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2023年11月

2023年11月30日 (木)

箴言26:23-26 悪しき思いと取り繕い/主は真実な神

 箴言2623を、
聖書協会共同訳は“混じりもののある銀で覆われた土器。それは、唇は熱いが心の悪い者。”と訳し、
2017
は“燃える唇も、心が悪いなら、質の悪い銀を塗った土の器。”と訳し、
口語訳は“くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは、上ぐすりをかけた土の器のようだ。”と訳し、
リビングバイブルは“素焼きの土器でも、きれいな上薬をかければ上等に見えるように、お世辞がうまいと悪意を隠せます。”と意訳しています。

 「唇は熱い」(聖書協会共同訳)、「燃える唇」(2017)、「くちびるはなめらか」(口語訳)という語の「熱い」」「燃える」「なめらか」と訳されている語のヘブライ語原語は「ダーラク」で、炎、炎のような輝き、情熱、燃えるような、激しい、火をつける、輝かせる、煽る、熱烈な、熱い、燃え盛る等の意があります。

 ヘブライ語原語を見ながら諸日本語訳聖書も参考にしながら、私自身がわかりやすいように、次の様に意訳してみました。
「語る言葉はなめらかであってもor情熱的に見えるような口達者の人の語る言葉であっても、その人の心が悪いなら不純物の混じった銀の上薬をかけた土器のようです。」と。

 口でうまいことを言っても、心にあることは、言葉のどこかに、表情のどこかに、態度のどこかに出てきてしまうということを見ます。

 箴言2624-26を、
聖書協会共同訳は
24 唇では取り繕っていても憎悪を抱く者。その腹には欺きがある。
25
 声が品良く響いても信用するな。その心には七つのいとうべきことがある。
26
 憎しみをごまかし隠しても、その悪は会衆の中で明らかにされる。”と訳し、

 2017は、
24 憎んでいる者は、唇で身を装うが、心のうちに欺きを潜めている。
25
声を和らげて語りかけてきても、信じるな。その心には七つの忌み嫌われるものがある。
26
憎しみはうまくごまかし隠せても、彼の悪は集いの中で現れる。”と訳し、

 リビングバイブルは、24-26節を一纏(まと)めにして
“憎しみをいだく者も、表面は愉快そうにしています。でも信じてはいけません。耳に心地よいことを言われても、油断しないようにしなさい。心の中では、あなたをのろっているからです。どんなに親切そうにしても憎しみは隠せません。”と意訳しています。

 テレビのニュースで、敵対する国同士のトップに属する人たちのにこやかな顔と抱擁を見たことが幾度かあります。
このような相互の顔と表情にもかかわらず、その後の国同士の政策は依然と変わらず敵対しいているのです。
よくもそんなことができるな、と感心するのですが、それが政治家なのでしょうか。

 主キリスト・イエス様が、王として治めてくださる御国では、嘘偽りがありません。
主イエス様が語られたことは真実であり、その通りなのです。
主イエス様ご自身が、「わたしが・・・アレーセイア(真実、真理)・・・なのです。」(ヨハネ146)と語られたのです(アレーセイアはギリシア語です)。
なんと分かりやすいことでしょうか。
語られたその奥を読まなくても良いのです。
主イエス様の語られることは、真理であり、真実であり、事実なのです。その通りなのです。

 主イエス様は、「アーメンである方」です。
イザヤ6516に「まことの神」(新改訳、リビングバイブル)、「真実の神」(文語訳、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)という個所がありますが、「まことの」「真実の」と訳されている語のヘブライ語原語は「アーメーン」です。
黙示録314においては、主イエス様を「アーメンである方」と表現しています。

 イザヤ6516のくだりは、肉体を持っているときに主イエス様を信じ、またその人たちに約束されている新天新地に関する預言で、それは黙示録211-4の預言を彷彿とさせるものです。

 イザヤ6516-19には次のように記されています。
16 この地で祝福を求める人は、真実の神によって祝福を求め、この地で誓う人は真実の神によって誓う。先にあった苦しみは忘れられ、私の目から 隠されるからだ。17 見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。
18
 しかし、私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。私はエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19
 私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。そこに再び、泣き声や叫び声が聞かれることはない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 黙示録211-4には次のように記されています。
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
 また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。
3
 そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、
4
 目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。
そして次の節には、“すると、玉座におられる方が言われた。「見よ、私は万物を新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
アーメンである方の御言葉を日々読みかつ聞きながら過ごせる日々を感謝し、御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月29日 (水)

詩篇104:24-30 ヤハウェ(主)は創造主であられ、保持者であられる

 詩篇10424-30には次のように記されています。
“24 主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。
25 海も大きく広々としている。その中のうごめくもの、大小の生き物は数知れない。
26
 そこには舟が行き交い、あなたの造られたレビヤタンもその中で戯れる。
27
 これらは皆、あなたに望みを置き、その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを待っている。
28
 あなたが与えると、彼らは拾い集め、御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。
29
 御顔を隠すと、彼らは恐れ、息〔別訳「霊」(欄外注)。原語は「ルーアハ」(筆者挿入)〕を取り去ると、彼らは息絶えて塵に帰る。
30
 あなたが息を送ると、彼らは造られる。あなたは土の面を新たにする。”(聖書協会共同訳)とあります。

 24節には“主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。”とあります。

 神ヤハウェ(主)は、宇宙とその中のあらゆる生き物を造られたお方です。
この節は、ヤハウェ(主)の知恵によって造られた、と記されていますが、あなたは無から有を造られたお方です(創世記1章)。無から有を造られるエネルギーとは一体どれほどのものでしょうか。私には想像すらできません。
また万物は驚くべきヤハウェ(主)の英知によって造られたものです。
自然科学の何かの分野を謙虚に探究している人であれば、様々なものの成り立ちを考えたときに、それらを成り立たせたものは人間の英知をはるかに超えていることを理解するのではないでしょうか。

 フランシス・クリック、ジェームズ・ワトソン、モーリス・ウィルキンスは、DNAの構造を解明したことで1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞したのです。
しかし、ヤハウェ(主)はそれを考えだし、かつそれを造ったのです。それは細胞の中の一部分でしかありません。

 へブル34には“どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。”(新共同訳)と記されていますが、造る人がいなければ家はできませんし、車もジェット機もスマートフォンも造る人がいなければ存在できないのです。
車やジェット機やスマートフォンはそれ自身で子孫を残すことはできませんが、生物は目に見えないような小さな生物であっても自分の子孫を残していくことができるのです。
ヤハウェ(主)はその様な生物を造られたお方、すなわち創造主です。

 ローマ120には“・・・神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。・・・。”(新共同訳)と記され、
へブル113には“信仰によって私たちは、この世界が神様のことばによって造られ、しかも、それらが無から創造されたことを知るのです。”(リビングバイブル)と記されています。

 26節の「レビヤタン」は、ここでは創世記121の「海の巨獣」(新改訳)のことだろうと思います。
新改訳が「海の巨獣」と訳した個所を聖書協会共同訳は「海の怪獣」、口語訳、新共同訳は(水の中の)「大きな怪物」、フランシスコ会訳は「大きな海の怪物」と訳しています。
私達が知る海の巨獣は鯨でしょう。しかし、ヨブ41章に記されている「レビヤタン」は、鯨とは異なります。ワニに似ていますがワニとは異なりますし、ワニよりもずっと強そうです。現在、その記述に匹敵する生物はいるのかいないのか、あるいは何を指して「レビヤタン」と言ったのか、私には定かではありません。

イザヤ271に、「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」(新改訳)とありますが、詩篇10426に記されているレビヤタンとイザヤ271に記されているレビヤタンは異なるものを指していると思います。イザヤの方では、「その日」とありますから、これは主の裁きの日のことであろうと思います。「蛇レビヤタン」は、「竜」であろうと思います。「海」は異邦人世界を表すこともあります。(参照:黙示録202131.2)。

 29.30節には、
29 御顔を隠すと、彼らは恐れ、を取り去ると、彼らは息絶えて塵に帰る。
30
 あなたがを送ると、彼らは造られる。あなたは土の面を新たにする。(聖書協会共同訳)と記されています。

 29.30節の下線部分の「息」と訳されている語のヘブライ語原語は「ルーアハ」で、風、霊、息、・・等という意があります。
29
節の「息絶え」と訳されている語には「ルーアハ」は使われていなくて、「ガーヴァー」という語が使われ、「ガーヴァー」には、息を吐きだすこと、死ぬこと、・・等の意があります。

 創世記27には“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。”(2017)と記されていますが、この個所の「息」と訳されている語のヘブライ語原語は「ネシャマー」で、「ネシャマー」にも風、霊、息、・・等という意があります。

 ルカは、主イエス様が、死んだ少女を生き返らせたときの場面を次のように記しています。
41 するとそこに、ヤイロと言う人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足元にひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
42
 十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。・・・/
49
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなられました。この上、先生を煩わすことはありません。」
50
 イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51
 家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに子どもの父母のほかには、誰も一緒に入ることをお許しにならなかった。
52
 人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。イエスは言われた。「泣かなくてもよい。娘は死んだのではない。眠っているのだ。」
53
 人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスを嘲笑った。
54
 イエスは娘の手を取って、「子よ、起きなさい」と呼びかけられた。
55
 すると、霊が戻って、娘はすぐに起き上がった。イエスは、何か食べ物を与えるように指図をされた。
56
 両親は非常に驚いた。”(ルカ8章・聖書協会共同訳)とあります。

55
節を別の言い方をすれば、「死んで抜け殻となった少女のからだにいのちの息が戻ったので、娘のからだは生きるものとなって起き上がった。」ということになるのでしょう。

 2ペテロ112-15には、
12 それゆえ、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、授かった真理に基づいて生活していますが、私はいつも、これらのことをあなたがたに思い起こさせたいのです。
13
 私は、自分がこの体を仮の宿としている間〔地上の幕屋にいるかぎり(2017)〕、これらのことを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせようと考えています。
14
 それは、私たちの主イエス・キリストが私に示されたように、私がこの仮の宿を離れる時が間もなく訪れることを知っているからです。〔「私」という本体はたましいと霊(筆者挿入)〕
15
 自分が世を去った後もあなたがたがこれらのことをいつも思い起こせるように、私は努めましょう。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 また2コリント51-5には、
1 私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。
2
 私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋〔肉体(筆者挿入)〕にあって呻いています。
3
 それ〔霊のからだ(筆者挿入)〕を着たなら、裸ではないことになります。
4
 この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に呑み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。
5
 私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊〔聖霊(筆者挿入)〕を与えてくださったのです〔エペソ113参照(筆者挿入)〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 詩篇10427.28には、
27 これらは皆、あなたに望みを置き、その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを待っている。
28
 あなたが与えると、彼らは拾い集め、御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。”と記されています。

 私たちは、主イエス様から「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と祈る祈りを教えて頂いています。
世界が平和で、異常気象が発生する前でしたら、食料に困るようなことはなかったと思いますが、今や、あちこちで争いがあり、気象異常があり、地下水の枯渇等により食料にありつくことが難しい人々が出るようになってきました。
創造主なる神であり、万物を保持しておられる神であるヤハウェ(主)に地球上のすべての人が立ち返り、ヤハウェ(主)を畏れ敬い、ヤハウェ(主)の語られるような生活をするようになると、問題は解決するのでしょうがそうはいきません。
 主を愛し、主に従う人たちはわずかなのです。

 何時までたっても主を畏れ敬うことなく、主に敵対する人々の上に、神の定められた時が満ちると、地上における主の裁きが執行されていくのです。
 黙示録65-8には、
5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物〔天使(筆者挿入)〕が「行け」と言うのを聞いた。そして見ていると、黒い馬が現れた。それに乗っている者は、手に秤を持っていた。
6
 私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。「小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油 とぶどう酒を損なってはならない。」7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物が「行け」と言うのを聞いた。
8
 そして見ていると、青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 人は、創造主の御力と恵みによって生かされているのです。
もし神様が人間に、食料の種など何もない所から食料を造り、それを糧にして生きなさい、と言われたとしたら、人は絶望するしかないのです。
万物の創造者であられ、万物を保持しているお方に感謝している新生させていただいたキリスト者は大患難時代には天に移されているので、黙示録に記されている飢饉にはあいませんが、大患難時代に入る前であるにもかかわらず、現在すでに食料品は高騰してきているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは世の人々を愛しておられるのに、神などいないという人も多く、聖書を読んでもあなたに敵対する人もいます。
あなたを信じること、主イエス様を信じることを得させてくださいましたことを感謝します。
そう遠くない未来に地上への裁きが次々と執行されていくのではないかと想像します。
その前に、私たちに祈られている人々が主イエス様を信じて、共に携挙の恵みにあずかることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月28日 (火)

終末預言1 聖書に記されている「終わりの日(時)」という用語

 聖書に記されている「終わりの日(時)」という用語について考えてみたいと思います。

 創世記491に“ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は、終わりの日におまえたちに起こることを告げよう。”(2017)とあります。
新改訳が「終わりの日」と訳している個所を、文語訳、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、聖書協会共同訳は「後の日」と訳しています。
ヘブライ語原語は二語からなっていて「アヘリート ハ・ヨミーム」とあり、「アヘリート」は、最後の、終わりの、後代、後世、・・・等の意があります。
「ハ・ヨミーム」の「ハ」は英語のtheです。
「ヨミーム」は、日の複数形ですから、日々、時代、等の意となると思います。

 創世記49章を読むと、それが記された時代から見て、比較的近い将来の預言からやや後の時代の預言、さらには現代より後までも含まれる終末の預言(創世記4910)もあります。
創世記4910の聖句は“王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て〔あるいは「シロが来て」(欄外注)〕、諸国の民は彼に従う。”(2017)と記されています。
新改訳初版~第三版、新共同訳は、「シロが来て」という訳し方をしています。
「シロ」(שׁלה)とはメシアの別称の意もあり、ヨブ326では、安らか、安らぎ等の意で用いています。

 聖書辞典は「終わりの日」について次のように記しています。
“おわりのひ 終わりの日
旧約聖書では、背信のために捕囚の民となったイスラエルが、ヤハウェの恵みのゆえに再びシオンに集められ、回復される日を指しているが(イザ2:2,ホセ3:5)、イザヤ書では、国々のさばきが同じ文脈で語られる(イザ2:4)し、エゼ38:16の場合も、神の怒りの日(エゼ38:18)と同一視されている。
黙示的なエゼキエル書の終りの日は、国々から集められ、安心して住んでいる平和なイスラエル(エゼ38:8,11,14)の地を攻めるメシェクとトバルの大首長ゴグに対して燃やされる怒りの日である。
ホセア書においては、帰ってくるイスラエルとはエフライム、サマリヤすなわち北王国が、ヤハウェとダビデ王(メシヤ)〔ここの「ダビデ王」とは再臨のキリストのことを言っています(筆者挿入)〕のもとにユダと一つに集められる日を意味している(ホセ3:5,1:11)。
エゼキエル書同様に黙示的なダニエル書では、終りの時という表現をとるが、その憤りの時(ダニ8:19)は、メディヤとペルシヤの王、ギリシヤ帝国以降の時代において聖徒たちを迫害する、君の君に挑む高慢な一人の王が人手によらず砕かれる日を指している。

新約聖書では、ヨハネがその福音書においてこの表現を6回用いているのが目立っている(ヨハネ6:39,40,44,54,11:24,12:48)。
このうち、福音を拒否する者に対するさばきに言及している12:48を除いて、他のすべての箇所は、父なる神が遣わされたイエスを信じ、永遠のいのちを持つ者が彼によってよみがえらされることと結びつけられている。
この世において、イエスが神の子キリストであることを信じ、御霊によっていのちを得ている者たち(参照ヨハ20:31)は、死のうちに朽ち果てることなくよみがえらされて永遠に生きる(ヨハネ6:50‐51,57‐58)。
ヨハ2:18では、「終わりの時」という表現で現在〔当時の現在(筆者挿入)〕を指しているが、ペテロも(ペテ3:3)パウロも(テモ3:1)同じ意味で用い、キリストの初臨によって始まっている終りの世界を描いている。”と述べています。

 聖書辞典に引用されている聖書個所の聖句をいくつか取り上げるとともに簡略な説明を加えようと思います。

 ヨハネ639.40.44.54には次のように記されています。
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。/
44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。/
54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。”(2017)とあります。

 上記の聖句個所は、御子である主イエス様の御言葉です。
主イエス様がここで語られた「よみがえらせる」という意味は、体についてのことです。
主イエス様が、私たちに霊のからだを与えてくださるのは、キリストの空中再臨の時です。キリストの空中再臨の時にすでに天に挙げられている霊を包含している魂とその時に未だ地上にいる新生させていただいた聖徒たちは瞬時に霊のからだを与えられ、それから瞬時に天に引き上げられるのです。
 1コリント1552には、
“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記され、
 1テサロニケ416.17には、
“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

 ヨハネ1248には“わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。”(2017)と記されています。
ここに記されている終わりの日とは黙示録2011-15に記されている終わりの日の裁きのことではないかと推測します。
 黙示録2011-15には次のように記されています。
11 また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。
12
 また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。
13
 海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。
14
 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
15
 命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 聖書辞典に、
“Ⅰヨハ2:18では、「終わりの時」という表現で現在を指しているが、ペテロも(ペテ3:3)パウロも(テモ3:1)同じ意味で用い、キリストの初臨によって始まっている終りの世界を描いている。と述べています。”と記されている個所の聖句の一部を下記します。

 1ヨハネ218には“幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。”(2017)と記されています。
「終わりの時」の「時」と訳されているギリシア語原語は「ホーラ」で原義は「時」ですが、「日」とも訳されます。
 2ペテロ33.4には“まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」”(2017)と記されています。
「終わりの時」の「時」と訳されている語のギリシア語原語は「ヘーメラ」で、時代、時、日、年々、等に訳されます。

 使徒ヨハネの「終わりの時」は初代教会時代を指しています。

 聖書辞典には引用されていませんが、へブル11.2には、
1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。”(2017)と記されています。

 へブル12の「終わりの時」(「時」は「ヘーメラ」)は、キリストの初臨から始まっていることを示しています。

 これから「終末預言」というテーマで記していきますが、このブログでは主に20世紀以降のことについて述べていきます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは全知全能のお方です。
浅学菲才の私をお導き下さり、あなたのみ旨からずれることなく、あなたが聖であられ、あなたは預言を与えてからそれを実現させてくださるお方であることを再確認させていただきながら信仰から信仰へと歩ませていただけますようお願いいたします。
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ428.9 “わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。”(2017

2023年11月27日 (月)

マタイ28:16-20 主キリスト・イエス様は天地の主権者/宣教命令

 マタイ2816-20には次のように記されています。
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。
17
 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18
 イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。
19
 だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 16節に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。」とあります。

イエス様は最後の晩餐が終わった後、オリーブ山へ出かけた時、すでに、復活後ガリラヤに行く、と言っておられました。

マタイ2631.32には、“31 その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。32 しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。(聖書協会共同訳)と記されています。

 もし私が11弟子の一人であったとしたら、このとき主が語られた「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」という御言葉に心をとらわれて「ガリラヤへ行く」という主の御言葉は上の空になっていただろうと思います。
何しろ、主イエス様から引き離されて散らされてしまう、というのですから。主イエス様から引き離されるということに耐えられません。今の私たちは主イエス様から引き離されませんから本当にありがたく嬉しいことです。

話を戻します。
イエス様が復活された後、女性たちは、初め天使に会い、次に復活後の主にお会いしましたが、天使もイエス様も、女性たちに「ガリラヤに行くように弟子たちに伝えなさい」と語りました。マタイ281-10には、

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2
 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降(くだ)って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
3
 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4
 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5
 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10
 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。(聖書協会共同訳)と記されています。

 16.17節には「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と記されています。

冒頭に11人と記されていますから、11人しかいないように思えてしまいますが、実は500人以上もいたのかもしれません。定かではありませんが。
1
コリント156には“その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。”(2017)と記されています。

復活の体は、復活前の体とは異なりました。とは言え、まだ、弟子たちの前に現れるときは、あまり驚かれないように調整していたと思います(ルカ2413-31、ヨハネ2014-20.24-29211-22、使徒16-9)。
栄光に輝く姿で現れた時には使徒ヨハネでさえ気絶したかのようになったのですから。
 黙示録112-17には次のように記されています。
12 私は、語りかける声の主(ぬし)を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方〔主であり御子であるキリスト・イエス(筆者挿入)〕がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。
16
また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
17
この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。”(聖書協会共同訳)とあります。
それにしても主キリスト・イエス様はすごいお姿で現れたものですね。
主はその時々の心の思いや感情に合わせて色々なお姿を見せてくださるお方なのではないかと私は考えます。

 横道にそれますが、私たちも霊の体を与えられた時は、今の体とは異なります。キリストの復活の体に似たものとなるのです。霊のからだが与えられる時は、主の空中再臨の時です。
1
コリント1552に“終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記され、
1
テサロニケ416.17に“すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)と記されています。

 18節には、“イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」”(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様は、ご復活後、天の父のもとに上り、天と地の一切の権能を授かったのです。

私たちは祈る時、この主イエス様の御名によって祈ることが出来るのです。
また、キリスト者は、イエス様のうちに置かれているのです(1コリント130)。
このイエス様は長兄であり(ローマ829)、花婿なのです(エペソ532、黙示録196-8)。バプテスマのヨハネは、花婿の友です(ヨハネ329)。

