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2023年11月 7日 (火)

マタイ27:45-50 (贖いが)完了した/テテレスタイ/主イエスを信じる者は救われる

 マタイ2745-50には次のように記されています。
45 さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。
46
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
48
 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。
49
 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50
 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ヨハネ1928-30には次のように記されています。
28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
29
酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
30
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”(2017)とあります。

 主イエス様は、「完了した」と言われました(ヨハネ1930)。「完了した」という語がギリシア語で「テテレスタイ」とギリシア語聖書に記されていますが、おそらく主イエス様はヘブライ語で語られたのでしょうね。「完了する」「終える」のヘブライ語に「シャーレーム」or「シェラム」というのがありますが、この個所では何といったのでしょう。ご存知の方は教えてください。
(余談になりますし、私の想像も入っていますが、主イエス様の贖いがシャーレームorシェラムし、主イエス様への信仰がシャーレームorシェラムした人の心はシャ-ローム(平安)になります。シャーレームorシェラムとシャ-ロームの子音字は同じで母音記号が異なるだけです。)

 主イエス様による贖いの完了、なんとありがたいことでしょう。
私たちのすべての罪が赦されたのです。
私たちは、主のものとして贖われたのです。
ハレルヤ!
エフェソ(エペソ)17には“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。”(新共同訳)とあります。
コロサイ114には“この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”(2017)と記され、
ローマ324には“神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。”(2017)と記されています。

 「贖い」という概念は、“ただ単に救出するという一般的な概念ではなく、買い取る、あるいは、身代金(みのしろきん)を払って身受けするという概念である。”と聖書辞典に記されています。
黙示録5章には次のように記されている個所があります。
7 小羊〔贖いとなられた主イエス様(筆者挿入)〕は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った。
8
 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は 聖なる者たちの祈りである。
9
 そして、彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を解くのにふさわしい方です。あなた〔御子キリスト(筆者挿入)〕は、屠られて、その血により、神のためにあらゆる部族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から人々を贖い
10
 彼らを私たちの神に仕える御国の民、また祭司となさったからです。彼らは地上を支配するでしょう。」”(聖書協会共同訳)とあります。

 主イエス様は十字架上の贖いによって、罪の赦しを成し遂げ、また私たちを買い取ってくださったのです。
なんとありがたいことでしょうか。

 マタイ2745には、「昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。」とあります。
ルカ2344.45には、「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と記されています。

 全地が暗くなったのは、父なる神様が御子に対して御顔を隠されたことの象徴であると思います。
神との断絶or分離、それは霊における死を象徴しています。
この時、イエス様は、それまで絶えざる豊かな交わりを持っていた御父と分離したのです。即ち、すべての人類の罪を負って罰を受けたのです。
それは、マタイ2746に「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と書いてある通りのことです。

 イエス様の十字架刑の約1000年前に記された詩篇221に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも」(新改訳初版~第三版)とあります。
これはイエス様の十字架の預言であったでしょう。或いはダビデが体験したことが予表となっているのかも知れませんが。

 イエス様が、この言葉を発した時、神様に裁かれていたのです。
神様(父なる神様)に裁かれる前までの御子イエス様と御父との関係は、「わたしの父よ」とか「わが父よ」という関係でした。また「わたしと父とは一つです」と言える関係でした。
しかしここでは、「わが神、わが神」に変わっています。その内容も霊的な死を意味する神との分離です。

 イエス様がこの言葉を発せられた時は、すでに3時ごろでした。
十字架刑終了の間際でありました。
イエス様が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言葉を発せられると、十字架の近くにいた人たちの言動は次のようでした。
“47
 そこに立っていた何人かが、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。

48 するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。とあります。

 そして、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」(50)とありますが、イエス様が息を引き取られる前に、イエス様が語られた大切なおことばが他の福音書に記されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の次のおことばは、「わたしは渇く。」(ヨハネ1928)のおことばです。
マタイ2748には「するとすぐ、そのうちの一人が走り寄り、海綿を取って酢を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませた。」とありますが、この行為は、イエス様が、「わたしは渇く。」と言われたからでしょう。
常に、父なる神様と共におられた方が、父なる神様から分離させられたのです。
それは暗闇に覆われた状態でありましたし、また、単にのどが渇いたということだけではなく、心が渇いた、干からびた状態になったということでしょう。それらのことを表わしていたのだろうと思います。
肉体的なのどの渇きは相当前からあったことでしょう。それも相当に激しく。何故ならどう考えても脱水状態にあったのですから。

 イエス様は、「わたしは渇く」と言われた後、「完了した。」(新改訳)、「成し遂げられた。」(新共同訳)と語られたのです(ヨハネ1930)。
贖いが成し遂げられたのです。贖いは完了したのです。


そして、イエス様は大声で、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取ったのです(ルカ2346)。マタイ2750は、ただ、「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。」と記されてある内容をルカは詳しく記してくれたのです。


神の裁きが済んで「完了した」と言われたイエス様と神様の関係は、「父よ。」という呼びかけで分かるように、親と子の関係に戻っています。

 イエス様が贖いを成し遂げてくださったので、イエス様を信じる者は救われるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
エペソ28に“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。”(2017)と記されていますが、その聖句の通り、主イエス様の贖いの成就に基づき、主イエス様を信じる信仰によって救っていただけますから感謝します。
主イエス様を信じた人、すなわち心に受け入れた人はすでに救われていますが、現在求道中の人も、主イエス様を信じて救いを自分のものとすることができますように。
御父の御愛と御子であり主であるイエス様の贖いと信仰を導いてくださる御聖霊に感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
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「われ贖(あがな)われて」(聖歌463 聖歌総合版476 新聖歌264
“1.われ贖われて 自由にせられ キリストにありて やす(平安)き身なり 
(折り返し)* 贖い 贖い われは歌わん ハレルヤ! ときわに われは歌わん
2.十字架の血潮に きよめられて 「ハレルヤ」を叫ぶ 身とはなりぬ *
3.負い目は払われ 重荷はなし きよめの血潮に 日々洗わる *
4.われはイエスのもの 主は我がもの 御霊の証しは 心にあり *”

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コメント

主であるイエス様の十字架の贖いに感謝です。信じさせていただけている事に感謝です。
余談話をありがとうございます。
聖書は書き写されたものなので、もしかすると…という事を思いますね。平和を残してくださったイエス様に感謝しつつも、それを表せないもどかしさを常に感じます。開き直ってしまう事さえあります。
それでも、やはり主に祈ることの大切さを思います。昨日は心が乱れましたので、近くの教会に寄りました。スーッと軽やかになりました。(言行に変化をきたす訳ではありませんけれども笑)
朝に学んで、眠りにつく時には…なんて愚かな…といった感じに、本当に繰り返してしまうと思いつつ、やはりイエス様だけが、神様であり、救い主である事を実感します。
大きな事ではなくても、今日学ばせていただいた事は、繰り返しなのだと思いました。断絶される様な事が起きる、助けを求め、祈り、委ねる。祈り求めます。

その内、平安になっている時間が増えていきます。
今でもそうでしょうけれども。
そして益々、平安の時間が増えていきます。

いえ、今は波々な感じです。一定に平安がある事を望みますので、待ち遠しいです!
希望が持てます、ありがとうございます。

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