詩篇101篇 王としてのダビデの決意/心をきよめていただくキリスト者
詩篇101篇には次のように記されています。
“ダビデによる。賛歌。
1 恵みとさばきを私は歌います。主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ、あなたにほめ歌を歌います。
2 私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
3 私は目の前に卑しいこと〔原語は「ダーバール・ベリヤアル」(筆者挿入)〕を置きません。私は曲がったわざを憎み、それが私にまといつくことはありません。
4 曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。
〔曲がった心を退け、悪を知ることはありません。(新共同訳)〕
5 陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。
6 私の目はこの国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者、その人は私に仕えます。
7 欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8 朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”(2017)とあります。
この詩は、①ダビデが王として立てられた初期に、ダビデ自身が王として、このようでありたい、という思いを述べたものと思えますが、②詩の中にはまことの王としてのキリストの姿を預言していると思えるものもあります。
そして、③私がこの詩を読むときには、自分の心のありようとそれに達しないところを主に整えていただくという観点から読みたいと思います。
ダビデの生涯を見ると、この詩に記されているようには歩み切れなかった出来事がいくつかありました。
それは、ダビデがバテ・シェバと姦淫したこと(2サムエル11:2-5)や、ダビデがバテ・シェバの夫である忠臣ウリヤの殺害の首謀者であったこと(2サムエル11:6-17)や、また、これらのことのゆえに長子アムノンが異母姉妹のタマルを凌辱した(2サムエル13:1-14)ときに正しい対処をとることが出来なかったこと(2サムエル13:19-33)などがすぐに思い出されます。
王としてのキリスト・イエス様は、千年王国において、義と慈しみをもって統治なさる方ですから、ダビデがこの詩で願ったような善き歩みをもって統治されることでしょう。
私たちキリスト者は、肉の体を持ってはいても、神が支配する領域(国)ですから、それにふさわしいきよさが求められます。
肉体は、霊の体に変えられるまでは、罪の干渉を否応なく受けます。
ローマ7章には次のように記されています。
“14 私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であって、罪の下に売られています。
15 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。
19 私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っています。
20 自分が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
21 それで、善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在するという法則に気付きます。
22 内なる人としては神の律法を喜んでいますが、23 私の五体〔原語は「メロス」で、四肢、体の部分or組織の意。(筆者挿入)〕には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。
24 私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
キリスト者は、新生している人ですから神の霊から霊の誕生をしています(ヨハネ3:3.5.6、1ペテロ1:3)。神から生まれたもの(霊)は罪を犯しません(1ヨハネ5:18)。魂は救われました(1ペテロ1:8.9)が、その反映である心は罪を犯します。心は霊と魂の影響だけではなく肉の影響を生まれたとき以来受け続けているせいもあるのでしょう。
1節をリビングバイブルは“あなたがどんなに恵み深く公正なお方であるかを、ほめ歌います。”と意訳しています。
キリスト者も同じように言うことが出来るでしょう。
2節をリビングバイブルは“私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、私の家において、あなたの御心に添って歩むことが出来るよう助けていただきたいのです。”と意訳しています。
キリスト者は「私の家において」の個所を「私自身が」と置き換えると誰でもすっきり頷けると思います。
3節をリビングバイブルは“卑しいものを退(しりぞ)け、あらゆる不正を憎んで、それにかかわることがないように助けてください。”と意訳しています。
「卑しいもの」と訳されている語のギリシア語原語は2語からなっていて「ダーバール・ベリヤアル」で、ダーバールには言葉、もの、こと、等の意があり、ベリヤアルは、益のない、悪い、よこしまな、不敬虔な、・・等の意があります。
4節を2017は“曲がった心は私から遠ざかります。私は悪を知ろうともしません。”と訳しています。
人祖アダムは神によって造られ、アダムが堕罪する前はエデンの園において、サタンとは交わらず神と交わりをもって歩んでいました。その間は、アダムは神の善のみを知りつつ生活していたのです(創世記2章)。
