱(いだ)かれています。主よ、彼らはあなたの跡(あと)に従い、御告げを受けました。
4
私が伝えたあなたの御教えは、何よりも大切な宝です。
5
主は部族の指導者たちに選ばれ、エルサレム(エシュルン)で王(神)となられました。”と意訳しています。

 1節には、「これは、神の人モーセがその死に臨んで、イスラエルの人々に述べた祝福の言葉である。」(聖書協会共同訳)とあります。
モーセは、33章に記されている祝福の言葉を語り終えると、ネボ山に登り、ピスガの頂からカナンの地を見させてもらった後、地上生涯を終えたのです。
2
節からモーセのことばが始まります。モーセの祝福の言葉の中には、過去のものも未来のものもあります。

 2節を2017は、“彼は言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシナイから来て、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、幾万もの聖なる者のところから近づいて来られる。その右手に彼らの御使いたちを伴って。」”と訳しています。
各聖書で若干の訳の違いがありますが、ポイントは、ヤハウェ(主)が、シナイ山でもセイルでもパランの山でも非常に多くの天使を伴って栄光の輝きの内に現れて下さった、ということであろうと思います。

 シナイ山にヤハウェ(主)が現れた時の様子を、出エジプト1916.18には、“16. ・・、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音(ね)が鳴り響いた・・。18. シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降(くだ)られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。”(新共同訳)と記されています。

 新約時代になって、私たちのところに来てくださった主イエス様は、私たちがビックリしないよう、やさしく私たちの内に来てくださいました。
 とは言うものの、サウロのような場合もありました。
キリスト者を迫害していたサウロ{これはヘブル名(サーウール)ギリシア語ではパウロス}に、主イエス様が現れたときは、太陽よりも強い光でサウロを照らし、雷のような轟の声でサウロに語られたのです。
この時、サウロは倒れたのか腰を抜かしたのか分かりませんが、地に倒れ、かつ失明したのです(使徒93-9226-92613-16)。
私のときには、主がパウロの時のような、或いはシナイ山の時のような現れでなかったので本当に良かったなと思います。

 3.4節には、
“3 民を心から愛し、聖なる者をすべて御手の内に置かれる。彼らはあなたの足元に導かれ、あなたの言葉を受ける。4 モーセは私たちに律法〔ヘブライ語原語は「トーラー」(筆者挿入)〕を命じ、ヤコブの会衆のものとした。”(聖書協会共同訳)とあります。
4節には、“モーセは私たちに律法を命じ、ヤコブの会衆のものとした。”とありますから、3.4節を合わせて考えると、「主はイスラエルの民を心から愛し、聖別し、御手の内に置かれ、律法(トーラー)を与えられた」ということがわかります。
律法(トーラー)はイスラエルに与えられたのです。

 詩篇78篇には次のように記されています。
5 主はヤコブに定めを与え、イスラエルに教え〔別訳「律法」(欄外注)。ヘブライ語原語は「トーラー」(筆者挿入)〕を授け、子孫に知らせるようにと先祖に命じられた。
6
 それは、後の世代、生まれ来る子らがこれを知って奮い立ち、そのまた子らに語り伝えるため
7
 子らが神に信頼を置き、神の業を忘れず、その戒めを守るためである。
8
 また、先祖のようにかたくなで逆らう世代、心が定まらず、霊が神に不誠実な世代にならないためである。”(聖書協会共同訳)とあります。

律法はイスラエルに与えられたものなのです。
では、異邦人はどうであったのでしょうか。
律法の本質は良心に記されていたようです。
ローマ214.15には次のように記されています。
14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。
15
彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。”(2017)とあります。

 律法の根底について、マタイ2237-40は次のように記しています。
37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし〔あるいは「たましいのすべてをもって」(欄外注)。ギリシア語原語は「プシュケー」(筆者挿入)〕、知性を尽くして、あなたの神、主〔ギリシア語原語は「キュリオス」、ヘブライ語原語は「ヤハウェ」。ユダヤ人は主の御名を言うことを恐れて「アドナイ」と言いました(筆者挿入)〕を愛しなさい。』
38
これが、重要な第一の戒めです。
39
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」”(2017)とあります。

 上記のように記されていますから、実際的には、イスラエル人も異邦人も、生まれたときから律法に従うえるはずがありませんでした。それは人間が生まれながらの罪人だからです。生まれながらの人間は自己中心的なのではないでしょうか。
使徒ヨハネは、「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ110・新共同訳)と述べています。

 5節には、「民のかしらたちがイスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」(2017)と記されています。
「エシュルン」とは、「正しい者」の意です。
正しい者とは、ヤハウェ(主)を神として信じる者、ヤハウェ(主)に聞き従う者のことです。
エシュルンは、イスラエルの尊称としても用いられています。
イスラエルの王はヤハウェ(主)です。
キリスト者は、神の王国(御国)の民であり、王とされた者であり、主との愛における関係では花嫁です。黙示録16には、“わたしたちを王〔「御国」(口語訳、聖書協会共同訳)、「王国」(新改訳、岩波訳)。ギリシア語原語は「バシリュース」で王、支配者(筆者挿入)〕とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。”(新共同訳)と記されています。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
旧約の時代とは違って、新約のあなたの民、それどころではなく、あなたの子である私たちキリスト者の内に主ご自身が住んでいてくださっておられますことを感謝します。
いつでもあなたと一緒ですからありがとうございます。
あなたとの交わりを途絶えさせてしまうことがありませんように。
主キリスト・イエス様の御名でお祈りします。アーメン

2023年10月26日 (木)

マタイ27:27-31 ローマ兵から侮辱されたイエス様

 マタイ2727-31には次のように記されています。
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
28
 そして、イエスの着ている物を剥ぎ取り、深紅の外套を着せ、
29
 茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
30
 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を叩いた。
31
 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 28.31節には“、「深紅の外套」(28節)、「外套」(31節)、と出てきますが、新共同訳スタディ版の注は、“おそらくローマ兵のマントかケープ”と記しています。
主イエス様がヘロデのもとに送られたときにも、ヘロデから外套を着せられて送り返されています。ルカ236-11には次のように記されています。
6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねた。
7
 ヘロデの管轄下にあると分かると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデもその頃、エルサレムに滞在していたからである。
8
 イエスを見ると、彼は非常に喜んだ。というのは、イエスの噂を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
9
 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
10
 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しい口調で訴えた。
11
 ヘロデも、自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱したあげく、きらびやかな衣〔はでな衣(2017)〕を着せてピラトに送り返した。”(聖書協会共同訳)とあります。
主イエス様は、ヘロデからきらびやかな衣〔はでな衣(2017)〕を着せてピラトに送り返されたのです。
この衣はどうなったのでしょうね。
さて、ヘロデは皮肉を込めて王が着るような外套をイエス様に着せたのです。
ヘロデも最後の審判のときには、王の王である主イエス様の前に立つのです。
一時の王がまことの王の前で判決を受けるために。

 脱線しますが、ルカの福音書には、ヘロデから送り返されてきたイエスについて、次のような総督ピラトの言葉が2313-16節に記されています。
13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。
「あなたがたは、この男が民衆を惑わしているとして私のところに連れて来た。私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えているような罪はこの男には見つからなかった。
15
 ヘロデもそうだった。それで、我々のもとに送り返してきたのだ。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。16 だから、懲らしめたうえで釈放しよう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 兵士たちは、主イエス様を侮辱し、暴力を振るいました(マタイ2728-31)。
茨の冠は、とげが頭にささって痛いというだけではなく、宝石等でできている王冠の代わりでした。
兵士たちには分からなかったでしょうが、茨は、呪いの象徴でした(創世記317.18、へブル68)。
主イエス様は、私たち罪人の上にある呪いを代わりに負って十字架にかかられるのです。
今日の個所ではありませんが、兵士たちは、その後主イエス様を、太い釘で十字架に打ち付けたのです。
十字架につけられた主イエス様は、この兵士たちをも含めた罪人に対してとりなしの祈りをしたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)と。

 この兵士たちだけではありません。
私たち人間は、生まれながらに、御子であり、主であり、救い主となってくださった(ヘ)イェシュア(イエス)様を信じ、すなわち心に受け入れて生まれてきたわけではないのです。すなわち罪人として生まれてきたのです。
ヨハネ169には「罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。」(リビングバイブル)と記され、
詩篇515には「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」{2017(新共同訳は7節)}と記されています。
 私たち人間は、まことの神を神とも思わず、神に感謝もせず、生まれてきた者です。
そして、ここで見る兵士たちと同じように罪の中を歩んできたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)という救い主イエス様のとりなしは私たちに対しても当てはまります。

 ニュースなどを見ていると、「ユダヤ人はイエスを殺した悪い奴だ」というようなクリスチャンもいることに驚かされます。
イエス様を十字架につけたのは、私たち罪人ですから。
私たちが罪を犯さなかったら、主イエス様は私達の身代わりとして十字架にかかる必要はなかったのです。
現在、ハマスがユダヤを襲ったことで戦争が勃発していますが、私は、どちらか一方だけを応援することはできません。
かのISISの暴力的な人からも、悔い改めてキリスト者になった人がいるということを聞いています。
ロシアがウクライナに侵攻したことで、ウクライナの人たちの中から、イエス様を個人的な救い主として信じるようになった人たちが起こされているということも耳にします。
私には、だれがイエス様を信じて救われるのか分かりません。
地上で、平和で豊かな生活を送ったとしても、罪人のままで死んだならば、最後の審判の時に、有罪を宣告されて永遠の処罰を受けるのです(黙示録2011-15)。
この地上におかれている間に、唯一なすべきことは、主イエス様を信じることです。それに勝る何物もありません。
そして、キリスト・イエス様を信じて救われた者は、キリストの証人として生きていくのです。

 余談になりますが、戦争になると、Aが悪い、いやBが悪い、いやそれだけではなくCも悪い、と地上のことだけを考えがちですが、戦争の背後には悪魔(サタン)の策略もあります。
主は、人の欲望や恨み及びサタンの策略からもたらされる戦争状態をも用いて、人々に永遠の命を提供したいと望んでおられる善なるお方なのではないかと思います。
この世の最後に大患難時代が来ます(主を待ち望んでいるキリスト者は大患難時代前に携挙されます)が、ユダヤ人が大迫害を受ける大患難時代の第一目的は、それを通してイスラエル人が、イェシュア(イエス)をハマシアハ(キリスト)と信じ、救われるためです。私たち人間は、地上の平和、地上の幸せ、地上の豊かさ、・・・と地上のことだけを考えがちです。しかし主は、地上のことにも配慮してくださいますが、永遠の観点から物事を考えられるお方です。

それ故私は、戦争状態にある地域や人々について、主が教えてくださった祈りの中から「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と、とにかく「御心がなされますように」と、また、天使たちが祈っていたように「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和(平安)がみこころにかなう人々にあるように。」と祈ることが精一杯です。
いと小さき私は、世界が平和になることを願いつつも、愛にして、また義なる、そして全知全能である神様にすべてをゆだね祈ります。主が最善をなしてくださいますようにと。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたはすべてを予知なさるお方です。
あなたは悪しき霊たちや人間が悪を行っても、その行為をも用いて、それをあなたに在って、良きことへと用いられるお方ですから御名を崇めて賛美します。
主イエス様は、私たちを救うために、侮辱を甘受し、暴力を甘受し、十字架上で贖いを成し遂げてくださいました。
ありがとうございます。
私たちキリスト者は、あなたの証人として歩みつづけていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。

2023年10月25日 (水)

箴言25:27.28 自制心と主に栄光を帰する心を持つ人は幸いです

 箴言2527
2017
は“蜜を食べ過ぎるのは良いことではない。自分の誉れを探るのは、誉れあることではない。”と訳し、
聖書協会共同訳は“蜜を食べ過ぎることも、誉れの上に誉れを追い求めることも良くない。”と訳し、
リビングバイブルは“どんなに良い食物でも、食べすぎは体に毒です。同じように、人からほめられるのはすばらしいことですが、それを意識しすぎるのはよくありません。”と意訳しています。

 論語には「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如(ごと)し」という言葉(ことわざ)がありますが似ていますね。
確かに、不十分なのも困りますが、過剰なものには弊害があり、物事にはほどよさが大切ですね。

 私たちは、美味しいものを食べすぎて気持ち悪くなったことが最低一度ぐらいはあるのではないでしょうか。

 誉について、「誉れの上に誉れを追い求めることも良くない。」(聖書協会共同訳)と記されています。
「誉」と訳されている語のヘブライ語原語は「カーボード」で、原義は、重さ、であり、栄光、の意もあります。
この世の人についていえば、箴言2527は自制心が大切ですよ、ということを教えてくれていると思います。

 しかしキリスト者の場合は、少し異なるのではないでしょうか。
この世の人のありようを超えたものを主は用意してくださいました。
自制(心)は、御霊の実です。
自分の前頭葉による自己抑制ではなく、御霊の実としての自制(心)を持つことができますよ、とガラテヤ522.23は教えてくれています。
口語訳、新改訳、リビングバイブルが「自制」と訳している語のギリシア語原語は「エグクラテイア(エグクラティア)」という語で、節制、自制、の意があり、新共同訳、聖書協会共同訳、文語訳は、節制、と訳しています。

 ヘブライ語の「カーボード」すなわち、誉、栄光、についても、キリスト者の場合は、「栄光は主に」です。
詩篇291には“力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。”(2017)と記されています。
エレミヤ923.24には次のように記されています。
23 ──主はこう言われる──
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
24
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。”(2017)とあります。
パウロは、この聖句から抽出して、“「誇る者は主を誇れ」・・。”(1コリント1312017)と語ったのでしょう。

 箴言2528を、
聖書協会共同訳は“破壊され、城壁のない町。それは自らの心を治めることのない人。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“自分の心をコントロールできない人は、堀をうめた城のように戦う力がありません。”と意訳しています。

 この聖句を読んでまず思うこと、それは、自制心が欠如し、むさぼり(貪欲)の罪が幅を利かすと、それを待っていた悪しき霊は、それを増幅してくるということです。
必要な物は主にお願いし、主が与えてくださったもので満足することができる人は幸いです。主は私たち一人一人に対する最善をなしてくださるのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御霊の実としての自制の重要性を覚えます。
日々、御霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月24日 (火)

詩篇103:1.2 わが魂よ、主をほめたたえよ

 詩篇1031-5には次のように記されています。
1 ダビデの詩。私の魂よ、主をたたえよ。私の内なるすべてのものよ、その聖なる名をたたえよ。
2
 私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ダビデの詩とありますが、この個所は、新生させていただいたキリスト者として考察させていただきます。( )内の聖句は各文章の下に記します。

 1節には“私の魂よ、主をたたえよ。私の内なるすべてのものよ、その聖なる名をたたえよ。”とあります。

 「私の魂よ」と言っている「私」とは何なのだろうか?と私は思いめぐらします。
霊や魂の存在を否定する唯脳論の人の考えによれば、憶測ですが、脳のある一部の部分が、他の脳全体に命じているor呼び掛けている、ということになるのではないかと思います。

 私は、新生させていただいたキリスト者ですから、霊や魂の存在を信じています。
早速脱線しますが、一口に「霊」といっても、神は霊です(ヨハネ424)し、天使も霊的存在です。天使が堕罪したところの堕天使たちも霊的な存在です。
堕天使のトップは「サタン」{悪魔(イザヤ1412によると天使時代の名前は「ヘイレル」英語では「ルシファー」)}であり、サタンに従った堕天使たちも大勢いました(黙示録124)。
 ・・・・・
(ヨハネ424)“神は霊である。”(新共同訳)
(イザヤ1412)“ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。”(新共同訳)
(黙示録124)“竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて〔引き寄せて(2017)〕”(新共同訳)

 キリスト者の霊は、新しく生まれた霊であり、神の霊から生まれた霊です(ヨハネ33.6・口語訳、新共同訳)。
キリストの霊を持っていない者はキリスト者ではありません(ローマ89)。
新生した人の霊は、神の霊から生まれただけではなく主の霊と一つ霊となるのです(1コリント617)。
御子キリストは永遠の命を持っています(1ヨハネ12511)。
新生した者は永遠の命を持っているのです(1ヨハネ510-13)。
 ・・・・・
(ヨハネ33.6)“だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない/霊から生れる者は霊である”(口語訳)
(ローマ89)“キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。”(口語訳)
1コリント617)“主に結び付く者は主と一つの霊となるのです”(新共同訳)
1ヨハネ12)“この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。”(新共同訳)
1ヨハネ511)“その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。”(新共同訳)
1ヨハネ510-13)“10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しを持っています。・・・。:11 この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。12 御子を持つ人は命を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません。13 神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。”(聖書協会共同訳)

 新生した者の霊は、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇1031.22017)と言うことができると、私は思います。