私たちが、主のみ旨に叶った祈りをささげるときには必ず聞かれるのです(ヨハネ1571ヨハネ514.15)。

キリスト者の特権は絶大です。そしてそれはすべて神様からの賜物です。なんという神様の愛でしょう。神様の愛は信じられないほど絶大です。

 天と地の一切の権能を持っておられる主イエス様が、「だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。」(19.20・聖書協会共同訳)と命令を下されました。そして、不安に陥りやすい弟子たちに対して、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20・聖書協会共同訳)と断言されたのです。

神の霊から新しく生まれた{新しく生まれたのは霊です(ヨハネ36)}キリスト者は、父、子、聖霊の御名(「名」は単数形)の中に浸されたのです。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と訳されていますが、「よって」と訳されている語のギリシア語原語は「エイス」でinto(~の中へ)の意です。
1
コリント130には“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。”(2017)と記されています。

 マルコによる福音書16章には、

15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16 信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。(聖書協会共同訳)と記されています。

マルコ1615の内容は、マタイの福音書にもありました。

 16節には、「信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」と記されています。

信じないでバプテスマを受けても、救われていないのですから、罪に定められるのです。
一方、信じたけれどもバプテスマを受けない者については、この節には記されていません。
十字架上の強盗の一人は、イエス様を信じましたが、バプテスマを受けるチャンスがありませんでした。しかし、救われました。

イエス様を信じたら、バプテスマを受けることの出来ない何らかの障害がない限り、バプテスマを受けることは聖句からみても当然のことと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは、私たちには想像できないほどの恵みを与えてくださいました。
私たちが未だその全貌を知らないだけであることを覚えます。
マタイによる福音書を学ばせてくださりありがとうございました。
これからも益々真理を教えてください。
真理と霊によって御父を礼拝するのです、と主イエス様が教えてくださっておられますから(ヨハネ424)。
天においても地においても御名が崇められますように。
主イエス様の現われをお待ちしています。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月26日 (日)

箴言26:20-22 陰口、うわさ話/主は心と言葉をきよくしてくださるお方

 箴言2620-22を、
聖書協会共同訳は、
20 薪(たきぎ)がなくなれば火は消え、陰口を言う者がいなくなればいさかいは鎮まる。
21
 おき火には炭、火には薪、争いを燃え上がらせるのはいさかい好きな者。
22
 陰口を言う者の言葉はごちそう。腹の隅々に下って行く。”と訳し、

2017
は、
20 薪(たきぎ)がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ争いはやむ。
21
炭火に炭を、火に薪をくべるように、口論好きな人は争いをかき立てる。
22
陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のよう。腹の奥に下って行く。”と訳し、

リビングバイブルは、
20 たきぎがなければ火は消え、うわさがやめば争いもなくなります。
21
マッチ一本で簡単に火がつくように、争い好きな人はすぐにけんかを始めます。
22
うわさ話は、おいしいごちそうのように食欲をそそります。”と意訳しています。

 Bible naviは適用注解として次のように述べています。
“ほんのわずかないら立ちをすべて話すここと、陰口を少したたくことは、怒りの火を燃やし続けるだけだ。それについて話さないようにすることによって、燃料を送る線を切り、火を消せる。誰かがあなたを継続的にいら立たせているだろうか。その人について不満を言わないと決め、燃料不足によっていら立ちが消えるかどうか見てみよう。”と記しています。

 神様抜きの話をしますが、上記の「ほんのわずかないら立ちをすべて話すここと、陰口を少したたくことは、怒りの火を燃やし続けるだけだ。それについて話さないようにすることによって、燃料を送る線を切り、火を消せる。・・・。その人について不満を言わないと決め・・・」と勧められていることを行える人は良いですが、多くの人は行えないのです。

 吉田兼好は、徒然草19段の中に“おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。”と書きましたが、一般的には「物言わぬは腹ふくるる業なり」とよく使われています。

 吉田兼好のこの方法は、怒りや不平不満を溜め込まない方法として、そのような悪感情をノートor紙などに書き、その感情を発散させる方法としても用いられています。
 気に障る人への悪口や不平不満を書いて、書いた紙をぐしゃぐしゃにしてさらに破り捨て、感情と共にごみ箱に捨てる、ということをすることによって、少し気持ちが楽になるor怒りが減少するorこのようなことにとらわれていてもしょうがないという気持ちになる、という方法です。

 主イエス様を信じようとは思わないけれども、この感情を何とかしたい、という人にはこのような方法を進めることもあります。
不平不満や怒りを溜め込んでいると、高血圧症になったり、腸にガスがたまったり、胃炎を起こしたり、暴飲暴食に陥ったり、・・・・等々の心身症になりかねませんし、なっている人もいますから。

 しかしキリスト者に対して聖書は何と言っているのでしょうか?
エペソ4章には次のように記されています。
29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
31
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
32
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。”(2017)とあります。

 聖書のお勧めは生まれながらの人間(新生していない人)には難しい話です。

しかし主なる神様は、新生させていただいた私たちを求めに従って変えてくださることの出来るお方です。
まだ新生していない人でも、心をイエス様の方に向きなおし、イエス様を信じ、イエス様の御言葉を信じる人には主イエス様が善きことを行ってくださいます。

 マイナス方向へと感情を揺り動かされるような事も、私たちキリスト者は、それをそのまま主イエス様にお話しすることができます。
生身の人間に愚痴を言うと、それは広がり、場合によって取り返しのつかないことになります。
生身の人間に悪感情を話して良いことはありませんが、主イエス様には何でも話すことができますから幸いなことです。
主イエス様の場合は、ただ聞くだけではなく、私たちを変えてくださいます。

 愛の使徒と言われた使徒ヨハネの変えられる前の状態は次のようでした。
ルカ9章に次のような箇所があります。
51 天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。
52
 それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。
53
 しかし、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムに向かって進んでおられたからである。
54
 弟子のヤコブとヨハネはこれを見て言った。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」
55
 イエスは振り向いて、二人をお叱りになった。
56
 そして、一行は別の村に行った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 不思議なことに、主に注意されると、腹を立てることなく、自然に変えられているということはないでしょうか。
同じことを人から注意されると心穏やかではないでしょうが。
主は「私はあなたを愛しているよ。だからあなたも愛の人になりなさい。隣人を愛しなさい。」とおっしゃいます(エペソ51.2)。
主の言葉には力があって、主が語られたとしたら、それは実現してしまうということがあるのです。
というか、本当に主が語られたら実現するのです。
「目が見えるようになれ」と言われた人は、目が見えるようになりました。
「きよくなれ」と言われた人はきよくなりました。
「自分の足で立ちなさい」と言われた生来の足萎えの人は歩くことができるようになりました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主は「求めなさい。そうすれば与えられます。」と言われました。
主のみ旨にかなうことであれば、求めれば与えられることを覚えます。
私たちキリスト者には、神のご性質(神の本性)にあずかる者とされるという希望があります。
私たちをあなたの子どもとしてふさわしくお整え下さい。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月25日 (土)

詩篇104:10-24 ヤハウェ(主)は生きものを養ってくださるお方/人の罪は主の働きを阻害する

  詩篇10410-24には次のように記されています。
10 あなたは泉を湧き上がらせて川とし、山々の間に流れさせる。
11
 野のすべての獣はその水を飲み、野ろばも渇きを癒やす。
12
 空の鳥は水のほとりに巣を作り、こずえの間からさえずり歌う。
13
 主は高殿から山々を潤す方〔神は山々に雨を降り注ぎ(リビングバイブル)〕。主の業の実りで地は満ち足りる。
14
 家畜のために草を、人間の働きに応じて青草を生やす方。こうして主は地からパンと15 人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し、油で人の顔を輝かせる。パンは人の心を強くする。
16
 主の木々、主の植えたレバノンの杉は満ち足り、17 そこには鳥が巣をかけ、こうのとりは糸杉を住みかとする。
18
 高い山々は野山羊(のやぎ)のもの、岩場は岩狸の逃れ場。
19
 主は季節のために月を造った。太陽は沈む場所を知っている。
〔主は月を造ってひと月の長さを定め、一日を区切る目じるしとして太陽をおきました。(リビングバイブル)〕
20
 あなたが闇を造られると夜になり、その中で森の生き物はみな動き回り、21 若獅子は獲物を欲(ほっ)してほえ、神から食べ物を求める〔若いライオンは、獲物を求めてほえたけります。しかし、神の助けなしに、食物にありつくことはありません(リビングバイブル)〕。
22
 太陽が昇ると、それらは戻って、巣穴に伏し、〔日が昇ると、彼らは退いて、自分のねぐらで横になります。(2017)〕
23
 人は仕事に出かけ日暮れまで働く〔入れ替わりに、人間が一日の仕事を始め、夕暮れまで働きます(リビングバイブル)〕。
24
主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。
〔主よ。あなたの知恵で、さまざまな営みが出来上がり、地は豊かに満ちあふれています。(リビングバイブル)〕”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所からは神ヤハウェ(主)が全てのものに配慮をなさって養っておられる様子をうかがうことができます。

この詩の作者は、イスラエルの地を見てこのような詩を聖霊の導きのもとに記したのでしょう。
このような状態はイスラエルが主に従って歩んでいたときに与えられたものです。
天気は、人間たちとの関わりの中において神様の御旨一つでどうにでもなるということを聖書は教えてくれています。
 申命記28章には、
2 あなた〔この箇所ではイスラエル(筆者挿入)〕があなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。
3 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、(新共同訳)と記されています。

 しかし人が罪のうちを歩んだとしたらどうなるでしょう。同じく申命記28章には、
15 しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。/
24 主はあなたの地の雨を埃とされ、天から砂粒を降らせて、あなたを滅ぼされる。(新共同訳)と記されています。

 この世の人は、衣食住の満たしについて、自分が働いてそれを得たからだと考え、主なる神様の存在を考えもしません。
もし創造主なる神様が、穀物や野菜、果物等を最初に造り出してくださらなかったとしたら、それらは存在していないのです。そのようなことを考えることはまずないでしょう。
創造主なる神様は、動物や人を造る前に植物を造ってくださったのです。

 創世記1章には次のように記されています。
11神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。
12
地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。
13
夕べがあり、朝があった。第三の日である。/
20
神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
21
神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また、翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。
22
神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」
23
夕べがあり、朝があった。第五の日である。
24
神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。
25
神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
26
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
27
神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。
28
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
29
神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。
30
また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
31
神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。”(聖書協会共同訳)とあります。

 また今日の聖書個所では、食物を供給される養い主である神様を見ます。
そのような神様について主イエス様は山上の垂訓の中で次のように述べておられます。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養ってくださいます。/
28
・・。野の花〔あるいは「ゆり」(欄外注)〕がどうして育つのか、よく考ええなさい。働きもせず、紡ぎもしません。/
30
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださる・・。(マタイ6章・新改訳2017)と記されています。

 また上記の様に語られたイエス様についてコロサイ115-17は次のように記しています。
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は、御子によって造られ、御子〔別訳「全被造物を治める長子」(欄外注)〕のために造られました。
17
御子は、万物に先だって存在し、万物は御子にあって成り立っています。(新改訳2017)とあります。 

 19節には、月や太陽について記されています。
月や太陽が聖書に最初に登場するのは、創世記114-18で、
14 神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。
15
天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。
16
神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。
17
神は地上を照らすため、それらを天の大空に置かれた。
18
昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。・・・。(聖書協会共同訳)と記されています。

 堕罪した人間は、主のみ旨に従って地を支配するのではなく、むさぼりにしたがって地を支配した結果、地球環境は厳しくなりました。また、アダムの堕罪のゆえに地が呪われたという面もあります(創世記317)。

 しかし主なる神様は、キリストの千年王国時代にはそれを回復してくださいます(イザヤ351.2.76525)。 

<お祈り>
天のお父様。
あなたを崇めます。
あなたは、あらゆる配慮をして下さっておられますからありがとうございます。
アダムが堕罪せず、あなたの御旨に従って人類全体が生活していたならば、平和で調和のとれた豊かな生活を送ることができただろうと思います。
しかし、現代の多くの人達は、ますますあなたに背いています。やがては黙示録にあるように海の中の生き物さえ絶え果(は)てるときが来ることを覚えます。
すべての人が主イエス様を信じ、主に従って歩んでいけたら良いな、と思いますが、黙示録を読むとそうはならないことを覚えます。
主の現れのときを待ち望みます。マラナ・タ
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月24日 (金)

申命記33:26-29 エシュルンの神/キリスト者を愛する神・花婿キリスト

 申命記3326-29には次のように記されています。
26 「エシュルンの神に並ぶ者はいない。あなたを助けるために天を駆け、威光に満ちて雲に乗られる。
27
 いにしえの神は隠れ家。とこしえの腕で下から支えてくださる。神はあなたの前から敵を追い払い、『滅ぼし尽くせ』と言われた。
28
 イスラエルは安らかに住み、ヤコブの泉だけが涸れない。地には穀物と新しいぶどう酒が溢れ、天も露を滴らせる。
29
 イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾、あなたの威光の剣。敵はあなたに屈服し、あなたは彼らの高き所を踏みつける。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 26節を2017は“エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。” と訳し、
 リビングバイブルは“エルサレム(エシュルン)の神様のような神は、ほかにありません。神様はあなたを助けようと雲に乗り、畏れ多くも天から下られます。”と意訳しています。

「エシュルン」には、「正しい者」「高潔な者」の意があります。
また「イスラエル」の名として用いられます。

エシュルンについて、聖書辞典は、
“この語の原意から見て、神のイスラエルに対する愛称または理想像の詩的呼称と考えられる。70人訳ではイザ442のこのことばを「愛するイスラエル」と訳している。しかしヘブル語本文では、ヤコブ、イスラエル、エシュルンと呼称を使い分けている(イザ44:1‐2)。この呼称は、イスラエルの民が正しいからではなく、彼らを贖い、召された神が正義であり、彼らを正しい道へ導かれるからである。またこの呼称により、罪を犯し、堕落しやすい民に神の民としての自覚を与えようとしているのである。”(抜粋)と述べています。
 上記の解説で出てくるイザヤ441.2は次のように記されています。
1 今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
2
あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。”(2017)とあります。

 27節を2017は“いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。”と訳しています。

この箇所を新共同訳は、“いにしえの神は難を避ける場所、とこしえの御腕がそれを支える。神はあなたの前から敵を追い散らし、「滅ぼし尽くせ」と言われた。”と訳しています。

 エジプトにおける出来事、出エジプトからヨルダン川までの出来事、カナンの地の征服等を見ると、神ヤハウェ(主)は、イスラエルを用いて悪が満ちた民たちに対してそのようなことを行われてきたことがわかります。神ヤハウェ(主)がイスラエルをそのように用いられる400年前の預言がアブラム(アブラハム)に次のように与えられていました。
 神ヤハウェ(主)がアブラム(アブラハム)に語った預言の御言葉は次のようなものです。
13 主はアブラムに言われた。
「あなたはこのことをよく覚えておきなさい。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。
14
 しかし、あなたの子孫を奴隷にするその国民を、私は裁く。その後、彼らは多くの財産を携えてそこから出て来る。
15
 あなた自身は良き晩年を迎えて葬られ、安らかに先祖のもとに行く。
16
 そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」/
18
 こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまで の、19 カイン人〔ケニ人(2017)〕、ケナズ人、カドモニ人、20 ヘト人〔ヒッタイト人(2017)〕、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」”(創世記1513-21・聖書協会共同訳)と記されています。

 ノアの箱舟の個所でも、世の人々の悪が満ちたゆえに神ヤハウェ(主)は大洪水によって裁きを行いました。
“神はノアに言われた。「すべての肉なるものの終わりが、私の前に来ている。彼らのゆえに地は暴虐で満ちているからである。今こそ、私は地と共に彼らを滅ぼす。」”(創世記613・聖書協会共同訳)と記されています。

 28.29節には、「イスラエルは安らかに住み、ヤコブの泉だけが涸れない。地には穀物と新しいぶどう酒が溢れ、天も露を滴(したた)らせる。イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾、あなたの威光の剣。敵は あなたに屈服し、あなたは彼らの高き所を踏みつける。」とあります。

 これらの節の預言は、イスラエルが神ヤハウェ(主)の仰せに従った場合に与えられるものです。申命記281-14には次のように記されています。
1 もしあなたがあなたの神、主の声に必ず聞き従い、今日私が命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを、地上のすべての国民の上に高く上げてくださる。
2
 あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。
3
 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
4
 あなたの胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福される。
5
 あなたの籠もこね鉢も祝福される。
6
 あなたは入るときも祝福され、出るときも祝福される。
7
 主はあなたに立ち向かう敵をあなたの前で打ち負かされる。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前から七つの道へ逃げて行く。
8
 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたの手の業に祝福を定められ、あなたの神、主があなたに与えられた地であなたを祝福される。
9
 あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むとき、主はあなたに誓われたとおり、あなたを聖なる民として立てられる。
10
 地のすべての民は、あなたが主の名で呼ばれるのを見て、あなたを恐れる。
11
 主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かにされる。
12
 主は恵みの倉である天を開いて、あなたの地に季節に応じて雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたは多くの国民に貸すようになるが、借りることはない。
13
 私が今日守り行うように命じる、あなたの神、主の戒めに聞き従うとき、主はあなたを頭として、尾とすることはない。あなたは常に上にあって、下になることはない。
14
 あなたは、今日私が命じるすべての言葉から右にも左にもそれてはならず、他の神々に従って、これに仕えてはならない。”(聖書協会共同訳)とあります。

 26-29節の本質はそのまま私たちキリスト者にもあてはまります。
私たちキリスト者の神がどの様なお方であるのかということについての一部を今日の個所から見ることができます。

ヤハウェ(文語訳聖書では「エホバ」と表記していました)なる神様は、
①永遠のお方、
②私たちの救い主、助け主、また力、
③私たちを支えて下さるお方、
④私たちをご自身の内に住まわせてくださるお方(ここにはありませんが、主は私たちの内に住んでくださるお方。即ち相互内住です。)
⑤必要を満たしてくださるお方、
⑥民を増やしてくださるお方(キリスト者を増やしてくださるお方)
⑦敵を追い払えと命じ、敵(サタンやその配下の悪しき霊)に勝利させてくださるお方{サタンが完全に対処されるのはヤハウェ(主)によるのであり千年王国の最後においてです}
と記されています。

 現代人の多くは、預金通帳を持っていて、その通帳の中に入っている金額の範囲内で、キャッシュカードを使って現金を引き出す、ということをします。
それと同じようにキリスト者に与えられた天にあるすべての霊的祝福は、表現が良いかどうかはわかりませんが、私たちの霊的な通帳に入っています。与えられたのですから。
エペソ13には“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。

 私たちは、キャッシュカードではなく、主の約束の御言葉を信じることによって、その実体を引き出すことができるのです。

コロサイ23.9.10には、「3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(新改訳2017)と記され、
 コロサイ116には、「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」(新共同訳)と記され、
 黙示録15.6(抜粋)には、「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」(新改訳第三版)と記されています。

私たちは御子の内に置かれ(1コリント130)、御子は私たちの内におられるのです(コロサイ127)。
私たちを命を懸けて愛してくださった主イエス様は私たちの花婿です(エペソ522-32、黙示録197.81コリント112)。
アーメン。ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
限りない祝福を与えて下さり感謝します。
いつも主を愛し、御言葉を信じ、喜びをもって主に従い続ける者であらせてください。
御名を崇め賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月23日 (木)

マタイ28:1-10 イエス・キリストの復活/とこしえに主と共に

 マタイ281-10には次のように記されています。
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2
 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
3
 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4
 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5
 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たち〔マグダラのマリアともう一人のマリア(筆者挿入)〕は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10
 イエスは言われた。
「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 キリストの復活に関連する記述は他の福音書にも記されていますが、多少の違いのある個所もあります。
正確を期すためには、もっと多くの字数を用いて時系列的に、書いてくれたらよかったのにと思いますが、このときの弟子たちは気が動転していた時であったので仕方がなかったのかもしれません。

 1節には、“さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。”とありますが、
ルカ2410には、“それは、マグダラのマリア、ヨハナ〔ヨハンナ(口語訳、新改訳)〕、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。”(聖書協会共同訳)と記されています。
ルカ:2410には“一緒にいた他の女たち”という記述もありますが、その女たちの中にはサロメがいました。 
 マルコ161.2には“安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日、朝ごく早く、日の出とともに墓に行った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 サロメについて聖書辞典は“ゼベダイの妻で、ヤコブとヨハネの母。マコ15:40によれば、イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセの母マリヤ、そしてサロメがいた。またマコ16:1では、イエスのからだに油を塗りに行ったのは、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメとなっている。さらにマタ27:56には、十字架を遠くから眺めていた女たちの中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた、とある。これらのことから、サロメはゼベダイの子らの母であったと思われる。他方ヨハ19:25には、イエスの十字架のそばに立っていた女性として、イエスの母、母の姉妹、クロパの妻のマリヤ、マグダラのマリヤの4人があげられている。そこでサロメはイエスの母マリヤの姉妹であり、したがってヤコブとヨセフはイエスのいとこであったという仮説がある。もしそうであれば、十字架上のイエスが、母マリヤをヨハネに託したのもうなずける。しかしマコ15:41によれば、十字架を目撃した女性はこのほかにも多くいたから、マグダラのマリヤは別として、ヨハネは共観福音書と全く別の人名をあげたという可能性もあり、定かでない。”と述べています。