しかし、アダムの妻エバがサタンの言葉を受け入れ、善悪の知識の木の実を取って食べ、アダムもエバからの誘惑に勝てずに食べてしまったのです(創世記3:1-6)。
アダムは神に対して不従順の罪を犯したのです。
そして、善悪の知識の木の実を食べたことによって「悪」、「悪の知識」をも取り入れてしまったのでした。それ以来、人の中には悪が住んでいるのです{ローマ5:12、詩篇51:5(新改訳。新共同訳は7節)}。
4節をリビングバイブルは“私はいっさいの自己中心を捨て、すべての悪から遠ざかります。”と意訳しています。
キリスト者もこのように祈ることでしょう。
キリストの現れを持ち望んでいる人は、キリストがきよくあるように自分をもきよくして頂こうとするからです(1ヨハネ3:2.3)。
5節を2017は“陰で自分の隣人をそしる者を私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に耐えることはできません。”と訳しています。
私はこのような罪を主イエス様に赦された者です。
他の人のことをとやかく言えるような者ではありません。
自分自身が、そのような悪に陥らないように気を付けるとともに、それを見聞きしても、そのようである人のためにとりなしの祈りをすることくらいしか私にはできません。
牧者として立てられている人は、主から預けられた信徒のそのような状態を矯正していかなければならないのですから大変です。
6節をリビングバイブルは“主に従う人こそりっぱな人と認めて、私の家に招きます。身も心も潔白な人だけが、わが家に仕えることができるのです。”と意訳しています。
このような聖句を見ると、1コリント1:30の“あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”(新改訳初版~第三版)という聖句をありがたく思い浮かべます。
7.8節を2017は次のように訳しています。
“7 欺きを行う者は私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は私の目の前に堅く立つことはありません。
8 朝ごとに私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の都から不法を行う者をことごとく断ち切ります。”と。
キリストの千年王国における統治はこのようであるのでしょう。
イザヤ65:20に“そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。”(2017)と記されていますから。
私たちキリスト者は、キリストの空中再臨の時に霊のからだを頂き(1テサロニケ4:16.17、1コリント15:52、1ヨハネ3:2)、また義なる行いが出来るようにして頂ける(黙示録19:8)のです。新生した私たちの霊は永遠の命そのものであられる主イエス様(1ヨハネ5:20)と結ばれている(1コリント6:17)ので、主と共に永遠です。
1テサロニケ4:17には、“こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。
<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主の血潮によって聖別してくださいましたことを感謝します。
主の御言葉と主の霊によって、あらゆる言動においてもきよくして頂けますように。
また、やがてのときにはすべてにおいて義なる言動をすることができるようにしてくださいますから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
へブル10:10“・・、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)
1ペテロ1:15“あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。”(新改訳初版~第三版)
1テサロニケ5:23.24“23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。”(新改訳初版~第三版)
黙示録19:8“花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。”(新改訳初版~第三版)
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主であるイエス様のおかげである事を改めて感謝します。罪をゆるしてくださり感謝です。私も人を進んで許してゆくことを行いたいと思うのですが、一筋縄とはいかずにいます。
そして、だからでしょうか?特に最近は神様無しでは生きてはゆけないことを実感しており、2節に記されている事を祈り続けております。(中々変われませんけれども)
他者に対しての祈りも続けてゆきたいと思います。
牧者の方は大変ですね。人が人を矯正するということは、心をサタンにあずけるような感覚になりますので…とても大変なご奉仕であると思います。どうぞご無理なさいませんように。
いつもありがとうございます。
投稿: mitiko | 2023年10月12日 (木) 07時55分
心が主に向いていて、示されたことを主に告白しつつ歩んでいれば、自分では気が付かなくてもきよめられ続けていますから大丈夫です。
投稿: トミー | 2023年10月12日 (木) 11時34分
その一つ一つ全てを委ねる感じですね。
ありがとうございます。
投稿: mitiko | 2023年10月12日 (木) 12時40分