 魂は救われました(1ペテロ18.9)が、魂は肉の体の影響も受けます(1ペテロ211122)。肉の体には罪(罪の性質)が住んでいますから(ローマ714-20)。脳は肉の体の一部です。脳を燃やせば脳を構成している成分は、もはや脳とは言えない分子、原子となっていくでしょう。
霊や魂は燃やして影響を受けません(マタイ1028)。
 ・・・・・
1ペテロ18.9)“あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍(おど)っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。”(2017
1ペテロ211)“・・、たましいに戦いを挑む肉の欲・・。”(2017
1ペテロ122“・・真理に従うことによって、たましいを清め・・。”(新改訳)
(ローマ714-20)“私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく私の中に住んでいる罪なのです。18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。20 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。”(聖書協会共同訳)
(マタイ1028)“からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。”(2017

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
ダビデは、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言いました。
マリアは「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」と賛美しました。
私も主なる神様をほめたたえます。
「私の霊も魂も主をほめたたえます。そして体をもってそれを証していけますように。」と。
心しないと、主が良くしてくださったことを忘れやすい者です。
折々に、主が良くしてくださったことを思い起こさせてください。
あなたの御名に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月23日 (月)

申命記32:48-52、34:1-8 モーセの最後とイスラエル人の服喪/主の栄光を自分のものとしないこと。栄光は主に。

 申命記3248-52には次のように記されています。
48 同じ日に、主はモーセに次のように告げられた。
49
 「エリコの向かいのモアブの地にある、アバリム山地のネボ山に登り、私がイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの地を見渡しなさい。
50
 あなたの兄アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように、あなたも登って行く山で死に、先祖の列に加えられなさい。
51
 あなたがたがツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のほとりで私に背き、イスラエルの人々の間で私を聖としなかったからである。
52
 そのため、あなたは私がイスラエルの人々に与える地を望み見るが、そこに入って行くことはできない。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト教辞典はモーセの生涯を極めて簡略に次のようにまとめています。
“モーセ:「引き出す者」を意味する。イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者であり、預言者。レビ人の両親から生れたが、エジプトの王パロによる男子の赤子殺害の命令のため、ナイル川の葦の茂みに置かれた。すぐにパロの娘に拾い上げられ、王女の息子としてエジプト人のあらゆる学問を受けて育てられた(出エジプト2:1‐10,使徒7:20‐22)。40歳になった頃、同胞を奴隷の苦しみから救おうと志したが、同国人に受け入れられず、またパロの手を逃れて、ミデヤンの地に行った。そこで祭司の娘と結婚し、男の子を2人もうけた(出エジプト2:11‐22,18:3,4,使徒7:23‐29)。40年後に、主がモーセをイスラエルの指導者として召し出された(出エジプト3,4章)。主はモーセを通してエジプトに10の災害を与え、イスラエルの民をエジプトの苦役から救い出された(同7‐12章)。モーセはシナイ山で十戒(十のことば)を中心とする律法を受けた(同20‐23章)。しかし、出エジプト後12年目にカデシュ・バルネアで民の指導者たちが犯した罪と、同調してつぶやいた悪い会衆の罪のため、民全体が荒野を40年間さまよう旅を余儀なくされた。モーセ自身もメリバで罪を犯したため、ヨシュアとカレブを除くすべての成人男子とともに、約束の地カナンに入ることが許されなかった(民数13,14章、20:1‐13)。死を前にして、ヨシュアを後継者に任命し(同27:15‐23)、120歳でモアブのネボ山で死んだ(申命34章)。”と述べています。

 モーセがイスラエルの地に入れなかった罪について、51節は“あなたがたがツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のほとりで私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に背き、イスラエルの人々の間で私を聖としなかったから”(聖書協会共同訳)と記し、それは、民数記201-13に記されている次のような事柄でした。
1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死に、その地に葬られた。
2
 さて、そこには会衆のための水がなく、彼らはモーセとアロンに詰め寄った。
3
 民はモーセと言い争った。
「私たちの兄弟が主の前で死に絶えたとき、私たちも死に絶えていればよかった。4 なぜ、あなたがたはこんな荒れ野に主の会衆を導き入れたのですか。私たちと家畜をここで死なせるためですか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、こんなひどい所に導き入れたのですか。ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、 飲み水さえもありません。」
6
 モーセとアロンは会衆から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。すると、主の栄光が彼らに現れた。
7
 主はモーセに告げられた。
8
 「杖を取り、あなたと兄アロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆と その家畜に水を飲ませなさい。」
9
 モーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取り、10 モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。
「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか。」
11
 モーセが手を上げ、杖で岩を二度打つと、水がたくさん湧き出たので、会衆も彼らの家畜も飲んだ。
12
 だが、主はモーセとアロンに言われた。
「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない。」
13
 これがメリバの水であり、そこでイスラエルの人々が主と争ったが、主は自らが聖なる者であることを彼らのうちに示されたのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 申命記32章には、「・・、あなた〔モーセ(筆者挿入)〕は私〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの人々に与える地を望み見るが、そこに入って行くことはできない。」(52
なぜなら「あなたの兄アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように、あなたも登って行く山で死に、先祖の列に加えられ」る(50)からである。
そのようになった罪は、「あなたがたがツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの水のほとりで私に背き、イスラエルの人々の間で私を聖としなかったからである。」(51)と記されています。

 民数記2012によると、不信の罪と主を聖としない(主に栄光を帰さない)という罪とを犯していることがわかります。
文中には記されていないことについて、モーセの足元にも及ばない私がはなはだ僭越なことを書いてしまいますが、モーセはおそらくイスラエルの民に怒りの感情を持ったのではないかと思います。
心に罪があると100%の信仰には立てないことが多いのではないだろうかと思います。
私の勝手な想像ですが、イスラエルの民に対する一時の悪感情をも主の御前に持ち出すことによって主に心をきよめていただいてから、主の仰せを聞き、民の前に出ていったら、不信の罪や主に栄光を帰さない(主を聖としない)という罪から守られたのではないかと思います。

 モーセについて、ヘブライ(へブル)11章の信仰列伝の個所には次のように記されています。
23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。彼らがその子の美しいのを見、また王の命令を恐れなかったからです。
24
 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んで、25 罪のはかない楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐げられるほうを選び、26 キリストのゆえに受ける辱めをエジプトの宝にまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
27
 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去りました。目に見えない方を見ているようにして、揺らぐことがなかったからです。
28
 信仰によって、モーセは、滅ぼす者が初子たちに触れることのないように、過越を行い、血を塗りました。
29
 信仰によって、人々は乾いた陸地を通るように紅海を渡りました。同じことを試みたエジプト人たちは、海に呑み込まれてしまいました。”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)は、モーセにイスラエルの地を見せてくださったのです(申命記3249.52341-4)。

 申命記341-8には次のように記されています。
1 モーセはモアブの草原からネボ山、すなわち、エリコの向かいにあるピスガの頂に登った。主は彼に次の全地方をお見せになった。ギルアデをダンまで、
2
ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、
3
ネゲブと低地を、すなわち、なつめ椰子の町エリコの平地をツォアルまで。
4
そして主は彼に言われた。「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」
5
こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。
6
主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。
7
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
8
イスラエルの子らはモアブの草原で三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
悪感情が湧いたときには、それが自分自身からの場合であれ、サタンからもたらされたものであれ、そのままにしておくことをせず、すぐに主に申し上げきよめていただいて、いつも御父との関係に隔てを生じることの無いよう助けてください。
そしてあなたが願っておられる歩みをすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<追記>
親しくさせて頂いていたA.O.という兄弟がいました。
その人は、「自分は怖いものに耐えられないから、主はそれに遭わないようにしてくださる」と言っていましたが、現在の混沌とした状況に至る前に天に召されました。その兄弟が地上にいたときに「栄光は主に、恥はわが身に」と時々言っていたことを今日思い出しました。ハレルヤ!アーメン。
H.O.
姉へ。
このような方があなたの夫であった方です。

2023年10月22日 (日)

マタイ27:15-26 罪人の身代わりになったイエス様

 マタイ2715-26には次のように記されています。
15 ところで、祭りの度(たび)に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
16
 時に、バラバ・イエスと言う名うての〔名の知れた(2017)〕囚人がいた。
17
 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」
18
 人々がイエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっていたからである。
19
 ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
20
 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
21
 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
22
 ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
23
 ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
24
 ピラトは手の付けようがなく、かえって騒動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。」
25
 民はこぞって答えた。「その血は、我々と我々の子らの上にかかってもいい。」
26
 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祭りの度(たび)に、総督は、民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていました(15)。
 総督ピラトは、ユダヤの宗教指導者たちや民の長老たちから、イエス・キリストを死刑にしてほしいという要求を受けていました(マタイ271.2)。
一方、総督ピラトは、妻から、「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」という伝言を受けました(19)。

 ピラトは、ユダヤの宗教指導者たちや民の長老たちの要求がイエスに対する彼らの妬みに基づくものであると(18)推測していました。

 ピラトは、イエス・キリストは無実であると判断し、イエス・キリストを釈放しようと考えました。

そこで総督は、祭りの度(たび)に民衆が希望する囚人を一人釈放するという慣例(15)を利用して、イエス・キリスト(メシア)を釈放しようと民衆に持ちかけました。

 一方、民衆はといえば、①イエス・キリストが地上の王となって、ユダヤをローマから解放してくれるという希望が無くなったこと(マタイ216-11→マタイ2668271.2,11-14)による失望と怒り、及び②祭司長たちや長老たちからの、イエスを死刑にしようという扇動の言葉(20)により、イエス・キリストを「十字架につけろ」と叫んだのです(22)。

 判決を下さなければならないピラトがおかれている立場について、聖書に記されていない事どもをBible naviから抜粋、要約して引用します。
“ピラトは総督ですから、ローマから担当地域の平和を保つという責任を負わされています。
ですから反乱がおこることがないようにせねばなりませんでした。
歴史資料によれば、ピラトは、ユダヤ人たちの伝統をかたくなに軽視していたので、ユダヤ人たちはすでに、ローマにその苦情を申し立てるとピラトを脅していたのです。
もし、そのような苦情が正式にローマに提出されれば、ピラトは総督の立場を解任される可能性が高かったのです。
ローマ政府には、支配下にあるすべての地域に大勢の軍隊を配置する余裕はありませんでした。
そこで総督の主要な任務の一つは、どんなことをしてでも平和を維持することでした。”
とあります。

 上記のことを踏まえると、ヨハネ1912-16aに記されている記事(特に12.13節)がよくわかります。
ヨハネ1912-16aには、
12 それで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13
 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
14
 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、
15
 彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」
ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、
祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と言った。
16a
 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 16.17節には、
16 時に、バラバ・イエスと言う名うての〔名の知れた(2017)〕囚人がいた。
17
 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。」”と記されています。

 またマルコ157には、“暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバと言う男がいた。”(聖書協会共同訳)と記されています。
「暴動」とありますが、バラバは、ローマ政府に対する反乱に参加していたのです、バラバはローマの敵でしたが、ユダヤにおいては英雄であったことでしょう。

 バラバという語のギリシア語原語を英語のアルファベットに置き換えると、「Barabbas」となります。
「バル」の意味は「子」です。「アッバ」の意味は「父」です。
バラバ・イエスは、「父の子イエス」という意味になります。
イエスのヘブライ語原語は「イェシュア」or「イェホシュア」で、ヤハウェ(主)は救う、救い主、の意になります。
バラバ・イエスは、父の子である救い主、とも捉えることの出来る名前です。
現生における救い主として捉えると、たのもしい名前です。

 21.22節には、
21 ・・、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、
人々は、「バラバを」と言った。
22
 ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、
皆は、「十字架につけろ」と言った。”と記されています。

 バラバは、イェス・キリスト様が身代わりになったことで死から解放されたのでした。
私も同じでした。
まことの神様を創造主とも思わず、主なる神様の主権を嫌い、自己の主権を認める他の宗教に救いを求めたこともある身です。
その様な大それた罪を犯し続けてきたにもかかわらず、主イエス様は、ご自身の贖いのゆえに救ってくださったのです。「私を信じればよいのだよ」と語ってくださって。
私は、その時に、それまで求めても得られなかった平安を得たのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、“みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。”(エペソ14.5・口語訳)と記されていることを、私にとっての最善の時に実行してくださいました。
ありがとうございます。
それは、イエス・キリスト様の十字架と復活に基づき、また私たちの主に対する信仰の故である、信仰もあなたから与えられたものですが、と悟らせていただいておりますことを感謝します。
また、救い主イエス・キリスト様へと導き続けてくださった聖霊様にも感謝します。
「すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至るのです」とローマ1136にあります。
アーメンです。
御名をほめたたえ、感謝して、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「心にあるこの安きを」(聖歌560 聖歌総合版584 新聖歌254
“1.心にあるこの安きを 奪うもの地になし 試みにて苦しむとも わが安き動かじ
(折り返し) * わがものなる主を宿す その喜び言い難し 主 のたまえり「われなどてなれを捨てて去るべき」
2.この安きを受けしときに 雨雲は晴れたり 悩みあらず涙もなく 歌声のあるのみ
  *
3.この安きを持てる土の器なるわが身も やがてイェスに会わば変わらん 栄ある姿と *”

2023年10月21日 (土)

箴言25:26 キリスト者は主キリスト・イエス様の証人

 箴言2526を、
聖書協会共同訳は“踏み汚された泉と荒らされた水源、それは悪しき者の前でよろめく正しき者。”と訳し、
2017
は“正しい人が悪しき者の前に屈服するのは、汚された泉、荒らされた井戸のようなもの。”と訳し、
リビングバイブルは“神を恐れる人が悪者の言い分を認めるのは、井戸にごみを投げ込むようなものです。”と訳し、
フランシスコ会訳は“正しい人が悪い者の前に屈するのは、汚れた泉や、濁った井戸のようなもの。”と訳しています。

 神の御前に「正しき者」とは、神に従う人のことです。
新約的に言えば、主キリスト・イエスを信じた人、すなわち主キリスト・イエスを心にお迎えした人は、義とされます。
 ローマ3章には次のように記されています。
22 ・・、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義・・。
24
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる・・。”(2017)とあり、
ヨハネ112には“・・、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々・・。”(2017)と記されています。

 主キリスト・イエスをその人の内にお迎えし、主の霊に従って歩めば、主のみ旨にかなった歩みをすることができます。
 ローマ8章には次のように記されています。
9 ・・、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
10
・・、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている・・。
4
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるため・・。”(口語訳)と記され、
ガラテヤ516には“御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。”(2017)と記されています。

 ただし、主の救いにあずかるや否やこのような歩みをすることができるわけでもありません。肉の内には罪が住んでいますから(ローマ714-20)。
肉なる歩みから霊なる歩みに重点が変えられていかないと難しいのです。

 少し脱線しますが、肉的な歩みをしていた人が多かったように思えるコリント教会に宛てられた手紙に次のような聖句が記されています。
8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。
9
神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
30
・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。”(1コリント1章・2017)とあります。

 箴言2526の“正しい人が悪しき者の前に屈服するのは、汚された泉、荒らされた井戸のようなもの。”(2017)という聖句に戻ります。
リビングバイブルは“神を恐れる人が悪者の言い分を認めるのは、井戸にごみを投げ込むようなものです。”と意訳しています。

 この聖句を読んだときに、主イエス様の聖句のいくつかを思い浮かべました。
その一つは、「地の塩」についての教えです。
主イエス様は「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13・2017)と語られた聖句です。
 もう一つはヨハネ738.39の次の聖句です。
38 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。”(新共同訳)と記されている聖句です。
霊を肉が抑圧したら神の霊を悲しめることになります(エペソ430)。

 また、まことの神に従わない人が、「救いの道はいくつでもある」と主張することについて、その主張をそのままにしておくことは、主イエス様が、ヨハネ146で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(2017)と語られた御言葉を汚れたものとしてしまうことになります。
最低限でも、「あなたはその様に考えているのですね。私は、主イエス様の御言葉を信じているのです。」という証で終わりたいですね。
私たちキリスト者は、キリストの証人です(使徒18)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリストの証人としての任を全うしいていけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月20日 (金)

詩篇102:13-23 主による新創造、再建/教会における賛美と千年王国における賛美

 詩篇10213-23には次のように記されています。
13 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたはとこしえに王座に着き、その名は代々に唱えられます〔「唱えられます」は補足(欄外注)〕。
14
 あなたが立ち上がり、シオンを憐れんでください。シオンを恵まれる時、定めの時が訪れました。
15
 あなたの僕たちはシオンの石をもいとおしみ、その塵さえ慕います。
16
 国々は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を、地の王たちは皆、その栄光を恐れるでしょう。
17
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシオンを築き、栄光のうちに姿を現されます。
18
 主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじませんでした。
19
 このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに〔「新たに」は補足(欄外注)〕創造される民は主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するでしょう。
20
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその聖なる高き所から目を注ぎ、天から地を見ました。
21
 これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて、死に定められた子らを解き放ち、
22
 人々がシオンで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を、エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。
23
 その時、もろもろの民、もろもろの王国は共に集まって主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。”(聖書協会共同訳)とあります。
 口語訳、新改訳、リビングバイブル訳のこの個所は、12-22節になります。