 ヨハンナについて聖書辞典は“イエスによって悪霊や病気をいやされた女たちの一人で、イエスの旅行の手助けをした(ルカ8:2.3)。彼女の夫は、ヘロデ・アンテパスの執事クーザであったが、彼が具体的にどのような役割を担っていたのかは不明である。ヨハンナは、イエスの埋葬のために、週の初めの日の明け方早く墓に出かけ、イエスの復活を11人の弟子に報告した女性の一人である(ルカ24:1‐10)。ルカだけがヨハンナと何人かの女性たちの名をあげているが、それは、ルカが彼女たちと知り合いで、彼女たちから情報を得ていたためであると考えられる。”と述べています。{文中の(ルカ83)を(ルカ82.3)と変えさせていただきました}

 ルカ2355-244には次のように記されています。
23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た女たちは、ヨセフの後に付いて行き、墓と、イエスの遺体が納められる様子とを見届け、56 家に帰って、香料と香油を準備した。
56
 女たちは、安息日には戒めに従って休んだ。
24
1 そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。
2
 すると、石が墓から転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ここに登場する香料を携えて墓に行った女性たちは、墓の石を動かす力が無かったので、墓石を動かしてくれる人が誰かいて欲しいな、と思っていました。
 ルカ241に「・・、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。」とありますが、墓に到着する前に、一つの心配事がありました。それは、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ163・聖書協会共同訳)という女性たちの会話からわかります。
また、マルコは、この女性たちが、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメであると記しています(マルコ161)。

ルカ242には、「すると、石が墓から転がしてあり」とありますが、マタイはこのところを詳しく、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。」(マタイ282)と記し、石をわきにころがしたのは天使であると記しています。

脱線しますが、
私たちも、「あの問題、どうしよう。この問題、どうしよう。」と悩むときがあります。自分ではどうすることもできない問題についての話です。
しかし、そのことを祈り、その祈りの答えを知って(or見てor体験して)、「エッ、そんなふうに解決したの、それは主が働いてくれたのだ。」と思うようなことがあると思います。
主が生きて働いておられることを体験しているに人に対しては、主イエス様の復活の真実を理論的に説明する必要もありません。
主が今生きて働いていてくださっておられること、また、いつも主と交わりをもって生活しているという実感を持っていること、主が自分の内におられること等を体験しているからです。

話を元に戻しますが、天使が現れた時の番兵の様子がマタイ282-4に、「2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記されています。

ルカ242.3には、女性たちの見たこととその後の行動について「すると、石が墓から転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」と記されています。

女性たちが天使にあったのはそのあとでした。次の4節には、「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに立った。」とあります。

この天使は、青年のような若さに見えたのでした(マルコ165.6)。

主イエス様の弟子たちや主イエス様を愛していた婦人たちは誰も墓石が動かされたところを見ませんでした。
しかし、墓の石を開ける者がないように、墓石に封印をし、番をしていたローマの兵士は、天使が天から降りてきて墓石をわきにころがして、墓石の上に座ったのを見たのです。
その時に地が震えたのです。ローマ軍の兵士は恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったのです。
そのときの様子が、マタイ282-4に「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と記されています。

 女性たちは、天使たちの言葉を聴いた後、復活されたキリスト・イエス様にお会いしたのです。再掲しますが、マタイ285-9には次のように記されています。
5 天使は女たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで お目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8
 女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9
 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、女たち〔マグダラのマリアともう一人のマリア(筆者挿入)〕は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。”とあります。

 主イエス様は、女性たちがびっくりしないお姿で現れてくださいました。
その後の弟子たちにも、主イエス様は、驚かせないような姿で現れてくださいました。

 主キリスト・イエス様は、昇天後、御父の右の座に着座されました。そして天地の主権者となられたのです(マタイ2818)。
天の神の王国は、三権分立ではありません。
法はすでに定まっています。
主イエス様は、天においても地においても一切の権威を持たれたのです。
司法と政治、軍事について、権威を持たれているのです。
黙示録1章を見ると、主キリスト・イエス様を見た使徒ヨハネ(最後の晩餐では主の胸に寄りかかっていた人です)はビックリして死人のようになったのです。

 黙示録112-18には次のように記されています。
12 私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方〔主キリスト・イエス様(筆者挿入)〕がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
 その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅〔真鍮(口語訳、新改訳、新共同訳)〕のよう〔おそらく金に似た輝きであったのでしょう(筆者挿入)〕であり、声は大水のとどろきのようであった。
16
 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
17
 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、18 また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。”(聖書協会共同訳)とあります。

 また黙示録1911-16には次のように記されています。
11 それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方〔再臨のキリスト(筆者挿入)〕は、「忠実」および「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。
12
 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。
13
 この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれた。
14
 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。
15
 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。
16
 この方の衣と腿(もも)には、「王の王、主の主」という名が記されていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 私たちは、どのイエス様を信じて生活しているのでしょうか。
赤子のイエス様をいつも見て、地上の母であったマリアさんの方を大きく見て生活しているでしょうか。
それとも優しいイエス様でしょうか。
それともいつも十字架にかかっておられるイエス様でしょうか。
それとも天の御座に座しておられる主権者としてのイエス様でしょうか。
主イエス様をどのように認識して生活するかによっても信仰生活はだいぶ変わってくることでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私は日常においては、いつも愛してくださる優しいイエス様と一緒に生活させて頂けていますことを感謝します。
罪を示されたときには、十字架上で血を流されたイエス様を思います。
しかし、悪しき霊と対決するときには、天地万物の主権者であられる主イエス様の権威に基づき対決させていただけますから感謝します。
主を重んじる者を主は重んじられるお方(1サムエル230)であられ、主を愛する者を主は愛されるお方であられ(箴言817、ヨハネ1421)、主を愛している者を助けてくださるお方であられ(詩編9114)、主を愛している者に現れてくださるお方です(ヨハネ1421)から御名を崇め、賛美し、感謝します。
代々いついつまでも主を愛し、主にお従いして歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月22日 (水)

箴言26:18.19 永遠の愛の中で

 箴言2618.19を、
2017
は“18 気がふれた者は、燃え木を死の矢として投げるが、19 隣人をだましながら、「ただ、戯れただけではないか」と言う者も、それと同じ。”と訳し、

聖書協会共同訳は“18 我を失った者は、火矢を、矢を、死を放つ。19 そして友人をだまして言う。「笑わせようとしただけではないか」と。”と訳し、

リビングバイブルは“18.19 人をだましておきながら、「ちょっとからかっただけだ」としらばくれる者は、手当たりしだい物を投げつける気がおかしくなった人のように危険です。”と意訳しています。

 「気がふれた者」(2017)、「我を失った者」(聖書協会共同訳)、「気がおかしくなった人」(リビングバイブル)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーハハ」という語で、燃える、焼く、狂暴である、狂気じみている、気の狂った、ばかげた、無謀な、無分別な、・・等の意があります。

 「燃え木」(2017)、「火矢」(聖書協会共同訳)と訳されているヘブライ語原語は「ジークの複数形のジーキム」で、火矢、燃え木、たいまつ、閃光、・・・等の意があります。

 「矢」と訳されているヘブライ語原語は「ヘーツの複数形のへ―ツィム」です。

 18節を直訳すると、「我を失った者or気がふれた者は、火矢or燃え木、矢、そして死を投げるor放つ」と記されています。そして「火矢」や「矢」を投げるのは1回ではすみません。

 余談になりますが、私がかかわった人の中には、内に住み着いた悪しき霊から親に向かって「包丁を投げろ」と幾度も脅迫された人がいました。
この人は、このような自分から解放されたいと願っていました。
それ故、主の御名によって悪霊を追い出し、その後、この人は主を信じて笑顔を見せてくれるようになりました。もう数十年前の話なので、この人は今どうしていることでしょう。天国で再会できたら嬉しいです。

 上記のような人に限らず、このような人の目は悪しき霊に取り憑かれているような異常な目つきをしているように思います(私の経験では)。私の場合は、このような人と対峙した場合、背筋がゾッとします。そして直ちに主の霊に満たされるための祈りを心の中でしてから対処します。

 19節の「隣人」(2017)、「友人」(聖書協会共同訳)と訳されているヘブライ語原語は「レーア」で、仲間、隣人、夫、友人、恋人、愛人・・等の意があります。

 「だます」と訳されているヘブライ語原語は「ラーマー」で、だます、欺く、強く投げる、投げつける、・・・等の意があります。

 19節は、「それから(orちょうど~と同じ)、仲間(or友人or隣人oror恋人or愛人)をだまして(or欺いて)言う{(ヘ)レーアに投げつけて言う}。『ただ、戯れただけではないか』(or『冗談、冗談』)と。」

 このような人には近づきたくないですね。
しかし、当人は苦しんでいる場合もあるのです。
配偶者の関係であれば、まさしくDVですね。

 ユダの手紙の一部を抜粋すると次のようになる聖句があります。
「あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。火の中からつかみ出して救いなさい。」(20.21.23抜粋・2017

 話しは変わりますが、キリスト者のとこしえの配偶者は主キリスト様です。ハレルヤ!
主は、全き愛をもって愛してくださり、偽りを言うことなく、導き支えてくださいます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
御父と御子イエス様と御聖霊に愛され、永遠を過ごすことの出来る幸いを感謝します。
あなたの愛が私たちからもあふれ出て、アガペーの愛で愛し合いながら世々限りなく愛にあふれた豊かな生活をしていくことができますように。
あなたがそのようにしてくださいますから感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ユダの手紙24.25
「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

2023年11月21日 (火)

詩篇104:5-9 地と海の創造/新天新地の創造は見ることができるかもしれない

 詩篇1045-9には次のように記されています。
5 主は地をその基の上に据え、代々とこしえに揺らぐことのないようにされた。
6
 深淵が衣のように地を覆い、水が山々の上にとどまっていた。
7
 あなたの叱咤(しった)によって水は逃げ去り、あなたの雷鳴によって逃げ惑った。
8
 水は山々を上り、谷間を下り、あなたが礎を築いた所に向かった。
9
 あなたは境を置き、水が越えて、再び地を覆うことのないようにされた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この箇所は、神様の創造の御業のうち、地と海に関することが記されています。

創世記12を新共同訳は“「地は混沌であって、闇が深淵〔ヘブライ語原語は「テホーム」でその意は、深淵、淵、深い穴や谷底、深海、地獄(筆者挿入)〕の面にあり、神〔ヘブライ語原語は「エロヒーム」で神「エル」の複数形(筆者挿入)〕の霊が水の面を動いていた。”(新共同訳)と訳し、
2017
は“地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。”と訳し、
聖書協会共同訳は“地は混沌として〔別訳「形なく、空しく」(欄外注)〕、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。”と訳しています。
 
 創世記19.10には、神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。(新共同訳)とあります。

 ヨブ381-11には次のように記されています。
1 主は嵐の中からヨブに答えられた。
2
 知識もないまま言葉を重ね、主の計画を暗くするこの者は誰か。
3
 あなたは勇者らしく腰に帯を締めよ。あなたに尋ねる、私に答えてみよ。
4
 私が地の基を据えたとき、あなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。
5
 あなたは知っているのか。誰がその広さを決め、誰がその上に測り縄を張ったのかを。
6
 地の基は何の上に沈められたのか〔その台座は何の上にはめ込まれたのか(2017)〕。誰が隅の親石を据えたのか。
7
 夜明けの星々がこぞって歌い、神の子らが皆、喜び叫んだときに。
8
 海がその胎内からほとばしり出たとき、誰が海の扉を閉じたのか。
9
 私が雲をその上着とし、密雲をその産着としたときに。
10
 私は海のために境を定め、かんぬきと扉を設けた。
11
 私は言った。「ここまでは来てもよいが、越えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる」と。(聖書協会共同訳)とあります。

箴言827-30には、
27 神が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。深淵の面(おもて)に円を描かれたとき、28上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、29 海にその境界を置き、その水が主の仰せ〔あるいは「その端」。直訳「その口」(欄外注)〕を越えないようにし、地の基を定められたとき、30 わたしは神の傍(かたわ)らで、これを組み立てる者であった。2017)記されています。

 

詩篇1045-9の箇所は、地と海の創造の御業を記していますが、ここに記されてあることの一部はノアの大洪水の後にも再度起こったのかもしれないと想像させられます。
それは新改訳初版~第三版の訳で6-9節を読んだ場合で、次のように記されています。
6 あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。
7
水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。
8
山は上がり、谷は沈みました〔「水は山々を上り、谷間を下り」(聖書協会共同訳)〕。あなたが定めたその場所へと。
9
あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。”とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主がヨブに「私が地の基を据えたとき、あなたはどこにいたのか。」という場面がありますが、私もヨブと同じで、その時にはまだ存在していなかったのです。
聖書の聖句から、色々なことを想像できても、直接見たわけでもなく、正しい答えを主に答えるなどということは全くできない者です。
ただ、主が新天新地を創造なさる時には、それを見ることができるのかもしれないと心躍らせる者です。
主が新天新地を創造なさる時のすばらしさ、その力を見させていただいて、心躍らせ、大喜びで主を賛美するのではないかと思います。
全き愛をお持ちであり、創造主であられるあなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イザヤ6517.18a“見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。”(2017

2023年11月20日 (月)

申命記33:23-25 ナフタリ族、アシェル族への祝福の預言/主に信頼する者を主はいつも祝福してくださる

 申命記3323-25には次のように記されています。
23 ナフタリについて彼は言った。「ナフタリは恵みを豊かに受け、主の祝福に満ち、西と南を所有する。」
24
 アシェルについて彼は言った。「アシェルはどの子よりも祝福される。その兄弟たちに愛され、その足を油に浸す。
25
 あなたのかんぬきは鉄と青銅、あなたの強さはあなたの生きるかぎり続く。」(聖書協会共同訳)とあります。

 23節には、ナフタリについて彼は言った。「ナフタリは恵みを豊かに受け、主の祝福に満ち、西と南を所有する。」(聖書協会共同訳)とあります。

ナフタリの相続地は「西と南」となっています。
「西と南」と訳した日本語訳聖書には、聖書協会共同訳、新改訳、文語訳があり、その箇所を「湖とその南」と訳した聖書には口語訳、新共同訳があります。リビングバイブルは「ガリラヤ湖の西と南」と意訳しています。
「湖」、「西」と訳された語のヘブライ語原語は、「ヤーム」で、その意味は、「海、湖、大きな河、西、南」とStrong辞書にあります。
 地図上で見るナフタリの南北は、ガリラヤ湖(キネレテ湖)の南から、ヘルモン山から流れ出た水が流れ込んでいる上ヨルダン川までで、ナフタリの東側はガリラヤ湖とガリラヤ湖に流れ込む上ヨルダン川の西側であり、ナフタリの西側の境界はおもにアシェルに接しています。
ナフタリの西南地域はゼブルンに接し、南はイッサカルに接しています。
イエス様の時代、この地方はガリラヤ地方の一部をなしていました。
この地方は豊かな土地であり、その上ガリラヤ湖には魚がいます。
23
節に、「ナフタリは恵みを豊かに受け、主の祝福に満ち」とあるように、ナフタリの相続地は水資源に恵まれ、農業、漁業に恵まれていたのです。

 食を得るのに大変な地域を相続地として与えられた人々は、日々の食事について、主への祈りを熱心にすることになるでしょうが、祈らなくても魚は取れるし、地の作物は豊かに実るとなると、主への祈りがおろそかになりやすいものではないかと思います。

 私たちキリスト者も順風満帆なときと試練に次ぐ試練が与えられたときとでは祈りの熱心さが異なるのではないかと思います。
主が与えてくださったものであれば、一般に祝福と思える事柄はもちろん祝福ですが、未信者がキリスト信者に対して「それでも主を信じているの」と揶揄するような試練をキリスト信者が与えられているときも、キリスト信者にとっては大いなる祝福なのです。
試練を通してより豊かな祝福を主からいただけるからです。

 24節には、アシェルについて彼は言った。「アシェルはどの子よりも祝福される。その兄弟たちに愛され、その足を油に浸す。(聖書協会共同訳)とあります。

「その足を油に浸す」とあるようにアシェルの地はオリーブ油の豊かな産地でした。

 25節には、あなたのかんぬきは鉄と青銅、あなたの強さはあなたの生きるかぎり続く。(聖書協会共同訳)とあります。

新改訳2017は、「あなたのかんぬきは鉄と青銅。あなたの力が、生きるかぎり続くように。」と訳しています。

アシェルの相続地は、地中海に面しており、カナンの地へ侵略してくる者の通り道であったのです。それ故、「あなたのかんぬきは鉄と青銅。あなたの力が、生きるかぎり続くように。」とあるのでしょう。
アシェルが律法に従った歩みをしていれば、安全であったのでした。ヤハウェ(主)が守ってくださり、戦う力を与えて下さるからです。

 私たちキリスト者は、主イエス様に信頼していれば勝利です。それどころか、新生した者は、勝利が確定しています。
 使徒ヨハネは、「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」(1ヨハネ54・口語訳)、「神から生まれた者はみな〔(直訳)神から生まれたすべては(神から生まれたのは霊です){筆者挿入}〕、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(1ヨハネ54・新改訳2017)と述べています。

 パウロもローマ人への手紙8章に次のように記しています。
35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。/
37
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある
38
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、39 高いものも深いものも〔高い所にいるものも、低い所にいるものも(新共同訳)〕、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(口語訳)と述べました。

 パウロは「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」と述べていますが、同時にその理由を「わたしたちを愛して下さったかたによって」と記しています。

 「世の波風いかにあれて」(聖歌474 聖歌総合版491)の5節に次のような歌詞があります。
「ハレルヤ! 主は 世と悪魔にすでに勝ちを得給えば 我らもまたイェスと共に日々勝ち得て余りあり 主の安き 主の安き 我は内に今持てり 主の安き 主の安き 我は内に今持てり」と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
私たち新生させて頂いたキリスト者は、既に祝福を与えられていますから感謝します。
サタンに騙されることがありませんように。
誰が見ても豊かな祝福を与えられていると思えるときには、主への感謝と賛美を忘れることなく、試練の中にある時にも、祈りを導いてくださる聖霊によって大いなる感謝と賛美が献げられますように。
私たちを守り、導き、支え、祝福してくださっておられるあなたの御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月19日 (日)

マタイ27:62-66、28:2-4、11-15 イエス・キリストを埋葬した墓と墓を見張ることに関係した人々

 マタイ2762-66には次のように記されています。
2762 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、63 こう言った。
「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と 民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」
65
 ピラトは言った。
「番兵を出してやるから、行って、思うとおりに見張らせるがよい。」
66
 そこで、彼らは行って石に封印をし、番兵と共に墓を見張った。”(聖書協会共同訳)とあります。
この箇所の記事内容はマタイだけが記しています。

62節に、“明くる日、すなわち、準備の日の翌日”とあります。
その日は安息日でした。即ち、安息日に、“祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって”とあるように、祭司長たちとファリサイ派の人々の自己矛盾は甚だしいものがあります。
イエス様が、安息日に病人を癒したときには猛烈に非難したにもかかわらず、祭司長やパリサイ人たちは、安息日に行動しているのです(そのように行動しても良い内容であったということなのかもしれませんが)。

 主イエス様が安息日に病人をいやしたことについてユダヤの指導者たちは批判していたのです。一例としてヨハネ51-16には次のように記されています。
1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2
 エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3
 その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。〔新共同訳は異本訳として53b-4として「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」と記しています(筆者挿入)〕
5
 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6
 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7
 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
8
 イエスは言われた。「起きて、床を担(かつ)いで歩きなさい。」
9
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
10
 そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。
今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」
11
 しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
12
 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。
13
 しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。
14
 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
15
 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
16
 そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。”(聖書協会共同訳)とあります。

祭司長やファリサイ派の人たちは、ピラトに、「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と 民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」(63.64)。と語ったのです。

 はたして弟子たちに主イエス様を墓から盗み出すというような勇気はあったのでしょうか。
その頃、弟子たちは、恐れに満たされていました。安息日の翌日(日曜日)に、イエス様が復活されたということを、マグダラのマリアや他の女性から、恐らく朝の内に(ヨハネ2011-18、マタイ288)聞いた弟子たちでしたが、それでもユダヤ人たちを恐れていたのです。それは次の聖句によって分かります。

ヨハネ2018.19には、マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(聖書協会共同訳)とあります。

弟子たちは恐れていましたから、イエス様の死体を盗み出すどころではなかったのです。
しかし、祭司長やパリサイ人たちがとった行動は、イエス様の復活を信じることが難しい者にとって役に立ちました。

何故なら、墓石はしっかりと閉められ、石には封印が張られ、かつローマ兵に墓の番をさせたのですから。

 しかし主イエス様は復活されました。ローマ兵たちは、地震が起こったこと。天使が現れ墓の入り口を閉じている大きな石を天使が転がしたこと。天使の姿が光り輝き、その衣が雪のように白かったこと等を見て体が固まってしまったのです。
 マタイ282-4には次のように記されています。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ兵たちは職務を遂行できなかったので罰を恐れて恐怖を覚えていました。ローマ兵たちはピラトのもとに帰ることもできず、祭司長たちの所へ行ったのです。祭司長たちは何と言ったのでしょうか?

