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2023年11月15日 (水)

マタイ27:57-61 イエス様の埋葬と埋葬に関わった人たち

 マタイ2757-61には次のように記されています。
57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフと言う人が来た。この人もイエスの弟子であった。
58
 彼はピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出た。そこでピラトは、渡すように命じた。
59
 ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩に掘った自分の新しい墓に納めた。そして、墓の入り口に大きな石を転がしてから立ち去った。
61
 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓に向かって座っていた。”(聖書協会共同訳)とあります。

 この個所の並行個所であるマルコ1542-47には次のように記されています。
42 すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。
44
 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。
45
 そして、百人隊長に確かめたうえで、遺体をヨセフに下げ渡した。
46
 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておいた。
47
 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの納められた場所を見届けた。(聖書協会共同訳)とあります。

「アリマタヤのヨセフ」は、地位の高い議員即ちサンヘドリンの議員でした。アリマタヤは、“「高い所」を意味するヘブル語の複数形〈ヘ〉ラーマータイムに定冠詞がついた語形をギリシヤ語に音訳した地名。預言者サムエルの故郷ラマタイム・ツォフィム(ラマ)と同一視され(参照Ⅰサム1:1,19,2:11,7:17等)、エフライム山地の西部、ルダの東北東約15キロの所にある現在のレンティスと同定される。”(聖書辞典抜粋)とあります。

ルカはアリマタヤのヨセフの人となりについて次のように記しています。
「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」(ルカ2350.51・新共同訳)と。

ルカは、アリマタヤのヨセフについて、イエス様を有罪死刑とすることに同意しなかった善良で正しい人、というところに目を留めています。

ヨハネは、アリマタヤのヨセフについて、ヨハネ1938で、「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、その〔イエスの弟子ある(筆者挿入)〕ことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」(新共同訳)と記しています。

アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子であった人であると、使徒ヨハネは、はっきりと記しています。

マルコは、というよりも三度もイエス様を知らないと言ってしまったシモン・ペテロの感じ方でしょうが、マルコ1543には、「アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。」(口語訳)とあります。
{マルコの福音書について、“ヒエラポリスのパピアスが(140年頃)、ペテロの通訳者となっていたマルコが、ペテロから聞いたイエスの言行を、順序正しくではないが、記憶しているかぎり正確に書き記したと言っているように(エウセビオス『教会史』)、彼がマルコの福音書の著者であると考えられている。”(聖書辞典抜粋)と記されています。}

イエス様の弟子ではあったのですが、かつては12弟子には入っていなかったアリマタヤのヨセフの言動を見て、主イエス様を3度も否んでしまったペテロにとって、アリマタヤのヨセフは、よくも大胆なことが出来るなー、という感じであったのだろうと思います。

また、ヨハネ1939には、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ〔約33kg(筆者挿入)〕ばかり持って来た。」(新共同訳)とあります。ニコデモは、ヨハネ31では、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員(新共同訳)と紹介されています。

このニコデモは、イエス様に対する祭司長たちや議員たちの主張に対して、それを真っ向から否定することは出来なかったとしても、やんわりとあなた方は間違っているのではないですか、と言ったことがあります。しかし、直ちに却下されましたが。それはヨハネ7章に記されています。これは恐らく過越しの祭りの約半年前の仮庵の祭りの時でした。

その時、ニコデモが議員たちに語った内容は、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ751・新共同訳)というものでした。祭司長たちや議員たちは、すでに仮庵の祭りの頃にはイエス様を捕らえたかったのです(ヨハネ732.45)。

しかし、仮庵の祭りにイエス様が捕らえられることは決してなかったのです。

仮庵の祭りは、キリストの1000年王国の予表であり、過越しの祭りがキリストの十字架による贖いの予表であったからです。

マルコ1544には、「ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、すでに死んだかどうかを尋ねた。」(聖書協会共同訳)とあります。

イエス様の左右にいた強盗は、イエス様が息を引き取られた時、まだ生きていたので足のすねを折られて、早く死ぬようにされたのです。十字架刑では死ぬまでにもっと多くの時間を要するのが一般的であったことがピラトの言葉からわかります。

イエス様は、人によって十字架につけられたから命を落とした、というのではなく、ヨハネ1930に「完了した。」(新改訳)「成し遂げられた。」(新共同訳)とあるように、贖いをなし終えたので、父なる神様に「わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ2346)とご自分の意思によって霊を御父にゆだね、肉体の死を迎えたのだと思います。

ヨハネ1017.18には、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟(おきて)である。」(新共同訳)とありますから。

イエス様を納めた墓についてですが、マタイ2757-60には、
57 夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。
58
この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。
59
ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。2017)と記されていて、マタイの福音書からは、アリマタヤのヨセフは、金持ちであり、イエス様を納めた墓は、アリマタヤのヨセフが自分の為に造った{だれも葬られたことの無い(ヨハネ1961)}新しい墓であったことが分かります。

埋葬の仕方については、ヨハネ1939.40に、
39 以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
40
彼ら〔アリマタヤのヨセフとニコデモ(筆者挿入)〕はイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料と一緒に亜麻布で巻いた。2017)とあります。

マルコ1546.47には、「墓の入口に石をころがしておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスが納められた場所を見とどけた。」とあります。
マタイはこのところを、「墓の入口に大きな石をころがしておいて、立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。」(マタイ2760.612017)と記しました。

またルカは、「この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」(ルカ2354-562017)と記しました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたをほめたたえます。
イエス様を十字架から取り下ろし、埋葬するときには、使徒たちを用いられたのではなく、アリマタヤのヨセフを用いられました。
あなたは、しかるべき時のために、しかるべき人を備えてくださっておられることが分かります。
埋葬に関して手際よく事を行ったのは、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。
私たち人間には、未来は隠されているので、それを予想したり、心配したりしますが、あなたは私たちの未来についても配慮してくださっておられる方ですから感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン

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コメント

今日はアップするのが遅くなって申し訳ありませんでした。

神様は神様のご計画を進めておられるという事ですね。今の世界情勢も神様のご計画なのかと思っています。
私の全てを神様はご計画してくださっているのだと信じて委ねてゆきたいと思います。
「ああしておけば…」等という感情が芽生える時もあります。何度後悔しても仕切れない事もありました。振り返ってみても、やはりあの時…といった感じで思う時もありますが、ちぃ異なった視点で振り返れば、やはり通過してきた事が、神様の計らいなのだと思うのです。それは様々な感覚を与えてくださるので、その様に捉えざるおえないといいますか…味わった事のない感情や感覚をいただける事は恵みであると思います。信じて歩み続けます。
マタ15:47の〝マグダラのマリアとヨセの母マリアとは・・〟とフが抜けていました。その後のマル15:46でも〝ヨセ〟となっていたので、その様に記されているという事なのかな?とも思いましたけれども、お伝えいたしました。

マルコ15:47は「ヨセ」と訳されています。
神様に主権があるということを認められる人は、イスラエルの地はイスラエルのものと何の抵抗もなく受け入れられますね。
神様がイスラエルに与えた地ですからね。

まだ、マルコ福音書を読んだ事がなく、無知ですみません。教えてくださり、ありがとうございます。
イスラエルの地の記事を何度か読み学び、神様が与えられたことを信じると、様々な出来事は神様が与えてくださるものなのだと思えます。
なのに、肉的思考は求めてしまいます。これすらも神様はご存知であると思うと、気張らずに生きる事ができます。感謝です。

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