 18節には、“主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじませんでした。”とありますから、この詩歌はバビロン捕囚にあった人が記したのかもしれません。
あるいは詩篇1021-11(聖書協会共同訳)に読まれている詩のような、何かの罪のために主との交わりが断たれているような状態であったのかもしれません。

 以上のような観点は脇において、主にヤハウェ(主)に照準を合わせ、またキリスト者やキリストの千年王国にフォーカスして記していきたいと思います。

 13節には“しかし、主よ、あなたはとこしえに王座に着き、その名は代々に唱えられます〔「唱えられます」は補足(欄外注)〕。”とあります。

 詩篇1101には“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私の主〔アドニ(筆者挿入)〕に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」”(2017)とダビデは預言しました。ダビデの主は御子であったということがこの聖句からは分かります。
この個所を新共同訳は“わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」”と訳しています。

 主イエス様が十字架につけられる前、そしてローマの総督に引き渡される前に、ユダヤの宗教指導者たちや民の長老たちから尋問を受けたとき、主イエス様は、次のように語りました。
「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」(ルカ2267-692017

 マルコ1619は、主イエス様が復活、昇天した後のことを、“主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。”(2017)と記しています。

 19節には“このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに〔「新たに」は補足(欄外注)〕創造される民は主〔ヤハ(筆者挿入)〕を賛美するでしょう。”と記されています。

キリスト者は教会時代にあってすでに新しく作られた者です。
2
コリント517には“・・・、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(2017)と記され、
この個所をリビングバイブルは“だれでも、クリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。”と意訳しています。
さらに、キリスト者はキリストの空中再臨の時に肉の体から霊の体に変えられてすべてが天国での生活に間に合うようにされます(1テサロニケ416.171コリント1549-53)。

 下記する14.1617.20-23節はユダヤの民の捕囚後の回復に関する祈り等も含まれるでしょが、キリストの千年王国の預言としても理解することができます。
14 あなたが立ち上がり、シオンを憐れんでください。シオンを恵まれる時、定めの時が訪れました。
16
 国々は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を、地の王たちは皆、その栄光を恐れるでしょう。
17
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシオンを築き、栄光のうちに姿を現されます。
20
 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその聖なる高き所から目を注ぎ、天から地を見ました。
21
 これは、主が捕らわれ人の呻きを聞いて、死に定められた子らを解き放ち、
22
 人々がシオンで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を、エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。
23
 その時、もろもろの民、もろもろの王国は共に集まって主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。”とあります。

 「シオンを憐れんでください」との祈りがありますが、大患難時代の最後のときには、シオン(エルサレム)は大変なことになります。
 ゼカリヤ14章には次のように記されています。
1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の日が来る。・・・。
2
 私は諸国民をすべて集め、エルサレムに戦いを挑(いど)ませる。町は占領され、家は略奪され、女たちは犯される。町の半分は捕囚とされて連れて行かれる。しかし、残りの民は、町から絶たれることはない。
3
 主は出て来られ、決戦の日に、自ら戦われた日のように、それらの諸国民と戦われる。
4
 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ〔使徒111(筆者挿入)〕。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、他の半分は南へ移る。
5
 山間(やまあい)の谷がアツァルに達するので、あなたがたは私の山間の谷を通って逃げる。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃げたようにあなたがたは逃げる。わが神、主〔「ヤハウェ」。「再臨の主キリスト・イエス」(筆者挿入)〕が来られる〔黙示録1911-16(筆者挿入)〕。すべての聖なる者たちも主と共に来る〔キリストの花嫁{黙示録198.14}(筆者挿入)〕。”(聖書協会共同訳)とあります。
まさしく詩篇10216.17b.が成就するのです。

 詩篇10218には“主はすべてを失った者〔窮した者(2017)〕の祈りを顧み、その祈りを軽んじませんでした。”とあります。
 マタイ24章には、「万事休す」となったユダヤ人たちを主が救ってくださる時の現われについて次のような主イエス様の御言葉が記されています。
21 その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
22
 神がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たち〔「ハマシアハ」{キリスト}が「イェシュア」{イエス}であると信じるユダヤ人たち(筆者挿入)〕のために、その期間を縮めてくださるであろう。
23
 その時、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24
 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
25
 あなたがたには前もって言っておく。
26
 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、出て行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
27
 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩篇10222.23には次のように記されています。
22 人々がシオンで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の名を、エルサレムでその賛美を語り伝えるためです。
23
 その時、もろもろの民、もろもろの王国は共に集まって主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に仕えます。”とあります。

 イザヤ21-5には次のように記されています。
1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて幻に示された言葉。
2
 終わりの日に主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、3 多くの民は来て言う。
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから、主の言葉はエルサレムから出るからだ。
4
 主は国々の間を裁き、多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。
5
 ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう。”(聖書協会共同訳)とあります。
預言者ミカにもイザヤ22-4と同じ預言が与えられました(ミカ41-3)。

 またゼカリヤ14章には次のように記されています。
16 エルサレムを攻めたあらゆる国民のうち生き残った者は皆、毎年上って来て、万軍の主なる王〔主なる王であるキリスト・イエス(筆者挿入)〕を礼拝し、仮庵祭を祝う。
17
 地上の諸氏族のうちで、万軍の主なる王を礼拝するためにエルサレムに上って来ない者の上には、雨が降らない。
18
 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、仮庵祭を祝うために上らない諸国民に主が打つのと同じ疫病が、彼らの上に臨む。
19
 これがエジプトへの刑罰となり、仮庵祭を祝うために上って来ないすべての国民への刑罰となる。
20
 その日には、馬の鈴にも「主の聖なるもの」と刻まれ、主の神殿の鍋も、祭壇の前にある鉢のようになる。
21
 エルサレムとユダの鍋も、すべて万軍の主の聖なるものとなる。いけにえを献げる者は皆やって来て、鍋を取り、それで煮る。その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人〔あるいは「カナン人」(欄外注)〕はいなくなる。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
詩篇10219bを新共同訳は「主を賛美するために民は創造された。」と意訳していますが、私たちも、日々、主を賛美しながら、主と交わりを持ちながら歩む者として生活することができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月19日 (木)

申命記32:36-47 まことの神はヤハウェ(主)だけである。主の言葉を守り行いなさい。/キリスト者は御霊によって歩みなさい。

 申命記3236-42には次のように記されています。
36 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ。彼らの力がうせ、つながれた者も自由な者もいないのを御覧になるからである。
37
 主は言われる。
「彼らの神々はどこにいるのか。逃れの岩はどこにあるのか。
38
 彼らはいけにえの脂肪を食べ、供え物のぶどう酒を飲んだではないか。その神々が立ち上がり、あなたがたを助け、あなたがたの隠れ家となればよい。
39
 今こそ見よ、私、私こそそれである。私のほかに神はいない。私は殺し、また生かす。私は傷つけ、また癒やす。私の手から救い出せる者はない。
40
 私は手を天に上げて誓う。
『私はとこしえに生きる。41 私がきらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき、私の敵に復讐し、私を憎む者に報いる。42 私は矢を血に酔わせ、剣に肉を食らわせる。殺された者と捕らわれた者の血を飲ませ、髪の長い敵の首領の首を食らわせる。』」”(聖書協会共同訳)とあります。

 36節には“主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ。彼らの力がうせ、つながれた者〔奴隷(2017)〕も自由な者もいないのを御覧になるからである。”とあります。
36
節をリビングバイブルは“神様はイスラエルをさばき、彼らの失敗をやさしくかばわれる。奴隷も自由人も力が衰えていくのを見て、”と訳し、37節の“こう言われる”へと繋がっています。

 士師記以降を読むと、このことを繰り返したイスラエルの歴史を見ることができます。
すなわち、ヤハウェ(主)から離れ、偶像礼拝に陥ったイスラエルの民をヤハウェ(主)は、裁かれました。しかしイスラエルの民が、悔い改めてヤハウェ(主)に助けを叫ぶと、ヤハウェ(主)はイスラエルを救われたのです。

 37-42節はヤハウェ(主)が語られたことばです。
リビングバイブルは読めばすぐにわかるように意訳されていますので、この個所を下記します。
37 こう言われる。「ほかの神々〔ヤハウェ以外の神々(筆者挿入)〕はどこへ行った。頼みの岩はどうしたのだ。
38
あぶら身やぶどう酒をささげた神々〔偶像の神々(筆者挿入)〕はどうなったのか。さあ、神々〔偶像の神々(筆者挿入)〕を奮い立たせ、助けてもらうがいい。
39
どうだ、よくわかったか。ほんとうの神はわたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕だけなのだ。殺すも生かすも、傷つけるのもいやすも、思いのまま。わたしの手から救い出せる者はいない。
2017は「今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。わたしの手からは、だれも救い出せない。」と訳しています。(筆者挿入)〕
40.41
手を天に差し伸べ、わたしの存在をかけて誓おう。きらめく剣をとぎすまし、敵に刑罰を下す。
2017は「まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。わたしが、きらめく剣を研ぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いる。』」と訳しています。(筆者挿入)〕
42
矢は血に酔いしれ、剣は肉と血をむさぼる。刺し殺され、捕らわれた者の肉と血を。敵の頭は血にまみれる。」”と意訳しています。

 43節には、“国々よ、御民のために〔別訳「とともに」(欄外注)〕喜び歌え。主がご自分のしもべの血に報復し、ご自分の敵に復讐を遂げて、ご自分の民とその地のために宥めを行われる〔その民、その土地を清められる(聖書協会共同訳)〕。”(2017)と記されています。
ローマ1510は、「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」(2017)と、この個所を引用しています。

 ヤハウェ(主)は、御自身の民が悔い改めて主に立ち返ると祝福してくださる方です。
「あなたはわたしから離れたからもうダメ」とは言われないのです。
それは異邦人の信仰者でも同じです。
イスラエルに対するヤハウェ(主)のお取り扱いを見るとき、ヤハウェ(主)の慈しみと忍耐と寛容を見させていただけますが、それは私たちキリスト者に対しても同じです。
罪は犯さないに越したことはありません。
しかし、肉の体を持っている以上、罪を犯してしまうこともあるでしょう。
次のペテロと主イエス様との会話の中に、主の慈しみと忍耐と寛容さを見させていただけます。それには主の十字架と復活の裏付けがあるからです。
 マタイ1821.22には次のように記されています。
21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」”(2017)とあります。

 44節には“モーセはヌンの子ヨシュアと共に来て、この歌の言葉をすべて民に語り聞かせた。”(聖書協会共同訳)と記され、
45-47
節には次のようにモーセの最後の勧告が記されています。
45 モーセはイスラエルのすべての人々にこれらの言葉をすべて語り終えると、46 彼らに言った。
「あなたがたは、私が今日あなたがたに証言した言葉をすべて心に留め、子どもたちに命じてこれらの律法の言葉を守り行わせなさい。47 これは、あなたがたにとって空しい言葉ではなく、あなたがたの命だからである。この言葉によって、あなたがたはヨルダン川を渡って行って所有する土地で長く生きることができる。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者の場合は、御霊に導かれて歩むのです。
ガラテヤ5章には次のように記されています。
16 ・・・。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
24
キリスト・イエスにつく者は〔キリスト・イエスのものとなった人たちは(新共同訳)〕、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
〔わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。(新共同訳)〕”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日も御霊の導きに従って歩ませていただけますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月18日 (水)

マタイ27:3-10 ユダの自殺/罪の思いとサタンの働き。神の予知

 マタイ273-10には次のように記されています。
3 その頃、イエスを裏切った〔別訳「引き渡した」(欄外注)〕ユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
4
 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。
6
 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代価だから、神殿の金庫〔別訳「神への献げ物」(欄外注)〕に入れるわけにはいかない」と言い、
7
 相談のうえ、その金で「陶工の畑」を買い、見知らぬ人のための墓地にすることにした。
8
 それで、この畑は今日まで「血の畑」と呼ばれている。
9
 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者の価、イスラエルの子らが 値踏みした者の価である。
10
 主が私にお命じになったように、彼らはこの金で陶工の畑を買い取った。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 102日の当ブログにユダのことを少し書いていますので、まずはそれを再掲します。{  }内の個所です。
47節〔マタイ2647(筆者挿入)〕にはイエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。とあります。

 この箇所の並行箇所であるヨハネ183.12を読みますと、役人たちやローマ軍の兵士もイエス様を捕縛するために遣わされていることが分かります。そこには、
「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や灯や武器を手にしていた。」(ヨハネ183・聖書協会共同訳)とあり、また、
「そこで一隊の兵士とその大隊長〔別訳「千人隊長」(欄外注)〕、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」(ヨハネ1812・聖書協会共同訳)と記されています。

 48.49節にはイエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。とあります。

イスカリオテのユダは、銀30枚というお金をもらってイエス様を祭司長たちに売ったのです(マタイ2615)。

ユダは「先生、こんばんは」と言って接吻した、とありますが、「こんばんは」という語のギリシア語原語は「カイロー」で原義は「cheer」です。2017の欄外注には別訳「喜びがありますように」「お元気ですか」とあります。
 いかにも偽りの父悪魔(サタン)がユダに内住している感じがします。

ヨハネ1327にはユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。(聖書協会共同訳)とあり、
ヨハネ844には「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)と、主イエス様が語られた御言葉を思い起こさせられます。

ユダが、主イエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻したとき、主イエス様はサタンに話しかけたり、命じたりしたのではなく、ユダの心に、「友よ、何のために来たのですか」と語りかけているように思います。
 もしユダが、主イエス様の御言葉で我に返って、主イエス様の御前で悔い改めたら、主イエス様は赦されたのではないかと思います。

 実際はどのようであったのでしょうか。
マタイ273-5には、サタンがユダから離れた後の出来事について次のように記されています。
3 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。(聖書協会共同訳)と記されています。

ヨハネ844の「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉がズーンと心に響きます。
サタンは、イエス様を死に追いやるようにし、弟子のユダも死に追いやったのです。

サタンがイエス様を殺したかったのは、創世記315の神ヤハウェ(主)の宣告の言葉を無効にするためでした。しかし実際には、創世記315の御言葉の通りになるのです。}

 今日の聖書個所に関する神の予知とそれに基づく預言の聖句は次のように記されています。
ゼカリヤ1112.13には次のような預言があります。
12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。”(2017)とあります。

 永遠にして自存の神であるヤハウェ(主)、すなわち「イエス」は銀30シェケルに値積りされて売り飛ばされたのでした。
ゼカリヤ1113によると、ヤハウェ(主)が値積もりされた値が銀三十、すなわち30シェケルと預言されています。
 マタイ2614-16には次のように記されています。
14 その時、十二人の一人で、イスカリオテのユダと言う者が、祭司長たちのところへ行き、
15
 「あの男〔イエス(筆者挿入)〕をあなたがたに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。
そこで、彼らは銀貨三十枚を支払った。
16
 その時から、ユダはイエスを引き渡そうと、機会をうかがっていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ277には、“陶器師の畑を買って”とあります。
エレミヤ182には「陶器師の家に下れ」とあり、エレミヤ192には「陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷」とあり、エレミヤ329には「畑を買い取り」とあります。

マタイ273-8及び使徒118.19には次のように記されています。
27:3 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
4
 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。
6
 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れるわけにはいかない」と言い、7 相談のうえ、その金で「陶工の畑」を買い、見知らぬ人のための墓地にすることにした。
8
 それで、この畑は今日まで「血の畑」と呼ばれている。/
1:18
 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。
19
 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』〔地の地所(2017)〕と呼ばれるようになりました。”(聖書協会共同訳)とあります。

エレミヤ1911には「器が砕かれる・・・・トフェテに・・葬る」とあります。
トフェテは「陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷」にあります。

 イスカリオテのユダは首をくくって死にましたが、首をくくるために用いた木の枝が折れたか、枝を切り離したときに、真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいましたのではないかと推測されているようです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様の救いにあずかっていないこの世の人は、三一の主なる神様を天地万物の創造者、主権者として認めていません。
そのような中に私たちキリスト者は置かれています。
私たちがこの世の流れに流されることなく、常にイエスは主であると、言葉と態度で示しつつ歩みつづけていく私たちであらせてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ルカ188に次のような聖句があります。
「あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(2017
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(新共同訳)
「神はすぐにも答えてくださるのです。ただ問題は、メシヤ(救い主)のわたしが帰って来る時、いったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているかです。」(リビングバイブル)

「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12322017

2023年10月17日 (火)

箴言25:23 陰口は恨みを買う/心と言葉のきよい者

 箴言2523を、
聖書協会共同訳は“北風は雨をもたらし、陰口を叩く舌は憤りの顔をもたらす。”と訳し、
リビングバイブルは“北風が吹くと寒くなるように、陰口をたたかれると腹が立ちます。”と意訳しています。