マタイ2811-15aには次のように記されています。
11 女たちが弟子たちのところに向かっている間に、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
12
 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13 言った。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14 もしこのことが総督の耳に入ったとしても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
15
 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様を信じる前の私は、イエス・キリストの復活は本当か嘘か、ということについて状況証拠を分析したものです。
しかし、主イエス様を信じさせていただいて、日々主イエス様と交わりを持てるようになると、論理的なことはどうでもよく、復活された主イエス様がおられることは至極当然のようになっています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
日々、主イエス様との交わりの内に歩ませていただけますことを感謝します。
恵み深き主に感謝しつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月18日 (土)

箴言26:17 争いを見たらまず祈ろう

 箴言2617には、“自分に関係のない争いにいきり立つ者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。”と訳しています。

 BIBLE naviはこの個所の適用注解として次の様に述べています。
“犬の耳をつかむのは、犬に噛まれるには良い方法であり、争いに干渉するのは、傷つけられるには良い方法である。多くの場合、争う者たちの両方が干渉する者を攻撃する。あなたに関係のない争いから離れるのが最善である。もし関与しなければならないのであれば、争う者たちが戦うのをやめて少し落ち着くまで待つようにしよう。それから、彼らの違いと関係を修繕できるかもしれない。”と。

 争いについて、今私が思い浮かぶところでは、人の肉からくるもの、肉と霊の戦いからくるもの、神の霊と悪しき霊の戦いからくるものなどがあります。

 肉から生じる争いについての聖句を下記します。
(ここでいう「肉」とは単なる人間のことではなく、罪の奴隷となり、本能的欲望のままに生きる人間のことを指しています)
ヤコブ41-2bには“1 あなたがたの中の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中でうごめく〔直訳「進軍する」(欄外注)〕欲望から起こるのではありませんか。
2
 あなたがたは、欲しがっても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。”(聖書協会共同訳)とあり、
 ガラテヤ519-21aには“19 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 肉と霊の戦いからくるものに関する聖句を下記します。
ガラテヤ5章には次のように記されています(一部前述と重複します)。
16 私は言います。霊〔神の霊(筆者挿入)〕によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
 肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
〔リビングバイブルは次のように意訳しています。
「私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行ないたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。」(筆者挿入)〕
18
 霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
〔しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要がありません。(リビングバイブル)〕
19
 肉の行いは〔生まれながらの悪い性質、つまり肉に従った結果がもたらすものは(リビングバイブル)〕明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22
 これに対し、霊の結ぶ実は、〔しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます(リビングバイブル)〕愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制〔自制(新改訳)〕であり、これらを否定する律法はありません。
24
 キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。
25
 私たちは霊〔神の霊(筆者挿入)〕によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。
26
 思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。”(聖書協会共同訳)と記され、

 ローマ81-10には次のように記されています。
聖書協会共同訳は、
1 従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
2
 キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3
 律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
4
 それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためです。
5
 肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思います
6
 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。
7
 なぜなら、肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わないからです。従いえないのです。
8
 肉の内にある者は、神に喜ばれることができません。
9
 しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属 していません。
10
 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。”と訳し、

 同じ個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスに属する人が、罪の宣告を受けることはありません。
2
なぜなら、いのちを与える御霊の力が、罪と死の悪循環から解放してくれたからです。
3
律法を知っているだけでは、罪の支配からは救い出されません。私たちはそれを守ることもできないし、実際守ってもいないからです。ところが、神は私たちを救うために、別の計画を実行に移されました。すなわち、神のひとり子を、私たちと同じ体を持つ者として――ただ、私たちのような罪の性質を持たない点では異なりますが――世にお遣わしになったのです。そして彼を、私たちの罪のためのいけにえとして、私たちをがんじがらめにする罪の支配を打ち破られたのです。
4
ですから今、私たちは聖霊に従って歩むなら、律法に従うことができるのです。そしてもはや、古い罪の性質の言いなりになることはありません。
5
罪の性質に従っている人は自分を喜ばせようとしますが、聖霊に従って歩む人は、神に喜んでいただこうとします。
6
聖霊に従って歩むならいのちと平安があり、古い罪の性質に従って歩むなら死が待っています。
7
古い罪の性質は神に敵対するからです。古い性質が律法に従ったことは一度もなかったし、これからも決してありません。
8
ですから、なおも古い自我に支配されて欲望に従い続ける者は、決して神をお喜ばせすることができないのです。
9
しかし、あなたがたはそうではありません。もし神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、新しい性質に支配されているのです。もしその人のうちにキリストの御霊が住んでおられないなら、その人はクリスチャンではありません。
10
もしキリストがうちに住んでおられるなら、古い自分は罪のために死んでも、キリストにあって新しい自分が生きるのです。”と記しています。

 聖霊に従って歩むキリスト者とこの世の霊に従って歩む生まれながらの人の間には越えがたい溝があることがわかります。
現在のイスラエルとハマスの間の闘争を報道している報道関係者の多くは、この世の霊{悪魔悪霊(1ヨハネ519)}に従って歩む生まれながらの人(肉の性質のみの人)ですから正しい報道をすることができないのです。
日本人キリスト者で、イスラエルの地に住み、イスラエルのニュースを発信してくださっておられる人に石堂ゆみ姉がいます。その人は「オリーブ山通信」というイスラエルを中心とした中東・世界のニュースをエルサレムから発信してくれています。ご存知ない方は参考にするとよいと思います。

 争いの根本的な問題は、悪魔(サタン)の野望からくるものです。
悪魔悪霊は、常に神に対して、イスラエルに対して、キリスト者に対して戦いを挑んできます。
サタン(悪魔)は、創世記315に記されている神ヤハウェ(主)の宣告を聞いた後から、キリストの贖いが成就するまでの間、救い主を誕生させるイスラエルを、サタンの思いに同調する人々を用いて滅亡させようとして来たのです。
またサタンは、イエスが誕生した直後には、ヘロデを用いて直接イエスを殺そうとしたのです。
 悪魔悪霊は、キリスト者を攻撃します。
新生したキリスト者で、霊の世界の分かる人は、よく理解できることと思います。
悪魔悪霊は、自己保身のため、1948年のイスラエル建国後からは、イスラエルを折に触れて抹殺しようとしています。
イスラエルが存在しなくなれば、キリスト・イエスの再臨の必要がなくなり、自分たちは永遠の裁きから免れる、と考えているのでしょう。

 反イスラエルの霊が世界を席巻しています。
詩篇834.5には“彼ら〔反イスラエルの霊に支配されている人たちや国々(筆者挿入)〕は言っています。
「さあ彼らの国〔イスラエル(筆者挿入)〕を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」
彼らは心を一つにして悪を企み、あなたに逆らって盟約を結んでいます。”(2017)と記されています。
このような思いを持つ者は創造主なるまことの神ヤハウェ(主)に敵対しているのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主キリスト・イエス様の再臨迄、この地上にまことの平和が来ることはないことを聖書から教えて頂いています。
キリストの空中再臨に伴う携挙が起こり、イスラエルの主に従う人たちが救われるために必要な大患難時代が終わり、キリストの千年王国時代が始まることを待ち望みます。
主が地上のすべてを支配なさるときは何と素晴らしいときでしょうか。
またその後、神である主が、新天新地を創造してくださり、私たちを新エルサレムに住まわせてくださいますことを待ち望みます。
ハレルヤ!
あなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月17日 (金)

詩篇104:1-4 主は大いなる方、大いにほめたたえられるべきお方/主なる神の威光

 詩篇1041-4には次のように記されています。
1 私の魂よ、主をたたえよ。わが神、主よ、あなたは大いなる方。威厳と輝きで身を包む。
2
 光を衣のようにまとい、幕のように天を張る。
3
 水の中に自らの高殿を建て、雲を乗り物とし、風の翼で行き巡る。
4
 風を使いとし、燃える火を従者とする。”(聖書協会共同訳)とあります。

 1.2節を2017は“1 わがたましいよ、主をほめたたえよ。わが神、主よ、あなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。
2
あなたは光を衣のようにまとい、天を幕のように張られます。”と訳し、

 リビングバイブルは、1.2節をまとめて“主はすばらしいお方です。栄誉と尊厳をまとったそのお姿は、なんと威光に満ちていることでしょう。あなたは、天には星をちりばめ、”と意訳しています。

 モーセと神ヤハウェ(主)の会話が出エジプト3318-20に次のように記されています。
18 モーセが、「どうかあなたの栄光を私にお示しください〔「見せてください」(新改訳)。ヘブライ語原語は「ラーアー」で原義は「見る」(筆者挿入)〕と言うと、
19
 主は言われた。「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主の名によって宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
20
 さらに言われた。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 神ヤハウェ(主)のモーセへのことばですから、神ヤハウェ(主)が如何に威光に富んでおられるのかがわかります。
主なる神様は、驚くべきエネルギーを持っておられるのだと思います。
その御言葉によって天地万物を創造されたのですから。
言葉は波動(波)です。電子レンジで食物を調理できるのは、電磁波(波、波動)の故です。神様の発する波動は驚くべきエネルギーなのではないかと想像することしかできません。

 余談になりますが、
主イエス様と弟子たちがガリラヤ湖で船に乗っていた時に、弟子たちは死ぬのではないかと思う経験をしたことがありました。マルコ435-41には次のように記されています。
35 さて、その日の夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36
 そこで、彼らは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37
 すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった。
38
 しかし、イエス自身は、艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。
39
 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった。
40
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」
41
 弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言った”(聖書協会共同訳)とあります。

 この話は、主イエス様が神であることを明かにしている個所です。
主イエス様は、神のひとり子、すなわち神ですから、主イエス様の御言葉の権威とエネルギーは驚くべきものがあるのです。
現代人は、いくら科学が発展したからといっても、自然界の脅威にオロオロしているのが現状です。
もし主イエス様が、大雨が降りだしたときに「雨よ、やめ。」と言えば、止むのです。
主イエス様は、神ですから。
 ヨハネ1114には次のように記されています。
1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。/
14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”(2017)とあります。
また、ローマ95には“・・・。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。”(2017)とあります。
 神の御子であり、主であるイェシュア(イエス)・ハマシアハ(キリスト)がご自身の栄光を少し表して人間に現れたら大変なことになるのです。
 黙示録112-17には次のように記されています。
12 私〔使徒ヨハネ(筆者挿入)〕は、語りかける声の主(ぬし)を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、13 燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。
14
 その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、15 足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。
16
 また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。17 この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた。”(聖書協会共同訳)とあります。
使徒ヨハネは、「主に愛された者」でした(ヨハネ1323)が、主が威光をもって現れたときには、死人のようにその足元に倒れてしまったのです。

 キリストが再臨なさる時には、キリストのことばによって獣(反キリスト)の軍勢は簡単にやられてしまうのです(黙示録191519-21)。

 話を元に戻します。
御父と御子は神であり、光を発します。
黙示録2122-24には新天新地の都(新エルサレム)の明かりについて次のように記されています。
22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。
23
 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。
24
 諸国の民は、都の光の中を歩き、・・・。”(聖書協会共同訳)とあります。

 3節前半部分には“水の中に自らの高殿を建て、”とあります。
創世記16-8aには次のように記されています。
6 神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」
7
 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。
8
 神は大空を天と呼ばれた。”(聖書協会共同訳)とあります。
 “水の中に自らの高殿を建て、”と記されている「水」とは大空の上の水のことでしょう。

 3節後半部分と4節をリビングバイブルは“雲の馬車に乗り、風〔ヘブライ語原語は「ルーアハ」で風の他「霊」の意もあります(筆者挿入)〕の翼でかけ抜けます。その前ぶれを務める天使は、風のように速い、炎の使者です。”と意訳しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたは至高の神です。
そのあなたが、私たち、あなたが造られた人間と交わりをもって生活していきたいと思ってくださるのですから、ありがとうございます。
肉体を持っている私たちに対しては、私たちがあなたの威光に触れて滅んでしまわないようにご配慮くださって、交わりを持ってくださいますからありがとうございます。
三一の主の霊を私たちの内に住まわせてくださって、いつでもどこでもあなたとの交わりに事欠かないようにしてくださっておられますことを感謝します。
あなたの御名が崇められますように。
今日もあなたとの親しい交わりの内に歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月16日 (木)

申命記33:20-22 ガドとダンについての預言/主のみ旨に従って歩むことの大切さ

 申命記3320-22には次のように記されています。
20 ガドについて彼は言った。「ガドを大きくされる方をたたえよ。ガドは雌獅子のように伏し、腕も頭も引き裂く。
21
 彼は自分のために最上のものを選んだ。そこには指揮者〔将軍(口語訳)〕の取り分が置かれていた。彼は民の先頭に立ち、主の正義と公正をイスラエルのために行った。」
22
 ダンについて彼は言った。「ダンは獅子の子、バシャンから躍り出る。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 20節の「ガドは雌獅子のように伏し、腕も頭も引き裂く。」という文は、ガド族の強さを表現していますし、21節の「指揮者」や、「民の先頭に立ち」の表現は、軍のリーダーであったことを表しています。

1歴代誌128.14には、“8. ガドびとのうちから荒野の要害に来て、ダビデについた者は皆勇士で、よく戦う軍人、よく盾とやりをつかう者、その顔はししの顔のようで、その速いことは山にいるしかのようであった。”(口語訳)/
14. 彼らは軍の将校で、一番弱い者でも普通の兵士百人に匹敵し、強い者ともなると千人にも匹敵しました。”(リビングバイブル)と記されています。
ダンの人たちは驚くべき強さですね。

21節には、“彼は自分のために最上のものを選んだ。そこには指揮者の取り分が置かれていた。彼は民の先頭に立ち、主の正義と公正をイスラエルのために行った。”とあります。
ダンは自分のために最上のものを選んだ、とあります。
2017
はこの個所を“彼は自分のために最良の地を見つけた。”と訳しています。

民数記321-4には、
1 ルベンとガドの人々はおびただしい数の家畜を持っていた。
彼らがヤゼルとギレアドの地方を見渡すと、そこは家畜を飼うのに適した所であったので、2 モーセと祭司エルアザルおよび共同体の指導者のもとに来て、言った。
3
「アタロト、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオンなど、4 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった土地は、家畜に適した土地であり、僕どもは家畜を持っております。(新共同訳)と記され、

申命記312には、「この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。」(新改訳第三版)と記されています。

ガド族は、家畜をたくさん持っており、家畜に適した土地を真っ先に手に入れたのです。それは、ヨルダン川を渡る前、即ち、約束の地を戦い取っていく前のことであったのです。カナンの地を相続地とする人たちからしたら、「ガド族はずるいことをしている」ということになったでしょう。

先に民数記321-4を記しましたが、続く民数記325には、
「それでもし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(口語訳)とガド族は、ぬけぬけといったのですから。(ルベン族も一緒でしたが)

それに対して、モーセは怒りました。モーセは、「同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたち〔ガド族とルベン族(筆者挿入)〕は、ここにとどまるつもりなのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。」(民数記326.7・口語訳)と言いました。
モーセのことばはさらに続くのですが、モーセのことばを聞いたルベン族とガド族は、
「われわれはこの所に、群れのために羊のおりを建て、また子供たちのために町々を建てようと思います。しかしわたしたちは、武装してイスラエルの人々の先頭に立って進み、彼らをその所に導いて行きます。」(民数記3216.17・口語訳)と答えました。

ガド族は、「わたしたちは、武装してイスラエルの人々の先頭に立って進み、彼らをその所に導いて行きます」と語ったことを実行したのです。

 ヨシュア112-18412221-9には次のように記されています。
112 ヨシュアはまた、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数にこう言った。
13
 「主の僕モーセがあなたがたに命じた言葉を思い起こしなさい。彼はこう言った。あなたがたの神、主はあなたがたのために安息を与え、この地をあなたがたに与えられる。
14
 あなたがたの妻、子ども、家畜は、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側〔東側(筆者挿入)〕の地にとどまりなさい。あなたがた、力ある勇士は皆、隊列を組み、同胞の先頭に立って川を渡り、彼らを助けなさい。
15
 主があなたがたと同様に、同胞にも安息を与え、あなたがたの神、主が与える地を彼らに継がせるためである。その後、あなたがたはヨルダン川の東側へ帰り、主の僕モーセがあなたがたに与えた所有地を継ぐことができる。」
 16 彼らはヨシュアに答えた。
「あなたが私たちに命じたことは何でも行います。あなたが私たちを遣わされる所はどこへでも参ります。17 私たちがモーセに聞き従ったように、すべてあなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセと共におられたように、あなたと共におられますように。18 あなたの命令に逆らい、あなたが命じる言葉に聞き従わない者はすべて死ななければなりません。あなたはただ、強く、雄々しくあってください。」/
 4:12 ルベンの一族とガドの一族、およびマナセ族の半数は、モーセが彼らに告げたとおり、隊列を組んで、イスラエルの人々の先頭に立って渡った。/
 22:1 それからヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数を呼び寄せて、2 言った。
「あなたがたは、主の僕モーセが命じたすべてのことを守り、私が命じたすべてのことについても私の声に聞き従った。3 今日に至るまでの長い間、同胞を見捨てることなく、あなたがたの神、主の命じられた務めを守ってきた。4 今、あなたがたの神、主は、同胞に告げられたとおり、彼らに安住の地をお与えになった。あなたがたも自分の所有地の天幕へ、すなわち主の僕モーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側〔東側(筆者挿入)〕に帰りなさい。5 あなたがたはただ、主の僕モーセが命じた戒めと律法をひたむきに守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道を歩み、その戒めを守って 主に付き従い、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」
6
 ヨシュアは彼らを祝福して送り出し、その天幕に帰らせた。
7
 マナセ族の半数には、すでにモーセがバシャンの地に所有地を与えていた。残る半数には、ヨシュアが彼らの兄弟と共に、ヨルダン川の西側に所有地を与えた。ヨシュアは彼らもその天幕へと送り出し、祝福して、8 彼らに言った。
「多くの財宝、多数の家畜、銀、金、銅、鉄および数多くの衣服を携え、自分の天幕に帰りなさい。敵からの戦利品は同胞と分け合いなさい。」
9
 ルベンの一族、ガドの一族、およびマナセ族の半数は、こうしてカナンの地にあるシロを去り、イスラエルの人々と別れてギルアドの地へ、すなわち、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが取得していた自分の所有地へと帰って行った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 これらのことをモーセは、申命記3320.21に預言しているのだと思います。

22節には、“ダンについて彼は言った。「ダンは獅子の子、バシャンから躍り出る。」”とあります。
ダン族が引いたくじの相続地の割り当ては、ヨシュア1940-46に、
40 七番目のくじはダン部族の諸氏族に当たった。
41
彼らの相続地の領域はツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、42 シャアラビン、アヤロン、イテラ、43 エロン、ティムナ、エクロン、44 エルテケ、ギベトン、バアラテ、45 エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リンモン、46 メ・ハ・ヤルコン、ラコン、およびヤッファに面する地域である。(新改訳2017)と記されています。

これは現在、テル・アビブと言われている地の方になります。

ダン族の割り当ての地を、ダン族は、十分に獲得できなかったという理由で、ダン族は申命記3222の預言にあるように、「ダンはししの子であって、バシャンからおどりでる。」という行動をとったのだろうと思われます。これによって獲得した地は、「ライシュ(レシェム)」といい、バシャンの北西部の町でした。
ヨシュア1947.48には、“しかし、その中には征服できない地域もあったので、ダン族はレシェムの町と戦って占領し、住みつきました。そして町の名を、先祖にちなんで「ダン」と呼ぶことにしたのです。”(リビングバイブル・意訳)と記されています。
このことに関しては士師記17.18章にやや詳しく記されています。

 やがて、このイスラエル北方のダンの地は、偶像礼拝の中心地の一つとなるのです。
ソロモン王の死後、北イスラエルの王はヤロブアムでした。ヤロブアムは、偶像礼拝を促進したのです。
 1列王記1228-33には、
28 王〔ヤロブアム(筆者挿入)〕は周囲に助言を求めたうえで、二体の金の子牛を造り、そして言った。
「あなたがたがエルサレムに上るのは大変である。イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った神々である。」
29
 彼は一体をベテルに置き、一体をダンに配した。
30
 このことは罪となった。民は一体の金の子牛の前をダンまで行進して行った。
31
 ヤロブアムは高き所を神殿とし、レビ人でない民の中から一部の者を祭司とした。
32
 ヤロブアムはユダでの祭りと同じく、第八の月の十五日〔仮庵の祭りの一か月後(筆者挿入)〕に祭りを執り行った。そして自分が造った子牛にいけにえを献げるため、ベテルに造った祭壇に上った。また、自分が造った高き所のための祭司をベテルで任命した。
33
 彼は、自分が勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを執り行い、香をたくため、祭壇に上った。(聖書協会共同訳)と記されています。

 ダンは、主が割り当てた割り当ての地の一部を獲得することができず、自分勝手に主が割り当てたのではない地を自分たちの地とし、さらには偶像礼拝の中心地ともなったのです。
黙示録7章には、大患難時代に世界宣教に遣わされる144000人が記されていますが、その中にダン族はいません。
 ダン族は、主に割り当てられた相続地を、主に信頼して敵と戦い勝利して獲得するということに失敗し、主が割り当てたのではないライシュの人々を殺して自分たちの地とし、さらには偶像礼拝の地となったという大きな罪を立て続けに犯したのです。
 
しかし、主はご自身の契約と憐みによって、キリストの千年王国時代には、ダン族に割り当ての地を与えます(エゼキエル481)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
たとえ成果を上げることができたとしても、あなたのみ旨に反することをしてしまうことがありませんよう助けてください。
あなたのみ旨と一致する方法で、あなたに在って成果を上げることができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月15日 (水)