 箴言の中には「陰口」について、次のような聖句が記されています。
箴言1628には“暴言をはく者はいさかいを起こさせる。陰口は友情を裂く。”(新共同訳)と記され、
箴言188には“陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く。”(新共同訳)と記され、
箴言2620.22には“20 薪がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ争いはやむ。22 陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のよう。腹の奥に下って行く。”(2017)と記されています。

 創世記3739-50章にはヨセフが登場する話が記されています。
ヨセフはヤコブとラケルの間の子で、
①ヨセフは兄弟の悪い噂を父に告げていた(陰口)
②ヨセフをヤコブ(イスラエル)は誰よりもかわいがっていた(ひいき)
③ヨセフは両親と他の兄弟たちが自分にひれ伏すようになるという夢を見、またそれを兄弟たちや父に話した
④ヨセフは兄弟たちに憎まれ、妬まれていた
という内容のことが創世記372-11に記されています。

 兄弟の多くはヨセフを殺そうとしましたが、長兄ルベンのとりなしでヨセフはイシュマエル人に売られ、イシュマエル人はエジプトの高官ポティファルにヨセフを売ったのです。

 ヨセフがエジプトの高官ポティファルの奴隷となった直接の原因は、ヨセフへの妬みとヨセフの夢であったようですが、ヨセフの陰口も遠因であったと思います。

 私たちも陰口を言われ、悪口雑言を言われることがあると思います。
また私たちも陰口を言ってしまうこともあると思います(中には主に整えて頂いて心と言葉がきよめられている人もいるかもしれませんが)。

 キリスト者は、陰口を言われても、それを吟味し、悔い改めるところがあれば悔い改めて主に整えて頂き、陰口の内容に思い当たるところがないときには、陰口を言う人のためにとりなしの祈りをささげることができます。
また陰口を言わないで済むように主に整えて頂く必要も覚えます。

 陰口を言わなくても済む方法の一つとして、主イエス様のお話の中に次のようなものがあります。
15 「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。
16
 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。
17
 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。”(マタイ18章・聖書協会共同訳)とあります。

 ダビデは次のような詩を書いています。
12 あなたの僕もこれら〔主の御教え(筆者挿入)〕によって教えを受けました。これらを守るとき報いは大きい。
13
 誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。隠れた罪から私を解き放ってください。
14
 あなたの僕を傲慢から引き離し、これに支配されないようにしてください〔結果として、主の御言葉の前にへりくだり、ひれ伏すようになる(筆者挿入)〕。その時、私は全き者となって、多くの背きの罪から解き放たれるでしょう。
15
 私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、わが大岩、わが贖い主よ。”(詩編19篇・聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
心をきよめて愛で満たしてくださり、発する言葉が、あなたに在ってきよいものであらせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主よ わが罪と汚れをきよめ」(聖歌716 聖歌総合版592 新聖歌379
“1.主よ わが罪と汚れをきよめ 日々主を宿す者とし給え
(折り返し) * 主よ 今 我のすべてをきよめ み旨にかなう者としたまえ
2.主よ わが意思を砕きてきよめ 日々主に従う者としたまえ *
3.主よ わが趣味をことごときよめ 日々主を愛す者としたまえ *
4.主よ わが声と言葉をきよめ 日々主を歌う者としたまえ *
5.主よ わが時と宝をきよめ 日々主に尽くす者としたまえ *”

2023年10月16日 (月)

詩篇102:1-12、24-28 苦しみ弱りはて嘆きを主に注ぎだしている人の祈り/苦難はキリストに在って希望を産み出す

 詩篇1021-12には次のように記されています。
1 苦しむ人の祈り。弱り果て、主の前に嘆きを注ぎ出すときに。
2
 主よ、私の祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。
3
 苦難の日に、御顔を隠さず、私に耳を傾け、呼び求める日に、速やかに答えてください。
4
 私の日々は煙のように消え、私の骨は炉のように焼かれた。
5
 私の心は草のように日に焼かれて枯れ、私はパンを食べることさえ忘れた。
6
 呻きの声とともに、私の骨は肉に付く。
7
 私は荒れ野の烏のように、廃虚のふくろうのようになった。
8
 私は眠らず、屋根にいる孤独な鳥のようになった。
9
 敵は日夜私を辱め、嘲る者は私の名によって呪う。
10
 私は灰をパンのように食べ、飲み物に涙を混ぜた。
11
 これは、あなたの怒りと憤りのゆえ。あなたは私を持ち上げ、投げ捨てられた。
12
 私の日々は夕暮れの影のよう。私は草のように枯れる。/
24
 主は道半ばで私の力を挫き、私の生涯を短くされた。
25
 私は言う。「わが神よ、生涯の半ばで私を取り去らないでください。あなたの歳月は代々にわたります。
26
 かつてあなたは地の基を据えられました。天もあなたの手の業です。
27
 天地は滅びるが、あなたは立っておられます。これらはすべて、衣のように朽ち果てます。あなたが上着のように取り替えるとこれらは消え去ってしまいます。
28
 しかし、あなたは変わることなく、あなたの歳月は終わることがありません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳は、表題を1節としていますが、新改訳、口語訳、リビングバイブルは表題を1節とせず、聖書協会共同訳の2節を1節としていますので、1節ずつのずれがあります。

 同じ個所のリビングバイブル訳を下記します。上記しましたように、節は1節ずつのずれがあります。
“悩みに打ちひしがれている人の祈り。
1
主よ。私の祈りを聞き、私の訴えに耳を傾けてください。
2
この悩みの時にこそ、私を放っておかず、すみやかに答えてください。
3.4
私の日々は、煙のように消えていくからです。私は肉体ばかりか心も病み、草のように踏みにじられ、しおれてしまいました。食欲もなく、何を食べても味けないのです。
5
絶望して嘆き、うめき続けたこの身は、骨と皮だけになりました。
6
まるで、はるか遠い荒野に住むはげたかや、仲間からはずれて荒野をさまようふくろうのようです。
7
屋根に止まった一羽の雀のように孤独をかみしめ、一睡もできずに身を横たえているのです。
8
敵は、くる日もくる日も私をののしり、のろいます。
9.10
神の激しい御怒りにふれて、私はパンの代わりに灰を食べ、涙まじりの飲み物をのむのです。私は神から放り出されました。
11
私の一生は、夕方の影のようにすばやく過ぎ去り、草のようにしおれます。/
23
主は、寿命を短くして、人生半ばで私を倒れさせました。
24
そこで、こう申し上げました。
「ああ、永遠に生きておられる神よ、どうか私を、道半ばで死なせないでください。
25
はるか昔、あなたは地の基礎を据(す)え、天をお造りになりました。
26
それらはやがて消え去りますが、あなたは永遠に生き続けます。着古した着物のようにすり切れたものは、新しいものと取り替えられますが、27 あなたご自身は永遠に不変です。
28
そして私たちの家系も、あなたの守りのもとに世代から世代へと続いていくのです。」”と意訳しています。

 悩み苦しみ、絶望に打ちひしがれている人の気持ちを読み取ることができると思います。

 新生したキリスト者は、上記のような経験をしたとしても、御言葉の約束に信頼すれば、悩み苦しみ、絶望に打ちひしがれ続けるということはありません。
聖書には、様々な苦難の時に、それに対処する御言葉がちりばめられています。
 
 最後にローマ51-5の聖句をリビングバイブルで下記します。
1 ・・、信仰によって神の目に正しい者とされた私たちは、主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ています。
2
信仰のゆえに、キリストは私たちを、今立っている、この最高の特権ある立場に導いてくださいました。そして私たちは、私たちに対する神の計画がすべて実現するのを、喜びをもって待ち望んでいるのです。
3
ですから私たちは、さまざまの苦しみや困難に直面した時も喜ぶことができます。それによって忍耐を学ぶからです。
4
忍耐によって私たちの品性が磨かれ、さらに、それによって希望が与えられるのです。こうして、私たちの希望と信仰は強められ、どんなことにも動じなくなるのです。
5
この希望〔神の栄光にあずかる希望(筆者挿入)〕は失望に終わることがありません。それは、神が聖霊を与えてくださり、その聖霊が私たちの心に神の愛を満たしてくださっているからです。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは私たちに、あなたに在って常に勝利の道を備えてくださっておられますから感謝します。
困難や苦難のただ中でも、自分の感情を見つめるのではなく、真実、誠実にして全能の御力を持っているあなたに心を向け、あなたが与えてくださいました素晴らしい約束の御言葉に信頼して歩む者であらせてください。
万物を創造され、全き愛をもって愛し、導き、助けて下さるあなたの御名に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「イエスはわがいのち」(聖歌608 聖歌総合版653
“1.イエスはわがいのち また喜び すべてのすべてぞ われにとりて 悲しめるときは 慰め励ます 世にただ一人の友ぞ
2.イエスは 火の如き試みにも 勝たせて恵みをさらに賜う 日々なすわざをば 祝して実りを 豊かになし給う友ぞ
3.イエスは かくわれに まことなるを 忘れまつる日の などあるべき み旨をかしこみ 御業を励みて 火も夜も従い仕えん
4.イエスは 誰よりもまさる友ぞ 世にいくる限り 我は頼らん 世を去りて後も とこしなえまでも 変わらぬ愛もて頼らん”

2023年10月15日 (日)

申命記32:28-35 モーセの歌の続き/分別のない民とヤハウェ(主)

 申命記3228-35には次のように記されています。
28 実に、彼らは思慮のない国民、彼らには分別〔英知(2017)〕がない。
29
 彼らに知恵があれば悟り、自分たちの行く末を理解したであろう。
30
 もし、岩なる方が民を売らず、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が民を渡さなかったなら、どうして一人で千人を追い、二人で万人を敗走させえたであろうか。
31
 彼らの岩は私たちの岩のようではない。敵〔別訳「愚か者」(欄外注)〕もそのことを認めている。
32
 彼らのぶどうはソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑から出たもの。彼らのぶどうは毒ぶどう。その房は苦い。
33
 彼らのぶどう酒は大蛇の毒、コブラの猛毒。
34
 これは私のもとに蓄えられ、私の倉に封じ込めてある。
35
 彼らが足を滑らせるとき、復讐し、報いるのは私だ〔復讐と報復はわたしのもの。それは彼らの足がよろめくときのため(2017)〕。彼らの災いの日は近い。彼らの危機は速やかに来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 28.29節には、“28 実に、彼らは思慮のない国民、彼らには分別〔英知(2017)〕がない。29 彼らに知恵があれば悟り、自分たちの行く末を理解したであろう。”とあります。

 リビングバイブルはこの個所を次のように意訳しています。
28 イスラエルは愚かな国、知恵のない、わからず屋。
29
ああ、少しでも知恵があり、物わかりがよかったら、自分の末路を見きわめることもできたろうに。”と記しています。

 28節の、「分別」(聖書協会共同訳)、「英知」(2017)、「知恵」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ターブーン」で、知性、知恵、聡明、理解、理解力、・・等の意があります。
29
節の、「知恵」と訳されている語のヘブライ語原語は「ハーカム」で、賢い、賢明な、知恵のある、・・等の意があります。

 イスラエルは、何に対して愚かなのでしょうか?
何に対する理解力がないと言われているのでしょうか?
それは、まことの神に対する理解力、霊的な事柄に対する理解力のことであろうと思います。
この聖句の中では、「ターブーン」や「ハーカム」という語を、数学に秀(ひい)でているとか物理学に詳しいとか、語学力に長けているとか、そのような勉強の賢さ、頭の良さ等を指しているのではないことは明らかです。

 イスラエルは、神様の御業を見ながらも、また神様が先祖に対して行った御業の話を聞きながらも、さらには神様が創造された多くの被造物を見ながらも、神ヤハウェ(主)がどのようなお方であるのかということについて、少しも、あるいは少ししか理解しない、ということを言われているのだろうと思います。

 余談になりますが、
現代の世界情勢についても、神ヤハウェ(主)の摂理や、悪魔(サタン)の神への敵対心、神の民への敵対心、等を理解することなく正しく語ることはできないでしょう。
多くのコメンテーターが的外れなことを言うのは、霊の世界を知らず、サタンの計略の中に置かれながら(エペソ21-3参照)コメントを発しているからでしょう。それは霊の世界を知らない政治の専門家も同じことです。
 神様が語られた御言葉は真理です。
神の御言葉の中には、“「わたしは、あなた〔アブラハム(筆者挿入)〕を祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」”(創世記1232017)という聖句があり、
“「おまえ〔ヤコブ、すなわちイスラエル(筆者挿入)〕を呪う者がのろわれ、おまえ〔ヤコブ(筆者挿入)〕を祝福する者が祝福されるように。」”(創世記27292017)という聖句があり、
“「あなた〔イスラエル(筆者挿入)〕を祝福する者は祝福され、あなた〔イスラエル(筆者挿入)〕をのろう者はのろわれる。」”(民数記2492017)という聖句が記されています。
民数記249は、異邦人のバラムが語ったのですが、バラムの上に臨んだのは神の霊(真理の御霊)でした(民数記242)。

 現在、ハマスがイスラエルに侵攻し、イスラエルはそれに対して戦っていますが、悪魔(サタン)の支配下にある人や悪魔(サタン)に惑わされている人は、必ず、イスラエルを悪く言います。悪魔(サタン)がハマス、そしてその背後にいるイランを動かしているのがサタンであることを理解できないからです。
このような考えを受け入れられない人が多くいることは分かります。そのような方は次の聖句を考えてみてください。
ダニエル1013には、“ペルシアの国の君〔サタンあるいはサタン国の高位堕天使(筆者挿入)〕が二十一日間、私〔ダニエルへの伝言のために神から遣わされた天使(筆者挿入)〕に対峙して立っていたが、そこに最高位の君の一人ミカエル〔イスラエルを守る守護天使でもある{ダニエル121参照}(筆者挿入)〕が私を助けに来てくれた。私がペルシアの王たちのところに残されていたからだ。”(2017)と霊の世界の戦いのことが記されています。

 世界の歴史は、イスラエルを祝福した国は祝福され、イスラエルを悪く扱った国は没落していったことを教えてくれています。
日本のコメンテーターの中には、何かというとイスラエルのことを悪く言う人がいますが、それを人々に信じさせる人は悪しき霊の手下として用いられているのですが、本人には自覚がないでしょう。

 話を元に戻します。
30
節には“もし、岩なる方が民〔「彼ら」(2017)〕を売らず、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が民〔「彼ら」(2017)〕を渡さなかったなら、どうして一人で千人を追い、二人で万人を敗走させえたであろうか。”とあります。
ここでは、“イスラエルの敗走は、敵の力によるのではなく、神の刑罰による。”と注解付新改訳聖書の注は述べています。
 リビングバイブルは“彼ら(イスラエル)の岩である主が見捨てず、滅ぼそうとされなかったら、一人の敵が千人を追い散らし、二人が万人を敗走させることもなかったろうに。”と訳しています。
 また逆に、主に従い、神ヤハウェ(主)の働きを知っていたら、イスラエルの勝利のときには、主が働いてくださっておられたのだということを理解しただろうに、とも神様は言われます(申命記281.2.7)。
 ダビデは、勝利には主の働きが欠かせないことを少年の時から知っていました。
ゴリアテとの戦いのときに、ダビデは、「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを殺しておまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の軍勢の屍を、空の鳥、地の獣に与えてやる。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(1サムエル1745-472017)と言ったのです。
ダビデは、この戦い以前に、サムエルから油を注がれ、ヤハウェ(主)の霊がダビデの上に激しく下っていたのです(1サムエル1613)。

 31-35節には次のように記されています。
31 彼らの岩〔敵国民の神(筆者挿入)〕は私たちの岩〔主なる神(筆者挿入)〕のようではない。敵〔別訳「愚か者」(欄外注)〕もそのことを認めている。
32
 彼ら〔敵国民(筆者挿入)〕のぶどうはソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑から出たもの〔ソドム、ゴモラの霊的支配者は悪魔{サタン}。1ヨハネ519参照(筆者挿入)〕。彼らのぶどうは毒ぶどう。その房は苦い。33 彼らのぶどう酒は大蛇の毒、コブラの猛毒。34 これは私のもとに蓄えられ、私の倉に封じ込めてある〔敵国民の悪行は、神に数えられ、復讐の日まで記憶される(注解付新改訳聖書の注)〕。35 彼らが足を滑らせるとき、復讐し、報いるのは私だ〔復讐と報復はわたしのもの。それは彼らの足がよろめくときのため(2017)〕。彼らの災いの日は近い。彼らの危機は速やかに来る。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの偉大さをもっともっと悟らせてください。
常にあなたの御名に在って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月14日 (土)

マタイ27:1・2、11-14 ユダヤの宗教指導者たちによってピラトに引き渡されたイエス様とその後の裁判の途中経過/真理とは

 マタイ271.211-14には次のように記されています。
1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺すために協議した。
2
 そして、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。/
11
 さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」と言われた。
12
 しかし、祭司長たちや長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
13
 すると、ピラトは、「聞こえないのか。あんなにお前に不利な証言をしているのに」と言った。
14
 しかし、総督が非常に不思議に思うほどに、イエスはどんな訴えにも一言もお答えにならなかった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 宗教指導者である祭司長たちと民の長老たちは、主イエス様を殺したかったのです。そこで、イエス様をローマによって死刑にしてもらおうとしたのです。
彼らが主イエス様を死刑にすることができなかった理由は、ローマ帝国から死刑執行の権利を取り上げられていたからです。

 ユダヤの宗教指導者たちが、主イエス様を死に値するとした罪は、冒涜の罪でした。

 マタイ26章には次のように記されています。
63 ・・・。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
64
 イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
65
 そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。66 どう思うか。」
人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、冒涜の罪という宗教的な罪状では、ローマの法廷において死刑にすることはできません。
ローマに反逆する何かしらの政治的な理由があれば死刑にできる可能性がありますが。

 11節で、総督ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問しています。
私はユダヤ人の王である、とイエス様がいえば、ピラトは、イエス様に死刑を言い渡すことができたのでしょう。

 ヨハネの福音書はこのところをもう少し詳しく記述しています。ヨハネ18章には次のように記されています。
 “33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と言った。
34
 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのか。」
35
 ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」
36
 イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦った ことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」
37
 ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」
38
 ピラトは言った。「真理とは何か。」
38
 ピラトはこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て来て言った。「私はあの男に何の罪も見いだせない。39 ところで、過越祭には、誰か一人をあなたがたに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカによる福音書23章にはさらに詳しく次のように記されています。
1 そこで、議員たちは皆立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
2
 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っております。」
3
 そこで、ピラトがイエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになった。
4
 ピラトは祭司長たちと群衆に、「この男には何の罪も見つからない」と言った。
5
 しかし、彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 宗教指導者たちや民の長老たちは、偽りの証言をし、罪なき者を殺そうとするという十戒で禁止されている条項を破っているのです。そこまでして彼らは主イエス様を亡き者にしたかったのです。

 ルカ18章に記されているピラトの考えは次のようでした。
13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。
「あなたがたは、この男が民衆を惑わしているとして私のところに連れて来た。私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えているような罪はこの男には見つからなかった。
15
 ヘロデもそうだった。それで、我々のもとに送り返してきたのだ。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 Bible navi は、“宗教指導者たちはピラトの前に立ち、彼らがイエスを逮捕した罪とは異なる罪でイエスを告発した。彼らはイエスを冒涜(神であると主張したこと)で逮捕したが、ローマ人にとってその告発はどうでもよいものであった。それで宗教指導者たちは、民に税を払わないようにけしかけることや、王であると主張することや、暴動を引き起こすというような、ローマ政府の利害に関係する罪でイエスを告発しなければならなかった。これらの告発は真実ではなかったが、宗教指導者たちはイエスを殺すと決意しており、そのために偽証や殺人を禁じる戒め(出エジプト2013.16)を破った。”とまとめています。

 話は変わりますが、偽証や殺人を禁じる戒め(出エジプト2013.16)を破って主イエス様を死刑にしようとした宗教指導者たちや民の長老たちは、キリストの千年王国の後にもたれる白い御座の裁き(最後の審判)の時に、主イエス様の前に立たせられるのです。その結果は、黙示録2015に記されています。

 サドカイ派の人たちは、現代の唯物主義の人たちに似ているところがあります。
聖書辞典は、サドカイ派の人たちについて次のように述べています。
“サドカイ人はエルサレムの神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級であった。その起源については、ダビデ、ソロモンの時代に、エブヤタルの失脚に伴って、祭司の指導者として活躍したツァドク(Ⅰ列1:38‐39)に由来するという説や、ヘブル語のツァッディーク(義なる者)という形容詞に由来するという説があるが、はっきりしたことは分らない。サドカイ派が歴史上姿を現すのは、アンティオコス・エピファネスの時代(前175―163年)に彼のヘレニズム化に反対して立ち上がったマカベア家(ハスモン家)によって古い祭司系譜が一掃され、マッタティヤの子シモンが大祭司になった時からである。このマカベア家の宗教的、政治的な立場を支持する党派としてサドカイ派が登場し、また、一方では民衆の宗教的指導者として厳密な律法の遵守を説くパリサイ派との間に政治と宗教を巡る主導権争いが、紀元70年のエルサレム陥落まで続くのである。さかのぼって前63年にローマがパレスチナを支配するようになり、さらにヘロデ大王が前37年にエルサレムの王位につくと、マカベア家の政治的指導性は失われ、その後大祭司とサドカイ人はローマとヘロデの圧制に苦しむことになる。ヨセフォスによれば、ヘロデの時からエルサレム滅亡まで28人の大祭司が替ったと言う。このことは、大祭司とそれを支持するサドカイ人の力があなどりがたいものであり、ローマが、お気に入りの大祭司によってユダヤを支配しようとしたことをも意味している。/
彼ら〔サドカイ派の人々(筆者挿入)〕は、復活はないと主張していた(マタ22:23,マコ12:18,ルカ20:27,使4:1‐2,23:8)。これらの箇所に加えて、ヨセフォスの証言によれば、彼らは肉体のよみがえり、未来における罰と報い、御使いや霊の存在を拒否していたことが明らかである。サドカイ派はパリサイ人と違って「モーセ五書」に中心をおき、五書に記された律法にのみ最終権威を認めたので、そこに書かれていない復活論や、死後の生命のような教理を否定したと思われる。しかし同時に、彼らは宗教的指導者であると共に、政治の指導者でもあったので(使4:1,5:17,23:6‐8)、初代教会の主張する復活論に教理的に反対するのみならず、彼らの力が増大すれば、政治的な混乱を招き、自分たちの立場が危うくなることを恐れて、激しく反対したものと考えられる。彼らの関心は主として世俗的なことであり、古い形の宗教的教義を固守はしたが、宗教上の問題には真の関心を寄せなかったと言える。”(抜粋)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは宗教指導者たちや民の長老たちの心の中の思いを予知し、彼らの悪を用いて、キリストによる贖いのご計画をたて、それを成就してくださいましたことを覚えます。
あなたは、人々や悪魔悪霊の悪をも用い、それをも善のために用いて、あなたの愛の御業が遂行されていくことを覚えます。
私たちは主イエス・キリスト様が十字架につけられたことによって、罪の赦しを受けました。
それは、主イエス・キリスト様が私たちの罪を身代わりに負ってくださったからです。
父なる神様と御子イエス様に感謝します。
主イエス様の御名によって感謝してお祈りします。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<追記>
主イエス様は、ピラトに「私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」と言いました(ヨハネ1837)。
それに対してピラトはイエス様に「真理とは何か。」(ヨハネ1838)と言ったのです。
この個所で「真理」と訳されているギリシア語原語は「アレーセイア」です。
 「アレーセイア」について聖書辞典は次のように述べています。
“アレーセイアは、だいたい〔ヘブライ語の(筆者挿入)〕エメスと同じく、神に属する真理、神の真実とそれへの人間の信頼を表現している。アレーセイアは語源的には覆われた覆いが取り除かれてあらわにされたものを意味している。
 以下、アレーセイアの意味するところを3つほど記そう。
 (1)真理は救いのために啓示された神のみこころとしての「福音そのもの」を意味している。パウロはガラテヤの教会を脅かしていた福音のユダヤ主義的折衷が真理そのものに背くものと見抜き、「福音の真理があなたがたの間で常に保たれる」(ガラ2:5)よう勧めている。「真理はイエスにある」(エペ4:21)。このイエスにある真理に私たちを導いてくださるのは「真理の御霊」(ヨハネ14:17,15:26,16:13)である聖霊である。さらに、この救いを宣べ伝える教会の正しい教義が真理と呼ばれ(ヘブ10:26,Ⅱペテ1:12)、教会が「真理の柱また土台」(テモ3:15)と呼ばれている。
 (2)もう少し広い意味でこの真理ということばが用いられている。それは創造において啓示された神の御旨としての自然啓示である。霊的に死んでいる人間は「不義をもって(この)真理をはばみ」(ロマ1:18)、「神の真理を偽りと取り代えて」(1:25)、自らを神の前に弁解の余地のないものにしてしまっている。特に神の真理がこれを阻む人間の不義との対照で示されている。
 (3)虚偽と欺きに対する、キリストにある人間の真実を意味している(ロマ9:1,Ⅱコリ7:14)。以上のように、聖書において啓示されている真理は、本来、神のものであり、キリストにあって神からいただくものであり、真理の源泉は神である(コリ13:8)。”(抜粋)と記しています。

2023年10月13日 (金)

箴言25:21.22 悪に対して善をもって対応する者はヤハウェ(主)から良き報いを受ける

 箴言2521.22には次のように記されています。
21 あなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。22 なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに報いてくださるからだ。”(2017)とあります。

 この聖句は、悪に対して善をもって対応する者は、ヤハウェ(主)から良き報いを受けますよ、ということを教えてくださっておられるのだと思います。
悪に対して善をもって対応する者は、悪を行ってきた者から良き報いを受けます、と記されているのではありませんから、人間関係だけを見ていては理解できない聖句であり、まして、悪魔悪霊に対しては、善を持って対応しても、悪魔悪霊は調子に乗って来るだけなので、悪魔悪霊には厳しく対処する必要があります。

 箴言2521.22の個所をパウロはローマ1220の個所で用いています。
ローマ1217-21には次のように記されています。
17 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。
18
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。
〔自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(2017)〕
19
 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります〔申命記3235参照(筆者挿入)〕。
20
 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
21
 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

 パウロはローマ1217-21記されている内容を体験させられた人だろうと思います。
それは先ずステファノ(ステパノ)から。
また、主に目を見えなくされた後にアナニアから。
 その場面を少しだけ下記します。
ステパノは、ユダヤ人たちに真理を語っていたのですが、ユダヤ人たちは怒りに燃えステパノを石打の刑にしたのです。その最後の場面には次のように記されています。
54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
55
 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56
 「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
57
 人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58 都の外に引きずり出して石を投げつけた。証人たちは、自分の上着を脱いで、サウロと言う若者の足元に置いた。
59
 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。
60
 そして、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。こう言って、ステファノは眠りに就いた。”(使徒7章・聖書協会共同訳)とあります。
パウロ(ヘブライ名サウロ)は、ステファノを殺すことに賛成していたのです(使徒81)。

 パウロは、殉教していくステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだことを忘れることができなかったと思います。

 しかしサウロ(パウロ)は、キリスト者を迫害することに熱心でした。その熱心さについて使徒91.2には次のように記されています。
1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 このサウロ(パウロ)に主イエス様が現れ、主イエス様は、サウロ(パウロ)の目を見えなくさせました。使徒93-8には次のように記されています。
3 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4
 サウロは地に倒れ、「サウル〔サウロ(新改訳、口語訳)〕、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。
5
 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。
6
 立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」
7
 同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
8
 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 サウロは、主イエス様に遣わされたアナニアによって再び見えるようにされ聖霊に満たされたのです。実際には、アナニアを通して主が事を行ったのですが。
この時のことは使徒917-19に次のように記されています。
17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。
「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主 イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」
18
 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、19 食事をして元気を取り戻した。”(聖書協会共同訳)とあります。

 これらのことはパウロにとって、箴言2521.22を体験したと思える出来事であっただろうと思います。

 1サムエル24章に記されているサウル王もダビデの対応を体験して、頭に炭火を積まれ、悔い改めています。一時的ではありましたが。

 主イエス様は、無実の罪で有罪とされ、鞭うたれ、十字架につけられました。
十字架上で、主イエス様は、次の様に祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23342017)と。

 主イエス様を「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちや、鞭打ちを行い十字架につけたローマ兵に対してだけではなく、私のためにも主イエス様は祈ってくださったのでした(ヨハネ1720参照)。
私は生まれながらの罪人で、まことの神を神とも思わず、自分の創造者であられる方を全く無視して生活し続け、私を愛してくださっておられる主を眼中に置くこともなく、進化論を信じ、神はいない、と言っていたような者です。
私の罪のために、私のような者のためにも、主イエス様は、ご自身の愛のゆえに十字架におつきになられたのです。主イエス様は、私をも愛して、私をも救うために、私のすべての罪を身代わりに負って、十字架についてくださったのです。
主に感謝します。

 私はどのような罪の生活を送ってきたのでしょう。
それは、まことの神を愛する(ギリシア語では「アガパオ―」)ことをせず、隣人を愛する(アガパオー)生き方をしてこなかったというところにあります(マタイ2237-40参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父の御愛と主イエス様の恵みとご聖霊の働きを感謝します。
もし悪しきことを行われたとしても善をもって対処できますよう、いつも聖霊に満たしていてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月12日 (木)

詩篇101篇 王としてのダビデの決意/心をきよめていただくキリスト者

 詩篇101篇には次のように記されています。
“ダビデによる。賛歌。
1
恵みとさばきを私は歌います。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたにほめ歌を歌います。
2
私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
3
私は目の前に卑しいこと〔原語は「ダーバール・ベリヤアル」(筆者挿入)〕を置きません。私は曲がったわざを憎み、それが私にまといつくことはありません。
4
曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。
〔曲がった心を退け、悪を知ることはありません。(新共同訳)〕
5
陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。
6
私の目はこの国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者、その人は私に仕えます。
7
欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8
朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”(2017)とあります。

 この詩は、①ダビデが王として立てられた初期に、ダビデ自身が王として、このようでありたい、という思いを述べたものと思えますが、②詩の中にはまことの王としてのキリストの姿を預言していると思えるものもあります。
そして、③私がこの詩を読むときには、自分の心のありようとそれに達しないところを主に整えていただくという観点から読みたいと思います。

 ダビデの生涯を見ると、この詩に記されているようには歩み切れなかった出来事がいくつかありました。
それは、ダビデがバテ・シェバと姦淫したこと(2サムエル112-5)や、ダビデがバテ・シェバの夫である忠臣ウリヤの殺害の首謀者であったこと(2サムエル116-17)や、また、これらのことのゆえに長子アムノンが異母姉妹のタマルを凌辱した(2サムエル131-14)ときに正しい対処をとることが出来なかったこと(2サムエル1319-33)などがすぐに思い出されます。

 王としてのキリスト・イエス様は、千年王国において、義と慈しみをもって統治なさる方ですから、ダビデがこの詩で願ったような善き歩みをもって統治されることでしょう。

 私たちキリスト者は、肉の体を持ってはいても、神が支配する領域(国)ですから、それにふさわしいきよさが求められます。
肉体は、霊の体に変えられるまでは、罪の干渉を否応なく受けます。
ローマ7章には次のように記されています。
14 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
15
 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
16
 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
17
 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
18
 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
19
 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
20
 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
21
 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
22
 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、23 私の五体〔原語は「メロス」で、四肢、体の部分or組織の意。(筆者挿入)〕には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
24
 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
25
 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリスト者は、新生している人ですから神の霊から霊の誕生をしています(ヨハネ33.5.61ペテロ13)。神から生まれたもの(霊)は罪を犯しません(1ヨハネ518)。魂は救われました(1ペテロ18.9)が、その反映である心は罪を犯します。心は霊と魂の影響だけではなく肉の影響を生まれたとき以来受け続けているせいもあるのでしょう。

 1節をリビングバイブルは“あなたがどんなに恵み深く公正なお方であるかを、ほめ歌います。”と意訳しています。
キリスト者も同じように言うことが出来るでしょう。

 2節をリビングバイブルは“私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、私の家において、あなたの御心に添って歩むことが出来るよう助けていただきたいのです。”と意訳しています。
キリスト者は「私の家において」の個所を「私自身が」と置き換えると誰でもすっきり頷けると思います。

 3節をリビングバイブルは“卑しいものを退(しりぞ)け、あらゆる不正を憎んで、それにかかわることがないように助けてください。”と意訳しています。
「卑しいもの」と訳されている語のギリシア語原語は2語からなっていて「ダーバール・ベリヤアル」で、ダーバールには言葉、もの、こと、等の意があり、ベリヤアルは、益のない、悪い、よこしまな、不敬虔な、・・等の意があります。

 4節を2017は“曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。”と訳しています。
人祖アダムは神によって造られ、アダムが堕罪する前はエデンの園において、サタンとは交わらず神と交わりをもって歩んでいました。その間は、アダムは神の善のみを知りつつ生活していたのです(創世記2章)。
しかし、アダムの妻エバがサタンの言葉を受け入れ、善悪の知識の木の実を取って食べ、アダムもエバからの誘惑に勝てずに食べてしまったのです(創世記31-6)。
アダムは神に対して不従順の罪を犯したのです。
そして、善悪の知識の木の実を食べたことによって「悪」、「悪の知識」をも取り入れてしまったのでした。それ以来、人の中には悪が住んでいるのです{ローマ512、詩篇515(新改訳。新共同訳は7節)}。