マタイ27:57-61 イエス様の埋葬と埋葬に関わった人たち

 マタイ2757-61には次のように記されています。
57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフと言う人が来た。この人もイエスの弟子であった。
58
 彼はピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出た。そこでピラトは、渡すように命じた。
59
 ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩に掘った自分の新しい墓に納めた。そして、墓の入り口に大きな石を転がしてから立ち去った。
61
 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓に向かって座っていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所の並行個所であるマルコ1542-47には次のように記されています。
42 すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。
44
 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。
45
 そして、百人隊長に確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡した。
46
 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。
47
 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの納められた場所を見届けた。(聖書協会共同訳)とあります。

「アリマタヤのヨセフ」は、地位の高い議員即ちサンヘドリンの議員でした。アリマタヤは、“「高い所」を意味するヘブル語の複数形〈ヘ〉ラーマータイムに定冠詞がついた語形をギリシヤ語に音訳した地名。預言者サムエルの故郷ラマタイム・ツォフィム(ラマ)と同一視され(参照Ⅰサム1:1,19,2:11,7:17等)、エフライム山地の西部、ルダの東北東約15キロの所にある現在のレンティスと同定される。”(聖書辞典抜粋)とあります。

ルカはアリマタヤのヨセフの人となりについて次のように記しています。
「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」(ルカ2350.51・新共同訳)と。

ルカは、アリマタヤのヨセフについて、イエス様を有罪死刑とすることに同意しなかった善良で正しい人、というところに目を留めています。

ヨハネは、アリマタヤのヨセフについて、ヨハネ1938で、「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、その〔イエスの弟子ある(筆者挿入)〕ことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」(新共同訳)と記しています。

アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子であった人であると、使徒ヨハネは、はっきりと記しています。

マルコは、というよりも三度もイエス様を知らないと言ってしまったシモン・ペテロの感じ方でしょうが、マルコ1543には、「アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。」(口語訳)とあります。
{マルコの福音書について、“ヒエラポリスのパピアスが(140年頃)、ペテロの通訳者となっていたマルコが、ペテロから聞いたイエスの言行を、順序正しくではないが、記憶しているかぎり正確に書き記したと言っているように(エウセビオス『教会史』)、彼がマルコの福音書の著者であると考えられている。”(聖書辞典抜粋)と記されています。}

イエス様の弟子ではあったのですが、かつては12弟子には入っていなかったアリマタヤのヨセフの言動を見て、主イエス様を3度も否んでしまったペテロにとって、アリマタヤのヨセフは、よくも大胆なことが出来るなー、という感じであったのだろうと思います。

また、ヨハネ1939には、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ〔約33kg(筆者挿入)〕ばかり持って来た。」(新共同訳)とあります。ニコデモは、ヨハネ31では、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員(新共同訳)と紹介されています。

このニコデモは、イエス様に対する祭司長たちや議員たちの主張に対して、それを真っ向から否定することは出来なかったとしても、やんわりとあなた方は間違っているのではないですか、と言ったことがあります。しかし、直ちに却下されましたが。それはヨハネ7章に記されています。これは恐らく過越しの祭りの約半年前の仮庵の祭りの時でした。

その時、ニコデモが議員たちに語った内容は、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ751・新共同訳)というものでした。祭司長たちや議員たちは、すでに仮庵の祭りの頃にはイエス様を捕らえたかったのです(ヨハネ732.45)。

しかし、仮庵の祭りにイエス様が捕らえられることは決してなかったのです。

仮庵の祭りは、キリストの1000年王国の予表であり、過越しの祭りがキリストの十字架による贖いの予表であったからです。

マルコ1544には、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。」(聖書協会共同訳)とあります。

イエス様の左右にいた強盗は、イエス様が息を引き取られた時、まだ生きていたので足のすねを折られて、早く死ぬようにされたのです。十字架刑では死ぬまでにもっと多くの時間を要するのが一般的であったことがピラトの言葉からわかります。

イエス様は、人によって十字架につけられたから命を落とした、というのではなく、ヨハネ1930に「完了した。」(新改訳)「成し遂げられた。」(新共同訳)とあるように、贖いをなし終えたので、父なる神様に「わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ2346)とご自分の意思によって霊を御父にゆだね、肉体の死を迎えたのだと思います。

ヨハネ1017.18には、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟(おきて)である。」(新共同訳)とありますから。

イエス様を納めた墓についてですが、マタイ2757-60には、
57 夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
58
この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
59
ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。2017)と記されていて、マタイの福音書からは、アリマタヤのヨセフは、金持ちであり、イエス様を納めた墓は、アリマタヤのヨセフが自分の為に造った{だれも葬られたことの無い(ヨハネ1961)}新しい墓であったことが分かります。

埋葬の仕方については、ヨハネ1939.40に、
39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
40
彼ら〔アリマタヤのヨセフとニコデモ(筆者挿入)〕はイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いた。2017)とあります。

マルコ1546.47には、「墓の入口に石をころがしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。」とあります。
マタイはこのところを、「墓の入口に大きな石をころがしておいて、立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。」(マタイ2760.612017)と記しました。

またルカは、「この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」(ルカ2354-562017)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様を十字架から取り下ろし、埋葬するときには、使徒たちを用いられたのではなく、アリマタヤのヨセフを用いられました。
あなたは、しかるべき時のために、しかるべき人を備えてくださっておられることが分かります。
埋葬に関して手際よく事を行ったのは、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。
私たち人間には、未来は隠されているので、それを予想したり、心配したりしますが、あなたは私たちの未来についても配慮してくださっておられる方ですから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

2023年11月14日 (火)

箴言26:13-16 自分の生活を担保するために働ける心身を持っている人は働こう

 箴言2613-16には次のように記されています。
13 怠け者は言う。「道に獅子が、広場に雄獅子が」と。
14
 扉はちょうつがいで回転、怠け者は寝床で回転。
15
 怠け者は手を平鍋に入れるが、その手を口に返すことを煩わしく思う。
16
 怠け者は聡明な答えを出す七人にもまさって、自分を知恵ある者だと思い込む。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次のように意訳しています。
13 怠け者は仕事にも出かけず、「外にライオンがいるかもしれないから」と言いわけします。
14
彼はちょうど扉がちょうつがいで回るように、寝床でごろごろしています。
15
皿から口に食べ物を運ぶことさえ面倒くさがります。
16
それでいて自分は、知恵ある人を七人束にしたより利口だとうぬぼれるのです。”とあります。

 14.15節を読むと、このような人はうつ病や病名不明の極度の倦怠感、体力の低下、気力の低下という機能的、あるいはミクロ的には細胞レベルの器質的異常が発生しているのかもしれません。
うつ病の診断基準に合致していればまずは治療をして効果があるかどうかを観察してみる必要があるでしょう。

 ここ数年コロナウィルス感染症の後遺症が問題になっています。
感染者の中には呼吸器の症状や筋肉関節痛等の症状がたいしたことがないのに、さらにほとんど発熱もしないのに、倦怠感が強く、依然活発であったことが嘘のように不活発になってしまったという人もいます。このような人の場合は、多くの人がコロナウィルスで攻撃された細胞グループ(器官)と異なる細胞のグループを攻撃されたか、自己免疫の何らかの異常で自己を攻撃したのかは分かりませんが、そのようなことがあったことも考えられるのではないかと想像します。

 うつ状態にある人や何らかの原因で怠けているのではないのに気力も湧かず、体がだるく、またすぐに疲れる、というような場合は、今日の聖書個所の怠け者には該当しません。

 中には罪責感が強く、そのゆえに心身ともに不調になっている人もいるかもしれません。
そのような場合には、正しい聖書理解に基づく罪責感からの解放が必要でしょう。

 さて、本当の怠け者の場合、あるいはわがままな人の場合で、自分の気に入らない仕事には着きたくない、と考えている人もいるかもしれません。
自分の好きなことをして生活が成り立つ人は問題がないのですが、そのような人の割合はどのくらいなのでしょう。
中には、自分のしたい仕事がやってくるまでは仕事をしたくないと考えている人もいるかもしれません。
あるいはまた、自分のプライドのために、自分が決めた一定以下の仕事はしたくない、と頑なになっている人もいるかもしれません。

 主が喜ばれない仕事ではない限り、主に在って、仕事に貴賤の別はありません。
どのような仕事でも主に対してするようにすれば良いのです。
 コロサイ323.24には次のように記されています。
“何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐ〔あなたがたは、相続にあずかるという報いを主から受ける(聖書協会共同訳)〕ことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。”(2017)とあります。

 聖書が教えてくれているのは、自分の生活は自分で担保しなさい、という方針です。
自分の好みではないのです。
また、就きたくないなと思っていた仕事でも、仕事をしているうちに興味を覚える、あるいは充実感を覚えるという人もいます。やってみなければわからないのです。

 聖書は何と言っているのでしょう。
2
テサロニケ36-12には次のように記されています。
6 きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい。
7
 どのように私たちを見習うべきかは、あなたがた自身がよく知っています。私たちは、あなたがたの間で、怠惰な生活を送りませんでした。
8
 また、誰からもパンをただでもらって食べたりしませんでした。むしろ、誰にも負担をかけまいと、労苦し骨折って、夜も昼も働いたのです。
9
 私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10
 実際、あなたがたのもとにいたとき、私たちは、「働こうとしない者は、食べてはならない」と命じていました。
11
 ところが、聞くところでは、あなたがたの中には、怠惰な生活を送り、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12
 そのような者たちに、主イエス・キリストにあって命じ、勧めます。落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
働ける間は、その時点で与えられている気力体力に応じ、また主からの助けを頂いて、何かしらの働きをしていける者であらせていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月13日 (月)

詩篇103:15-22 主の慈しみ(恵み)は主を畏れる者の上にある

 詩篇10315-22には次のように記されています。
15 人の日々は草のよう。野の花のように咲くのみ。
16
 風がそこを吹き抜ければ、消えうせ、生えていた場所も、もはやそれを知らない。
17
 しかし、主の慈しみは、いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にあり、その義は子らの子に、
18
 その契約を守る者に、その諭しを心に留めて行う者に及ぶ。
19
 主は天に王座を据え、その王権はすべてを治める。
20
 御使いたちよ、御言葉を行う力ある勇士たちよ、主をたたえよ、御言葉の声に聞き従うために。
21
 主の万軍よ、主に仕え、御旨を行う者たちよ、主をたたえよ。
22
 主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ。主の治めるすべての場所で。私の魂よ、主をたたえよ。”(聖書協会共同訳)とあります。

 15.16節を新共同訳は、「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる。」と訳しています。
人のはかない一生が草花に喩えられています。

使徒ペテロはこの箇所を引用しつつ、神のことばの永遠性を強調して、1ペテロ1:24.25に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(新改訳初版~第三版)と記しました。

主のことばの確かさについて、主イエス様は、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ2435・新改訳)と語られました。

ヤコブもヤコブの手紙110.11で、この世の栄華を求め、それを獲得したとしても、人の一生ははかないものであることをこの詩篇の箇所を引用して、「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」(新改訳初版~第三版)と記しています。

 富ではなく、常に主を求める人は幸いです。マタイ633には、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(新改訳初版~第三版)とあり、詩篇1272には、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(新改訳初版~第三版)とあり、詩篇14520には、「すべて主を愛する者は主が守られる。」(新改訳初版~第三版)と記されているのですから。

 ソロモンは次のように語りました。
1:1 ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉
2
 コヘレトは言う。空の空、空の空、一切は空である。
3
 太陽の下、なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか。
4
 一代が過ぎ、また一代が興る。地はとこしえに変わらない。
5
 日は昇り、日は沈む。元の所に急ぎゆき、再び昇る。
6
 南へ向かい、北を巡り、巡り巡って風は吹く。風は巡り続けて、また帰りゆく。
7
 すべての川は海に注ぐが海は満ちることがない。どの川も行くべき所へ向かい絶えることなく流れゆく。
8
 すべてのことが人を疲れさせる。語り尽くすことはできず、目は見ても飽き足らず、耳は聞いても満たされない。/
12:13
 聞き取ったすべての言葉の結論〔結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ(新改訳)〕。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。
14
 神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについてすべての業を裁かれる。”{コヘレトの言葉(伝道者の書)・聖書協会共同訳}と記しました。

 主の御言葉を信じ、行う人は幸いです。

17.18節には、「しかし主のいつくしみ〔恵み(新改訳)〕は、とこしえからとこしえまで、主を恐れる〔畏れる(新共同訳)〕者の上にあり、その義〔恵みの御業(新共同訳)〕は子らの子に及び、その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。」(口語訳)と、主を畏れ敬い、主の御命令に従う者の幸いが記されています。

19節には、「主は天に王座を据え、その王権はすべてを治める。」と記されているように、主なる神様はすべてを統治されています。

世の中が乱れているのは、アダムの堕罪によって、地上の統治をサタンに条件付きで(神様の許可の範囲で)許されているからです。
1ヨハネ519には、「・・。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(新共同訳)と記されている通りです。
悪い者の支配下にある人たち(救われる前の私も同じでしたが)は、まことの神様を主とすることを望まず、自分を主とし、結局それは、主なる神様のもとにいるよりも悪い者の支配下にいることを選択していたのです。

キリスト者は、神の王国の民、神様の支配下にある者です。
キリスト者の霊にサタンとその配下のものは触れることが出来ません。
1ヨハネ518に「すべて神から生まれた者〔神から生まれたのは霊です{ヨハネ36参照}(筆者挿入)〕は罪を犯しません。神からお生まれになった方〔キリスト(筆者挿入)〕が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(新共同訳)とある通りです。
しかし、しばしば魂や肉体が攻撃されることはあるのです。それは、罪のないイエス様であっても同様でした(マタイ43-10)。義人ヨブは肉体を攻撃されました(ヨブ23-8)。使徒パウロにも主はサタンの攻撃を許されました(2コリント127)。しかし、それらさえも主の栄光につながったのです。

やがて、キリスト者(新生している者)が全員携挙によって天に移されると、地上にある神の王国は無くなりますから、地上には、サタンに抵抗できるお方{キリスト者の中におられる聖霊(2テサロニケ27参照)}はいなくなります。それ故、キリスト様の地上再臨前の7年間は、キリスト者から見たら暗黒の悲惨な世界となることでしょう。その時どのようになるかは、黙示録に記されています。しかし、キリスト様の地上再臨によって、私達が「御国を来たらせたまえ。御心の天になる如く、地にもならせたまえ。」と主に教えられて祈ってきた祈りの答えが地上にもたらされるのです。ハレルヤ!

かくして、罪を持っている人間の統治によっては、神の御旨にかなう様な統治をすることが出来ないことが誰の目にも嫌というほど分かった後、キリスト様による全世界的な統治が始まるのです。それが、キリストの千年王国です。

神様が人類の始祖であるアダムを創造し、アダムを基にしてエバを造られたとき、神様は、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記128・新改訳)と言われました。その時アダムには罪が無く、霊は生きており、即ち、神様と豊かないのちの交わりを持つことが出来、それ故に、神様の御指導の下、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と神様が言われたことを行うことが出来たのです。

しかし、エバがサタンの誘惑に屈して堕罪し、アダムも神様よりも妻エバを第一としてエバに引きずられて堕罪したために二人の霊は死にました。
それ故、自由に神様との交わりをすることが出来なくなったのです。
堕罪した時に、罪がその人の内に入りました。
そしてアダムの子孫である人間は罪を持って生まれてくるようになったのです。
生まれた時から、主のみこころを行うことは難しいのに、罪(神様のみこころに反すること)を行うことは容易であったのです(ローマ512)。
生まれながらに教えられなくても嘘をついたりしました。サタン即ち悪魔こそ偽りの父であったのです(ヨハネ844)。罪の故に、人はサタンの手にゆだねられたのです(人が無意識のうちにそれを望んだからでしたが)。とは言え、神様はそれを放っておかれたのではなく、イエス様によって救いをもたらされたのです。
しかし、神様よりもサタンを好む人達が多いのです。人は生まれた時からサタンの下にあったのですから(エペソ21-3)。その人達は自分ではそうは思っていないでしょうが、イエス様を信じないことによってそれを証明しているのです。
イエス様は、「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ1027・新改訳2017)と言われました。平和の君であるイエス様を頭としていなければ本当の平和は訪れないのです。サタンを頭としていては平和を望み、平和運動をしても永続する成功にはいたりません。やがて、サタンに全面的に力を与えられた獣即ち世界統治者が世の救世主のような言動を持って登場します。これがThe偽キリストです。それによって世界には一時の平和が訪れます。しかし、その後、この獣は本性を現すのです。それらのことは、黙示録、ダニエル書、テサロニケ人への手紙、福音書等に記されています。

イエス様でなければ、神様の御旨にかなった統治は出来ないのです。

20-22節には、御使いたちよ、御言葉を行う力ある勇士たちよ、主をたたえよ、御言葉の声に聞き従うために。主の万軍よ、主に仕え、御旨を行う者たちよ、主をたたえよ。主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ。主の治めるすべての場所で。私の魂よ、主をたたえよ。”(聖書協会共同訳)とあり、人に対してだけではなく、人の目には見えない被造物である天使たちや、主が造られた全被造物に対して、「主をほめたたえよ。」とダビデは主に在って勧めています。

詩篇10219(新改訳では18節)の新共同訳には、「主を賛美するために民は創造された。」と記されています。
主に在る者は、主を賛美することに喜びを覚えます。
また、主を賛美することで、主に満たされ、主から力や慰めを頂きます。
へブル1315には「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
いつも主なる神様を畏れ敬い、主を愛し、主を賛美し、主に感謝しながら生活していくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月12日 (日)

申命記33:18.19 主イエス様が宣教を開始された地方

 申命記3318.19には次のように記されています。
18 ゼブルンについて彼は言った。
「ゼブルンよ、進み出て喜べ。イッサカルよ、天幕の中で喜べ。
19
 彼らはもろもろの民を山に呼び寄せ、そこで義のいけにえを献げる。彼らは海の豊かさ、砂に隠された宝を手に入れる。」”(聖書協会共同訳)とあります。(聖書協会共同訳)とあります。

 18.19節は、ゼブルンとイッサカルについての祝福の預言です。
この箇所を、イエス様の初臨に関連付けて考えてみたいと思います。

イザヤ91-7には次のような預言が記されています。(新共同訳、聖書協会共同訳は823-96になります)
1 しかし、苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、辱(はずかし)めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民ガリラヤは栄誉を受ける。
2
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。
3
あなた〔イスラエル(リビングバイブル)〕はその国民をふやし、その喜びをまし加えられる。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。
4
あなた〔神(リビングバイブル)〕が彼が負うくびきと、肩の杖〔肩を打つ杖(筆者挿入)〕、彼を追い立てる者のむちを、ミデヤンの日になされたように打ち砕かれるからだ。
5
まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食(えじき)となる。
6
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の熱心がこれを成し遂げる。2017)とあります。

イエス様の初臨時代のガリラヤ地方は、モーセがヤハウェ(主)から示された12部族への土地の分割を基にすると、ゼブルンの大部分+イッサカルの一部+ナフタリの一部になると思います。

イザヤ91に、「しかし、苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、辱(はずかし)めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民ガリラヤは栄誉を受ける。」と預言されていましたが、イエス様が住んでおられたナザレは、ゼブルンの地にあったのです。「苦しみのあった所」とありますが、ゼブルンの地は、旧約時代のイスラエルの南北分裂後は、北イスラエル王国に属していましたから、アッシリアに攻撃されたとき、アッシリアに敗北したのです(これは背教に対するヤハウェの裁きでした)。

 キリスト者なら、そのほとんどの人が知っているようにイザヤ96.7はイエス様についての預言であると知っていることでしょう。そして、イザヤ91のゼブルンの地にイエス様が過ごされたナザレがあり、イエス様が活動の中心とされたガリラヤは、ゼブルンの大部分+イッサカルの一部+ナフタリの一部を含んでいたのです。イエス様が弟子たちとして召し出した人たちの多くもガリラヤ地方の人たちでした。イスカリオテのユダは、カリオテの人ユダという意味で、カリオテはユダヤ地方でした。

 申命記3318の「天幕」と出エジプト3614の「幕屋の上にかける天幕」の「天幕」の原語は同じ語です。「天幕にいて楽しみを得る」というのは、主の臨在にあって楽しみを得る、とも解釈できるのではないかと思います。

新約的に言うと、イエス様が共におられることによって楽しみを得られるということです。イエス様との交わりがあれば外にいても内にいてもいつも楽しみを得られます。
申命記3318の「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。」(口語訳)の預言に一致します。

 続く19節には、「彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼らは海の富を吸い、砂に隠れた宝を取るからである。」(口語訳)とあり、
この箇所を新改訳2017は、「彼らはもろもろの民を山に招き、そこで義のいけにえを献げる。彼らが海の富と、砂に隠されている宝で育まれるからである。」と訳し、
新共同訳は、「彼らは諸国の民〔或いは「他の部族」(新共同訳スタディ版)〕を山に招き、そこで正しいいけにえをささげる。彼らは海の富、砂に隠れた宝を手に入れる。」と訳しています。

 敢えて、この聖句を基に、時間軸を超越して考えてみたいと思います。今、私が考えたことなので、読まれる方は、ご自分で取捨選択してください。
 イエス様の福音は、初めユダヤ人に、それから一部の異邦人にも及びました。そして、イエス様のご復活後、弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒18・新共同訳)と語られました。