 4節をリビングバイブルは“私はいっさいの自己中心を捨て、すべての悪から遠ざかります。”と意訳しています。
キリスト者もこのように祈ることでしょう。
キリストの現れを持ち望んでいる人は、キリストがきよくあるように自分をもきよくして頂こうとするからです(1ヨハネ32.3)。

 5節を2017は“陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。”と訳しています。
私はこのような罪を主イエス様に赦された者です。
他の人のことをとやかく言えるような者ではありません。
自分自身が、そのような悪に陥らないように気を付けるとともに、それを見聞きしても、そのようである人のためにとりなしの祈りをすることくらいしか私にはできません。
牧者として立てられている人は、主から預けられた信徒のそのような状態を矯正していかなければならないのですから大変です。

 6節をリビングバイブルは“主に従う人こそりっぱな人と認めて、私の家に招きます。身も心も潔白な人だけが、わが家に仕えることができるのです。”と意訳しています。

このような聖句を見ると、1コリント130の“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)という聖句をありがたく思い浮かべます。

 7.8節を2017は次のように訳しています。
7 欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8
朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”と。

 キリストの千年王国における統治はこのようであるのでしょう。
イザヤ6520に“そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。”(2017)と記されていますから。

 私たちキリスト者は、キリストの空中再臨の時に霊のからだを頂き(1テサロニケ416.171コリント15521ヨハネ32)、また義なる行いが出来るようにして頂ける(黙示録198)のです。新生した私たちの霊は永遠の命そのものであられる主イエス様(1ヨハネ520)と結ばれている(1コリント617)ので、主と共に永遠です。

 1テサロニケ417には、“こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の血潮によって聖別してくださいましたことを感謝します。
主の御言葉と主の霊によって、あらゆる言動においてもきよくして頂けますように。
また、やがてのときにはすべてにおいて義なる言動をすることができるようにしてくださいますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
へブル1010“・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017
1
ペテロ115“あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。”(新改訳初版~第三版)
1
テサロニケ523.2423 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。”(新改訳初版~第三版)
黙示録198“花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。”(新改訳初版~第三版)

2023年10月11日 (水)

申命記32:15-27 イスラエルは主から受けた祝福を忘れ背教の民となる

 申命記3215-27には次のように記されています。
15 しかし、エシュルンは肥えると、足で蹴った。あなたは肥え太り、かたくなになった。自分を造った神を捨て、自分を救った岩を侮(あなど)った。
16
 他の神々のことで主の妬みを引き起こし、忌むべきもので主を怒らせた。
17
 彼らは神でもない悪霊にいけにえを献げた。それは、彼らの知らなかった神々、近頃現れ、先祖が畏れもしなかった新しい神々である。
18
 あなたは自分を生んだ岩を忘れ、自分に命を与えた神を忘れた。
19
 主はこれを御覧になり、息子や娘への怒りのゆえに、彼らを退けて、20 言われた。
「私は顔を隠し、彼らがその後どうなるか、見届けよう。
彼らは逆らう世代、真実のない子らだ。
21
 彼らは神ではないもので私の妬みを引き起こし、空しいもので私を怒らせた。そこで、私も民ではないもので彼らを妬ませ、愚かな国民で彼らを怒らせる。
22
 私の怒りで火は燃え上がり、陰府の底にまで燃え広がり、地とその実りをなめ尽くし、山々の基を焼き払う。
23
 私は彼らに災いを増し加え、矢を彼らに向けて射尽くす。
24
 彼らは飢えて衰え、疫病と破壊は激しさを増す。私は獣の牙を塵に這うものの毒と共に彼らに送る。
25
 外では剣が子を奪い、内では恐怖が若い男と女、乳飲み子と白髪の者を共に襲う。
26
 私は考えた。彼らを切り刻み、人々から彼らの記憶を消し去ろうと。
27
 しかし私は敵が誇るのを恐れる。敵対する者が誤解して『我々の手が勝ちを得たのだ。これはみな主がされたことではない』と言うことを。”(聖書協会共同訳)とあります。

 一言で言えば、モーセの歌として記されている神ヤハウェ(主)からの預言は、全てその通りになりました。それは士師記から歴代誌までを読むとわかります。

 15節には“しかし、エシュルンは肥えると、足で蹴った。あなたは肥え太り、かたくなになった。自分を造った神を捨て、自分を救った岩を侮(あなど)った。”と記されています。
「エシュルン」について聖書辞典は次のように述べています。
“〔エシュルンとは、(筆者挿入)〕「正しい者」「高潔な者」という意味。この語は旧約聖書に4回出てくる(申3215335,26、イザ442)。この語の原意から見て、神のイスラエルに対する愛称または理想像の詩的呼称と考えられる。70人訳ではイザ442のこのことばを「愛するイスラエル」と訳している。しかしヘブル語本文では、ヤコブ、イスラエル、エシュルンと呼称を使い分けている(イザ44:1‐2)。この呼称は、イスラエルの民が正しいからではなく、彼らを贖い、召された神が正義であり、彼らを正しい道へ導かれるからである。またこの呼称により、罪を犯し、堕落しやすい民に神の民としての自覚を与えようとしているのである。”と記しています。

 神ヤハウェ(主)が愛するイスラエルは、神ヤハウェ(主)に祝福されて豊かになると神ヤハウェ(主)から離れてしまうのです。
創造主であるまことの神に従わないこと、背を向けることこそ原罪(罪の性質)です。
人祖アダムは、神ヤハウェ(主)のただ一つの御言葉に従わなかったのです。

 主イエス様は、「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ169・リビングバイブル)と言われました。
主イエス様はどのようなお方なのでしょう。
コロサイ1章は次のように記しています。
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。”(2017)とあります。
主イエス様は創造主であり、万物を保持しているのです(へブル12.3)。

 旧約も新約も本質は一緒です。

 16-18節には次のように記されています。
16 他の神々のことで主の妬みを引き起こし、忌むべきもので主を怒らせた。
17
 彼らは神でもない悪霊にいけにえを献げた。それは、彼らの知らなかった神々、近頃現れ、先祖が畏れもしなかった新しい神々である。
18
 あなたは自分を生んだ岩を忘れ、自分に命を与えた神を忘れた。”とあります。

 神ヤハウェ(主)以外にまことの神はいません。まことの神とは三位一体の神です(マタイ2819他参照)。
まことの神以外で神と呼ばれているものは、偽りの神々であり、それらの実体は悪魔(サタン)とその配下にいる悪霊なのだということを教えてくれています。
 1コリント10章に次のような文章が記されています。
20 ・・、彼らが偶像に献げる物は、神ではなく悪霊に献げている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってほしくありません。
21
 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方にあずかることもできません。”(聖書協会共同訳)とあります。

 さてイスラエルはどのようになっていくのでしょう。
士師記2章には次のように記されています。
7 ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた。長老たちは、主がイスラエルに行われたすべての大いなる業(わざ)を見ていたからである。
8
 主の僕(しもべ)、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死に、9 エフライムの山地にある彼の相続地、ガアシュ山の北にあるティムナト・ヘレスに葬られた。
10
その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエル行われた業(わざ)も知らない別の世代が起こった。
11
 イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアル〔偶像神(筆者挿入)〕に仕えた。
12
 彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周りにいる民の神々に従い、これにひれ伏し、主を怒らせた。
13
 彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた。
14
 主の怒りはイスラエルに対して燃え上がり、略奪者たちの手に任せて略奪されるがままにされた。主がイスラエルを周囲の敵の手に売り渡されたので、彼らはもはや、敵に立ち向かうことすらできなかった。15 主が告げられたとおり、また、主が彼らに誓われたとおり、主の手は彼らの行く先々で災いとなった。このことは彼らにとって大変な苦痛となった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 しかし、イスラエルの民が主に立ち返って、主に助けを求めると、憐み豊かな主は、イスラエルを助けてくださったのです。
これらのことはユダ王国がバビロン捕囚にあうまで繰り返し続きました。

 驚くべきことに「栄華を極めたソロモンでさえ」(マタイ629)、晩年は背教したのです。1列王記11章には次のように記されています。
1 ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。
2
 これらの国民について、主はかつてイスラエルの人々に、「あなたがたは彼らと結婚してはならない。また彼らもあなたがたと結婚してはならない。 さもなければ、必ずやこれらの国民が、あなたがたの心をその神々へと向けさせるだろう」と言われた。だがそれにもかかわらず、ソロモンはこうした者たちを愛して離れることがなかった。
3
 彼には多くの妻、すなわち、七百人の王妃と三百人の側室がいた。この女たちが彼の心を誤らせたのである。
4
 ソロモンが年老いたとき、女たちは彼の心を、他の神々へと向けさせた。彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった。
5
 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべきものミルコムに付き従って行った。
6
 ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった。
7
 その頃ソロモンは、モアブの憎むべきものケモシュと、アンモン人の憎むべきものモレクのために、エルサレムに面した山に高き所を設けていた。
8
 また、あらゆる外国の女たちのためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げていた。
9
 ソロモンの心がイスラエルの神、主から離れて行ってしまったので、主はソロモンに怒りを発せられた。主はかつて二度ソロモンに現れ、10 このことについて、「他の神々に従ってはならない」と命じられていた。
しかし彼は主が命じられたことを守らなかったのである。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し続け、主に信頼し続け、主に従い続ける者としてお整え下さり導いてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月10日 (火)

マタイ26:69-75 イエス様を知らないと、3度証言したペトロ(ペテロ)/自分について正しく認識できない人間

 マタイ2669-75には次のように記されています。
69 ペトロが外の中庭に座っていると、召し使いの女が一人近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70
 ペトロは皆の前で打ち消して、「何を言っているのか、分からない」と言った。
71
 ペトロが門の方へ行くと、ほかの召し使いの女が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72
 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73
 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」
74
 その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75
 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様と弟子たちは、最後の晩餐を終えて、ゲツセマネの園へと向かいました。その途中でイエス様は弟子たちに、「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』〔ゼカリヤ137の預言を引用(筆者挿入)〕と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ1427.28)・2017}と語ったのです。

 それに対するペテロや弟子たちの反応やイエス様のお答えは次のようでした。
“すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
皆も同じように言った。”(マルコ1429-31・新改訳)

このやり取りがあってから、少し後に、このイエス様の預言は実現したのです。

この個所の並行記事であるルカの福音書には、次のようにあります。
“「シモン、シモン〔ペテロのこと(筆者挿入)〕。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」”(ルカ2231.322017)とイエス様は言われたのです。
 主イエス様の御言葉に対し、シモン・ペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22332017)と答えたのです。

しかし、イエス様は「ペテロ。あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」”{(ルカ2233.34)新改訳}と言われました。

人間は、自分のことは自分が一番よくわかっていると思うことがよくあるだろうと思います。他者に助言を求めておいて、少し厳しいことを言われると、「何も分かっていないあなたにそのようなことを言われる道理はない。」などと開き直ってしまうことを見ても分かります。人間は、全体としても個人としても、実に自分について理解していないことが数え切れないほどあります。自分の背中を見ることはできないのに、他人の背中を見ることはできるのです。人の死についても同じです。動いている心臓がいつ止まってしまうのかも分かりません。人間は、約38兆個の細胞からできているといわれていますが、その細胞の一つの活動も正しく把握しきれないのに、人間は生きています。人間は、自分では賢いと思っているのに大脳の詳しい活動も分かりません。

人間は、明日はこの様なことをしようと計画を立てますが、今夜の内に死ぬかもしれません(ルカ1216-20)。
それ故、聖書には、“「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。”(ヤコブ4152017)と記されています。

私たち人間は、自分のことについても、他人のことについても、知っていることはほんのわずかです。しかし、神様は何でも知っているのです。何でも知っていて、守り、導き、支えていてくれるのです。

ペテロや他の弟子たちが、イエス様から近未来の預言を言われた時、言い張ってしまうのではなく、言われたことを元にして、より主の御旨にかなうような歩みをすることが出来るようにと主に願い求めれば良かったのではないかと思います。

その祈りについても、イエス様は、先回りして祈っていて下さいました。
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(ルカ22322017)と。イエス様はご自身が厳しい状況にあったにもかかわらずです。
イエス様が父なる神様の右の座に着座されている現在でも、私たちの為に、イエス様はとりなしの祈りをしてくださっておられます(ローマ834)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めて感謝します。
イエス様を信じて救われた後も、自分で知らない内に、幾度(いくたび)イエス様がとりなしの祈りをしてくださったことでしょうか。
ただ感謝するのみです。
私が、私自身のことをよく理解できていなくても、あなたは、私のありとあらゆることを知っておられます。その上で導いて下さっておられますから、いつでもお従いすることが出来ますよう助けていて下さい。
あなたは、「すべてのことを事を感謝せよ。」とおっしゃいます。
しかし、感謝出来ないと思えるようなことも、あなたは、感謝できるように導いていて下さいますからありがとうございます。
今日も、あなたに感謝し、あなたを崇めて歩む一日とさせて下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ああ主の瞳(ひとみ)」(讃美歌243 新聖歌221
“2.ああ主のひとみ まなざしよ 三度(みたび)わが主を否(いな)みたる 弱きペテロを顧みて 赦すは誰ぞ 主ならずや
4.昨日(きのう)も 今日(きょう)も 変わりなく 血潮したたる御手を伸べ 「友よ 帰れ」と招きつつ 待てるは誰ぞ 主ならずや”

2023年10月 9日 (月)

箴言25:18-20 主を愛し、主に信頼し、主のご性質にあずかり、人に寄り添う者

 箴言2518を、
2017
は“隣人について偽りの証言をする人は、こん棒、剣、また鋭い矢のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“うそを言いふらすのは、斧を振り回したり、刃物で切りかかったり、鋭い矢を射かけたりするのと同じです。”と意訳しています。

 昔から悪口、雑言(無用のくだらない言葉)、非難、中傷等はあったのでしょう。
現代では、あっという間に世界にニュースが流れる時代です。
真実なニュースもありますが、フェイクニュースも溢れています。
主なる神様が、悪魔(サタン)の働く範囲の拡大許可を出せば、この世は偽りに満ちていくことでしょう。
悪魔(サタン)は「偽りの父」であるからです。
ヨハネ844には次のように記されています。
“あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。”(新共同訳)とあります。

 この聖句は、悪魔(サタン)について次のように教えてくれています。
悪魔(サタン)は、
①人殺しです。それも人類の歴史の初めからです。神様が人祖アダムとエバを造りましたが、サタンは先ずこの二人を殺したのです。
②真理をよりどころとしていません。なぜなら、悪魔(サタン)のうちには真理がないからです。
③偽りの父です。嘘をつくことを悪いとは思っていないのです。

 人は、主の救いにあずかり、主に信頼し、主の御言葉に従った歩みをしていなければ、サタンの支配の流れの中に流されていくのです。
エペソ21-3には次のように記されています。
1 君達も(私達と同様に)自分の咎と罪によって死んだ者であって、2 かつてはこの世の世界の流れに従い、すなわち空中の権威と、今も不従順の子らの中に働いている(悪)霊との首領に従って、その咎と罪の中を歩いたのであった。3 (否、)私達も皆かつてはこの人達に伍して自分の肉の欲の中に生活し、肉と欲望の欲するままに振舞って、他の(異教)人達のように生まれながら(神の)怒りの(審判に定められた)子であった。”{塚本訳。( )内は訳者挿入}

箴言2519を、
口語訳は“悩みに会うとき〔苦難の日に(2017)〕不信実な者を頼みにするのは、悪い歯、またはなえた足を頼みとするようなものだ。”と訳し、
リビングバイブルは“あてにならない人に頼るのは、痛む歯でかみ、折れた足で走るようなものです。”と意訳しています。

 苦難に遭遇した時、人によっては、神様のもとへと直行するのではなく、人に頼ったり、自分でどうにかしようと思い悩むことがあるだろうと思います。
しかし主なる神様は「わたしにより頼みなさい」とおっしゃってくださいます。

 詩篇5015には“苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。”(新改訳初版~第三版)と記されています。
詩篇18篇を読むと、それが真実な主の御言葉であるということを証しているように思えます。
 詩篇18篇{(抜粋)ダビデの詩}には次のように記されています。
1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
2
主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
3
わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
4
死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
5
陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。
6
わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。/
18
彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
19
主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。/
46
主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
47
神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、48 わたしの敵からわたしを救い出されました。
まことに、あなたはわたしに逆らって、起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
49
このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。”(口語訳)とあります。

 また詩篇91篇には次のような聖句があります。
14 彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15
彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。
16
わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」(2017)と記されています。

 箴言2520を、
2017
は“心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に服を脱ぐようなもの、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。”と訳し、
聖書協会共同訳は“寒い日に衣を脱がせ、傷の上に酢を注ぐ。それは苦しむ心に向かって歌を歌うこと。”と訳し、
リビングバイブルは“気が沈んでいる人のそばで騒ぐのは、寒さに震えている人の上着を盗み、傷口に塩をすり込むようなものです。”と意訳しています。