申命記3319には、「彼らは諸国の民〔或いは「他の部族」(新共同訳スタディ版)〕を山に招き、そこで正しいいけにえをささげる。」(新共同訳)とあります。
 弟子たちが宣教を開始する頃、イスラエルの地にはユダヤ人が多かったのですが、ユダヤ人だけではなく、アッシリアやバビロンに捕囚されなかった人たちの子孫もいました。
北イスラエル王国がアッシリアとの戦いで敗れた(B.C.722年)後、アッシリアが、サマリヤに連れて来た異邦人たち(2列王記1724)と北イスラエルの民との間には雑婚が起こりました。新約聖書にはサマリヤ人として記されています(一例としてヨハネ4章)。
 弟子たちが伝道を開始し、ユダヤ人たちの救いの後、異邦人コルネリオとその家族等が救われていきました(使徒10章)。
 その後、主イエス様は、ユダヤ名でサウロ、ギリシア名でパウロという人を直接救いへと導き、パウロを用いて多くの異邦人即ち諸国の民を救っていかれたのです。
そして時は下り、その救いは私たち日本人にももたらされました。
 まさに、初めはイスラエルの諸部族を「山」(申命記3319)即ち聖地、聖所に招き、さらに、イエスを通して父なる神へと導き、さらに異邦の民(諸国の民)へと福音がもたらされました。
そしてイエス様を受け入れた人たちは、主なる神様を礼拝させていただけるようになったのです。

 また、「彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。」とありますが、唯一の「正しい犠牲」とは、十字架上で屠られたイエス・キリスト様でした。イエス様の血が流されることなしに、罪の赦しも、きよめも無かったのです。旧約時代のいけにえの動物は、イエス様を表す予型であったのです。まことの救いを求めた人は、カルバリ山の十字架へと導かれたのです。そして、御霊によって、イエス・キリスト様が流された血潮こそ、私の罪のために流された尊い血潮であると悟らせて頂けたのです。

 19節後半には、「彼らは海〔ガリラヤ湖(筆者挿入)〕の豊かさ、砂に隠れた宝を手に入れる。」(聖書協会共同訳)とあります。

「彼ら」は、セブルンとイッサカルですが、これは後のガリラヤの地を構成する土地の要素であり、その地から、イエス様が登場したのです。そして使徒とされた人たちの大部分もガリラヤの出身でした。そして主イエス様によって育(はぐく)まれた人たちは、宣教へと出て行ったのです。
申命記3319後半には、「彼らが海の富と、砂に隠されている宝で育まれるからである。」と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主はガリラヤ湖(海)の漁師に「あみを捨て置きて我に従え」と言われました。
そのようにして主の宣教が開始され、イスラエルから見たら地の果てにいる私の所へも主の救いがもたらされました。
そして、私も、主を信じさせていただけました。ありがとうございます。
今日もあなたにお従いして歩ませていただけますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主はガリラヤ湖の」(聖歌580 聖歌総合版616 新聖歌395
“1.主は ガリラヤ湖の漁師に告げぬ 「網を捨て置きて我に従え」 また主は 疲れし世人に告げぬ 「罪を振り捨てて我に従え」
2.険しきみやま(深山)の谷間に呼べる 羊飼いの声 友よ聞かずや 「我が羊よ何故 かくさまよえる なが守りてなる我に従え」
3.「罪の世にありて 罪に汚れず 憂いを慰め 疲れをいやし ながそばにありて常にか(勝)たしむ 命の君なる我に従え
4.我が跡を踏みて 右や左に 迷い行くなかれ 道狭くとも 十字架を担い 天(あめ)をのぞみて 常世の朝まで 我に従え」”
<応答>(聖歌571 聖歌総合版617 新聖歌396の折り返し部分)
「いずくまでも行かん いずくまでも行かん いずくまでも行かん 愛する主の後を」
・・・・すべて恵みです・・・・

2023年11月11日 (土)

マタイ27:48-56 御父と直接交わりを持つことができるようにしてくださった主イエス様

 マタイ2748-56には次のように記されています。
48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51
 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52
 墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53
 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた。
54
 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
55
 またそこでは、大勢の女たちが遠くから見守っていた。イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。
56
 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 48-50節の箇所を補うためにヨハネ1930-37を下記します。
30 イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
31
 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
32
 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
33
 イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。
34
 しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
35
 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
36
 これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
37
 また、聖書の別の箇所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」〔ゼカリヤ1210参照{キリストの地上再臨に関連する預言}(筆者挿入)〕とも書いてある。(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1931には“その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。”と記されています。

 「その日は準備の日で」とあります。
何の準備の日であったのでしょうか。
イエス様が十字架上で息を引き取られたのは金曜日の午後3時でした。日没とともに土曜日の安息日が始まるのがユダヤの暦です。その上、この安息日は一年の中でも特別の日で過越しの祭りの第一日目であったのです。 

またユダヤ人たちが安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすようにと、ピラトに願い出た理由は、申命記2122.23の聖句が根拠なのかもしれません。次のように記されています。
22 ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。
23
 あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。”(聖書協会共同訳)と記されているからです。

 ヨハネ1932.33には“そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。”と記されています。

また、ヨハネ1936には、「これらのことが起こったのは、「その骨は砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。」と記されています。
これは、詩篇3421(新改訳は20節)に記されている「彼の骨をすべて守り、その一本も砕かれることはない。」(聖書協会共同訳)という預言の成就であったのですよ、とヨハネは語っているのでしょう。

ローマの兵士は、イエス様が死んでいるのを見届けた(33)にもかかわらず、兵士のうちのひとりがイエス様のわき腹を槍で突き刺した(34)のです。すると、ただちに血と水が出て来た(34)のです。

「血と水が流れ出た」(34)ということについて考えてみます。
イエス様の血は、罪を贖う血です。イエス様の血によって罪は赦され、聖くされるのです。
「水」にはいくつかの解釈がありますが、私は、ここでは「生ける水」と捉えたいと思います。
イエス様はかつて祭りの終わりの大事な日に“「37 渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。38 私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章・聖書協会共同訳)と言われました。
また、その御言葉についてヨハネは次のように解説しました。
「イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。” (ヨハネ739・聖書協会共同訳)と記されています。

 神の霊から霊の新生を受けた人がキリスト者です(ヨハネ33.6)。キリスト者はキリストの霊を持っています(ローマ89)。

神様は、アダムを創造し、アダムのあばら骨からエバを造り(創世記27)、アダムの妻としました(創世記222-24)。
神様は、イエス様の脇腹から流れ出た血と水によって、新創造された(2コリント517)キリストの妻である教会を生み出しました(エペソ532)。

人は、自分の行いによって義を得るのではなく、キリストの血によって、罪を赦され、聖とされ、義とされるのです。キリストの血はすでに流されましたが、その血を自分に適用する為には信仰が必要です。自分の行いに重きを置いた時には、キリストの血を脇に退けているのです。キリストの血の他に救いはありません。キリストの血だけが救いの根拠です。キリストの血に目を留めることを忘れ、自分の行いに目を留める人は洗礼を受けたといっても救いの確信が揺らぎます。

 マタイ2750.51には“50 ・・、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、”(聖書協会共同訳)と記されています。

「神殿の垂れ幕」といってもイスラエル人でない者、或いは旧約聖書を読んだことのない者にとっては、何のことか分かりませんので、わかり易く書いてあるヘブライ(ヘブル)91-7を次に転記します。
1 ところで、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
2
 すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台、台、供えのパンがありました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。
3
 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。
4
 そこには、香をたく金の祭壇と全面を金で覆われた契約の箱があり、その中にはマナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板がありました。
5
 また、箱の上では、栄光のケルビムが贖いの座を覆っていました。これらについて、今は一つ一つ述べることはできません。
6
 以上のものがこのように整えられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。
7
 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。(聖書協会共同訳)とあります。

キリストの贖いが成就した時、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです(マタイ2751)。そして、イエス様を信じる者は、イエス様の血によってはばかることなく、神の臨在の場所へと入ることが出来るようになったのです。

ヘブライ(ヘブル)人への手紙91-7に続いて、98-15には次のように記されています。
8 これによって聖霊は、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ明らかにされていないことを示しておられます。
9
 この幕屋とは、今〔ヘブライ人への手紙が書かれた当時(筆者挿入)〕という時代の比喩です。そこでは、供え物やいけにえが献げられますが、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10
 それらは、ただ食べ物と飲み物と種々の洗い清めに関するものであり、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
11
 しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました。人の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、もっと 大きく、もっと完全な幕屋を通り、
12
 雄山羊や若い雄牛の血によってではなく、ご自身の血によってただ一度聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13
 雄山羊や雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖別し、その身を清めるとすれば、
14
 まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。
15
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様の血は、レビ記に記されているいけにえの血による贖いの本体であったのです。旧約時代のいけにえは主イエス様を指し示す予型でありました(コロサイ216.17)。

 

また、ヘブライ(ヘブル)415.16には、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。16 それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が贖いを成し遂げられた結果、誰でもイエス様の血の故に、大胆に恵みの御座の前に出ることが出来るようになったことを、上から下まで割かれた神殿の垂れ幕を見ることによっても納得させられるのです。

話しを元に戻しますが、マタイ2754には“百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

イエス様が十字架上で過越しの子羊、即ち予型ではなく実体である神の子羊として贖いを成し遂げられた後は、ユダヤの過越しの祭りは必要がなくなったのです。しかし、霊の目が開かれない人達は旧約聖書に示された祭りを続けていきました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様は、御子なる主イエス様の御父と直接交わることができるようにしてくださいました。
これは本当に驚嘆すべきことです。
ヤハウェ(主)はかつてモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33202017)と言われたことを思い出します。
私たちも直接御父を見たわけではありませんが、御父に親しく祈りを献げ、交わりを持たせていただくことができるのですから大感謝です。
あなたは、私たちが、あなたを賛美し、あなたに祈り、あなたの御言葉を心に留め、あなたを愛してあなたにお従いすることを喜ばれます。
日々、あなたに喜ばれる歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月10日 (金)

箴言26:12 自分の状態を正しく把握することの大切さ/知恵の源は主なる神様

 箴言2612を、
聖書協会共同訳は、“自分に知恵があると思い込む者を見たか。それよりも愚かな者の方に希望がある。”と訳し、
リビングバイブルは“愚か者より始末が悪いのはうぬぼれが強い者です。”と意訳しています。

 自分の知恵に対する自己評価が実際以上に高い人が、もっと知恵のある人の前に立ったとします。
自分には十分な知恵があると思い込んでいる人は、自分以上に知恵のある人の知恵を受け入れようとはしません。
そのような人よりも、自分は知恵にかけているから他の人の考えをも参考にしようと考えている人の方が将来性がある、というような聖句です。

 確かに、謙虚で本当に知恵のある人は、ひとまず自分の知恵を横に置いて、他の人たちの考えをも聞いて、事をなしていこうとしますね。

 人間の社会だけではなく、主なる神様を含めた世界のことを考えてみたいと思います。

 詩編2篇に次のような聖句があります。
1 なぜ、国々は騒ぎ立ち、諸国の民は空しいことをつぶやくのか。
2
 なぜ、地上の王たちは立ち上がり、君主らは共に謀って、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕と、主〔原文は「彼」(筆者挿入)〕が油を注がれた方に逆らうのか。
3
 「彼らの枷(かせ)を壊し、その縄(なわ)を投げ捨てよう」と。
4
 天にいます方は笑う。わが主〔アドナイ(筆者挿入)〕は彼らを嘲る。”(聖書協会共同訳)とあります。

 詩編2篇はメシア預言の詩ですが、ここでは全体をあげることなく一部分にします。
万物を創造し、万物を保持している神ヤハウェ(主)に対して、神ヤハウェ(主)から造られた天使たちの中で、大天使の一人であったある者が神に反逆しました。すなわち神に敵対する者となったのです。それ以後その堕天使は、サタン(敵対者)、悪魔と呼ばれる者となったのでした(イザヤ1412-14)。
サタンは自分にくみする天使たちを天使全体の中から1/3ほど獲得しました(黙示録124)。そのようにしてサタンは、サタンの王国を創っていったのです。サタンは堕天使のみならず人間もサタンの王国に入れるべく行動していったのです。現在はどうなっているのでしょうか。1ヨハネ519に記されている通りです。

 人間も主なる神様によって造られた被造物です(創世記27)。
主なる神様に最初に造られた人アダムは、サタンの策略に屈するまでは主なる神様に従っていました(創世記215-19)。
アダムは妻を与えられ、妻をエバと名付けました。アダムはエバに弱かったのです。それ故、エバがサタンの誘惑に乗って堕罪した後、アダムはエバの誘いを断れず堕罪したのです(創世記31-6)。

 サタンは、人間を誘惑し、堕罪させました。
それによって、最初の男女であるアダムとエバを自分の支配下に置いたのです。
それ以来、人は、自分で善悪を判断するようになったのです。
主なる神様に従いますと主と契約を結んだイスラエルの民でさえ、士師記の時代には、主なる神様を主とせず、自分を主として生活していたのでした。
士師記の最後の節には、“そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。”(2017)と記されています。

 現代でも、この世の多くの人はサタンに支配誘導されている(エペソ22)とは知らずに、主なる神様を主権者とはせず、賢いと勘違いしている自分たち人間を主としています。
それ故、聖書の御言葉を無視していますし聖書を読もうともしません。
人間が主なのですからヒューマニズムの思想も出てくるわけです。
それ故、「人権」を高く掲げますが、「神権」を掲げる人は少ないのです。
「神権」を声高に叫んでいる人達もいますが、その多くはまことの神ではない神を敬っているのです。
まことの神を信じている人は、神が人間の肉体を取って救い主となられ、十字架上で贖いを成就し、3日目に復活し、天に上り、父なる神の右の座におられるキリスト・イエスを信じている人です。
そのキリストを信じないで神を信じるといっても、その人はまことの神を知りません。御子キリストによって父なる神を知るのです。
ヨハネ169には“罪とは、わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を信じないことです。”(リビングバイブル)と記され、
ヨハネ149には「わたし〔キリスト(筆者挿入)〕を見た人は、父を見たのです。」(2017)とあり、
へブル13には“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり”(2017)と記されています。

 人間は様々な分野で科学的知識を積み上げてきました。
本当にすごいことだと思います。
宇宙の神秘を解き明かそうとしても完全に正しい真理にたどり着けるのかどうか、それは分かりません。
しかし、主なる神様は、宇宙を創られたお方です。
生物の神秘についても解き明かしきることは難しいでしょう。
しかし、主はそれを造られたお方です。
一つ一つ取り上げたらきりがありません。
人間と主なる神様の能力の違いははかり知れないのです。
それなのに聖書に従わないとは一体どういうことなのか、私には不思議です。

 今、イスラエルとハマス及びハマスが利用しているガザの人たちの悲惨な状況が毎日報道されています。
報道内容を聞いていると多くの人がサタンに踊らされているのがわかります。
イスラエルの行っていることが神様からのものであり、聖戦であれば、主なる神様を信じている人はイスラエルについて悪く言う人はいないでしょう。
私の場合は、これが聖戦なのかどうかを私がわからない、というところに問題があります。
またはっきり言えることは、創世記123aに“わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、あなた〔アブラハム、現代で言えば「イスラエル」(筆者挿入)〕を祝福する者を祝福し、あなた〔アブラハム、現代で言えば「イスラエル」(筆者挿入)〕を呪う者をのろう。”(2017)と記されていることを自分にあてはめることであると考えています。
創世記121-3をアブラハム契約と言いますが、これはイサク、ヤコブにも受け継がれていきました(創世記262-52813-15)。

 この聖句は、歴史上、常に実現してきました。その観点から世界史を見るとよくわかります。
この聖句がどうして大切なのかを知ることの出来る人は、霊の世界を知っている人です。この聖句によって、神様はすでに預言されたご自身のご計画を成就していっているのです。もしこの聖句がなければ、サタンが勝利したかもしれません。サタンがサタンにくみする人たちを用いてイスラエルを滅ぼしたら聖書は真理の書ではなくなるのですから。
時間の都合で尻切れトンボのようになってしまい申し訳ありません。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イスラエルとハマスの戦い、それに巻き込まれるガザの市民のことで心を痛めます。
どうか御心がなりますように。
地の上では、たとえ戦火の中にあっても、平和(平安)が御心にかなう人々にありますように。
多くのキリスト者は戦争の惨状に耐えられません。
黙示録に記されている7つの封印の巻物が解かれたら、その大いなる惨状を見ることは私には耐えられません。
主よ、早く迎えに来てください。
主は、封印されている巻物が開かれる前に迎えに来てくださいますから感謝します。
救われてほしいと願っている人々が艱難時代に入る前にイエス様をキリストと信じることができますように。
知恵の源である主なる神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 9日 (木)

詩篇103:8-14 主は憐れみ深く情け深い

 詩編1038-14には次のように記されています。
8 主は憐れみ深く、恵みに満ち、怒るに遅く、慈しみに富む。
9
 永遠に争い続けることなく、とこしえに怒り続けることもない。
10
 私たちを罪に応じてあしらうことなく、過ちに従って報いることもない。
11
 天が地よりも高いように、主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
12
 東が西から遠いように、主は私たちの背きの罪を遠ざける。
13
 父が子らに憐れみをもたらすように、主を畏れる者らに憐れみをもたらす。
14
 主は私たちが造られた様を知り、私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 14節には、「主はわれらの造られたさまを知り、われらが塵にすぎないことを覚えておられる。」とあります。
創世記27に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(新共同訳)と記されています。更に、神様は人を神にかたどって造られたのでした。創世記127には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(新共同訳)と記されています。

 しかし、アダムは堕罪し、堕罪したアダムは、罪の故に霊的に死んでしまいしました。しかし、肉体は主の許される時まで保たれたのです。そして主の決められた時が来た時、肉体も死にました。
アダムの子孫である全人類は、アダムのSIN(内在する罪・原罪・罪を犯させる性質)を持って生まれて来たのです。それ故、人は誰でも、教えられなくても罪を犯すようになりました。(ローマ512
ここでいう罪とは、神様の御旨に反する思いや行為のことを言います。即ち、神様がご覧になったとしたら、的外れな生き方をしているということです。地上の国々の法律に対する違反のことを言っているのではありません。それに該当する場合も多いでしょうが、国家の法律自体が神様の御旨に反している場合もあります。

12節には「東が西から遠いように、主は私たちの背きの罪を遠ざける。」と記されています。
詩篇103篇にはイエス・キリスト様の十字架と復活、また、主イエス様を信じて救われるという信仰については記されていませんが、旧約の時代であっても新約の時代であっても、時空間を超越したキリストの十字架と復活の故に、まことの神様を信じ、神様の仰せに聞き従って悔い改めた者を、神様は赦されたのです(1例として、2サムエル1213→詩篇3251篇)。

 十字架上で流された血潮に罪を赦し、罪をきよめる力があることを教える為に、旧約時代は、きよい動物のいくつかのものを用いて、罪のないものの血がきよめの働きをするのだということを教えてこられたのです。罪のないものの血の本体は、キリストの血ですが、きよい動物の血を予型として用いて教えてこられたのです。
ヘブル922には、「・・律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(新改訳初版~第三版・ヘブル922)と記されています。

 主に罪を赦された者は、主を信じる以前のようには罪の中に生きることはなくなりますが、それでも罪を犯すこともあります。しかし主が、私たちのそむきの罪を遠ざけてくださった故に、主に背くとすぐに心が痛くなります。私たちキリスト者はそのようなとき、1ヨハネ19の聖句を用いさせていただくのです。

 13節には「父が子らに憐れみをもたらすように、主を畏れる者らに憐れみをもたらす。」とあります。
主なる神様は、神様を畏れ敬う人を憐れんでくださいます。

 主なる神様を畏れ敬って歩みなさい、というのは永遠の福音なのです。
黙示録146.7に、この世の最後の福音宣教が次のように記されています。
6 また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、7 大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」”(聖書協会共同訳)とあります。
主を畏れる者を、主は憐れんでくださるのです。

 詩篇1038-14には「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」(新改訳初版~第三版)と記されていますが、私たちキリスト者は、イエス・キリスト様の十字架と復活後に救い主であり主である御子イエス様を信じて救われた者なので、このようなことを体験していると思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
憐れみ深く、恵みに満ち、怒るに遅く、慈しみに富む主イエス様の内にあって生活させてくださりありがとうございます。
私の魂がいつもきよい状態に保たれて、主の素晴らしいご性質が他者とのかかわりの中で表されてゆきますようにと願います。
日々主なる神様の霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
すでに神様の子どもとしてくださっておられますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 8日 (水)

申命記33:13-17 豊かな賜物/キリストにある者への祝福

 申命記3313-17には次のように記されています。
13 ヨセフについて彼は言った。
「主の祝福がその地にあるように。天よりの露の賜物、下に横たわる深淵からの賜物、
14
 太陽が産み出す賜物、月が生み出す賜物、
15
 いにしえの山々の頂からの賜物、とこしえの丘の賜物、
16
 地とそれに満ちるものの賜物、柴の中におられた方の恵み。
これらがヨセフの頭に、その兄弟のうちから選ばれた者の頭上に臨むように。
17
 ヨセフの雄牛の初子には威光があり、その角は野牛の角。それによってもろもろの民を突き、共に地の果てまで進む。それはエフライムの幾万の戦士。それはマナセの幾千の戦士。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所をリビングバイブルは次の様に意訳しています。
13 ヨセフ族への祝福のことば。
「その所有地は神様に祝福され、天と地の最良の物に恵まれるように。
14
作物は太陽の恵みによって育ち、月を追うごとに実りを増し、
15
永遠の山と丘が最良の産物におおわれるように。
16
地とそこに満ちるもろもろの物、燃える柴の中に現れる神様の恵み、そのすべてが、兄弟の中の王子、ヨセフにあるように。
17
ヨセフの力と威厳は若い雄牛のようです。頭には野牛の角をいただき、すべての国々を突き倒します。これがエフライムへの祝福、これがマナセへの祝福です。」”と記しています。

 モーセの祝福の言葉はイスラエル(ヤコブ)の各部族に対して述べられたものです。
その観点からいうと、ヨセフ族への言葉の中にベニヤミンとマナセが出てくるのは異例に思われる方もいるでしょう。
ヤコブの子であるヨセフはエジプトの宰相になった人です。
そこでヤコブは、死の床にあって次のように語りました。
「私〔ヤコブ(筆者挿入)〕がエジプトのおまえ〔ヨセフ(筆者挿入)〕のところにやって来る前に、エジプトの地でおまえに生まれた、おまえの二人の子は、今、私の子とする。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように私の子となる。」(創世記4852017)と記されています。
すなわちヨセフの父ヤコブは、ヨセフの二人の息子エフライムとマナセを自分の養子としたのです。

 ヤコブの息子には、シメオンもいますが、モーセの祝福の言葉の中にはシメオン族だけはありません。
余談になりますが、この世の最後の7年間の大患難時代(キリストの花嫁であるキリスト者の総体はこのときには天におり地にはいません)の世界宣教に遣わされる144000人の中には、シメオン族も記されています。しかし、その箇所にはダン族はいません。

 話を戻します。
17
節に「角」という語が出てきますが、聖書で「角」というとき、多くの場合、力を表します。例えば、軍事力、政治力、権威、などのようなものです。
 
 ヨセフ(エフライムとマナセ)が受けた相続地の面積はかなり広大でした。

13-16節には、主の祝福によって、地上の産物がとても豊かであるということが記されています。
17
節には、「ヨセフの雄牛の初子には威光があり、その角は野牛の角。それによってもろもろの民を突き、共に地の果てまで進む。それはエフライムの幾万の戦士。それはマナセの幾千の戦士。」とあります。
 「角」は前述しましたように力を表します。
実際、ヨセフはエジプトの宰相でした。ヨセフの子であるエフライムとマナセも優れていました。エフライムの子孫として、モーセの後継者ヨシュアが生まれ(1歴代誌727)、預言者サムエルが生まれ(1サムエル11.2.20)、北イスラエル(イスラエルの十部族)の初代の王ヤロブアムが生まれました(1列王記11261220)。 

 キリスト者への祝福はもっと偉大です。
ただし、それは、ヨセフのようなこの世のものではなく、天にあるもの、霊的なものです。
キリスト者は天の神の王国の民です。
キリスト者の国籍は天にあるのです(ピリピ320)。
それ故、エペソ13には、“神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。”(新共同訳)とあります。
キリスト者は力を持っていますが、それはこの世のものに対するものではなく、霊的なものです。キリスト者はキリストにあって、悪魔悪霊たちに対して力を行使することができます。
キリスト者は、キリストにあって、悪しき霊を対処できなければ、きよき歩みをしていくことができません。
使徒1915には、悪しき霊の言葉として、「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(2017)というものがあります。
「お前たちは何者だ」と悪しき霊に言われることなく、「お前は、キリストの御名で我々に向かってくる者であることを知っている」と言われるようでありたいものですね。
キリスト・イエスこそ天においても地においても一切の権威を持っておられる王の王、主の主です(マタイ2818、黙示録1916)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
キリスト者はキリストの内にある者です(1コリント130)から感謝します。
キリスト者の内にはキリストの霊が内住してくださっておられますから感謝します(ローマ89)。
常にキリストにあって歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 7日 (火)

マタイ27:45-50 (贖いが)完了した/テテレスタイ/主イエスを信じる者は救われる

 マタイ2745-50には次のように記されています。
45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
46
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48
 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1928-30には次のように記されています。
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29
酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”(2017)とあります。

 主イエス様は、「完了した」と言われました(ヨハネ1930)。「完了した」という語がギリシア語で「テテレスタイ」とギリシア語聖書に記されていますが、おそらく主イエス様はヘブライ語で語られたのでしょうね。「完了する」「終える」のヘブライ語に「シャーレーム」or「シェラム」というのがありますが、この個所では何といったのでしょう。ご存知の方は教えてください。
(余談になりますし、私の想像も入っていますが、主イエス様の贖いがシャーレームorシェラムし、主イエス様への信仰がシャーレームorシェラムした人の心はシャ-ローム(平安)になります。シャーレームorシェラムとシャ-ロームの子音字は同じで母音記号が異なるだけです。)

 主イエス様による贖いの完了、なんとありがたいことでしょう。
私たちのすべての罪が赦されたのです。
私たちは、主のものとして贖われたのです。
ハレルヤ!
エフェソ(エペソ)17には“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)とあります。
コロサイ114には“この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”(2017)と記され、
ローマ324には“神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。”(2017)と記されています。

 「贖い」という概念は、“ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身代金(みのしろきん)を払って身受けするという概念である。”と聖書辞典に記されています。
黙示録5章には次のように記されている個所があります。
7 小羊〔贖いとなられた主イエス様(筆者挿入)〕は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った。
8
 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は 聖なる者たちの祈りである。
9
 そして、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなた〔御子キリスト(筆者挿入)〕は、屠られて、その血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い
10
 彼らを私たちの神に仕える御国の民、また祭司となさったからです。彼らは地上を支配するでしょう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は十字架上の贖いによって、罪の赦しを成し遂げ、また私たちを買い取ってくださったのです。
なんとありがたいことでしょうか。

 マタイ2745には、「昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。」とあります。
ルカ2344.45には、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と記されています。

 全地が暗くなったのは、父なる神様が御子に対して御顔を隠されたことの象徴であると思います。
神との断絶or分離、それは霊における死を象徴しています。
この時、イエス様は、それまで絶えざる豊かな交わりを持っていた御父と分離したのです。即ち、すべての人類の罪を負って罰を受けたのです。
それは、マタイ2746に「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と書いてある通りのことです。

 イエス様の十字架刑の約1000年前に記された詩篇221に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(新改訳初版~第三版)とあります。
これはイエス様の十字架の預言であったでしょう。或いはダビデが体験したことが予表となっているのかも知れませんが。

 イエス様が、この言葉を発した時、神様に裁かれていたのです。
神様(父なる神様)に裁かれる前までの御子イエス様と御父との関係は、「わたしの父よ」とか「わが父よ」という関係でした。また「わたしと父とは一つです」と言える関係でした。
しかしここでは、「わが神、わが神」に変わっています。その内容も霊的な死を意味する神との分離です。

 イエス様がこの言葉を発せられた時は、すでに3時ごろでした。
十字架刑終了の間際でありました。
イエス様が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言葉を発せられると、十字架の近くにいた人たちの言動は次のようでした。
“47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。

48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。とあります。

 そして、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(50)とありますが、イエス様が息を引き取られる前に、イエス様が語られた大切なおことばが他の福音書に記されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の次のおことばは、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928)のおことばです。
マタイ2748には「するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。」とありますが、この行為は、イエス様が、「わたしは渇く。」と言われたからでしょう。
常に、父なる神様と共におられた方が、父なる神様から分離させられたのです。
それは暗闇に覆われた状態でありましたし、また、単にのどが渇いたということだけではなく、心が渇いた、干からびた状態になったということでしょう。それらのことを表わしていたのだろうと思います。
肉体的なのどの渇きは相当前からあったことでしょう。それも相当に激しく。何故ならどう考えても脱水状態にあったのですから。

 イエス様は、「わたしは渇く」と言われた後、「完了した。」(新改訳)、「成し遂げられた。」(新共同訳)と語られたのです(ヨハネ1930)。
贖いが成し遂げられたのです。贖いは完了したのです。


そして、イエス様は大声で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取ったのです(ルカ2346)。マタイ2750は、ただ、「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」と記されてある内容をルカは詳しく記してくれたのです。


神の裁きが済んで「完了した」と言われたイエス様と神様の関係は、「父よ。」という呼びかけで分かるように、親と子の関係に戻っています。

 イエス様が贖いを成し遂げてくださったので、イエス様を信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ28に“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017)と記されていますが、その聖句の通り、主イエス様の贖いの成就に基づき、主イエス様を信じる信仰によって救っていただけますから感謝します。
主イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人はすでに救われていますが、現在求道中の人も、主イエス様を信じて救いを自分のものとすることができますように。
御父の御愛と御子であり主であるイエス様の贖いと信仰を導いてくださる御聖霊に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「われ贖(あがな)われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり 
(折り返し)* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ! ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて 「ハレルヤ」を叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主は我がもの 御霊の証しは 心にあり *”

2023年11月 6日 (月)

箴言26:11 愚かさを繰り返す人間/戦争と平和

 箴言2611は、“犬が自分の吐いた物に戻って来るように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す。”(2017)と記しています。

 愚かな者については4日前のブログに記しましたが、主イエス様の御言葉を基にして記した内容の中からいくつかを再掲&加筆します。

“ マタイ726には「また、わたしのこれらのことば〔ここでは、いわゆる山上の垂訓(筆者挿入)〕を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。」(2017)と記されています。
主の御言葉を聴いても実行しない人に対して、主は「愚かな人」と言っておられます。/
 マルコ720-23には“20 さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。21 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(聖書協会共同訳)とあります。
主は、心をきよめていただきたいと主に求める人の心を清めることがお出来になります。
また、主は、人に働きかける悪しき霊の策略を見分けること、悪しき霊の働きを理解する力を与えてくださいます。
さらに、主の霊に支配されて歩むことの出来る恵みを与えてくださいます。
これらの恵みがなくては心のきよい状態を保てません。/
 ルカ2425にはそこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」2017)と記されています。
聖書を学んでいても、聖書をそのままには信じない人たちも多くいます。
主が直接語られたこと、主が預言者や使徒たちに語らせたこと等をそのまま信じない人は、主を心から信じるということをしていないか、あるいは悟る心を与えられていないのです。”

 まとめると、主が提供されている恵みの内を歩まない人は、愚かな歩みをしているということになります。(私もしばしば愚かな歩みをしていますが。)

 上記の主の御言葉を読んでいると、主を信じ、主の御言葉に従う(主の仰せに従う)歩みをしていないのは愚かな歩みであるということになると思います。

 さて、「争い」について聖書はどのように語っているでしょうか。
 ローマ128-31には次のように記されています。
28 彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました
29
 あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、邪念に溢れ、陰口を叩き、30 悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい、31 無分別、身勝手、薄情、無慈悲になったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
まことの神様を自分の「主」としなければ、その人の主は悪魔(サタン)になってしまうのです。サタンなどはいないと思っている人はサタンに騙されているのです。悪魔(サタン)は「初めから人殺しであり、偽りの父」なのです(ヨハネ844)。
それ故、新生した人は神に属していますが、新生していない人は悪魔の支配下にあるのです(1ヨハネ5191ヨハネ46、エペソ21-10)。

 この世の人は、主なる神様に従いません。それ故、聖書をそのまま信じようとはしません。自分勝手に解釈するのです。また聖書に価値をおいていません。
サタン(悪魔)の方が聖書を信じています。
そして聖書に記されている預言が実現しないようにと働くのです。
そのサタンの働きは争い、戦争をもたらします。

 悪魔(サタン)は、人祖アダムを堕罪に追い込んで以来、主の御言葉が成就しないようにと、アダムの子孫を殺し、主がイスラエルを選民としたら、イスラエルを抹殺しようとしていきたのです。イスラエルに対するこのような行為はこれからも続きます。また、幼子イエスを殺そうともしました。またキリスト者に対しても偽りを用い、また多くの場合サタンに従っている人を用いて主に従う人の信仰を地に落とすようにしたり、また配下の人を用いて信仰者を殺そうとします。
サタンのこのような行動の根底には、主なる神様への敵対心と、自己防衛と主に愛されている者への嫉妬があるのでしょう。

 多くの聖句がそれらを証明しますが、それらの中から少しの関連聖句を下記します。

 イザヤ1412-15には、
12 ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地へと切り倒された。・・・。〔「お前」とは元大天使で、主に従わずサタンとなった霊的存在者です(筆者挿入)〕
13
 お前は心の中で言った。『私は天に上り、神の星々〔天使たち(筆者挿入)〕より上に王座を高く据えよう。そして、北の果てにある集会の山に座し、14 雲の頂に登り、いと高き方〔神ヤハウェ(主){筆者挿入}〕のようになろう』と。
15
 しかし、お前は陰府へと、その穴の底へと落とされる。”(聖書協会共同訳)と記され、
 創世記3章には、
14 神である主は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる。お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる。15 お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、私は敵意を置く。彼〔女の子孫。イエス・キリスト(筆者挿入)〕はお前〔サタン(筆者挿入)〕の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」”(聖書協会共同訳)と記され、
 黙示録12章には、
1 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女〔イスラエル(筆者挿入)〕が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
2
 女は身ごもっていて、産みの痛みと苦しみのために叫んでいた。
3
 また、もう一つのしるしが天に現れた。それは巨大な赤い竜〔サタン。見えるところでは、地を治めるのはサタンの代理者である大患難時代の反キリスト(筆者挿入)〕であって、七つの頭と十本の角を持ち、頭には七つの王冠をかぶっていた。
4
 竜〔サタン(筆者挿入)〕の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた〔堕天使たちを地上に投入した(筆者挿入)〕。そして、竜〔サタン(筆者挿入)〕は子を産もうとしている女の前に立ち、生まれたら、その子〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を食い尽くそうとしていた〔マタイ213-23参照(筆者挿入)〕。
5
 女は男の子〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた〔キリストの千年王国時代のこと(筆者挿入)〕。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた〔キリストの復活、昇天、高挙(筆者挿入)〕。
6
 女〔神ヤハウェ(主)を信じているイスラエル人(筆者挿入)〕は荒れ野へ逃げた。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。〔6節は大患難時代の後半の始まりの時(筆者挿入)〕
7
 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその天使たちが竜に戦いを挑んだのである〔ダニエル121(筆者挿入)〕。竜とその使いたちもこれに応戦したが、8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
9
 この巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
10
 そして私は、天で大きな声がこう語るのを聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々のきょうだいたちを告発する者〔サタン(筆者挿入)〕、我々の神の前で昼も夜も彼らを告発する者が投げ落とされたからである。
11
 きょうだいたちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とによって、この者に勝ち、死に至るまで命を惜しまなかった。
12
 それゆえ、もろもろの天とそこに住む者たちよ、喜べ。地と海には災いあれ。悪魔は怒りに燃えてお前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」13 竜は、自分が地上へ投げ落とされたと知ると、男の子を産んだ女〔イスラエル(筆者挿入)〕の後を追った。
14
 しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所〔ボツラ〔イザヤ631-6参照(筆者挿入)〕へ飛んで行くためである。女〔神ヤハウェ(主)を信じるイスラエル人(筆者挿入)〕は蛇〔サタン、すなわち反キリストの軍勢(筆者挿入)〕から逃れ、そこで一年と二年と半年の間、養われることになっていた。
15
 蛇は、女〔神ヤハウェ(主)を信じているイスラエル人(筆者挿入)〕の後ろに水を口から川のように吐き出して、彼女を押し流そうとした〔大軍勢(筆者挿入)〕で殺そうとした。
16
 しかし、大地が女を助けた。大地は口を開けて、竜が吐き出した川〔大軍勢(筆者挿入)〕を飲み干したのである。
17
 竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを守る者たちと戦うために出て行った。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 まだまだ書かなければならないのですが、時間の都合もあり、簡略にまとめます。
イスラエル人を一人残らず殺すと、キリストの千年王国はなくなるのです。キリストが地上に再臨する必要もなくなるでしょう。救うべき選民(イスラエル人)がいないのですから(マタイ2422参照)。
もしイスラエル人を全滅させたら聖書は真理の書ではなくなります。
サタンは、サタンに支配されている人々を用いてイスラエルせん滅作戦に出るのです。サタンが大々的なせん滅作戦を敢行しようとしたのはエステル記にも記されています。
ナ〇スのヒッ△□-もサタンに用いられました。出エジプト時代のファラオもサタンに用いられました。
現代でもサタンに用いられている組織や国々があります。そしてこれからもあるのです(エゼキエル38章、黙示録13.19章、ゼカリヤ12章、その他)。
しかしイスラエルは立ち続けます。神ヤハウェ(主)が存続させるからです。

 サタンはどのように頑張っても滅びる運命にあります。
イザヤ55章には次のように記されていますから。
10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”(新共同訳)とあります。

 やがて争いは終わるのです(イザヤ24)。平和の君である主イエス様が王の王となられるからです{イザヤ95or6(新改訳、口語訳は6節、新共同訳、聖書協会共同訳は、5節)。黙示録1911-204

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様が、悪を一掃するまでは、戦いは終わりません。
やがて、平和の君である主キリスト・イエス様が世界に平和を与えてくださいますから感謝します。
その日を待ち望みつつ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸人こぞりて」(讃美歌112 新聖歌76)の2.5
“2.悪魔のひとやを 打ち砕きて とりこを放つと 主は来ませり 主は来ませり 主は 主は来ませり   〔「ひとや」=牢獄(筆者挿入)〕
5.平和の君なる 御子を迎え 救いの主(ぬし)とぞ ほめたたえよ ほめたたえよ ほめ ほめたたえよ”

2023年11月 5日 (日)

詩篇103:7 律法と主の御業/教会は神の神殿

 詩篇1037には“主はご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。”(2017)。とあります。
 リビングバイブル旧版は“神様はご自分の本性と、これからなそうとすることを、モーセおよびイスラエル国民に知らされました。”と意訳し、
リビングバイブル新版は“主はご自分の意思とご性質を、モーセおよびイスラエルの民に知らせました。”と意訳しています。

聖書協会共同訳は、“主は、ご自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに知らせた。”と訳しています。

 神ヤハウェ(主)の律法はモーセを通してイスラエルに与えられました。
ヤハウェ(主)とイスラエルは律法に基づく契約を交わしました。
出エジプト24章には次のように記されています。
1 また、主はモーセに言われた。「あなたはアロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老たちと共に主のもとに登り、遠くからひれ伏しなさい。
2
 モーセだけは主に近づくことができるが、他の者は近づいてはならない。民はモーセと共に登ってもいけない。」
3
 さて、モーセは戻って来て、主のすべての言葉とすべての法を民に語り聞かせた。民は皆声を一つにして、「主が語られた言葉をすべて行います」と答えた。
4
 そこで、モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山の麓に祭壇を築き、イスラエルの十二の部族にちなんで十二の石柱を立てた。
5
 さらに、モーセはイスラエルの人々のうちから若者たちを遣わした。彼らは数頭の雄牛を焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとして主に献げた。
6
 モーセは血の半分を取って小鉢に入れ、血のもう半分は祭壇に打ちかけた。
7
 そして、その契約の書を取り、民に読み聞かせた。すると彼らは、「主が語られたことをすべて行い、聞き従います」と言った。
8
 そこで、モーセは血を取り、民の上に振りかけて言った。「これは、主がこのすべての言葉に基づいてあなたがたと結ばれる契約の血である。」
9
 さて、モーセは、アロン、ナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老と共に登って行って、10 イスラエルの神を仰ぎ見た。
その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。
11
 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけなかったので、彼らは神を見つめて、食べ、また飲むことができた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 “主は、・・、御業をイスラエルの子らに知らせた。”と記されていることについては、旧約聖書を読むと、神ヤハウェ(主)が、いかに多くの御業をイスラエルに見せてきたかということを知ることができます。

 旧約時代のイスラエル人は行いによる義を追い求めました。しかし、律法を行うことによって義とされた人はいませんでした。人は罪の性質を持って生まれてきていますから、律法を守ることができないのです。

 ローマ3章には次のように記されています。
9 ・・・、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10
 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11
 悟る者はいない。/
19
 ・・・、すべて律法の言うところは、律法の下にある者たちに向けられています。それは、すべての口が塞がれて、全世界が神の裁きに服するようになるためです。20 なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 律法を行うことによって主なる神様から祝福を受ける道は閉ざされました。それは、人が律法を実行できないからです。

 主イエス様は、「多くの人の身代金〔贖いの代価(新改訳)〕として自分の命を献げる〔与える(新改訳)〕ために来た」(マタイ2028・新共同訳)と語られました。
主イエス様は、私たち罪人(主なる神に従わない人)を救うために、ご自分の命を贖いの代価として献げる(与える)ために来た、と言われました。

 新約時代は、愛なる神が、御子イエス様を提供してくださったことと、十字架上で贖いを成就してくださったイエス・キリストの恵みの故に、イエス・キリストを信じる者を神は救われたのです。

 ローマ321-26には次のように記されています。
21 しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。
22
 神の義は、イエス・キリストの真実〔別訳「イエス・キリストへの信仰」(欄外注)〕によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。
23
 人は皆、罪を犯した〔神から離反し自我に基づいて生きてきた(筆者挿入)〕ため、神の栄光を受けられなくなっていますが、24 キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。
25
 神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座〔別訳「その血による、また信仰によるなだめの献げ物」(欄外注)〕とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。
26
 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者〔別訳「イエスを信じる者」(欄外注)〕を義とするためでした。”(聖書協会共同訳)とあります。

 新約時代の教会は、キリスト・イエス様を礎石とし、使徒と新約の預言者を土台として建てられています。教会は、キリスト・イエス様を信じた(心に受け入れた)イスラエル人と異邦人(イスラエル人以外の人)からできているのです。そして教会はキリストのからだ(エペソ123)でもあります。