「ソーダ」(2017)、「傷」(聖書協会共同訳)と訳されている個所があります。
聖書協会共同訳の欄外注に加筆して記すと、「傷」という訳は、70人訳ギリシア語聖書による訳であり、ヘブライ語聖書の原語は「ネーテル」で、「炭酸ソーダ」のことです。
参考にした聖書の違いによる訳の違いです。

ローマ1215の「泣く者と共に泣きなさい。」という聖句を思い起こします。
人の心に寄り添うことの大切さを教えてくれているように思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主を愛し、主に信頼し、主との交わりを深くして主をさらによく知り、主のご性質にあずからせていただくことの大切さを覚えます。
あなたの子どもとしてふさわしくお整え下さり、あなたとの豊かな交わりの内に日々を過ごす者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 8日 (日)

詩篇100篇 主は慈しみ深くその真実は代々に至る/主を賛美する生活

 詩篇100篇には次のように記されています。
“感謝の賛歌。
1
全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
4
感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5
主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。”(2017)とあります。

 「ダビデの詩」とは記されていませんが、「牧場の羊」という用語から、ダビデの詩と仮定すると、4節に「主の門に、・・その大庭に」とあるので、これは幕屋(会見の天幕)の門、幕屋の大庭のことでしょう。そのようなわけで、「全地よ」(1)というのは、イスラエルの全地のことを指して言っているのでしょう。
ダビデの時代はまだ神殿は建てられていませんでした。
 ダビデは、イスラエルの民のいるところで、
1 全地よ。ヤハウェ(主)に向かって喜びの声をあげよ。
2
喜びをもってヤハウェ(主)に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3
知れ。ヤハウェ(主)こそ神。彼が私たちを造られた。私たちは私たち自身のものではなく、彼の民、彼の牧場の羊である。
4
感謝しつつ、その門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。彼に感謝し、御名をほめたたえよ。
5
ヤハウェ(主)はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」
と賛美したのでしょう。(私が参考にしているヘブライ語聖書を基にしています)

 このような賛美は、心からヤハウェ(主)を神とすることを喜んでいる人でなければ賛美できる内容ではありません。
未信者の人は、このように賛美することはできないでしょう。
また偶像礼拝者は、このような賛美を嫌うでしょう。
詩篇100篇を「アーメン」「アーメン」と思いつつ読むことの出来る人は幸いです。

 エペソ28-10には次のような聖句が記されています。
8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
9
決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
10
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。”(口語訳)とあります。

 キリスト者は詩篇100篇が大好きでしょう。
それは、エペソ210に記されていることのゆえなのでしょう。
主に新しく作られた民は、その良い行いとして、まず、霊と真実をもって、主を賛美するように造られているからです{詩編10218(新共同訳・聖書協会共同訳は19節)、エペソ16.12.14}。
良い行いはたくさんありますが、まず主を賛美すること、それに勝る良い行いはないでしょう。

 神様は、モーセに命じて幕屋(会見の天幕)を造らせました。
ソロモンの時代になり、幕屋は神殿にかえられました。
新約時代に入り、神殿(宮)とは、キリスト者のからだであると教えていただきました。
それは、キリスト者の内に主なる神様が住まわれたからです。
1
コリント619.20には次のように記されています。
19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮〔神殿(新共同訳・聖書協会共同訳)〕であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。”(2017)とあります。

 いつでもどこでも、慈しみ深く、恵み深く、真実を尽くしてくださる主を賛美しつつ生活することが出来る恵みが与えられている者、それがキリスト者です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
今日もあなたを賛美しつつ歩む一日(ひとひ)であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 7日 (土)

申命記32:1-14 ヤハウェ(主)はどのようなお方なのか

 申命記321-14には次のように記されています。
1 天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。
2
私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。
3
まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。
4
主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。/
6
・・・。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。/
8
いと高き方が、国々に相続地を持たせ、人の子らを割り振られたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、もろもろの民の境を決められた。
9
主は、測り縄で割り当て地を定められた。ご自分の民、ヤコブへのゆずりの地を。
10
主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12
ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。
13
主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、14 牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに、与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。”(2017)とあります。

 32章はモーセの歌です。
モーセがイスラエルに歌として残した理由は、申命記3127-30にリビングバイブルによると次のように意訳されています。
27 「あなたがたが反抗的で強情であることはわかっている。こうして私がいっしょにいてさえ主に反抗するのだから、私が死んだらどうなることかわかったものではない。
28
さあ、部族の長老、役人を全員集めなさい。天と地とを証人に立て、言っておきたいことがある。
29
私の死後、あなたがたはきっと堕落し、主の命令に背くだろう。主を怒らせるような悪いことをし、その報いで結局は破滅を招くのだ〔主の怒りを引き起こすからである(2017)〕。」
30
それでモーセは、イスラエルのすべての民に聞こえるように、次の歌を初めから終わりまで歌いました。”とあります。

 申命記3127-30を読んでわかるように、この歌はイスラエルに向けられたものです。
しかし、主なる神様のご性質はイスラエルとは関係なく変わるようなものではありません。

 1テモテ213には“私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。”(2017)と記され、
1
ペテロ125には“主のことばは永遠に立つ”(2017)と記され、
また主イエス様ご自身が“天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。”(マタイ24352017)と語られたのです。

 主なる神様はどのようなお方なのか、それはイスラエルの民に対してであっても、私たちキリスト者に対してであっても同じです。
そこで今日の御言葉の個所の範囲において、神様がどのような方であるのかを見ていきたいと思います。

 4節には“主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。”とあります。
①主は岩:岩は堅固であることを表しています。ダビデは主の守りの堅固さを岩にたとえて歌っています。私たちキリスト者は岩の上に立てられたものです。主イエス様は隅の頭石なのですから。
またマタイ724には「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(2017)という主イエス様の御言葉もあります。
②主のみわざは完全
③主の道はみな正しい
④主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方、
4節に記されています。

 6節には“主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く立てた方ではないか。”とあります。
主は創造主です。全てのものは主によって造られました(創世記1章)。
またコロサイ115-17には次のように記されています。
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
〔リビングバイブルは「事実、キリストはすべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座も主権も支配も権威もすべて、この方がご自身の目的と栄光のために造られたのです。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
17
御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。”(2017)とあります。

 8.9節には次のように記されています。
8 いと高き方が、国々に相続地を持たせ、人の子らを割り振られたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、もろもろの民の境を決められた。
9
主は、測り縄で割り当て地を定められた。ご自分の民、ヤコブへのゆずりの地を。”とあります。
 パウロは異邦人であるギリシアのアテネの人に次のように語りました。
26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。”(使徒17章・2017)と記されています。
パウロはその理由を次の27節に次のように記しています。
“それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。”(2017)とあります。

 10-12節には次のように記されています。
10 主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。
11
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。
12
ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。”とあります。
私たちキリスト者にあてはめていえば、
主は私たちを、サタンが支配するこの世において、私たちを見つけてくださり、世話をし、ご自分の瞳のように守ってくださり、親鳥がひなを育てるように育て、そして導いてくださった、ということが出来るでしょう。

 13.14節には次のように記されています。
13 主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、14 牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに、与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。”とあります。
 主は私たちキリスト者に、地上における食料や生活必要物質を与え(ピリピ419)、天にあるすべての霊的祝福を与えてくださったのです(エペソ13)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは私たちをとこしえに愛し、守り、導き、支えてくださいますから御名を崇め感謝します。
あなたの御名を賛美しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 6日 (金)

マタイ26:57-68 大祭司やサンヘドリンの議員たちから違法な裁判で死刑判決を受けたイエス・キリスト様

 マタイ2657-68には次のように記されています。
57 人々はイエスを捕らえ、大祭司カイアファ〔カヤパ(口語訳、新改訳)〕のところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58
 ペトロは遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで行き、成り行きを見届けようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
59
 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。
60
 偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
61
 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
62
 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
63
 イエスは黙っておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
64
 イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。だが、私は言っておく。あなたがたは間もなく人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」
65
 そこで、大祭司は衣を引き裂いて言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。66 どう思うか。」
人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
67
 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打って、68 「メシア、お前を殴ったのは誰か、言い当ててみろ」と言った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 マタイ265657節の間には、ヨハネ1813の出来事が入ります。
マタイ2657.58の個所をも含めて、ヨハネ1812-16はもう少し詳しく次のように記しています。
12 そこで一隊の兵士とその大隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファ〔カヤパ(口語訳、新改訳)〕のしゅうとだったからである。
14
 一人の人が民の代わりに死ぬほうが好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
15
 シモン・ペトロ〔ペテロ(新改訳)〕ともう一人の弟子〔筆者の使徒ヨハネ(リビングバイブル)〕は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 祭司長とサンヘドリンの議員たちは、正式な裁判ではなく、最初からイエス・キリストを死刑にしてしまおうと決めていたのです。
マタイ2659には“さて、祭司長たちと最高法院〔ユダのサンヘドリン(筆者挿入)〕の全員は、死刑にしようとしてイエスに対する偽証を求めた。”と記されています。

 十のことば(十戒)には“隣人について偽りの証言をしてはならない。”(聖書協会共同訳)と記されていますが、偽りの証人は幾人も出たようです。
60.61
節には次のように記されています。
60 偽証者が何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
61
 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。”とあります。
 61
節の「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる、と言いました」という証言も、主イエス様の御言葉を歪曲(わいきょく)したものでした。
ヨハネ219には次のように記されています。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(聖書協会共同訳)と主イエス様は語られたのです。
 主イエス様が上記のように語られた個所は、過越しの祭りが近づいた頃の宮清めでした。ヨハネ2章には次のように記されています。
13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
14
 そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち〔しばしば法外な交換率で両替して暴利をむさぼっていた(筆者挿入)〕が座っているのを御覧になった。
15
 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
17
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18
 ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。
19
 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
20
 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
21
 イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。
22
 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 何とかイエス・キリストを死刑にしたい大祭司は、イエス・キリストに「生ける神の御名によって命じる。あなたは神の子キリスト〔メシア(筆者挿入)〕なのかどうか。さあ、はっきり答えてみなさい。」(63節・リビングバイブル)と言いました。

 大祭司が、「生ける神の御名によって命じる」と、イエス・キリスト様に言われたものですから、イエス・キリスト様は次のように答えました。
大祭司の質問に対する主イエス様のお答えとサンヘドリンの議員たちの言動をリビングバイブルは次のように意訳しています。
65 これを聞いた大祭司は、即座に着物を引き裂き、大声で叫びました。「冒涜だ!神を汚すことばだ!これだけ聞けば十分だ。さあ、みんなも聞いたとおりだ。66 この男をどうしよう。」
一同はいっせいに叫びました。「死刑だ、死刑にしろ!」
67
そうして、イエスの顔につばをかけたり、なぐったりしました。またある者は、平手で打ち、68 「おい、キリストなんだろ。当ててみろ。今おまえを打ったのはだれだ」とからかいました。”と記しています。

 64節に記されている主イエス様の御言葉は、ダニエル713の預言に基づくもので、“私は夜の幻を見ていた。見よ、人の子のような者が天の雲に乗って来て、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。”と(聖書協会共同訳)と記されています。
続く14節には、“この方に支配権、栄誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては、この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることがない。”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、真実のみを語りました。
そして死刑判決を受けました。
進んで偽証した人たちや、「死刑だ」と言った人たちは、最後の審判の時に驚くことになるのでしょう。
私たちキリスト者も、もし主イエス様の贖いを信じないで最後の審判のところに出されたら、その罰は、火の池でした。
イエスキリストの恵みと神の愛と聖霊の関与に感謝します。
三一の主なる神様の愛の実行によって救いにあずからせていただけましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 5日 (木)

箴言25:17 主に在って生きる恵みを与えられている者の幸い

 箴言2517を、
2017
は“隣人の家にあまり足を運ぶな。その人がうんざりして、あなたを憎まないように。”と訳し、
聖書協会共同訳は“友人の家に軽々しく足を運ぶな。飽き飽きされ、憎まれることがないように。”と訳し、
リビングバイブルは“近所だからといって、他人の家にあまり通いすぎると嫌われます。”と意訳しています。
新改訳初版~第三版は“隣人〔友人(新共同訳)〕の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことのないようにせよ。”と訳しています。

 「隣人」(新改訳)、「友人」(新共同訳)と訳された語の原語は「レア」で、結びついている人、仲間、隣人、友人、兄弟、伴侶者、・・等の意があります。

 「あまり」(2017)、「軽々しく」(聖書協会共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ヤーカル」で、だるい、しまりがない、もたれる、寄りかかる、(目方が)重い、等の意があります。

 「家」と訳されている語のヘブライ語原語は「ベート」で、家、家族、娘、・・等の意があります。

 この聖句は、上記の翻訳通りの意ですけれど、「隣人」、「友人」という個所に、兄弟、伴侶者、等の語を入れてみるのも良いかもしれません。
 一番近い関係では、伴侶者ということになるでしょうか。
少し意訳になりますが、「パートナーor兄弟or友人にしまりなく寄りかかると、飽き飽きされ、嫌われる。」とも訳せます。

 人間は、他の人を背負いきれないのです。
中には、背負い続けていく人もいますが、それでもその人が高齢になったり、心身が弱ったりしたら、自分のことを自分でカバーすることもできなくなりますから、完全に背負いきるということは無理です。

 しかし主なる神様は違います。
いつも一緒にいてくださるのです。
その上、全き愛のお方であり、全能、全知のお方です。

 いつも主の霊に満たされている人は、愛に生きることが出来るでしょう。
そのような人たちの間柄においては、憎まれるということはないでしょう。
1
コリント134-7には次のように記されていますから。
4愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。
5
見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。
6
不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。
7
すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。”(フランシスコ会訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたの子どもとして、いつもあなたと共にいて良く、主イエス様とは霊においてすでに結ばれており、御聖霊は私たちの内に住んでくださっておられます。
三一の主なる神様と絶えざる交わりを持つことを許されている恵みを感謝します。
それどころか、絶えず祈りなさい、と言われているように、いつも交わりを持ち、どんなことでも祈ることが出来、頼ることが出来る恵みを与えられているのですから御名を崇めて感謝します。
今日も、自分なりに主を愛し、主に従って歩ませていただけますように。
限りなく愛してくださっておられます私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 4日 (水)

詩篇99篇 ヤハウェ(主)は聖なる王、主を崇め主にひれ伏せ

 詩篇99篇には次のように記されています。
1 主は王となられた。もろもろの民は震えよ。主はケルビムの上に座しておられる。地は揺れよ。
2
 主はシオンにおられる偉大な方。主はすべての民の上に高くおられる。
3
 彼らが偉大な畏るべきあなたの名をほめたたえるように。主は聖なる方。
4
 王は力ある方、公正を愛される。あなたは公平を堅く打ち立てられた。ヤコブの中に公正と正義とをあなたは成し遂げられた。
5
 我らの神、主を崇めよ。その足台にひれ伏せ。主は聖なる方。
6
 モーセとアロンは祭司の中に、サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。
7
 主は雲の柱の内から彼らに語りかけ、彼らは主の定めと、主から賜った掟とを守った。
8
 主、我らの神よ、あなたは答えられた。あなたは彼らを赦す神。しかし、彼らの悪行には報いる方。
9
 我らの神、主を崇めよ。その聖なる山にひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。”(聖書協会共同訳)とあります。

 70人訳の表題には「ダビデの歌」とあります。

1節に、「主は王となられた」とありますが、新改訳は「主は王である」、新共同訳は「主こそ王」、岩波訳は「ヤハウェが王であられる」と訳しています。
ヘブライ語聖書の文を直訳すると、「ヤハウェ(主)は王」となっています。

表題に「ダビデの歌」とあったら、イスラエルの王ダビデが、「主こそ王」と歌ったことは大いに頷けます。ダビデにとって、主は、わが神、わが王でした。ダビデは王様でしたから神様は王の王です。
 キリスト者は「王である祭司」(1ペテロ29・新改訳)と言われていますが、キリスト者もダビデと同じ思いを持っていると思います。「主こそ我が神、主こそわが王」と。それ故キリスト・イエス様は、「王の王、主の主」(黙示録1916)です。

1-3節は、主なる神様は、「主はすべての民の上に高くおられる」(2)「偉大な方」(2)であり、「聖なる方」(3)であるのだから「大いなる、おそれおおい〔畏れおおい(筆者挿入)〕御名をほめたたえよ。」(3・新改訳初版~第三版)ということになります。

この詩は、シオンに神の箱が安置されたことに関連して作られたのだろうと思います。また、キリストの千年王国において成就する預言詩としても理解出来ると思います。
 キリスト者にとっては、いつでも、主こそ王であり、主は聖なる方、主は全てのものの上におられる偉大な方、主は賛美されるべき方、畏れ敬われる方であるとともに、キリスト者をこよなく愛してくださっておられる方です。

4節のヘブライ語聖書の冒頭には、「そして」が入り、4.5節は、「4 王は力ある方、公正を愛される。あなたは公平を堅く打ち立てられた。ヤコブの中に公正と正義とをあなたは成し遂げられた。5 我らの神、主を崇めよ。その足台にひれ伏せ。主は聖なる方。」と記されています。