 エフェソ(エペソ)2章には次のように記されています。
11 だから、心に留めておきなさい。あなたがた〔ここでは「エフェソの人」、イスラエル人以外の人(筆者挿入)〕は以前は肉において異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
12
 その時、あなたがたはキリストなしに生き、イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者で、世にあって希望を持たず、神〔永遠にして自存であり創造主なる神(筆者挿入)〕もなく生きていました。
13
 しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
14
 キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、15 数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたら してくださいました。
16
 十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって〔別訳「この方にあって」(欄外注)〕敵意を滅ぼしてくださったのです。17 キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。18 このキリストによって、私たち両方の者が一つの霊〔「御霊」(新改訳、口語訳)、直訳は「一つの霊」(筆者挿入)〕にあって、御父に近づくことができるのです。
19
 ですから、あなたがたは、もはやよそ者〔別訳「外国人」(欄外注)〕でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。
20
 あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり21 キリストにあって、この建物全体は組み合わされて拡張し、主の聖なる神殿となります22 キリストにあって、あなたがたも共に建てられ、霊における神の住まいとなるのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
生まれながらに罪の性質を持って生まれた私たちは、律法を全うすることはできません。
イエス様が律法を全うしてくださり、私たちの罪を身代わりに負って、私たちの罪の罰をすべて身代わりとなって受けてくださいましたことを感謝します。
主を愛し、主にお従いして歩んでいく者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 4日 (土)

申命記33:12 主に愛される者

 申命記3312には次のように記されています。
12 ベニヤミンについて彼は言った。
「主に愛される者はその傍らに安らかに住まう。主は日夜盾で彼を守り、彼は主の肩の間に住む。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 12節には、「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に愛される者〔ここでは「ベニヤミン」(筆者挿入)〕はその傍(かたわ)らに安らかに住まう。主は日夜盾で彼を守り、彼は主の肩の間に住む〔主の背中に負われる(2017)。2017は意訳です(筆者挿入)〕。」(聖書協会共同訳)とあります。

「ヤハウェ(主)に愛される者であるベニヤミンは、ヤハウェ(主)の傍らに安らかに住み、ヤハウェ(主)は一日中ベニヤミンを守り、ベニヤミンはヤハウェ(主)の背中に負われる」とモーセは語りました。
後にエルサレムにソロモンによって神殿が建てられましたが、エルサレムはベニヤミン領に接していました。エルサレムはかつてアブラハムがイサクをささげたモリヤの山でした。

 モリヤの山とエルサレムの関係について聖書辞典は次のように述べています。
“モリヤ (〈ヘ〉moriyah) 〔とは(筆者挿入)〕「ヤハウェが備える地」あるいは「ヤハウェ顕現の地」という意味。アブラハムがイサクをささげるよう命じられた地(創22:2)。「モリヤの地」はベエル・シェバから歩いて3日ほどの道のりにある(創22:4)。神(ヤハウェ)がいけにえの羊を「備えた」こと(創22:8,14)、またアブラハムに「現れた」こと(創22:14の〈ヘ〉イェーラーエ「備えがある」の原意は「現れる」である。70人訳を参照)から名づけられた名前であろう。それがどこであったかということについては説が分れている。
ユダヤ人の伝承では、後にソロモン王が神殿を建てた「エルサレムのモリヤ山上」(Ⅱ歴3:1)だと言う。3:1に「ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった」と記されているが、これはエルサレムの東の丘、シオンの山である。そこはかつて「エブス人オルナンの打ち場」(21:15,Ⅱ3:1サム24:18では「アラウナの打ち場」)であったが、ダビデがここに「イスラエルの全焼のいけにえの祭壇」(22:1)を築くことを決定し、ここに神殿が建設されることとなった。ダビデの後を継いだソロモンがここに神殿を建設したが、その際オルナンの打ち場を囲むように建てたと言われている。伝承では、アブラハムがイサクをささげようとしたのがオルナンの打ち場だと言われ、今日、「聖岩」と呼ばれているものと同一視されている。聖岩は、イスラム教徒が7世紀に建てた「岩のドーム」(オマルのモスク)の中にあり、伝承では、アブラハムがイサクをささげようとしたのはこの聖岩の上だったと言う。イスラム教徒はこの岩を「アブラハムの場所」(マカーム・エル・カリール)と呼び、マホメット昇天の場所〔偽りの父である悪魔の入れ知恵による作り話であったのでしょう。イスラム教ではイエスを神と認めていないのですからマホメットはよみに言っていると思います(筆者挿入)〕と伝えて崇敬している。ヨセフォスも、アブラハムがイサクをささげようとした「まさにその場所に」ダビデが神殿を建てることにしたと言っている(『ユダヤ古代誌』1:13:1,7:13:4)。ヨベル書にも「アブラハムはその場所を『主、見たまえり』と名づけた。これはシオン山のことである」と記されている(18:13)。ヒエロニムスもこの伝承を受け入れている。
・・・略・・・。”とあります。

 新生したキリスト者の内には、主が住んでくださっておられます。
主は天におられるとともに、新生させていただいたキリスト者の霊と主の霊は結ばれている(1コリント617)という幸いな祝福を与えられているのがキリスト者です。キリストの霊と一つにされている霊に魂が従い、体もその聖別された魂の命令に従っている人は、主の輝きを発することでしょう。
ヨハネ737.38の「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(2017)と語られた主イエス様の御言葉を思い起こすと思います。

 使徒ヨハネは、ヨハネ739に、上記の主イエス様の御言葉の解説を次の様にしています。
「イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊〔the SpiritKJV)〕について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである〔「与えられて」は訳者の挿入で、直訳は、岩波訳のように「霊はまだなかったのである」となります(筆者挿入)〕。(聖書協会共同訳)と記されています。

 主イエス様を信じた者には、主が御父から受けた聖霊を与えられます(ヨハネ1416.17.26)。
新生した者はキリストの霊を持っています(ローマ89、1コリント617)。
キリストの内には御父の霊も内住されています(ヨハネ1410.11)。
これらのことが理屈ではなくて霊的実感として感じられる人は揺るがないでしょう。

 ローマ828を口語訳は、“神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”と訳しています。
「神を愛する者」=「神のご計画に従って召された者たち」であることがわかります。
そして、詩篇14520には「すべて主を愛する者は主が守られます。」(2017)と記されています。
また聖書には、「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」(箴言8172017)と記され、
“イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。”(ヨハネ8422017)とも記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
あなたから愛されていますことを心から感謝します。
私たちもあなたを愛し、あなたを愛するゆえにあなたの御言葉に従い、あなたとともに歩ませていただけますことを感謝します。
あなたに従えないときは、弱さの故であったり、反抗期の中にあるととらえてください。
実際には霊によって歩めずに肉によって歩んでいる状態ということなのでしょうが。
そのようなときには気づきを与えてくださり、1ヨハネ19の御言葉を適用してすぐに立ち直ることができますように。
とこしえまでも限りなく愛してくださる三一の主なる神様に感謝と賛美をささげつつ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 3日 (金)

マタイ27:38-44 十字架につけられたイエス様とイエス様の両脇に十字架につけられた強盗達2/パラダイス

 マタイ2738-44には次のように記されています。
38 同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
39
 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、40 言った。
「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41
 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
42
 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
44
 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様と共に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられました(38)。
二人の強盗たちも、最初の内は、通りかかった人たちや祭司長たちや律法学者たち及び長老たちと一緒に、「神殿を壊し、三日で建てると言ったのだろ。神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてみろ。」とか、「他人は救ったのに、自分は救えないのか。イスラエルの王なのだろ。今すぐ十字架から降りてみろよ。」というように、イエス様を罵ったのだろうと思います(39-44)。

 主イエス様を嘲っていた人たち、すなわち宗教指導者や民の長老たちをはじめとして一般人に至るまで、主イエス様が様々な奇跡を行ったことを認めていました。
主イエス様が行った奇跡は、メシアとしてのしるし(証拠)でもあったのです。
特に宗教指導者たちは、聖書の聖句を思い出すべきでした。
 とはいえ、バプテスマのヨハネも、イエス様のメシア性について疑惑を持ってしまったことがありました。それは牢につながれていたときでした。
 その時の記事がマタイ112-6に次のように記されています。
2 さて、ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」
4
 イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病〔ツァラート(2017)〕を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 私につまずかない人は幸いである。」”(聖書協会共同訳)とあります。
 上記の5節の、主イエス様が語られた内容は、イザヤ355.6とイザヤ611の個所のメシア預言でした。
特に、イザヤ611の預言の成就を主イエス様はナザレで宣言されたのです。
 ルカ416-21には次のように記されています。
16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。
17
 預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。
18
 「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」
20
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して座られた。会堂にいる皆の目がイエスに注がれた。
21
 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。”(聖書協会共同訳)とあります。

さて、マタイ2738-44の並行記事がルカ2333-43には、もう少し詳しく次のように記されています。
33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34
 〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。
35
 民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36
 兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38
 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
39
 はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。
「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
40
 すると、もう一人のほうがたしなめた。
「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
43
 するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園〔パラダイス(新改訳、口語訳)〕にいる」と言われた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 イエス様は、自分を十字架につけた兵士たちや嘲弄している人たちの為にもとりなしの祈りをしました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ2334)と。

 このとりなしの祈りの恵みに最初にあずかった人は、イエス様の隣の十字架につけられていた一人の強盗でした。
この強盗は心を変えられました。
 ルカ2340-42には、
“40
すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41
 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42
 そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。」と記されています。

 初めは悪口を言っていた強盗の一人が、もう一人の悪口を言い続けている強盗に対して、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とたしなめたのです。
更に、イエス様に対して、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とお願いしました。

 イエス様は、「お前も今までさんざん私に悪口を言っていたではないか」、とは言わずに「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)と言ってくださったのです。

 ここで主イエス様が言われているパラダイスは天国ではありません。
イエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳初版~第三版)と言われたのです。

 主イエス様は、十字架上で贖いを成就した後、黄泉(よみ)に下ったのです。
主イエス様が御復活なさる前の黄泉は、良い場所と悪い場所〔エゼキエル3218-26参照(筆者挿入)〕に分かれていました。良い場所の方は、アブラハムの懐(ふところ)とも言われていました(ルカ1622)。

 アブラハムの懐にいた神ヤハウェ(主)を信じていた義人たちは、主がご復活された後、天へと行ったのだと思います。
私は、エペソ48を新共同訳を基に次のように解釈します。
“そこで、〔主イエス様は(筆者挿入)〕高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き〔黄泉の良い場所にとらわれている人を天国に連れて行き(筆者挿入)〕、・・・。”というように。

 これも想像になりますが、パラダイスは「園」の意ですが、天国にも園があることが聖書から分かります。神の王国の園です。
2
コリント122-4には次のように記されています。
2 私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです。
3
 私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
4
 その人は楽園〔パラダイス(2017)〕にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです。”(聖書協会共同訳)とあります。
 
また黙示録27には、“耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイス〔楽園(新共同訳)。園(筆者挿入)〕にある。”(2017)と記されています。

 パウロは、ローマ56-11
“6
 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7
 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。
8
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
9
 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10
 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11
 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。(聖書協会共同訳)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ17には“キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。”(2017)と記されています。
主イエス様の贖いに感謝します。
私は、創造者であられる主なる神様を認めず、進化論を信じ、神である主が主権者であるにもかかわらず、それを認めずに自己中心的に生きてきた者です。まさしく神の敵として歩んできた者です。
そのような私をも主は救ってくださいました。
三一の主なる神様に感謝と賛美を捧げ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 2日 (木)

箴言26:3-10 愚か(者)についての聖句/主を信じ、主の御言葉を実行する人は幸いです

箴言263-10には次のように記されています。
3 馬には鞭、ろばにはくつわ、愚かな者の背には杖。
4
 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えをするな。あなたがその人に似た者とならないために。
5
 愚かな者にはその無知に合わせて受け答えせよ。その人が自分を知恵ある者と思い込まないために。
6
 愚かな者に言葉を託す者は自分の足を切り、暴虐を呑み込む者。
7
 愚かな者が口にする箴言は歩けない人の弱々しい足。
8
 愚かな者に誉れを与えるのは石投げひもに石を縛りつけるようなもの。
9
 愚かな者が口にする箴言は酔いどれが手に振るあざみ。
10
 愚かな者を雇い、通りすがりの人を雇う者は、敵味方の見境なく射抜く射手のよう。”(聖書協会共同訳)とあります。

 次に、主イエス様が「愚か(者)」と語られた聖句のいくつかを読もうと思います。
主イエス様が人に対して「愚か者」と言うときには、神の立場で語っているのではないかと思います。

 マタイ522には「・・・。兄弟に『ばか者』〔ギリシア語聖書は「ラカ」{ラテン語らしい}(筆者挿入)〕と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』〔ギリシア語原語は「モーロス」(筆者挿入)〕と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(2017)とあります。
人は人に「愚か者」、「馬鹿者」と言ってはいけないことを教えてくれています。
「愚か者」という人の方にも愚かなところがあると思います。

 マタイ726には「また、わたしのこれらのことば〔ここでは、いわゆる山上の垂訓(筆者挿入)〕を聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。」(2017)と記されています。
主の御言葉を聴いても実行しない人に対して、主は「愚かな人」と言っておられます。
とはいえ、主の御言葉を自力で実行できるようになるかというとそうはいかないでしょう。
主に祈って整えて頂かなければ。
詩篇11917には「あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください〔み言葉を守らせてください(口語訳)〕。」(2017)とあります。

 マタイ2317には「愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。」(2017)とあります。
主イエス様の十字架によって罪を赦され(エペソ17)、主の御復活によって、霊における新生をさせていただいた(1ペテロ13、ヨハネ33.6)キリスト者においては、その人のからだが神の神殿なのです(1コリント316619)。キリスト者は黄金(財産)を追い求めるのではなく、主が住みやすいように心のきよさを求めます(1ペテロ115.1622)。

 マタイ253には「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。」(2017)とあります。
「油」とは聖霊の比喩です。
 ルカ1113には「・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(新共同訳)と記されています。
内に聖霊を宿していないクリスチャンと思われている人は聖霊を求める必要があります。
 内に神の霊を持っていない人は、キリストの現われの時(キリストの空中再臨の時)霊の体に変えられないからです(ローマ811)。
 ローマ89-11には次のように記されています。
9 しかし、神の霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉の内にではなく、霊の内にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10
 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。
11
 イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう〔未来形。聖書の観点では未完了形。「生かしてくださいます」(2017){筆者挿入}〕。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 マルコ720-23には“20 さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。21 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカ1139-41には“39 主は言われた。「なるほど、あなたがたファリサイ派の人々は、杯や大皿の外側は清めるが、自分の内側は強欲と悪意で満ちている。40 愚かな者たち、外側を造られた方は、内側もお造りになったのではないか。41 むしろ、できること〔内にあるもの(2017)≒おそらく「強欲(貪欲)で得たもの」(筆者挿入)〕を施しとして与えなさい。そうすれば、あなたがたにはすべてのものが清くなる。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ルカ1215-21には“15 そして、群衆に向かって言われた。
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
16
 そこで、イエスはたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らし、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、19 自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」』
20
 しかし、神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』21 自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」”(聖書協会共同訳)と記されています。
世の中には頭が良くて大金持ちになった人たちもいますが、イエス様を信じないで死んでいった人も多いようです。この人たちは真の意味では賢くなかったと神様に思われますね。

 ルカ2425には“そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」”(2017)と記されています。
聖書を学んでいても、聖書をそのままには信じない人たちも多くいます。
単純に聖書の御言葉を信じることの出来る人は幸いですね。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
神様の御目から見られて、愚か者の歩みをすることなく、主なる神様を信じ、主が与えてくださった聖書を信じ、神の霊に満たされ、御言葉に従う歩みをすることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2023年11月 1日 (水)

詩篇103:6 正義と裁きを行われる神ヤハウェ(主)/主に信頼する者には恵みを与えられる

 詩篇1036を、
聖書協会共同訳は“主は虐げられているすべての者のために正義と公正を行う。”と訳し、
新共同訳は“主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。”と訳し、
新改訳初版~第三版は“主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。”と訳し、
新改訳2017は“主は義とさばきを、すべての虐げられている人々のために行われる。”と訳し、
口語訳は、聖書協会共同訳の意で訳し、
文語訳は“ヱホバはすべて虐げらるる者のために公義と審判とをおこなひたまふ”と訳しています。

 「正義」(聖書協会共同訳、口語訳、新改訳初版~第三版)、「義」(2017)、「公義」(文語訳)、「恵みの御業」(新共同訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ツェダーカー」で、正しさ、公正、正義、・・・等の意があります。

 「公正」(聖書協会共同訳、口語訳)、「裁き」(新共同訳、新改訳)、「審判」(文語訳)と訳されている語のヘブライ語原語は「ミシュパート」で、(陪審員が裁判長に提出する)評決、答申、裁断、判断、意見、その他、判決、審判、裁判、・・・・等の意があります。

 6節を直訳すると、「ヤハウェ(主)は正義を行う、そして虐げられている人々のために裁きを行う」となります。
新共同訳の「恵みの御業」というような訳の意味は、「ミシュパート」には無いようですが、悪しき者に対して、主が、正義の御業を行われるということは、主に従っているのに虐げられているという者にとっては、恵みの御業です。そのような観点から新共同訳は意訳をされたのではないかと想像します。

 6節を読んで、私がまず思い浮かべた情景は、エジプトにおいてイスラエルの民が奴隷として働かされて苦しんでいたところを、ヤハウェ(主)が、エジプトから救い出してくださったという話です。
イスラエルの民の苦しみは、出エジプト記の1.2章及び54-23を読むとよくわかりますが、その中から民の苦しみと主の対応を抜粋で下記します。
 出エジプト223-25には次のように記されています。
23 ・・・イスラエルの人々は重い苦役にあえぎ、叫んでいた。重い苦役から助けを求める彼らの叫び声は神のもとに届いた
24
 神はその呻きを耳にし、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
25
 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。”(聖書協会共同訳)とあります。
 また出エジプト522.23には次のように記されています。
22 モーセは主のもとに帰って言った。「わが主よ、なぜあなたはこの民を苦しめられるのですか。なぜ私をこうして遣わされたのですか。
23
 私がファラオのもとに行ってあなたの名によって語って以来、ファラオはこの民を苦しめています。それなのに、あなたはご自分の民を救い出そうとされません。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 やがてイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態からヤハウェ(主)によって解放されるのですが、ヤハウェ(主)が、イスラエルの民の苦しみに目を留められてからもイスラエルの民を救い出すまでにはある期間があったのです。

 私たちキリスト者の場合について考えてみます。
苦しみの中にある時、主に叫んだらすぐに助け出された、という人もいるでしょう。
しかしそうではない場合も多いのです。出エジプトの民のように。
キリスト者が、虐げ、理不尽なこと、心を痛めること、・・・等々から完全に開放されるのは天の王国に召された後のことでしょう。
主イエス様が、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ1633・新改訳初版~第三版)と語られたのですから。
主がこのように語られたからには、わたしたちが遭遇する艱難以上の恵みを主が与えられることを暗示しています。そして、艱難を乗り越えていくのです。次の艱難も、また次の艱難も、という具合に。
地上にいる間は色々な苦難があるのです。

 パウロは自分の体験を含めつつ次の様に記しています。
35 誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。/
37
 しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります。
38
 私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
〔リビングバイブルは「神の愛から私たちを引き離せるものは何一つない、と確信しています。死もいのちも、そんなことはできません。天使にもできません。地獄の全勢力が結集しても、神の愛から私たちを遠ざけることはできません。恐れも、不安も同様です。」と意訳しています。(筆者挿入)〕
39
 高いものも深いものも〔高い所にいるものも、低い所にいるものも(新共同訳)〕、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。”(ローマ8章・聖書協会共同訳)とあります。

 またへブル1210には“・・・霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。”(2017)という聖句が記されています。

 以上キリスト者を対象として記してきました。
6
節は「ヤハウェ(主)は正義を行う、そして虐げられている人々のために裁きを行う」とありましたが、主を信じていない人々、主を信じようとしない人々に対しては、良き結果を期待して、この聖句をあてはめるということはできません。
主を信じない人々、主を信じようとしない人々は、創造主であられるヤハウェ(主)を虐げている人々です。
主を信じないということが罪の根源です。
この聖句にヒューマニズムをミックスさせて読むことはできないのではないかと思います。
主を信じない人、すなわち主を創造主であり主権者であると認めない人は、主に感謝をせず、主に従おうとはしない人々ですから、主なる神の国に入ることを自分から拒否しているのです。ですから、そのような人たちは、最後の審判において、主の愛のない世界に行くのです。愛は主から出ているのですから。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
主イエス様を信じたからといって、苦難に遭わないということではないことを覚えます。
しかし、あなたは、苦難のたびごとに、それに勝る恵みを与えてくださいますから感謝します。
そしてやがて天に招き入れてくださった後には、苦難から解放されますから感謝します。
あなたを信じさせていただけましたことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「悲しみ尽きざる(御国のここちす)」(聖歌467 聖歌総合版480 新聖歌268)という聖歌があります。この歌詞の1節の冒頭は「悲しみ尽きざる」で始まるのですが、「苦しみ尽きざる」という文言にしてもよく合います。「苦しみ尽きざる」で1節の歌詞を記すと次のようになります。
“苦しみ尽きざる浮世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす ハレルヤ! 罪咎 消されし我が身は いずくにありても御国のここちす”

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