主であられる神様は、聖であられるが故に、ご自身の力を公正と正義に基づいて執行されるとあります。神様は人間が罪を犯せばそれを裁かれます。しかし、神様は人間を愛しておられるので、愛であられる神様は、おそらく御子との話し合いの中で〔へブル105-7。{詩篇406-10(新改訳)、新共同訳は407-11}参照推測(筆者挿入)〕、私たち罪人を救うために、御子を受肉させ、イエス様に私たちのすべての罪を身代わりに負わせたのでした。イエス様はご自分から私たちのすべての罪を身代わりに負ってくださったのです。

ローマ323-26には、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(新共同訳)と記されています。

もし、イエス様が来られて贖いを成就してくださらなかったとしたら、救われる人は一人もいなかったのです。

6節には、“モーセとアロンは祭司の中に、サムエルは主の名を呼ぶ者の中にいた。彼らが主に呼びかけると、主は彼らに答えた。”とあります。

これらの人々が祈りを主にささげると、主がその祈りに答えてくださったことを聖書は数多く記しています。

私達キリスト者に与えられている特権は非常に大いなるものがあります。
主イエス様は、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ157・新共同訳)と語られました。

また使徒ヨハネは、1ヨハネ514で、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(新改訳2017)と記しています。

 ベタニアのマルタの信仰告白の中に「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(ヨハネ1122・新共同訳)とあり、また主イエス様御自身が御父への祈りの中で「あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださる」(ヨハネ11422017)と言っています。

9節には“我らの神、主を崇めよ。その聖なる山にひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。”(聖書協会共同訳)とあり、口語訳は「われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。」と訳しています。

イエス様が来られてからは、シオン(エルサレム)で礼拝する、或いはシオンに向かって礼拝するということをしなくても、神様は礼拝を受け入れてくださるようになりました。
そのことをイエス様は、サマリアの女との対話の中で次のように語られました。
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって〔霊と真理のうちにあって(岩波訳)〕父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって〔霊と真理のうちにあって(岩波訳)〕礼拝しなければならない。」(ヨハネ421-24・新共同訳)と記されています。

今はいつでもどこでも主を礼拝することが出来るようになりました。

天での礼拝はどれほど素晴らしいものなのでしょうか。楽しみです。

詩篇99篇の中には、「主は聖なる方」と3回出て来ます。

3回というとイザヤ書や黙示録を思い浮かべます。

イザヤ61-4には次のように記されています。
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。
わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。”(新共同訳)とあります。

黙示録46-8には次のように記されています。
6 また、玉座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。
7
第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。
8
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」”(新共同訳)とあります。

 また「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(新改訳初版~第三版・詩篇223)という聖句もあります。

 主は聖なるお方なのです。
キリスト者はキリストの血によって、立場としては、聖なる者とされているのです(へブル1010)。
それ故、三一の主なる神様と交わることが出来るのです。
実質的にあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのは、体が贖われた後のことでしょう(1ペテロ115、黙示録198参照)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたを「天のお父様」とお呼びすることが出来るようにしていただけましたことを感謝します。
与えられた恵みを無駄にすることなく、絶えず三一の神様との交わりの内に生活するものであらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 3日 (火)

申命記31:14-29 モーセとヨシュアへの神のことばとイスラエルに対する預言の概略

 申命記3114-29には次のように記されています。
14 主はモーセに言われた。「さあ、あなたの死ぬ日が近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、会見の幕屋の中に立ちなさい。私は彼を任命する。」そこで モーセはヨシュアと共に行って、会見の幕屋の中に立った。
15
 主は幕屋で、雲の柱の中に現れた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
16
 主はモーセに言われた。「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。この民は、入って行く地で、すぐに異国の神々を慕って淫行に走り、私を見捨てて、私があなたと結んだ契約を破るであろう。
17
 その日、私の怒りは彼らに向かって燃え、私は彼らを見捨て、顔を隠す。彼らは餌食にされ、多くの災いと苦難に襲われる。その日、彼らは言う。 『こうした災いに襲われるのは、神が私の内におられないからではないか。』
18
 その日、私は彼らが他の神々のもとに赴いて、行ったすべての悪のゆえに、必ず顔を隠す。
19
 あなたがたは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に置きなさい。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となる。
20
 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。
21
 そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に 彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」
22
 モーセはこの日、この歌を書き留めて、イスラエルの人々に教えた。
23
 主はヌンの子ヨシュアに命じられた。「強く、雄々しくあれ。イスラエルの人々を私が彼らに誓った地に導き入れるのはあなたである。私はあなたと共にいる。」
24
 モーセはこの律法の言葉を書物に余すところなく書き終えると、25 主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。
26
 「この律法の書を取り、あなたの神、主の契約の箱の傍らに置きなさい。そうすれば、それはその場所であなたに対する証言となる。
27
 私は、あなたが逆らう者であり、かたくなな者であることを知っている。私がまだ生きている今日でさえ、あなたがたは主に背いている。私の死んだ後はなおさらそうであろう。
28
 あなたがたの部族の長老と役人をすべて、私のもとに集めなさい。私は彼らの耳にこれらの言葉を告げ、天と地を彼らに対する証人とする。
29
 私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたがたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所は、モーセの死期が迫った時の主の言葉です。
14-16
bには次のように記されています。
14 主はモーセに言われた。
「さあ、あなたの死ぬ日が近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、会見の幕屋〔天幕(新改訳)。ヘブライ語原語は「オーヘル」(筆者挿入)〕の中に立ちなさい。私は彼を任命する。」
そこで モーセはヨシュアと共に行って、会見の幕屋〔天幕(新改訳)〕の中に立った。
15
 主は幕屋〔天幕(新改訳)〕で、雲の柱の中に現れた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
16
 主はモーセに言われた。
「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 会見の天幕の中にモーセとヨシュアが立ち、会見の天幕の入り口に雲の柱がとどまり、雲の柱の中にヤハウェ(主)がおられるというシチュエーションです。

 ヤハウェ(主)はモーセに、イスラエルの民の後のことについての預言を与えました。
16-22
節には次のように記されています。
“16 主はモーセに言われた。
「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。
この民は、入って行く地で、すぐに異国の神々を慕って淫行〔偶像礼拝(筆者挿入)〕に走り、私を見捨てて、私があなたと結んだ契約を破るであろう。
17
 その日、私の怒りは彼らに向かって燃え、私は彼らを見捨て、顔を隠す。彼らは餌食にされ、多くの災いと苦難に襲われる。その日、彼らは言う。 『こうした災いに襲われるのは、神が私の内におられないからではないか。』
18
 その日、私は彼らが他の神々のもとに赴いて、行ったすべての悪のゆえに、必ず顔を隠す。
19
 あなたがたは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に置きなさい。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となる。
20
 私がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼らを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太り、他の神々のもとに赴いて仕え、私を侮り、私の契約を破るであろう。
21
 そして、多くの災いと苦難が彼らを襲うとき、この歌は、民に対して証言となる。子孫の口から忘れられることがないからである。私が誓った地に 彼らを導き入れる前から、私は彼らが今、たくらんでいることをすでに知っている。」
22
 モーセはこの日、この歌を書き留めて、イスラエルの人々に教えた。”とあります。

 イスラエルの民は、背教して偶像礼拝をするようになります。
そのようになった時には、ヤハウェ(主)はイスラエルから離れます。
この後のイスラエルのために、ヤハウェ(主)は、ヤハウェ(主)の証言としての歌をモーセに記させると語りました。その歌に関しては、申命記3130-3329に記されています。

 実際のイスラエルの歴史はどのようであったのでしょうか。
士師27-15には次のように記されています。
7 ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。
8
主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、9 エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・ヘレスに葬られた。それはガアシュ山の北にある。
10
その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
11
イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。
12
彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。
13
彼らは主を捨て、バアルとアシュトレト〔アシュタロテ(新改訳)〕に仕えたので、14 主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
15
出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた。
16
主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。
17
しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々を恋い慕って姦淫し、これにひれ伏した〔異教の神々を恋い慕って礼拝した(筆者挿入)〕。彼らは、先祖が主の戒めに聞き従って歩んでいた道を早々(そうそう)に離れ、 同じように歩もうとはしなかった。”(新共同訳)とあります。

23節は、ヤハウェ(主)からのヨシュアへのことばです。
「強く、雄々しくあれ。イスラエルの人々を私が彼らに誓った地に導き入れるのはあなたである。私はあなたと共にいる。」とヤハウェ(主)はヨシュアに語られました。

 24-29節はモーセからレビ人に命じた言葉で、次のように記されています。
“24 モーセはこの律法の言葉を書物に余すところなく書き終えると、25 主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。
26
 「この律法の書を取り、あなたの神、主の契約の箱〔契約の箱には、十のことば{十戒}が記された2つの板のほか、マナの入った金のつぼと芽を出したアロンの杖が入っていました(筆者挿入)〕の傍(かたわ)らに置きなさい。そうすれば、それはその場所であなたに対する証言となる。
27
 私は、あなたが逆らう者であり、かたくなな者であることを知っている。私がまだ生きている今日でさえ、あなたがたは主に背いている。私の死んだ後はなおさらそうであろう。
〔リビングバイブルは「あなたがたが反抗的で強情であることはわかっている。こうして私がいっしょにいてさえ主に反抗するのだから、私が死んだらどうなることかわかったものではない。」と訳しています。(筆者挿入)〕
28
 あなたがたの部族の長老と役人をすべて、私のもとに集めなさい。私は彼らの耳にこれらの言葉を告げ、天と地を彼らに対する証人とする。
29
 私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたがたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」”とあります。
 “それでモーセは、イスラエルのすべての民に聞こえるように、次の歌を初めから終わりまで歌いました。”(30・リビングバイブル)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
モーセでさえ、主はモーセの内側には住まわれませんでした。
私たちキリスト者はなんという恵みを受けた者でしょうか。
主の霊が私たちの内に住んでくださっておられるのですから。
主に私たちの主権をお渡しして歩むことの出来る幸いを覚えます。
主の霊に従って歩む生涯であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
18
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。”(2コリント3章・口語訳)
“聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダム〔キリスト(筆者挿入)〕は命を与える霊となった。”(1コリント1545・口語訳)
“神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。”(ローマ89・新共同訳)
“・・・。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。”(コロサイ1272017

2023年10月 2日 (月)

マタイ26:47-56 イスカリオテのユダの裏切りとイエス・キリストの捕縛とイエス・キリストを見捨てた弟子たち

 マタイ2647-56には次のように記されています。
47 イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
48
 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
49
 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
50
 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい〔別訳「何のために来たのか」(欄外注)〕と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」この時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 47節には“イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。”とあります。

この箇所の並行箇所であるヨハネ183.12を読みますと、役人たちやローマ軍の兵士もイエス様を捕縛するために遣わされていることが分かります。そこには、
「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明(たいまつ)や灯や武器を手にしていた。」(ヨハネ183・聖書協会共同訳)とあり、また、
「そこで一隊の兵士とその大隊長〔別訳「千人隊長」(欄外注)〕、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、」(ヨハネ1812・聖書協会共同訳)と記されています。

 48.49節には“イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。”とあります。

 イスカリオテのユダは、銀30枚というお金をもらってイエス様を祭司長たちに売ったのです(マタイ2615)。
ユダは「先生、こんばんは」と言って接吻した、とありますが、「こんばんは」という語のギリシア語原語は「カイロー」で原義は「cheer」です。2017の欄外注には“別訳「喜びがありますように」「お元気ですか」”とあります。

 いかにも偽りの父悪魔(サタン)がユダに内住している感じがします。
ヨハネ1327には“ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。”(聖書協会共同訳)とあり、
ヨハネ844には「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)と、主イエス様が語られた御言葉を思い起こさせられます。

 ユダが、主イエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻したとき、主イエス様はサタンに話しかけたり、命じたりしたのではなく、ユダの心に、「友よ、何のために来たのですか」と語りかけているように思います。
 もしユダが、主イエス様の御言葉で我に返って、主イエス様の御前で悔い改めたら、主イエス様は赦されたのではないかと思います。

 実際はどのようであったのでしょうか。
マタイ273-5には、サタンがユダから離れた後の出来事について次のように記されています。
3 その頃、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
5
 それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった。”(聖書協会共同訳)と記されています。
 ヨハネ844の「・・・。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。」(聖書協会共同訳)という主イエス様の御言葉がズーンと心に響きます。
サタンは、イエス様を死に追いやるようにし、弟子のユダも死に追いやったのです。
サタンがイエス様を殺したかったのは、創世記315の神ヤハウェ(主)の宣告の言葉を無効にするためでした。
しかし実際には、創世記315の御言葉の通りになるのです。

 主イエス様を捕縛しに来た時の状況の一部を下記しておきます。
ヨハネ183-6には次のように記されています。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5
彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。
イエスは彼らに「わたしがそれだ」〔ギリシア語聖書は「エゴー・エイミ」。次節、8節も同じ(欄外注)〕と言われた
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6
イエスが彼らに「わたしがそれだ」〔原語は「エゴー・エイミ」(筆者挿入)〕と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。”(2017)とあります。
「エゴー・エイミ」とは、「わたしはある」(私は存在し続けているものである)という神の御名です。出エジプト314参照。

 50-56aには次のように記されています。
50 イエスは、「友よ、何のために来たのか」(欄外注を使用)と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51
 すると、イエスと一緒にいた者の一人〔シモン・ペトロ(ペテロ){ヨハネ1810}〕が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52
 そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53
 私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54
 しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55
 またその時、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。
56
 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。」”とあります。

 少し前に主イエス様が、「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」(マタイ2631・聖書協会共同訳)と弟子たちに言われたとき、
ペトロは、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言ったのです。(マタイ2633

 さて、実際はどのようになったのでしょう。
ペトロは、剣を抜き、大祭司の僕に打ちかかって、片方の耳を切り落としたのですが、主イエス様は次のように言われました。
「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ2652-54)とあります。

 そして結局弟子たちは、預言通り、イエスを見捨てて逃げてしまったのでした(マタイ2656)。
ゼカリヤ137には“・・・牧者を打て。すると、羊の群れは散らされる。・・・”(聖書協会共同訳)との預言が記されています。
 弟子たちの言葉はマタイ2635に次のようにありました。
“ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。”(聖書協会共同訳)とあります。
 私たち人間は、自分自身がどうなるのかさえも分かっていないことを痛感します。
一方、主なる神様は、全てご存じなのです。
その上で愛し、導き、支え、根気よくお取り扱いくださるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは悪しき者の計画をさえ、良きことの計(はか)らいに用いるお方です。
主イエス様の十字架上の死によって、そしてその血によって、私たちのすべての罪が赦されたことを覚え感謝します。
ただ罪が赦されただけではなく、主イエス様が3日目に復活なさったゆえに、1ペテロ13に“神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されているように新生の恵みにあずからせてくださいましたこと(ヨハネ33.5.6)を感謝します。
この個所でも、“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる”(ローマ828・新改訳初版~第三版)ということが真実であること実感させられます。
今の世はどんどん暗くなっておりますが、あなたはそれをも用いられるお方ですから御名を崇め賛美します。
み旨がなりますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年10月 1日 (日)

箴言25:15.16 柔和、忍耐、節制(自制)

 箴言2515を、
新改訳初版~新改訳2017は“忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。”と訳し、
リビングバイブルは“小さな水のしずくでも、長い間には堅い岩をけずります。同じように、じっと忍耐していれば、柔らかい舌が堅い骨を砕くことになるのです。”と意訳し、
新共同訳、聖書協会共同訳は“忍耐強く対すれば隊長も誘いに応じる。穏やかに語る舌は骨をも砕く。”と訳しています。

 穏やかな口調(と柔和な表情)と忍耐強さの大切さを教えてくれています。
天性の性格でこのようなものを持ち合わせている人は良いですが、普通はそうではありません。
しかし、キリスト者には希望があります。柔和は御霊の実だからです。
“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切〔慈愛(口語訳)〕、善意、誠実〔忠実(口語訳)〕、柔和、自制〔節制(新共同訳)〕です。”(ガラテヤ522.23・新改訳)と記されていますから。

 また、「忍耐」も神様のご性質です。
“いつくしみ(慈愛)と忍耐と寛容”(ローマ24)は、神様のご性質(神の本性)の一部です。
キリスト者は、神のご性質(神の本性)にあずかる者とされたのですから(2ペテロ14)。

 箴言25162017は“蜜を見つけたら、必要なだけ食べよ。食べ過ぎて吐き出すことのないように。”と訳しています。
リビングバイブルは“いくら好きな物でも、食べすぎると気持ちが悪くなります。”と意訳しています。

 欲望と自制or節制の関係ですね。
自制or節制も御霊の実です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたのご性質にあずからせていただける恵みを与えられていますことを感謝します。
そのためにも日々魂がきよめられ御霊に満たされて歩むことが出来ますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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